日本
- 日本国
- 日本国[1]
- 国の標語:特になし
- 国歌:君が代
-
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日本国(にほんこく、にっぽんこく、英: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家[1]。首都は東京都[注 2][2][3]。
全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島[注 6]および千島列島・南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成され[3][4]、大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある[5][6]。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め[6]、沿岸の平野部に人口が集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族[注 7]・外国系の人々)と外国人が居住し、日本語を通用する[2][3]。
概要
日本語を母語とする大和民族が国民のほとんどを占める。自然地理的には、ユーラシア大陸の東に位置しており、環太平洋火山帯を構成する[2]。島嶼国であり、領土が海に囲まれているため地続きの国境は存在しない。日本列島は本州、北海道、九州、四国、沖縄島(以上本土)も含めて6852の島を有する[注 8]。気候区分は、北は亜寒帯から南は亜熱帯まで様々な気候区分に属している[8]。様々な自然災害に見舞われやすい環境にあり、地震発生数や災害被害額は世界有数である[9]。
日本は古くから中国大陸、朝鮮半島との関係が深く、飛鳥時代・奈良時代には遣隋使、遣唐使といった交易を通して法制度・仏教・儒教・漢文等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、正倉院にペルシア・インドを由来とする文化財が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。律令体制樹立後の平安時代末期より武家政権が成立し、幾度も交替する。江戸時代に至って交際国を限定する「鎖国」を行ったが、外圧を受けて開国し、明治維新の過程で王政復古の大号令で武家政権が終焉した。
版籍奉還や廃藩置県などを経て中央集権化を完了した後、自由民権運動を受けて大日本帝国憲法が制定され、国会が開設された[10]。同時に西洋の資本主義を参考にして日本初の銀行や東京株式取引所および銀行と取引を行う会社が次々と創業された。並行して工業化も進展し、ここに西洋化・近代化が果たされ、日本は近代国家・立憲君主制国家へ移行する。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ不平等条約を撤廃させ、領土を拡張した。国際連盟発足にあたっては、日本は国際連盟規約への人種差別撤廃明記を呼びかけたが(人種的差別撤廃提案)、実現には至らなかった[11][12]。アメリカ不在の国際連盟において常任理事国の地位を確保した日本は、大正デモクラシーを受けて政治的・文化的発展が進み、政党政治の慣例の確立や普通選挙法成立など民主主義の発展が見られた。しかし、世界恐慌とそれに続くブロック経済化の中で日本は五・一五事件や二・二六事件、政党の汚職事件などに揺れて政党政治が後退[13]、軍の影響の強い挙国一致内閣が常態化した[14]。満州事変に続き日中戦争に向かい、第二次世界大戦に枢軸国として参戦、連合国軍と対戦したが太平洋戦争に敗れた。
占領下では連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けて国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を謳う[15]日本国憲法が制定され、日本は再び政党政治を基調とした民主主義となる。戦後復興ののち、冷戦の中で自衛隊と日米安保条約を軸とした国防を維持しながら、1960年代から高度経済成長期に入り、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果経済大国にもなったが、プラザ合意を経てバブル経済に突入し、1980年代末のバブル経済崩壊後は経済停滞期に入った[2]。その後は世界最大の対外純資産国となっているが[16]、中高所得層以上の資産は増加する一方で従来の中間層が貧困化しており、格差は拡大している[17][18]。環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定を推進するなど、概ね自由貿易体制を支持している。
人口は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、1967年(昭和42年)に初めて1億人を突破した。その後出生率の低下に伴い21世紀初頭にピークを迎え、人口減少が始まった[19]。現代日本社会は少子化が進んでおり、世界トップクラスの平均寿命の長さ[注 9]と移民流入の少なさも相まって、超高齢社会に突入している。
人間開発指数が高く先進国のひとつに数えられており[20]、経済協力開発機構、G7、G8およびG20の参加国である。名目GDPは世界第3位かつ購買力平価は世界第4位であり[21]、アメリカと中国に次ぐ経済大国である。
21世紀に入ってからは、中国やアメリカ、インドの企業群との競争が激しい状況下であるが、自動車産業やエレクトロニクス産業、重化学工業の中心地であり[22][23]、科学技術のリーダーとされる[24]。
トヨタ自動車、パナソニック、任天堂、日立製作所、三菱重工業、日本製鉄、三菱ケミカル、東レ、武田薬品工業、ENEOS、INPEX、三菱商事、ソニー、セブン&アイ、三井不動産、三菱UFJフィナンシャル・グループなど多数の大企業を輩出し、また、経済複雑性指標において日本は1984年(昭和59年)以降、一貫して世界首位を維持している。このような理由から、列強の一国とみなされる[25][26]。
経済平和研究所による2022年(令和4年)の健全なビジネス環境ランキングでは、日本はオーストラリア、スイス、カナダ、英国に次いで世界第5位となっている[27]。また、2020年(令和2年)の国際労働機関(ILO)の労働権ランキングでは、世界で6段階中の2番手のグループに属し、台湾やシンガポールとともにアジアで独歩的な位置を占め、世界的にもドイツやイタリアには及ばないものの、フランスやカナダと同格、アメリカ合衆国やイギリスよりも高く、上位レベルとみなされる[28]。
文化面では日本庭園、日本建築、和食、着物や宗教(神道・日本仏教)などの伝統文化を保持し、複数の世界遺産を保有している。また漫画、アニメ、ゲームを始めとするポップカルチャーの中心地である。これらの文化は、欧米圏の文化と比べ特異な文化として海外から注目されている[注 10]。家庭用ゲーム機のハードウェアでは、1990年代までに任天堂・ソニー・セガの3社が世界的シェアの大部分を獲得したが、2001年(平成13年)3月にはセガが撤退した。
政府はクールジャパン戦略を実行するなど、観光立国を推進している。2021年(令和3年)には東京オリンピック[注 11]が開催され、2025年(令和7年)には大阪万博も予定されるなど、国際的イベントの招致にも力を入れる。2021年、USニューズ&ワールド・レポートの2021 Best Countries ランキングで第2位となった[29]。2020年、日本は国際送金サービスを扱うremitlyで調査した最も移住したい国ランキングで、カナダに次いで2位を占めた [6]。
国号
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある[30]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を直接かつ明確に規定した法令は存在しない[31]。ただし、日本工業規格では「日本国」、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[注 12] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。
日本語の表現
発音
「にほん」、「にっぽん」二つの呼び方がある。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[33]。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[34]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[35]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[36]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニホン」「ニッポン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[37]。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[33]。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれている(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)。
- 「にほん」(NIHON)
- 日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本、JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本オリンピック委員会、日本セラミック、日本ガイシ、日本交通、日本アイ・ビー・エム、日本マクドナルド
- 「にっぽん」(NIPPON)
また、日本テレビ放送網(日本テレビ)、東日本電信電話(NTT東日本)・西日本電信電話(NTT西日本)のように、社名では「にっぽん」、愛称は「にほん」と使い分けている例や、東日本高速道路(NEXCO東日本)・中日本高速道路(NEXCO中日本)・西日本高速道路(NEXCO西日本)のように英字社名は「Nippon」、日本語での社名では「にほん」を用いる例もある。
日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[38]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[39]。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣金森徳次郎は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった[37]。
日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
- 「にほん」(NIHON)
- 日本共産党(1922-)、日本労農党(1926-1928)、日本自由党(1945-1948)、日本進歩党(1945-1947)、日本協同党(1945-1946)、日本農民党(1947-1949)、日本民主党(1954-1955)、日本新党(1992-1994)
- 「にっぽん」(NIPPON)
- 日本社会党(1945-1996)、日本自由党(1953-1954)、新党日本(2005-2015)、たちあがれ日本(2010-2012)、日本維新の会(2012-2014)、日本未来の党(2012)、日本を元気にする会(2015-2018)、日本のこころを大切にする党(2015-2018)、日本維新の会(2016-)
日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の「JAPAN」としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ「NIPPON」の表記を使っていた[40]。2021年の自国開催の2020年東京オリンピックでは入場行進時に「にほん」とアナウンスされている。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京の日本橋は「にほんばし (Nihonbashi)」、大阪の日本橋は「にっぽんばし (Nippombashi)」と読む。
呼称
古くから多様である。
- 和語
- あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- あしはらのなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
- 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
- おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「大八島」「太八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
- 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
- しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- たまかきうちのくに
- 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
- 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
- 「日出処」(隋書)
- ひのもと - 雅語で読むこともある[注 13]。
- ほつまのくに
- 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
- みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
- 「瑞穂国」
- やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[42]が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。神日本磐余彥天皇(かむ やまと いわれびこ)、稚日本根子彦(わか やまと ねこひこ)など。また、隼人(はやと)などの呼称からすれば、元は山地の人を「山人」(やまと)といったことも考えられる。
