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渤海 (国)

渤海
大震国
渤海
698年 - 926年


渤海の最大版図(830年代)
公用語 靺鞨語[1][2][3][4][5]
漢語[6][7][8][3]
宗教 仏教
儒教
道教
巫俗
首都 東牟山(698-742)
中京顕徳府(742-756)
上京龍泉府(756-785)
東京龍原府(785-793)
上京龍泉府(793-926)
(国王)
698年 - 718年 大祚栄
907年 - 928年大諲譔
変遷
建国 698年
滅亡928年
現在 中国
北朝鮮
ロシア

渤海(ぼっかい、朝鮮語:발해 パレ、中国語: 渤海、満洲語: ᡦᡠᡥᠠ‍ᡳ[要出典]ロシア語: Бохай698年[9] - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。靺鞨族大祚栄により建国され[10]、周囲との交易で栄え、からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。

大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種である。高麗が既に滅亡(668年)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し[11][12]、『新唐書』はより具体的に「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)」と記しており[13][14]、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある[15][16]

渤海」の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

歴史

 
高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。
満洲の歴史
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沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
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後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
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昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
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慕容部 宇文部
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前秦 平州
後燕 平州
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北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
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五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
(上京道)   東丹 女真
(中京道) 定安
(東京道)
(東京路)
(上京路)
東遼 大真国
遼陽行省
(遼東都司) (奴児干都指揮使司)
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

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ロマノフ朝
中華民国
東三省
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中国朝鮮関係史
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朝鮮の歴史
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伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
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42-
562
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南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府

668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
(Portal:朝鮮)

690年に即位した則天武后が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。「震」という国名は『易経』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり「」に通じ「東方」(正確には東南東と南東の間)を意味することから渤海の支配層が中国的教養を持っていたことが窺える[17]。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻冊封使として派遣され、大祚栄が「渤海郡王」に冊封された。渤海国の名称は漢代以来河北省の海岸地方に置かれた渤海郡の名称をとって渤海郡王に冊封したことによるが、当時もとの渤海郡にあたる地方は滄州と呼ばれており、既に渤海郡の名はない。そのことはかつて高句麗が遼東郡王に、新羅が楽浪郡王に、百済が帯方郡王に冊封されていたように、旧名によって爵号としたものであり、それによってこれが中国の国土であることを明らかにしようとしたものである[18]

2代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(現在の山東省煙台市蓬莱区)を占領したこともあった。また唐・新羅黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。渤海国の高斉徳(大使の高仁義は到着直後に死亡)率いる渤海使節神亀4年(727年)に到着して平城京に入り、翌年の神亀5年に国書と貢物を聖武天皇に奉呈したことを端緒として、この通交は渤海滅亡の延長4年(926年)まで続いた(渤海使遣渤海使)。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、渤海国の毛皮[19]人参、日本の綾絹などが交易された。

大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣(渤海時代を通じて132回)し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京龍泉府(現在の黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜大言義大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して二十数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は安史の乱後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、(黒水都督府)を9世紀初頭に解体した。大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。また黒水部も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。渤海に侵攻した契丹の軍には、幽州などから契丹に流入した人々が加わっていたとわかっているらしい(「燕雲地域の漢人と滅亡以降の渤海人―〈陳万墓誌〉〈耶律宗福墓誌〉〈高爲裘墓誌〉など遼代石刻をてがかりに」 『渤海の古城と国際交流』勉誠出版 2021年3月)。東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。なお、1990年代、渤海滅亡を10世紀長白山の噴火と関連づけた説が登場したが、その後、噴火の時期が渤海滅亡後であることが判明し、この説は消えた。この説がもてはやされた背景には、地球温暖化をはじめとする環境問題への関心と、史料が少なく突如滅亡した渤海に人々がロマンを掻き立てられたことにある[20]

渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる(両面官)制度に影響を与えたといわれる。黒水靺鞨(女真)が建てた王朝(1115年 - 1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「(漢人 (元朝))(中国語版)」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。

滅亡と高麗への亡命

928年929年になると、渤海人の高麗への来投が相次ぎ、東丹国西遷時にあたるため、東丹国西遷に抵抗する者あるいは圧迫を受けた者と推測される。その後、契丹滅亡まで、継続的に渤海遺民の亡命記録があり、934年大光顕亡命の際に数万人、979年に数万人、契丹の大延琳反乱鎮圧時には契丹人も含む500人以上が亡命しており、最後の来投は1116年末から1117年頭にかけて契丹から来投した100人弱である。契丹滅亡時に、渤海遺民の高永昌が遼東の東京に拠って大渤海を称したが、に潰され、最後に来投した渤海人はこの余党とみられる[21]

三上次男は、渤海滅亡直前に渤海人の高麗への亡命が相次いでいることから、渤海宮廷で内紛が勃発していたことを指摘している[21]日野開三郎は、東丹国遼東移治後、旧渤海領に2つの地方政権が誕生したと推測し、上京龍泉府に拠ったのが後渤海、(西京鴨緑府)に拠ったのが大光顕政権とした。後渤海の主権者は大諲譔の弟、大光顕政権は大光顕であるが、後渤海と大光顕政権が別個の政権であるか否かは決し難いが、大諲譔の弟と大光顕とが宮廷の内紛の対立者である可能性はある[22]。ただし、後渤海に関する研究は、異なる時期、異なる地域の史料を寄せ集めて拡大解釈して想定されている。後渤海のものとされた史料は、現在では東丹国の史料とみなされている[23]。来投者の職官は、文官は(司政)、礼部卿工部卿であり、武官左右衛将軍、(左首衛少将)などである。司政は国の政務執行機関である(政堂省)の次官礼部工部の二卿は、政堂省に属する6つの最高行政機関のうちの礼部および工部の長官であり、左右衛将軍は禁衛守護を任官された南北左右衛の将軍とみられ、来投者は、いずれも中央政府あるいは(禁衛)の(大官)・将軍である。来投者の姓は、大和鈞、大元鈞、大福謨、大審理など王族の大氏が多く、来投者のうち、中央政府高官は王族とみられるため、事件の重大さを窺わせ、来投者に率いられた民も、500人、100戸、1000戸など数は少なくない[24]

遼史』巻七五耶律羽之伝には、が渤海国を滅したのち、故地と民を基盤につくった傀儡国東丹国宰相耶律羽之が、東丹国の民を遼東に移すことを説いた上書の一節があり、その上書には、太祖が渤海の内紛に乗じて出兵、戦わずして勝利し、渤海を滅ぼしたとする意味があり、簡略な一句であるが、渤海政治史にとって極めて重大であり、これこそ内紛の事実を裏書きし、あるいは内紛を具体的に伝えたものといえる[25]。近年は耶律羽之墓誌が発見されている[26]

渤海昔畏南朝、阻險自衛、居忽汗城。今去上京遼邈、既不為用、又不罷戍、果何為哉、先帝因彼離心、乘釁而動、故不戰而克。天授人與、彼一時也。

渤海は昔、南朝(中国の王朝)をおそれ、阻険によって自ら衛り、忽汗城(いまの黒竜江省東京城)に居る。いま上京(遼の首都、すなわち上京臨潢府)をさること遼邈にして既に用をなさず。…先帝(遼の太祖)彼の離心により、釁に乗じて動く、故に戦わずして克つ。天、人と彼とを一時に授くるなり[27] — 遼史、巻七五
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:遼史/卷75

高麗は、亡命渤海人に対してあまりよい処遇をしておらず、渤海の世子を称した大光顕に対して、王継という姓名を与え、王室戸籍に編入、都に近い白州の長官に任命し、祖先の祭祀をおこなわせたが、高麗は、帰順した豪族をその地の長官に任命し、支配を委ねるのが一般的であったことから、この待遇も亡命渤海人を白州に移住させて、大光顕を実質的な統治者に任じたとみられるが、新羅のように王室と婚姻を結ぶあるいは官僚として任用するなどの実質的優遇はない[21]。新羅の場合、670年に高句麗王族の(安勝)(朝鮮語版)が来投すると、これを高句麗王、ついで報徳王に冊封、(金馬渚)に高句麗を復興させて、新来高句麗人の受皿にした[28]680年、新羅は(安勝)(朝鮮語版)に王妹を娶らせ、高句麗王家と新羅王家の結合を図り、683年には新羅王家と同じ金姓を賜り、王都慶州に居住させ、(安勝)(朝鮮語版)を新羅の貴族とし、自国の貴族として高句麗王統を維持させている[28]

また、亡命渤海人を失土人遠人と呼び、異域の民とみなした史料の存在も明らかとなっており、高麗時代の大氏の子孫は、(文臣)より劣る武臣胥吏としてのみしか記録に登場しない[21]。また、朝鮮半島南部に移住させられた亡命渤海人の居住地は部曲あるいはであり、部曲あるいは所とは、郡県に隷属し、特定のを課された行政区画であり、その住民の身分は一般良人より低い[21]

高麗亡命後の大氏の動向が最初に記録に登場するのは、10世紀末から11世紀初の三次にわたる契丹の高麗侵攻であるが、『高麗史』によると、(第一次高麗契丹戦争)(中国語版)において、大道秀が契丹軍を安戒鎮で阻止するのに活躍、(第二次高麗契丹戦争)(中国語版)では、西京の防衛に従事したが、保身をはかる同僚に欺かれて、契丹に投降している。また、(第二次高麗契丹戦争)(中国語版)では、大懐徳が(郭州)の攻防戦において戦死しているが、大道秀は『遼史』に「高麗礼部郎中渤海陀失」とあるため、明らかに渤海系であるが、大懐徳も同様とみられる[29]。大道秀の肩書は、『遼史』に「礼部郎中」という文官として登場するが、高麗の記録が伝える中郎将、そして将軍という武官を採るべきであり、最初から武官を本来の肩書として帯びた武臣とみられ、大懐徳も同様であり、高麗初期の大氏は武臣の地位であると判断される[30]

高麗中期になると、1181年慶大升に対する反乱計画の密告者として、令史同正大公器なる人物が記録に登場するが、大公器の肩書は、中央官司の胥吏の(散職)であり、両班の一翼をなす武臣より一段低い政治的社会経済的境遇にあることが確認できる[30]

1218年大集成なる人物が記録に登場する。崔忠献は、武臣政権の安定策として、武臣の歓心を買うため、大集成などを借将軍(散職の将軍)に昇進させており、高麗中期においても、大氏は武臣の地位であることがわかる。その後、大集成は、武臣政権の執権者崔瑀との結びつきから権勢を伸ばし、1232年に大集成の娘が崔瑀の後妻に迎えられ、外戚の地位につき、モンゴルの高麗侵攻の回避と崔瑀の政権維持に役割を果たした。15世紀成立の『世宗実録地理志』の黄海道条によると、(牛峯県)には(亡姓)(高麗時代にはその地に土着していたが、李朝初めまでに他所に移動し、存在しなくなった姓氏)として崔氏および大氏がみえ、高麗時代には、崔氏および大氏も牛峯県におり、大集成の本来の出身地は牛峯県とみられ、大集成の栄達の背景には、崔忠献と同郷という要素が推測され、崔瑀の威勢に依付したものとみられる[31]崔瑀の後継者である崔沆は、政権掌握過程における(金敉)との対立に際し、継母大氏(大集成の娘)が(金敉)を支援したことを怨み、1250年1251年に、継母大氏(大集成の娘)および族党に大弾圧を加え、大集成の族党を全羅道へと(流配)させた[32]

武臣政権の末期には、モンゴルの高麗侵攻と関連し、大金就が登場する。1253年、大金就は校尉の肩書で、牛峯別抄30余人を率い、金郊・興義両駅間において(モンゴル帝国軍)(英語版)と交戦、6年後には開城に侵攻した(モンゴル帝国軍)(英語版)を撃退している。この事例から、大金就もまた武臣の地位(しかも比較的低い)であることがわかり、大金就の率いた牛峯別抄は、牛峯県で組織された編成軍であり、牛峯県所在の大氏の一員として、大金就が指導にあたったと推測される[33]

李氏朝鮮初期に編纂が進められた『新増東国輿地勝覧』巻三二慶尚道金海都護府姓氏条に、慶尚道金海都護府所属の部曲の姓氏として、田氏および大氏が記され、『新増東国輿地勝覧』巻二四慶尚道醴泉郡姓氏条には、李氏朝鮮初期までに他所から移住した者とみられる大氏が、所在地名「亏尒谷」(朝鮮語: 우니곡)を付して記されており[34]、「亏尒谷」(朝鮮語: 우니곡)は、大氏の移住前の本来の居住地を意味し、醴泉郡に隣接する尚州所属の亏尒谷所に該当する[35]李氏朝鮮後期に編纂された大集成の後裔とされる大氏の『永順大氏族譜』は、慶尚道尚州(永順面)(朝鮮語版)本貫としているが、(永順面)(朝鮮語版)は、『高麗史』巻五七地理志二慶尚道尚州牧条に「諺伝、州北面林下村人姓太者、捕賊有功、陞其村、為永順県」とあり、それを、『(増補文献備考)(朝鮮語版)』巻五二帝系考・付氏族・太氏条の永順大氏の部分では、「高麗時、永順部曲民、有太姓者、捕賊有功、陞部曲為県」としており、林下村も部曲と推測され、高麗時代の部曲あるいは所は、地方行政制度の一環をなす行政区画であるが、郡県の下に隷属、住民全体が国家の課した特定の役を世襲的・集団的に義務づけられた政治的社会経済的に郡県とその住民より低い境遇におかれ、磁器ショウガワカメ魚類などの物品の生産・貢納が義務づけられていた[35]

(北村秀人)は、10世紀初の高麗が進めた渤海遺民の受容を、渤海を朝鮮の歴史の一環として位置づける立場から、渤海の併合・吸収による、朝鮮史上最初の本格的統一だとする見解が、主に北朝鮮学界で主張されているが、そうした見解は十分な裏付けがない、と評しており[36]、「記録に現われる当時の大氏の実例をみると、いずれの時期の亡命者の場合も、高麗での政治的社会経済的な地位・境遇は、どちらかというと、低く劣ったものであったことが窺える。こうしてみると、高麗の歴史展開における渤海系民の比重や意義などの評価に関しても慎重さが求められることになろう」と述べている[37]

政治

国名

金毓黻は、「渤海」は「靺鞨」の近変音であると指摘している[38]。また、武則天乞乞仲象を「震国公」に、乞四比羽を「許国公」に冊封した称号とを合わせて考えるべきという指摘があり、音韻学的には「許」「震」が「靺鞨」の別称である「粛慎」の(諧音)(中国語版)、すなわち、許震=粛慎の同音異義語である可能性が指摘されている[39]

支配原理・支配機構

中国史料から、渤海には唐制の三省六部に相当する政堂・宣詔・中台三省と忠・仁・義・智・礼・信の六部、御史台にあたる(中正台)、国子監にあたる(冑子監)、九寺にあたる七寺(宗属寺・太常寺・司賓寺・大農寺・司蔵寺・司膳寺・殿中寺)などの中央政治機関があり、唐の(十六衛)(中国語版)に相当する(十衛)という中央の軍事組織があり、さらには・府・州・という地方行政区分まであったことが判明している[40]。さらにこれらの国家機構を支える官僚には、唐にならって、一秩から八秩までの官品が与えられており、渤海は、その政治組織・支配機構の上では唐に酷似しており、そうした膨大な組織を有機的に結びつける政治原理もまた、唐の均田制府兵制租庸調制を基礎とする中央集権的律令体制を模倣したものと推測される[40]。実際、「渤海、使を遣わし、(唐礼)及び三国志晋書・(三十六国春秋)を写さんことを求む。これを許す」(『唐会要』巻三十六)、「初め其の王、しばしば諸王を遣わし、京師太学に詣り、古今の制度を習識せしむ」(『新唐書』巻二百十九・渤海伝)などの史料の事実から、渤海が唐の律令を採用していたことはほぼ確実である[40]。また、「その王はもと大をもって姓と為す。右姓は高・張・楊・賓・烏・李と曰い、数種に過ぎず。部曲・奴婢の姓なき者は皆その主に従う」(『契丹国志』巻二十六・渤海伝)、「代以大氏為酋長」(『(五代会要)(中国語版)』巻三十・渤海伝)、「俗に王を謂いて可毒夫と曰う…その命を教と為す」(『新唐書』巻二百十九・渤海伝)などの史料、諸書に散見する都督節度使刺史・(県丞)などの官名もまた、渤海が王族と少数の有力氏族出身の官僚貴族によって支配されていた律令体制的国家であったことを裏付ける[40]

橋本増吉は、「官制では唐の尚書省に当るものを政堂省、門下省に当るを宣詔省、中書省に当るを中台省となし、六都に相当するものには左司政の下の忠仁義の三部と、右司政の下の智禮信の三部とがあり、唐の御史台の代りに中正台、殿中省の代りに殿中寺、宗正寺の代りに宗属寺というのをおき、その他武官の左右猛賁、熊衛、羆衛、南北左右衛の各大将軍、将軍など一々唐制に模したものである。尚日本に来た渤海使者の官命には唐書に漏れたものもあるが、是等を総合して考うるに、彼等が唐制に模倣した程度は、この頃の日本の大寶令などより遥に進んで、殆ど全く自己の創意とか、自国の特色とかを忘却していたのである。これは前にも述べた通り固有のものをもっていなかった為である」と指摘している[41]

中央統治機構

地方統治機構に関してはの制度を模倣しており、『新唐書』の記載によれば三省・六部・一台・一院・一監・一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の三省を模倣した行政機構が設置されていた[注釈 1]。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。

宣詔省
唐の門下省に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。
中台省
唐の中書省に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。
政堂省
唐の尚書省に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。
忠部
唐の吏部に相当し、文官の採用・考課・勲封を職責としていた。
仁部
唐の戸部に相当し、土地・銭穀を職責としていた。
義部
唐の礼部に相当し、儀礼・祭祀・貢挙を職責としていた。
礼部
唐の刑部に相当し、最高司法機関を職責としていた。
智部
唐の兵部に相当し、武官人事・地図作成・車馬武器の管理を職責としていた。
信部
唐の工部に相当し、交通・水利・建築及び技術者の管理を職責としていた。
中正台
唐の御史台に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の御史大夫に相当している。
殿中寺
唐の殿中省に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。
宗属寺
唐の宗正寺に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。
文籍院
唐の秘書省に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。日本に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の(述作局)に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。
太常寺
唐でも同名の太常寺が存在している。礼楽・郊廟・社稷の管理を担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。
司賓寺
唐の鴻臚寺に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。
大農寺
唐の司農寺に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。
司蔵寺
唐の太府寺に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。
司膳寺
唐の光禄寺に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。
冑子監
唐の国子監に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。

地方統治機構

 
渤海の行政区分

全国は5京(首都)15府62州の行政区分に分けられ、京の下に府、府の下に州が置かれた。

  • 上京龍泉府(現在の中国黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮東京城) - 首都。龍州・湖州・渤州を管轄。
    • 竜州 - 府治が設けられた。
    • 湖州 - 忽汗海(現在の鏡泊湖)付近とされている。
    • 渤州 - 牡丹江市南部の城址に比定されている。管轄県は貢珍県のみが現在に伝わっている。
  • 東京龍原府吉林省琿春市八連城に比定) - 周囲16km、南北3.5km、東西4.5kmの方形で37カ所の宮殿を擁していた。沃沮の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州・塩州・穆州・賀州を管轄。
    • 慶州 - 府治が設けられ、龍原・永安・烏山・壁谷・熊山・白楊の6県を管轄。
    • 塩州 - 現在のポシェト湾岸クラスキノ南方のクラスキノ土城遺跡に比定され、日本への出発港が設けられていた。下部に海陽・接海・格川・龍川の4県を管轄。
    • 穆州 - 府の南方120里に位置し、会農・水岐・順化・美県の4県を管轄。
    • 賀州 - 位置は不明であるが、洪賀・送誠・吉理・石山の各県を管轄。
  • 中京顕徳府(吉林省和竜市) - 上京府の南方に位置した。盧州・顕州・鉄州・湯州・栄州・興州の6州を管轄。
    • 顕州 - 府治が設けられ、金徳・常楽・永豊・鶏山・長寧の5県を管轄。
    • 盧州 - 中京府の東方130里に位置し、稲の産地として史書に記録がある。下部に山陽・杉盧(さんろ)・漢陽・白巖・霜巖の5県を管轄。
    • 鉄州 - 中京府の西北100里に位置し、位城・河端・蒼山・龍珍の4県を管轄。
    • 湯州 - 中京府の西北100里に位置し、霊峰・常豊・白石・均谷・嘉利の5県を管轄。
    • 栄州 - 中京府の東北150里に位置し、崇山・潙水・緑城の3県を管轄。
    • 興州 - 中京府の西南300里に位置し、盛吉・蒜山(さんざん)・鉄山の3県を管轄。
  • (南京南海府)(北朝鮮北青郡付近) - 沃沮の故地に設けられ、渤海の南端に位置し、沃州・晴州・椒州の3州を管轄。
    • 沃州 - 府治が設けられ、沃沮・鷲巖(じゅがん)・龍山・浜海・昇平・霊泉の6県を管轄。
    • 晴州 - 南京府の西北120里に位置し、天晴・神陽・蓮池・狼山・仙巖の5県を管轄。
    • 椒州 - 南京府の西南200里に位置し、椒山・貊嶺・澌泉・尖山・巖淵の5県を管轄。
  • (西京鴨緑府)(吉林省臨江市) - 高句麗の故地に設けられ、「若忽州」とも称された。神州・桓州・豊州・正州の4州を管轄。
    • 神州 - 府治が設けられ、神鹿・神化・剣門の3県を管轄。
    • 桓州 - 西京府の西南200里に位置し、桓都・神郷・淇水の3県を管轄。
    • 豊州 - 西京府の東北210里に位置し、州府は吉林省安図県の仰臉山城に比定されている。下部に安豊・渤恪・隰壌・硤石の4県を管轄。
    • 正州 - (富爾河)の流域に位置し、東那県らを管轄。
長嶺府
高句麗の故地に設けられ、営州道の要所に位置した。現在の樺甸市の蘇密城を府城とし、瑕州、河州の2州が設けられた。
瑕州が府治であり、河州は現在の梅河口市に比定されている。
扶余府
夫余の故地に設けられ、扶州、仙州が設けられていた。
扶州は府治が設けられ扶余、布多、顕義、鵲川の4県を管轄していた。
仙州は強師、新安、漁谷の3県を管轄していた。
鄚頡府
夫余の故地に設けられ、鄚州、高州が設けられていた。
鄚州は府治が設けられ、現在の昌図県の八面城に比定されており、粤喜、万安の2県を管轄していた。
高州に関しての領県については記録が残っていない。
定理府
挹婁の故地に設けられ、定州、潘州が設けられていた。
定州は府治が設けられ、現在の依蘭県城に比定され、定理、平邱、巖城、慕美、安夷の5県を管轄していた。
潘州は潘水、安定、保山、能利の4県を管轄していた。
安辺府
挹婁の故地に設けられ、現在の双鴨山市宝清県富錦市一帯に比定され、安州、瓊州(けいしゅう)を管轄していた。
安州は府治が設けられていたが、瓊州同様詳細については不明である。
率賓府
率賓の故地に設けられ、綏芬河流域に位置し、華州、益州、建州が設けられていた。
華州は府治が設けられ、現在の黒竜江省東寧市大城子に比定されている。
建州は現在のウスリースク(双城子)に比定されている。
東平府
拂涅の故地に設けられ、伊州、蒙州、沱州、黒州、比州が設けられていた。
蒙州が現在の寧城県に比定されていたこと以外、詳細は不明である。
鉄利府
鉄利の故地に設けられ、現在のウスリー江以東の日本海沿岸部に比定されている。
下部に広州、汾州、蒲州、海州、義州、帰州の6州は設けられていたが、詳細は不明である。
安遠府
越喜の故地に設けられ、率賓州の北、興凱湖の東に位置し、寧州、郿州、慕州、常州の4州が設けられていた。
寧州が府治であったが、それ以外に関しては不明である。
懐遠府
越喜の故地に設けられ、安遠府の北、鉄利府の南に位置し、達州、越州、懐州、紀州、富州、美州、福州、邪州、芝州の9州が設けられていた。
達州は懐福、豹山、乳水などを管轄していた。
富州は富寿、新興、優富などを管轄していた。
美州は山河、黒河、麓河などを管轄していた。
独奏州
独奏州とは府に統括されず、京師に直接上奏できる州である。
渤海では郢州、銅州、涑州が独奏州として記録に残り、王室に直属していた。
郢州は延慶、白巖の2県を統括していた。
銅州は上京の南、現在のハルバ嶺一帯に比定され、花山県などを管轄していた。
涑州は現在の吉林市付近に比定されている。

