市谷刑務所(いちがやけいむしょ)は、かつて存在した日本の刑務所である。1922年までは「東京監獄」と呼ばれていた。
近接して別に「市谷監獄」があった。1903年-1910年(明治36-43年)の間、両者が並存していたことになり、しばしば混同されてもいる。
東京監獄・市谷刑務所
東京監獄のルーツは皇居近くの鍛冶橋にあった警視庁鍛冶橋監獄署である。1903年に内務省(警視庁)から司法省に移管され、東京監獄と改称。同年6月、東京駅建設のため鍛冶橋より東京市牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)に移転し、同年7月1日より事務を開始[1]。1922年(大正11年) 「市谷刑務所」と改称された。
当初は未決囚を拘置し、裁判所へ送致することが主な目的であったが、その後既決囚を収容するに至り、死刑囚の収監と処刑も行っていた。当時の文献類で「市ヶ谷の未決監」等とあるのは「東京監獄」のことである。
1937年(昭和12年)、巣鴨刑務所の跡地に移転し、その際に東京拘置所と改称された。
エピソード
永井荷風の作品に「監獄署の裏」(1909年)とあるのは、東京監獄のことである(すぐ北の余丁町に荷風の家があった)。
大杉栄は東京監獄の未決監の回想を「獄中記」に書いている[2]。
1930年代には日本共産党の指導者、党員であった佐野学、鍋山貞親、三田村四郎、高橋貞樹、中尾勝男ら思想犯が収監。佐野と鍋山は1933年(昭和8年)6月、獄中から転向声明(共同被告同志に告ぐる書)を出した[3]。この年の9月時点では。272人の左翼活動家が収容されていた[4]。
三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が収容されるのも「市ヶ谷刑務所」である。
沿革
市谷監獄
市谷監獄のルーツは伝馬町牢屋敷である。1875年(明治8年)、日本橋の小伝馬町より市谷に移転、市谷谷町囚獄役所として設立された(警視庁所管)。位置は現在の新宿区市谷台町すべてと、住吉町と富久町の一部であった。
後に市谷監獄と改称。また、1903年(明治36年)に内務省(警視庁)から司法省に移管された。
1910年(明治43年)に豊多摩郡野方村(現在の中野区)に移転し、豊多摩監獄となった。
沿革
跡地
現在の靖国通り住吉町交差点から市谷台町へ登る坂は、市谷刑務所への入り口であり『刑務所通り』と呼ばれていた。 現在の坂は、住吉町交差点から見て右側に、もともとの道幅の約倍の幅に拡張されている。 現在の坂の中央部から左側(左車線)が、もともとの『刑務所通り』にあたる。
刑務所跡地の一部は現在『富久町児童遊園』となっており、公園内の刑死者慰霊碑が立っている場所に処刑場があったと言われる。碑は1964年(昭和39年)、日本弁護士連合会が建立したものである。
脚注
出典・参考文献
- 新宿の歴史を語る会『新宿区の歴史』<東京ふる里文庫2>名著出版、1977年
- 大杉栄著『獄中記』土曜社、2012年