- 「虚空見つ日本の国」(そらみつやまとのくに)
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬萊伝説に準えた「扶桑」[43]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[44]。このほかにも「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注 14]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後「大日本帝国」の他「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注 15]。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[45]に倭漢通用の国称が掲載されている。
その他の言語
- 英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、ISO 3166-1などで使われるJPN、JPが多く用いられる。JAP(ジャップ)は英語圏を中心に侮蔑的な意味があるが、一部の国[注 16]やIOCコードでは中立的な立場でJAPが用いられる。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ヤパン(蘭: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注 17](露: Япо́ния)、ヤポーニヤ(宇: Япо́нія)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。
- 漢字文化圏においては、リーベン(中: Rìběn;日本)[注 18]、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)[注 19]など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
- 9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク(阿: الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「倭国」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
- 欧州発行の古地図上での表記
- 「CIPANGU」1300年頃[46]
- 「IAPAM」1560年頃[47]
- 「ZIPANGNI」1561年[48]
- 「IAPAN」1567年頃[49]
- 「IAPAM」1568年頃[50]
- 「JAPAN」発行年不明[51]
- 「IAPONICUM」1585年[52]
- 「IAPONIAE」1595年[53]
- 「IAPONIA」1595年[54]
- 「IAPONIÆ」1595年[55]
- 「IAPONIA」1598年[56]
- 「IAPONIA」1598年[57]
- 「IAPAO」1628年[58]
- 「Iapan」1632年[59]
- 「IAPONIA」1655年[60]
- 「IAPON」発行年不明[61]
- 「Iapan」1657年[62]
- 「IAPONIA」1660年頃[63]
- 「NIPHON」1694年頃[64][注 20]
- 「JAPAM」1628年[65]
- 「YAPAN」1628年[66]
- 「IAPON」17世紀[67]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[68]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[69]
- 「IAPONIA」18世紀初[70]
- 「IAPON」1720-30年[71]
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[72]
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[73]
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[74]
国号の由来
概説
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[75]。
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[76]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[77]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[78]。
詳細
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[42]。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は以下の2説に絞られる。
- 天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[79]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[80][注 21]。
- 701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[81]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[82]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[83]。後代に成立した『旧唐書』[84][85]、『新唐書』[86]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[注 22]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注 23]。但し2011年7月、祢軍[注 24]という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[88]。
『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[89]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注 25]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[90]。
歴史
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通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[91]。
人類の歴史よりも日本列島の歴史の方が数千万年以上長く、日本列島には長らくヒトが住んでいなかった。日本列島の形成が始まったのは、哺乳類が現れた始新世(5600万年前 - 3400万年前)と推測されている。そして、アフリカにヒトが現れた時代は始新世よりも遥か後の更新世末期(約25万年前)である。
(1)考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。
一方、(2)歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[注 26]。
建国をめぐる議論
公的には1966年に成立した建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として建国記念の日(旧紀元節)が定められた。記紀による初代神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算(紀元前660年2月11日)による。紀元前663年、奈良盆地とその周辺を支配していた長髄彦を神武天皇が打ち破り(神武東征)、神武天皇が奈良盆地とその周辺を統治することになったとされる。
ただし、国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成され、神話か現実か区別が難しい記録が多いため[92]、建国時期の確実な根拠となる記録は存在しない。
この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった背景がある。
そのため建国記念の日も「日本が建国された日付」を法律上定義するものではない。
神武天皇は実在しなかった架空の人物である可能性がある[92]が、『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、明治時代以前の日本では、これが日本建国の画期と広く考えられていた。そのため明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用されていた[注 27]。
他にも建国の時期として、「日本」という国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった(国際法上の国家主権の存在が明確化された)明治維新の時期とする学説もあるなど、日本の建国時期を明確に定義づける証拠はない。
日本の黎明期
日本列島における人類の歴史は、人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる[注 28]。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[注 29]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[注 30]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長(王)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。
律令国家の成立と貴族政治の展開
朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。また『隋書』では、日本列島での古墳時代後期にあたる610年に隋が「流求国」に遠征して滅亡させたとされており、従来の研究ではこれが琉球諸島に存在していたことが定説となっていたが、その位置を巡っては意見が分かれている[93][94]。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。後述する武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持していくこととなる。
成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8、9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に、関係が悪化した新羅への遠征も計画される[95]など、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって武士を二分する勢力に成長し、政権を巡って両者は相争った。
中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。
文化面においては、7世紀から9世紀にかけて唐を中心とする大陸文化の摂取に努めたが、10世紀頃から12世紀にかけては日本独特の文化が創造されるようになり、国風文化が花開いた[3]。
武家政権の時代
10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制へと移行した。更に治承・寿永の乱で平氏政権を破った清和源氏や北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝貴族勢力と拮抗しながら国内の統治を行い、「一所懸命」「御恩と奉公」の言葉に象徴される封建的なシステムが確立した(荘園公領制、職の体系)[3]。
12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め「日本」「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。また、この頃に今日につながる日本の仏教の諸宗派が発達した[3]。
モンゴル帝国に勝利後
13世紀後半のモンゴル帝国の日本侵攻は、「日本」「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[96]。
1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったが、ほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏の室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。
この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
戦国時代・近世の到来
14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展し、守護領国制が形成されたが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ[3]。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に織田信長の遺志を引き継ぎ日本の統一政権を樹立した豊臣秀吉は太閤検地を実施し近世封建社会の基礎を確立した[97]。戦国大名の最後の覇者となった徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、約260年間にわたる「天下泰平の世」が続いた[3]。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道を思想的に発展させ、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。