上記州以外に『遼史』に記録されている集州(奉集県を管轄)、麓州(麓郡、麓波、雲山の3県を管轄)を加えることで62州となり、『新唐書』に記載される62州に合致する。しかし前記の地方統治機構は渤海存続期間において絶対的な制度ではなく、『遼史』の地理志に「安寧郡」や「龍河郡」という記録もあり、渤海前期には見られなかった「郡」が出現していることからも明らかである。このほか政治・軍事上の理由から唐制に倣い節度使を設けている。『遼史』太祖紀・下に節度使来朝の記録があり、節度使存在の傍証といえる。

橋本増吉は、「五京を設けた理由は陰陽五行説や、遊牧生活者に多い、夏冬移居の風の影響もあろうが、更に全国を十五府六十二州に分けていたことにより、大領域が可なり周到なる地方行政を受けていたことを知るに足ると思う」と指摘している[43]

軍事制度

渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には府兵制が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の(北衙六軍)との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。

の軍事制度を模倣したものであることは『新唐書』の記載によれば、以下の通りである。

其武員有左右猛賁、熊衛、羆衛、南左右衛、北左右衛、各大將軍一、將軍一。大抵憲象中國制度如此。

(渤海の)武員には、左右の猛賁(衛)熊衛・羆衛と、南左(衛)・(南)右衛と北左(衛)・(北)右衛(の十衛)があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。(渤海の官制の)手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かこくごとしである[44] — 新唐書、渤海伝
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海

司法制度

渤海の司法制度に関しては、文宗の時代に大彝震の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。律令格式は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。

司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。

中正台
渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。
礼部
渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。
大理寺
渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。

対外関係

交通

陸上交通

陸上交通は上京府を中心に全国の京・府・州・県に放射状に道路が整備されていた。その交通路は現在の道路、鉄道に沿ったものと考えられている。またこれらの中央からの道路以外にも、5京と旧国の間にも道路が整備されていた。

道路の中で最も重要なのは「営州道」と称されるものである。これは渤海からに向かう朝貢使などが使用するものであり、営州(現在の朝陽市)であり、唐が東北地区を支配する要所とされていた地域であり、燕郡城(現在の義県)、安東都護府(現在の遼陽市)、新城(現在の撫順市付近)、長嶺府(現在の樺甸市付近の蘇密城)を経て上京に至る1200km弱のルートである。

新羅への交通は南京府を中心とする「新羅道」が存在していた。『三国史記』地理志には「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載があり、泉井郡(現在の江原道元山市)より柵城府、則ち上京府までの道路の整備状況をうかがい知ることが出来る。この他契丹との交通には扶余府を起点とする「契丹道」が設けられていた。

水上交通

 
 
Kraskino Castle
( )
渤海使の出発地・塩州城(クラスキノ土城

渤海の海上交通は新羅日本への通交に利用されていた。唐への交通は『新唐書』地理志に登州より渤海への交通路が記録されており、登州(現在の蓬莱市)を起点に亀歆島(現在の(砣磯島))を経て烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、更に烏骨江(現在の愛河)を遡上し西京府に至る「朝貢道」と称される道程が示されている。

新羅への海上交通であるが、南海府の吐号浦(現在の鏡城郡)から朝鮮半島の東沿岸を南下するルートと、西京府から鴨緑江に沿って海上に進み、更に朝鮮半島西沿岸を南下するというルートが存在していた。しかし王都から距離のある西ルートは東ルートほど活発に利用されることはなかったようである。

日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし陸路塩州(現在のロシア連邦クラスキノ)に至りそこから海上を進むというものである。現地クラスキノのポシェト湾近くには、主発拠点の塩州城跡と推定されるクラスキノ土城遺跡がある[45]。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、776年に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、日本海を一気に東南に渡海し、能登加賀越前佐渡に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。

外交

唐との関係

大祚栄が震国を建国した当初は、武則天夷狄から収奪する方策を執っていたためと対立していた。そのため当初は突厥新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。

招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。

この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。

渤海は、唐文化の移入に努め、遣唐使を派遣するとともに留学生を送り、唐の学問を学ばせており、国内でも唐の官制を模した三官六省の組織を作り上げ、律令体制を導入している。一方、唐とは異なる独自の年号を使用するなど、唐と一定の距離を置く側面も見られる[46]:1

なお唐滅亡後は、渤海は中原王朝との外交関係を継続している。

突厥との関係

698年の渤海(当時は「震」)建国当初は東突厥の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代阿史那默啜を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を東突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される(吐屯)(トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。

その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。

734年、東突厥は渤海に使者を派遣し、契丹の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年回紇により東突厥は滅亡した。

契丹との関係

渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年が渤海に対し契丹及びへの攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、これを拒否していることからも推測されるものである。

しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。

渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。

新羅との関係

 
最大領域時代の渤海国と新羅

698年に震国が建国された際に新羅はかつての百済全土及び高句麗の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海はと対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である(大阿)を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海と新羅の関係は変質し、大武芸の時代になると高句麗の故地の回収が目標となり両国関係は緊張、それは721年に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。

渤海と唐が「(登州の役)」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、浿江以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。

新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。安史の乱に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。新羅側から790年に(一吉)(7品)の(伯魚)を、812年に()(9品)の(崇正)を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。

この良好な関係も、大仁秀が即位して渤海の領土拡張を目指すようになると、再び両国の均衡は崩壊することになる。826年には新羅の憲徳王浿江に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。

次に両国の関係が好転するのは10世紀の契丹の勃興という外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に後三国の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に同調するそぶりを見せ、反面に使者を送り方物を献じるという二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により耶律阿保機により褒賞を受けている。

新羅と渤海は没交渉であり、史料上では全時代を通じて新羅から渤海へ2回の使節の派遣が確認されるだけであるが、韓国では記録が逸失したに過ぎないという主張もあるが、李成市は「そうした解釈の余地はほとんどない」として以下の2つの理由を挙げている

  1. 新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の長人記事(渤海 (国)#新羅人の渤海認識)は、8世紀から9世紀の新羅・渤海国境付近の政策と新羅人の渤海人に対するイメージを象徴しており、渤海人に対する異形のイメージと新羅が渤海国境付近に強大な軍事施設である西北の浿江鎮典、東北の関門を設置したことから、新羅と渤海に頻繁な交渉を推定することはできない[47]
  2. 渤海衰退期から新羅と渤海の国境付近で靺鞨族が出没・交易を求めた歴史があり、886年に渤海所属の2つの部族が新羅の北鎮に対して、直接の接触を避けながら、文字を記した木片を持って通交を申し出る事件があり[注釈 2]、日常的な交渉があるならば、このような形式の申し出は有り得ず、新羅と渤海の没交渉を反映しており[49]、敵対する新羅国境付近の靺鞨族を管理・統制することは渤海の国家存立に係る事案であり、族(後の靺鞨族)は古来より魚類・毛皮を遥か中国内陸部まで、もたらす遠隔交易を生業とする狩猟・漁労の民であり、渤海の対外交易は、これらを生業にする靺鞨族の交易を国家的に編成したのであり、靺鞨族を包摂・統合した渤海王権は新羅と隣接する靺鞨族の他地域との交易を管理・統制することは政治的安定とって必須であり、従って、渤海滅亡後に高麗と旧渤海人と過剰な交渉がの建国まで展開されるなど渤海衰退期からの新羅と渤海国境付近の交渉活発化は、渤海の衰退・滅亡によってもたらされた現象であることが推察される[49]

渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は対立の歴史と捉える事が可能である。

新羅人の認識

田中俊明李成市古畑徹によると、8世紀の記録には、新羅人が新羅の東北境の住民である渤海人のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感を示し、それだけの異域であったことの証左であり、新羅および渤海の辺境地帯の地域住民に対して、これだけの異域観がみられることから、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと指摘している[50]。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である[51]

新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。

新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る[52] — 新唐書、巻二二〇・東夷伝・新羅
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷220#新羅
新羅國、東南與日本鄰、東與長人國接。長人身三丈、鋸牙鉤爪、不火食、逐禽獸而食之、時亦食人。裸其軀、黑毛覆之。其境限以連山數千里、中有山峽、固以鐵門、謂之鐵關。常使弓弩數千守之、由是不過。

新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず[47] — 太平広記、巻四八一・新羅条
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:太平廣記/卷第481#新羅

李成市は、「関門」或いは「鉄関城」は新羅東北の井泉郡に位置しており、そこには「炭項関門」乃至は「鉄関城」という軍事施設があり、そこに隣接する東の集団は渤海領域民以外にはあり得ず、長人は井泉郡以北の渤海人とみて間違いなく、長人は新羅辺境の軍事的緊張に密接に関係しており、長人の異形、食人描写からみて、長人が恐怖の対象となっており、長人の人間とは異なる身体的特徴、食人描写、人間の女性を捕らえて衣服を作らせるという記事は異形異類の伝承であり、一般的に異民族は、人間と異なる身体的特徴をもつ異形とされ、敵対者は或いは自らの理解を越えたコスモロジーを持つ人は、人間でなく動物或いは妖怪の類であることが指摘され[53]18世紀の『択里志』は朝鮮半島東北について以下記しており、朝鮮半島東北の厳しい自然環境は、飲食・衣類の欠乏に及んでおり人々は犬の毛皮をまとっており、長人記事の「黒毛もて身を覆う」や「婦人を得て、以て衣服を治めしむ」内容は、18世紀に至っても衣服の類が欠乏していた朝鮮半島東北部の実情を仮託して創作されたとみなすこともでき、長人は、朝鮮半島東北の人々の習俗に根ざし、日常的な没交渉と軍事的緊張が加味されて醸成された新羅人の幻影の所産であり、「新羅人にとって国境を接する渤海人とは、異形であり、恐怖の対象」「渤海人を恐怖の対象とするにいたった両者の長期間にわたる没交渉と軍事的緊張が、こうした説話の醸成に深くかかわっていた」と指摘している[54]

以北、山川危険にして、風俗勁悍なり、土寒く地痩せ、穀は惟だ粟麦のみ、粳稲少なく、綿絮無し、土人は狗皮を以て冬を禦ぐ、性飢寒を堪えること一に女真の如し、山に貂參饒く、民は貂參を以て南商の綿布と換え、方に衣袴を得んとす、然るに富厚に非ざる者は能わざる也[54] — 択里志

李孝珩(朝鮮語: 이효형釜山大学)は、「李成市は『新唐書』長人傳承記事を分析して、渤海と新羅の間に交渉がなかったことを明らかにした」と評している[55]

との関係

(ウイグル)は鉄勒諸部の一つであり、バイカル湖南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに東突厥を滅ぼし、またを支援して安史の乱を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。回商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは突厥文字が刻字された回人の遺跡が、沿海州の(チャピゴウ河)岸の渤海寺院跡から出土した景教の陶牌からも回人の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も840年回鶻(回)の政権崩壊により消滅した。

黒水靺鞨との関係

渤海建国当初は黒水靺鞨諸部は独立した勢力を有しており、またとの対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は突厥の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。722年に首長の(倪属利稽)が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を危惧した大武芸は黒水靺鞨に出兵している。

大欽茂が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。大仁秀の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。

渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は新羅との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、924年には後唐に使節を送るようになった。

日本との関係

大武芸神亀4年(727年)に日本に使者を派遣してきたことから、日本と渤海との交渉が始まる。渤海にとってこの交渉は、日本と結びつくことによって、対立していた黒水靺鞨新羅を軍事的に牽制することを狙ったものであり[46]:1に対抗するため奈良時代から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[56]を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。

日本海側の、金沢敦賀秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

日本の朝廷は、渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を想起し、結果、渤海を自分より下位の朝貢国とみなした[46]:1。日本と渤海の関係は、表面的には日本が上位・渤海が下位であり、渤海は朝貢国の立場を甘んじて受けていた[46]:5。ただし、時代によってその態度は微妙に異なっており、宝亀延暦年間には日本側の国書から高句麗とのつながりを示す文言が消えて、代わりに自尊的な表現が出現し、唐風文化に対する関心が高かった弘仁年間には渤海が唐風文化の積極的摂取に努めていることを評価し、日本の天皇が渤海の王に親しみを抱いていることを示すものになっている[57]。また、初期の頃は渤海使の帰国に合わせて遣渤海使を返使として派遣するのが恒例であったが、宝亀年間以降はその原則が崩れてきたこともあり、渤海使は国書と共に中台省牒を持参し、日本側も遣渤海使に国書と太政官牒を持たせるようになった[58]

渤海は日本に対して朝貢をしたが、当時の日本の国力では、毎年の朝貢に対して回賜を行う能力は無く、天長元年(824年)に、渤海に対して使者派遣の間隔を12年に1度にするという制限が設けられた。日本海沿岸諸国にこの制限を通達した文書には、「小の大に事へること、上の下を待すること、年期・礼数、限り無かるべからず」と、大国が小国との交渉に制限をつけるのは当然のことだと、かなり高圧的に述べている[46]:4。しかし、渤海使はこの12年に1度という約束を平気で破って、数年おきに使者を派遣しており、その目的は朝廷との国交にあるのではなく、到着地の日本海沿岸でおこなう密貿易の利益にあったとみられる[46]:4。渤海は年期違反に際して、「日本を慕う気持ちが強すぎて、派遣間隔が空いてしまうことに耐えられない」「かつては無制限の使者派遣が認められていた」という2点を強く主張し、日本としても、自分を慕ってやってくると言っている渤海を無下にもできず、「大国のトップである天皇は、渤海に憐れみを示すべき」という考えに基き、渤海の無理な主張を受け入れることも度々あった[46]:5

咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)の写しによれば、渤海使は105人の人員で構成されており、105人の内訳は、使頭1人(政堂省左允・賀福延)、嗣使1人(王宝璋)、判官2人(高文暄、烏孝慎)、録事3人(高文宣、高平信、安寛喜)、訳語2人(季節憲、高鷹順)、史生2人(王禄昇、李朝清)、天文生1人(晋昇堂)、大首領65人、梢工28人である。渤海使の圧倒的多数を占める首領とは、渤海の在地社会に支配者として君臨する靺鞨諸部族の首長であり、渤海王権は靺鞨諸部族の首長を包摂、国家的に再編成することにより、渤海の国家集権的支配を可能とし、渤海は靺鞨諸部族の首長を制度的組織化、日本外交に恒常的に参画させた[59]。『延喜式』大蔵省賜蕃客例条に規定される渤海使の構成員と回賜品は、渤海王(30疋、30疋、300絇、綿300屯)、大使(絹10疋、絁20疋、糸50絇、綿100屯)、副使(絁20疋、糸30絇、綿各70屯)、判官(絁各15疋、糸各20絇、綿各50屯)、録事(絁各10疋、綿各30屯)、訳語(絁各5疋、綿各20屯)、史生(絁各5疋、綿各20屯)、首領(絁各5疋、綿各20屯)であり、首領たちは渤海使として来日すると回賜品が与えられ、分量は渤海に対する回賜総量の半分を占めた[59]

当時の東アジアでは、中国を親とする周辺諸国である日本と渤海は舅甥関係にあり、「おじ」が「おい」より上位となり、従来日本と渤海のどちらが「おじ」「おい」であるのか議論がわかれていたが、石井正敏は、『続日本紀』『新唐書』の記述を分析し、日本が「おじ」に当たると結論したが、韓国や北朝鮮の研究者が「日本がおじ」と認めることはまずあり得ないと指摘している[60]

新唐書』渤海伝は「大暦中、二十五來、以日本舞女十一獻諸朝」と記し、唐の大暦年間(766年~779年)に渤海国が日本の舞女11人を唐に献上したことを伝えている。

日本は渤海との交渉に関連する記録が非常に多く、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などの歴史書は渤海が存在していた同時代の史料であり、さらに木簡金石文などが相当数あり、渤海史研究に重要な一次史料を多く保有している。渤海と日本との外交関係は渤海が34回(35回とする説もある)、日本が13回使者を派遣している[61]。『三国史記』には、を除けば、新羅の歴史の中で、日本との公式交渉は10回しか残しておらず、これだけでも渤海と日本の緊密性は証明されて余りある[62]

経済

農業

農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される(もちきび)、(きび)、が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。また、渤海の在った時代は有数の満州南部が温暖だった時期であり、この事も農業に寄与した。

牧畜業

渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

漁業

渤海の漁業は相当の技術発展を遂げており、へ奉献した方物の中に「鯨魚睛」と称される眼球が含まれていたことから規模の大きい捕鯨までを可能とする段階に達していた。また各地の特産品として沱湖(現在の興凱湖)の(フナ)や、忽汗海(現在の鏡泊湖)の「湖」などが記録に残っており、この他文昌魚(鯉の一種)、鰉魚(チョウザメ)、鮭()、斑魚、鯔魚などが記録に残っている。

冶金業

渤海の在った地域はを豊富に産出する地域であり、全域から多数の鉄製農具が出土しており、かなり冶金手工業が発展していたと考えられる。

狩猟業

への朝貢記録にはや()が進貢されており、特に海東青鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の長白山)の扶余鹿などは特産品として『新唐書』に記録されている。

日本との関係で重要な地位をしめたものが貂である。地理的に農耕は難しく、渤海王から天皇に対しては、トラヒグマヒョウの毛皮や人参朝鮮人参)・が送られ、日本に来た渤海使には、特別に毎日シカ二頭が準備されており、肉食を好んでいることから、渤海が狩猟・採集を基盤とした社会であったことがうかがえる[46]:1

紡績業

手工業

E.I. ゲルマン(英語: E. I. Gelmanロシア語: Е. И. Гельман、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)は、渤海の(施釉土器)と陶磁器の起源が唐にあるとしながらも、唐三彩と施釉土器とは異なる特色があるといい、渤海に三彩が定着することができたのは、安史の乱後に、中国で三彩の生産がほとんど破綻し、その職人が仕事を見つけて渤海へと渡り、これが渤海の三彩の起源であり、渤海の粘土は質が異なるため、渤海で生産された三彩は特徴を持つようになり、渤海で生産された三彩は「渤海三彩」と呼ぶことができると主張している[63]

エ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)は、クラスキノ土城から出土した渤海瓦には顕著な高句麗瓦の特徴や影響は見られないと指摘している[64]

商業

商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている(極少数枚ながら開元通宝が出土している[65])。それは大武芸が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、873年に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して耶律阿保機が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。

貿易

渤海社会は靺鞨の小部族を単位として構成され、部族長は首領と称され支配構造に組み込まれた。首領は、渤海王権に自己の産物を貢納し、王権との交易によって必要な物資を入手し、渤海王権は首領から得た産物を日本や唐との交易に使用、必要な物資を入手した[66]。例えば、絹糸(金襴)(英語版)水銀水晶樹脂柘榴石クルミでつくられた扇子など、渤海で不足している製品を自国製品と日本で交換した[67]

文化

「国を挙げて内属し、子を遣わして来朝し、命を祗みて章を奉り、礼違う者なし」 (『白氏文集』巻52「渤海王子加官制」)というように、 渤海はに臣従して[68]、何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。738年には、『(唐礼)』、『三国志』、『晋書』、『十六国春秋』の書写を唐に願い出るなど、「渤海は晏寧にして遠く華風を慕う」(『文苑英華』巻471「渤海王大彝震に与うる書」)ように、渤海が唐文化に対する強い憧憬を持ち、官司制や地方行政組織、首都上京のように唐の長安城を真似た都城の建設など、唐の制度に倣った律令国家の建設が推進された[68]。また、773年には、「中華の文物を慕う」(『冊府元亀』巻41・寛怒)あまり渤海の人質皇帝の(袞竜)を盗む事件が起こる[68]。宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。渤海文化は唐の影響が非常に強いが、靺鞨文化の継承もされており、他には高句麗文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。

前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は朝貢であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある[69]

