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鬼畜系(きちくけい、Demon style)は、悪趣味系サブカルチャーのサブジャンルであり[4]、1990年代の鬼畜・悪趣味ブームにおいて電波系やゴミ漁りで知られた鬼畜ライター・村崎百郎が自分自身を指すのに提唱した造語である[5]。ブームを代表する鬼畜系ムック『危ない1号』のキャッチコピーは「妄想にタブーなし」「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」[6]。
鬼畜系/悪趣味系 | |
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様式的起源 |
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文化的起源 | 日本・東京都 1920年代 - 1990年代 エログロナンセンス→カストリ雑誌→カウンターカルチャー→自販機本→サブカル→悪趣味系 アメリカ合衆国 MONDO/CHANカルチャー |
サブジャンル | |
関連項目 | |
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なお、これは成人漫画などにおける反社会的行為、ないし残酷描写が含まれる作品、またその作家を指す言葉としても用いられている。
鬼畜系関係者一覧
- 青山正明 - 鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス)初代編集長。編集プロダクション「東京公司」主宰。ドラッグ、ロリコン、スカトロ、フリークスからカルトムービー、テクノ、辺境音楽、異端思想、精神世界まで幅広くアングラシーンを論ずる鬼畜系文筆家の草分け的存在[7]。1980年代から1990年代のサブカルチャーに与えた影響は大きく、ドラッグに関する文章を書いた日本人ライターの中では、実践に基づいた記述と薬学的記述において特異であり快楽主義者を標榜していた。著書に『(危ない薬)』『(危ない1号 第4巻 特集/青山正明全仕事)』(ともにデータハウス刊)がある。2001年6月17日に首つり自殺。40歳没。
- 秋田昌美 - 世界的なノイズミュージシャンとして知られる一方でアングラシーンやスカム・カルチャーにも精通しており、性的倒錯や異端文化にまつわる学術的ないし書誌学的な研究書も多い。著書に『スカム・カルチャー』『ボディ・エキゾチカ』『アナル・バロック』など多数。また昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する梅原北明、伊藤晴雨、中村古峡、斎藤昌三、酒井潔などの元祖鬼畜系文化人や当時発刊されていた変態雑誌などについては(秋田 1994)に詳しい。
- 梅原北明 - 編集者、雑文家、翻訳家、文献蒐集家、性風俗研究家。大正後期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化を牽引した中心人物であり、日本における悪趣味系サブカルチャーの先駆者として知られる。梅原が翻訳出版した『デカメロン』は当時ベストセラーとなった[8]。風俗壊乱罪で投獄された後、1928年より変態雑誌『グロテスク』を創刊、毎号当局より摘発され発禁処分を繰り返す。梅原は逮捕を免れるため満州で逃亡生活を送り、1931年まで同誌の刊行を続けた[9]。これ以外にも梅原は性風俗にまつわる書籍を多数刊行し、その大半が発禁となっている。
- 奥崎謙三 - 元大日本帝国陸軍上等兵、著述家、殺人犯。(昭和天皇パチンコ狙撃事件)やドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』などで知られるアナキストで「神軍平等兵」「神様の愛い奴」を自称する。肩書は殺人・暴行・猥褻図画頒布・前科三犯・独房生活13年8カ月。著書に『ヤマザキ、天皇を撃て!』『田中角栄を殺すために記す』などがある。
- 北見崇史 - デビュー作の『出航』は、第39回横溝正史ミステリ大賞の選考会で賛否両論を巻き起こした作品である。同作中には死体やその内臓の表現が描写されている。
- くられ - 『危ない28号』(データハウス)初代編集長。上梓した刊行物の多くが有害図書指定を受けていることでも知られる。また薬理凶室のリーダーとして『図解アリエナイ理科ノ教科書』(三才ブックス)シリーズも執筆している。
- クーロン黒沢 - ノンフィクションライター。海賊版・違法コピーにまつわる書籍やアジアを舞台としたアングラな旅行記の執筆活動を行った。
- 小林小太郎 - スーパー変態マガジン『Billy』(白夜書房)編集長。編集プロダクション「VIC出版」主宰。1990年代には『TOO NEGATIVE』(吐夢書房)の編集長を務め、死体写真家の釣崎清隆を同誌でデビューさせている。
- 綺羅光 - 官能小説家。一貫して凌辱物を書いており、作品中には薬物や暴力団が登場することも多い。救いのない結末が多く、陰鬱なもの、タブーとされるものが多く描写される。
- 佐川一政 - 日本の殺人犯、カニバリスト、エッセイスト、小説家、翻訳家。パリ人肉事件の犯人として知られる。
- 下川耿史 - 風俗史家。サンケイ新聞社を経てフリー編集者、家庭文化史、性風俗史の研究家として活躍中。スーパー変態マガジン『Billy』1984年9月号より「下川耿史の新・日本アウトサイダー列伝」を連載していた(第1回は「セクシー・フロイト」で山下省死、アルチュール・絵魔を紹介)。著書に『昭和性相史』『死体の文化史』『殺人評論』『日本残酷写真史』『盆踊り 乱交の民俗学』『混浴と日本史』『エロティック日本史』などがある。
- ジャック・ケッチャム - アメリカ合衆国の鬼畜系ホラー小説家[10]。人間の弱さや残虐性を浮き彫りにする作風で知られており、重苦しい陰鬱な物語展開のうえカタルシスや救いの無い結末が多く、スティーブン・キングに「正真正銘の偶像破壊者」と賞賛された[11]。著名な作品に実際にあった少女監禁事件を題材にした『隣の家の少女』や食人族をモチーフにした衝撃的なデビュー作『オフシーズン』などがある。
- 白井智之 - 推理作家。特殊な舞台設定や破天荒かつ不道徳な世界観で知られ「鬼畜系特殊設定パズラー」の異名を持つ[12]。著書に『人間の顔は食べづらい』『東京結合人間』『おやすみ人面瘡』『少女を殺す100の方法』などがある。
- 高杉弾 - 伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長。メディアマンを自称する。青山正明を始めとして1970年代後半以降のバット・テイスト文化に多大な影響を与えた。本名は佐内順一郎。
- 釣崎清隆 - 死体写真家。世界各国の犯罪現場や紛争地域を取材し、これまでに撮影した死体は1000体以上に及ぶ。中南米の麻薬組織を取材する過程で自身も覚醒剤を使用し、2017年8月に覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕された[13]。
- 友成純一 - 官能小説家、映画評論家。スーパー変態マガジン『Billy』(白夜書房)での執筆活動を経て1985年に『肉の儀式』(ミリオン出版)で小説家デビュー。悪趣味系の小説家で知られ、変態性欲やスプラッタに主眼を置いた猟奇的な作風を得意とする。
- 根本敬 - 『ガロ』出身の漫画家、文筆家、随筆家、蒐集家、映像作家、人物研究家。独自の妥協を許さぬ特異な作風で「特殊漫画家」「特殊漫画大統領」の地位を確立する。また歌謡曲研究家としての顔も持ち「幻の名盤解放同盟」と称して昭和歌謡や辺境音楽の復刻活動も行っている。因果者・電波系人間探訪の権威であり、「因果者」「イイ顔」「電波系」「ゴミ屋敷」「(特殊漫画)」といったキーワードを案出するなど日本のオルタナティブ・コミックや悪趣味系サブカルチャーに与えた影響は大きい。主著に『生きる』『天然』『亀ノ頭のスープ』『怪人無礼講ララバイ』『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』『豚小屋発犬小屋行き』など多数。
- バクシーシ山下 - AV監督、文筆家。旧所属は。衝撃的なデビュー作『女犯』は余りにリアルな作風からフェミニズム団体から抗議を受けるなど物議を醸した[14]。また山谷のドヤ街でAV女優と日雇い労働者の情交を描いた『ボディコン労働者階級』をはじめ『実録妖怪ドキュメント 河童伝説』『熟女キョンシー』などの怪作も多数。
- 平山夢明 - 実話怪談や鬼畜系の短編小説で知られるホラー小説家。一般的に「鬼畜系作家」とされている[注 1]。映画評論家としてはデルモンテ平山名義でも活動。代表作品集『独白するユニバーサル横メルカトル』収録の『無垢の祈り』は亀井亨監督によって映画化されている。しかし児童虐待や新興宗教、連続殺人などがテーマであるため各国の映画祭からは出展を断られ続けており、結果的にR18+指定映画として2016年に国内で初上映され、アップリンク渋谷では13週ロングランを記録した[15]。現在は(UPLINK Cloud)より視聴可能である[15]。
- 松沢呉一 - 編集者、フリーライター、性風俗研究家、古本蒐集家。著書に『ぐろぐろ』(ちくま文庫)などがある。
- 宮武外骨 - 明治期から昭和期にかけて活躍した反骨のジャーナリスト。1889年に発行した『頓智協会雑誌』28号に大日本帝国憲法のパロディを掲載して不敬罪で入獄3年。1901年に大阪で『滑稽新聞』創刊。以後『(スコブル)』『(変態知識)』『面白半分』など面白雑誌を次々と発刊。奇抜な風刺と戯作で権力を椰楡し続けた。入獄4回、罰金、発禁など筆禍は29回を数え、生涯の刊行点数は優に170点をこえた。関東大震災後は明治文化の研究に傾倒し、晩年は東京帝国大学(現・東京大学)法学部内に明治新聞雑誌文庫を創設、貴重な新聞・雑誌の蒐集に尽力した。
- 村崎百郎 - 鬼畜ライター。1990年代後半に「鬼畜系」「電波系」を標榜してゴミ漁りルポや電波にまつわるエッセイを執筆した。著書にゴミ漁りの手引書『鬼畜のススメ』(データハウス)や電波系にまつわる体系的な考察を行った単行本『電波系』(根本敬との共著/太田出版)がある。その後も村崎は虚実交えた寄稿を行った末、そのような表現に引きつけられた統合失調症の読者により48ヶ所を滅多刺しにされて2010年7月23日に殺害された。
- 村田らむ - ルポライター。ホームレスをテーマにしたルポルタージュが多く、2001年にデータハウスから上梓した単行本『こじき大百科―にっぽん全国ホームレス大調査』は労働団体から差別であると抗議を受けた結果、絶版になった[16]。2005年に竹書房から発行した『ホームレス大図鑑』でも同じ結果になっている。2013年には鹿砦社から『ホームレス大博覧会』を上梓した。
- 柳下毅一郎 - 殺人研究家。翻訳家としても活動しており、普通の翻訳家が取り扱わない特殊な文献や文学作品を好んで翻訳することから「特殊翻訳家」を自称する。
- 吉永嘉明 - 鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス)副編集長。著書に『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社/幻冬舎アウトロー文庫)がある。
語義
「鬼畜系」という言葉が活字出版物上に現れるようになったのは「鬼畜系カルチャー&アミューズメント入門講座」と銘打たれた『危ない1号』第2巻「特集/キ印良品」(データハウス/東京公司)や新宿ロフトプラスワンで開催されたトークイベント本『(鬼畜ナイト)』(同)が刊行された、1996年頃からとみられている(いずれも村崎百郎が企画立案を行った)[17]。
もとは、1995年の『ユリイカ』臨時増刊号「悪趣味大全」において、文学・音楽・漫画・映画などの芸術文化でも、ほとんど無視されてきたダークサイドな側面が一括りに特集され、同特集で鬼畜ライターの村崎百郎が本格デビューしたことが、ブームの直接的なはじまりとみなされている。同年7月には、鬼畜系ムック『危ない1号』が青山正明らによって創刊され、ゲスな文体で悪趣味を消費する、卑近なスタイルが若年層にも受け入れられたことで、ベストセラーとなる。1996年1月10日には『危ない1号』関係者が総決起した、7時間にも及ぶ伝説的トークライブ『鬼畜ナイト』が新宿ロフトプラスワンで開催された。これを鬼畜ブームの出発点と見る向きも多い[18][19]。以後、一般的には嫌悪・憐憫の対象になるものをモンド視点で消費する風潮が加速する。例えば『GON!』『BUBKA』『(世紀末倶楽部)』『(TOO NEGATIVE)』『BURST』『(週刊マーダー・ケースブック)』『別冊宝島』『危ない28号』など、見世物的好奇心や、覗き見趣味を煽ったサブカル雑誌が人気となった。コミック方面でも、読み物ページが格段に増え、総合サブカル誌としての傾向が強くなっていった『ガロ』(青林堂)が再注目されたほか、因果者(ダメ人間)を徹底的に観察した根本敬の人間紀行『(因果鉄道の旅)』『(人生解毒波止場)』『(ディープ・コリア)』が聖書的存在となる。こうしたサブカルを統合するカテゴリーとして「鬼畜系」「電波系」「悪趣味系」という用語が90年代に広まったが、一部の読者が数々の事件を起こし、1997年までにブームは終焉を迎えた。
週刊SPA!編集部は、鬼畜ブーム特集「鬼畜たちの倫理観──死体写真を楽しみ、ドラッグ、幼児買春を嬉々として語る人たちの欲望の最終ラインとは?」(1996年12月11日号所収)で「鬼畜系」について「モラルや法にとらわれず、欲望に忠実になって、徹底的に下品で、残酷なものを楽しんじゃおうというスタンス」と定義した上で「死体写真ブームから発展した悪趣味本ブームの流れとモンド・カルチャー[2] の脱力感が合流。そこに過激な企画モノAVの変態性が吸収され、さらにドラッグ、レイプ、幼児買春などの犯罪情報が合体した」ことを踏まえながら「インターネットの大ブームにより、過激なアンダーグラウンド情報が容易に入手できるようになったのも、この流れを加速させた要因だろう」と大まかな流れを概説している[20]。
心理
心理学からの分析では、利己的・非倫理的・非社会的で、犯罪を起こし、社会的苦痛を引き起こし、組織にとって重大な問題を与える傾向がある悪の気質は「ダークトライアド」が関与していると考えられている。一方で、共感・思いやり・利他心といった社会にとって好ましい気質は「ライトトライアド」を持つとも言われている[21]。しかし、ライトトライアドは悪人に騙されたり、搾取されやすいという弱みがある(寛容のパラドックス)。逆にダークトライアドは自己保存のために計算高く、創造的で、リスクを取ることもできるという強みもある[22]。反社会性パーソナリティ障害も参照。
ただし、不真面目な利己主義が反道徳的と考えられやすいのに対し、真面目な利他主義の形を装っても邪悪な行為を働けることも指摘されている。スタンフォード監獄実験では、凡庸な権威追従主義者ほど一般的な倫理よりも反倫理的な残酷な指示に従ったという結果が出ている。ハンナ・アーレントがホロコーストの加害者を「悪の凡庸さ」と指摘したことの実証となっている。このことはつまり、倫理規範を持った社会や文化など人間集団による非倫理的行為は、差別・対立・戦争・虐殺の形をとって、より破壊的な結果をもたらすということになる。
サブカルにおける鬼畜系は実際に犯罪行為を行うというよりは、反社会的行為を冷笑的に鑑賞して楽しむという側面がある(逸脱・不謹慎)。このため、地下出版やアングラインターネットと相性が良い。反面、カルトや陰謀論の信者は、冷笑的というよりは狂信的である。また、鬼畜系サブカルは反権威主義的なのに対し、カルトや陰謀論は権威主義的である。しかし、反権威主義(逆張り)が既存の権威への対立集団として政治化すると、非主流の価値に基づいた別の権威主義に陥ることがよくある。要は、マズローの自己実現理論で言うところの、生存欲求や生理欲求(性欲)に忠実なのが鬼畜系とすると、カルト宗教は承認欲求に忠実な別種の利己主義と言えるかもしれない[23]。真の虚無主義または相対主義のみが、完全な反権威主義を達成できるとも言える。
~戦前
人類と社会〜個人の欲望と社会の規範、そして社会的承認欲求(権力欲)
この節の加筆が望まれています。 |
人類は社会的な動物であり、武力や暴力ではなく法や徳による社会制度・規範などによって個人の欲望を抑制し、社会秩序を保つ術を発展させてきた。そのような法や徳の下では、利己的な性衝動や暴力は反倫理的・反社会的とみなされる傾向があった(権威主義)。とは言え、性は生物にとって根本的なもの(繁殖)であり、差別や暴力もまた人類に刷り込まれている本能(自己防衛)である。そのため、社会規範による民衆の抑圧に対する抵抗が歴史上繰り広げられてきた(反権威主義)。また、宗教や学問による利他的道徳心および理性的啓蒙思想が枢軸時代に花開いてからも、現代の感覚では鬼畜(反倫理的)とみなされるような野蛮きわまりない習慣は世界中で普遍的に行われていた。具体的には少年愛や児童性的虐待、女性差別、人種差別、階級差別(奴隷制、身分制)、障害者差別、人肉食、生物種の大量絶滅、戦争による虐殺、拷問、残虐処刑などが挙げられる。これらはむしろ、社会や文化における倫理規範として、異なる集団を異端視・悪魔化して排除するために行われていた側面がある。近代以降は、人権に関する社会意識が高まり、芸術や思想の創作や発信活動においての急速な民主化や大衆化が進んだ。こうして、肉体的な権利の侵害は厳しく規制されたものの、思想的な個人の自由の追求はどこまでも進み、ポストモダン(≓価値相対主義)へと行き着くこととなった。結果、社会的価値における確定的な「善悪」「美醜」「真偽」などの二元論が崩れ、複雑に錯綜するようになっていき、現在に至る。
本節では、その時々の社会的権威による「真・善・美」の価値観に反する芸術・運動・事件の歴史を記す。
近世以前
性に関する文化として、日本列島および世界の各地では生殖器崇拝が行われていた他、さまざまな性愛にまつわる絵画、文学、彫刻などが作成・消費されてきた。日本エロ文化の始祖的存在である春画は、唐から医学書と共に伝わった房中術の挿絵「偃息図」(えんそくず/おそくず)や明から伝わった春宮画に起源を持つとされる。平安時代からは、縁起物を象徴する男性器がグロいほどに誇張して描かれていたという見方もある[24]。海外でも「カーマ・スートラ(性愛経典)」や「イ・モーディ(性愛図)」のような性愛芸術がある。
また、暴力的で残酷な芸術としては、天国(平和と繁栄)と地獄(暴力と破壊)という、宗教的な善悪二元論を反映した地獄絵図がある。例えば、12世紀の「餓鬼草紙」「地獄草紙」や「快楽の園(16世紀版)」「快楽の園(12世紀版)」などがある。また、宗教的権威においては、神の神聖さを汚す冒涜は最大の罪の一つとみなされていた。
江戸時代
日本におけるエログロ文化は、大衆文化が花開いた江戸時代後期の艶本・春画においても見出すことができる。鳥居清信の春画の一つ(1700年頃)には性的倒錯の一種の裸の男と服を着た女のシチュエーションがある[25]。同性愛を描いた春画(枕絵)も多々知られている[26]。葛飾北斎の艶本『喜能会之故真通』(1814年頃)における「蛸と海女」は、獣姦アートの中でも蛸が相手というかなりのキワモノであった[27]。
西洋ではルネッサンス以降、医学書・解剖図[28] や解剖図を反映した等身大の人体蝋人形などが数々制作された。中でも、Marie Marguerite Bihéron (1719 - 1795) の作品が有名であり、妊婦の解剖人形などは非常に精巧だったとされる[29][30][31]。日本でも、蘭学の医学書の翻訳本『解体新書』(1774年)など、漢学や蘭学の医学書・解剖図に倣った書籍が幾らか発行された。中でも、渓斎英泉の艶本『閨中紀聞 枕文庫』(1822年)は、当時の性の医学書・百科事典にして性奥義の指南書であり、同時に、奇書の中の奇書として知られている(特に膣の内部に大きな関心が抱かれている)[32]。
幕末期には浮世絵師の月岡芳年や落合芳幾が「無惨絵」という歌舞伎の殺陣や鮮血などの残酷描写を主題にした扇情的な浮世絵を発表した。これは幕末という不穏当な時代世相を背景に制作されたともいわれる。なお、無残絵は江戸時代後期の廃仏毀釈の流れもあり、九相図など仏教絵画に見られる宗教色が一掃されている。つまり無残絵は宗教的文脈を逸脱し、純粋な娯楽として制作および鑑賞されていたことがわかる。以降、無残絵はエログロの古典的地位を確立し、(責め絵)の草分け的存在である伊藤晴雨は、芳年の無残絵を模した緊縛絵や緊縛写真を多数制作した。また芳年と芳幾が幕末に発表した競作無惨絵『英名二十八衆句』(1866年 - 1867年)は、非商業的な漫画雑誌『ガロ』(青林堂)などで活躍した丸尾末広と花輪和一によって昭和末期にリメイクされており、無残絵を原点とするエログロ文化の精神的な流れは、後々のサブカルチャーに脈々と受け継がれた。