日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[98]が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。
海外との交流の面においては、ポルトガル船の来航以来16世紀には南蛮貿易が盛んになり、織田信長は特にこれらを保護し文化的な交流も極めて豊かな状態になった一方、豊臣秀吉は伴天連追放令を発し、秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外は対外政策は徐々に消極的になり、貿易も「鎖国」とも称される貿易体制によって外国文物の流入が制限されるようになったものの、清との貿易や出島でのオランダとの交易を通じ文化・情報の流入は途絶える事はなかった。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。
明治維新と近代日本の展開
江戸幕府は日米和親条約を皮切りに開国を行い、それまでの対外政策を変更した。幕末期には人口増加も見られたが、尊王攘夷運動を経た明治維新で、明治政府は幕藩体制を崩壊させ中央集権化を進めた。近隣国と国境の確定を行い、1875年に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言し[99]、また、琉球処分を行うとともに1885年に大東諸島、1895年に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。明治政府の対外政策の中心課題に不平等条約の撤廃があった。
自由民権運動を受けて1889年に発布された大日本帝国憲法により、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な「立憲国家」となった[注 31][100]。帝国憲法下では部分的な権利が保障されたが、1925年の普通選挙法で男子普通選挙制度が成立した。
諸外国との戦争に次々と勝利する日本
日清戦争に勝利した日本は乙未戦争後に台湾割譲、日露戦争によってロシア帝国に勝利した日本は南樺太割譲、朝鮮総督府設立後には韓国併合で領土を拡大させると、シベリア出兵の失敗を経たのち、関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め[101]、1934年に満洲国を建国して一定の支配権を得るに至り[102]、その後対支一撃論を主張する。
第一次世界大戦に勝利
日清戦争、日露戦争、義和団の乱と外国との戦争で連続的に勝利してきた日本は当初、1914年にヨーロッパで始まった第一次世界大戦に直接国益に関与しないにも関わらず日英同盟を根拠に連合国側として参戦した。日本は中央同盟国のドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告、日独戦争に突入した。欧州諸国とは違い日本本土は第一次世界大戦中、被害を受けなかったため、日本はアフリカやアジアに輸出が増加、国内は大戦景気と呼ばれる好景気が5年以上と続いた。
ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に次々と勝利していった日本は植民地だった中華民国の一部の都市を占領した。大戦の結果、日本などの連合国は勝利した。
戦後の日本は戦勝国になったことから欧州の列強国ともに数少ない国際連盟の常任理事国に加盟するなど国際社会の大国として君臨していった。また、ドイツ領ニューギニアも日本の統治下へと変更になった。
第二次世界大戦に敗北
日中戦争に引き続き1941年に真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦し、既にヨーロッパではナチス・ドイツが侵攻を開始していたものの、アメリカ合衆国が参戦した事でここに第二次世界大戦は全世界に拡大した。真珠湾攻撃の奇襲に成功しながらドックや補給タンクを放置したことがミッドウエイ海戦での米軍の戦力回復を助けたことなど、自国側の兵站計画だけでなく、敵対国の兵站を断つことへの認識の甘さを指摘する説もある[103]。
敗戦により日本は朝鮮・台湾・樺太・千島列島を放棄した。
戦後復興
占領から主権回復期
1945年8月15日、玉音放送で昭和天皇は臣民にポツダム宣言を受諾する事を広報し、同年9月2日降伏文書に日本と連合国が署名したことで太平洋戦争は終結し、日本はGHQの監督下に置かれることになった。初の男女普通選挙だった第22回衆議院議員総選挙で選ばれた衆議院での改正手続きを経た日本国憲法が、1946年11月3日に公布され、大日本帝国憲法が全文改正された形式をとるものの国民主権になり主権者規定が変更された。人材面では公職追放・レッドパージが行われた。占領当局は政策を進めるにあたりプレスコードを布いた。当初憲法に従い軍隊に準ずる組織はなかったものの1950年には警察予備隊が設置された。
1951年9月にサンフランシスコ平和条約が調印され、日本の主権回復が決められるとともに、日本はここで朝鮮の独立を承認し、済州島・巨文島・鬱陵島を含む朝鮮地域の放棄が規定された[104]。同時に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)が調印され、主権回復後も引き続き在日米軍の駐留が続けられることとなった[3][105]。1952年主権回復。1956年、日ソ共同宣言調印後、国際連合に加盟した。
経済の面においては、終戦直後の日本の状況は苛烈を極めたものの、朝鮮戦争の勃発に伴う朝鮮特需もあって経済復興をとげ[3]、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述される状況に至った。
主権回復後
神武景気から本格的な経済成長に入った日本は、60年代には高度経済成長期に突入した。オイルショックまで高度成長は続き、成長と所得の平等(一億総中流)を達成したその様は、経済学者のラビ・バトラが「資本主義の究極の理想に近い」と表現するほどであった。
対外的には1953年の竹島紛争などを除き概ね直接紛争は避けられた。安保闘争も起きたものの、1960年には新たな日米安全保障条約が締結された。この「安保改定」は、2022年現在も有効であり日本の国家安全保障の根幹をなしているが、基地問題やアメリカ合衆国の世界戦略への協力の是非などをめぐりしばしば議論の的となっている[3][105]。
朝鮮に関しては、1965年の日韓基本条約で韓国と国交を正常化し、東アジアでの地位を固めた。「二つの中国」問題については、中華民国とのみ国交を結ぶ「サンフランシスコ体制」をとり、国共内戦を経て中国本土を実質支配していた中華人民共和国とは国交がない期間が続いたが、1972年に中華人民共和国との間に国交を結んだ。引き換えに中華民国とは断交し、以来2022年に至るまで国家間での公式な交流は行われていない[3]。
1980年代にはバブル景気が発生し戦後最大の好景気となった。
政治的には55年体制により、自由民主党と日本社会党に大体分かれたものの、概して自民党が与党であった。
現代
景気過熱、それによる地価や住宅価格の高騰と言う問題に対処するため日銀総裁三重野康は大幅な利上げによるバブル退治を敢行したが、1990年に10ヵ月で日経平均株価が半値まで暴落し早期にバブル退治が達成された(バブル崩壊)にもかかわらず利上げの手を緩めなかった結果日本経済に対する明らかなオーバーキルとなり実体景気にも猛烈な悪影響を与え失われた10年と呼ばれる長い経済停滞を引き起こした。失業した日本人技術者を台湾や韓国の企業が雇い技術力を高めた。90年代より中国などアジア新興国が工業化を行い、輸出により経済を回していた日本は徐々に競争力を失った。
1995年には阪神淡路大震災が発生。
1996年に発足した橋本内閣は景気回復より増税による財政再建を急いだため回復の兆しを見せていた景気の再びの悪化を招いた。この頃より日本はデフレに突入する。
ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソンにより、現代日本は強大になり過ぎた企業が労働者を安く買い叩くmonopsony(モノプソニー)と呼ばれる状況に陥って、生産性の低下や財政の弱体化が起きている可能性が指摘されている[106]。
2001年に九州南西海域工作船事件が発生した。
2001年から小泉・竹中改革が行われ景気悪化は底を打ったが、非正規労働の規制緩和という実質賃金抑制策によって労働者の地位低下を招いたとの批判がある。
2011年には東日本大震災・福島第一原発事故が発生。
2019年、天皇明仁は皇太子徳仁に譲位を行い元号が令和となった。
新型コロナウイルスの流行
2020年1月16日、神奈川県で国内第1例目の武漢市旅行歴のある新型コロナウイルスの感染者が発表された[107]後、パンデミックと呼ばれる状況に陥り、政治、経済、国民生活に大きな影響を与えている。パンデミックの影響による1年延期ののち、オリンピック・パラリンピック東京2020大会が2021年に開催された。
地理
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[注 32]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。
地勢
日本の領土は、6,852の島(本土5島+離島6,847島)からなる[110]。
アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋や極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)も有する。日本はまた北東に位置する北方四島の領有権をも主張している。
領土面積は約37.8万平方キロメートル(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。
埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成整備することが目的であった。これによる埋立地がポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などである。最近では関西国際空港、横浜八景島や和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業と八郎潟のような大規模事業のような例もある。
離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは私有地や重要な施設があるため)立入禁止の島もある。琉球諸島や伊豆諸島は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は亜熱帯気候あるいは熱帯雨林気候となっているため「日本のハワイ」等と称され、日本人観光客に人気である。
- 最東端
- 東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
- 最西端
- 沖縄県八重山郡与那国町 トゥイシ[111][112](北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒[112])
- 日本最西端は長らく与那国島の西崎(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった[111][112]。
- 最南端
- 東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
- 最北端
- 北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
- 北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)
周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の日本海流(黒潮)、対馬海流、寒流の千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。
領土問題のある地域が数箇所存在する。
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。
山岳は、最高峰は富士山(標高3776メートル)の他、南アルプス、北アルプスなど、2500メートル超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山、磐梯山、阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。
河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万平方キロメートルである[113]。
日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万平方キロメートル、領海とEEZを合計すると約447万平方キロメートルであり世界では第6位となる[114]。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。
EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[115]。
国土の変遷
古代
弥生時代後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した[116]。2世紀末には畿内を中心として、西日本広域を支配する邪馬台国連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した[117]。古墳時代前期前半には、現在の九州の宮崎県から東北の宮城県の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている[118][注 33]。荒井秀規は、3世紀末から4世紀に倭王権による東国への最初の接触があった後、4世紀末から5世紀にかけて倭王権による東国への征服戦争が行われたと想定している [119]。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず[120]、6世紀には、経済基盤が脆弱な阿武隈川以北を倭国の支配地から切り離し[121]古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の新潟県中部までが倭国の支配領域となった[122]。またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている[123]。