首都上京龍泉府は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である[70]。(井上和人)は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した[70]。したがって、上京龍泉府は、長らく中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は710年、首都上京は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだ可能性がある[70]

王承礼((吉林省博物館)(英語版)館長)は、渤海文化は独立的な独自の民族文化という主張は誤った見解との認識を示しており、一例として、貞恵公主墓貞孝公主墓の比較を通じて貞恵公主墓は高句麗文化の影響を示しているが、貞孝公主墓は唐文化の影響を示しており、に対する渤海の隷属化が進行したと認識している[71][72]

橋本増吉は、「渤海建国後遠からぬ、唐の神龍の初に、中宗の招慰に応じて祚栄がその子門芸を遣わして入侍せしめたのを最初として、その後は機会あるごとに、諸生を遣わして唐都長安に至って太学留学せしめ、古今の制度を習識せしめたことが司書に見えている。これら唐の太学に於て教育を受けた人々が、帰国の後為政者として制度の整備、文運の発展の上に貢献したことは、丁度我が遣唐使、留学生、留学僧等が我が国の制度、(文物)の完備、発展にあづかったことと比較して見ると類似点を見出すのである。然しそこには根本的に異なった一面の存在することを忘れてはならない。それは我が国には固有の、固有の文化というものがあった。故に自主的態度をもって採用したのであるが、渤海の文化は単なる唐文化の模倣の域を脱しない。これは類似点があるにかかわらず根本的相違点であろう[73]」と述べている。

教育制度

渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと推察される。日本に派遣された渤海使の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられており、また渤海滅亡後に建国された東丹国に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。

また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。

これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、科挙に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。

言語

渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていた[4]

新唐書』渤海伝には以下の記事がある。

俗謂王曰「可毒夫」、曰「聖王」、曰「基下」。其命爲「教」。

俗称では王(を名付けて)可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。(王の)命令を教という[74] — 新唐書、渤海伝
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海

ロシアの研究者のエ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、渤海語で王をいう「可毒夫」はおそらくツングース系満州語の「卡達拉」(満州語: ᡴᠠᡩᠠᠯᠠ᠊、kadala-、カダラ:管理するの意)やツングース系ナナイ語の「凱泰」(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、渤海人靺鞨人の名前の最後に「蒙」の字がついていることがあるが(烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース系民族は氏族を「木昆 (満州語: ᠮᡠᡴᡡᠨ転写:mukūn)」「謀克」と称しているが、「蒙」の音が「木」や「謀」の音と近いことを考えると、この「蒙」の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できると述べている[75]

しかしその後、言語の漢化が進んで次第に漢語が公用語となった[76]。漢語が使用された証拠として渤海使が来日したときに春日宅成伊勢興房らのように豊富な入唐経験があり、それらの経験によって培われた実用の漢語に習熟した人物が渤海通訳を務めていたことなどが挙げられ[77]、渤海通訳が使用していた言語である漢語を渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した[78]。渤海を構成する靺鞨人や高句麗人は、それぞれ独自の言語を有しており、このような場合は、優位にたつ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を異なる種族間の共通言語にすることもあり、渤海を建国したのは唐に居住していた靺鞨人であることから、その指導層は漢語が話せたとみられ、これを異なる種族の意思疎通に使用していたと考えられ、漢語には当時異なる言語を話す渤海の人々を納得させるだけの権威があった[78]。その他、渤海国に属する高麗人突厥人契丹人室韋人回紇人などはそのまま自己の言語を使用していた[79]

漢語が公用語であった根拠として以下のことが挙げられる。

  1. 873年3月薩摩に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、はじめ「言語難通、問答何用」という状態であり、日本人と口頭による意思疎通ができず、筆談で自分達は渤海の遣唐使であると示したが、太宰府は「大唐通事張(建忠)」を派遣して事情聴取をおこない、間違いなく渤海国入唐使であることがあきらかにされた[注釈 3][注釈 4]。これは崔宗佐・大陳潤ら一行が、漢語をもって通訳する大唐通事張建忠の言葉は理解できたこと、つまり崔宗佐・大陳潤ら一行は漢語が話せたということであり、渤海国使人と名乗っている者に対して、また太宰府も朝廷の指示に従い漂着者を「渤海国人」と確認した上で「大唐通事」を遣わし、漂着者を「渤海国人」と認めたにもかかわらず、渤海語通訳者を遣わしておらず、太宰府すなわち朝廷の、漢語は渤海側とも話し合える言語と認めていたこと、漢語は渤海人と通じる言語と認めていたことが分かる[80][81]
  2. 日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され通訳したが、通訳に指名された伊勢興房は862年7月に高岳親王に従い入唐した経歴があり、伊勢興房は高岳親王とともに長安に赴いたが864年10月9日に、高岳親王の命により一人淮南に却廻し、往路のところどころに預けた寄附功徳の雑物を受け取り広州に向かったが、高岳親王を待たずに865年6月に福州から唐商人李延孝の船に乗り、宗叡とともに帰国した。伊勢興房は在唐4年におよび、しかも一人で長安から広州に向かっていることを考慮するならば、伊勢興房は漢語に通暁していたと考えられ、通訳に任命されたのもその能力を買われたからとみられる[82]
  3. 渤海通事に指名された(大和有卿)の経歴は詳らかではないが、実質的に最後の遣唐使となった承和の遣唐使の漢語訳語に任じられた人物に(大和真人耳主)がおり、この大和有卿と大和真人耳主は同一人物とみられ、大和真人耳主は839年8月25日に唐から帰国したが、漢語に通暁している人物とみられること[83]
  4. 渤海通訳を養成した秦朝元は『懐風藻』所載の弁正の略伝によると大宝年中に遣唐使に従い入唐した留学僧弁正の子であり、唐で生まれて718年に帰国し、733年には再度入唐判官として渡唐し、玄宗にも謁見したこともあり、秦朝元が唐で出生した事実から漢語に堪能であったことは疑いない。同じく渤海通訳を養成した陽侯真身は『和名類聚抄』『令集解』に引かれている『(楊氏漢語抄)』が陽侯真身によるものであることから漢語に通暁した人物であると考えられ、このように渤海通訳の師は漢語に通暁した人物であること[84]
  5. 唐の三省に擬して宣詔・中台・政堂の三省が置かれ、政堂省の下に六部が置かれたように渤海は唐の律令制を導入し、律令制国家をめざしたが、それは7世紀末から8世紀初期の国家生成期に靺鞨諸部内の部落と呼ばれる大小の地域に割拠する在地首長である首領を通して百姓=住民を支配し、その支配は靺鞨社会を解体させることなく、適応しやすい形で唐の律令制をはめ込んで再編し、独自の中央集権体制を形成しようとするものであったことから、律令制国家を指向した渤海の支配者層が国家統一の手段として漢語を導入したと考えられること[85]
  6. 春日宅成は、20年近くの間に連続して4回通訳に任命されており、これは記録に残っている限りにおいてなので、実際にはもっと多かったのかもしれないが、春日宅成の経歴からは中国との結びつきが知られる。春日宅成は838年5月7日出航の遣唐使船で入唐し、その後春太郎という中国名を名乗り一行と別行動をとった人物である。春日宅成が帰国の途についたのは847年6月9日であるから約9年間唐に在住したことになる。29回目の来日渤海使は、前回との期間が短すぎるという理由で入京が許されず、日本に対する国書も贈物(珍翫椚謂酒盃など)も朝廷は受け取らなかったが、通訳者だった春日宅成は、贈物について「かつて自分は大唐で数々の珍宝を見てきたが、これほどまでに奇怪なものは見たことがない」と述べており[注釈 5]、このような発言ができるのは、春日宅成が並々ならぬ中国通であり、長期にわたる唐滞在により可能だったためである。春日宅成が優れた漢語話者であり、それゆえ通訳に任命されたことは、渤海使との交渉では漢語が使用されていた蓋然性を示唆している[86]
  7. 扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日「明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。[注釈 6]」とある。これは、対渤海通訳の選定について(明経学生)である高名を呼び、「漢語」熟達者のことを聞きただし、だれにするかを決めた、ということを述べるものである[87]。(明経学生)とは、大学寮本科である儒学科の学生のことであり、大学寮は中国文化摂取による中央官僚養成のための教育機関として設置されており、そこで学ばれる外国語は当然漢語である。特に入学当初は専門教官である音博士二人による中国語音たる漢音の授業が、一般基徒教養科目として学生に義務づけられており、漢音教育は中国文化摂取上不可欠のものであるだけに、7世紀末の大学寮設置以来一貫重視された。大学寮における漢語の位置づけや、大学寮の学生たる高名に「漢語」に通じた者は誰かと問うたことや、その高名の言によって(大蔵三常)が「漢語」=「唐語」通訳に任命された[87]。そして、「何故、渤海使に応対する通訳として漢語に通暁していた人物を任命したのか」という疑問が生じるが、これに対しては、春日宅成や(張建忠)の検討を踏まえると、(大蔵三常)が渤海語に(も)通暁していた可能性などに思いを馳せるべきでなく、漢語が日本渤海間の使用言語だったからと答えるべきであり、そもそも、(大蔵三常)の場合、大学寮の学生を介しての紹介、「漢語」力を問題にしている点など、当初からすべて話題となっているのは漢語力である[87]

一方、相手は渤海なのだから春日宅成渤海語を話したのでないか、という疑問も生じるが、春日宅成の渤海語能力について述べる史書は一つとしてなく、当時の通訳を取り巻く状況を鑑みると、その可能性は極端に低い[88]8世紀から9世紀、唐文化は東アジア諸国に万遍なく浸透しており、日本・渤海・新羅は中国文化摂取に努めており、さらに、日本外交において渤海は中国はもとより新羅よりも軽い存在であり、そのような国際状勢において、中国周辺諸国における最重要外国語は中国語以外にはなく、日本の場合、政治外交文化的に渤海語は中国語はおろか新羅語に比しても低い価値しかなかった[88]。例えば、国家最高の教育機関である大学寮で組織的かつ積極的に行われていたのは(中国語音)の学習であり、渤海語学習に関して唯一述べる史書も[注釈 7]、当時日本では本格的な渤海語学習が行われておらず、渤海語通訳もいなかったことを思わしめるものであり、さらに、春日宅成が渤海語能力ゆえに通訳に任命されたのなら、それを明示或いは暗示する語句が若干なりとも残されているはずであり、渤海語の必要度及び史書から「春日宅成は渤海語を身につけていたから通訳に任じられた」とは到底言えないことだけは確かである[88]

873年3月薩摩に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行の取り調べに当たり、大宰府には渤海語のできる通訳者がいないため、次善策として「大唐通事張建忠」を派遣した、という解釈も考えうる。日本朝廷773年来朝の第8回渤海使以降、776年来朝の第9回渤海使、779年来朝の第11回渤海使に対して、大宰府に来着するよう要求している[89]。大宰府に来着することを指示しているからには、大宰府に渤海使に対応できる通訳が用意されていたはずであり、渤海人と口語で意思疎通できる人物がいたはずであるが、渤海人と口語で意思疎通できる言語が渤海語であるならば、渤海語通訳者を派遣しなかったのか、という疑問が生じる。この場合、「大唐通事」は渤海語能力も具えていたという解釈も一応は成り立つが、もし張建忠が渤海語能力において派遣されたのであれば、何故張建忠を「渤海(語)通事」と呼ばなかったのか、中国語能力を示す「大唐」は文面に示されているにもかかわらず、渤海語に関する語句が皆無であるという解きがたい疑問が残される[89]。従って、張建忠は渤海語通訳者としてではなく、あくまでも「大唐通事」として派遣されたと解釈するのが妥当であり、「大唐通事」派遣は間接的ながらも大宰府に渤海語通訳者がいなかったことを反映している[89]

810年5月、帰国を目前にした渤海使の一員である首領の高多仏が使節から一人離脱して、越前国にとどまり、亡命した。その後、高多仏は越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習した。日本朝廷が渤海語を学習させた意図は、渤海語を母語とする者を師としての通訳養成とみられるが、渤海語通訳養成のためにわざわざ羽栗馬長などを越中国まで派遣し、高多仏から渤海語を学ばせたのかという疑問が生じる[90]

  1. 当時、渤海使の来日は14回に達し、日本からの遣渤海使も14回に達する日本と渤海の密接な交流、当時の日本が渤海使の来日を制限しようとしたが渤海との交流継続の意思は十分あること、日本と渤海の海上交通は比較的安全であることを鑑みると、渤海語が日本渤海間の外交用言語である場合、すでに日本側にはしかるべき渤海語通訳者がいたはずであり、その渤海語通訳者を師として渤海語を学ぶことができたのでないか[90]
  2. 度々の渤海使の来航或いは送・遣渤海使の派遣からして、日本には渤海人から渤海語を学習する機会があるのではないか。第15回渤海使は10月1日来日、次年の5月18日離日、約8か月近く日本に滞在している[90]
  3. 日本朝廷が渤海語通訳者の養成を意図していた場合、渤海へ留学生の派遣もできたはずである。例えば、当時、日本語を学ぶ留学生「新羅学語」が新羅から派遣されていた。従って、その意志さえあれば日本は渤海に渤海語学習者を派遣できたはずである[90]

渤海から個人的に「慕化来(入)朝」してきた場合をも含め、1・2・3の手段による渤海語習得を示唆する史料は一つとしてないが、たまたま記録がなかっただけであると解釈するのも可能であり、1の場合、渤海使の滞在期間は必ずしも長くないため、機会がなかったという解釈も可能であるが、羽栗馬長などを越中国まで派遣して渤海語を学習させた理由は釈然とせず、種々の疑問は「渤海語は日本渤海間の外交使用語であった」という前提に発しており、この隘路を解くには「外交用言語として渤海語は中国語とどのような関係にあるのか」ということにつきる[90]。日本における外国語学習上の必要性或いは日本における外国語教授のあり方或いは日本語と渤海語が外交交渉において使用されていたことを示す史料が存在しないことから、中国語が渤海語よりはるかに上位に位置していたことは確実であるが、日本人官僚の渤海語学習がおこなわれたことや、長期にわたる日本と渤海の外交接触において、必然的に日本と渤海双方に日本語・渤海語に通じた者がでてきたことは疑いなく、正式の外交用言語でなくとも、日本と渤海の外交交渉や交流の場では渤海語が使用されている蓋然性も否定できない[90]。従って、「正式な日本渤海間の外交用言語としては第一に中国語が用いられた。ただし、時に応じて例外的に渤海語が用いられることもあった」=「中国語主、渤海語副」という原則が導かれる[90]

建国当初より、陸続きの隣国であるの影響を直接的・全面的に受けた渤海は、日本以上に中国語は身近であり、重要な言語であったとみられる[91]。日本渤海間の外交交渉において、日本側だけが中国語を外交用言語に使用したとは考えにくいことから、「渤海国側も中国語を用いた、渤海通訳も中国語を用いた」、即ち「日本渤海間の外交用音声言語は中国語であった」と考えざるをえない[91]。日本渤海間の外交交渉において、中国語が使用されていることは、8世紀から9世紀における日本と渤海の交流の言語面において中国語が圧倒的優勢であることを反映するものであり、当時の東アジア情勢は中国を中心に動いていたことから当然の帰結であり、現代国際社会において、英語圏以外の言語を異にする小国間では、しばしばば第三国の言語である英語が使用されるが、8世紀から9世紀における中国語と日本語・渤海語との関係は、現代の英語と英語以外の使用者の少ない系統のあい異なる二つの言語関係に例えることができる[91]

日本渤海間の外交交渉において、音声言語は第一に中国語、時として日本語・渤海語を使用したということと、書記言語漢文即ち中国語であることは矛盾せず、言語において音声言語と書記言語は表裏の関係にあるため当然であり、日本と渤海間における使用言語は中国語であるという結論に達し、書記言語が完全に漢文即ち中国語の領域に属していた8世紀から9世紀の日本・渤海・新羅の東アジア諸国における共通音声言語は中国語であると判断できる[92]。音声言語と書記言語は表裏の関係にあり、当時の日本や新羅のように、音声言語は自国語、正式の書記言語は原則として中国語(漢文)ということは有りうるが、あくまでも自国内に限り、中国文化圏の書記言語を同じくする国家相互間の交流において、書記言語は中国語、音声言語は各国語使用ということは一般的に考え難く[92]、日本と渤海間の使用言語が中国語であることを鑑みると、新羅は渤海と同様に唐に近接する唐の冊封国であることから、新羅と渤海間或いは新羅と日本間でも中国語が使用されていた可能性も有りうる[92]。『続日本紀』によると[注釈 8]新羅語も渤海語と同様にその学習は地方で臨時一時的におこなわれていたようにみられ、新羅語が外交用言語として広くは使用されていないことを示している[92]。これは、中央政府において新羅語は組織的・恒常的に学ばれたこともなければ、その通訳の常置もなかったこと、即ち、日本と新羅間の外交用言語も中国語であることを示唆しており、このことは8世紀から9世紀における東アジアリングワ・フランカが中国語であることを意味し、日本と渤海間の交流における第二言語が日本語・渤海語であると推察されることを鑑みると、東アジアにおける中国以外の国家間、即ち日本・渤海・新羅間においては、日本語・渤海語・新羅語なども時と場合において外交交渉において使用されていたと推察される[92]

日本朝廷は、第21回渤海使、第25回渤海使、第28回渤海使、第29回渤海使などに対して宣命を与えており、これは漢字で書かれているとはいえ、(日本語文)が外交文書に用いられたことを示している[93]。また、それは(日本語音)で読み上げられたはずであり、音声言語で外交用言語として日本語が実現されたことを示唆しているが、その程度の使用を、さらに、渤海使が内容を理解できたかどうかも定かではない宣命を、正式な外交用言語と呼ぶのはやや無理とみられる。なお、宣命に対応する漢字表記の渤海語文の存在の報告はない[93]

続日本紀』には、739年に日本に派遣された渤海使己珎蒙が参加した元旦朝賀の儀式に、新羅学語(新羅から言語を学ぶために来日した留学生)も朝賀に参列したとある。

十二年春正月戊子朔。天皇御大極殿受朝賀。渤海郡使新羅學語等同亦在列。但奉翳美人更着袍袴。 — 続日本紀、巻十三、聖武天皇・天平十二年・春正月戊子朔
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第十三

韓国ではこれを根拠に「『続日本紀』には、新羅から日本に派遣された日本語通訳の学生が、渤海の外交使節と日本の宮廷の聴衆とのコミュニケーションを助けたことから、渤海語新羅語が相互に理解できる言語であったことが示唆されている」という主張がある[94][95]

(韓圭哲)(朝鮮語: 한규철慶星大学)は、「新羅人が渤海使臣と日本の通訳を担当、高句麗語を使用していた(傍証)…渤海が高句麗語を使用したことは日本に派遣された渤海使臣に関する記録からも推測できる。『続日本紀』によると、740年、渤海使臣己珎蒙一行が日本に到着すると、新羅人が通訳として登場したという記録がある。これは高句麗語と新羅語が互いに通じ、高句麗を継承した渤海と新羅の言葉が互いに通じたために可能だった」と主張している[96]韓国政府東北アジア歴史財団研究員の高光儀(朝鮮語: 고광의英語: Ko, Kwang-eui)は、「渤海は国際交流の場においても高句麗語を用いていたものと思われる。記録によれば739年に渤海使節己珎蒙の一行が日本に到着し、翌年正月朝会に参席しており、そのとき渤海使節とともに新羅学語が並んで立っていたという。新羅学語とは言語を学ぶため新羅より日本に派遣された学生で、渤海使節の通訳を務めるために配されていたものと思われる。渤海使一行と新羅学語の言葉が通じるからこそ取られた措置であり、渤海使節の使用言語が新羅語に通じる高句麗語であったことを示すものといえる」と述べている[97]。具蘭熹(朝鮮語: 구난희英語: Nanhee KU韓国学中央研究院)は、「739年に派遣された己珎蒙が元旦朝賀の儀式に参加した当時、朝廷ではこの席次に新羅学語(新羅から言語を学ぶために来日した留学生)を参加せていることから、渤海と新羅の文化的同質性をうかがうことができることも軽視できない。新羅学語というのは言語を学ぶために新羅から派遣された学生であることから、元旦朝賀に正式に参加したとするのは困難で、渤海の使節の通訳を担当するために参席したものといえる。ここから渤海人と新羅人が同一の言語を使用したと推論できる」と述べている[98]。一方、湯沢質幸は「『新羅学語』を『(日本の)新羅訳語』に解しつつ、渤海が高句麗末裔であること、朝賀の席で渤海使が『新羅学語』と同席したことなどから『渤海の主言語(標準語)』は『高句麗系朝鮮語』と見る説が出されている。渤海国の始祖大祚栄が高句麗系かどうかはともかくとして、渤海の建国に高句麗系民族が大きく関与していることは間違いないので、渤海使用言語に高句麗語があった蓋然性は高い。しかし、『(学語)』は『訳語』でないこと、当時朝賀に『新羅学語』すなわち外国人が招かれるのはよくあったこと、また、『新羅学語』を通訳として列席させたということは書かれていないことなどから、同席をそのまま証左とするのは無理ではないだろうか。一方、上田正昭は『新羅学語』を『新羅語生』とし『日本側の通訳には新羅語の学生が当たった可能性がある』とし、『朝鮮語』で通訳をしていたかもしれないと述べる。しかしながら、これもまた、同様に賛成しがたい意見である」と述べている[99]

文字

渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族を統一していく手段として漢語の導入をはかったとみられるが、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用しており、1949年に吉林省敦化県六頂山から発見された大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や1980年に延辺朝鮮族自治州和竜県竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主の墓誌などは優れた駢儷体の漢文で書かれ、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒なども漢文で書かれており、王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることから渤海人が漢字を熟知していたことは確実であり[100]、渤海の皇后、公主の墓誌は現在のところ4つ発見されているが全て漢文で書かれており、墓誌は墓碑と異なり、墓のなかに納めることから、文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけであり、それが読者として想定され、皇后・公主の埋葬にたちあう支配層が共通に読めるのが漢字・漢文であった[78]