また、幽霊画というホラージャンルも存在し、月岡芳年作の女性器が顔についている幽霊など、エログロセンスの絵画もあった[33][34]。ピーテル・パウル・ルーベンスのメドューサの頭部も古典的グロ画である。
拷問は世界各地で行われていた習慣であったため、さまざまな文化において拷問シーンやを描いた絵画が見られる[35][36]。また、放尿・脱糞などの排泄シーンを描いた絵画も、歴史上にいくらか残されている[37][38][39]。
1785年にはマルキ・ド・サドが鬼畜SM小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を著した(初版は1904年)。マゾ文学は1871年の『毛皮を着たヴィーナス』にて開花したと言われている。死や汚穢趣味[40]にエロティシズムを見出す文学は世界各地に見られる。また1812年にヨーロッパで刊行された『グリム童話』は、民衆文化の中から成立し、残酷・性的な描写も散見された。
文明開化
16世紀半ばに始まったヨーロッパとの交流は、江戸時代(1603 - 1868年)には鎖国によって細まったが、黒船来航(1853年)および明治維新(1868年)後には再び強力に推進された。日本の幕末・明治時代に相当する欧米のビクトリア朝時代は、市民革命(イギリス革命、アメリカ革命、フランス革命)・産業革命がもたらした急速な社会変革(民主化や資本主義化)が進んだはけ口か、さまざまな悪趣味・不気味な習慣が知られていた[41][42][43]。文明開化の裏側では、これらの習慣も何らかの形で日本にも伝わった。
1839年に実用的な写真技術が発明されて以来、そのような奇怪な物の写真(髭の生えた女性、シャム双生児、小人症、4本足の人物など)や排便[44]、ヌード・ポルノ写真(児童ヌードも数多く制作されていた[45])も巷に出回り、人々の好奇を集めていた。19世紀終盤に映画が発明されると、すぐにポルノ映画が地下で制作されるようになったが、欧米や日本では公権力の下では非合法だった。
以前は絵画で表現されていた死の風景や残酷描写が写真記録としても残されるようになったことで、外科手術(癌で顔面が奇形化した写真も多々残されている)[46][47][48]、事故、殺人事件[49][50][51]、戦争(南北戦争ではすでにカメラが広く商用化されていたため、千切れた手足や損壊した顔面など多くの肉体損傷写真が残されている)[52][53][54][55][56]、果ては清朝時代の残酷極まりない拷問写真(特に凌遅刑)[57][58][59][60][61] や死体写真[62] が出回るようになった。その他にも、故人を生きているかのようにポーズを取らせて写真を取ることも流行した[63] が、これは葬儀の風習の一環である。1880年頃からから商用で使われ始めたハーフトーンという印刷法によって、白黒写真を雑誌に印刷できるようになったことでヌード写真が雑誌に掲載できるようになったが、同様にグロ写真が一般の出版物として写真集や雑誌の形で発行されていたかは、追加調査が必要で待たれる。
快楽主義・虚無主義とオカルティズムの萌芽
薬物(ドラッグ)が成分抽出・化学合成される以前は、向精神物質は自生植物から調合され世界中の文化で宗教的儀式において使用されていた。
19世紀にはドイツなどで化学が発展し、さまざまな向精神物質が植物より成分抽出・化学合成された。モルヒネ(1804年)、カフェイン(1820年)、ニコチン(1828年)、コカイン(1860年)など。1888年に長井長義がドイツ留学中に漢方薬の麻黄から抽出に成功したメタンフェタミン(商品名ヒロポン)は、第二次世界大戦中に兵士の疲労回復や士気向上に用いられ、戦後に多くの中毒者を出した。戦前は中毒性の強い薬物でも、エネルギー剤として市販されていたりした。戦後のアメリカでは、若者の間のドラッグ中毒が蔓延している。
1904年には、オカルティストのアレイスター・クロウリーが『法の書』を出版し、「汝の意志することを行え」というセレマ思想を提唱した。クロウリーは『法の書』(II,28) に対する「新しい注釈」の中でこう書いている。
「これが正しい」という基準などない。倫理とは戯言である。それぞれの星は独自の軌道を行くべきである。「道徳原理」などクソ食らえ。そんなものはどこにもないのだ[64]。
古代から存在する、自己の快楽(欲望)を追求する利己的快楽主義は、19世紀・20世紀初頭のオカルティズムにて再解釈され宗教・社会的道徳に反逆する悪魔崇拝カルトなども生まれ、20世紀後半のカウンターカルチャー運動によって再評価されるようになった[65][66][67]。例えば、快楽主義の一派キュレネ派のヘゲシアスは、人生は苦痛であり、自殺こそが快楽を追求する道だと説いた[68]。利己的快楽主義者では、極端なケースでは、自己の快楽のためならば姦淫、同性愛、児童性愛、近親相姦、快楽殺人[69]、自殺[70]、安楽死、などなんでも正当化され許されてしまうことが議論されてきた。また、悪魔崇拝では、自己の快楽が目的ではなくても、積極的に社会に対するあらゆる悪(破壊[71]、殺人[72]、強姦[73]、暴力、強奪、拷問、裏切り、虚言)を働くことが推奨される(自殺をすると悪を働けなくなるため自殺を推奨しない一派もあるし、より強力な悪に生まれ変わるため自殺を推奨する一派もある[74])。自殺予防の観点では、悪魔崇拝への傾倒は自殺の前兆の一つとも考えられている[75]。
19世紀のもう一つのトレンドは、ニーチェによって有名になった虚無主義(神の死)である。これは、人生に意味はない、世界に価値はない、客観的な真実や善悪(道徳)など存在せず全ては相対的である、全ては無に帰するため無意味である、すなわち「事実などない。あるのは解釈だけだ」などという態度である。たとえば1912年に刊行された『変身』は、ある男が目覚めるとグロテスクな虫になるという不条理なストーリーであったが、これはカフカなりのニヒリズムが反映された寓話と見る向きもある。
疑似科学・フリンジ科学の勃興
19世紀には様々な科学・技術が発達した一方で、副産物として疑似科学・境界科学も多く発生した。たとえば、脳を外科的にいじって精神障害を治療するロボトミー、受精のメカニズムの発見と聖母マリアの処女懐胎崇拝が融合した反中絶思想[76]、血液型の発見と欧米系にA型が多くアジアにB型が多いことからくるB型血液型差別[77]、ダーウィンの進化論の提唱から派生した社会進化論とメンデルの遺伝学から派生した優生学などからくる人種差別や障害者差別、女性医療における膣鏡の一般化からくる女性支配思想[78]などがある。日本でも19世紀以降に血液型差別やアイヌ[79]・韓国差別[80][81]、女性差別[82][83]などが明示的になり、これには西洋制度の影響がうかがわれる[84](もちろん、江戸時代にも穢多・非人などの身分差別や遊郭などの女性差別は存在した[85][86])。さらに、ユングによる「分析心理学」、フロイトによる「精神分析学」(鬼畜系の二本柱である死への衝動・デストルドー(タナトス)と性への衝動リビドー(エロス)の理論も含まれる)、フレデリック・マイヤーズによる「超心理学」(超能力)の研究も19世紀末から20世紀初頭に発表され、日本にもすぐさま伝わった。
さらに、長らく西洋世界の中心的宗教であったキリスト教では、各宗派の教主が神学解釈や異端審議を行なっていたが、宗教改革以降、権威が失われた。以後、万人司祭の潮流から様々な聖書解釈が花開き、怪しい新興キリスト教宗派が数多く誕生する(たとえば、非キリスト教者は終末戦争で皆殺しにされるというカルト的・差別的で悪名高いディスペンセーション主義などのクリスチャン・シオニズムや福音派[87]、エホバの証人、モルモン教など現代で言うキリスト教保守派)。19世紀には、東洋宗教の神秘思想が西洋にも持ち込まれ、東西宗教の融合した新興宗教も生まれた。19世紀アメリカの民衆宗教思想「ニューソート」は、引き寄せの法則やポジティブシンキング(積極思考)など、自己啓発の源流とも言われている[88][89]。これらの理論は、オカルトにて好まれて用いられている。また自らの魂・霊性を進化・向上させることを説く「神智学」の思想もこの時期に生まれた。
反ユダヤ主義陰謀論
19世紀には反ユダヤ主義のプロパガンダとして、フリーメイソンやイルミナティが世界支配(新世界秩序、NWO)をもくろむ悪魔崇拝結社とする陰謀論も生まれた[90]。このプロパガンダはナチスにも利用され、ポグロムやホロコーストの一因ともなった(詳細は「シオン賢者の議定書」および「ナチズムにおけるオカルティズム」も参照)。1950年代にはウィリアム・ガイ・カーが同様の陰謀論「影の政府」を普及させた(後にディープステート/DSとも)。このスキームは、ユダヤ教、共産主義、合衆国政府、国際金融機関などを攻撃するプロパガンダとしても利用されることになる[91]。
反ユダヤ主義は、ヨーロッパの歴史において根深く、数々の陰謀論(ユダヤ教徒がキリスト教徒の子供を誘拐して、儀式殺人を行なっているという血の中傷陰謀論や、ユダヤ人が毒を撒いて黒死病などパンデミックの原因を作っているといった陰謀論)によって、歴史上多くのユダヤ人が攻撃・迫害されてきた(詳細は反ユダヤ主義を参照)。血の中傷陰謀論は、20世紀後半に生じた児童人身売買陰謀論やピザゲートと同様に、子供の人権侵害をでっち上げて、嫌悪感を煽る構造となっている。また、ユダヤ人がパンデミックを意図的に引き起こしているという陰謀論は、コロナ禍に流布されたグレートリセット陰謀論の原型とも言える。こうした差別の根底には、キリスト教によるユダヤ教への宗教差別のみではなく、ヨーロッパ白人の中東系人種に対する人種差別も起因しており、これは現代の白人至上主義につながるものである[92]。
明治期の社会風刺
イギリスでは風刺漫画雑誌『パンチ』が1841年に刊行され、社会を面白おかしく皮肉的に風刺した。またこの頃の日本でも、時には不謹慎とも見なされた社会風刺雑誌として、野村文夫の『團團珍聞』や宮武外骨の『(滑稽新聞)』のようなものがあった。特に「癇癪と色気。過激にして愛嬌あり」をキャッチコピーに足掛け8年で全173号を刊行した宮武外骨の『(滑稽新聞)』は1901年の創刊以来、政府や役人の汚職や醜聞、既成ジャーナリズムの腐敗などを容赦なく暴き出し、歯に衣着せぬ過激な社会風刺が人気を集め、当時としては驚異的な8万部を発行した[93][94]。同紙は発刊中だけでも、外骨本人の入獄2回、関係者の入獄3回、罰金刑16回、発禁印刷差押え処分20回以上という壮絶な筆禍を受けたが、外骨は全く懲りることなく「寧ろ悪を勧めよ」「法律廃止論」「検事には悪い奴が多い」などの過激な持論を紙面に掲げた[93][95][96]。当然、検事からは「無政府主義の社会主義を理想とする新聞であり、国家秩序を甚だしく害するものだから、この際、発行禁止処分にするのが適当」と弾劾されるも[97]、不当に高額な罰金刑を下した検事を紙上でさらに攻撃し、大阪地裁による発行禁止命令[96] に先手を打つ形で最終的に「自殺号」(1908年10月20日付)を出すに至る。これには「権力に殺されたのではなく、自らの意志で自殺廃刊を選んだ」という外骨なりの自負とユーモアが込められている(さらに翌月『(大阪滑稽新聞)』を創刊して戦いを継続)[94]。以後も外骨は権威に屈せず、反骨と諧謔のパロディストであることを生涯を通してつらぬいた[98]。
大正デモクラシーと変態性欲の通俗化
大正時代に入ると、明治維新による国内産業の近代化の恩恵もあり、中産階級層が厚くなり消費文化を形成するようになった(江戸時代の大衆文化は江戸や大坂などの大都市の庶民が中心であった)。特権階級が欧米から学んで社会制度を制定した明治時代からさらに発展し、民衆が政治参加によって社会制度を制定するための大正デモクラシーという運動が盛んになり、1925年にはアジアで初の男子普通選挙が法定されたことで、戦後民主主義の礎を築いた。この時代は、軍国主義が台頭した昭和初期とは対照的に、官憲や大衆は性にもおおらかだった時代であったとされる。
遡ること明治時代には、James Ashtonによる『The Book of Nature』(1865年)[99] の翻訳本『造化機論』が1875年に刊行され、近代の言葉と論理で性を解き明かした記念碑的な書物となった。当時の一般人にはなじみのなかった精子と卵子のことなども解説されていた。「造化機」とは、当時の用語で「生殖器・性器」のことを指した。この書物を皮切りに、「造化機」について論じた書物は明治期には大量に刊行され、類本・異本・二番煎じを含めれば、優に100種類以上の「造化機論」が存在していた[100]。しかし、明治期は道徳的には保守的で、科学書であったため発刊が許されたが、男女の性器の図解等もあり、現在のエロ本のような関心で見られた側面もあった。明治末から大正になると、その種の本も次第に娯楽的な彩りを持つようになった。
ドイツの精神医学者・クラフト=エビングが性的倒錯について書いた『性的精神病理』(1886年)は、日本における変態性欲ブームの火付け役ともされている[101]。この書物は、1894年に『色情狂編』として和訳されたが明治政府に発禁とされた後、大正時代の1913年に解禁され、大日本文明教会から『(変態性欲心理)』と題して刊行された。この書籍中では「ひとりエッチ(クリオナ)」「性欲減退」「ホモセクシュアル」といった、現在では普遍的な性のトピックも紹介されているが[102]、それだけでなく「折檻プレイ」「露出狂プレイ」「放置プレイ」「イメージプレイ」「コスプレ」などアブノーマルな性癖も取り上げられていた。本書を嚆矢として科学の分野では「性科学」と呼ばれる学問分野が確立することになり[102]、日本においても学術的そして通俗的な「変態」考察がすぐに盛んになった[103]。「変態」という語は、1909年に刊行された小説『ヰタ・セクスアリス』で有名になったとされる。
中村古峡によって創刊された研究雑誌『(変態心理)』(1917 - 1926年)では、変態性欲論が議論され、男性同性愛者の読者たちによってゲイ解放区構想も議論された[104][105]。また田中香涯(田中祐吉、医学博士)によって刊行された『変態性欲』(1922年)では、それまで狭義の心理学用語として使用されてきた変態の通俗化が行われ[106]、羽太鋭治や澤田順次郎といったセクソロジストたちによる性科学の通俗化も起こった[107] 。変態という言葉自体も広く社会に浸透した流行語となり、宮武外骨は『(変態知識)』(1924年)を、梅原北明は『(変態十二史)』『(変態・資料)』(1926 - 1928年)を刊行するに至った[108][109]。特に梅原北明が企画した叢書『変態十二史』(文藝資料研究会)は合計15巻(12巻+付録3巻)という破格のシリーズとなった。このシリーズは「性」に限定されてきた「変態」の範囲をさらに拡張し、全巻のタイトルに「変態」を冠するという徹底ぶりと珍奇ぶりが大いに受け、500部限定の会員誌にもかかわらず、申し込みは4000〜6000部を突破した[110][111]。あらゆる事象に「変態」を当てはめようとするスタイルは時に牽強付会ですらあり、第8巻『変態仇討史』を著した梅原北明も同書の序文で「普通の仇討から特に変態と云う奴を選ぶことに務めただけですから、多少こぢつけたものもあります。/尤も、こぢつければ仇討と云う存在は確かに変態です」と言い訳している[112]。この時点で「変態」という用語は実態を失い、普通ではないものに対する曖昧な印象を包括するイメージとして流用されることになる[111]。
こうした戦前の変態言説の多くは、北明一味の「趣味的研究」を除けば、生半可な性知識に振り回される人々を啓蒙するという至って真面目な学問であった[113][114]。あくまで変態は「客体的な研究対象」であり、そこにはLGBTQに代表される性のアイデンティティなど存在せず、変態性欲者や性的逸脱者は「矯正されるべき存在」として扱われた。これは1868年の明治維新後、西側の性規範が輸入される過程で「性の近代化」が進み、性に対する保守化・均質化・標準化・規格化、すなわち「正常志向」が強調された為である[113][114]。そこから逸脱する存在は、しばしば蔑みの対象となった。これに関して『変態十二史』の編集発行人である(上森子鉄)ですら「我々まで変態だと思われたら困る」と発言しているほどである[115]。変態性欲者が当事者として主体となった「変態による変態のためのマニア雑誌」が登場するのは、戦後の『奇譚クラブ』(1947-1975年)を待つことになる[116]。
こうして変態文化は広がりを見せたものの、それを理論的に支える学問領域は未成熟なままであった。人間の根源である性的欲望が自然科学の分野で明確に確立するのは、クラフト=エビングの『変態性欲心理』から1世紀近く経った1979年、自然人類学者の(ドナルド・サイモンズ)が発表した『(The Evolution of Human Sexuality)』(性的欲望の進化)からである[117]。本書は人間の性行動の形成過程、たとえばオーガズム、同性愛、性的乱交、レイプなどを進化論的な枠組みで史上初めて体系化したもので、あらゆる学問(進化生物学、人類学、生理学、心理学、文献学)を統合して分析した点でも画期的だった。本書は後続の研究にも大きな影響を与えており、たとえばレイプにまつわる性的衝動を進化生物学で分析し、フェミニストとの間で大論争にもなった問題作『(人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす)』(2000年)も本書の絶大な影響下にある。もっとも、自然科学の観点から性的逸脱の研究が本格化し始めたのは、つい最近のことであり、依然として追加調査が待たれる。
その間、日本発の変態文化は「おたく」の出現にともない、二次元のコンテンツに比重を置くことになる。またインターネットが急速に発達した1990年代には、米裁判所がオンライン上のわいせつ表現をゆるやかに解釈するようになり、日本のアダルトアニメは世界に開放された[118]。2000年代には、日本のアダルトアニメやキワモノAV、アダルトゲームのジャンル(ロリ、異種姦、ぶっかけ、ごっくんなど)を表す言葉として「Hentai」というキーワードが世界中に広まっている[119]。
人間動物園・衛生博覧会
19世紀のイギリスやアメリカでは、フリーク・ショウと呼ばれる見世物小屋にて世の中の奇怪なもの(奇形、部族の全身入れ墨や身体改造など)を、人間動物園では西洋文化以外の部族・人種や非健常者を見せ物にしていた。日本でも、欧米の植民地帝国主義の流儀に倣って、20世紀初頭に台湾人やアイヌ人など、弱小民族の人間動物園的展示を博覧会にて行っている。これらは現代の人権感覚に照らすと差別極まりないものであった。
また、19世紀は都市人口の増加と劣悪な環境に住まう労働者が増え、コレラなどの伝染病も蔓延した。これを背景として、欧米では「衛生知識普及」のための催事である(衛生博覧会)が19世紀半ばに始まった。大きなものでは、1883年のロンドン万国衛生博覧会、1883年にベルリンで「全ドイツ街生・救命覧会」が、1903年にはドレスデン都市博覧会の特別展として「国民病とその克服」が開催されている。アメリカでも同様に博覧会における衛生展示が行われ、人体解剖模型の鑑賞ブームが起こった[120]。19世紀後半のパリで開催された解剖蝋模型展覧会は大人気を博し、ヨーロッパを移動する展覧会になった。そこでは結合双生児と呼ばれた身体の一部が結合している双子の模型も展示されていた[121]。1911年のドレスデン国際衛生博覧会では、大衆向けアトラクションも数々設置され、中でも人体展示館の性病ブースなどの精巧な蝋人形は国際的な評判を呼んだ[122]。
日本でも1887年の「衛生参考品展覧会」(東京・築地)を皮切りに、昭和初期まで全国各地で衛生博覧会が開催された(戦後も再開されているが、現在では保健衛生思想が行きわたったことでこの展覧会の役割は終えている)。大正期になると、見せ物的エログロ要素が白熱し、ビール過飲心臓、子宮炸裂、コレラ小腸、天然痘皮膚、トラホーム模型、花柳病模型、淋病男局部のウミ、寄生虫模型、梅毒になった女性器、強姦殺人の現場再現のようなものが公然と展示され鑑賞されていた[123]。1914年の東京大正博覧会の衛生展示は、生身の人間から疾病・臓器・死体・ミイラにいたるまでなんでもありの企画となり、保存液につけた生首10級、刑死した高橋お伝の性器や刺青を入れた皮膚なども展示されたという。東京大正博覧会の展示物はその後更に充実し、「大阪衛生博覧会」(1915)、「戦捷記念全国衛生博覧会」(1919)、「児童衛生博覧会」(1920)、「大正衛生博覧会」(1921)、「平和記念東京博覧会」(1922)、「名古屋衛生博覧会」(1926)などへと引き継がれた[124]。