奈良・平安時代の日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土と認識していたが[124]、一方で九州・四国・壱岐島・対馬とそれらに取り囲まれた本州の北陸と中部地方西部までの範囲こそが日本国本来の領土とも認識していた[125]。そのため東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じておらず[126]、実際には大崎平野までが8世紀における日本国の北限であった[127]。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると[128]関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった[129]。また、南西諸島への関心も薄れていった[130]。
古代の日本では、畿内と言われる行政区が設けられていた。大化の改新によって設置された当時から畿内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが[131]、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った[132]。
中世
中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた[133]。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された[134]。
歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている[135]。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり[136]、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった[137]。
15世紀前半、永享の乱によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した[138][139][140]。一方で当時は独立国だった琉球国は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった[141]。
1419年(応永26年)、李氏朝鮮は倭寇の拠点壊滅を目的に対馬を攻撃したが作戦は失敗に終わった(応永の外寇)。その後対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった[142]。
文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている[143]。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している[144]。
近世
織田政権を継承した豊臣政権は、四国平定・九州平定を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた[145]。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し[146]、1590年(天正18年)の奥羽仕置により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ[147]。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。
豊臣政権を継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び[148]、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った[149]。
1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国(明・清)との間で両属的な関係を維持した[150]。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた[151]。
近代以降
辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)には清との帰属交渉が未決のまま、琉球を沖縄県として公式に日本国に編入した[152]。
19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に日清戦争の結果、清から台湾を獲得(下関条約)し[153]、1905年(明治38年)には、日露戦争後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた[154](ポーツマス条約)。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した[155]。その後、1922年(大正11年)には南洋諸島の委任統治も開始し[156]、太平洋側へも支配地域を拡大させた。
1932年(昭和7年)には満州国を建国し[157]。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに開戦した日中戦争により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し(仏印進駐)[158]、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した[158]。
1939年(昭和14年)2月、台湾総督府は海軍と共に海南島を占領した[159]。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった[160]。だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった[161]。
1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共に南方作戦を発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ[162]。しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。1951年(昭和26年)に締結されたサンフランシスコ条約により南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった[163]。
1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され[164]現在に至っている(沖縄返還)。
気候・動植物
- ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、宮古諸島・八重山列島(石垣島・西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す[165]。内陸部にも標高が高いために寒冷な気候となる地区があり、避暑地として利用されている。モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地や海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
- 冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。併せて、日本海側で起きる冬季雷は世界でも稀な自然現象である。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
- 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
- 比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6、7月(沖縄・奄美地方は5、6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。また、地球温暖化に伴い、元からある季節性の大雨以外にも、春から秋にかけて不規則に線状降水帯が現れ、極端に強い集中豪雨が西日本を中心に多発するようになった[166][167]。年間降水量は、約1700ミリメートルで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
- 生態系
- 南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物や植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
- 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ、奄美大島・徳之島のアマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
- 植物・森林
- 熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に桜と菊が国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
- 陸地の約3分の2が森林(森林率66%[注 34]・森林面積:2,512万ヘクタール・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
- この森林面積の内訳は、天然林が53%(1335万ヘクタール)、人工林が41%(1036万ヘクタール)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ヘクタール)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。
- 動物
- 哺乳類
- 詳細は「日本の哺乳類一覧」を参照
- 100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
- 大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。
- 固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
- 鳥類
- 詳細は「日本の野鳥一覧」を参照
- 500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[168]。
- 渡りをしない留鳥としては、国鳥のキジなどがあげられる。人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリやムクドリが人家周辺に多い。
- 固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
- 爬虫類・両生類
- いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
- 魚類
- 詳細は「日本の淡水魚一覧」を参照
- 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
- また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[169]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
- 昆虫
- 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
環境問題
- 詳細は「日本の環境と環境政策」を参照
- 1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[170]。
- しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業、リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
- 高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。
地域区分
都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた郡、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、施行時特例市に定められている。
- 北海道地方
- 1.北海道
- 東北地方
- 2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
- 関東地方
- 8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
- 上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟・山梨・長野・静岡の4県を、それぞれ加える。
- 中部地方[171][172]
- 中国地方
- 31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
- 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
- 四国地方
- 36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
- 四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。
- 九州地方
- 40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
- 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