上京遺跡から出土した文字瓦には、漢字を簡略化した渤海の文字が記録されているが、独自の文字の存在は確認されておらず、同時期にユーラシアで使用されていた突厥文字ウイグル文字、(ソクド文字)などが渤海で使用された形跡もなく[78]金毓黻は、上京遺跡の瓦に刻された文字を「その(字)体は、とくに異なっていて、海とかかわりがあると思う」として、「これは、日本の漢字の中に『辻』があり、化学の中に『鉀鉀(カリウム)』、『﨨(亜鉛)』などの字があるように、おそらく固有の漢字では用が足りない場合に、別に新しい字を作って、その不便を救ったのである」とし、渤海人自ら「漢字を補充」したとして、「もしこの少数の奇異な字があることによって、ついに渤海人が、別に新しい字を作り、漢字を棄てて用いなかったといえば、それはかえって人を誤解させることになる。契丹と女真は、ともに別に字を作った。しかし、後世にまで長く伝えることができず、したがって間もなくその字を使用しなくなってしまった。渤海は建国した後、唐の文教に染まって、漢字をよく用いたので、別に新しい文字を作る機会が少なかった。そこで契丹と女真を例とすることはできない」と指摘している[101]

エ・ヴェ・シャフクノフは、上京遺址の瓦にある文字を新羅の吏読の方法を採用して創作した独自文字であり、「(この文字は)中国人の漢字に比べて渤海人の言語規範と言語特質にいっそう適応し」、「広い渤海の都邑の民衆が各種貿易の契約や保証を結ぶ際、あるいは公文書にこれらの文字が採用された」が、「漢語と漢字とは主に宮廷内と官吏の狭い範囲でのみ使用された」と主張しているが、朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「残念ながら、エ・ヴェ・シャフクノフ氏の説は主観に基づく憶測を免れず、しかも何らかの証拠による自説の証明もできていない」と批判している[102]

各国の研究者は、この上京遺址の瓦に刻された文字について研究を進めているが結論は一致しておらず、現存史料では、国内外の各地で発見され、記録された渤海の文字瓦の文字は、1文字ずつ刻まれ、300字ほどになり、それらの少数の文字と符合を除くと、大多数の文字はみな正式な漢字であり、これらの漢字の大部分は今日使用されている漢字と同一である[103]。しかし奇異で見分けにくい文字がわずかにあり、最新の研究では、この少数の奇異で判読しがたい文字のうち、相当数が俗字と(古字)と略字であり、俗字では、「&#x#051;」が「興」とあるが、すでに321年の東晋の墳墓のには「&#x#051;」とあらわれているように実際は渤海人の発明した文字ではない[103]。古字では「佛」を「仏」とするが、『正字通』には「古文の佛字、宋の張子賢の言く、京口の甘露寺の鉄鑊に文有り。梁の天監に仏殿を造る」とあるようにこれも渤海人の創造ではなく、略字では「環」や「瓌」を「&#x#003;」と書き、また「鳥」を「」と書くなどの事例や字形が似ているために誤って書かれた文字もあり、「舍」を「舎」と誤った例、「計」を「」と誤った例、「男」を「」や「」と誤った例などがある[104]

渤海人が自らの言語の特殊音や必要性からいくつかの新漢字を作成し、本来の漢字を補充して渤海の言語表現に応えた可能性はあり、その事情は日本人が漢字を使用する過程で作成した特殊な漢字の場合とよく似ており、渤海の末期に日本を訪れた二人の使者は、各々「𪱶(⿴井木)」と「𬑽(⿴井石)」という名前であり、当時の日本はこの文字を理解できず、紀長谷雄は「未だ文字を知らずと雖も、呼びて云う。𪱶は、木ノヅブリ丸(まろ)。𬑽は、石ノザブリ丸(まろ)」と読み、「異国(渤海)の作字なり。当時の会釈を以て之を読む。神妙と謂うべき者なり。異国の人(渤海の使者)聞きて之に感」じたと述べており、まさに渤海人が新たに創造した文字であるが、これらの文字は漢字の系列下あるいはその範囲にある文字であり、これらの文字は他の漢字から離れて単独で使われることがなく、それらの文字を独立の文字とみなすべきでなく、渤海人が創造した本来の漢字を補充する漢字である[105]

ロシアのウスリースクで出土した突厥文字の石刻から、渤海には独自の文字があったとする主張もあるが、朱国忱と魏国忠は「これは真に『蟻を見て象と言う(針小棒大)』ような意見である。実は、その石刻は渤海に来て交易した回鶻人が遺したものである。渤海と回鶻の関係には限界があった。双方はともに領域を接することなく、また隷属・主従の関係もないのに、どうして渤海人が、このようなよく知らない、またいつも見ることのない文字を受容し使用できるのであろうか」と批判している[106]

姓氏

渤海の姓氏は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は中原から流れた漢人豪族右姓、さらに靺鞨と一部の高句麗貴族の右姓、最後に漢化した靺鞨平民と高句麗平民と中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨、高句麗、漢族の姓氏からなる[107]。渤海人の姓名には、形容美、叡智への祈願、徳性美への追求、福禄寿への憧憬、儒学仏教への尊崇がみられ、中国の影響を受けている[107]

渤海王国の完成は官制ととどまらず、(王都)に居住する人々の姓名をも唐風化させ、その変化は王族から臣下の上層部、そして下部から地方社会へと浸透した[108]。姓ばかりでなく、名が靺鞨の固有語音からそれを漢字の(好字)を採用して、漢訳するか意訳した三文字の姓名に改まった。大祚栄の父の名は乞乞仲象とその音を漢字表記されたが、則天武后から震国公に封ぜられると「大」の姓を名乗ることになり、子の大祚栄はみごとに唐様の姓名である[108]。しかし、まだ名のみは靺鞨の固有語音を守る傾向は消えておらず、大武芸の嫡男は(大都利行)(中国語版)といい、都利行とは靺鞨の固有語音であり、大武芸の大臣の味勃計(722年)、大武芸の弟の(大昌勃価)(中国語版)725年)などは、まだ固有音の漢字表記の傾向がみられる[108]。この傾向は王族を筆頭とする社会の上層ばかりでなく首領層にもみられ、大首領の烏借芝蒙(725年)や使者の烏那達利(730年)は、烏という靺鞨にみられる一文字姓であるが、名の借芝蒙や那達利のように未音の蒙や利をもつ人物が靺鞨諸族の遣唐使にしばしばみられたように、名にはいまだ固有性を残していた[108]。しかし、741年に渤海の遣唐使の失阿利が黒水靺鞨の阿布利とともに入唐して以後は固有色のある人名は遣唐使のなかにみられず[108]渤海人特有の姓名は消え、唐様の姓名へと統一される[107]

松漠紀聞』にみえる金初の渤海人社会に関する記事に、旧王族である大氏の他に有力氏族として高氏、張氏、楊氏、竇氏、烏氏、李氏の六氏が挙げられている。一方、渤海が存在した同時代の諸史料に登場する有力氏族の姓氏は、最も多いのが大氏、次いで高氏、李氏、王氏、烏氏、楊氏、賀氏と続くが、『松漠紀聞』にみえる張氏と竇氏が渤海時代にはほとんどみえず、渤海時代に多い王氏は『松漠紀聞』に登場しない[109]。張氏は、『金史』張浩伝に本姓は高であり、(張浩)(中国語版)の曾祖・(張霸)の時にに仕えて張氏に改めたことが記されており、金代に活躍した張氏はもとは高氏を称しており、渤海時代に張氏が登場しないのも不思議ではない[109]。竇氏について、金毓黻は『(渤海国志長編)(朝鮮語版)』において、渤海時代に比較的多くみえる賀氏の誤りである可能性を指摘している。王氏は、王庭筠をはじめ、金代にも有力氏族として存在するが、王庭筠の墓誌にその祖が太原王氏出身であると記されているように、金代においては渤海人というより漢人として意識されていたために、『松漠紀聞』は、王氏を渤海の有力氏族のなかに数えなかった可能性がある[109]。有力氏族が中国風姓名をもって史料にはじめて登場するのは高氏および李氏が大武芸時代、王氏・烏氏・楊氏が大欽茂時代であるが、大欽茂時代に渤海の支配領域がほぼ定まり、中国文化および中国の制度を導入して国家体制を整備し、かかる状況下で支配者層は中国風の教養を身に着けるとともに中国風姓名を称するようになる。同時期に有力氏族以外で中国風姓名をもつ者は少数であることから、有力氏族のもつ中国風姓名は権威の象徴、あるいは唐の貴族制では、姓によるランク付けがおこなわれており、渤海においてもそれが意識されていた可能性がある[109]

韓国では『松漠紀聞』に「其王旧以大為姓、右姓曰、高・張・楊・賓・烏・李、不過数種、部曲・奴婢無姓者、皆従其主」とあり、この渤海の姓は、高、張、楊、竇、烏、李などわずか数種であり、奴婢や姓のない者はその所有者に従うという記事を根拠に、渤海の住民構成は支配層が高句麗系とする主張がある[110]。また、韓国では、日本に派遣された渤海使臣のほとんどは高氏などの高句麗上層階級出身者であり、他国に使臣として派遣された高位官職が高句麗系であるならば、渤海支配層は高句麗系とみるべきであり、 渤海は10%の高句麗人の上層構造、90%の靺鞨族の下層構造からなる社会との見解がある[111]

韓国民族文化大百科事典』は、以下の主張をしている[112]

발해는 건국집단의 구성이나 지배집단의 성씨(姓氏) 구성에서 고구려계통의 사람들이 주도권을 쥐고 있었다.특히 지배층의 성씨에서 고구려계통의 고(高)씨가 다수를 점하고 있고, 발해 초기의 지배층들이 묻혀 있는 육정산(六頂山)고분군에서 고구려식 석실봉토분(石室封土墳)이 핵심을 이루고 있는 것도 이를 뒷받침한다.

渤海は建国集団の構成や支配集団の姓氏の構成で、高句麗系の人々が主導権を握っていた。特に支配層の姓氏で高句麗系の高氏が多数を占めており、渤海初期の支配層が埋葬されている六頂山古墳群で高句麗式石室封土墳が中核を成しているのも、これを裏付けている。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代)

宋基豪(朝鮮語: 송기호ソウル大学)は、渤海の支配階層の多くを占める大氏は、血統としては靺鞨系であるが、すでに高句麗化が進んだ大祚栄集団の末裔であり、高氏は、大祚栄集団と行動をともにした営州の高句麗系あるいは遼東地方安東都護府)から大祚栄集団に加わった高句麗系であると推定しており[113][114]、渤海の支配層の姓氏構成をみると、現在までに知られている渤海人は遺民を含めて400人ほどであり、このうち大氏が117人で、高氏は63人にのぼり、この二つの姓氏だけみても、渤海の支配層は高句麗系が主軸を成していることが分かり、残りの姓氏も高句麗系である可能性が高いため、渤海の支配層は高句麗系で構成されており、渤海は靺鞨系高句麗人である大祚栄と大祚栄を支援した高句麗系の人物が主導権を握った国であり、特に高句麗系であることが明確な高氏(高氏=高句麗王姓)が有力な貴族として絶対多数を占めていたという事実は、渤海の高句麗継承性を明確に示していると主張している[115][116]朴時亨は、支配勢力の名字の分析を通じて、渤海の政治権力の核心は高句麗人であり、靺鞨人は非支配層であると主張している[117][118]

一方、魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、高句麗人である高氏の階級を分析した結果、官職を持っている高氏の最高官職は、中央の場合は「(少卿)(中国語版)」、地方の場合は「州刺史」、武官では散位が「(輔国将軍)(中国語版)」「中郎将」であり、高句麗人である高氏は貴族や支配的地位とは無関係の低位であり、渤海の支配層が高句麗人であるなら、何故高句麗人である高氏は貴族や支配的地位とは無関係の低位であるのかと反論しており、渤海の主体民族や支配勢力が高句麗人という主張は根拠がないと主張しており、渤海王家は200年の間大氏であり、現在知られている380人の渤海人のうち117人が大氏であり、大氏が王政の核心地位を終始占めていたことからみると、大祚栄が粟末靺鞨人であるならば、主体民族や支配勢力は粟末靺鞨であり、その地位は終始変わっていないと主張している[119][120]

小川裕人は、では払涅靺鞨の後身の(烏惹)の酋長が(烏昭度)・(烏昭慶)という烏姓を称しており、また金初期に生女直までが競って漢名を称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人に倣って漢名を称したこともあり得るため、渤海人が漢名を称したとしても高句麗の遺臣と考える必要はないと述べている[121]

首領

史料の乏しい渤海史研究にとって、国家構造社会構造の解明は至難であるが、注目されるのは、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条の記事である[122]

渤海国者、高麗之故地也。天命開別天皇七年、高麗王高氏、為唐所滅也。後以天之真宗豊祖父天皇二年、大祚栄始建渤海国、和銅六年、受唐冊立其国。延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。俗頗知書。自高氏以来、朝貢不絶。 — 類聚国史、巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本後紀/卷第四

類聚国史』殊俗部・渤海上に『日本後紀』編者が渤海初期の粟末社会を首領中心に描く記事があり、『続日本紀』の引く渤海使に託した渤海への外交文書に、相手を渤海国王に次いで「官吏・百姓」または「首領・百姓」とする表現などにより、「首領」と呼ばれる存在とその配下の大多数の「百姓」を基礎とした渤海社会の成り立ちが分かる。石井正敏は、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条記事が『日本後紀』の逸文であること、その編者による渤海新出の条における沿革記事であることを明らかにしたが、この記事は、渤海建国年を決定する情報が含まれているだけでなく、渤海の地方社会構造が記され、渤海史研究にとって最重要史料の一つである[122]。しかし、その読解は難しく、とりわけ「其下百姓皆曰首領。」の一節が難解なため、多くの研究者が読解に挑戦、様々な首領論を展開している[122]。「大村曰都督、(大村は都督と曰い、)、」以下の解釈は意見が分かれており、一つは(李龍範)(朝鮮語: 이용범東国大学)および(金鍾圓)(朝鮮語: 김종원英語: Kim Chong-won釜山大学)の解釈であり、大村(長官都督) - 次村(長官刺史) - 其下(長官首領)の三級から成る地方行政組織を説明したものとするが、最後の部分の解釈は、(李龍範)は、其の下の百姓の長を首領と呼んだと解し、(金鍾圓)は、其の下の長を百姓が首領と呼んだと解す[123]。もう一つは朴時亨および鈴木靖民の解釈であり、大村 - 次村の二級であり、「其下百姓曰首領。」は、それらの治下にある百姓が都督、刺史を総称して首領と呼んだと解するが、鈴木靖民は、この記事以外の渤海使関係史料から都督、刺史の下位の地方長官として首領が存在することを論じており、この点は(李龍範)および(金鍾圓)と意見を同じくする[123]

渤海史研究者は、唐代史料の周辺諸国および周辺諸民族関係記事に頻出する「首領」の用例から、「中国から四夷の首長層を指す語」「いわゆる王にあたる一国・一種族の首長か、それにつぐ有数の首長層ないし政治的支配層を指す中国王朝側の用語であり、かれらは中国からよりその支配領域を府や州として認められ、そのまま都督・刺史に任命される存在[124]」「中国の正史の四夷伝や『冊府元亀』外臣部にはしばしば首領なる呼称が見られるが、これは異民族の長に対して中国側が附した一般的な名称であり、これは渤海あるいは靺鞨に限らない[125][注釈 9]」という理解をしてきた[126]

727年、最初の渤海使が上陸地で大使などを失い、平城京に入った時の代表は「首領」であり、841年の渤海使の構成を宮内庁書陵部蔵壬生家文書の中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)写しにみると、105人中「首領」(大首領)が65人と半数を超え、716年以後の唐への「朝貢使」にも「首領」(大首領)がしばしば加わっている[127]:4。「首領」とは渤海の固有語ではなく国際語としての漢語であり、渤海各地の多様な集団の支配者を指すが、地域集団の多数の住民を組織し、生産物を管理分配して統制し、渤海国に服属して以後も生産経済活動の維持を主とする伝統的な支配秩序をそのまま承認され、外交・交易にも関わったとみられる[127]:4824年藤原緒嗣が渤海使の本質を「実にこれ商旅」と非難して以後は、派遣を12年に1回と制限したが、その後も一行の過半数を首領が占めており、首領たちは自らの支配地で獲得した毛皮などの特産物を交易品として携え、上陸地の北陸など日本海側平城京あるいは平安京の客館などで公私の交易をおこなっており、日本から渤海へ贈られた「回賜品」の大半は首領に与えられることが規定されていたた(『延喜式』大蔵省)[127]:4。渤海から唐への遣唐使は、王族、首領、臣・官吏に分けられ、うち首領(大首領)は8世紀前半までで、以後姿を消すが、この変化は渤海の靺鞨諸部族支配の拡大過程と対応関係にあり、首領たちは地方官制の整備にともない、レベルの官吏への身分上昇を遂げた。渤海は朝貢の最初期から唐に「(就市)=公的交易」を要請し、毎年、での名馬の交易、鷹鷂の歳貢、王子らによる熟銅の交易などの交易本位の外交を続けたが、その主要な担い手が首領層である[127]:5。渤海政権は首領層の盛んな生産・流通機能を対外的交易活動に包摂、利用し、首領を頂点とする社会秩序・社会経済的組織をもとに、中華式の支配機構や律令制を組み合わせて国家の骨格をつくり、渤海は首領層が荷った交易活動を外交との絡みで活用した国家という一面を特質として指摘できる[127]:7

浜田耕策は、首領とは「種族の頭」の意味に解釈され、種族の構成員間には、擬制的血縁関係を紐帯として結合されていたと推測し[128]、首領にはそれぞれの種族に固有の語音の名称があり、これが中国の統治者や記録者からみれば、「首領」と漢訳される[128]。「首領」の種族語音を音写して種族固有の音を残した表記では、靺鞨諸族の後身に当たる契丹の語音では、「舎利」がこれに相当し、契丹の歴史を叙述した『遼史』巻一一六の「国語解」の「舎利」とは「契丹の豪民の頭巾を要裹する者、牛駝十頭、馬百疋を納むれば乃ち官を給す、名づけて舎利という」とある「舎利」であり[128]、『(五代会要)(中国語版)』巻三十・渤海には渤海の建国の祖たる乞乞仲象を「大舎利乞乞仲象」と記録し、舎利とは首領を意味する靺鞨語の音写表記であり、『冊府元亀』巻九七五には、741年2月越喜靺鞨の「部落の烏舎利」が唐に(賀正使)として派遣されたと記録され、『冊府元亀』九七一にも「其部落与舎利」と記録されており、『新唐書』巻四三下の地理志には、安東都護府に統括された九都督府の一つに(舎利州都督府)があり、『契丹国志』巻二にも「舎利萴刺」や「萴骨舎利」などと、人名の接尾や接頭にあらわれており、舎利は靺鞨に広くみられる種族語の音写であることが頷ける、と指摘している[128]。これに対して河内春人は、舎利を渤海の在地首長である首領と同音異字であるとする見解があるが、唐は、首領という語句を新羅[注釈 10]および国内の地域集団指導者[注釈 11]に対しても用いており、「舎利」を中国人が「首領」と書きとったとするのは難しい、と指摘しており、『遼史』国語解には、「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。[129]」とあり、契丹に属して家畜を一定数納める者に舎利を授けられたことがわかり、『資治通鑑』長興三年三月条には、「有契丹舎利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称」とあり、舎利は契丹における軍事指導者であることがわかり、契丹や靺鞨において首長を指す言葉は、唐初までテュルク語勇者をあらわすバガトルからくる「(莫賀弗)」「(莫弗)」「(瞞咄)」であり、「莫賀弗」が軍事指導者の意味を有し、舎利も軍事指導者であるならば、同一階層である蓋然性が高く、「莫賀弗」と「舎利」が同一階層であることを示す史料は存在しないが、唐初まで「莫賀弗」と称された首長は、その後、政治的整備から「舎利」という官を有するようになったと考えたい、と述べている[130]