衛生博覧会は、1985年にも、本来純粋なはずの芸術を取り戻すために「制約やモラルなどの精神的な不衛生を排し、本能のおもむくままに創作に取り組もう」との趣旨で有志のアーティストたちによってリバイバルした[125]。好奇のための人体展示という意味では、人体の不思議展、目黒寄生虫館、温泉観光地にみられる秘宝館(性のミュージアム)、閉館した元祖国際秘宝館の展示物を引き継いだまぼろし博覧会は、衛生展覧会の系譜に連なるものと捉えることもできる[126]。
第一次世界大戦後から世界恐慌まで
欧米における1920年代は、毒ガス兵器など非人道的兵器や大量破壊兵器も登場し破滅的だった第一次世界大戦(1914 - 1918年)からの反動で、既存の権威に対する不信感が高まり、冷笑主義や反権威主義が蔓延し、より自由な社会を望む風潮が世界的に高まった。アメリカでは婦人の参政権が成立し、女性の服装や髪型は動きやすいボーイッシュなものが流行した。狂騒の20年代を背景として登場したフラッパーなどのファッションスタイルは、モボ・モガとして日本にも伝わった。バーレスクもこの頃には、ストリップショーがメインの出し物に成り下がった。また、ティファナ・バイブルと呼ばれる、粗雑な画風のポルノ漫画誌もこの頃に出回るようになった。
世界では、ダダイズムなどの反芸術の流れが起き、マルセル・デュシャンは小便器を芸術作品(1917年)として発表し、マン・レイは性交中の結合部のアップの写真を芸術作品として1920年代に発表した。この流れは、シュールレアリズムやアバンギャルドなどの前衛芸術に連なる伝統的な系譜でもある。また1929年には実験映画の『これがロシヤだ』と『アンダルシアの犬』が公開され、前者では出産シーンが映されたほか、後者では女性が剃刀で眼球を切り裂かれるという衝撃的なイメージが描写された。
1929年の世界恐慌によって社会・政治が保守化したことで、解放的なムードは戦後まで抑圧されることになった。その後、不謹慎とみなされる文化の多くは地下へ潜ることになり、ドイツではナチスによって前衛芸術は退廃芸術という烙印を押され、徹底的に弾圧された。
エログロナンセンスと梅原北明の時代
世界恐慌が起こった1929年から1936にかけてエログロナンセンスと呼ばれる退廃文化が日本でブームとなった。時代的背景として関東大震災(1923年)による帝都壊滅、官憲のファシズム台頭、プロレタリア文化運動の弾圧、恐慌による倒産や失業の増加、凶作による娘の身売りや一家心中などで社会不安が深刻化しており、出口のない暗い絶望感とニヒリズムが世相に充満していた[129]。大衆は刹那的享楽に走り、共産主義革命を翼賛する“反体制的反骨”のプロレタリア文化運動も行き詰まりの果てに、常識を逸脱するエログロナンセンスへと流れていった[130][131]。
このブームの中心人物こそ「エログロナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」「猥本出版の王」「発禁王」「罰金王」「猥褻研究王」などと謳われたエログロナンセンスのオルガナイザー・梅原北明である。北明は『デカメロン』『エプタメロン』の翻訳で知られる出版人で、1925年11月にはプロレタリア文芸誌の体裁を取った特殊風俗誌『(文藝市場)』((文藝市場社))を既成文壇へのカウンターとして創刊。創刊号では「文壇全部嘘新聞」と題して田山花袋、岡本一平、辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸が全焼し、上司小剣が惨殺されるという過激な虚構新聞を見開き一頁を割いて掲載した。それら内容はいずれも冗談と諧謔の精神に満ち溢れており、既成権威に対してイデオロギーを持たず[132][133][134] 無意味なまでに反抗するような姿勢は、当時の同人からも「焼糞の決死的道楽出版」と評された[135][136][137]。
1926年12月、北明が出版した会員誌『変態・資料』(文藝資料編輯部)4号では、月岡芳年画『奥州安達がはらひとつ家の図』と共に、伊藤晴雨が撮影した「逆さ吊りの妊婦」(1921年)が本人に無断で掲載された。その上「この寫眞は画壇の變態性慾者として有名な伊藤晴雨畫伯が、臨月の夫人を寒中逆様に吊るして虐待してゐる光景」「恐らく本人の伊藤畫伯もこれを見たら、寫眞の出處に驚くだらう」という事実無根の解説文を載せ、大いに物議を醸した[注 2]。なお、北明と晴雨は留置場で同室した仲であり、互いの性格をよく知っていたことから、晴雨は写真の無断転載について「北明という男は罪のない男で腹も立たない」と述べている[138]。以降も同誌には過激なグラビアが掲載され、9号(27年6月)には反戦写真集『戦争に対する戦争』(1924年)から負傷兵のえぐれた顔写真を無断転載し、チューブで食事する写真に「何と芸術的な食べかただろう!」「手数はかかるが彼の生活は王侯のそれと匹敵している」など本来の文脈から完全に逸脱した不謹慎なキャプションを添えた。この他にもミイラや手足のホルマリン漬けなどグロ写真が終刊まで無意味に掲載され続けた。
この間にも北明の出版物は、立て続けに発禁・摘発・押収を喰らうようになる[注 3]。次第に北明の目的は、変態雑誌を世に送り出すことなのか、それとも「変態」を用いて官憲への抵抗を周囲に見せびらかすことなのか、いまいち判然としなくなっていった。これについて竹内瑞穂は「彼が〈変態〉を用いて行ったのは、“〈普通〉であれ”と高圧的に命じてくる公権力への抵抗であった」と指摘している[140]。しかし「変態」を用いた抵抗もむなしく、1928年までに『変態・資料』および『文藝市場』とその後継誌『(カーマシャストラ)』は徹底的な発禁処分により廃刊に追い込まれ、北明本人も出版法19条「風俗壊乱」の疑いで市ヶ谷刑務所に投獄され前科一犯となる。
限界を感じた北明は「エロ」から「グロ」に転向し、仮出獄後すぐに猟奇雑誌『グロテスク』(1928-1931年、グロテスク社→文藝市場社→談奇館書局)を創刊する。さっそく新年号が発禁になると、北明はそれを逆手にとって読売新聞に「急性發禁病の爲め、昭和三年十二月廿八日を以て『長兄グロテスク十二月號』の後を追い永眠仕り候」というユニークな死亡広告を出し、世人の注目を集めた。また北明は度重なる発禁を「金鵄勲章ならぬ禁止勲章授与、数十回」と声高らかに喧伝し[141]、警察からは「正気だか気ちがいだか、わけのわからぬ猥本の出版狂」と見なされた[137]。発禁本研究家の斎藤昌三は「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関である」と評価している[142]。結果、北明は生涯で家宅捜索数十回、刑法適用25回、出版法適用12回、罰金刑十数回、体刑5年以下の筆禍を受けることになった[143]。
与太雑誌『グロテスク』自体は度重なる発禁と罰金で、ほとんど採算無視の放漫経営状態にあったが、発行部数だけは伸び続け、1929年4月号で部数は遂に1万部を突破した。同誌は『変態・資料』と違って一般に市販されたこともあってか、文献研究雑誌の趣が強く、北明自身も「文献趣味雑誌」と自認していたため、後の視点で見ると決してグロテスクなわけではないが、戦前の抑圧社会で「グロ」を主題にした軟派雑誌が公刊で1万部を売ったという事実は、それだけで驚異的だった[144]。結果的に『グロテスク』は出版界にグロ旋風を巻き起こし、数多くの亜流本を生みだした(後述)。
1931年に北明は、菊判2100頁にも及ぶ古新聞漁りの集大成『近世社会大驚異全史』[145]を刊行する。しかし今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から宣告された北明は当局から逃れるため上海や大阪に逃がれ、ほどなく艶本出版から完全に手を引き、靖国神社の職員となった[137][146]。また二・二六事件以降は国内での検閲・発禁が激化していき、一連のムーブメントは1936年頃を境に終息していった。この年、日本三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』を著した夢野久作も急逝する。
猟奇ブーム─エロからグロへ
出版界は1929年から1931年頃にかけて「変態ブーム」に代わり、拷問刑罰や犯罪科学にまつわる学術書籍が相次いで刊行されるなど「猟奇ブーム」で沸いた。これは「エロ」が露骨な弾圧を食らうようになってきた背景があり、エロが駄目なら「グロ」を主軸に展開しようということだった[注 4]。
当時流行した「刑罰もの」のモチーフは、刑罰史から姦淫刑罰、宗教刑罰、歌舞伎の残酷演劇、伊藤晴雨の責め絵まで幅広く、変態風俗本と同様に各ジャンルを横断的に網羅していた。また、刑罰ものは単に猟奇趣味の好奇を煽るだけでなく、歴史風俗史料という言い訳が可能で、図版に修正を入れなくても当局の監視下で堂々と出版できるという抜け道があった(性科学系の文献雑誌は、学術誌であると同時に性的欲望を満たすエロ本としても機能していた)。
日本の近代司法における第一号の犯罪心理学者は(寺田精一)と言われており、1910年代から22年まで研究成果を発表している[147]。変態心理学や精神病理学では1910年代に民間学者による「変態性欲」の通俗的研究が行われた[148] ように、犯罪心理学も猟奇犯罪心理の通俗的研究の対象となった。1930年には犯罪心理学を建前とした猟奇雑誌『犯罪科学』((武侠社))が創刊され、1932年まで続刊した。主幹の田中直樹はその後も後継誌『犯罪公論』(文化公論社)を発刊し、エログロ雑誌界を風靡した[149]。
特に有名なものが、各界の権威を招いて1929年から全16巻を刊行した犯罪科学全集『近代犯罪科学全集』(武俠社)である。秋田昌美は著書『性の猟奇モダン』で「この全集が出たこと自体、日本の出版界においての大事件だったというべきだろう。それを可能にしたこの時代がエロ・グロ・ナンセンスに沸き立った熱い戦前の一時代だったのである」と評価している[150]。
1930年頃には、エログロナンセンスが頂点に達し、死体写真集に相当する奇書が出回った。同年3月、武侠社の(柳沼澤介)[151] は『近代犯罪科学全集』の別巻として、図版中心の非公開資料集『刑罰変態性欲図譜』(刑罰及変態性欲写真集/DIE BILDER UBER DIE STRAFE UND ABNORMER GESCHLECHTS TRIEB)を少数頒布した(1996年6月に皓星社から復刊)。本書は「刑罰」「性犯罪」「文身」「責め」の4章から構成され、豊富な写真と図版が300点あまり掲載された。序文には「犯罪科学の研究の資料として世の真摯なる研究家の参考に…」とあるが、実態は今で言うところのSM本であった。刑罰の章では、1868年に発禁となった『徳川刑罰図譜』からの転写、幕末の刑罰/処刑写真、宗教的迫害を描いた拷問絵巻、世界各地の刑罰図譜などが掲載された。また性犯罪の章では、1917年に起こった下谷サドマゾ事件(日本初のSM怪死事件)[注 5]で無残な死体となったマゾヒストの人妻・ヨネの裸体写真が掲載された。さらに文身の章では責め絵、無残絵、伊藤晴雨の緊縛写真が多数紹介された(晴雨自身も「責めの研究」と題したSM論を寄稿している)。
1930年8月には『刑罰変態性欲図譜』と同じ発行元(正確には武俠社内犯罪科学同好研究会)から『犯罪現場写真集』(BILD DES VERBRECHENS IN ELAGRANTI)が発行された[注 6]。これは日本初の本格的な死体写真集とされている[152]。本書の序文には「主として強盗殺人、強姦致死並びにその疑ある犯行等の現場写真を収載した」とあり、実に100枚もの死体写真を掲載した。また扱われた61件の事件中15件が日本のもので、書籍の後半では日本人の死体写真も扱われており、これは海外の死体写真を差し置いて抜きん出た臨場感を放っていた。小田光雄は「無残な写真のオンパレードで、まさに『グロ』そのもの」と評している[151]。
しかし、グロには寛容であった官憲とはいえ、やはり本書の内容は目に余る代物だったようで、刊行翌月には「風俗禁止」で発禁となった[152][151]。結果的に『犯罪現場写真集』の前後が犯罪・猟奇ブームのピークとなり、1935年に中央公論社が出した『防犯科学全集』では性犯罪がわずかに扱われるだけで、基本的には防犯教育を説く内容であり、猟奇的なムードは一掃された。
1936年には社会を震撼させた二・二六事件が起こり、日本社会は暗い雰囲気に包まれるが、そのわずか3か月後に大島渚監督『愛のコリーダ』のモチーフとなった阿部定事件が起こる[153]。「性愛の極北」としか表現しようのない猟奇的犯行と、阿部定の妖艶な魅力に人々は熱狂した[154][155]。この事件は結果的に、エログロナンセンス時代最末期の掉尾を飾ることになる。
対抗文化の登場
第二次世界大戦後から冷戦時代へ
第二次世界大戦では、世界は有史以来の残忍な状況に突入し、人類史上最悪の犠牲者を出した世界大戦は1945年に終結した。
枢軸国の打倒が達成された後も、資本主義陣営と共産主義陣営との冷戦時代に突入した。そのため日米もまだ保守性が強く残り、既存の社会規範を打ち破ろうとする運動が社会全体に広がるのは、1960年代のカウンターカルチャー・ムーブメントを待つことになる。とはいえ、戦時中と比べると、前衛芸術の復興や、反抗音楽(ロックやフォークソング)の勃興、局地的カウンターカルチャー(ビートジェネレーション)、若者文化(ビート族や太陽族)の台頭などが起こり始める。また、ロカビリーミュージシャンのエルヴィス・プレスリーは、女性の髪型であった煌びやかなポンパドールスタイルと、ストリッパーのような性的腰振りダンスパフォーマンスで、これまでのタブーを破り、一躍若者の人気を博した。日本においても、ロックとリーゼントを愛好する後のヤンキー文化に大きな影響を与えた。
カストリ雑誌ブーム
終戦後は言論統制が解放され、出版自由化に同調する形で、大衆の好奇心・覗き見趣味を煽る娯楽雑誌が大量に濫造された。これらの多くはエロ(性・性風俗)やグロ(猟奇・犯罪)に特化した低俗な内容で、たいてい3号で廃刊したことから、3合飲むと酔い潰れる粗悪な(カストリ酒)にかけて「カストリ雑誌」と総称された。発行されたタイトル数は2000とも4000とも推測されている[157]。また雑誌の内容には、快楽殺人や強姦、近親相姦、阿部定に代表される死体損壊など、非常に多くの倒錯性が含まれていた。凄惨な戦争から解放されたにもかかわらず、大衆がエログロを求めた理由については諸説があるものの、いまだに明らかではない[158]。
周囲からは「これからが梅原北明の真の出番だ」と期待されたが、すでに北明にその意志はなく、1946年に発疹チフスであっけなく逝去する[159]。終戦でエロ産業は一挙に解放され、巷は第二の桃色風俗出版ブームの華々しい黄金時代を迎えようとしていた[160]。
1946年1月には菊池寛の命名で『(りべらる)』(太虚堂書房)が発刊され、創刊号は1万部を売った[161]。同年10月にはカストリ雑誌ブームの火付け役となる『(獵奇)』((茜書房))が創刊され、発売から2時間で2万部を売り尽くした[156][162]。創刊の辞は「平和国家建設のために心身共に、疲れ切った、午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸いです」と、至って低姿勢なものであった[156]。
『獵奇』は、編集発行人の加藤幸雄いわく「梅原北明のような出版活動が戦後も堂々と出来るのか」という意図で創刊された[163]。実際、本誌には北明周辺の作家も積極的に起用されており、2号からは北明の盟友だった花房四郎、明治大学教授で『変態十二史』シリーズを3冊も執筆した藤沢衛彦(本誌の顧問も兼任)[164]、同じく本誌の顧問で北明とは深い交流があった古書研究家の斎藤昌三[165]が編集者兼作家として参加した[166][167][168]。それ以外の執筆陣としては、SM界の巨匠と名高い伊藤晴雨[169]、生殖器崇拝研究の大家である久保盛丸[170]、北明の雑誌『文藝市場』同人の(青山倭文二)[171]ら錚々たるメンバーが名を連ねた。『猟奇』が出版史に名を残したのは、カストリ雑誌のスタイルを確立し、数万部を売ったこともあるが、注目すべきは第2号(1946年12月)に北明の遺作『ぺてん商法』と彼の訃報が掲載されたこと[166][172]、そして(北川千代三)の官能小説『(H大佐夫人)』が問題視され、戦後はじめてわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)による摘発・発禁を受けたことである[173][174]。これは結果として『獵奇』の名声を高め[156]、ここから戦前の性文献によく見られた考証や研究によらない「エロ読物を中心としたカストリ雑誌」への胎動が始まったとされる[175]。亜流誌としては『新獵奇』『オール獵奇』『獵奇読物』『獵奇実話』『獵奇世界』『獵奇倶楽部』『獵奇ゼミナール』『獵奇雑誌・人魚』など「獵奇」を冠したカストリ雑誌がとにかく雨後の筍のように創刊された[176]。
また戦後は(阿部定リバイバル)とも言うべきブームが起き、1947年3月に織田作之助が発表した『(妖婦)』を皮切りに阿部定事件を興味本位で扱ったカストリ本(お定もの)が相次いで出版される。木村一郎著『昭和好色一代女 お定色ざんげ』(石神書店・同年6月)は、地下出版された定の供述調書『予審訊問調書』[155] を告白文体で官能的に脚色したもので、発行2か月で公称10万部以上を売った[177]。しかし、再び好奇の視線に晒された定は憤慨し、版元を名誉棄損で告訴する[178]。その後、開き直った定は変名での生活を捨て、坂口安吾と対談したり、阿部定劇の主演女優となって全国を巡業したり、浅草の料亭で看板仲居を勤めたりするなど、波瀾万丈の生涯を送った[153][177]。一人の男との愛と情欲に生きた阿部定の消息は現在も不明で、その最期を知るものは誰もいない。
このカストリ雑誌ブームは1947年にピークを迎えた。ほどなく露悪的でも猟奇的でもなく「夫婦間の性生活」という大衆的な目線でエロ(性)を打ち出した『(夫婦生活)』が大ヒットし、摘発と隣り合わせのアンダーグラウンドなカストリ雑誌は時代遅れになっていく[179][180][181]。結局、ブームは1950年頃までに終息し[180]、カストリ雑誌に関わったライター、編集者、デザイナーたちは無名のまま忘れ去られ、ほとんどの雑誌は公共図書館に所蔵されることなく散逸した[157]。わずか数年で幻のように消えたカストリ雑誌は、現在もなお戦後出版史のミッシングリンクとみなされている[157]。その後、カストリ雑誌を構成する「読物」「風俗」「実話」などの要素は、その後の週刊誌に吸収されていった[180]。
なお、夫婦雑誌と前後してブームとなったのが、高橋鐵の性科学解説書『あるす・あまとりあ』の大ヒットを契機に創刊された『(あまとりあ)』『(人間探求)』『(風俗科学)』などの性科学研究誌である[182]。これら雑誌は官憲の摘発を逃れるため、知的・高踏趣味のスタイルをとっており、娯楽要素は極力排除されていたが、わずかに残存していたカストリ雑誌も含め、1955年の悪書追放運動と官憲による弾圧でほぼ壊滅に追いやられた[183][184][185]。また1960年代末にはカウンターカルチャー・ムーブメントの流れで、澁澤龍彥編集の耽美雑誌『血と薔薇』((天声出版))、ブラックユーモアやドラッグ・カルチャーを紹介した『(黒の手帖)』(檸檬社)、元『あまとりあ』編集長がプランニングした『(えろちか)』((三崎書房))などのインテリ向けエロ本が相次いで創刊されるが、売上不振により1970年代前半までに姿を消した。その後、元『えろちか』編集部の明石賢生と佐山哲郎は、従来のエロ本に対するオルタナティブとして伝説的自販機本『Jam』(1979)を創刊する[186]。
一方、欧米では1930年代から活動しているフェティッシュ・アーティストのジョン・ウィリーによるSM雑誌『Bizarre』(1946 - 1959)やGene Bilbrewによる『ENEG』、『Exotique』(1956 - 1959)などが出版されている。中でも有名なSM雑誌は、イギリスの『AtomAge』(1957年刊)である。SM雑誌以外にも、アメリカでは「パルプ・マガジン」と呼ばれる安価で低俗な娯楽雑誌が大衆の人気を集めた。
1960年代には特殊効果を用いた実写の猟奇映画が多数登場したが、それ以前の1940年 - 1950年代はECコミックなどのホラー漫画が残酷描写を担っており、これらの作品では「拷問」「猟奇殺人」「四肢切断」「眼球・内臓摘出」などの猟奇的テーマをはじめ、アメリカで根強い人気があるゾンビなど、数々のグロモンスターがアメコミタッチで描写された。日本では、日野日出志や楳図かずお、古賀新一、丸尾末広が猟奇ホラーの重鎮である。猟奇やホラーに特化したイラストレーションは、1980年 - 1990年代のメタルやパンク・ロックバンドのジャケットでも数多く制作されている。
SMマニア誌の幕開け