- 奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[177][178][179]ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
- 沖縄地方
- 47.沖縄県
- 沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
- 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い[180][181]ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
都市
順位 | 都道府県 | 市(区) | 法定人口 | 推計人口 | 増減率 (%) | 種別 | 推計人口の 統計年月日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
0 | 東京都 | 特別区部 | 9,733,276 | 9,722,792 | -0.11 | 特別区部 | 2022年12月1日 |
1 | 神奈川県 | 横浜市 | 3,777,491 | 3,772,421 | -0.13 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
2 | 大阪府 | 大阪市 | 2,752,412 | 2,757,817 | +0.20 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
3 | 愛知県 | 名古屋市 | 2,332,176 | 2,326,461 | -0.25 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
4 | 北海道 | 札幌市 | 1,973,395 | 1,960,486 | -0.65 | 政令指定都市 | 2022年11月30日 |
5 | 福岡県 | 福岡市 | 1,612,392 | 1,632,087 | +1.22 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
6 | 神奈川県 | 川崎市 | 1,538,262 | 1,541,109 | +0.19 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
7 | 兵庫県 | 神戸市 | 1,525,152 | 1,510,017 | -0.99 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
8 | 京都府 | 京都市 | 1,463,723 | 1,448,955 | -1.01 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
9 | 埼玉県 | さいたま市 | 1,324,025 | 1,340,329 | +1.23 | 政令指定都市 | 2022年12月1日 |
10 | 広島県 | 広島市 | 1,200,754 | 1,191,197 | -0.80 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
11 | 宮城県 | 仙台市 | 1,096,704 | 1,099,547 | +0.26 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
12 | 千葉県 | 千葉市 | 974,951 | 978,756 | +0.39 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
13 | 福岡県 | 北九州市 | 939,029 | 923,793 | -1.62 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
14 | 大阪府 | 堺市 | 826,161 | 816,236 | -1.20 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
15 | 静岡県 | 浜松市 | 790,718 | 783,156 | -0.96 | 政令指定都市 | 2022年12月1日 |
16 | 新潟県 | 新潟市 | 789,275 | 778,380 | -1.38 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
17 | 熊本県 | 熊本市 | 738,865 | 737,909 | -0.13 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
18 | 神奈川県 | 相模原市 | 725,493 | 726,558 | +0.15 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
19 | 岡山県 | 岡山市 | 724,691 | 719,320 | -0.74 | 政令指定都市 | 2022年11月1日 |
20 | 静岡県 | 静岡市 | 693,389 | 682,619 | -1.55 | 政令指定都市 | 2022年12月1日 |
政治
法制度
日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[注 36]。2019年現在において国立国会図書館のデータベースである 日本法令索引 は、有効な勅令としては本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号)、s:閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)など57件、太政官布告・太政官達は改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)など9件を収録している。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門が下した判断への干渉は、憲法判断に関する統治行為論を代表として司法判断を控えることが多い。
憲法
現行の憲法は日本国憲法であり、国家形態および統治の組織・作用を規定する[182]。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された[182]。
形式的には大日本帝国憲法第73条を適用して、大日本帝国憲法の改正手続を経て制定された。改正手続きは96条に規定されているが硬性憲法に分類され、現在に至るまで改正されたことは一度もない。
日本国憲法の根底には第13条「個人の尊厳」の理念がある[183][184]。
長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条と自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。憲法裁判所設置や新しい人権、緊急事態条項も改憲テーマで扱われるようになってきている。なお、主権が制限されていた、もしくは憲法制定権力が変更されたなどを理由として、占領下での改正手続きに法的瑕疵があったとする議論があり、一部には、日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。
法律
明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制や議院内閣制については英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる[185]。日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)[注 37]、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。
死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本における死刑を参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている[186]。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。
権利
- 報道の自由
日本国憲法第21条によって報道の自由を含む表現の自由と検閲の禁止・通信の秘密が謳われている。ただし、表現の自由は絶対無制限に保障されたものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限は是認されることが立川反戦ビラ配布事件で判示され[187]、西山事件では、正当な取材活動の範囲を逸脱したとされる記者に有罪判決が下っている[188]
公的機関による報道機関に対する直接的な加害行為はほぼ見受けられず、記者が殺害された日本国内での政治的テロは、1987年の赤報隊事件で朝日新聞の記者1名が犠牲になったのが2021年現在において唯一の事例となっている(この事件では、報道関係者に限らず総理大臣経験者である中曽根康弘・竹下登らに対する強迫行為なども行われている)[189]。
日本独特の慣習として記者クラブ制度があり、加盟しているマスメディアのみが政府や行政機関などの記者会見を独占し、情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い[190]。
公共の電波を使用するテレビ放送・ラジオ放送については、放送法・電波法の定めにより、総務省が発行する放送事業者免許が必要である。放送法第4条では中立な内容(公安及び善良な風俗を害しないこと・政治的に公平であること・報道は事実をまげないですること・意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)が義務付けられており、2018年には同条の撤廃が検討されている[191]ものの、2021年現在も存続している。 総務省所掌の公共放送である日本放送協会(NHK)の予算は、放送法第70条の定めにより、国会の承認を必要とする[192]。
新聞については、過当競争の防止を目的とした特殊指定の適用を受けているが、公正取引委員会は「新聞業における特定の不公正な取引方法」としてその見直しを求めていて、業界団体である日本新聞協会と対立している[193]。なお、新聞は消費税の軽減税率適用対象となっている[194]。
フランスを拠点とする非政府組織「国境なき記者団」(RSF)が作成する2020年の『世界報道自由度ランキング』では、調査対象国180か国中第66位とされ、各国を5段階に分けた分類では上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされている。RSFは、日本について「議会主義的君主制であり、概してメディアの多元主義の原則を尊重している」としつつも、上述の記者クラブ制度の他、「編集部門が、経済的利益を優先する巨大な『系列』の方針に左右される状況が続いている」ことや「SNSでの福島第一原子力発電所事故や沖縄基地問題などを取材するジャーナリストへの嫌がらせ」などを課題として挙げている[195][196]。ただし、このランキングは質的調査を当該国の報道関係者・弁護士・研究者などへのアンケートに依存しており、したがって点数付けはこれらのグループの自国政府への感情等によって左右される。また、調査対象国の評価点の分布が平均値付近に集中し、点数の差以上に順位の開きが出る傾向がある[197][198]。
なお、世界的な知名度がより高い[198]「フリーダム・ハウス」の『Freedom of the Press 2017』においては、199カ国中48位で、報道の自由が確保されている(free)国と判定されている[199]。この他にインターネット上の自由度に関する報告書の『Freedom on the Net 2019』において日本は65カ国中11位に位置づけられ、インターネット上の自由が確保されている国と判定されており[200][201]、『Freedom in the World 2020』において日本の全般的な自由度は100点満点中96点と評定され、アジアで最も自由な国として位置づけられている[202]。
元首に関する議論
日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある[203]。政治学者の田中浩、憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている[203][204][205](内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。
天皇
「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[206]。現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[207]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[208]。
『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という[209]。戦後に「社会科学用語として定着」したとされる[209]。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる[210]。憲法学者の野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による[211]。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した[211]。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい[211]。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている[211]。