渤海の生業は、高句麗および南部靺鞨は農耕、北部靺鞨諸部族は狩猟が中核であり、北部靺鞨諸部族地域は、『類聚国史』沿革記事にみえる、中央から派遣される支配層「土人」と一般民衆である靺鞨とがわけられ、間接支配がおこなわれていた[131]。こういう形態の場合、「土人」と靺鞨が同族意識をもって融合するのは難しく、渤海建国以来の支配層である高句麗人および南部靺鞨が融合することは有りえても、被支配層である北部靺鞨と高句麗人および南部靺鞨は融合せず、北部靺鞨から反発があった場合、渤海は分裂しかねないが、そのような事態は渤海末期まで発生しておらず、それは、渤海支配層が被支配層である北部靺鞨諸部族の支持を得ていたからであり、「首領制」という渤海独自の在地支配方式に要因がある[131]。「首領制」という用語をはじめて使用したのは鈴木靖民である。鈴木靖民は、首領は靺鞨諸部族の「部落」と呼ばれる地域に割拠する在地首長であり、伝統的な旧来の在地支配権をそのまま承認され、部落成員たる「百姓」を統属、かつ地方官人をはじめとする官僚や外交使節随員にもなった、と理解した。換言すれば、渤海王権は、靺鞨諸部族を支配するにあたり、その在地社会を解体することなく、在地首長を「首領」と名づけて支配権を認め、「首領」を官僚や外交使節随員という形で渤海国家のなかに包摂、国家的に再編成することにより、はじめて人民支配を貫徹することができたのであり、渤海は首領層を媒介にして靺鞨の人々を間接支配し、首領層も利益維持のために呼応した、と考えた[132]鈴木靖民は、こうした渤海国の国家および社会を特徴づける首領の特有のあり方を媒介とした、間接支配体制を「首領制」と呼ぶことを提唱した[131]。(河上洋)は、高句麗の城支配体制のあり方と『類聚国史』沿革記事にみえる渤海社会のあり方との類似性を指摘し、渤海の地方支配体制は高句麗と継承関係にあると考え、高句麗の在地首長の官「可邏達」が渤海の「首領」に相当すると推定し、渤海は在地勢力を解体することなく、在地勢力に依拠して支配を及ぼしたと主張した[132]。(大隅晃弘)は、鈴木靖民と(河上洋)の渤海の在地支配体制理解を支持し、渤海の靺鞨支配の進展と「首領制」の成立を関連づけ、唐あるいは日本との交易によって得られる首領の利益の大きさを指摘し、渤海が交易を独占したうえで首領をその利に与らせたことが渤海王権の支配貫徹の主要因であったとの見解を示した[132]石井正敏は、承和九年来日渤海使がもたらした咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)には、渤海使一行105人の内訳を明記してあり、「使頭(大使)一人、嗣使(副使)一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人」とあることから、大首領は、小首領といったものとの対称ではなく、首領の(美称)であろう、と指摘しており、その65人という数値が渤海の州数と一致することから、鈴木靖民は「(首領)支配下の土地からの産物が(日本への)朝貢物となって徴集されたのではなかろうか」「首領が一州につき一人といった割合で選抜され」たのではなかろうかと論じている[133]李成市は、「首領とは、渤海領域内の靺鞨諸部族の中でも在地社会に支配者として君臨する者たちで、渤海王権は彼らを包摂し、これを国家的に再編することによって集権的な支配を可能にしていたと推定されている」と指摘しており、首領が日本への遣使に参加していた背景には、元来、靺鞨諸部族はそれぞれ単独で唐あるいは新羅などの周辺諸地域と交易をおこなっていたが、8世紀半ば以降、靺鞨諸部族は渤海王権に包摂され、対外活動を停止したが[134]、渤海王権に包摂された靺鞨諸部族の活動は渤海の対外戦略に拘束されざるを得なくなり、さらに、渤海は8世紀以降、一貫して新羅とは敵対戦略をとり、新羅との通交を途絶したことにより、狩猟漁撈を生業とし、遠隔交易に従事していた靺鞨諸部族の行動を著しく狭め[134]、地域的に新羅と隣接する南部の靺鞨諸部族にとって、新羅との交易は歴史を有する活動であり、これを補うかのように渤海は、靺鞨諸部族を積極的に唐あるいは日本への遣使に参加させることにより、靺鞨諸部族の従前の権益を保証した、と主張している[134]。(金鍾圓)(朝鮮語: 김종원英語: Kim Chong-won釜山大学)は、『類聚国史』の記録を在唐学問僧永忠の見聞録の一部とし、高句麗遺民が比較的多い地域では州県制が施行されていたであろうが、靺鞨族が集団で居住する地域では部族制(部族自治制)が施行されていた、とみた[135]。(金東宇)(朝鮮語: 김동우(国立春川博物館)(英語版))は、渤海の首領を(地方官)、官僚、そして(遣日使)の下級随行員の三者に区分し、宣王大仁秀以後、下級随行員のように首領の地位が下落した理由は、中央の首領は政治制度が次第に整備されるにつれ、首領の称号に代わり別の官職名や官爵名で呼ばれ、地方の首領は、その独立的地位に以前よりも制約が加わったからだとした[136]。(宋基豪)(朝鮮語: 송기호英語: Song Ki-hoソウル大学)は、渤海の首領は中央政府から官職や官品を受けない勢力で、独自性を強く維持していた在地支配者であって、官職体制外にあったとみた[137]。(朴真淑)(朝鮮語: 박진숙忠南大学)は、首領は現地人である都督と刺史のもとに置かれた存在であって、地方民を統治する一定の権利を付与された地方の末端官吏とし、都督・刺史および(県丞)と同じく、首領もまた中央より任命されたであろうとみた[138][139]朴時亨は、百姓は「一般にいう庶民」であり、首領は「特別な現任官職のない、いわば後世における朝鮮の『両班』にあたる」と主張している[140][141]。(張博泉)と(程妮娜)は、百姓のなかにあって、土人と靺鞨人の地位には差があり、「首領」とは、氏族長あるいは部落長を指し、都督および刺史とは、「首領」の上位の地方長官のことであり、一般に都督および刺史らは品階身分の貴族であった、と指摘している[142][143]

李成市は、渤海を独自のエスニック・アイデンティティ(民族意識)をもつ高句麗人と靺鞨からなる多民族国家とする見解を示したうえで、渤海は、従来より独自の対外交易をおこなっていた靺鞨諸部族を包摂するにあたり、独自外交を遮断する代わりに、在地首長である首領を渤海の対唐および対日使節団に恒常的に参加させることにより、対外交易の便宜および安全を供与して靺鞨諸部族を懐柔し、靺鞨に対する対外通交の管理こそが渤海の国家支配の要諦であるとし、対外通交は単に経済的行為であるばかりか政治支配の根幹に関わり、渤海の対日遣使団である渤海使760年代を境に経済目的化しているようにみえるのも、こうした渤海の靺鞨諸部族支配のあらわれであると主張した[132]李成市の「首領制」は、渤海の北部靺鞨諸部族支配の進展と渤海使の経済目的化の時期とが重なること、渤海使の使節団の過半数を首領が占めており、日本からの回賜総量の半分以上が首領にわたること、狩猟および漁撈民はその生産物を農耕民との交換の必要性があることから交易民でもあること、渤海と同様に東夷諸族の世界に建国した高句麗および新羅も多民族状況を有し、自律性のある諸民族を統合する原理として中国文明を導入したこと、日本海側の靺鞨がその前身の一つである以来の遠隔地交易民であること、渤海国の衰退期に新羅国境付近の靺鞨が独自に新羅との交易を求めたこと、渤海滅亡後における旧渤海領域の女真族高麗王朝と活発に交易したことなどを根拠としており、この仮説に従うならば、渤海は交易保証ができている間は、北部靺鞨諸部族の安定支配ができたことになる[131]古畑徹は、「首領制を基礎とする多民族国家としての渤海という捉え方は、この地域における民族と国家のあり方の歴史的変遷のなかに位置づいていて、非常に説得力のあるものになっている。いいかえれば、渤海の首領制は、李氏によって東夷諸族の大きな歴史の流れのなかに位置づけられたことで、渤海の国家社会を理解するうえでの最も有力な仮説に成長したと評してよかろう」と述べている[132]

石井正敏は、「其下百姓皆曰首領」を「其ノ下ノ百姓ヲ、ミナ首領ト曰フ」と訓じて、「百姓」を百官=役人の意とし、都督・刺史という村長の下の役人=靺鞨人首長を首領と総称した、という解釈を提示し、首領制を支持している[144]。一方、李成市が強調する在地首長自体が渤海使の一員となって来日したとすることには否定的であり、渤海使の史料に登場する首領は、日本の遣唐使でいえば、知乗船事、造舶都匠、船師、水手長、(船匠)、柂師挟杪、(射手)などに該当し、幹部クラスより下の下級役人の総称と解し、首領は在地首長層の総称だけでなく、中央政府および地方政府をとわず下級官人層の汎称ではないかという理解を提示しており、首領の国家交易団への再編を渤海の国家支配の要諦とみなす首領制論には批判的である[144]古畑徹は、「この石井氏の論理展開は確かに見事であるが、氏自身が述べるように、日本では『百姓』の語は一貫して普遍的被支配身分の呼称として使用され、役人の意味に解する同時代事例がないという大きな欠陥が存在する。石井氏は『類聚国史』渤海沿革関係記事の『百姓』を渤海における用例とみる可能性も指摘するが、日本の人々に対して渤海の『首領』を解説する文章に渤海独自の用語が使われ、これについて何の説明もないというのはいかにも不自然である。その意味で、この石井氏の解釈も未だ決定打とはいえない」と評している[144]

森田悌は、「首領」について、二度にわたって論じているが、前説と後説では見解が異なり、前説は、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)にみえる「六十五人大首領」記事から、首領を渤海使水手と解し、水手は一般に百姓=庶民であることから、首領はその(本義)を離れ、渤海内で百姓クラスを指す用語に変質したと考え、「其下百姓皆曰首領」記事を、「ソノ下ノ百姓ヲ皆、首領ト曰フ」と訓じ、百姓=首領と解し、換言すれば、百姓=一般庶民説であり、首領制論とは対立する[145]。後説は、「其下百姓皆曰首領」記事を、百姓=首領と解する見解は維持するが、渤海に(編戸制)がおこなわれており、複数の自然家族から成るを統率する戸主は庶民階層に属することを根拠にして、首領=戸主という新見解を提示し、戸口部曲および奴婢が属する大組織と解し、官吏と解さない点を除けば、首領=戸主説は首領制論の社会構造に近い[145]。また、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒における首領の解釈にも若干の変更を加え、水手をはじめ船内諸役に従事する者という見解を示している[145]古畑徹は、前説を「『大首領』を水手と解する点などに問題が残り、渤海史研究者の大方の賛同は得られなかった」、後説を「首領=戸主説と船内諸役に従事する者との関係が不明瞭で、論理自体にわかりにくい点が多く、依然として渤海史研究者からはほとんど賛同が得られていない」と評している[145]石井正敏は、「そもそも首領=水手とすることに問題があるのではなかろうか。すなわち遣日本使の首領を水手とすると、明らかに船員を意味する(梢工)がすでに二八人も乗り込んでいるので、一行一〇五人のうち九三人(約九割)もが操船関係者で占められてしまうことになる。非官人層が九割を占める(国家使節)というものが考えられるであろうか。首領をすべて民間から徴用された水手とすることには疑問がある」と評している[133]

渤海は、在地社会の部落長を「首領」に任命、在地社会の部落の中心となる大規模部落に都督あるいは刺史中央から派遣、統轄したとみられるが、(河上洋)は、渤海は領域支配にあたり、およびをおいたが、これは高句麗の城支配を継承しており、行政機構であると同時に軍団組織でもあり、その基礎は靺鞨の部落あるいは高句麗の城邑であり、渤海の府および州は、中国とは異なる部落および城邑そのものであり、渤海の在地の首長層は「首領」を与えられることにより、在地社会における支配権を認められ、渤海の支配体制に組み込まれた、と主張しており[146]、高句麗の地方統治組織と渤海の地方統治組織の類似性を指摘している。高句麗の地方統治組織は、大城 - 城 - 小城から成り、大城と城には中央から各々(褥薩)(朝鮮語版)、(処閭近支)が長官として派遣されているが、『類聚国史』に記されている渤海の地方体制と比較した場合、大城(長官=(褥薩)(朝鮮語版)) - 城(長官=処閭近支)の関係は、そのまま大村(長官=都督) - 次村(長官=刺史)の関係と相似しており、さらに、中国史料では、高句麗の褥薩は都督に、高句麗の処閭近支は刺史に比定しており、このことも褥薩、処閭近支と渤海の都督、刺史が同様の性格であったことを示している、と主張している。(河上洋)は、「刺史から下の対応関係ははっきりしないが、高句麗の小城におかれた(可邏達)が渤海の首領に、縣令に比定された婁肖がそのまま渤海の縣令に当てはめられるのではないか。ただそうすると高句麗の可邏達は長史に比定されているから、渤海においては中国風に長史とすべき官にわざわざ首領なる呼称を当てているのが問題になる。一つの解答として、これは都督、刺史が高句麗人であるのに対し、在地の首長層の多くが靺鞨人から成ることの反映と考えられる。つまり、種族の相違からそのまま長史とはせずに先に述べた中国での用例を意識して首領という呼称を附したのだろう」と主張している[147]。また、(河上洋)は、唐の第一次高句麗出兵において、唐は高句麗の(白巖城)(朝鮮語版)を降した際、城をそのまま(巖州)として州の刺史に白巖城主である孫伐音を任命しており、高句麗滅亡後、大城 - 城 - 小城から成る高句麗の地方統治組織はある程度は温存されていたのではないか、と推測し[147]、高句麗人住地における大城 - 城の関係にあたる靺鞨人住地の大村 - 次村の関係について、靺鞨の各部落には各々部落長がおり、独自活動をおこなっていたが、なかには、(突地稽)(中国語版)を長とする厥稽部のような軍事行動の際に他部落を統率する有力部落が存在し、渤海はこうした有力部落に都督あるいは刺史を派遣して周辺の小部落を統轄させ、靺鞨の部落長に「首領」与え、都督および刺史の指揮下におき、高句麗の城支配体制を継承した渤海は城支配体制を靺鞨の住地に対しても及ぼしたのではないか、と指摘し[148]天顕元年三月に契丹康黙記韓延徽蕭阿古只などが渤海の(長嶺府)(中国語版)を攻略し、それについて、『遼史』巻七三・粛阿古只伝は、鴨淥府から七千の兵が派兵され、契丹軍と交戦したことを記しており[注釈 12]、渤海の府および州が各々独自の軍団を組織していたことが窺える、としている[149]

金毓黻は、「首領、為庶民之長。亦庶官之通称也。謹案、日本逸史謂渤海都督・刺史以下之百姓、皆曰首領。百姓者別於庶民。金代有猛安千夫長・謀克百夫長之制。即以軍制部勒庶民而為之長。渤海之首領制、即猛安・謀克之制之所自出也。出使鄰国大使以下之属官亦有首領。其位次在録事・品官之下。亦与金代之謀克相等。故首領者亦庶官之称也。」と述べており[150]、「百姓ハ庶民トハ別ナリ」とし、「大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。」の一節は、「都督・刺史の下の百姓をみな首領と曰う」と理解している。そして、「百姓者別於庶民」は、「庶民之長」としていることを参考にすれば、百姓は基本的に庶民の意味であるが、『類聚国史』記事の百姓はただの庶民ではなく、庶民のなかから選ばれて庶民を統轄し、地方支配機構の末端に連なる者であり、首領と呼ばれた、の意味と理解しており、『類聚国史』記事の百姓=首領=庶民の長となる。また、首領は(遣外使節)の下級の役人などにもみえることから「庶官之通称」であるとし、金代の社会組織・軍事組織猛安・謀克の祖形としている[140]

歴史論争

渤海建国者の大祚栄は高句麗人だったのか、そうではなく靺鞨人だったのかという出自をめぐり対立しており、決着を見ていない。それとあいまって渤海の帰属をめぐって朝鮮民族の王朝、あるいは中国少数民族による地方政権と看做すかによって大韓民国及び北朝鮮中国の間で大きな歴史論争を惹起している。中国側の歴史観については東北工程を、韓国における歴史観については南北国時代をそれぞれ参照されたい。

韓国、北朝鮮は渤海は高句麗を継承して成立した朝鮮民族系の政権であり、新羅と対立し「南北国時代」を形成したとする歴史教育を行っており、渤海の住民構成を「支配層=高句麗系」「非支配層=靺鞨系」と主張する[151]。これに対し中国は、渤海は高句麗同様に中原王朝より冊封を受けた中国の少数民族による地方政権であるという歴史観を呈示しており、さらに中国では、「(藩属理論)」に基づいて、高句麗と渤海はもとより、新羅百済中国の歴史に含まれるとする学説がある[152][153]。また中国とロシアでは、渤海はすべて靺鞨人が建国したと主張する[154]

李孝珩(朝鮮語: 이효형釜山大学)は、各国の渤海研究の動向について、日本は渤海建国集団を粟末靺鞨と把握して、少数の高句麗人と大半の靺鞨により構成されたとみており、ロシアの沿海州には城跡寺跡住居跡古墳など渤海関連遺跡が多数分布しているため、ロシアは史料考古学の両方を使用して研究することができる有利な条件があり、これまでロシアは渤海の歴史と文化について歴史的な側面と考古学的な側面の両方で多くの学問的業績を積み上げており、ロシアの渤海研究者は、渤海文化が独自性と多元性を帯びていることを根拠に多民族国家であり、尚且つ渤海は靺鞨が建国した独立主権国家であると把握しているとまとめている[155]

897年に対して渤海の大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[156]。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[156][157]

臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流

渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[158] — 崔致遠、謝不許北国居上表
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:謝不許北國居上表

李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した[159](李圭景)(朝鮮語版)は、渤海の朝鮮の歴史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと主張した[160]。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が高句麗人とは考えられない靺鞨人であったことを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮の歴史に含める歴史家が増えた[161]。18世紀には次のように意見が分かれていた。学者李瀷安鼎福は渤海を朝鮮の歴史の一部と考えることを断固として拒否し、一方、(申景濬)(朝鮮語版)(柳得恭)(朝鮮語版)はそれを完全に組み込んでいた。1世紀後、(韓致奫)(朝鮮語版)と(韓鎭書)は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮の歴史の中に含めた[162]申采浩は、渤海や夫余王国を朝鮮の歴史から除いたと『三国史記』を批判した[163]。彼は、渤海が契丹に敗れたことを「私たちの祖先『檀君』の古代の土地の半分を…900年以上の間『失った』」と解釈した[164]。北朝鮮の学者、およびより最近の韓国の何人かの学者は、統一新羅が朝鮮を統一したとの見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮の歴史の不可欠な部分として組み込もうとした。この物語によると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった[165][166]

三国史記』では、「先是我与百済、靺鞨侵新羅北境、…」(巻二十二・高句麗本紀十、宝蔵王十四年春正月条)、「以降王爲遼東州都督、(中略)王至遼東、謀叛、潛與靺鞨通開耀元年、召還州、(中略)散徙其人於河南、隴右諸州、貧者留安東城傍、舊城往往沒於新羅、餘衆散入靺鞨及突厥、高氏君長遂絶。」(儀鳳二年丁丑歳春二月条)、「敎百官親入北門奏對。入唐宿衛左領軍衛員外將軍金忠信上表曰、臣所奉進止、令臣執節本國、發兵馬討除靺鞨、有事續奏者。…」(巻八・新羅本紀八聖徳王三十三年春正月条)、「(高句麗)其地多入渤海靺鞨、新羅亦得其南境。」(巻三十七・雑志六)とあり、渤海をすなわち靺鞨であるとみていた[167]

大祚栄の父である大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 13][注釈 14]という官職は『(五代会要)』巻三十渤海上に「有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也」とあるため官名であることがわかり、『遼史』巻一一六国語解に「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。」とあることから舎利とは権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であることがわかり[168]、『遼史』と『資治通鑑』によると契丹[注釈 15][注釈 16][169][168]、『冊府元亀』によると靺鞨[注釈 17]にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない[170][171][172][173]。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある[174][170]

713年2月、大祚栄の冊封が実現し、与えられた官爵は、左驍衛員外大将軍・忽汗州都督・渤海郡王であり、任命の(冊書)を持った崔忻は、海路から大祚栄のもとに至り、任務を果たして翌年帰国するが、帰路に遼東半島の先端で井戸を掘ったことを記念して刻まれたのが、『鴻臚井碑』である[175]。渤海の国号はこの冊封に由来し、『新唐書』渤海伝は「是より始めて靺鞨の号を去り、専ら渤海と称す[注釈 18]」と記すが、この文の主語がはっきりせず、唐が大祚栄集団を「靺鞨」と呼んでいたことは『鴻臚井碑』に記された崔忻の肩書に「宣労靺鞨使」とあることから明らかであり、唐が呼び方を改めたという解釈は一応ありうるが、唐はこの時期「渤海靺鞨」と呼んでおり、「渤海」のみとなるのは約30年後である。一方、主語を大祚栄とみて、当初の自称国号は「靺鞨」だったという解釈が中国にある[175]

大祚栄の十七年(唐開元二年、714年)、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使崔忻は唐へ復命する途中で今日の遼東半島に達した。この重大な歴史的意義を持つ冊封使としての活動を記念して、今日の旅順港付近の黄金山の麓に井戸が二つ掘られた。1906年、この著名な『鴻臚井欄題記』が発見されたが、その碑文には「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻井両口永為記験 開元二年五月十八日」と書かれており、唐は冊封使の崔忻の使命を「宣労靺鞨使」と命じており、唐が渤海を「高句麗」ではなく「靺羯(靺鞨)」と認識していることが分かり、靺鞨こそ渤海であって、渤海こそ靺鞨であることが知られる[176]

冊府元亀』巻九七一・朝貢四・開元元(七一三)年十二月条には、「靺鞨王子来朝して曰く、『臣、市に就て交易し、寺に入りて礼拝せんことを請う』これを許す」とあり、この靺鞨王子とは渤海からの使節とみられる[177]

多賀城碑には、渤海のことを靺鞨国と記録しており、渤海のアイデンティティの決定的な証拠という評価もある[178]

中国の学界では、大祚栄の父とされる乞乞仲象が靺鞨人の名前であることを靺鞨説の根拠としており[179]、朱国忱・魏国忠は「乞乞仲象は明らかに靺鞨人本来の姓氏の名である」と述べており[180]、日本の鳥山喜一も「それにしても前引の『(五代会要)』のいうように乞乞仲象を名とするにしろ、この『新唐書』の如く、乞乞を姓、仲象を名とするにしても、高句麗化していたものとしては、この胡名はどうかと思われる[181]」と述べており、池内宏も「然るに乞乞仲象は明かに胡言の音訳にして、祚栄は漢語として意義のある文字なり。即ち乞乞仲象は漢語として全く無意義なれども、祚栄は国祚の長久を冀へるめでたき文字なれば新たに一国を剏始したるものの名として寔にふさはし[182]」「渤海国の始祖なる乞乞仲象には、何故支那風の名もなく、又た適当なる諡號も附せられざりしか[182]」と述べている。

唐は渤海を「東夷」ではなく、「北狄」に分類しており、『旧唐書』渤海靺鞨伝も、『新唐書』渤海伝も、鉄勒契丹同様、北狄伝のなかの一列伝として扱っている[183]。これは唐が渤海を靺鞨の一種と理解していたためで、『旧唐書』靺鞨伝・『新唐書』黒水靺鞨伝も北狄伝のなかにあり、靺鞨・渤海を北狄に分類するのは『唐会要』も同様で、その原型である唐後半期の史書『会要』『(続会要)』からそうであったと考えられている[183]。また、700年に出された蕃域・絶域の範囲を規定するには、靺鞨が突厥・契丹とともに「北」の蕃域として扱われている[183]。唐が渤海を靺鞨に分類した理由は、渤海は高句麗後継を謳うものの、実態として高句麗人だけの国ではなく、最初から多くの靺鞨人を抱えており、このことは唐側も渤海征討時に認識しており、渤海を高句麗後継とするわけにはいかない唐としては、もう一つの核である靺鞨に注目し、そこに分類せざるを得なかった、とみられる[184]

朝鮮日報』は、日本の学界では1933年白鳥庫吉が提唱した「支配層は高句麗人、被支配層は靺鞨人」という解釈が定説化していると報じているが[185][186]、大祚栄はツングース系靺鞨人という説が日本の学界では広く受け入れられているとする見解があり[187]、「高句麗に居住していた靺鞨人[188]」、「高句麗に属していた粟末靺鞨人[189]」、「高句麗に帰化していた靺鞨人[190]」、「高句麗に同化していた靺鞨人[190]」、「高句麗に付属した粟末靺鞨族[191]」、「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[192]」といった記述が見られる。