SMマニア専門誌の第1号は、1947年にカストリ雑誌として大阪で創刊された『奇譚クラブ』((曙書房)→(天星社)→(暁出版))である。創刊当初は単なる大衆向け娯楽誌であったが、1950年頃を境にカストリ雑誌ブーム自体が下火になり、さらには性交描写への厳しい取り締まりの影響もあって、ほとんどのカストリ雑誌は姿を消していった。そこで同誌は須磨利之の提案で1952年5・6月合併号から変態路線に転向する。転向の背景には、同性愛・SM・女斗美・切腹・屍体愛好といった変態性欲は「特殊な趣味」として官憲側に過小評価されていたという事情もあった[182]。だが、エロを売り物にしている大衆雑誌でも「変態」に対しては客観的立場から嘲笑、あるいは差別・罵倒するニュアンスが含まれており、マニアからは大変不評であった[187]。
『奇譚クラブ』が画期的だったのは、編集者自身がSMや変態性欲に造詣が深かったことにある。特に編集部に在籍していた須磨利之は、ライター・イラストレーター・編集者として1人3役をこなし、マニア向けSM専門誌のスタイルをほぼ1人で築き上げた[188][189]。また須磨は「喜多玲子」という筆名で「責め絵」「縛り絵」も大量に手がけており、責め絵の第一人者である伊藤晴雨に才能をほれ込まれるほどの人気作家となった[190][191]。須磨は自身の性的嗜好について次のように語っている。「ぼくは女色男色すべて好き。正常異常みんな好き。人が人を好きになってセックスを楽しむことみんな好き。ぼくが体験していないのは、レズのセックスだけだ。ぼくは男だから、彼女たちの心はわかっても、あれだけは経験できない。あとは何でもやってるよ」[192]。須磨と交流があった(濡木痴夢男)は、喜多玲子の登場を「アブノーマル雑誌における驚嘆すべき出来事だった」と語っている[191]。
その後、須磨利之は『奇譚クラブ』から『裏窓』(久保書店)へ移籍し[193]、1970年代以降は『(S&Mコレクター)』(サン出版)に緊縛師や責め絵師として携わるなど、名実ともに戦後SM文化の立役者となった。『裏窓』2代目編集長の(濡木痴夢男)は「日本にただ一人、あるいは世界に一人の存在」「須磨のように異常性欲に関して万感の理解力と、表現能力をもつ画家はめったにいるものでない」と評している[194]。
須磨の敷いた「誤解なし」「手抜きなし」「曖昧さなし」という誠実な編集体制は、レベルの高い誌面を形成し、文化人からの注目も集めた。『奇譚クラブ』の愛読者には川端康成や三島由紀夫、澁澤龍彥、寺山修司らがいる[195]。同誌は1953年頃までに10万部を突破し、東京では便乗誌『(風俗草紙)』が創刊され、性風俗誌は黄金時代を迎えた[182]。
『奇譚クラブ』は須磨が去った後も、日本中の変態読者から小説の寄稿が相次いだ。また(滝麗子)や秋吉巒、(四馬孝)、(中川彩子)、(古庄英生)、(畔亭数久)などの優秀なSM画家が登場したこともあり[190]、ハイレベルなアブノーマル路線は維持された。途中、発禁による影響でビジュアル面の大幅な縮小があったものの[190]、沼正三の鬼畜SM小説『家畜人ヤプー』や団鬼六『花と蛇』など歴史上に残るSM文学を輩出し、発行人の急逝によって1975年に休刊するまで同誌は日本のSM文化を支え続けた。
カウンターカルチャー・ムーブメントとサブカル、そのカウンター
1950年代から盛んになった社会の構造的差別に抵抗する公民権運動の流れに続き、1960年代には世界的にカウンターカルチャームーブメントが広がり、既存の社会規範から解放されようという動きが一般にも浸透した。以降は、平等主義・個人主義(自己中心主義)、個人の権利と自由・快楽を追求する志向性が社会に到来し、社会や家庭よりも個人の利益を追求するライフスタイルが定着した[196][197]。この時代には、それまでアンダーグラウンドだったエロやグロの表現も徐々に表立つようになり、後にはさらに過激化させる方向に進んでいくことになる。そうして、さまざまなサブカルが生まれた。
一方で、カウンターカルチャー運動によって否定された伝統的な家庭観、性道徳、キリスト教的倫理観を重視する保守派は、これまでの反共に加えて、反カウンターカルチャーや反リベラルの草の根運動、そしてキリスト教原理主義運動などを活発化させることとなった[76]。またリベラル層の自壊も進み、たとえばカウンターカルチャーの流れで登場したフェミニズムや環境主義などを絶対視する急進派は、偏狭で反知性主義的という指摘[198]もあるポリコレの押し付け、ないしキャンセル・カルチャーに陥ることにもなった。一方、差別的表現やヘイトスピーチなども許容する表現の自由派・貧富の差や環境破壊など経済活動の自由派は、リバタリアンとして、反リベラルの社会保守派と政治共闘することになった(文化・政治戦争)。
ドラッグ・カルチャー
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カウンタカルチャー・ムーブメントでは、ドラッグ・カルチャーが強く押し進められた。1978年には、ハイ・タイムズより『High Times Encyclopedia of Recreational Drugs』が発刊されている。
ロリコン・カルチャー
カウンターカルチャー運動による性の解放は、バイセクシャルなどかつてのタブーを解放し、さらに一部では児童を性的対象とする究極のタブーにまで及んだ。1960年代後半より、数々の商業目的の児童ポルノ雑誌やビデオが発売されるようになった。ビデオではColor Climax Corporation社の『Lolita』シリーズ、雑誌では『Bambina Sex』『Anna and her Father』、そして『Lolita Sex』などが初期の例である[199][200][201]。1980年代以降、児童ポルノは多くの国で禁じられ、これらの雑誌は消滅するが、現代ではダークウェブや法規制が不十分な発展途上国にコンテンツ供給網が移行している[202]。また、1980年代から児童ポルノの制作地は東南アジア、南アジア、さらには南アメリカが活発になり、日本を筆頭とする先進国から後進国への児童売春ツアーなども行われるようになった。1987年には、ペドフィリアを擁護する論壇誌『Paidika: The Journal of Paedophilia』が発刊された。
日本では、山木隆夫撮影の少女ヌード写真集『(LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち)』(ミリオン出版)や同人誌即売会のコミックマーケット11で頒布された日本初の男性向けエロマンガ同人誌『シベール』(無気力プロ)が起爆剤となり[203][204]、黎明期のおたく文化やサブカルチャーが合流する形で(ロリコンブーム)(≓(80年安保)[1])が1979年に起こった。その後、白夜書房は月刊誌『Hey!Buddy』をロリコン路線に転向させ、鬼畜系の元祖的存在である青山正明や蛭児神建[205]も同誌の主筆として活動する。
前衛芸術と過激パフォーマンス
カウンターカルチャー・ムーブメントを通じて、ショック・アートなど反芸術的な前衛芸術はさらに先鋭化し(人糞を展示するに至る)、ショック・ロックなどミュージシャンのファッションやパフォーマンスも過激化した(脱衣や自傷行為、さらには嘔吐・小便・大便の汚物三種の神器を舞台で行うに至る[206])時代でもあった。こうした風潮はフリーク・シーンとも呼ばれた[207]。
ショック・ロックの代表格には、イギー・ポップ(ジム・モリソンとともに自傷、脱衣、観客罵倒パフォーマンスの先駆者の一人)、オジー・オズボーン(コウモリ食いちぎり)、GGアリン(脱糞・食糞)、マリリン・マンソンなど。セックス・ピストルズは、皇室揶揄ソングとして記念碑的なゴッド・セイヴ・ザ・クイーンをリリースしている。日本ではザ・スターリン、じゃがたら、非常階段、ハナタラシ、(TACO)、ガガーリン、ゲロゲリゲゲゲ、ハイテクノロジー・スーサイドなどがいる。たとえば遠藤ミチロウは観客に豚の臓物や汚物などを投げ込み、江戸アケミは流血・放尿のほかニワトリやシマヘビの首を生きたまま食いちぎり、山塚アイはユンボでライヴハウスの壁を壊し、非常階段の女性メンバーはステージで放尿し、田口トモロヲは炊飯器に脱糞し、山崎春美は自殺未遂ギグを決行した。
また世界的にも反芸術的な前衛芸術が再興した。アメリカではネオダダが興り、日本でも九州派などがゴミに小便をかけたものを前衛芸術展に展示したり(他にも会期中に腐るうどんを精液に見立てた芸術や、女性器の接写や裸体パフォーマンスなど)、街角でストリーキングや迷惑行為を行う芸術テロ的で過激なパフォーマンスアーティスト集団も登場した(日本ではダダカンやゼロ次元、ハイレッド・センター、(ビタミン・アート)[208]。アメリカではザ・リビングシアター、ヨーロッパではウィーン・アクショニストなど)。草間彌生もウォール街にて全裸集団を組織して路上パフォーマンスを行なった(ナチュラリスト指向のヌーディスト運動の歴史は19世紀末に遡る)。
カルトムービーの黄金時代
世界各地の知られざる奇習や風俗を描いたグァルティエロ・ヤコペッティ監督のドキュメンタリー映画『世界残酷物語 MONDO CANE』(1962年)のヒットを嚆矢として、1960年代のヨーロッパやアメリカでは、観客の見世物的好奇心に訴える猟奇系のドキュメンタリー・モキュメンタリー映画が続々と登場し、人気を博していた。これら映画は「モンド映画」(Mondo film)または「エクスプロイテーション映画」と呼ばれる。特にモンド映画は、やらせも含めたショッキングでいかがわしい演出とセンセーショナリズムが特徴的であった。著名なモンド映画監督としてはヤコペッティ以外にも『ピンク・フラミンゴ』のジョン・ウォーターズや『ファスター・プシィキャット!キル!キル!』のラス・メイヤーなどがいる。これら監督たちの映画は脱力的な大衆文化「モンド・カルチャー」のルーツとなったほか、世界中の悪趣味(バッド・テイスト)文化にも多大なる影響を及ぼした[注 7]。日本でも中川信夫監督の『(日本残酷物語)』(1963年/NFAJ所蔵)や中島貞夫監督の『(にっぽん’69 セックス猟奇地帯)』などのモンド映画が製作されている。
その後、ヤコペッティが3年の歳月を費やし、本物の処刑シーンも収めた『(さらばアフリカ)』(1966年)が興行的に大失敗するなどして、過熱的なモンド映画ブームは終息したが、トッド・ブラウニング監督の『フリークス』(1932年・MGM)がアメリカの映画館で深夜上映されたのを皮切りに、1970年代のアメリカではカルトムービーやインディーズ・ムービーが深夜上映の形態で続々公開されるようになった。これらの映画は「ミッドナイトムービー」と呼ばれ、一部の映画マニアを中心に熱狂的な人気を博した。また、ここから『ピンク・フラミンゴ』(犬の糞を食べるシーンがある)『エル・トポ』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ロッキー・ホラー・ショー』『イレイザーヘッド』『エレファントマン』などのカルト映画も数多く生み出されていった。
1972年にはラルフ・バクシが画期的なアダルトアニメ『フリッツ・ザ・キャット』を製作し、史上最も成功したインディーズ系アニメーション映画のひとつとなった(それと同時にアニメ史上初の(X指定)を受けた)。本作ではブラックユーモアやセックス描写が大胆に取り入れられ、主人公が学生運動、性革命、ヒッピーコミューンなどアメリカ社会で60年代後半に巻き起こったムーブメントを野次馬的に体験していく様子が毒々しく描かれている。
死ぬ権利
1960年代から1970年代にかけては、情報・通信機器が急速に普及し、公開自殺の様子も大衆の目に届くようになった。1963年には、ティック・クアン・ドックがベトナム戦争に抗議して大使館前で焼身自殺。1970年、三島由紀夫が自衛隊の前で公開割腹自殺。1974年には、クリスティーン・チュバックが世界で初めてテレビの生放送中に自殺を遂げた。死ぬ権利を唱導するヘムロック協会は1982年に自殺マニュアル本を出版し、1991年にも同様の内容の『Final Exit』を出版した[210]。ただし、これは自殺を煽る悪趣味の文脈ではなく、苦痛から解放されたい人たちへの苦しまずに自殺する方法集であった。
スナッフ・フィルム
1963年にはスプラッター映画の走りとなった『血の祝祭日』が公開され、これ以降の映画で人体損傷シーンを過激化していくきっかけを作った。日本でもこの頃から、直接的な残酷シーンが登場する『地獄』(1960年)などが制作されている。1975年にはマルキ・ド・サドの鬼畜SM小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作とした『ソドムの市』が公開された。これは、金持ちの権力者たちが街で狩ってきた少年・少女たちを囲って、拷問したり食糞したりするという内容の、悪趣味映画の極みであった。1978年にはモンド映画の中でも解剖、処刑、事故、屠殺といった「死」の風景ばかりを扱う、日米合作による『ジャンク』が公開される。
1971年に出版されたマンソン・ファミリーを扱った書籍『ファミリー: シャロン・テート殺人事件』(エド・サンダーソン著)では、匿名で取材に応じた元関係者によって、殺人を記録したスナッフフィルムの存在が史上初めて明らかにされ、社会の関心を読び起こした[注 8]。これをきっかけに、スナッフフィルムは「裏世界では娯楽のために人が殺され、その模様を収めたフィルムがひそかに売買されているらしい」などといった噂とともに知られるようになり、様々な作品の題材に取り上げられている。特に1975年のモンド映画『スナッフ/SNUFF』は実際のスナッフフィルムとの触れ込みで公開されたことで有名である。また『食人族』(1983年)のように、劇中の映画撮影隊が殺人行為を撮影したり殺されたりする場面をリアルに演出し、さらに誇大宣伝をすることによって本物の殺人映像と思い込ませた例も出現した。日本でも『(猟奇エロチカ 肉だるま)』などカルト的アダルトビデオが存在する。殺人をテーマにしたモンド映画・映像の歴史は『キリング・フォー・カルチャー 殺しの映像』(フィルム・アート社・1998年)に詳しい。テレビや監視カメラが捕らえた殺人現場の映像についても、7章の「Death in the Media」にて数々の記録が載っている。
セクスプロイテーション、ピンク映画の勃興とポルノ解禁
1960年代のアメリカではセクスプロイテーション映画と呼ばれる、独立系映画制作会社による低予算の、お色気女優が性的搾取されるシチュエーションを扱うジャンルが隆盛し、日本でも同様にピンク映画が流行した。『Olga's Girls』(1964年)などSM行為を含むエロ映画もこの頃に多数制作されている。1969年のデンマークを皮切りに、(擬似ではなく)本物の性交を行うポルノ映画が合法となった(ポルノ解禁)。ポルノが合法になる以前からも、スタッグフィルムと呼ばれる非合法のポルノ映画が地下で流通しており、SMポルノ映画もこの頃から制作されていた。デンマークのColor Climax Corporation(1967年〜)は、すぐさま獣姦、飲尿、さらに法律の不備をついて児童ポルノなど様々なジャンルのポルノを制作した。スカトロ行為を行うポルノ動画がいつ頃から登場したかは定かではないが、『HARD GAMES – Klistier Exzess (Anita Feller)』(1980年)やVeronica Moserなどは確認できる初期の例である。1980年代にはイギリスでアニマル・ファームという獣姦ジャンルのポルノ動画がいくつも作成された。中には、ウナギを挿入するものもあった。現在では、動物の権利の観点から、獣姦ポルノは法律で禁止されている国もある。日本のカルト的エログロAVでは、、平野勝之、井口昇、天野大吉、(穴留玉狂)、(アロマ企画)などが後に登場した。
一方、日本国内では1960年代よりテレビの普及に伴い、映画館の観客動員数が減少し、これに対抗した大手以外の独立系映画会社が「テレビでは出来ないこと」としてピンク映画の製作に舵を切り始め、隆盛を極めていた。これに目を付けた東映が『網走番外地』シリーズで知られる映画監督の石井輝男と『くノ一忍法』『893愚連隊』『日本暗殺秘録』で知られる中島貞夫を抜擢し、日本の大手映画会社としては初となるポルノ映画『大奥㊙物語』(監督・中島貞夫)および『徳川女系図』(監督・石井輝男)を製作した。これに手応えを感じた東映と石井は本作より「(異常性愛路線)」を前面に打ち出し、作中にサドマゾ、拷問、処刑などグロテスクな描写を次々に取り入れ、エログロとサディズムの極限を追求した成人映画を立て続けに製作し、和製モンドの一ジャンルを築き上げた。(これら一連の作品)によって石井輝男は国内におけるカルトムービーのパイオニアとしてみなされている。
異常性愛路線は、1968年公開の『徳川女系図』の大ヒットを嚆矢として『徳川女刑罰史』『異常性愛記録 ハレンチ』『徳川いれずみ師 責め地獄』『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』(阿部定が出演)とシリーズを重ねるごとに、その過激さを加速度的にエスカレートさせていくが、1969年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の興行的失敗、併映作『㊙劇画 浮世絵千一夜』の警視庁から東映と映倫に対するわいせつシーンの削除要請、そして警察庁による取り締まり強化宣言などによって60年代末に終焉を迎えることとなる[212]。
その後、エログロ路線が下火になる中、1971年に東京テレビ動画(後の日本テレビ動画)は谷岡ヤスジ原作の劇場用アニメ映画『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』を製作。本作はそれまで子供向けであると言われたアニメの世界にエログロやバイオレンス表現を大胆に取り入れ、強姦や獣姦、幼児姦に近親相姦といったハードコア要素を存分に詰め込んだアブノーマルな世界観に仕上がっており[213]、今日では伝説的なカルトムービーとして一部で再評価されている。しかし、公開前に映倫からのクレームで11カ所がカットされ、主人公がメスゴリラと姦通した後、割腹自殺を遂げるラストシーンは前年の三島事件を連想させるとのことで全面的に撮り直された[213]。そのうえ公開後は全く客が入らず、2週続映が1週で打ち切られ、ほとんどの批評誌からも酷評されるなど興行は大失敗に終わり、本作を最後に東京テレビ動画は解散を余儀なくされた[213]。その後、1984年に(ワンダーキッズ)が中島史雄の三流劇画を原作とした成人向けOVA『雪の紅化粧/少女薔薇刑』を公開するまで国産アダルトアニメは12年半にわたり姿を消すこととなった。
鬼畜系雑誌ブーム
前史
1960年代には反戦フォークなどカウンターカルチャー性を強く持ったコンテンツが多かったが、1970年代以降の学生運動の過激化(特に日本の学生運動に特徴的な内ゲバ闘争)によって支持を失った。そのため日本において「サブカルチャー」と名乗る文化は政治性やカウンターカルチャー性、「何か大義を掲げて運動することそのもの」の否定から生まれ、反政治的でラジカルなニヒリズムがそこに君臨した[214][215]。
自販機本
1976年頃、それまでの出版文化とは全く異なる出自をもつ自販機本が、旧来のエロ本へのアンチテーゼとして突如登場した[216]。自販機本は、街角に設置された自動販売機のみで販売されていたアンダーグラウンドなエロ本で、出版業界の最底辺に属する存在であり[217]、出版取次を介さず自主規制とは全く無縁という自由なメディアでもあった。主力ジャンルは写真誌・実話誌・劇画誌だが、編集者には全共闘世代も多く、既存の枠に収まらない作家や表現が積極的に採用された結果、ニューウェーブ系のサブカル誌が次々に登場した。たとえば『劇画アリス』(アリス出版/迷宮)は、三流劇画ブームの一角を担ったほか、メジャー誌から自販機本に進出した吾妻ひでおは『少女アリス』(アリス出版)に画期的なロリコン漫画を連載する[218]。
このように1970年代末には、既成の出版文化から逸脱したサブカル・アングラ誌が続々と登場し、独自の文化を形成していた。そんな端境期に出現したのが、伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』(エルシー企画→アリス出版→群雄社出版)である。メディアマンの高杉弾と山崎春美(ガセネタ/(TACO))らによって1979年3月に創刊された『Jam』は、20世紀末の日本で花開いた「鬼畜系」の元祖的存在とされた[219][220][221]。特に『Jam』創刊号の爆弾企画「(芸能人ゴミあさりシリーズ)」では、山口百恵の自宅から出たゴミを回収し、電波系ファンレターから使用済み生理用品まで、誌面のグラビアで大々的に公開したことから物議を醸した(雑誌上のゴミ漁り企画は、アメリカ合衆国のアンダーグラウンド・マガジン『WET』〈1976-81〉のゴミ漁り企画が元祖である)。また同誌では、ドラッグ、パンク・ロック、神秘主義、臨済禅、シュルレアリスム、(フリーミュージック)、ヘタウマ(蛭子能収・渡辺和博)などオルタナティブ・カルチャーを縦横無尽に取り上げ、知性と諧謔と狂気が交錯するパンクな誌面を展開した。