東洋史学者岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向(宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[212]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[213]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」[214]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[215]。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古の王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている[216]。
国政
政治体制
日本は単一国家であり、その政治体制としては、「議会制民主主義体制」・「象徴天皇制」[217][注 38]・「議院内閣制」を採るとされる。
中央政府
日本国政府(統治機構)は、憲法上、立法権を国会に、行政権を内閣に、司法権を裁判所に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。日本国憲法第41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)[218]、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説)[219]が有力である。
- 立法府
国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。上述の通り日本国憲法41条では「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」ことがうたわれる。一方、日本国憲法第72条では内閣総理大臣が内閣を代表して議案を国会に提出することとされており、この"議案"には法律案が含まれているか否か学説が分かれている。実際の運用では、内閣立法と議員立法が併用されている[220][221]。
衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。
- 行政府
行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散決定権を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。
国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない[221]。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。
選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘や小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。
- 55年体制とその後
- 国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。
- 1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣(細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけの自社さ連立政権である村山内閣(村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣(橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党・社会民主党・国民新党からなる民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣(鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣(野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。
- 司法府
日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所(皇室裁判所や軍法会議など)の設置は禁止されている。
司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制と参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官の公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。
地方政治
政治体制
地方政治においては、国政とは異なり、住民から直接選挙される首長と地方議会による、二元代表制が採られる[222]。
地方政府
地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体(地方政府)が担う。
- 市区町村
- 市が795、町が743、村が183、合計1718[223][注 39]。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)[224][225]。かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。
- 執行機関たる市町村長、議決機関たる市町村議会[注 40]が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。
- 「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。
- 都道府県
- 都が1、道が1、府が2、県が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により全国に行政区画として府・県が置かれた。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない[注 41]。
- 都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである[226]。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。
- 執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都や中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。
選挙
国際関係
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1956年から国際連合に加盟しており、1958年には「国際連合中心」「自由主義諸国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」の外交三原則が掲げられたが、概して日米基軸外交と両立する範囲内での実施が実情となっている[228][229][230]。意外なことに、アメリカの2022年9月16日の調査によると、世界が国連に満足している一方で、日本は国連に対して肯定的な見方よりも否定的な見方が8%とやや多いそうである[231]。
現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、157か国が日本に大使館を設け41の国際機関が日本に事務所を設けている[232]。
2019年には日本からビザなしで渡航できる国の数が190か国でシンガポールと並び世界一位となった。調査対象となった200の国と地域の中で最多だった[233]。
また、日本はG7、G8、G20、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである[25][26]。
現在、日本は国際連合加盟国のうち、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を除いたすべての加盟国に加え、バチカン市国、コソボ共和国、クック諸島、ニウエを国家として承認し国際関係を有している。また、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、パレスチナ(パレスチナ国)、台湾(中華民国)と非公式の関係を持つ。
国際連合
東アジア
東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した[234]。日中平和友好条約に基づき国交は断絶したが非政府間の実務関係として交流が続く台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)は、かつて(日本領)台湾や(日本領)朝鮮として大日本帝国に統治されていた経緯から、現在でも重要な貿易相手である[235]。また、経済成長を果たした中国は科学技術や経済・ビジネスにおいて日本の競争相手となっている。北朝鮮は、同国の建国以来一貫して国交がなく、日本は同国に対して経済制裁を実施している。軍事、安全保障面では日本・韓国・台湾はそれぞれアメリカを介して緩やかな協力関係にある。一方、中国は建国由来(社会主義国)から朝鮮戦争以降、北朝鮮と同盟関係にあり、ロシア(旧ソビエト連邦)とも協力関係にある。
韓国:古代より日本は高麗や李氏朝鮮、大韓帝国といった朝鮮半島の歴代政権と一定の交流を維持したが[236]、江戸時代後期になると征韓論が現れた[237]。明治期に入り、新政府で征韓論を主張した主だった者は明治六年政変で退けられたものの、1876年に不平等条約である日朝修好条規を締結。大陸勢力からの防衛も見据えながら朝鮮半島を利益線ととらえた日本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて朝鮮への影響力を強め、1910年には韓国併合が行われた[238]。日本による統治の開始当初は陸軍主導の武断統治が行われたが、1919年の三・一運動を招いた。その後「一視同仁」「内鮮一体」を建前とする懐柔政策もとられたが、既に歴代王朝による長い統治の歴史を有する朝鮮において人心の完全掌握は望めず、歪な支配構造をもたらした。そして1930年代から1940年代にかけて実施された総力戦遂行のための施策は、朝鮮人民に多くの負担を強いることとなる。一方、自らの手で国民国家を創建できなかった朝鮮においては、日本に対する抵抗運動それ自体がナショナリズム形成と密接に結びついている[239]。
第二次世界大戦での日本の降伏により、主権を回復(光復)して北緯38度線以南を実効支配地域とする大韓民国(韓国)が建国された。朝鮮戦争中の1950年には韓国支援のため海上保安庁の特別掃海隊が日本から派遣されるなどしたが[240]、日本の台頭を警戒する[241]李承晩政権のもとで、韓国は1952年(昭和27年)に一方的に李承晩ラインを宣言して竹島を占拠。これにより竹島問題が発生し、この境界線を超えた日本の漁船は拿捕され、多くの日本人漁師が殺害・抑留された[242][243]。日本本土内においても、韓国政府の工作員が新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件を起こしている[244][245]。
四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民の反発を押しきり日韓基本条約を締結し日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽した事で日本統治下の植民地支配の賠償をめぐる論争が起きる原因となった。金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日韓ワールドカップ共催も提案されて日本に親近感を抱く人々の増加も見られた[246]。
しかし、盧武鉉政権では領土や歴史問題で強硬な外交方針に転じ、2005年(平成17年)に盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した[247]。政権後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた[248]。その後の歴代政権においても根本的な関係改善の兆しは見られなかった。平成26年版外交青書では「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値と、地域の平和と安定の確保などの利益を共有する日本にとって、最も重要な隣国」とされていた表現も、年を追うごとに簡素なものとなり、平成30年版外交青書では何ら"枕詞"がつかなくなった[249]。ただし、令和2年版外交青書から「重要な隣国」の表記が復活している[250]。
なお、アメリカ合衆国を除き日本と犯罪人引渡し条約を結んでいる唯一の国であるが(2022年現在)[251]、2011年から2012年にかけて発生した靖国神社・日本大使館放火事件においては、大使館放火の罪については韓国裁判所が犯人の中国人に有罪判決を下したものの、同人を政治犯と認定した韓国側は刑期満了しても神社放火の罪を捌くための日本への身柄引き渡しを行わず、当時の内閣総理大臣安倍晋三が「条約を無視する行為」として対応を批判している[252][253][254]。
防衛面においては、日韓の国防関係者による交流が継続的に行われているが[255][256]、2018年の済州国際観艦式での自衛艦旗を巡る対立や韓国海軍レーダー照射問題、2019年の韓国による日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)破棄通告など、摩擦が表面化することもある。
文化面では韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつあり[257][258]、日本でもK-POPなどの韓国文化が若者や女性を中心に一定の人気を博している[259]。
北朝鮮:現在国交は存在しない。双方の在中国大使館(北京)が政府間連絡窓口となっているが、東京には旅券、公用査証の発行や親善交流の窓口機能を有する在日本朝鮮人総聯合会が存在している[260]。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮・大韓帝国の大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場であり、国家承認もしていない[261]。なお、国際連合加盟国の中で日本が承認していない唯一の国家となっている。また、日本は賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、国交を正常化して日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが[262]、その後は国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題、北朝鮮人権問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。なお、拉致問題に関しては北朝鮮は「すべて解決済み」という公式見解を示している[263]。