これらの各国の歴史観は現代の政治情勢と関連し、渤海を自国に有利な歴史観で理解しようとする政治的立場との密接な関係が存在しているためと考えられる。日本では戦前は「渤海建国者およびその出自集団、換言するならば主体民族については、粟末あるいは白山靺鞨の差こそあれ、大勢は靺鞨人の国家」と考えていた[193]

韓国の『斗山世界大百科事典』は、大祚栄の父親乞乞仲象について、「高句麗に服属していた粟末靺鞨人の酋長と推測されている」と述べており[194]、同じく韓国の『韓国民族文化大百科事典』も「乞乞仲象は、高句麗に併合された粟末靺鞨族出身で唐の営州地方に移って住んでいた」と述べている[16]

魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)と郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、渤海が粟末靺鞨の国であり、主体民族が靺鞨というのは、中国日本新羅の多数の文献と考古学史料によって立証されているとして、①唐の文献史料である『(唐六典)(中国語版)』と張九齢の「勅新羅王金興光書」には渤海を「渤海靺鞨」と表記しており、『通典』は渤海に対して「靺鞨」という称号を使用しており、714年大鴻臚である崔忻大祚栄を渤海郡王に冊封するため渤海に派遣された帰途、旅順に掘った井戸の記念碑である鴻臚井には「勅持節宣労靺羯(鞨)使」と刻印しるなど渤海への冊封使を「靺鞨使」としており、『旧唐書』『唐会要』『(五代会要)(英語版)』『冊府元亀』『新唐書』の五大書はすべて渤海を「渤海靺鞨」「靺鞨」と記述している。②日本史料では、『続日本紀』は「遣渡島津輕津司從七位諸君鞍男等六人于靺鞨國」とあり、762年に建立された『多賀城碑』には「多賀城...去靺鞨國界三千里」とあって渤海を「靺鞨国」と表記しており、在唐学問僧・永忠が渤海を経由して入唐した際に得た渤海の見聞と日本朝廷が渤海との交渉を通じて得た情報と対唐交渉で得た情報を基に作成した『類聚国史』は「其國延袤二十里、無州縣館驛、處處有村里、皆靺鞨部落」とあって「渤海は靺鞨の部落が多い」と記録されている。③897年に対して渤海の大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』は明白で解釈の余地がない語彙で「渤海を建国した大祚栄高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されていることを挙げている[195][196][120]

『続日本紀』巻二二・淳仁天皇・天平宝字三年正月の渤海王の自称「高麗国王」論争

日本史料『続日本紀』『類聚国史』には、日本と渤海の外交交渉において日本が渤海を「高麗」と呼び、大欽茂が「高麗国王」と自称するなど高句麗継承意識を表明していることが記載されている。

  1. 庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍楊承慶。歸徳將軍楊泰師等。令齎表文并常貢物入朝。 — 続日本紀、巻二二
      中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第廿二
  2. 武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。

    武藝、忝なくも列国に当り、濫りに諸蕃を統べ、高麗の旧居に復して扶余の遺俗を有てり。但だ天崖路阻たり、海漢(漠か)悠々たるを以て、音耗未だ通ぜず、吉凶問を絶つ。仁に親しみ援を結ぶこと、庶くは前経に叶ひ、使を通じ隣に聘すること、今日に始めん[197] — 続日本紀、神亀五年正月甲寅条
      中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第十
  3. 書尾虚陳天孫僭号。 — 続日本紀、巻三二
      中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第卅二
  4. 慕化之勤、可尋蹤於高氏 — 類聚国史、巻一九三
      中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本後紀/卷第七

このうち4は桓武天皇が以下の渤海王宛の勅書で、古の高句麗みたく朝貢形式の臣礼を要求したことを承諾して大嵩璘が述べたものであり、日本の意向に添ってでも交易を円滑に進めたい意思がうかがえ、1、2、3の高句麗継承意識とは異なり、日本に追従・恭順する意思を表明したものとなる(高氏は高句麗王姓、大家は渤海王室)[198]

彼渤海之国、隔以滄溟、世脩聘礼、有自来矣。高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。

彼の渤海の国、隔つるに滄溟を以てするも、世よ聘礼を脩め、自来せる有り。往者、高氏緒を継ぎ、毎に化を慕いて相い尋ぎ、大家基を復するや、亦た風を占いて絶ゆる靡し[198] — 類聚国史、巻一九三
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本後紀/卷第七

これを以て渤海が高句麗継承国を強く自任していた証拠とする場合が往々見受けられ、特に韓国や北朝鮮の研究者はこの日本史料にある日本が渤海を「高麗」と呼び、渤海王が「高麗国王」と自称していたことこそが渤海王が高句麗人だった、渤海が高句麗の継承国だった最大の証拠だと主張している。また、朴時亨は、大欽茂が日本に送った国書で自らを「天孫」と自称しており、高朱蒙天帝の息子であるため、天孫とは高句麗王家のことであり、渤海王が「天孫」を自称したことは、渤海王が高句麗王家の血統であること意味し、渤海は高句麗人が建国した高句麗継承国であることの証明であると主張している[199]

Daum百科事典は以下の主張をしている[200]

건국 초기에는 스스로 진국(震國)이라 칭했으며 일본과의 사절교환시에는 고구려의 계승을 강조하며 '고려'(高麗)로 칭하기도 했다.

建国初期は、自ら震國と称し、日本との外交使節交換時には、高句麗の継承を強調し「高麗」と称した。 — Daum百科事典

(Chunjae Education. INC.)(朝鮮語版)は以下の主張をしている[179]

그 당시 일본과 오고 간 문서를 보면 정확히 알 수 있어. 분명 고려(고구려)의 후예라고 자처하는 내용이 있고, 일본도 인정을 했지

当時の日本との外交文書を見れば正確に知ることができる。明らかに高句麗の後裔を自認する内容があり、日本もそれを認めていた。 — 천재학습백과 초등 사회 5-2

斗山世界大百科事典は以下の主張をしている[201]

제3대 문왕은 일본에 보낸 국서에서 스스로를 ‘고구려(高句麗) 국왕’이라고 칭하였다. 이와 같이 발해국은 고구려 계통임을 분명히 밝혔다.

第三代の文王は日本に送った国書で自らを高句麗国王と称した。このように渤海は自らを高句麗系であると明らかにした。 — 斗山世界大百科事典

韓国民族文化大百科事典』は以下の主張をしている[112]

그리고 문왕(文王)시대에는 일본과의 외교에서 고구려의 천손의식(天孫意識)을 원용해 천손이란 용어를 사용했고, 그의 후반기에는 고구려 계승국이라는 의미로서 고려국(高麗國)을 표방하기도 하였다.강왕(康王)시대에도 일본에 보낸 국서(國書)에 고구려 계승의식이 집중적으로 나타나 있다. 강왕 스스로 국서에서 이러한 의식을 표명한 것은 발해 지배층의 인식을 밝히고 있는 것이어서 주목된다.한편 872년에 일본에서 고구려 계통의 사람을 내세워 발해 사신을 접대했던 사실을 볼 때 고구려 계승의식이 지속되었음을 분명히 알 수 있다. 따라서 발해사의 고구려 계승성은 자명하다고 할 수 있다.

文王時代には、日本との外交で高句麗の天孫意識を援用して天孫という用語を使用しており、文王後期には、高句麗継承国という意味で高麗国を標榜した。康王時代にも日本に送った国書に高句麗継承意識が集中的にあらわれている。康王の国書において、これらの意識を表明したのは、渤海の支配層の認識を明らかにしたものであり、注目される。一方、872年に日本が高句麗系の人を渤海使臣の応対をさせたという事実をみたときに、高句麗継承意識が持続していたことが明確にわかる。したがって渤海の高句麗継承性は自明であるということができる。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代)

(EBSi)(朝鮮語版)の歴史講師である이다지は以下の主張をしている[202]

아쉽게도 발해가 자국의 역사서를 편찬하진 않았지만 당시 다른 나라와 교류했던 외교 문서는 남아 있습니다. 좀 있다 보겠지만 발해가 일본이랑 친했거든요. 일본에 보낸 국서를 보면 발해왕이 스스로를 ‘고려 국왕’이라고 합니다.

残念ながら渤海は自国の歴史書を編纂していないが、当時の他国との交流において外交文書は残っている。渤海は日本と親交した。日本に送った国書を見ると、渤海王が自らを高麗国王といっている。 — 이다지 한국사 1 - 전근대 : 흥미진진 스토리텔링으로 한국사 다지기

卞麟錫(朝鮮語: 변인석英語: Pyun, In-seok亜洲大学)は以下のように述べている[203]

천제(天帝)의 아들 해모수(解慕潄)가 도읍을 정한 건국신화에서 발해의 천손 즉 천제의 아들이라는 선택된 긍지와 같은 뿌리를 엿보게 한다. 고구려의 시조 주몽의 아버지 해모수가 나라를 세운 건국과정은 『삼국사기』에 자세하다....이 같이 고구려 왕실을 낳은 천손사상의 표명은 772년(대흥(大興) 34) 발해의 대문왕이 일본 왕에게 보낸 국서에서 ‘천제의 아들’이라고 밝힌 데에서 알 수 있다.

天帝の息子解慕漱が都を定めた建国神話を、渤海が天孫すなわち天帝の息子として選択したのは誇りをうかがわせる。高句麗の始祖朱蒙の父解慕漱が国を建国した過程は『三国史記』に詳しい。...このような高句麗王家を産んだ天孫思想の表明は、772年、渤海の文王が天皇に送った国書で「天帝の息子」と明らかにしたことから知ることができる。 — 변인석、天孫의 표명

卞麟錫(朝鮮語: 변인석英語: Pyun, In-seok亜洲大学)は以下のように述べている[204]

다행히 무왕과 문왕이 일본에 보낸 국서가 『속일본기』에 실려 있다. 국서(國書)에서 고구려 계승의 흔적을 찾아낼 수 있다. 하나는 728년(開元 16) 발해의 무왕, 대무예가 고구려의 옛 땅을 회복하고 또 부여의 유속을 지녔다는 것을 알려준 것이고, 다른 하나는 문왕 즉 대흠무(大欽茂)가 일본에 보낸 국서에서 스스로 ‘고려국왕대흠무(高麗國王大欽茂)’라고 자칭하였다. 발해가 고구려의 옛 땅을 회복하고 풍속을 소유했다는 표명위에서 고구려왕으로 자칭한 것은 고구려의 계승의 자부심을 뿌듯하게 나타낸 것이다. 이에 대한 일본의 답서[復書]에서도 그 칭호가 수용되었다. 이에 대하여 김육불은 대씨와 고구려가 종족적으로 혈윤관계(血胤關係)가 없었다면 어찌하여 이같은 말이 나왔겠는가 라고 하는 의문에서 『속일본기』를 중요시 하였다.

幸いなことに武王と文王が日本に送った国書が『続日本紀』に載っている。国書で高句麗継承の痕跡をみつけることができる。一つは、728年、渤海の武王、大武芸が高句麗の故地を回復し、また扶餘の遺俗を有したということを知らせてくれた。他の一つは、文王すなわち大欽茂が日本に送った国書で自ら「高麗國王大欽茂」と自称した。渤海が高句麗の故地を回復し、扶餘の遺俗を有したと表明したうえ、高句麗王と自称したことは、高句麗の継承の誇りをあらわしたものである。これに対する日本の復書もその称号を使用した。これに対して金毓黻氏は大氏と高句麗が種族的に血胤關係になければ、どのような理由でこのような言葉がでてきただろうかという疑問から『続日本紀』を重要視した。 — 변인석、高句麗繼承의 대외표명

정재정(ソウル市立大学)や차미희(梨花女子大学)らは以下の主張をしている[205]

셋째, 발해 국왕 스스로가 일본에 보낸 국서에 고구려왕임을 밝히고 있고, 일본 기록을 보면 발해가 초기에 일시적으로 ‘고구려’라는 이름을 쓰고 있어. 발해가 일시적이지만 고구려라는 국호를 썼다면 이는 발해의 고구려 계승 의식이 분명했음을 보여주는 것이야.

第三に、渤海国王自らが日本に送った国書には高句麗国王であると明らかにしており、日本の史料には、渤海の初期の一時期を「高麗」と書いている。渤海が初期の一時期であるが、高麗という国号を用いたのは、渤海が高麗の継承意識を明らかにしたことを示すためである。 — 공미라・김지수・김수옥・노정희・김애경、한국사 개념사전 99개의 개념으로 꿰뚫는 5000년 한국사

北朝鮮の(蔡泰亨)(朝鮮社会科学院歴史研究所)は以下の主張をしている[206]

高句麗遺民が中心となって建国…私たちはかつて渤海が高句麗の人たちによって建てられた国なのか、靺鞨人によって建てられた国なのか見当がつかなかった。そこで私たちは渤海史と関連した歴史記録を全面的に再検討する一方、渤海の遺跡遺物に対する調査発掘事業を広くすすめた。歴史文献に対する全面的な再検討を行う半面、遺跡遺物に対する調査発掘を通して渤海国が外でもなく朝鮮民族の国であった事実を明らかにした。…698年、大祚栄は渤海国の建国を宣布した。渤海国の創建で主導的な役割をになった勢力は高句麗遺民であり、建国のため唐との闘争を指揮したのは高句麗出身の将帥であった。『三国遺事』に引用された『新羅古記』には「高句麗の旧将帥 祚栄の姓は大氏」と記録されている。…渤海第二代王・大武芸が728年、日本に送った国書で渤海国は「高(句)麗の旧地を回復し、扶餘の遺した風俗をもつ」(『続日本紀』巻十・神亀五年・正月甲寅)としている。…私たちは「海東盛国」渤海の研究を深めることで渤海史を朝鮮民族史として正しく明らかにすることに寄与することができたと思っている。 — 蔡泰亨、渤海の歴史と考古学における新しい成果

(韓圭哲)(朝鮮語: 한규철慶星大学)は、以下の主張をしている[96]

일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅 되찾은 고려국” 자칭…발해는 일본에 보낸 국서에서 “고구려의 옛 땅을 찾고 부여의 풍속을 가지고 있는 고려국”이라고 자칭하였다. …이처럼 발해가 영토, 문화, 종족적인 측면에서 고구려를 계승한 것은 발해가 당나라의 지방정권이 아닌 자주적인 국가였음을 의미한다. 따라서 발해사는 당연히 한국사의 일부이며, 발해사의 주인공이 우리 민족이라는 사실은 너무도 명백하다.

日本に送った国書で「高句麗の故地を取り戻した高麗国」を自称…渤海は日本に送った国書において「高句麗の故地を復し、扶餘の遺俗をもっている高麗国」と自称した。…このように渤海が領土、文化、種族的側面において高句麗を継承しているのは、渤海が唐の地方政権ではなく、自主的な国家であったことを意味する。したがって、当然、渤海は朝鮮の歴史の一部であり、渤海の主人公が韓民族であるという事実はあまりにも明白である。 — 韓圭哲

歴史著述家の윤희진は以下の主張をしている[207]

대조영이 어느 민족 출신인지보다 더 중요한 부분은 발해를 이끌어갔던 집단이 고구려인들이고, 이들이 고구려를 잇고 있음을 분명히 밝혔다는 사실이다. 일본의 기록에 “그 나라는 말갈이 많고 고구려인이 적지만, 고구려인들이 모두 이들을 지배하고 있다.”라고 했고, 최치원도 “옛날의 고구려가 지금의 발해가 되었다.”라고 했다. 또한 758년 발해 사신이 일본을 방문하여 전달한 국서에 당시의 왕인 문왕은 자신을 ‘고려국왕’이라고 했다.

大祚栄の民族的出自について重要なのは、渤海を率いた集団が高句麗人であり、彼ら自身が高句麗の継承国であることを明らかにしたという事実である。日本の史料には「その国は靺鞨人が多く高句麗人は少ないが、高句麗人たちは皆靺鞨人を支配している」とあり、崔致遠も「昔の高句麗が今の渤海となった」としており、また758年に渤海使が日本を訪問して伝達した国書では、文王自らが「高麗国王」としている。 — 윤희진、인물한국사

韓国の文化体育観光部の所属機関である(海外文化弘報院)(朝鮮語版)は以下の主張をしている[208]

渤海は、高句麗を継承したという誇りを持ち、日本に送った文書にも高句麗王を意味する「高麗王」と表現しました。 — 海外文化弘報院

韓国の中学校教科書『国史』は以下の主張をしている[209]

高句麗が滅亡した後、高句麗遺民たちは様々な系統に分散した。一部の貴族たちは唐に連行されもしたが、多くの遺民たちは唐に積極的に対抗し、唐の軍隊と安東都護府を遼東地方に追い出した。折しも、唐の苛酷な収奪に悩まされていた契丹の酋長が反乱を起こすと、遼西地方にいた大祚栄はこれに乗じ、高句麗人と靺鞨人を率いて遼河を渡り、東へ移動した。唐は靺鞨人部隊を撃破し、高句麗遺民を追いかけた。大祚栄は追撃してくる唐軍を撃破して、高句麗遺民と靺鞨人とを集め、吉林省の東牟山付近に都を定め、渤海を建てた。渤海の住民は、主に高句麗人と靺鞨人であった。支配層の中心は高句麗人であり、被支配層は主に靺鞨人であった。高句麗を継承した渤海は、日本に送った外交文書に渤海を高句麗と、渤海王を高句麗王と称し、高句麗継承意識を明らかにした。渤海の建国により私たちの歴史は、統一新羅と渤海とが両立する、南北国の形勢を成すことになった。 — 中学校、国史、p73

韓国の中学校教科書『国史』は以下の主張をしている[210]

渤海は、当初高句麗継承意識をはっきりと持っていて、日本との外交文書でも高句麗王とするほどだった。そうした理由で、渤海と唐との関係は良くなかった。唐は、新羅・靺鞨族などを利用して、渤海を牽制しようとしたが、渤海は突厥と日本へ使臣を送り、それらと手を結んでこれに対抗した。また、渤海の武王は、海軍を派遣して唐の登州を攻撃させもした。しかし、文王以後から、渤海は唐と平和を維持して活発に往来しながら、その文化を受け入れた。 — 中学校、国史、渤海と唐

韓国の高等学校教科書『国史』は以下の主張をしている[211]

高句麗滅亡後、大同江以北と遼東地方の高句麗の地は安東都護府が支配していた。高句麗遺民は遼東地方を中心として、唐に抵抗し続けていた。7世紀末に至り、唐の地方に対する統制力が弱くなると、高句麗の将軍出身である大祚栄を中心とした高句麗遺民と靺鞨集団等は、戦争の被害をほとんど受けなかった満州東部地域に移動し、吉林省敦化市の東牟山麓に渤海を建てた。渤海の建国により、南の新羅と北の渤海とが共存する、南北国の形勢が成された。渤海は領域を拡大し、かつての高句麗領土の大部分を占めた。その領域には靺鞨族が多数居住してはいたものの、日本に送った国書に高麗または高麗国王という名称を使用した事実であるとか、文化の類似性から見て、渤海は高句麗を継承した国家であった。大祚栄の後を継いだ武王のときには領土拡張に力を注ぎ、東北方の様々な勢力を服属させて北満州一帯を掌握した。渤海の勢力拡大に伴って新羅は北方警戒を強化し、黒水部靺鞨も唐と連携しようとした。そこで渤海は、まず張文休の水軍によって唐の山東地方を攻撃する一方、遼西地域で唐軍と激突した。また突厥・日本等と連携しながら唐や新羅を牽制し、東北アジアで勢力均衡を維持することができた。続いて文王のときには唐と親善関係を結び、唐の文物を受け入れて体制を整備し、新羅とも常設交通路を開設して対立関係を解消しようとした。渤海が首都を中京から上京に移したのは、こうした支配体制の整備を反映したものである。渤海はこうした発展を土台として、中国と対等な地位にあることを対外的に誇示するため、仁安・大興などの独自の年号を使用した。渤海は9世紀前半の宣王のときに大部分の靺鞨族を服属させ、遼東地域に進出した。南へは新羅と国境を接するほどに広い領土を占め、地方制度も整備した。以後、全盛期を迎えた渤海を、中国人たちは「海東の盛国」と呼んだ。しかし10世紀初になると、部族を統一した契丹が東へ勢力を拡大してきた。渤海内部でも貴族たちの権力闘争が激化し、渤海の国力は大きく衰退し、ついに契丹の侵略を受けて滅亡した。 — 高等学校、国史、p56~p57

韓国政府東北アジア歴史財団は以下の主張をしている[212]

渤海が当時周辺諸国と交流していた歴史事実が盛り込まれている資料の数々からも渤海は高句麗を継承した国であったことが分かる。(中略)渤海は諡号および年号を導入し、皇帝国家を標ぼうしていた。日本と交流した国書を通じては夫餘と高句麗を継承した独立国家であったことを確認でき、南の新羅とは新羅道を置き、国家としての交流をしながら南北国時代が設定される端緒を提供した。 — 東北アジア歴史財団、東アジアから見た渤海史

朴時亨は以下の主張をしている[213]

七二七年、渤海第二代の武王仁安八年に、王は日本との国交を開く最初の国書で渤海国の創建を通告して「渤海国は高麗の旧領土を回復し、夫余の遺俗を所有している」と述べた。「高句麗の旧領土を回復した」のがすなわち渤海であるならば、渤海人すなわち高句麗人でないはずはない。まして、かつての「夫余の遺俗」まで探し出して自己の祖先の系統を究明する人たちであるならば、彼らが高句麗人であることは明かである。次に、七五八年、渤海第三代の文王大興二一年に、王は日本の王への国書の中で、自らを直接「高麗国王大欽茂」と称した。この時の渤海の正式国号はまだ振国であり、対外的には国王が渤海郡王の称号を使いもした時であるが、王は「高麗国王」を自称することもあった。この「高麗国王」なる称号は、当時、対内・外的に通用していたものと思われる。「高麗国王」を自称する者は、もちろん高句麗の後継国の王以外にはあり得ない。これ以後永らく、渤海国王は日本に送る国書の中できまって「高麗国王」を自称し、日本王の答書もまた自然に「高麗国王」への答書とならざるを得なかった。(中略)日本の文献に残っている渤海王室そのものの宣言などによって論断すれば、渤海王室はまさに高句麗人であり、彼らの建国した国名が最初は振国、後に渤海と改称しはしたが、本質において高句麗の後継者であり、また、高句麗国そのものであるという結論を得る。渤海人自身が渤海王室、あるいは渤海国住民の性質について言及したものとしては、日本の史料以外にない。われわれはまず渤海人自身の言葉を聞かねばならない。 — 朴時亨、渤海史研究のために