1980年代に特異なサブカル誌がエロ本などから出現した背景について大塚英志は「全共闘世代が〈おたく〉第一世代に活動の場を提供する、という形で起きた」と指摘しており[222]、これに関して高杉弾も「あの頃は自販機本の黄金期で出せば売れるという時代だったから、僕らみたいなわけの分からない奴にも作らせる余裕があったんだね。それに編集者は全共闘世代の人が多かったから、僕らみたいな下の世代に興味を持ってくれたんだと思うよ。それで『Jam』や『HEAVEN』を作ったんだよね」と述懐している[223]。その後、自販機本より過激なビニ本の台頭、全国に飛び火したPTAや警察による弾圧運動などで、自販機本は急速に姿を消す。しかしながら『Jam』『HEAVEN』のアナーキーな精神は、アリス出版から分派した群雄社を経て、白夜書房〜コアマガジン系のアダルト雑誌に引き継がれていった[216]。今日『Jam』『HEAVEN』は、伝説の自販機本として神話化されている[224]。
鬼畜系文筆家の草分け的存在である青山正明と村崎百郎も『Jam』の影響を強く受けており、青山は慶應義塾大学在学中の1981年にキャンパスマガジン『(突然変異)』(慶応大学ジャーナリズム研究会→突然変異社)を創刊[注 9]。障害者や奇形、ドラッグ、ロリコン、皇室揶揄まで幅広くタブーを扱い[225]、熱狂的な読者を獲得したものの、椎名誠などなどの文化人から「日本を駄目にした元凶」「こんな雑誌けしからん、世の中から追放しろ!」[226] と袋叩きに遭い、わずか4号で廃刊する。一方の村崎は『Jam』からヒントを得て「鬼畜のゴミ漁り」というスタイルを後に確立する[227]。
三流劇画ブームとロリコンブームの仕掛人で、元アリス出版『少女アリス』編集長の川本耕次は、自販機本周辺のサブカルチャーが1990年代に鬼畜系へと発展した経緯について次のように総括している。
自販機エロ本というのは、それまであったエロ本のタブーをブチ壊し、アナーキーな性欲を街頭に開放することから始まった。既成の出版業界から見れば、鬼畜そのものだ。ロリコンに限らず、性欲に関するあらゆるタブーを打破し、マトモな性欲の持ち主だったら眉をひそめるようなネタを続々と登場させた。それはビニ本に引き継がれ、タブーは次々に破られて行く。それが70年代終わりから80年代前半までのトレンドで、90年代の鬼畜ブームというのは、そんな連中、まぁ、おいらもその典型なんだが、そんな連中を「カッコイイ」と思って憧れていたネクラ少年たちが作り上げたブームなんだろうが、基本は文学少年だったり音楽オタクだったりする文系のお坊ちゃまなので、鬼畜ごっこ[注 10]と呼ぶのが正しい(笑) — オマエが元祖鬼畜系だろうが - ネットゲリラ(2021年7月22日配信)
80年代の猟奇・変態カルチャーとその終焉
1980年代前半には“都市環境が美化された結果、死体が見えなくなったことに対する反逆”として局所的な死体ブームが起こった[230]。写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)に創刊号から連載され、わずか6回で打ち切られた藤原新也の『(東京漂流)』では、ガンジス川の水葬死体に野犬が喰らいつく写真に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャプションが添えられた。これはコマーシャリズムによって異物を排除する志向が広く浸透した、現代社会に対する痛烈なアンチテーゼである。
1982年にはインディペンデント出版社のペヨトル工房が刊行する耽美系サブカルチャー雑誌『(夜想)』5号で死体を通した文明論や異常心理に関する考察をまとめた「屍体─幻想へのテロル」特集が組まれる。1984年にはビー・セラーズ[231] から死体写真集『(SCENE)』(中川徳章・小向一實・芝田洋一選)が出版された[注 11]。これは法医学書や学術書の形を借りずに出版された日本初の死体写真集である。その後、同写真集に触発されたアリス出版編集部は『SCENE』の写真を転載し、自販機本『(EVE)』に根本敬の死体写真漫画『極楽劇場』を連載する(1991年に青林堂から刊行された根本敬初期作品集『豚小屋発犬小屋行き』に収録された)[233]。
その他にも大手出版社の写真週刊誌では、自殺した三島由紀夫や岡田有希子の死体写真、また日航機墜落事故や山岳ベース事件の遺体写真が大写しで掲載された[234]。1985年6月18日には豊田商事会長の永野一男が、約30名の報道陣の前で自称右翼の男に日本刀で刺殺され、その様子が全国の茶の間に生中継された[235]。
1981年には白夜書房がスーパー変態マガジン『Billy』を創刊。当初は芸能人インタビュー雑誌だったが全く売れず路線変更し、死体や奇形、女装にスカトロ、果ては獣姦・切腹・幼児マニアまで何でもありの最低路線を突き進んだ。その後も一貫して悪趣味の限りを尽くし、日本を代表する変態総合雑誌として、その立ち位置を不動のものにしたが、度重なる条例違反や有害図書指定を受け、誌名を変更するなどしたが全く内容が変わっておらず、1985年8月号をもって廃刊に追い込まれた[236]。
また同年には高杉弾、青山正明、蛭児神建[205]らが連載していたロリコン系サブカル雑誌『Hey!Buddy』(白夜書房)の増刊号『ロリコンランド8』が「少女のワレメはわいせつ」として発禁・回収処分となった(読者投稿の犯罪写真や無修正のワレメが当局に問題視された)。本誌『Hey!Buddy』も“ワレメが出せないロリコン雑誌は、もはやロリコン雑誌ではない”として1985年11月号をもって自主廃刊する[237]。その後はバブル時代の到来と共に、鬼畜系は約10年にも及ぶ長い冬の時代を迎えることになった。
モンド・ブーム
90年代には悪趣味ブームと連なる形で、世界的なモンド・ブームが起きた[238]。MONDOとはイタリア語で「世界」を表し[注 7]、未開地域の奇妙で野蛮な風習を虚実ないまぜに記録したモンド映画『世界残酷物語』(1962年)のヒットにより世界中で定着した(原題の「MONDO CANE」は、イタリア語の定句で「ひどい世界」の意)。モンド映画とは世界中の奇習・奇祭などをテーマにした映画で、エログロ満載のショッキングな映像で観客の好奇心を惹きつけておきながら「狂っているのは文明人のほうだ」と、取ってつけたような文明批判や社会批判を盛り込んだ、社会派きどりのモキュメンタリー・猟奇趣味的なドキュメンタリーである。その後、MONDOという概念はアメリカで独自の発展を遂げ、単なる世界から「奇妙な世界」「覗き見る世界」「マヌケな世界」へと語義が変化し[239]、奇妙な大衆文化を包括するサブカルチャーの総称、ないし世間的に無価値と思われている対象をポップな文脈で再評価するムーブメントとして扱われるようになった。
メディアマンの高杉弾はMONDOについて「アメリカのアングラでもサブカルでもない、政治性を持たないマヌケな文化」または「けっして新しくもカッコ良くもオシャレでもないけど、なんだか人間の普遍的なラリパッパ状態を表現する暗号的な感覚」と定義し「ポップでありながら繊細ではなく、間抜けでありながら冗談ではなく、人を馬鹿にしつつも自らがそれ以上の馬鹿となり、ときにはぜーんぜん面白くなかったりもしながら、しかし着実に生き延びていった」と評している[209][239]。
世紀末のモンド・ブームは、モンド映画『モンド・ニューヨーク』(1988年)の公開をきっかけに始まり[239]、通常のディスクガイドでは完全に無視されるような奇妙で特殊な音楽―(モンド・ミュージック)(以下、モンド音楽)のリバイバルで爆発的に広まった。代表的なモンド音楽として、アメリカのファミレス、モール、空港、ホテル、エレベーターで、1960年代〜70年代に流れていたラウンジ・ミュージック(以下、ラウンジ)がある。ラウンジはジャズ・エキゾチカ・エレクトロニカなどの多様なジャンルを巻き込んだ匿名性の高いムード音楽(イージーリスニング)の一種で、明確な輪郭を持った音楽ジャンルではなかったが、こうしたヒットチャートとは無縁の大衆音楽を「見方を変えて面白く享受する様式」そのものが「モンド音楽/ラウンジ」とみなされた。本国アメリカでは、西海岸の独立系サブカルチャー雑誌『RE/Search』の2号にわたる「インクレディブリー・ストレンジ・ミュージック(=信じられないほど奇妙な音楽)」特集の影響、および90年代半ばに若者の流行がグランジからラウンジへ移行したことにより[240]、モンド・ブームは一気に過熱する[241]。特にラウンジは、エキゾチカ[242]とモーグ[243]が二大巨頭とみなされた[241]。1996年には、ビースティ・ボーイズが編集するアメリカのユース・カルチャー誌『(グランドロイヤル・マガジン)』3号でモーグ特集が組まれ、ブームは最高潮に達した[241]。
1995年2月には、ラウンジのみならず、アポロ計画の頃に作られた宇宙もの[注 12]やマイナーなCMソングなど、従来は軽視されてきたムード音楽に新たな解釈や面白さを与え、娯楽的かつ学術的に体系化した書籍『モンド・ミュージック』(リブロポート発行/Gazette4=小柳帝、鈴木惣一朗、小林深雪、(茂木隆行)の共著)が刊行されたことで、この用語は音楽業界にそれなりに定着した[244][238]。また個性的すぎて日の目を見ずに埋もれていったディープな昭和歌謡を80年代から紹介している幻の名盤解放同盟がブームに与えた影響も大きい。迷盤・奇盤の数々を再録した、特殊音楽のコンピレーション・アルバム『幻の名盤解放歌集』(Pヴァイン)シリーズには5000枚以上を売った作品も存在し、廃盤レコードの編集盤としては「破格のヒット」とされる[245]。90年代半ばには幻の名盤解放同盟の紹介で、韓国では下世話とみなされているポンチャックおよび李博士が日本に上陸し、一時的なブームを呼んだ。元ボアダムスの山本精一はモンド音楽について「一言で言ったら変態」「趣味のよい悪趣味」「あくまで無意識」「狙ってないことがポイント」「本人は自分がモンドだなんて決して思ってない」と定義している[2]。
1995年には、メジャー週刊誌『SPA!』9月20日号で「【最低・最悪】モンド・カルチャーの正体」特集が組まれ、モンド・グッズが悪趣味な文脈で過去・現在を問わず横断的に紹介された。また、この頃からMONDOなアート、映画、漫画を紹介するガイドブックも多数刊行され、MONDOは20世紀サブカルを総括するキーワードとして欠かせない存在となった[246]。この時期の代表的なMONDOガイド本としては次のようなものがある。
- オカルト猟奇殺人からブラックメタル、モンドアート、SPKなどのノイズミュージックまで暗黒文化を解説した、メルツバウの秋田昌美著『スカム・カルチャー』(1994年/水声社)
- 国内外のモンド映画を体系化した、映画秘宝ムックシリーズ『悪趣味洋画劇場』『エド・ウッドとサイテー映画の世界』『悪趣味邦画劇場』(1994年〜1995年/洋泉社)
- モンド漫画のガイドブック『(マンガ地獄変)』(1996年〜1998年/水声社)および、宇田川岳夫編『マンガゾンビ』(1997年/太田出版)
- 宇田川岳夫著『フリンジ・カルチャー ―周辺的オタク文化の誕生と展開』(1998年/水声社)
- デヴィッド・ケレケス+デヴィッド・スレイター『キリング・フォー・カルチャー ―殺しの映像』(1998年/フィルムアート社)
MONDOの条件
MONDOを日本に紹介した高杉弾(伝説的自販機本『Jam』『(HEAVEN)』初代編集長)は、MONDOの条件として「間が抜けている」「あまり面白くない」「安っぽい」「組み合わせの妙」「ややスケベ」「脳天気」などを掲げている[239]。また朝日新聞は「キワモノともジャンク(廃品)とも称される作品」「どういうつもりで作ったんだと、思わず製作意図を問いただしくなるような、音楽や映画」「懸命に作って、結局とんでもないものができてしまった、そんな間抜けさが受けている」とMONDOを要約した[245]。渋谷直角はモンド・ブームについて「デザインや作品として特別優れているわけではないが、奇妙だったり味があって良い、おもしろい、という新たな光で照らされた」「今も昔も並列に見て、その時代時代の背景も知りつつ、美しいものばかりじゃないよね、という情緒ごと楽しむ感覚が当時はあった」と評している[238]。
MONDOと見なされるような対象は、主に次の通りである[2][238][239][241]。
- エクスプロイテーション映画(グラインドハウス映画)
- 70年代の『プレイボーイ』
- 月刊誌『ペントハウス』のエログラビア
- アメリカの企業広告やノベルティグッズ
- チャールズ・マンソンのTシャツなど猟奇殺人犯のグッズ
- イームズ・チェアなどの家具
- エド・ウッドのZ級映画
- 目玉芸術集団のザ・レジデンツ
- 秘宝館(蝋人形館)の展示物
- パチンコ店の派手な看板
- ラブホテルの奇妙なインテリア
- 新聞や雑誌の誤植
- 街で見つけたヘンなもの(変な名前の店、飛び出し坊や、超芸術トマソンなど)
- ひょっとこ(高杉弾によるMONDOの超訳)
- ディープな昭和歌謡、(パチソン)、ポンチャック
- (高円寺バロック)のモンド・グッズ
- (オウムソング)(代表曲に『尊師マーチ』など)
- Mondo Mediaのフラッシュアニメ(代表作に『Happy Tree Friends』『Dick Figures』など)
- 特殊漫画(ガロ系)[注 13]
- 著作権を無視したMADムービーやFlashムービー、あるいはエルサゲート
なお『モンド・ミュージック』のスタッフは、MONDOを次のように分類している。「MONDOにも2種類ある。意図せずしてMONDO(と呼ばれるよう)になってしまったものと、始めから意識的にMONDOをやっているものと」[248]。いずれにせよ、MONDOという概念は、受け手に共有される徹底的な(面白主義)の立場に由来しているといえるだろう[244]。
MONDOを取り巻く関連用語には「無意識過剰」「奇想天外」「天然」「不思議」「電波系」「へんてこ」「まぬけ」「ディープ」「B級」「(Z級)」「ポップ」「チープ」「トラッシュ」「ローファイ」「スカム」「キッチュ」「(ビザール)」「キャンプ」「フリーク」「ウィアード」「ストレンジ」「クィア」「エキゾチカ」「バッド・テイスト」などがある(いずれも世紀末に再注目された)[239]。特に「MONDO」は90年代にスノッブな若者言葉として一部で流通した。林雄司は「モンドな感じだよね、って言っておけば何となく意味ありげな感想を述べたような気になれた」と回想している[249]。
全盛期
青山正明らの登場
1992年に青山正明が上梓した日本初の実用的なドラッグマニュアル『(危ない薬)』(データハウス)は10万部を超えるヒットとなり[250]、1993年に鶴見済が発表した単行本『完全自殺マニュアル』(太田出版)はミリオンセラーを記録する[251]。
1994年には『Billy』元編集長の(小林小太郎)が奇形&死体雑誌『(TOO NEGATIVE)』((吐夢書房))を創刊。同誌では死体写真家の釣崎清隆を輩出し、画家のトレヴァー・ブラウンが起用された。また同年には初代『SCENE』編集者の芝田洋一によって(アルバロ・フェルナンデス)の写真集『(SCENE―屍体写真集 戦慄の虐殺現場百態)』(桜桃書房)が発刊され[232]、定価1万5千円で2千部を売り上げた[252]。
周辺文化研究家のばるぼらは、これら『危ない1号』以前の「悪趣味」について、どこかフェティッシュで学術的な内容が強い「外部からの視点」のものであるとし、村崎百郎の定義した鬼畜的な行為あるいは妄想に「娯楽性」を見出す積極的意識こそが『危ない1号』以降の「鬼畜系/鬼畜ブーム」の本質であることを指摘している[251]。
またエロティシズム文化に詳しい伴田良輔は「悪趣味」の起源そのものは「キッチュ」「マニエリスム」「バロック」「グロテスク」といったヨーロッパ文化にあると指摘し、それが大量消費時代を迎えた1950年代以降のアメリカで「モンド」「スカム」「キャンプ」「(ビザール)」「ローファイ」「バッド・テイスト」に発展し、それが米国での流行の経緯とは無関係に日本で新しい意味や機能が付け加えられて蘇ったと解説している[253]。ただし、伴田の定義する「悪趣味」とは、ある範囲の事物に共通して見られる「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」の類型的特徴を意味しており、最初から「悪趣味」とされるものを享楽的に消費する、あるいは露悪的なスタイルを積極的に志向するような「鬼畜系」は含まれていない。
転機─1995年
1990年代中頃になると鬼畜系サブカルチャーが鬼畜ブーム・悪趣味ブームとして爛熟を迎え、不道徳な文脈で裏社会やタブーを娯楽感覚で覗き見ようとする露悪的なサブカル・アングラ文化が「鬼畜系」または「悪趣味系」と称されるようになった[254]。
「鬼畜系」という言葉自体は、1995年7月に創刊され「鬼畜ブーム」の直接的な引き金となった『危ない1号』((東京公司)編集/データハウス発行)周辺から生まれた1990年代の特徴的なキーワードおよびムーブメントであるが、すでにバブル景気が崩壊した1993年頃から自殺や死体など「危ない書籍」に大衆的な注目が集まるようになっていった[251][255]。
青土社発行の芸術総合誌『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」では文学や映画、アートにファッションなどあらゆるカルチャーにキッチュで俗悪な「悪趣味」という文化潮流が存在することが提示され、これを境に露悪趣味(バッド・テイスト)を全面に押し出した雑誌やムックが相次いで創刊され一大ブームとなる。また同年6月には海外タブロイド誌『Wilkly World News』をモチーフとした世紀末B級ニュースマガジン『GON!』(1994年4月創刊)がコンビニ向けに月刊化された。
このブームを代表する1995年7月創刊の鬼畜系ムック『危ない1号』((東京公司)/データハウス)では史上初のカルトグル、ハッサン・イ・サバーの「真実などない。すべては許されている」という言葉が引用された。ハッサンとは、11世紀に登場したニザール派(イスラム教シーア派の分派・イスマーイール派の一派)の開祖として知られ、暗殺教団アサシンを率いてイランからシリア全土の山岳地帯に要塞を築いたといわれる。このフレーズの確認できる初出は、シルヴェストル・ド・サシの中東の宗教研究書『Exposé de la religion des druzes(1838)』に類似のフレーズがあり、グスタフ・フリューゲルのアラビア語文法研究書『Die Grammatischen Schulen der Araber (1862)』では全く同一のフレーズが登場する。そして、ニーチェが『道徳の系譜(1887)』の中でアサシン団の「至高の自由精神」として引用したことで有名となった。さらに、Betty Bouthoulの『Le grand maître des Assassins(1936)』[256]やウラジーミル・バルトルの『アラムート(1938)』でハッサンの言葉というストーリーが一般化された。しかし、この言葉がハッサンによるものという歴史的な証拠があるわけではない[257]。前述したハッサンの言葉は、高杉弾や村崎百郎にも多大な影響を与えたウィリアム・バロウズの座右の銘[注 14][260][261]となり、クローネンバーグ監督『裸のランチ』(1991)でも引用されたことで有名になった。また『危ない1号』でも「すべての物語は等価」という価値相対主義を正当化する目的でハッサンの言葉は次のように解釈された。
「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」(史上初のカルト・グル、ハッサン・イ・サバーの言葉)全ての物事には、数え切れないほどの意味やとらえ方、感じ方などがある。例えば、自殺。これを「悲しいこと」「負け犬がすること」とみなすのは、無数にある“自殺のとらえ方”のほんの一部に過ぎない。この世には、祝福されるべき自殺だってあるのだ。
あらゆる物事は、その内に外に、無数の“物語”を秘め、纏っている。『危ない1号』では、これら無数の物語の中から、他の本や雑誌ではあまり語られない物語だけを選びだして語るようにした。さらにその際、一つの物事が含み持つ無数の物語の全てを“等価”と考えるように心掛けた。〔……〕
この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に“数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。
妄想にタブーなし!