日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している[264]。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出したが、2017年には再指定されている[265]。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した[266]。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルのスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、2016年と2017年には計3回日本上空をミサイルが通過し全国瞬時警報システム(通称Jアラート)が発動するなど[267]、日本の安全保障上深刻な脅威となっている[268]。
中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した(日中国交正常化)[269]。鄧小平が実権を握ると「四つの基本原則」を打ち出して改革開放政策を取り、日本はそれを高く評価して政府開発援助の名目で中国に大規模な円借款を行った[270]。その後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[注 42]。しかし心情面では靖国神社問題に関連して関係が悪化している。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、2008年6月のアメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もあった[271]。2010年以降、GDPで日本を抜いて、また中国依存を指摘されるなど経済的に無視できない存在となっている[272]。
軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている[273]。また、中国海警局は2021年に武器使用を認められるなど海洋進出の姿勢を顕わにしており、日本は危機感を明らかにしている[274]。しかし、2019年には中国人民解放軍が横須賀に入港し数年ぶりの自衛隊との共同訓練を行うなど、協力の兆しもある[275]。
中華民国:台湾(中華民国)は、日清戦争で大日本帝国に割譲されて以来、第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が、開発や安定の為に1990年代まで独裁政治を敷いてきた[276]。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なし、国連における中国代表権を巡って争われたアルバニア決議でも中華民国を支持したが、1970年代の中華人民共和国との国交樹立に伴い、中華民国とは公式に断交し、2022年現在も台湾を国家として承認していない。断交に伴い双方の大使館は閉鎖されたものの、日本台湾交流協会と台北駐日経済文化代表処が事実上その役割を果たしている。なお、日中平和友好条約では台湾が自国領土の不可分の一部であると主張する中華人民共和国政府の立場について「十分理解し尊重する(understand and respect)」と表現されており、中国の主張を承知しつつも認めているわけではないという態度を取っている[277]。1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展し、親日国の一つとなった[278][279]。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後国民党と民主進歩党(民進党)との二大政党制へと移行した。抗日戦争の経験から日本に対して厳しい歴史認識を持っている外省人は国民党を支持し、日本統治時代を経験した親日的傾向が強い多数派の本省人が民進党を支持する、という構図での理解が浸透しているが[279]、2014年のひまわり学生運動に象徴されるように、世代が下るにつれてそのようなステレオタイプは解消されつつある[280][281]。
現在では台湾は安全保障面において、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない[282]。
民間レベルでの人的・文化的・経済的な交流は、断交後も一貫して盛んであり、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震・東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された[283]。近場の海外であるため観光地としての人気も高く、直行便が運航されている。また、海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用するなど、各種インフラに日本の技術や製品が導入されている[284][285][286]。
東南アジア
歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまで遡る[287]。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は列強・欧州諸国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ポルトガル)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出したが、第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる[288]。また日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加[289]、東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアで、また東ティモールやベトナムへも派遣された。東南アジア周辺の海域(特にマラッカ海峡、シンガポール海峡)は中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが[290]、海賊が頻繁に出没する[291]。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っているほか、現地派遣も行っている[292]。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。
インドネシア:旧オランダ植民地で、朱印船貿易や日本町を中心に戦国時代から民間での交流は存在したが、鎖国に伴いその交流は途絶えた[293]。第二次世界大戦の際には日本が蘭印作戦でオランダ軍を破り、一時日本の占領下に置かれて当初は植民地支配の解放者として歓迎されていたものの、戦争が激化するにつれ皇民化政策が施されインドネシア人の中には「ロームシャ」として過酷な重労働に従事させられた者もいた[294]。しかし、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた[295]。ただし1970年代には日本企業がインドネシアに次々進出、インドネシア経済で支配的になったことから、それに反発して田中角栄のインドネシア訪問に合わせて大規模な反日運動「マラリ事件」が起こった事もある[296]。
現代では、2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化を進め、しかしいずれの国とも軍事同盟を結ばないなど多極外交を展開している[297]。日本との関係は良好で、日本にとっては液化天然ガスの死活的に重要な供給国であることから、多数の日系企業が進出、エネルギー事業に携わっている[298]。また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画[注 43]など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援[注 44]などソフトインフラ整備の支援にも及んでいる。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した[301]。防災システムの構築にも支援を行っている。
カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアとは、戦後まもなく国交が樹立されたものの[302]、ポル・ポト政権時代には大使館を閉鎖するなど事実上国交は一時断絶していたが、政権崩壊後の1990年代には正常化している[303][304]。日本からは経済的援助がなされておりカンボジアにとって日本は最大の開発援助国であるほか[305]、自衛隊を活用した地雷撤去の活動や教育支援なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。一方カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている[306]。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援を継続しており、日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている[307]。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している[308]。
シンガポール:イギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは、明治時代に山本音吉がやってきた事によって初めて日本と交流を持った[309]。1942年(昭和17年)には、第二次世界大戦のシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた[310][311]。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国であり、要人往来も活発で経済・政治において緊密な関係を保っている[312]。
タイ:14世紀ごろよりアユタヤ日本人街が形成され、最盛期には3000人の日本人が居住するなどアユタヤ王朝支配下のタイで経済的な影響力を持った[313]。山田長政が当地で活躍した[314]。その後、江戸幕府が鎖国政策を取ったため日本との交流を喪失したが、アユタヤ日本人街は18世紀まで存続していた[315]。日本開国後、1887年には日・タイ修好宣言が結ばれて本格的に国交が再開している[316]。大日本帝国とタイはともに植民地化を免れた共通点がある事から友好関係が築かれ、1932年にはタイ立憲革命が巻き起こったが、それは駐シャム公使矢田部保吉をはじめとする日本人の支援も背景にあった[317]。第二次世界大戦では枢軸国とはされていないが、日泰攻守同盟条約を結んで日本軍が進駐、日本に対し協力的な姿勢を見せた[318]。
戦後は日本の国際社会復帰に尽力、現代では親日国として知られ[319]、経済的に深い繋がりを有している。タイの国際貿易に占める対日割合は、輸出9.5%、輸入15.8%(2016年)であり、中国に次ぐ主要貿易相手国となっている[320]。また、日本のタイへの直接投資額は1,489億バーツに上り、これはタイの全投資額の4分の1を占めた[320]。2007年には日本にとってアジア三か国目となる経済連携協定が結ばれた[321]。人件費・製造コストの低さからかねてより日系企業の製造拠点が多く置かれていたが、近年では経済成長により消費市場への転換も見られる[322]。タイ王室と皇室との関係も良好で[323]、日本を訪れるタイ人も増加している[324]。2004年のスマトラ島沖地震では自衛隊のタイ派遣も実施された[325]。
フィリピン:朱印船貿易を通じて安土桃山時代から交流を持ち、多くの日本人が移り住んでマニラに日本人街が形成された[326]。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、バテレン追放令により日本を追放された高山右近も受け入れたが[327]、江戸幕府の鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。それが再開されたのは1868年に日西修好通商航海条約の締結以降である。1899年にはフィリピンが独立を求めたため米比戦争が勃発しているが、日本は表向き中立を保ったものの一部の有力者が武器の売却や輸送を行い[328]、また指導者であったアルテミオ・リカルテの亡命も受け入れている[329]。第二次世界大戦では日本に占領され、現地住民を巻き込んで激戦となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったものの、賠償金支払いや経済援助を通じて徐々に改善が進められた[330]。現在では親日国として知られる[331]。
2008年には日本・フィリピン経済連携協定が発効され、経済的な結び付きが強まっている[332]。ただし、フィリピンの主要貿易相手国は現状アメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている[333]。人件費や製造コストの観点から、多くの日系企業がフィリピンに製造拠点を置いて雇用を創出している[334]。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する[335]。2013年11月には台風ヨランダがフィリピンに甚大な被害を齎し、日本は自衛隊の派遣を行った[336]。政情面でも日本は貢献しており、2011年には日本の仲介でフィリピン大統領ベニグノ・アキノ3世と反政府勢力であるモロ・イスラム解放戦線が非公式の初会談を行った[337][338]。
ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達はファン=ボイ=チャウが提唱した日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した[339]。第二次世界大戦ではフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争(支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した[340]。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れた[341]。
ベトナム政府の国策による労働輸出と日本の人手不足もあって日本は多くのベトナム人労働者を受け入れている。ベトナム人労働者は2021年時点で約45万人[342][343]、そのうちの20万人は技能実習生として受け入れており[342]、2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは最大の外国人労働者供給国となっている[344][345]。一方で日本はベトナムに多額の開発援助を実施しており、日本のODAによって建設・整備されたタンソンニャット国際空港やカントー橋はベトナムの交通に欠かせないものとなっている[346][347]。また、人件費高騰や生産コストの増加に伴って中国から生産拠点を移転させる日系企業が2000年以降増えつつあり、その最大の移転先はベトナムとなっている[348]。
南アジア
南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教(大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ[349][注 45]、サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した[350]。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが[351]、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが[352]、情勢の変化に伴って近年関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)には東南アジアも含めて外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した[353]。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。
インド:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが[354]、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与え、インド国民会議結成に強い影響を与えている[355]。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが[注 46]、スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した[356]。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインドは「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた[357]。
その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し[358]、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り[359]、さらには1974年に核実験を実施した影響で日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが[352]、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで日本の経済進出が加速した[360]。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や情報技術での実績が注目されている[361]。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[362]。さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA「日本・インド経済連携協定」が発効[363]。日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で関税がゼロになる[364]。さらにはアメリカ、オーストラリアとともに勢力を拡大させる中国をにらんで日米豪印戦略対話(クアッド)を結成、緩やかな同盟状態となっている[365]。
パキスタン:日本は主要な援助国でありコハットトンネルなどが円借款で建設されたが[366]、1998年の地下核実験を機に2005年4月まで援助を停止していた[352]。しかし、自衛隊イラク派遣などで安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した[367]。人口2億人という魅力から、今後は日系企業に有望な巨大市場となると見られている[368]。歴史的にはインダス文明や仏教文化が隆盛したことから文化遺産が豊富であり、現在では日本はユネスコを通じてモヘンジョダロやタキシラ(ガンダーラ遺跡)保全への支援を実施している[369]。
バングラデシュ:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている[370]。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている[371]。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが[372]、その労働条件の劣悪さが非難される事もありバングラデシュに製造拠点を置くユニクロなどの日系企業は労働環境の改善に乗り出している[373]。初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相によると、バングラデシュの国旗を制定するときに「父は日本の日の丸を参考にした」と述べており[374]、従来から親日国として知られる。
オセアニア
オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
オーストラリア:日本とオーストラリアの外交関係は、当時オーストラリアを支配していたイギリスを通じて19世紀末から始まり、1930年から1931年にかけて日本はオーストラリアにとって三番目に多額な貿易相手国となった[375]。その後、第二次世界大戦では交戦国となり日本はオーストラリア北部の都市ダーウィンなどを攻撃[376]、日本の敗戦後両国の国交が回復したのは1952年であった。1957年にはロバート・メンジーズ首相が来日し政治的・経済的な交流の強化を申し出て[377][378]、1976年には日豪砂糖交渉といった貿易摩擦が起こりつつも「日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約」が結ばれるなど[379]、経済的な結び付きが少しずつ強まっていった[380]。
現代では、オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。経済面では、日本・オーストラリア経済連携協定の締結や環太平洋パートナーシップ協定、APEC、東アジア首脳会議、東南アジア諸国連合地域フォーラムにともに参加しており経済的障壁は低い[381][382][383][384][385]。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、軍事、外交などでも共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言が調印された[386]。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。潜水艦の共同研究も行っており、日本が兵器についての共同研究を行う国はアメリカとイギリスに次ぎ三か国目である[387]。また、オーストラリアは日本の集団的自衛権の行使を容認する姿勢を見せるなど[388]、事実上の同盟国に近い立ち位置となっている[389]。一方で、捕鯨問題では対立関係にある[390]。
ニュージーランド:ニュージーランドとの外交関係は20世紀初頭に、当時ニュージーランドを支配していたイギリスを介して始まり、1928年には独自の通商条約を結んでいる[391]。第二次世界大戦中は国交が途絶えていたが、戦後に回復すると、両国は共に太平洋の島国そして先進国として活発に貿易を行い、アジア太平洋地域の安定と発展に関心を持っていることなどから、政治的・経済的な結び付きは強くなっている[392]。それを反映して、現在ではともにAPEC、オーストラリア・グループ、TPP11、RCEP、OECDの参加国であるほか、ニュージーランドが参加する五か国の諜報協定「UKUSA協定(通称ファイブアイズ)」との連携を日本は強化している[393]。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続いた。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある[注 47]。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「外圧」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。
中央・南アメリカ
総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。
19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。
中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。
アルゼンチン:1898年(明治31年)、日本はアルゼンチンと修好通商航海条約を結んで、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し[396]、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。1941年以前の両国間の関係は、ブラジル同様に移民が中心であり、現在アルゼンチンには推定1万人ほどの日系人(日系アルゼンチン人)がいる[397]。第二次世界大戦時には一時国交が途絶えるものの、戦後にすぐ回復した。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される[398]。現在ではともにG20の一員として、経済的な結び付きを強めている。
チリ:1897年の日本チリ修好通商航海条約の締結により、初めて国交が樹立した[399]。その後、第二次世界大戦では1945年にチリが対日宣戦した事に伴い一時国交が断絶[400]、しかし戦後はすぐ回復した。現在では、チリで生産される銅やモリブデン、木材、魚類、そしてワインなどが日本に輸出されており、特にチリワインは対日ワイン輸出額第一位である[401]。この活発な貿易を支えているのは、二国間で締結されている日チリ経済連携協定(EPA)や日・チリ租税条約であり[402]、また両国は同時に環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の参加国でもあるなど、友好国である。加えて、チリは1960年にマグニチュード9.5のチリ地震に襲われ、日本は2011年にマグニチュード9.0の東日本大震災に遭うなど、両国とも地震大国である。このことから、地震研究に関しては手を取り合う場面が多い[403]。
バハマ:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている)[404]
ブラジル:19世紀、ブラジルはアフリカ大陸から送られてくる奴隷をコーヒー農園や果樹園の労働者として使役していたが、諸外国の非難を受けて1888年に奴隷制を廃止した[405]。その結果、人手不足に陥りイタリアやスペインから移民を受け入れるも、待遇の悪さや賃金の低さが問題となり移民受け入れが停止され[406]、1892年にブラジル政府は代わって日本人移民の受け入れを表明し、日本国内の人余りもあり利害が一致し、1895年には移民実現のため「日伯修好通商航海条約」が結ばれて、両国に初めて外交関係が樹立した[407]。本格的な移民受け入れが始まったのは、日露戦争に勝利したものの賠償金が得られず経済的に日本が混乱した20世紀初頭であった。その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦などで一時的な移民受け入れの途絶があり、特に第二次世界大戦の際には一時国交まで断絶したものの、移民の動きは戦後の1960年代まで継続した。移民のピークであった1908年から1941年の間には、19万人以上がブラジルへと渡っている[408]。
この移民を通じて、サンパウロにはリベルダージといった日本人街が築かれ[409]、世界最大級の日本人学校もサンパウロに所在し[410]、ブラジル全体では約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している[411]。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、20世紀後半になると日本からブラジルという移民の構図は崩れ、在日ブラジル人も増え続けている事から、日本におけるブラジル文化の浸透も見られる[412]。2013年にBBCが実施した調査では多くのブラジル人が日本の影響を好ましいものと捉えており、最も親日的な国の一つである[413]。外交面では、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、日本にとって南米における最大のパートナーとして国際政治上で連携することも多い。