韓国政府東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は以下の主張をしている。

文王(大欽茂)時代の社会の性格と渤海社会が有していた自信感とを表現したのが、「天孫」と「皇上」という称号である。天孫という語は壱万福を大使とした使節一行が771年、日本に到着して、翌年、日本の天皇に伝えた渤海王の国書に現れる。即ち、昔の高句麗の時のように両国関係を兄弟と称するのではなく、舅甥(義父と婿)と称したという内容の記事が見える。天孫の称号を使用したことは、渤海が高句麗の天孫意識を継承することを裏付けるものであった。これとあわせて貞恵公主と貞孝公主の墓誌に現れる「皇上」「大王」という語に注目する必要がある。これらの墓誌には、文王を指す句節が数箇所にみえ、王を尊んで当時「大王」、「聖人」、「皇上」などと呼んでいたことが知られる。皇上という語は、臣下が皇帝を呼ぶときに使ったものであって、渤海で皇帝の称号が使用されていたことを証明する。先に指摘した天孫の称号とあわせ考えれば、なおさら妥当である。ところで、貞恵公主墓誌が書かれたのが780年、貞孝公主墓誌が書かれたのが792年、天孫という称号が日本で問題となったのが771年なので、すべて文王代後期に当たる。それゆえ、文王後期に天孫という称号とともに、皇帝の称号が使用されたことは確実である。(中略)『続日本紀』では、759年、渤海使節を高麗蕃客と表記して後、778年、大綱公広道を送高麗客使とするまで、高麗という語が渤海と併用されている。こうした現象がまる19年間続いたのである。日本の記録に高麗という語が現れる原因について、日本側の学者は対日外交のための一時的な用語と解釈する。また、渤海が高句麗の後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側の学者はこの史料の虚構性を強調することもある。しかし、日本人が当時の外交策略のために史料を歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない[214] — 林相先、渤海国の発展と高句麗継承
渤海人が自称したもう一つの国号としては「高麗」あるいは「高麗国」がある。高麗という名称は727年、渤海が日本に始めて派遣した使節に託した国書で「高麗の故地を回復し、扶余の遺俗を有った。」といい、「扶余」とともに「高麗」に言及した。758年には、楊承慶率いる渤海使節が日本を訪れ、伝えた国書では、当時の王である文王(大欽茂)が「高麗国王」と自称した。翌年、日本朝廷が帰国する渤海使節を通じて文王に送った国書でも、大欽茂を高麗国王と称している。以後、高麗国王あるいは高麗という名称が、一時期日本の記録に現れる。渤海人自ら、自身を「高麗」あるいは「高麗国」と称し、相手側でも同様に用いたということには、特別な意味がある。関連資料が新たに現れるまでは渤海初期、特に文王の時期に、渤海の国号が「高麗」であった可能性を否定することは難しいであろう[215] — 林相先、渤海国の発展と高句麗継承

李基白朝鮮語: 이기백西江大学)は以下の主張をしている[216]

우리 역사에서 渤海는 여러 각도에서 다른 견해가 있을 수 있다고 생각합니다. 高句麗 유민인 大祚榮(대조영)이 세웠고, 大祚榮의 후계자인 渤海 武王 스스로가 고구려의 後身임을 밝혔으니까 南北朝를 인정하지 않을 수 없습니다.

朝鮮の歴史のなかで渤海は様々な角度から異なる見解があると考えられます。高句麗遺民の大祚栄が建国し、大祚栄の後継者である渤海王武王自らが高句麗の後身であることを明らかにしていることから、南北国を認めざるを得ません。 — 李基白

(高句麗研究会)(朝鮮語版)会長の(徐吉洙)(朝鮮語版)朝鮮語: 서길수西京大学)は以下の主張をしている[217][218]

建国後29年の727年(武王・大武芸9年)、渤海が日本に国交を結ぶために使節を送りつつ、渤海は「高句麗の昔の領土を回復し、夫餘から伝えられて来た風俗を修めている(復高麗之舊居 有夫餘之遺俗)」(『続日本紀』神亀5年1月17日条)とあり、高句麗を継承したことを明らかにしている。一方、渤海の使臣についての事実を記録した日本では、「渤海は昔の高句麗である(渤海郡者 舊 高麗國也)」(『続日本紀』神亀4年9月29日条)は、事実を明白に認識しており、 渤海と高句麗をあたかも同じ国のように混用している記録が非常に多い。 — 서길수、발해는 고구려를 이어받았다

これは第二次世界大戦以前に白鳥庫吉が主張したのが初見であるが、白鳥庫吉はこれを渤海王が高句麗人である根拠としている(ただし赤羽目匡由は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と述べている[219])。また中国東北部(満州)で興起した民族や国家は、後のに至るまで(函普も参照)起源と王権の正統性を夫余と高句麗から抽出したが、これは政治的に高句麗継承を標榜することにより、対外的な政治的優位性を獲得する意図があり、高句麗継承の標榜をそのまま単純に血統的継承と連結することはできないという指摘もある[220]

この『続日本紀』に記録されている大武芸が日本に送った国書に「高麗の古の土地を回復し、夫余の習俗を持っている」とあることや渤海使を高麗使と表記してあること、大欽茂が自らを高麗国王と自称するなど高句麗継承国であることを日本に標榜していたことを根拠に、一部で渤海は高句麗忌避症にかかったとの摩擦を防止するために対外的な国号であって、対内的な国号は高麗だったという主張があるが、『続日本紀』にでてくる「渤海路」「渤海使」などの用語は隠蔽しており、渤海王が日本に送った国書に「高麗」「高麗使」「高麗国王」とあることをもってして渤海と高句麗の関係性や渤海の帰属問題を極度に単純化しているという批判を受けている[221][222]

朴時亨は、「天孫」の語から、渤海王が高句麗人さらには高句麗王室の血統を直接継承していると主張しており[223]、「高句麗の始祖高朱蒙の父が天帝の子の解慕漱であり、母が河伯の娘柳花夫人である、ということにもとづくのはいうまでもない」「(渤海王が)たんに高句麗人であるばかりでなく、高句麗王室の血統を直接継承した家系であることになる」と述べている[224]。これについて石井正敏は、「直ちに高句麗王室の血統を引く者とする点は如何であろうか」と評しており[225]赤羽目匡由は「朴時亨氏のように『天孫』の語より渤海王が高句麗王室の血統を継ぐとするのは妥当ではないと思う」と評している[223]

卞麟錫(朝鮮語: 변인석英語: Pyun, In-seok亜洲大学)は、高句麗の旧居を復したという対外表明は各地に散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集するうえでの政策であると評価でき、それらの故国である高句麗の旧居を復したという高句麗継承標榜が求心力となり、この表明の旗印のもとで営州に散乱していた高句麗人や靺鞨人を収集し、さらに、高句麗の旧居を復し、その地の主権歴史文化風俗を守ることこそが執政の目標とされ、これは特に大祚栄、大武芸、大欽茂の三代の重要政策であり、領土を拡大し、国土を開拓する過程で多数の民族を吸収してきたため、高句麗継承標榜は実践的な意味を持つとしている[226]

李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、「渤海から唐へ送った国書には、彼らの国号が『靺鞨』と自称していたことが『新唐書』に記録されている[注釈 19]」「渤海王が日本に使臣を派遣した際、高句麗王を自称したのは事実ですが、日本史書には『渤海』という用語は、より多く使用されている。初めて渤海人が国を建国した時、国名を『靺鞨』とした。713年に唐から『靺鞨』の王に『渤海郡王』という称号を与えられ、渤海という国名を使用します。もし大祚栄が高句麗人なら、何故『靺鞨』を名乗ったのでしょうか。靺鞨は高句麗人より身分がはるかに劣る種族です」「渤海には高句麗人がいましが、高句麗人が渤海の主流勢力とはみていません。高句麗滅亡後、唐は20万人の高句麗人を連行しました。新羅も高句麗人7000人を捕らえました。高句麗王や王子、貴族などの中心勢力はすべて捕らえられました。残存した高句麗人が渤海の上層部に編入されたとしても、渤海王と多くの支配階級は靺鞨人だったはずです」と述べている[111]

金香は、「天子」の称号が高句麗だけのものではないこと、帝王を「天孫」とする表現は中原にも高句麗・渤海にもみられず、「天孫」はただの名を表すに過ぎないこと、ここにみえる「天孫」は渤海の自称ではなく日本の(改作)であることなどを挙げて、「天孫」の語は渤海の高句麗継承意識とは関係ないとする[227][223]

王健群(吉林省文物考古研究所)は、「天孫」とは「天子」より一段格を落として僭越を避けたものとみなし[228]、これ自体が「天子」である朱蒙と必然的に関係がないことを証明していると指摘している(『好太王碑』には「出自北夫余天帝之子。」とある)[199]

朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、天孫思想が高句麗だけのものではないことを挙げて、ここでの「天孫」をいずれも高句麗始祖朱蒙の天帝出自説とは必ずしも関連づけられないとする[223]

崔紹熹(遼寧師範大学)は、大欽茂の高麗国王自称は、東方拓彊の時期にあたり、東京龍原府一帯に依然として強い勢力を有していた高句麗人勢力を、征服統治するのに有利であったためとし、国内の一地域の高句麗人支配という国内的意味があったとしている[229][230]

王健群(吉林省文物考古研究所)は、「復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。」を「高句麗の故地を領有し、夫余の文化を具有した」と解釈するのは正しいが、「大氏は高句麗人である」と主張しているわけではなく、渤海が高句麗継承国である理由の説明もない。「高麗國王大欽茂言。」は、楊承慶が口奏で大欽茂を「高麗國王」と称したに過ぎず、具体的な論拠も示していない[199]。さらに『続日本紀』は、楊承慶を天平宝字二年九月には「渤海大使[231]」とし、同年十二月壬戌にも「渤海使[231]」としているが、七日後の天平宝字三年元日に突然「高麗蕃客[232]」と改称しており、同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記していることは、(史官)が渤海と高句麗を混同したことによる技術的混乱であり、それらは渤海自ら高句麗を自称しているのではない。「高麗國王大欽茂言。」の一節は、国書ではなく、渤海使による口奏であり、国書と口奏は『続日本紀』では厳格に区別されている。天平勝宝五年五月に慕施蒙が孝謙天皇に拝謁した際は「渤海王言日本照臨聖天皇朝。[233]」と口奏し、楊承慶が口奏した「高麗國王大欽茂言。」も慕施蒙が口奏した「渤海王言」もともに渤海使が口奏したのであり、大欽茂が自称したのではない[199]。「高麗國王大欽茂言。」と口奏した楊承慶より先に来朝した慕施蒙は大欽茂を「渤海王言」と口奏しており、もともと大欽茂は「渤海王」と称していたと解釈するのが妥当であり、一介の(使臣)が国王の言葉をむやみに修正するはずがなく、もともと楊承慶は慕施蒙と同様に大欽茂を「渤海王」と口奏し、「高麗國王」とは口奏していない蓋然性が高く、同一人物である楊承慶を「渤海大使」「渤海使」「高麗蕃客」と異表記したことと同様に(史官)が渤海と高句麗を混同したことによる技術的混乱であると主張している[199]

徐徳源(遼寧大学)は、高麗国王自称は、唐朝廷の(控制)を脱し独立国家となることを実現するための外交的手段とし、独立国としての王権強化という国内的意味があったとしている。さらに、渤海王が「天孫」号を用いたことを、高句麗継承意識とは関係がないとしつつ、唐の政権下では渤海と日本とは対等な自立国であることから、日本に対等の地位を求めようとしたものとしている[234][230]

魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、魏建華(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、初めて日本が渤海に朝貢を要求した際に『高麗旧記』を引き合いに出しており、その後、天皇が渤海王に宛てた国書には「高氏継緒、毎慕化而相尋、大家復基、亦占風而靡絶。」「昔高麗全盛時。其王高武。祖宗奕世。介居瀛表。親如兄弟。義若君臣。帆海梯山。朝貢相續。逮乎季歳。高氏淪亡。自尓以來。音問寂絶。爰洎神龜四年。王之先考左金吾衛大將軍渤海郡王遣使來朝。始修職貢。[235]」とあり、日本にとって高句麗とは古の朝貢国属国であるため、日本は渤海を臣従させ、日本が渤海を属国にして朝貢させるため、渤海は高句麗の継承国であるというデマを一方的に仕組んで、渤海を「高麗」或いは「高句麗」、渤海王を「高麗国王」、その使者を「高麗大使」と呼び、渤海に派遣された日本の使節や船は「遣高麗使」「送高麗人使」「遣高麗国船」と強引に呼んだが、これに対して渤海は「高麗」という名称に抵抗・反発したため、両国間で長期にわたる交渉がおこなわれ、所謂「高麗」問題をめぐり争ったが、結局、日本は事実に直面して敗北を認めざるをえず、最終的に渤海を「高麗」と称することをあきらめたと主張している[236]

鈴木靖民は、『続日本紀』渤海関連記事に、渤海郡は「旧の高麗国なり」とあり、渤海王のに「高麗の旧居を復す」とあり、平城京出土木簡に遣渤海使を「遣高麗使」と記すなど、8世紀の日本支配層は、渤海を高句麗継承国に位置付けるため、高麗と号することがあり、日本の対渤海外交は新羅とともに渤海に朝貢を要求するものであったが、渤海は「高麗」と自称することで、対日本交渉の歴史的根拠として高句麗の後継国意識を示しつつ、渤海使も国交を続けるためにそれに合わせていた、と述べている[127]:1

堀敏一は、「高麗国王」が実際は「渤海王」を指し、何故「高麗国王」と記されたかについて明快な指摘をおこなっている[237]。日本は渤海を高句麗の後身として、日本に臣従するよう要求する国書を天平勝宝五年と宝亀三年に送ったが、この要求は前後一貫しているわけではなく、高麗の称号のおこなわれた時期はその間に含まれ、渤海を高麗と称するのは天平宝字二年から天平宝字六年までが盛んで、以後は渤海の語句を用い、高麗の語句は散発的に残っているに過ぎず、高麗の呼称が盛行した時期は藤原仲麻呂の執政期にあたる[237]。それは、新羅征討計画が練られた時期と重なり、渤海と友好関係もちたかった藤原仲麻呂は渤海に対する強硬姿勢を改め、新羅に滅ぼされ、新羅に復讐する国の名としてか、かつて高句麗とは同盟関係にあったという誤記憶からか、渤海に対して高麗の名を用いた。そして、藤原仲麻呂失脚後最初の宝亀三年の国書から、再び渤海に対する強硬姿勢が続くことになる[237]

いずれにせよ第二次世界大戦後石井正敏により、渤海から日本へ贈られた第一回国書の分析を通して渤海王の自称「高麗国王」がかつての附庸国高句麗に位置づけようとする日本の対外政策と要求に迎合したものであるとする説が唱えられ[238][239][240][241][242]、石井説を支持する研究者(古畑徹[243][244][245][246]赤羽目匡由[247][248][249]酒寄雅志[250][251][252]浜田久美子[253][254]、姜成山[255][256]浜田耕策[257][258][259][260]河添房江[261]菅澤庸子[262]石上英一[263]廣瀬憲雄[264]平野卓治[265][266]森公章[267][268]田島公[269]河内春人[270][271]河合敦[272]など)が、日本史料の解釈の恣意性を批判しており、日本学界から問題視されている。

この石井説に対して韓国政府東北アジア歴史財団の林相先(朝鮮語: 임상선)研究員は、「日本の記録に高麗という語が現れる原因について、日本側の学者は対日外交のための一時的な用語と解釈する。また、渤海が高句麗の後継国家であるという事実を否定するための方便として、中国側の学者はこの史料の虚構性を強調することもある。しかし、日本人が当時の外交策略のために史料を歪曲したもの、と簡単に片付けてしまうことはできない。渤海が727年、日本に始めて使節を送ったときから、渤海は『高句麗の故地を回復した。』と称したが、そうした高句麗継承意識がこの時期になって本格的に標榜され始めたとみなければならない。渤海の高句麗継承意識は、単に政治的次元ではなく、過去の強大国であった高句麗を継承したという自尊心に根ざしたものであった。771年、日本に送った国書で自身を天孫と称し、自身を舅の国、日本を甥の国と規定しようとしたことは、このような事実をはっきりと示す。こうした継承意識は文王代に実施された一連の改革政策により、国力が大きく伸長したことでさらに強化されたのであって、ついには文王後期に高麗国を標榜したものとおもわれる」と開き直っている[273][274]。一方、李孝珩(朝鮮語: 이효형釜山大学)は「渤海は過去強国だった高句麗の後身という立場で『高麗』という国号を自称し、日本は過去の朝貢国だった『高句麗』を渤海が継承したと認識したのである」「そして渤海は過去強国だった高句麗の後身という立場で『高麗』という国号を自称し、日本は渤海の過去の朝貢国であった高句麗を継承した国であると認識したのである。日本が渤海との交流を通じて受けた影響力や、当時の日本の必要性を究明したという点は高く評価できる」と述べている[275][276]

自称「高麗国王」迎合説

渤海王の「高麗国王」自称を伝える史料は以下である。

庚午。帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。①高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。②令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮。不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 続日本紀、巻二二・淳仁天皇 ・天平宝字三年(七五九)正月
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第廿二

上に述べた楊承慶の奏上のうちの傍線部②の「表文」は、実体が判然としないが、君臣・上下関係を明確にした「上表文」を指す蓋然性が強い[277]。そして「常貢物」はその表現から朝貢的態度が明確にうかがわれる[277]

そのため、楊承慶が「高麗国王大欽茂言す」と奏上したのも、日本にとって高句麗とは古の朝貢国であり、その後身を称することで日本の歓心を買おうとしたと解釈される[277]

実際に日本はこれ以前に度々渤海に古の高句麗のように朝貢することを要求している[277]。すなわち、第一回渤海使に賜った渤海王宛ての国書に「天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、旧壤を恢復し聿に曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。」とある[277]

天皇敬問渤海郡王。省啓具知。恢復①舊壤。聿修②曩好。朕以嘉之。

天皇、敬みて渤海郡王に問う。啓を省るに具さに知る、①旧壤を恢復し聿に②曩好を脩めんことを。朕、以て之を嘉す。 — 続日本紀、巻十・神亀五年(七二八)四月壬午(一六日)
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第十

ここに登場する傍線部①の「旧壤」とは高句麗の故地の意味であり、傍線部②の「曩好」とは古の日本と高句麗との朝貢関係を指す[278]

そして直接的に今回の「高麗国王」自称に至る上で重要なのは、前回の753年に渤海使慕施蒙らに賜った日本の国書の内容である[279]

天皇敬問渤海國王。朕以寡徳虔奉寳圖。亭毒黎民。照臨八極。王僻居海外。遠使入朝。丹心至明。深可嘉尚。但省來啓。無稱臣名。仍尋高麗舊記。國平之日。上表文云。族惟兄弟。義則君臣。或乞援兵。或賀踐祚。修朝聘之恒式。効忠款之懇誠。故先朝善其貞節。待以殊恩。榮命之隆。日新無絶。想所知之。何假一二言也。由是。①先廻之後。既賜勅書②何其今歳之朝。重無上表。以礼進退。彼此共同。王熟思之。季夏甚熱。比無恙也。使人今還。指宣往意。并賜物如別。

(「天皇敬問…深可嘉尚」及び「季夏甚熱 」以下は外交辞令であるため省略)但し王啓を省るに臣・名を明記していない。そこで『高麗旧記』を繙くと、かつて高句麗が日本に捧呈した上表文がみえ、それには「族惟兄弟、義則君臣。」とあって、日本と高句麗とが君・臣の関係であることを明らかにしている。さらに『高麗旧記』には高句麗が日本に対して、あるいは援軍を乞い、あるいは天皇の践祚を慶賀したことなど、朝貢の礼式を守って通交し、忠誠を示したことを記している。(その高句麗は一度は滅亡して日本との交渉も途絶えたが、神亀四年に至り、先年高句麗を再興し、その遺民を保有したと称する渤海が、かつての高句麗のごとく日本に入朝してきた)故に聖武天皇は前代の親交を忘れることなく入朝してきた渤海を貞節なものとして褒め、特に優遇したのである。これにより、渤海の国運は盛んにして、日々徳を増新して絶えることがないであろう。思うに、渤海王はこのような事情は既に承知のことであろうし、更めて詳しく述べる必要もなかろう。(ところが、渤海王は国交開始に当たって日本に捧呈すべき上表文ー君臣・上下の関係を明示するーを提出しておらず、遺憾に思うところである)是により、かつて高句麗が日本に進めたような君臣・上下の名分関係を明らかにする上表文の提出を要求する旨の勅書を、これより先天平十二年に大伴犬養らに持たせて派遣した。ところが今回の朝貢に際してもまた上表文を携行しなかった。朝貢国として礼儀に則って進退せねばならないことは、渤海もその前身である高句麗と同様である。渤海王はよくよくこの非礼の点ー朝貢国なのに上表文を提出しないーを反省せよ[280] — 続日本紀、巻十九・孝謙天皇 ・天平勝宝五年(七五三)
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第十九

この渤海に賜った国書からは傍線部①・②で「先廻の後ち」に勅書を賜って渤海に上表を提出するように命じたにもかかわらず、今回の日本入朝の際に再び上表を提携しなかったことを日本が戒飭していることが分かる[279]

ここに登場する傍線部①の「先廻の後ち」の「先廻」とは、前回天平11年(739年)に来朝した渤海使己珎蒙らが帰国した天平12年(740年)二月己末(2日)のことを指し、その「後ち」に勅書を賜ったというのは、渤海使己珎蒙が帰国した後まもなく天平12年四月丙子に大伴犬養らが渤海に派遣(遣渤海使任命は天平十二年正月庚子(十三日))されたことにあたる[279]