―東京公司[6]
まず『危ない1号』の中で使った鬼畜という意味なんだけど、これは世界で初めてカルト集団を作ったハッサン・イ・サバーと言う人物がいて、この人は、ドラッグとセックスで信者に天国を見せておいて、もう一度天国を見せてやるからお前らの命をくれみたいなこと[262] をしたんですが、その人の言葉に「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」って言うのがあるんです。それって、ある程度正論なんですよ。たとえば後ろから殴るのは正義に反すると言うけど、誰だって、後ろから突然殴られたくない。だから、私も後ろから殴らないから、あんたも後ろから殴らないでねって言う弱気の正当化でしかない。そんな情けない正義や道徳なんかにこだわらず、もっとオープンマインドで生きようって言うことを読者に提示したかったんです。 — コアマガジン『(世紀末倶楽部)』第2巻、1996年、198-201頁「ゲス、クズ、ダメ人間の現人神『危ない1号』編集長の青山正明氏に聞く!」(聞き手/(斉田石也))
『危ない1号』では「妄想にタブーなし」を謳い文句に「鬼畜系」を標榜し、ドラッグ・強姦・死体・ロリコン・スカトロ・電波系・障害者・痴呆・変態・畸形・獣姦・殺人・風俗・読書・盗聴・テクノ・カニバリズム・フリークス・身体改造・動物虐待・ゲテモノ・アングラサイト・カルト映画・カルト漫画・ゴミ漁り・アナルセックス・新左翼の内ゲバ・・青山正明全仕事まで、ありとあらゆる悪趣味を徹頭徹尾にわたり特集した。鬼畜・変態・悪趣味が詰め込まれた同誌はシリーズ累計で25万部を超える大ヒットとなり[注 15]、初代編集長の青山正明は鬼畜ブームの立役者とみなされた[254][265]。
ロマン優光は『危ない1号』とそれ以前の悪趣味の違いについて次のように述べている。
『危ない1号』第2巻が刊行される一年前である95年にユリイカ臨時増刊『総特集・悪趣味大全』(青土社)が刊行されており、現在よりはるかに硬めでハイカルチャー寄りの性質だった『ユリイカ』が特集を組んでしまうくらい、悪趣味系自体が当時のサブカルチャーの中の一つの大きなムーブメントであったわけですが、そこの中での差別化を図るために使われたフレーズが鬼畜だったということだと思います。『危ない1号』第2巻のテイストは非常に露悪的なものであり、その意図された露悪的でゲスい視点にオリジナリティがあったことで、それ以前の悪趣味文化との差別化に成功していました。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、11-13頁。
結果として『危ない1号』は鬼畜本ブームの先駆けとなり、次に掲げるような後発誌も続々と現れた。
- 『BURST』 - 1995年9月創刊。死体写真・タトゥー・スカトロ・違法薬物・身体改造などの先鋭的なカルチャーやバッドテイストを扱った、平成時代を代表するカウンターカルチャー誌である。派生誌に『TATTOO BURST』『BURST HIGH』『BURST Generation』がある。コアマガジン発行。
- 『週刊マーダー・ケースブック』 - 全世界の特異な殺人事件を扱う海外の週刊誌。日本語版は1995年10月創刊。監修は精神科医の作田明。1997年8月の終刊まで全96号を刊行した。(省心書房)→デアゴスティーニ・ジャパン発行。
- 『(世紀末倶楽部)』 - 1996年6月創刊。土屋静光編集。テーマは死体、フリークス、殺人鬼、見世物、解剖、レイプ、暴力、病気、事故、戦争、宗教儀式、法医学、胎児などで当時の悪趣味ブームの集大成的内容となっている。創刊号は1冊すべて「チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件」特集。コアマガジン発行。
- 『BUBKA』 - 1997年1月創刊。コアマガジン→白夜書房発行。創刊当初は先行誌『GON!』(ミリオン出版)の典型的な亜流誌だったが、のちに鬼畜系からアイドル雑誌に転向した(鬼畜系路線は兄弟誌『裏BUBKA』『実話BUBKAタブー』を経て『実話BUNKAタブー』に継承された)。
- 『BAD TASTE』 - マイノリティを主眼に置いた悪趣味雑誌。フロム出版/東京三世社発行。
- 別冊宝島シリーズ
- 別冊宝島228『死体の本―善悪の彼岸を超える世紀末死人学!』
- 別冊宝島250『トンデモ悪趣味の本―モラルそっちのけの,BADテイスト大研究!』
- 別冊宝島281『隣のサイコさん―電波系からアングラ精神病院まで!』
- 別冊宝島356『実録!サイコさんからの手紙―ストーカーから電波ビラ、謀略史観まで!』
このように鬼畜/悪趣味を前面に押し出した雑誌・週刊誌・月刊誌・隔月刊誌・ムック・単行本が相次いで出版されるようになり、ますますブームの過熱を煽っていった[19]。
鬼畜系/電波系ライター・村崎百郎の登場
村崎百郎は『月刊漫画ガロ』(青林堂)1993年10月号の幻の名盤解放同盟のフィールドワーク特集「根本敬や幻の名盤解放同盟/夜、因果者の夜」でメディアに初登場後、1995年からは「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」ために「鬼畜系」を名乗り、この世の腐敗に加速をかけるべく「卑怯&卑劣」をモットーに日本一ゲスで下品なライター活動をはじめると宣言[267]。同年4月刊行の『ユリイカ臨時増刊号/悪趣味大全』において鬼畜系・電波系ライターとして本格的にデビューした後、青山正明と共謀して鬼畜本ブームの先駆けとなった『危ない1号』の編集・執筆に参加する。
翌1996年1月10日には『危ない1号』周辺のライターが総出演した、鬼畜系・悪趣味ブームの幕開けとなるトークイベント『鬼畜ナイト』が新宿ロフトプラスワンで開催された[18]。主催者は村崎百郎が務め、大麻取締法違反で保釈されたばかりの青山正明が一日店長を務めた。このイベントには根本敬、佐川一政[268]、柳下毅一郎、夏原武、釣崎清隆、宇川直宏、石丸元章、クーロン黒沢、木村重樹、吉永嘉明など30人以上の鬼畜系文化人が登壇し、キャッチコピーにある通り「誰もがいたたまれない気分に浸れる悪夢のトークセッション」を繰り広げた。イベントの模様は『鬼畜ナイト 新宿でいちばんイヤ〜な夜』(鬼畜ナイト実行委員会+(東京公司))としてデータハウスから同年8月に書籍化され、7万部を売り上げる[269]。また、この成功は創業まもない新宿ロフトプラスワンの名を世に広く知らしめるきっかけとなった。
1996年7月には、村崎百郎の処女単行本にして唯一の単著『鬼畜のススメ 世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! みんなで楽しいゴミ漁り』(データハウス/(東京公司))が青山正明の監修で刊行された[270]。本書では、他人のゴミを漁ってプライバシーを暴き出すダスト・ハンティング(霊的ゴミ漁り)が紹介されている。村崎はまえがきで本書のテーマを次のように語った。
徹底的に己の欲望に正直にさし向かい、本当に自分がやりたいのは何なのか、よく考えてみるがいい。/人は人としてこの世に生まれた限り、好きなことを好きなようにやるべきだ。/やりたくないことは、命をかけてもやらない。そんな生き方ができるなら、それだけでもたいしたもんだ。人はそういう生き方でも充分救われる。/まずは自分の中の、外に向かって取りつくろっているウソを一枚ずつ引きはがして潰していけ。そうやって少しずつ身軽になって人生を楽しめ。楽しくなけりゃあ人生なんてウソだからな。/己の欲望に忠実に・徹底的に利己的であれ。この本はそんな鬼畜的生き方の入門書として、俺の趣味のひとつである「楽しいゴミ漁り」を解説したものだ。/これだけは保証しよう。想像力や妄想力を働かせながら漁ったゴミと対話を続ければ、あんたらは必ず深い「他者理解」や「人間理解」が得られるだろう。/何をやるにしても「人間」を理解することは共通の基本テーマであるはずだ。やりたいことを貫きたい人間はまず、「人間」を深く学ばねばならない。/「たかがゴミ漁り」からどれだけのことが学べるか。それが本書のテーマである。 — 村崎百郎『村崎百郎のパンデミック時代を生き延びろ! (1)「鬼畜のススメ」世の中を下品のどん底に叩き墜とせ!!』より一部省略して引用(百郎文庫, 2020年7月, Kindle版, 位置No.全3934中 19-89 / 1-2%)
『鬼畜のススメ』刊行の2ヶ月後、村崎百郎は「電波系」にまつわる体系的な考察を行った単行本『電波系』(太田出版)を特殊漫画家の根本敬との共著で1996年9月に上梓した。これは『SPA!』1995年11月1日号の特集「電波系な人々大研究──巫女の神がかりからウィリアム・バロウズ、犬と会話できる異能者まで」に掲載された対談記事をもとに、膨大量の語り下ろし談話を加味して単行本化したものである。村崎は『電波系』のあとがきでも次のように語っている。「だから、もう電波に対してそんなに真剣に悩まなくてもいいんだ。好きに生きろよ」[271]。
時代背景
鬼畜・悪趣味ブームの背景および歴史変遷は後述のとおりである。
- ばるぼらは鬼畜ブームについて「95年に創刊した『危ない1号』(データハウス)を中心に流行した、死体や畸形写真を見て楽しんだり、ドラッグを嗜んだりと、人の道を外れた悪趣味なモノゴトを楽しむ文化」と定義し、「元々『完全自殺マニュアル』のベストセラー化をきっかけに『死ぬこと』への関心が高まり、死体写真集などの出版で『死体ブーム』とでも言うべき状況があったが、同じ頃『悪趣味ブーム』も並行して起こり、それらの総称として現れたキーワードが『鬼畜』だった。『危ない1号』の編集長、青山正明氏の出所記念イベント『鬼畜ナイト』(96年1月10日)が“鬼畜”のはじまりかと思う」と解説している[19]。
- 雑誌『(宝島30)』で根本敬の連載『(人生解毒波止場)』を担当した町山智浩は、90年代の鬼畜系について「80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りがあった」「オシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化[注 16]へのカウンターだった」という見解を示しており[272][273]、根本敬と村崎百郎が「すかしきった日本の文化を下品のどん底に突き堕としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど、当時の日本文化は「健全で明るい抑圧的なオシャレ」ないし「偽善のファシズム」に支配されていたと述懐している[274][275]。これに関して『SPA!』編集部も「それまで日本に蔓延していた軽薄短小なトレンディ文化に辟易していた人々の支持を集めた」と当時の鬼畜ブーム特集で指摘している[20]。
- 石丸元章も鬼畜系の背景としてあるのは「バブル期に生まれた80年代のカルチャー」と指摘している。石丸いわく「バブルの恩恵を受けられず、貧しいまま80年代を過ごした若者たちの復讐のカルチャー」として、ゴミ漁りやドラッグなど公序良俗に反する「鬼畜系」が花開いたとしている。また彼らが復讐の対象としたのは、糸井重里の「おいしい生活」に代表されるような、80年代以来の軽薄きわまりない消費文化であったとしている[18]。
- 当時右翼活動家でブームに耽溺していた雨宮処凛は、鬼畜系が「生き辛さを抱えている弱者やマイノリティへの救済」になっていたとして次のように自己分析した。
鬼畜系にハマる私たちは「幸せそうな」人々を勝手に敵視していて、世を呪う言葉を存分に交わすことができた。そうやって発散することで、自分という犯罪者予備軍を犯罪者にせず社会に軟着陸させているような感覚は確実にあった。当時、なぜあれほど鬼畜系カルチャーにハマっていたのかと言えば、「表」の健全できれいな社会には、自分の居場所なんてないと感じていたからだった。〔……〕あの時期、ある意味で私は鬼畜系カルチャーに命を救われていた[276]。
- 『危ない1号』に寄稿した北のりゆきは、元新左翼の立場から以下のように述べている。
昭和20年ごろに生まれた団塊の世代と呼ばれる人たちは、学生になると大学の校舎を占拠して機動隊に投石したり、ドロップアウトして女の子と下宿で同棲をはじめたりと自堕落な生活を送っていました。今から30年ほど前、1970年前後のことです。結婚前にセックスをしてもよいことになったり、LSDやマリファナが有名になったり、バクダンがポピュラーになったのもこの世代の人たちの功績(?)なのです。
オレはこの時代が大好きですっかりあこがれてしまい、バブル景気のころは時代遅れのヘルメットと覆面スタイルでデモに参加して機動隊とこぜりあいを繰り返したものでした。そうして危険文書に出会い、収集をはじめたのです。将来の武装闘争の参考になる(笑)などと理屈をつけていましたが、今から考えると単にあやしげで、いかがわしくて、青臭くて、キケンで、ドロドロと臭ってくるような危険文書が、好きだっただけなのかもしれません。[278]
- カルト的なサブカル雑誌『HEAVEN』でデビューした香山リカは、ポストモダンなサブカル文化について「すべての表象から文脈や歴史をはぎ取って相対化し、権威や規範にとらわれず、自分はどこにもコミットしないまま、“ひとつの主義主張と距離を置けなくなる人”には冷笑的な態度を取り、ひたすら心地よさやおもしろさを追い求め、それ以上、何かを問われそうになったら、『そんなの何もわからないよ』と未成熟な子どものように逃げ出すという性質を帯びたもの」と自己批判している[279]。
- またロマン優光はオウム真理教事件や阪神・淡路大震災などの影響で「たいした根はないけど変な終末『気分』になっていた人が増えていた」という状況にも触れ、「金銭や名誉、勉強やスポーツ、地道に文化を身につけるといったことから落ちこぼれたり、回避したりしながらも、他人との差異をつけたがるような自意識をこじらせた人たちが他人と違う自分を演出するためのアイテムとして、死体写真を使うようになった」と分析し、こうした潮流は自販機本に出自を持つアングラなサブカルチャーを踏まえた界隈にも流れこんでいったとしている[280]。
前述したように『危ない1号』が創刊された1995年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などの重大事件が立て続けに発生しており、それらに起因する一連の社会現象が悪趣味ブームと深く関わっているとされる[281]。特に1995年は「インターネット元年」[282] と呼ばれるように社会環境が大きく移り変わっていった激動の年でもあり[281]、宮沢章夫はこれらの事象による社会の混乱や不安定な情勢が、ある種の世紀末的世界観や終末的空気感を醸し出している悪趣味ブームの土壌になったことを指摘している[281][283]。また宮沢は自身が講師を務めるNHK教育テレビの教養番組『ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ』の最終回(2016年6月19日放送)において1995年を「サブカル」のターニングポイントと定義し、根本敬や村崎百郎をはじめとする90年代の鬼畜系サブカルを取り上げている[281]。
ヘイトスピーチの源流説
2010年代になり、レイシストをしばき隊の野間易通から鬼畜系批判が提起された。野間は、『危ない1号』などで青山正明が提唱した「すべての物語は等価」という社会構造の非対称性を無視する試みについて、ポストモダン以降の「大きな物語(戦後民主主義と高度経済成長に支えられた、社会全体で共有される統一的な価値観)の終焉」を可視化する目的があったと分析し、このような価値相対主義が“正義”をも相対化した結果、あらゆる道徳が価値を持たなくなり、それが現在のヘイト文化に継承されてしまった可能性を指摘した[3]。
野間と対立しているファシストの外山恒一も『危ない1号』が冷笑主義の系譜であることには同意見であり、「“宝島”系よりコアなサブカルの潮流があって、それは『ガロ』的なものと親和性があると思う。」「そういう“趣味”の連中って、本人は少数派でマニアックなセンスの持ち主だと思い込んでるんだろうけど、そんなもん典型的な多数派のメンタリティでしょ。反撃してこないと分かってる相手をからかって楽しむっていう、単なる“いじめ”のノリにすぎない。まさに“堕落したサブカル”だよ。」「野間さんが批判的なレッテルとしてよく“冷笑主義的相対主義”って云うじゃん。野間さんが批判すべきなのは相対主義ではなく冷笑主義のほうだと思うんだ。冷笑主義はたしかにヘイトスピーチの蔓延と関係ある。」と批判的見解を述べている[284][285]。
青山の「すべての物語は等価」という試みについてロマン優光は「失敗に終わった」として次のように総括している。
概念としては素晴らしいですよ。優劣をかってに決める社会に対して、優劣など存在しないということを言っているわけですから。この文章には感銘を受けた覚えはあります。しかし、全てが等価値だからといって、何をやってもいいということとは違うわけです。筒井康隆氏はフィクションとして、それをやっていたのですが、青山正明氏は現実をストレートに素材にしており、フィクションであるというワンクッションが置かれていないためにストレートに取られやすく、はるかに毒性に関しては強かったわけで。
彼は無邪気でした。そして、内面には良識というものがしっかり存在していました。無邪気にその良識に逆らって反語的に遊ぶゲームに興じていただけなのだと思います。しかし、その無邪気さと良識ゆえに、世の中には良識が備わっていない人間が存在すること、そういう人間が自分の悪ふざけを本気にして真似しだしたらどうなるかということが想像できていなかったのです。それは悲劇でもあり、失敗でもあります。その結果起こった出来事は、繊細なインテリであった氏にとっては、大きなストレスになったでしょう。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、38-39頁。
鬼畜系雑誌の終焉〜2ちゃんねる開設
鬼畜系雑誌の衰退
1997年には『危ない1号』『(週刊マーダー・ケースブック)』愛読者の酒鬼薔薇聖斗が神戸連続児童殺傷事件を起こし[286]、悪趣味系のサブカルチャー書籍を棚から撤去する書店が続々と現れた[287]。1999年5月には「ハッキングから今晩のおかずまで」を手広くカバーする日本最大級の匿名掲示板「2ちゃんねる」が西村博之によって開設され、鬼畜系のシーンは出版文化からインターネットに移行・拡散する形で消滅した。時期を同じくして鬼畜系/悪趣味系に属するサブカルチャー雑誌の廃刊や路線変更が相次ぎ、1999年の『危ない28号』廃刊をもって悪趣味ブームは完全に終焉を迎えた。
『ニッポン戦後サブカルチャー史』(Eテレ)の講師である宮沢章夫は『危ない1号』以降の青山正明の迷走について次のように述べている[283]。
おそらく『危ない1号』において青山が発したメッセージの「良識なんて糞食らえ!」にしろ「鬼畜」という概念にしろ「妄想にタブーなし!」にしろ、すべて「冗談」という、かなり高度な部分におけるある種の「遊び」だったはずだ。しかし、良識派に顰蹙をかうのは想定内だっただろうが、一方で冗談が理解できずにまともに受け止めた層が出現したのは想定外だったということか。2ちゃんねる(のごく一部)、ネットにおけるある種の層に直線的に浸透し、しかも、遊びではなく本気でそれをする者らが現れたと。
村崎百郎の師匠筋にあたるペヨトル工房主宰者の(今野裕一)も村崎百郎の存在意義が2ちゃんねるの台頭により喪失したことを次のように指摘した。
あの頃、ああいう悪意というものの存在を世の中にリードするような位置に彼(村崎百郎:引用者注)はいたんだと思う。彼が出てきてから数年後に2ちゃんねるのような剥き出しの悪意がそのまま出てくるメディアが現れる。この現状は、彼をものすごく書きにくくさせてたんじゃないかと思う。その意味で、もう村崎百郎の仕事は一旦区切りをつけて、新しい仕事に移行しなきゃいけなかった……違う形で脱皮して、あいつの書く姿勢が変わってくればよかったんだけど。あと、あいつはどちらかというとライターよりは編集者の資質が勝っていた気がするんだよね。電波にしろ鬼畜にしろ「これからはこの辺のものがくるぜ」ってセッティングして、その果てに『危ない1号』とかあったわけでしょう。あれが2ちゃんねるの登場によって、雑誌としてやることではない、普通の人間がやるものに変わってしまった。みんながやってしまうものを黒田(一郎。村崎百郎の本名:引用者注)がやってもしょうがないので。 — 今野裕一インタビュー「村崎百郎が唯一、言うことを聞く、怖がる人間が僕でした」『村崎百郎の本』アスペクト、118-119頁、2010年。
青山と交友があったデザイナーの(こじままさき)も鬼畜系コンテンツが飽きられた理由に関して同様の理由を次のように述べている。
昔はネットがなかったから、すべての情報には希少価値があって、ゲスなもの、社会から隠されてるものは人気が出た。でも本人(青山正明:引用者注)がそういうのが本心から好きだったとは思えないんです。比喩に出すんですが、人前で「てのひら」って言っても反応しないけど、「チンコ」「ケツの穴」っていうと反応するじゃないですか。それだけだと思うんですよね。僕はそれだけなんです。社会が隠そうとしてるものを表に出すから面白かっただけで、そのものに対する興味が、ってなるとそんなでもない。グロ画像をネットで自由に見られるような時代になったら、もう何の興味もないってことだと。〔……〕でも彼についての評価は、あの時代だったからってことはないと思いますよ、今読んでもクオリティはあるし、時代で消費されるようなものは作ってない。時代のあだ花と言われるのは心外です。でも説明は難しいですね、知らない若者に。 — ばるぼら「ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第84回 こじままさきインタビュー part3」(2010年6月13日配信/大洋図書Web事業部・WEBスナイパー)
一方で石丸元章は「神田の三省堂書店の二階の便所の個室が伝言板になっていた時代もある」として当時の「便所の落書き」2ちゃんねるを好意的に評価し、アングラが廃れたのは、堀江貴文のようなインターネットビジネスマンが路地裏だったインターネットを表通りにしてしまったことが大きいと考えている。
石丸:00年代以降はホリエモンを筆頭に、ネット発の起業家がたくさん登場して、「ネットでお金を稼ぐ」ということに世間の関心が集まっていきました。そしてそれこそが価値であるということになった。今に至ってもそうです。しかし、ホリエモンにしても、自分はまったく面白いと思わないんです。〔……〕
石丸:それでいうと、自分はひろゆきは意外でしたね。彼はビジネスの人じゃなくて、松永さんとかと同じ類の人間だと思ってましたから。それが、いまや立派な金儲けの人になってる。
松永:どうでしょう。あめぞうがピンチに陥ったときにまったく同じようなシステムを作ってできたのが2ちゃんねるですからね。ある意味では最初からマネタイズの人だったようにも思います[288]。
青山正明の自殺 (2001年)
2001年6月17日、青山正明は自宅で首を吊って自殺した[289]。
ともに鬼畜ブームを牽引した村崎百郎は、彼の訃報に際して次の文章を雑誌に寄稿している。
“サブカルチャー”や“カウンターカルチャー”という言葉が笑われ始めたのは、一体いつからだったか? かつて孤高の勇気と覚悟を示したこの言葉、今や“おサブカル”とか言われてホコリまみれだ。シビアな時代は挙句の果てに、“鬼畜系”という究極のカウンター的価値観さえ消費するようになった。「──鬼畜系ってこれからどうなるんでしょう?」編集部の質問に対し、単行本『(鬼畜のススメ)』著者であり、青山正明氏とともに雑誌『危ない1号』で“電波・鬼畜ブーム”の張本人となった男・村崎百郎の答はこうだった。鬼畜“系”なんて最初からない。ずっと俺ひとりが鬼畜なだけだし、これからもそれで結構だ。
次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ。
俺の提示した“鬼畜”の定義とは「被害者であるよりは常に加害者であることを選び、己の快感原則に忠実に好きなことを好き放題やりまくる、極めて身勝手で利己的なライフスタイル」なのだが、途中からいつのまにか“鬼畜系”には死体写真やフリークスマニアやスカトロ変態などの“悪趣味”のテイストが加わり、そのすべてが渾然一体となって、善人どもが顔をしかめる芳醇な腐臭漂うブームに成長したようだが、「誰にどう思われようが知ったこっちゃない、俺は俺の好きなことをやる」というのがまっとうな鬼畜的態度というものなので、“鬼畜”のイメージや意味なんかどうなってもいい。
〔……〕ドラッグいらずの電波系体質のためドラッグにまったく縁のない俺だが、それでも青山の書いた『(危ない薬)』をはじめとするクスリ関連の本や雑誌のドラッグ情報の数々が、非合法なクスリ遊びをする連中に有益に働き、その結果救われた命も少なくなかったであろうことは推測がつく。こんな話はネガティヴすぎて健全な善人どもが聞いたら顔をしかめるであろうが、この世にはそういう健全な善人どもには決して救いきれない不健全で邪悪な生命や魂があることも事実なのだ。青山の存在意義はそこにあった。それは決して常人には成しえない種類の“偉業”だったと俺は信じている。 — 村崎百郎「非追悼 青山正明──またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み」太田出版『アウトロー・ジャパン』第1号 2002年 166-173頁
当時、ペヨトル工房をやめて、フラフラしてたとこに青山正明から「新雑誌をやるんで」と声をかけられて、彼らが「ごきげん&ハッピー系」を念頭に置いて作っていたさわやかな麻薬雑誌に、ゲスで下品で暗黒文化を無理矢理ねじこんで、気づくと、読むとイヤな気持ちになる雑誌にしてた(笑)。しまいにゃ「鬼畜系」ってキャッチ・コピーまでつけて出させたのが『危ない1号』。あの頃は記名じゃない記事も書きまくってて、2号目なんて鬼畜記事の3分の1くらいはオレが書いてた。あと、酒鬼薔薇事件というのもあったけど、酒鬼薔薇は『危ない1号』の創刊号を読んでるんだよ。オレの犬肉喰いの記事も読んでるね。酒鬼薔薇が出した年賀状のイラストっていうのが、『危ない1号』の裏表紙に使われたLSDの紙パケのイラストの模写だったから。
賛否両論あったけど『危ない1号』は一応受けて、雑誌も売れて抗議も殺到。おかげで「鬼畜系編集者」の烙印を押された青山が鬱になって、この件も彼の自殺を早めた大きな要因だって、青山の周辺からはずいぶん恨まれました。謝って許されることじゃないから謝らないけどね。今でも悪かったとは思ってるよ。青山の名誉のためにも言っとくけど、青山は鬼畜とは対極にある本当に優しくて親切な良い人でした。彼の雑誌を「鬼畜系」にねじまげてしまったのは全てオレのせいです。他の連中に罪はありません。 — 村崎百郎インタビュー「今こそ『鬼畜』になれ! 『アングラ/サブカル』が必要なわけ」『STUDIO VOICE』2006年12月号特集「90年代カルチャー完全マニュアル」INFASパブリケーションズ、70-71頁所載。
青山の没後、村崎百郎が明かしたのは、実際に『危ない1号』に関わった人間で本当に「鬼畜」な人間は、村崎本人以外に誰もいなかったという解釈である[251]。これについてばるぼらは「実際に『危ない1号』に関わった人間は、青山も含め鬼畜のポーズを取っていただけであって、つまり鬼畜ブームは実質、村崎一人によって作られたといえるだろう。ただ当時は『危ない1号』は鬼畜な人間が集まって作った、サイテーでゲスな雑誌であるというイメージ戦略によって売り出され、そして結果的に成功した」と解説している[251]。
その後、カウンターカルチャーあるいはムーブメントとしての実体を失った「鬼畜系」は、負の側面も含めて村崎が単独で引き受ける形となった。しかし、インターネットの加速的な普及に伴う出版不況によって、70年代末の自販機本から胚胎した「鬼畜系」は自然淘汰されていく。それでもなお、村崎はサイバースペースにおける「言語ウイルス」[注 17]に抵抗を続け[230]、ネット文化とは全く無縁の位置で「鬼畜系」を名乗り続けた。だが、村崎は同じギミックを芸風として使い続けた結果、自己模倣を繰り返して迷走する。これについてロマン優光は著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)で次のように推察した[293]。「それでも村崎氏が鬼畜の看板をおろさなかったのは、青山氏の死に対する思いからかもしれません」[294]。
村崎百郎の刺殺 (2010年)
2010年7月23日、村崎百郎は読者を名乗る男に東京都練馬区の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされて殺害された。当初犯人は特殊漫画家の根本敬を殺害する予定であったが、根本が不在だったため『電波系』(太田出版)の共同執筆者であった村崎の自宅に向かったという[295]。
男は犯行動機について「村崎の書いた本にだまされた」と供述し、住所は2ちゃんねるで調べたとした[296]。その後、犯人は精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となり、精神病院に措置入院となった[297]。
2010年11月、村崎本人が遺した文章や関係者の証言などから綴った鬼畜系総括の書『村崎百郎の本』がアスペクトから刊行された。
90年代鬼畜系の総括
2010年代以降はSNSを中心に鬼畜系の功罪が論じられるようになったが、その強烈な語感からイメージのみが先行し、当時を知らない層には政治的な正しさの観点から必要以上に悪く思われ、否定的に扱われる節もある[274][298]。
90年代サブカルについて無責任な放言が跋扈することに強い危惧を持ったロマン優光は「90年代サブカルという特殊な文化を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射ていないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです」[299]と述べ、2019年に著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)を上梓した。この中でロマンは鬼畜系サブカルの出自と存在意義、および文脈が失われた過程と、語義上の留意点を次のように総括した。
90年代というのは不思議な時代です。〔……〕建前が道徳的な機能を失っているのに、それはなかったことにして表面上だけ建前を優先する世界。綺麗事が蔓延し、綺麗なものしかメディアに出すことを許さない一方で、本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている。そんな時代です。当時はネットがそこまで発達していない状況で、一般の人が汚い本音を世間に撒き散らせる環境はなかったため、表面上は建前でコーティングされてました。〔……〕わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な異議申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。
「鬼畜系」というものは90年代社会に対するカウンターであり、それは当時の状況の中で一定の意義があったものでした。しかし、同時に当時の人権意識の低さから自由ではなかったし、本人たちの意図してない受け入れられ方を多くされていくことで、瓦解していったのです[注 18]。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、30-31頁。
ここで忘れてはいけないのは、「鬼畜系」はあくまで反道徳性、犯罪性の強いものを考察してたり、語ってたりするものを消費する文化であって、表面上に見られる読者へのあおりも基本ポーズであり、犯罪を犯すこと、反道徳的行為を実行すること自体を指していたり、それをみだりに推奨していたわけではないということです。そこは注意するべきところだと思います。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、12-13頁。
また「鬼畜系」の派生元となった「悪趣味系」についてロマンは次のように定義した。
90年代サブカルにおける悪趣味系というのは「価値のないもの、取り上げるに値しないものと見なされているものを、俎上にのせ再評価していくこと」をポップな文脈で楽しむという行為と、薬物、死体、殺人者などの情報を即物的に楽しむという行為の二つが混合されたムーブメントです。〔……〕視点の位置を変えることで対象に新しい意味を付加していき、それをポップなものとして提示するのが通例であり、「世間的に悪趣味な存在と見なされているもの」、「それを好むと世間的に悪趣味だとみなされるものを好むこと自体」をその対象に選んだのが悪趣味系ということです。悪趣味なことを実践していくことが目的ではなく、世間では悪趣味とされているようなものや行為を取り上げることに主眼がおかれているムーブメントだと考えれば、そう間違ってないのではないでしょうかね。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、20-21頁。
対して香山リカは、この文化にはポストモダン的な価値相対主義((面白主義)や冷笑主義など)が成立背景にあり、かつては従来の権威主義的な文化への対抗として機能していたとするが、現代の人権感覚に照らすと全体的に人権意識が乏しく、「かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう」という文章を発表し、謝罪を促した[279]。
インターネット時代
インターネット黎明期の掲示板カルチャー
1970年代後半よりパーソナルコンピュータとダイアルアップ接続通信の普及が始まった。IBM DOSがさらにPCの規格統一と一般化を促進し、1980年代以降はハッカー・カルチャーも生まれた。1985年には『The Hacker's Handbook』が発売されている。日本でもクラッキングのハウツーを解説した『危ない28号』『コンピュータ悪のマニュアル』(ともにデータハウス)がインターネット黎明期の1990年代末に出版された[301]。
インターネット(ネットワーク同士をインターネットプロトコルで繋いだグローバルネットワーク)普及以前は、特定のホスト局(サーバ)にユーザのクライアント端末からダイアルアップ接続する通信を利用したパソコン通信による電子掲示板(草の根BBS)やネットニュース、ネットフォーラムコミュニティが1970年代に誕生し、1980年代に発達した。1980年代後半よりエロ画像を共有するグループが現れ、1989年頃にはSMトピックについて匿名で投稿するグループ (alt.sex.bondage) が現れ、以降エロ(特殊性癖や出会い系など)のようなセンシティブなトピックに関して匿名投稿が行われるようになった。1990年代前半には、匿名サーバや匿名メール転送サーバを利用した匿名投稿が普及し、匿名文化を誇るサイバーパンク文化も誕生した[302]。有名な匿名サーバには、Kleinpaste, Clunie and Helsingiu (Anon.penet.fri) があった。匿名サーバAnon.penet.friのように、1990年代前半にはすでにAnonymousを略してAnonと称したり、Anonimityを誇る言説が見られる[303]。1996年には、サイバースペース独立宣言が行われた[304]。こうして、(カリフォルニア・イデオロギー) (en) と呼ばれるIT革命による楽観的な未来予想図が生まれた。テックユートピアの思想は、後にオルタナ右翼の土壌となる[305]。
しかし、この初期の匿名文化は1990年代半ばまでには、ネット市民やシステム管理者の厳しい批判にさらされ、匿名投稿は削除されたり匿名サーバは閉鎖に追い込まれたりして、匿名文化はなかなか根付かなかった。1993年には、カルト宗教団体サイエントロジーのコンピュータからデータが盗み出され、匿名投稿者によってニュースグループに投稿され、サイエントロジーが運営者や通信事業者を訴えた。また、同年にはLifeStylesという掲示板で"Poo Bear"と"Wild One"という匿名投稿者によって児童ポルノが多数投稿され、警察による捜査によって投稿者が逮捕される事件も発生した[306]。同年には、PLAYBOY誌のエロ画像を集めた有名エロ系BBS「Rusty n Edie's BBS」が著作権侵害でFBIの家宅捜査を受けた。1996年にもBBS上で大量の児童ポルノを流通させた人物が逮捕されている[307]。
日本では1995年頃より、匿名掲示板の元祖といわれる草の根BBS「センターネット」やインターネットBBS「あやしいわーるど」などのアングラBBSが隆盛した。とくに大きなきっかけとなったのが、地下鉄サリン事件を題材にした不謹慎ゲーム『霞ヶ関』である。このゲームが1995年夏にパソコン通信上で出回り、これを朝日新聞と毎日新聞が同年10月26日夕刊で取り上げたことで、多くのメディアの注目を集めた[308]。こうした残酷ゲームは、1999年のコロンバイン高校銃乱射事件にも繋がったとの分析もある。当時、このゲームを所有していた「しば」は、このソフトを配布する目的で「あやしいわーるど」という掲示板を起ち上げ、90年代末において日本最大の規模を誇るアンダーグラウンドサイトとなる[19]。これらの匿名ニュースグループやBBS文化は、2ちゃんねる(あめぞうがルーツ)や4chanなどの巨大匿名掲示板文化につながっていく。
ジャーナリストの清義明は、リバタリアン的な自由至上主義とポストモダン的な価値相対主義をベースとする、インターネットの反体制的匿名文化が、後のポスト・トゥルース時代において、オルタナ右翼やトランプ現象などのカウンターカルチャーを生み出したと指摘している。
もともと90年代のネットでは「真実などない。すべてが許されている」という世界に、「(アイロニカルな没入)」をすることが、ひとつの思考実験的なものだった。職業と生活の分離からなる「市民社会」的常識から、さらにメタで分離した匿名のネット空間は、そんな混沌魔術の実験場だったわけだな。ところが、その実験は成功してしまうものも出来てきた。あたかもオウム真理教が、誰もがフィクションとおもっていたものが現実化したように。真実はなにもないというのは、なんであっても真実であるということと同じというレトリックが、現実として定着化したということ。この混沌魔術のメカニズムだと、ネットは仮想空間で現実ではないという言い分けは成立しない。仮想が現実化するのだから。アーリーアダプターがネタとして消費していたものが、繰り返されていくうちに現実となっていく流れだ。言霊の世界である。こういう流れはネットの混沌魔術は、世界中で起きていることであって、特に4chanからオルタナ右翼が生み出され、それがトランプ現象を駆動させた一連の光景は、むしろ日本から10年程度遅れているものと見てもよいと思われる。おそらくネットの匿名のコミュニケーションの形態と密接な関係がある。〔……〕もちろん、だから匿名から顕名にするべきとか、ネットの議論は必ずモデレーションされるべきとか、単純なバックミラー的な結論に集約できないところに、ネットの絶望的な未来の難易度がある。能天気に匿名は権威への反抗というようなロマンスを語る輩もまた絶望的である。 — (2021年11月24日)
インターネットと悪趣味
1990年代には、ポルノ、スカトロ、暴力場面、侮辱、苦痛、卑語など扱うショックサイトなるものも誕生した[19]。こうして、インターネットポルノ(アダルトサイト)、アダルトゲームとともに(アングラネット)が隆盛する。その極みであるダークウェブでは、ドラッグや児童ポルノなど様々な犯罪コンテンツが販売されている[309]。
1996年には事故死体・検死・殺人シーンなどを集めたRotten.comが立ち上がり、同年4月には日本初と推定されるグロサイト「Guilty」が開設され[19]、同年5月には高杉弾のWEBマガジン《JWEbB》が創刊される[310]。同年11月には(北のりゆき)(現代版『腹腹時計』の異名をとる危険図書『魔法使いサリン』〈冥土出版・1994年12月〉で一躍有名になった『危ない1号』と『危ない28号』のライター。別名義に死売狂生・行方未知など)主宰の危険文書サイトの最左翼「遊撃インターネット」がスタートし、翌1997年にはスーパー変態マガジン『Billy』『(TOO NEGATIVE)』元編集長の(小林小太郎)が運営していた死体写真ギャラリー「NG Gallery」の や漫画誌『ガロ』の裏サイト「」が本格始動する[19]。
1998年には、10万部以上[301] を売り上げたハッキング本『コンピュータ悪のマニュアル』の著者・KuRaReを編集長に『危ない1号』の事実上後継誌『危ない28号』がデータハウスの(鵜野義嗣)によって創刊される(これについてばるぼらは「90年代雑誌文化のサブカルの流れをコンピューター文化が引き継いだ」と指摘している[311])。同誌はハッキング、ドラッグ、兵器、安楽死など様々な違法・非合法行為のハウツーが記載された危険情報満載のムック本で『危ない1号』に次ぐヒットを飛ばしたが、発売前の段階にもかかわらず有害図書指定を受けるなど自治体からの風当たりも強く、KuRaReは「どんだけ何も見てない連中なんだよ。そうやって仮想の敵をやっつけて良いことをしたと思う自慰的行為」「28号は意識的に有害図書指定になろうとしてたので、別にいいのですが」等と述懐している[312]。そして2000年1月に浦和駅、東海村、大阪府で発生した一連の連続爆発事件で、犯人が同誌を参考に爆発物を製造したと供述[313] した結果、『危ない28号』は全国18都道府県で有害図書指定され[314][315]、発行済みの第5巻(1999年11月発行)を最後に廃刊を余儀なくされた。
初期インターネットのアングラカルチャーは1996年のアダルトサイト摘発、1999年の通信傍受法成立と悪趣味ブームの終焉、そして2000年の不正アクセス禁止法が決定打となり、一旦は衰退した[19][316]。
またインターネット上でも死体や畸形画像が、いつのまにか『ありふれたもの』になってしまい、1999年以降はテイストレスに興味を持つ人口も減少したようで、死体や奇形など悪趣味に特化したグロサイトは殆ど作られなくなった(テイストレスサイトの総本山だった「下水道入口」も1999年6月17日付で閉鎖している)[19]。
しかし、インターネットの特性故に海外からの情報を防ぐことはできなかった。2004年にはイラク日本人青年殺害事件映像が出回り[19]、2008年12月には、殺人行為を記録した『ウクライナ21』(Dnepropetrovsk maniacs)と呼ばれるホームビデオがショックサイトに流出し、誰でも閲覧が可能となった。報道では、ドニプロペトロウシクに住む19歳の若者2人組が、2007年夏の約1ヶ月間で21人を快楽目的で殺害したとされている[317]。また「殺害映像は販売する予定であった」との証言もあることから、これは有史初のスナッフフィルムであるとされている[318][319]。
時期を同じくして閲覧者にトラウマを与えかねない有害なWEBサイト/精神的ブラクラの総称として「検索してはいけない言葉」が日本で定着した。『POSO』『ウクライナ21』『(生きたメキシコ)』などのグロ動画はその代表格である。現在、まとめWikiに登録されている言葉は2100以上にのぼる。
SNSや動画サイトの普及により、迷惑行為の現場を投稿するバイトテロやバカッター、迷惑系YouTuberも登場した。
2ちゃんねると冷笑主義―CHANカルチャーの世界展開
2ちゃんねるは、4chanや8chanなど海外の匿名掲示板文化「CHANカルチャー」の原初にもなった。このような日本発の匿名掲示板文化が日米で流行した理由について、アメリカ合衆国のニュースサイトは、90年代以降の低迷を続ける社会経済とオタク・コミュニティの台頭が背景にあるとして次のように総括した[320]。
2ちゃんねるという名に何となく聞き覚えがあるとしたら、それは物議をかもすアメリカの画像掲示板・4chan、そしてその精神を受け継いだ8chan(現在は8kunに改名)に名が似ているからだろう。〔……〕東浩紀によれば、オタク・コミュニティの台頭は、インターネットが広く商業化された90年代日本特有の政治・経済状況の副産物だ。第二次大戦後の急激な再建と経済成長は「終わりなき資本主義の発展」という夢物語を生み出した。〔……〕この傲慢な楽観はバブル崩壊で消え去り、結果引き起こされた重度の不況と景気低迷による「失われた10年」(または20年)で実質賃金も低下する。失われた10年のあおりを一番食らったのは若者で、終身雇用モデルも破壊された。〔……〕
1995年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件、そして巨大な阪神・淡路大震災の2大悲劇に襲われ、国民の士気がさらに低下した。オタクが占めるオンライン空間で繰り広げられるのは嫌みな皮肉と冷笑主義で、彼らは掲示板の持つ共同体としての側面に夢中になった。〔……〕
終わりなき発展物語(引用者注:ジャン=フランソワ・リオタールが1979年に著した『ポストモダンの条件』において提唱した「(大きな物語)」のこと。戦後民主主義と高度経済成長に支えられた、社会全体で共有される統一的な価値観を指す)の崩壊と開いた穴を埋めるため、フィクションやネット・ミーム、内輪ジョークで成り立つ空間へと避難したのだ。
2ちゃんねるの背景にある、現代日本のサブカルの特徴として、反リベラル主義が挙げられる。戦後、1960年代より兵器のプラモデルなど戦闘サブカルチャーが流行し、その系譜は『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』などへ脈々と受け継がれていく。また、日教組教職員への反発もあり、ナチス要素も取り入れるなど、戦争に関して戦後民主主義と違う価値観を描いていたサブカルチャーに若者は心酔した。さらに小林よしのりや山野車輪など、反戦後民主主義を漫画表現で訴える者も現れ、それぞれヒットを飛ばすなど、サブカルチャーが右派と接近[321]。「アニオタ保守本流」として保守論壇で注目され、後に転向した古谷経衡も架空戦記に熱中したことが保守論壇入りのきっかけだったという[322]。
リベラルは彼らの世直しのエネルギーを回収することに失敗した[323]。対照的に、自民党の麻生太郎は(彼がオタクであったかの真偽は疑問であるものの)メディア戦略により、2000年代に2ちゃんねらーをはじめとしてオタク層との関連付けに成功。2010年代を経て、サブカルチャーの右傾化は決定化し、ナショナリストの右翼雑誌『ジャパニズム』(青林堂)にアニメ絵が用いられたり、SNSで保守的発言をするオタク産業文化人が台頭するなど、秋葉原=右翼の街というような認識すら目立つようになった[321][324][325]。
時期を同じくして、2010年代には「アメリカ版ネット右翼」といわれるオルタナ右翼が、2ちゃんねるから分派した4chanや8chanの非ポリコレ板「/pol/」で台頭した。オルタナ右翼は政治的なコラージュを施したアニメ絵をインターネット・ミームとして拡散するなど、日本のオタク文化やネット右翼とも親和性が高い[326]。ライターの常川拓也は、4chanのような匿名掲示板が過激な思想をまき散らす有害なプラットフォームになっているとして次のように論じている[327]。
一般的に、ネット上では匿名性が高くなると悪意が強くなり、反社会的な振る舞いを隠さなくなりやすい(オンライン脱抑制効果)[330]。能町みね子は、建前や偽善を徹底的に嘲笑する「2ちゃんねる」と「鬼畜系」の親和性について次のように指摘した。
いわゆる鬼畜系は私は知ってはいたけどあまり入り込むことはなくて、若いときの私にとっての鬼畜・悪趣味カルチャー(?)といえば2chだったなと思う。天皇制すらネタにして、乙武さんを酷い言葉でおちょくり、平然と弱者を罵倒するモラルのない空間は正直言って当時は嫌悪感とともに魅力も同じ強さで迫ってくる場所だったと思う。その後、私はさすがに荒れ狂うネットのインモラルさとはさすがに一線を引くべきだというごく当然の結論に行き着いたけど、2ch〜5chの不道徳も主にリベラル的な「いい子ちゃん」への反抗として存在しているわけで、もし鬼畜系悪趣味カルチャーがバブル的イケイケ文化への反抗だとするなら、2ch系カルチャーもリベラル的お利口さん文化への反抗で、この2つの当事者は「虐げられた者の反抗」のつもりでいるところが結局同じ。後者はそのままネトウヨ・陰謀・Jアノン(引用者注:Qアノン/オルタナ右翼の日本版)につながって肥大してしまいました。 — (2021年7月22日)
一方、ライターの御田寺圭は、ひろゆきが冷笑主義の親玉という見方に対し疑念を呈している。
当人たちはすっかり忘れてしまっているようだが、これまでさんざん「敵」に向けて冷笑的な態度を向けてきたのは「リベラル派」であった。保守派が大切にしていた価値規範や文化や慣習を「たかだか明治以降にはじまったものを伝統って呼ぶんですか?(笑)」とか「それってなにか根拠あるんですか?(笑)」と嘲笑まじりに批判することを、かれらも盛大に楽しんできたはずだ。自分たちが放ってきた「冷笑」は芯を食った当意即妙な風刺的批判表現だが、相手から「冷笑」が撃ち返されたらそれは悪質な差別煽動や体制擁護の二次加害というのは、いくらなんでも調子が良すぎるというものだろう。
〔……〕
批判的に言語化してきた人びとを「冷笑系」「差別主義者」「分断を煽る」「ミソジニスト」「ポピュリスト」などと対人論証で糾弾し(ときには仕事を失わせる、キャンセル・カルチャーを煽り立てるなどの過激な手段に出て)、自分たちの社会正義を「絶対化」する道を選んでしまった。
その末路がいまである[331]。
ポスト・トゥルース時代における言語ウイルス、そして新反動主義へ
鬼畜系の創始者であり総体でもあった村崎百郎は、生前最後のインタビューで、ウィリアム・バロウズの言語ウイルス論[注 17]を用いて、2ちゃんねるに懐疑的立場を取った。
文筆家の(木澤佐登志)も、バロウズの座右の銘「真実などない。なにもかも許されている」を言語ウイルス論[注 17]と共に引用し、ポスト・トゥルース時代におけるフェイクニュースの拡散、そして啓蒙主義や民主主義へのアンチテーゼとして登場した、新反動主義=加速主義=暗黒啓蒙[注 19]の台頭を次のように論じた。
新反動主義も加速主義もミームも等しくハイプ(Hype)でしかない。だが、そうしたハイプはハイパースティション(Hyperstition)として世界に介入し、この現実を改変していく。〔……〕ならば、ウィリアム・バロウズこそはハイプの、いや、ハイパースティションの帝王であると言えよう。〔……〕バロウズによれば言語とは地球外から送られてきたウィルスであって、それは人間という宿主に寄生して言語ウィルスのコントロール下に置くのだという。もちろんバロウズは、そこからの解放を目指していた。〔……〕さらに、バロウズはテクノロジーによって我有化した言語ウィルスを、暴動を起こし、暴動をエスカレートさせるための最前線用武器としても利用できると見抜いていた。〔……〕「Nothing is true. Everything is permitted」(真実などない。なにもかも許されている)──このバロウズの座右の銘はしかし、ポスト・トゥルースと呼ばれる現在でこそより重要な意味を持って木霊する。あるいは、バロウズは現在インターネット上で蔓延しているフェイク・ニュースやミームの台頭を予見していたと言えるだろうか。もちろん、「コントロール」のヘゲモニーを奪取したのは、必ずしも自由を求める闘士ではなかったことを現在生きる私達は知っている。
今やオルタナ右翼はフェイク・ニュースを操り、イデオロギーを伝達するミームをウィルスのように拡散させている。革命は起こらず、代わりにトランプを戴く新たな反動の時代が訪れていた。 — (木澤佐登志)「コントロールという敵──バロウズの愛したキツネザルたち」(晶文社スクラップブック/2019年6月4日)
このような事態を招いた理由として、政治の機能不全による自由民主主義の失速が背景にある[333]。リベラル層への反感は、そのままリベラル的な価値観とエリート(マスコミや学者など既得権益者)の否定につながり、2010年代後半には、排外主義的な右派ポピュリストやオルタナ右翼の台頭を招いた[334]。さらにこの流れは、鬼畜系雑誌『危ない1号』でも提唱された「正義や真実、普遍的価値など本当は存在しない」というシニカルな相対主義をより加速させた[335]。客観的事実よりも個人の感情や思い込みへの訴えかけのほうが、世論の形成に影響力を与えるような社会状況は、ポスト・トゥルース(ポスト真実)と呼ばれている[336]。
ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルいわく「ウイルスには、自然種としてのウイルスと、精神(の生み出す虚構/虚妄)としてのウイルス(=言語ウイルス)があり、そのいずれもが社会に影響を与えるだけの実在性を備えている」という[337]。またガブリエルは、言語ウイルスを地で行くような流言飛語にもとづき、自明の真実すらも否定するポスト・トゥルースと、その根幹をなすポストモダン的な相対主義について「間違っているというだけでなく、民主主義にとって非常に危険な考え方」「真実がいくつも存在するという相対主義の見方は、事実に直面するのを避けるための言い訳に過ぎない」と厳しく批判した[338][335]。マルクス主義の立場から政治哲学者の斎藤幸平も「相対主義に従えば、他者と互いに理解し合うことなどはできない、それぞれ、分断された世界に住んでいるのだということになる」「相対主義者は『他者性』(文化・価値観の違い、よその伝統など)をつくり上げることによって、自分が見たいものだけを見ている」と一蹴した[335]。
日本発祥の匿名掲示板文化(=CHANカルチャー)によって育まれたオルタナ右翼、トランプ支持者、QAnon陰謀論者ら(イタリアゲート陰謀論など選挙不正のデマを広げた)が、アメリカ合衆国議会議事堂を襲撃・占拠したのは、2021年1月6日のことである[339]。
関連年表
1800年代
- 1877年
- 1894年
- クラフト=エビング『色情狂編』(法医学会、発禁)。
1900年代
- 1901年
- 1904年
- 1785年にマルキ・ド・サドがバスティーユ牢獄で著した鬼畜SM小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』出版。
- 1905年
- 11月 - 山崎増造『精神変態論』(尚絅堂)。
- 1908年
- 10月20日 - 発行禁止命令に先立ち『滑稽新聞』が自殺廃刊。
1910年代
- 1910年
- 2月 - 宮武外骨編『(大阪滑稽新聞)』第28号の控訴が棄却され、上告するも後に取り下げ、大阪監獄に入獄(4月26日)。
- 1913年
- 9月 - クラフト=エビング『変態性慾心理』(黒沢良臣訳、大日本文明協会)。
- 1915年
- 1917年
- 5月 - 中村古峡が日本精神医学会を設立。診療部開設、治療開始。
- 10月 - 中村古峡『変態心理』創刊。
1920年代
- 1922年
- 5月 - 中村古峡が『(変態心理)』の姉妹雑誌として、田中香涯主幹で『変態性欲』を創刊(〜1926年2月)。
- 7月 - 田中香涯『人間の性的暗黒面』(大阪屋号書店)。
- 9月 - 梅原北明、雑誌『性と愛』(性愛社)で文筆デビュー。「日蓮主義より観たる恋愛憧憬」「戀愛と性教育に關して鎌田文相と語るの記」など真面目な記事を執筆。
- 1923年
- 9月1日 - 関東大震災。死体写真が絵葉書として流通するも発禁となる。
- 1924年
- 11月18日 - 梅原北明の処女単行本『殺人会社(前編)悪魔主義全盛時代』(アカネ書房、発禁)出版。後編は刊行されず未完。
- 1925年
- 4月 - 梅原北明訳、ボッカチオ著『全譯デカメロン(上)』(南欧芸術刊行会=朝香屋書店)出版。ベストセラーとなり重版されるも、同年10月に下巻が発禁(読売新聞14日付)。
- 11月 - 伊藤敬次郎(朝香屋書店)が発行人となり、プロレタリア雑誌『(文藝市場)』(文藝市場社、代表者・梅原北明)創刊。創刊記念に、梅原北明、金子洋文、村山知義らが、京橋の豊国銀行前で「原稿市場」と称し、直筆原稿を叩きうる即売会的なパフォーマンスを行う。
- 1926年(大正15年/昭和元年)
- 7月 - 梅原北明が文藝市場社内に「文藝資料研究会」を設立、叢書『(変態十二史)』刊行開始。
号数 | 著者 | タイトル | 発行年月 |
---|---|---|---|
第1巻 | (武藤直治) | 変態社会史 | 1926年7月 |
第2巻 | 村山知義 | 変態芸術史 | 1926年10月 |
第3巻 | 藤沢衛彦 | 変態見世物史 | 1927年7月 |
第4巻 | (井東憲) | 変態人情史 | 1926年9月 |
第5巻 | (伊藤竹酔) | 変態広告史 | 1927年3月 |
第6巻 | (澤田撫松) | 変態刑罰史 | 1926年7月 |
第7巻 | (宮本良) | 変態商売往来史 | 1927年7月 |
第8巻 | 梅原北明 | 変態仇討史 | 1927年5月 |
第9巻 | 斎藤昌三 | 変態崇拝史(発禁) | 1927年1月 |
第10巻 | (青山倭文二) | 変態遊里史 | 1927年6月 |
第11巻 | 藤沢衛彦 | 変態交婚史(発禁押収) →変態浴場史 | 1927年2月 1927年9月 |
第12巻 | 藤沢衛彦 | 変態伝説史 | 1926年11月 |
付録1 | (内藤弘蔵) | 変態妙文集 | 1927年10月 |
付録2 | 井東憲 | 変態作家史 | 1926年12月 |
付録3 | 斎藤昌三 | 変態蒐癖志 | 1928年1月 |
- 9月 - 梅原北明『(変態・資料)』(文藝資料研究会)創刊。次いで『明治性的珍聞史(上)』刊行。
- この年、モダンガールという言葉が新聞紙上に現れる。
- 1927年
- 1月 - 梅原北明『明治性的珍聞史(中)』刊行。特殊会員にのみ頒布された限定出版といわれるが、実際には相当多数発行された模様、下巻は未刊。
- 1月 - ジョン・クレランド著、佐々木孝丸訳『ファンニー・ヒル』(文藝資料研究会編輯所、発禁)発行。
- 2月14日 - 読売新聞が「『文藝市場』の一味 風俗壊乱で検挙される 身柄はひと先ず昨日釈放」と伝える。同紙にて「生方敏郎氏等を順次に取調、連累が多く当局驚く『文藝市場』の事件」と報道。ここでは北明一味がインテリの知識人として伝えられている。いわく「文芸市場内文芸資料研究会で編集した此種のものは幾百種に上り、当局でも其目録を眺めては血眼になつて探して居るが、何しろ資料提出者は相当世間に名の知れた文士連中であるので、今さらのやうに驚いて居る」。
- 3月 - 『変態・資料』筆禍記念第6号「本號筆禍記念に題す」にて梅原北明が「合法的に喧嘩をする」と発言。
- 5月 - 『文藝市場』が6月号より梅原北明の個人雑誌になる旨を報告、エログロ路線に転向する。
- 5月 - 警視庁検関係の急襲等により、北明周辺の珍書屋が三派に分裂。北明は「文藝市場社」に残るが、上森健一郎は「文藝資料研究会編輯部」に、福山福太郎は「文藝資料研究会」に移行する。
- 10月 - 北明の個人誌となった『文藝市場』は発禁に継ぐ発禁で立ち行かなくなり、9・10月合併号「世界デカメロン号」をもって終刊(発禁)。編集後記に「日本にいるのが全くいやになった。やれ警視庁でございやれ、内務省でござい等々……。尻の小さい小役人の横行する国。まったく日本は成っちゃいない。一九二七年八月三〇日、満支に旅立つに際して」との記述。「上海移転改題号」と称して『文藝市場』の後継誌にあたる『カーマシャストラ』(ソサイテイ・ド・カーマシャストラ)を創刊するも、全冊が発禁となる(第6号は頒布前に全冊押収され現存せず)。
- 12月 - 性科学者・羽太鋭治著『医学上より観察したる児童の性慾生活』(南江堂)出版。性的な題材でも美術書や医学書は比較的大目に見られていたが、検閲官いわく「余りに実感を唆(そそ)る嫌(きらい)がある。加ふるに数多くの引例は卑猥にして、煽動的である」として発禁となった[340]。
- 1928年
- 4月 - 『奇書』(文藝資料研究会)創刊、発禁。
- 6月 - 『変態文献叢書』(文藝資料研究会)全8冊刊行スタート。
- 6月 - 『軟派十二考』(文藝資料研究会編輯部)シリーズが菊判和装で発刊。
- 6月 - 『変態・資料』廃刊。
- 6月25日 - 中村古峡『変態性格者雑考』(文藝資料研究会『変態文献叢書』第3巻)刊行。テーマは「精神薄弱者の変態性格」「同性愛と半陰陽」「動物姦と児童姦」など。
- 7月 - 思想取り締まりのため内務省警保局に保安課を設置。特高警察機関を設置。憲兵隊に思想係を設置。内務省警保局の図書課は検閲・調査・庶務の三部門となり、組織的検閲制度を強化。
- 9月 - グロテスク社設立。代表者は梅原北明。
- 12月 - 宮本良を編集人に『変態・資料』の後続誌として『(変態黄表紙)』(文藝資料研究会編輯部)創刊。創刊から3号連続で発禁。以後、発行が「南柯書院」へ変わる。綿貫六助、斎藤昌三らが執筆(1929年5月まで全4冊を刊行。南柯書院は1929年8月頃に消滅)。
- この年、上海から帰国した梅原北明は、出版法違反で市ヶ谷拘置所に長期拘置される。 釈放後の11月に公刊雑誌『(グロテスク)』を創刊。 この頃から北明を中心に「談奇」という語が使用される。
- 1929年
- 2月 - 梅原北明のライフワークである古新聞漁りの集大成『明治大正綺談珍間大集成』上巻(中巻は6月、下巻は翌年6月)発行[341]。本書は出版に際して「梅原北明氏決死的道楽出版」「梅原北明、第三十一回の筆禍禁止勲章授与紀念報告祭に要する焼糞出版」と銘打たれた[135]。また利益を度外視した豪華な装丁ゆえに「一冊売るたび赤字」という事情が語られている[135]。曰く「金銭と云う観念を全く超越した装幀の贅沢さ、内容の極珍ぶりに、東京中の出版業者は、多分泡をふいて極度の妬みと嘲けりを投げ与える」だろうとの事[135]。
- 5月 - 『グロテスク』に「梅原北明罰金刑祝賀会」の様子が掲載[342]。
- 5月 - 『稀漁』(巫山房、編集兼発行人・大木黎二)創刊。毎号奥付の名義を変えながら4冊を刊行するも全冊発禁。創刊前段階では『猟奇』と題されたが、警視庁検閲課から相当な圧力を受け、誌名を改める。しかし度重なる検閲課による襲撃と原稿の押収、さらには編集人の急病により中絶を余儀なくされる[343]。
- 7月 - 乞食の生態を調査したフィールドワーク本『乞食裏譚』(石角春之助著、文人社出版部)発刊。
- 8月 - 梅原北明により「談書館書局」が設立される。以後、北明は活動の軸足を「文藝市場社」から「談書館書局」に移す。
- 12月 - 『猟奇画報』(編集兼発行者・藤澤衛彦、日本風俗研究会)創刊。
- この年、当局による珍書屋の全面的討伐作戦。都内に30社残っていたゲリラ的な珍書屋が次々に弾圧され、内部分裂の末、無数の群少珍書屋が乱立する。
1930年代
- 1930年
- 1月 - 『グロテスク』新年臨時増刊号にて「『人を喰った男の話』の評伝」と題した梅原北明特集が組まれる。北明について生方敏郎、大泉黒石、高田義一郎、今東光、鈴木竜二、和田信義、斎藤昌三らが評伝を執筆。
- 3月 - 田中香涯『愛と残酷』『江戸時代の男女関係』(有宏社)出版。
- 4月 - 赤木妖三『エロ・グロ・表現考』(エログロ・パンフレット第一輯、時代世相研究会)。
- 4月 - 『風俗資料』(風俗資料刊行会、竹内道之助編、半年かけて全7冊発行)創刊。
- 5月 - 酒井潔の個人誌として『談奇』(国際文献刊行会)創刊。創刊号巻末には「あまりにエロの為のエロには、もう吾々は背中を向けよう。談奇の世界は、そんなに狭いものではないのだから」とある。
- 6月 - 犯罪心理学を建前とした猟奇雑誌『(犯罪科学)』((武侠社))創刊(〜1932年12月号)。地下本でなく公刊誌として刊行され、大衆の注目を集める。
- 9月 - 猟奇文献雑誌『エロ』(猟奇社)創刊。全3冊を刊行するも、創刊号は発禁、第2号は未頒布、同年11月に2・3合併号を出すが、以後中絶。
- 11月 - 平凡社から一円全集『世界猟奇全集』刊行(1932年まで全12巻)。
- 11月 - 鳥山朝太郎(=梅原北明)『世界珍書解題』(日本蒐癖家協会、同一内容の書籍がグロテスク社より1928年11月に刊行済み)出版。
- 11月 - 酒井潔『エロエロ草紙』(『談奇群書』第二編、竹酔書房、発行者=伊藤竹酔)発禁。
- 12月 - 尖端エロ叢書と称した軟派小説シリーズ『何が女給をそうさせたか』『エロ戦線異状あり:女給の内幕バクロ』『巴里・上海エロ大市場』(法令館、尖端軟派文学研究会編)出版。
- この年から「エログロナンセンス」「尖端」という言葉が流行。大手出版社も一般読者向けにエログロ出版に着手する。一方でエログロ出版の本家本元であった「文藝市場社」は春頃までに没落し、エリート主義を前面に出した活字中心の会員制活字雑誌、すなわち「高級エロ」は時代遅れとなっていく。
- 1931年
- 2月 - 高級エロ雑誌『デカメロン』(風俗資料刊行会)創刊(〜1932年5月)。
- 2月 - 発禁となった『エロエロ草紙』の姉妹書としてドンプランナス・アレラ著、酒井潔訳『奴隷祭』(温故書屋)出版。
- 3月 - 梅原北明『近世社会大驚異全史』(史学館書局、本書は『明治大正綺談珍間大集成』を1冊にまとめたもので、菊判1000頁余)。
- 3月 - 『グロテスク』復活記念号(発禁)。同号には「近世現代全国獄内留置場体験」と称した座談会を収録。ここで北明は「(猥本出版を)止めた時分に世の中が案外そう云う様な時期になって実は僕としては、もう今日になってはエロだとかグロだとかの時代ではないと思う」と発言する[133]。
- 4月 - 『現代猟奇尖端図鑑』(新潮社)出版。
- 6月 - 高田義一郎『変態性慾考』(武俠社『性科学全集』)出版。
- 7月 - 山内一煥『変態エロ・ナンセンス』(第三書房)発禁。
- 7月 - 時代世相研究会編『変態風俗画鑑』(時代世相研究会)出版。
- 8月 - 酒井潔『獄中性愛記録』(風俗資料刊行会)。
- 8月 - 赤神良譲『猟奇の社会相』(新潮社)出版。
- 9月 - 柳条湖事件(満洲事変)が起こる。
- 9月 - 最末期の軟派雑誌『(談奇党)』創刊(洛成館、編集発行人=鈴木辰雄、発禁)。
- 12月 - 『談奇党』第3号(発禁)に「好色文學受難録」と題した、珍書屋と軟派出版に関する資料を掲載。
- この年、プロレタリア文学運動が大弾圧を受ける。
- 1932年
- 2月 - 高山彬『性慾五千万年史』(先進社)刊行。
- 3月 - 警視庁は左翼・右翼の思想関係の出版物について「朝憲紊乱」を建前とした司法処分を強化、左翼雑誌の発禁が増加する。
- 6月 - 『談奇党』廃刊。巻末に「談奇党遺言書」として後継誌が予告される。
- 7月 - 竹内道之助編集の軟派雑誌『匂へる園』創刊(~1933年1月、風俗資料刊行会)。
- 10月 - 『談奇党』の後継誌として『猟奇資料』(洛成館)刊行。創刊号で廃刊となる。
- この年、梅原北明は性文献出版から完全に手を引いた。また文藝市場社から分派分裂した北明一味・珍書屋による軟派出版活動も事実上の終焉を迎える。
- 1934年
- この年、梅原北明が日劇再建のプランナーとして大活躍する。まずアメリカのレビュー団「マーカス・ショー」(と称して招いた三流のドサ回り)にラインダンスを踊らせた。続けてチャールズ・チャップリンの喜劇映画『街の灯』を上映、いずれも大好評を博した。
- 1935年
- 2月 - 石角春之助『乞食裏物語』(丸之内出版社)刊行。
- 3月 - 新興社編『世界結婚初夜秘話』刊行。
- 7月 - 田中香涯『猟奇医話』(不二屋書房)刊行。
- 10月 - 田中香涯『愛と残酷マゾヒスムス』(文芸刊行会)刊行。
- この年、酒井潔がエロ研究・魔術研究に終止符を打つ。珍書・奇書類も売却し、郷里に隠棲。
- 1936年
- 2月 - 二・二六事件。
- 5月18日 - 阿部定事件
- 5月20日 - 阿部定逮捕。
- 5月29日 - 思想犯保護観察法公布。翌6月15日には不穏文書臨時取締法が公布され、言論弾圧が強まる。
- 8月 - 性知識普及会編『性生活の変態と正態』(『性知識普及叢書』第五輯、高千穂社出版部)。
- 1937年
- 2月17日 - 死のう団事件発生。国会議事堂など5ヶ所で青年らが割腹自殺を試みる。
- 2月20日 - 相馬二郎『変態風俗史料』第三版発行(金竜堂出版部、初版は1935年9月)。
1940年代
- 1945年
- 8月15日 - 日本がポツダム宣言を受諾する。
- 9月10日 - GHQが「言論および新聞の自由に関する覚書」を通達。進駐軍による報道制限、検閲開始。同9月21日に発布されたプレスコードは、その検閲基準を具体的に示したもの。
- この年、梅原北明は、疎開先の自宅で連日花札賭博に励み、ウイスキーを密造。峯岸義一に「近いうち出版を始めるつもりだから頼むよ」と発言するも、翌年4月5日に発疹チフスであっけなく逝去する(満45歳)。この頃、酒井潔は自殺を決意し、青酸カリの入手を試みるも、思いとどまる。
- 1946年
- 10月 - カストリ雑誌ブームの先鞭をつけた『(獵奇)』(茜書房)が創刊される(1946年7月まで全5号を刊行)。
- 12月 - (北川千代三)の官能小説『(H大佐夫人)』が原因で『猟奇』2号が戦後初の発禁となる。ストーリーは徴兵忌避学生と大佐夫人が防空壕で結ばれるというもの。
- 1947年
1950年代
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- 1950年
- 5月 - 『人間探究』(第一出版社)創刊。
- 1955年