つまり、日本朝廷がこの時、わざわざ単独で渤海へ専使を遣わし、強く君臣・上下関係を明示する上表文の提出を迫ったことから、渤海ではそれを受け、その後初めてやってきた759年の渤海使楊承慶が朝貢的態度を明確にしたのであって「高麗国王」自称もこうした要求に迎合したものと解釈される[279]

渤海王の「高麗国王」自称について、『大日本史』巻二三八・渤海伝では、「按自此前皆称渤海。至此称高麗。蓋欽茂一時称旧号也。」と解しているが、これに対して(下田礼佐)は、「之は大日本渤海伝に云ふ様に、高麗の旧号を復したのではなく、日本で切りに高麗の忠誠を追懐し、先例に則らうとするので、日本の歓心を得やうとする方便に用ひたに過ぎない」と喝破している[281]。この(下田礼佐)の指摘に対して石井正敏は、「自称に至る経緯として前回の使節に与えられた日本の返書の内容を重視する時、この点を一層強調してよいと考える。つまり、あくまで渤海王が自発的に『高麗国王』と称したのではなく、前回の返書により日本の渤海高句麗継承国意識、それも渤海を日本に対する朝貢国としての高句麗の後身とする考え方の根強いことを知り、渤海王は敢えて日本に抗することなく、その心理を利用する目的から『高麗国王』と称し、『令齎表文并常貢物入朝。』と奏上せしめたのである。そして、この策は日本に『又不忘旧心、遣使来貢。勤誠之至、深有嘉尚。』と言わしめたことにより、その意図は十分に達成せられたといえるであろう。従ってここでは文王大欽茂の外交手腕を高く評価すべきであると思われる」と評している[281]

その他自称「高麗国王」迎合説の根拠として以下が挙げられる。

  1. 日本以外の国、たとえば唐に対して渤海が自国を高麗と称したり、あるいは唐が渤海を高麗とした例がみられないことも、却って対日外交のための設辞として「高麗国王」と称してきたものとする考えを妥当にする[282]
  2. 渤海が国書の中で高句麗と夫余を持ち出したのは、大国であった夫余と高句麗の継承国であることをアピールすることで外交を有利に展開しようとした[283]
  3. 渤海は日本との交渉の際に、渤海王やその使節は自国の優位性を保つために自らをかつての強国「高句麗」の後継国と標榜したことに異論はないが、『日本後紀』成立の時点まで、20数回にも及ぶ渤海との交渉のうち、日本も渤海と高句麗の相違は認識していたはずであり、むしろそれを認識していたからこそ、史書には「高句麗人」もしくは「高麗人」と書かずに、「土人」と書いた[284]
  4. 日本に対して高句麗の名を持ち出したのは、昔交渉のあった国の名で日本側の歓心を買うというのと、「往時の強大国高句麗の再興を誇らかに宣言」することでいわば高句麗の威を借りて円滑に隣交(対等外交)を申し入れようとした[285]
  5. 758年来日渤海使の帰国した翌年から実施された藤原仲麻呂の征新羅計画は、唐の安史の乱の混乱を機に日渤共同で計画されたが、この時点での外交の円滑化とは即ち、日渤の軍事協力―征新羅計画―をすすめることであるため[286]、高句麗と称したのは、日渤軍事同盟を結ぶに都合がよかったと考えることができ、天平勝宝四年の渤海への返書には「高麗旧記を尋ねるに」としたなか「或乞援兵」との条があり、高句麗と称したのは日本側のもつ軍事同盟のあった高句麗のイメージを利用した外交政策と考えられる[286]。このことは、天平宝字六年に征新羅計画が中止されてから朝貢を取らなくなった渤海に対して日本が出した国書からも窺われ(『続日本紀』宝亀三年二月二十八日条)、即ち「昔高麗全盛時」と高句麗の例を引いて「又高氏之世兵乱無休、為仮朝威彼称兄弟、方今大氏會無事、故妄称舅甥於礼矣」とあり、高句麗の時は兵乱が続いたため日本の兵力を頼りに「兄弟」と称して阿ねていたが、渤海で兵事が無いと、勝手に舅甥と間柄を変えて礼を失する行動をとっていると戒飭しており、暗に征新羅計画をたて軍事的援助を要する時だけ高句麗の名のもと朝貢を取り、その必要がなくなると態度を翻したと、責めているようにも取れる[287]
  6. 河内春人は、第一回渤海国書に「高麗ノ旧居ヲ復シ、扶餘ノ遺俗ヲ有ツ」という一文があることについて、「渤海が国書の中で高句麗と扶餘を持ち出したのは、石井氏の指摘するとおり大国高句麗の継承国であることをアピールすることで外交を有利に展開しようとしたものであろう。ただし一方で渤海は同時に唐から受けた爵号である渤海郡王を名乗っており、唐から受けた爵号を日本との外交に利用している。中国と戦争を繰り広げた高句麗の後継国と唐の冊封国という一見すると矛盾した主張に見えるが、日本との外交関係を成立させるための手段の一環であったと捉えられる」として、「すなわち、渤海が高句麗と扶餘の両地を版図の中に収めていることを誇示したものであろう。唐の冊封を受けていることを示して東アジアにおける国際的信用を確保した上で、靺鞨を諸藩と位置づけ境域内に高句麗・夫餘を組み込んだ強大な国家であることを主張し、対等ないし有利な外交関係を構築することが渤海の狙いだったのである」と指摘している[288]
  7. 正史では渤海使を高麗使・高麗蕃客、渤海王を高麗国王、などと記す例は、奈良時代に集中的にみられるが、正史に依る限り平安時代に入ってからは見当たらず[289]延暦十七年(798年)を最後に、日本側の渤海高句麗継承国意識が見られなくなる[290]
帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮。不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。 — 続日本紀、巻二二・淳仁天皇 ・天平宝字三年(七五九)正月
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第廿二

上記の記事で注目されるのは渤海王が使節をして「高麗国王大欽茂」と名乗らせていることであり、正史ではこれ以後、渤海使を高麗使・高麗蕃客、渤海王を高麗国王、などと記す例が頻出するが、このような現象は、奈良時代に集中的にみられ、正史ではこの天平三年(759年)度の例を初見として以前に遡ることが出来ず、従ってこれらは渤海王の「高麗国王」自称に起因するものと考えられる[291]。正史以外では平城宮出土木簡に「依遣高麗使廻来、天平宝字二年十月廿八日進二階叙。」とあるのが渤海を高麗と記す最も古い資料であり、これは渤海王の「高麗国王」自称の二ヵ月ほど前であるが、木簡の性格から判断して、辞令の類と異なり後日製作の可能性を排除できず、必ずしも「十月廿八日」に書かれたものとする必要がないため、これも渤海王の「高麗国王」自称と無関係とはいえない[292]。『日本後紀』以下の正史では、渤海使(王)を高麗使(王)と称する例は皆無に近く次の一例のみであり、『日本文徳天皇実録』嘉祥三年(850年)五月壬午条・橘嘉智子薨伝に、「葬太皇太后干深谷山。……太皇太后、姓橘氏、諱嘉智子。父清友、少而沉厚。渉猟書記。……宝亀八年、高麗国遣使修聘。清友年在弱冠。以良家子、姿儀魁偉、接対遣客。高麗大使献可大夫史都蒙見之而器之。」とあって、渤海を「高麗」と表現することが橘清友の伝記に登場するが、これは宝亀七年(776年)来日渤海使に関連する部分であり、9世紀の意識に基づくものではないとみられる[293]。何故なら、橘清友が延暦八年(789年)に病死していることを考えると、前記記事の基礎となった清友の伝記資料も延暦八年を降らず、ここに「高麗使(国)」とみえるのも、奈良時代の記録をそのまま踏襲して叙述したものと考えるべきであり、従って正史にあっては『日本後紀』以降は渤海を高麗と記す事例はみられず、このことは渤海王の「高麗国王」自称に伴う奈良時代後半の一時的な現象と考えられる[294]。この他『続日本紀』宝亀三年二月己卯条「賜渤海王云、天皇敬問高麗国王。」とみえるが、これらも現史料と編修の際の冒頭部分の注記とに分けて考えるべきであり、つまり『続日本紀』編纂時には渤海を高麗と称することが殆どなく、ためにこうした書法を用いていると考えられ、この点からも渤海を高麗とする表記法が一時的な現象であったと推察することが出来る[295]

1963年6月28日周恩来発言論争

韓国メディアでは、周恩来が1963年6月28日に北京を訪れた北朝鮮の朝鮮科学院代表団に対して「歴史は歪曲できない。 豆満江鴨緑江の西側は有史以来中国の領土であり、さらに昔から朝鮮は中国の属国だったとすることはとんでもない話だ」と話していたことを、「彼らが高句麗と渤海を朝鮮民族が建てた古代国家として認識し、その歴史を朝鮮の歴史と規定した」と主張している[296][297][298]

しかし周恩来は以下のようにも話している[299]

1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。

ロシア沿海州クラスキノ土城跡「オンドル」論争

韓国メディアの『東亜日報』や『中央日報』や『朝鮮日報』は渤海のクラスキノ土城では中国にはみられないオンドルが使用されており、これこそが渤海が高句麗の継承国だった証拠としている[187][300][301][302]。(韓圭哲)(朝鮮語: 한규철慶星大学)は、「渤海と高句麗の文化を継承した事実はオンドル遺跡を通じて証明されている。…渤海の高句麗継承を証明する重要な遺跡がオンドルである。…韓国学界は、オンドルの起源を高句麗とみている。実際、中国と北朝鮮で発見された高句麗遺跡ではオンドルが見つかっており、渤海遺跡も同様である。…渤海の首都だった上京龍泉府の宮殿西側「寝殿跡」および咸鏡南道新浦市(梧梅里)で発見された渤海遺跡では焼いた痕跡がみつかった。オンドル遺跡は、靺鞨が暮らしていた高句麗辺境と渤海地域でも発見されているが、唐の遺跡から発見されたという報告はない。オンドル遺跡は、渤海文化の独自性と高句麗文化の継承性を証明している」と述べている[303]

ただし、このような主張は韓国の研究者からも批判されており、李孝珩(朝鮮語: 이효형釜山大学)は、渤海の遺物からは、高句麗の要素(オンドル、(瓦當)、(石室封土墳)、高句麗築城)、靺鞨的要素(土壙墓、靺鞨系土器)、唐の要素(各種政治制度、唐三彩上京龍泉府の構造、(霊光塔)(中国語版))、中央アジアの要素(中央アジアの銀貨装身具景教十字架)、渤海固有の要素(柱下の装飾タイル鬼瓦の様式、(二十四塊石)(中国語版))などの多文化要素が発見されており、渤海は広大な領土を持ち、住民構成も多様であるため、渤海文化は、地域性・多様性を持っており、特定の一つの要素だけを強調して、高句麗か、靺鞨かという二者択一的な理解は正しくなく[304]、数回行われたロシアによる考古学調査におけるオンドル遺跡の発掘だけを切り取って、渤海は高句麗文化を継承した朝鮮の国家であると過度に強調することは望ましくなく、遺跡にはオンドルのほか、土器の遺物、装身具など様々な遺物が出土しており、遺跡と出土物の総合的な理解に基づいて、渤海史を復元しなければならないが、オンドル遺跡のみを切り取って、渤海の帰属を主張するのは、中国の研究者が唐の文化的要素(上京龍泉府の構造、唐の官制を模した三官六省の組織、律令体制)を強調して、「渤海は唐の地方政権である」と主張しているのと異ならず[305]、渤海は、複雑な住民構成と広大な領土を保有していたことから多様な文化を生み、高句麗だけではなく、唐だけでもなく、独自の渤海文化を創造しており、多様な文化的な遺物が発掘されているのに、自国に有利な高句麗文化の要素だけを利用するのは、適切な学問の姿勢ではないと述べている[306]

金東宇(朝鮮語: 김동우(国立春川博物館)(英語版))は、渤海は朝鮮半島北部中国東北部沿海州に存在した広大な国であり、その住民も複雑であり、高句麗遺民とともに靺鞨族が住んでおり、渤海は唐、日本、新羅、契丹などの周辺国と交流をしていたため、渤海文化は多文化要素で構成されているが、渤海帰属問題と関連して、渤海文化を一元的に把握しようとする傾向があり、高句麗継承国としての渤海文化の高句麗的要素だけを強調し、靺鞨文化を含むいくつかの文化的要素を無視する偏向的視点を持っている研究として、1971年北朝鮮で刊行された(朱栄憲)(朝鮮語: 주영헌)の『渤海文化(朝鮮語: 발해문화)』(朝鮮語: 사회과학원(朱栄憲)、在日本朝鮮人科学技術協会『渤海文化』雄山閣出版〈考古学選書〉、1979年3月1日。ISBN (4639009100)。 )を挙げている[307]。『渤海文化』は、渤海の遺跡・遺物と高句麗の継承関係を提示し、序文で「第2編では、上で指摘した遺跡遺物を通じて具体的にの仕組みと編成、各種建築物の形態とそこに使用した建築部材の質、形態および装飾模様、様々な種類の器と武器、その他の遺物に見える高句麗との継承関係を考古学的に証明しようとする」と述べており、オンドルを主に高句麗文化の継承の結果とし、陶磁器のような代表的ないくつかの遺物だけでも、その形態と製作技法は渤海と高句麗は互いに同じであり、他国のものとは著しく異なっていると主張している[307]。これに対して金東宇(朝鮮語: 김동우(国立春川博物館)(英語版))は、文化はの流れと同じで停滞しない習性を持っており、地域文化はその文化を形成した共同体固有の属性があるが、他地域で花を咲かせた文化が輸入されて影響を受けるものであり、渤海文化もこれと異ならず、これまでの研究成果から、渤海文化は多様な要素を持っていたことが明らかになっており、渤海が高句麗文化を継承していることは間違いないが、「渤海は高句麗文化だけを継承している」という主張は誤りであり、墓制では、天井を閉め切っている石室は高句麗の様式であるが、(塼室墓)は唐の様式の墓制であり、土壙墓は靺鞨の風習であり、住居では、オンドル・(蓮花紋瓦當)・(四耳付壺)は高句麗文化の要素であるが、土壙墓・各種陶器・土器は靺鞨の様式であり、渤海は唐との交流からた唐の先進文物を受け入れており、上京龍泉府の構造、唐の官制を模した三官六省の組織、律令体制は唐の影響を受けており、貞孝公主墓の碑文は唐で盛行した駢文であり、日本の文人と芸を競った漢詩渤海三彩などは唐に留学生を送り、活発な交流を行った成果であり、さらに、渤海にはウイグル人室韋人ソグド人などが暮らしており、ユーラシアとつながる交通路の存在が明らかになっており、景教シャーマニズムの痕跡も見えるため、高句麗文化の要素だけを抽出するなら、渤海文化の全貌を見落とすミスを犯す危険性があることを認識しなければならないと指摘している[308]

李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、渤海を朝鮮の歴史に含めるのは誇張された歴史だと主張しており、「李氏朝鮮実学者である安鼎福も『東史鋼目』で渤海を靺鞨の歴史と記述している」として、渤海でオンドルの遺跡が発掘された或いは渤海で高句麗のが数枚発掘されたからといって朝鮮の歴史に含める行為は、植民地時代に日本の歴史学者考古学者朝鮮半島考古学の発掘調査を行い、日本の遺物が発掘されたことから、古代朝鮮半島は日本の領土だったという学説(任那日本府)を構築して、民族主義に立脚した古代史の過大包摂を行った行為を韓国が踏襲していると批判している[309][310]

早乙女雅博は「高句麗は、その最大時の領域をみると南は韓国・ソウル市、北は中国吉林省吉林市、西は中国・遼河地域、東は北朝鮮・咸鏡北道咸鏡南道におよんだ。一方、渤海は、大同江以北の遼東を除く旧高句麗領を含めて、北は松花江、東は沿海州におよぶ。そして、旧高句麗領より北に置かれた王都の上京龍泉府は、地理的にみて渤海のほぼ中心的な位置にある。したがって、旧高句麗領内の渤海の遺跡や遺物には、高句麗文化の影響が認められても不思議ではない[311]」「旧高句麗領の周辺地域は、高句麗瓦の伝統を引き継ぐことが当然考えられ、(王都)の東京城とは異なる文様の(軒丸瓦)が出土している。旧高句麗領の渤海の土器である(把手付鉢)も、ピョンヤンの高句麗時代の把手付鉢の器形を引き継いでいる[312]」と述べており、高句麗の寺院の塔は八角形の基壇をもつのが特徴であるが、吉林省和竜市高産寺址でみつかった渤海の寺院の遺構は、八角形に配置された礎石が二重にまわっており、寺院のなかでの八角形建物という視点からみると高句麗との関係がうかがえ[313]、吉林省汪清県河北故城から出土した軒丸瓦の文様は平壌の土城里の軒丸瓦と類似していること[313]、高句麗後期の軒丸瓦は、赤褐色であり、接合部は櫛歯状工具で細かい刻み目を入れるものが多いが、これらの技法は渤海にも引き継がれたことを指摘している[314]

『新羅古記』大祚栄「高麗ノ旧将」論争

一然は『三国遺事』のなかで、逸文の『新羅古記』を引用して大祚栄を「高麗ノ旧将」としている。また、(李承休)(朝鮮語版)の『(帝王韻紀)(中国語版)』にも「前麗ノ旧将大祚栄」とある。韓国ではこれを根拠にして、大祚栄は高句麗の武将だったから高句麗人であるという主張がある。

新羅古記云、高麗舊將祚榮姓大氏、聚殘兵。立國於大伯山南、國號渤海。

高句麗の武将であった大祚栄が、残兵を集めて大伯山の南方に国を建て、渤海と号した[315][15] — 三国遺事、巻一・靺鞨[一作勿吉]渤海
  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三國遺事/卷第一#樂浪國
前麗旧将大祚栄、得拠太白山南城。今南柵城也。五代史曰、渤海本粟靺鞨、居営州東。

前麗ノ旧将大祚栄(中略)五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ[316][317] — 李承休、帝王韻紀、巻下

韓国の渤海研究者の渤海帰属問題の核心は、建国者大祚栄が高句麗の武将出身で、日本に派遣された渤海使が自らを高句麗継承国であると自称した事実を挙げている[318]

韓国の歴史教科書「高校国史」は、「7世紀末に至り、唐の地方に対する統制力が弱まった時、高句麗の武将出身の大祚栄を中心とした高句麗遺民と靺鞨集団は、戦争の被害をほとんど受けなかった満州東部地域に移動して、吉林省敦化市で渤海を建国した」と記述している[319]

전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、以下のように述べている[320]

新羅支配層が外勢(唐)を引き込んで、高句麗と百済を滅亡させた。高句麗領土の北部は唐の支配下に置かれた。新羅は朝鮮半島の大同江以南のみ支配しただけだ。高句麗の故地には、高句麗遺民が靺鞨族と一緒に高句麗の武将である大祚栄の指揮のもと渤海国(698〜926年)を立てた。...したがって新羅は統一国家ではなく、国土の南部に輝いた朝鮮の地域王朝に過ぎず、私たちの歴史の最初の統一国家は高麗ということが科学的に明らかになった。 — 전영률

李健才(吉林省文物考古研究所)は、仮に『新羅古記』の内容が正しく、大祚栄が「高麗舊將」だったとしても、漢人ではない高句麗人である高仙芝百済人である黒歯常之から官職を受けた唐の武将であったように、大祚栄が高句麗の武将であったとしても高句麗人という証拠にはならないと指摘し、あわせて靺鞨人でありながら高句麗の武将であった生偕のような人物がいたことも指摘している[321][120]

石井正敏は、「『新羅古記』は現在佚書となっており、その成立をはじめ、史料的性格も不明である。したがって、本文に『高麗ノ旧将』とあるのは、例えば『旧唐書』に、『祚栄驍勇ニシテ善ク兵ヲ用』いたと伝えられていることなどに基づく表現かとも憶測される。その場合、当然本書の成立は高麗朝に入ってからのこととなり、ここに新羅時代の記録とみなすことは不適当であろう」[322][323]、「『三国史記』渤海関係記事不採用の一つの理由と推測される『渤海は靺鞨人の国である』」という意識が、『三国遺事』にも表れているように思われる。そしてこうした理解は『(帝王韻紀)(中国語版)』にもみえる。(李承休)(朝鮮語版)著『(帝王韻紀)(中国語版)』は『三国遺事』の成立とほぼ同時代の一二八七年に編纂されている。上下二巻より成り、中国・朝鮮歴代王朝の事蹟を七言詩を以て叙述している。(中略)このように、『前麗ノ旧将大祚栄』としながらも、分註に『五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ』と記しているのである」[317]と述べている。

李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、「高句麗の歴史をもっと深く観察する必要があります。領土内には靺鞨族があちこちに住んでいました。西北には契丹族も住んでいました。高句麗は粛慎征伐しました。鴨緑江松花江一帯を取り囲む大陸内に様々な種族が住んでいたのです。したがって、高句麗人が王を輩出したときは高句麗となり、靺鞨族が王を輩出したときは靺鞨または渤海、契丹が王を輩出すると女真族が建国した国はとなります」「朱蒙が国を建国したときには既に鴨緑江の中流·上流地域には『靺鞨』と記録された種族がいた。朱蒙はそれらを制圧し、それらの上に君臨したのです。高句麗の建国から滅亡するまで、高句麗の地には高句麗人と靺鞨族が共存していたのです。高句麗は新羅に侵攻するとき、靺鞨軍を動員します。唐太宗が高句麗の(遼東城)を攻撃したときも、高句麗は靺鞨軍を派兵して対抗させます。ただし、高句麗人と靺鞨族は融合して住んでいたのではなく、互いに居住地域を異にしていたのです。したがって、靺鞨軍を指揮する者は、当然靺鞨族でしょう。大祚栄は高句麗の武将とはいえ、靺鞨族出身で靺鞨軍を指揮したとみています」と述べている[111]

Kim Aleksandr Alekseevich(ロシア語: Ким Александр Алексеевич)は、大祚栄の生年は不明だが、719年に死亡している。一方、高句麗は668年に滅亡しており、大祚栄の年齢と高句麗の滅亡時期を鑑みると、若者は武将の地位を授かることはないため、大祚栄が高句麗の武将だった可能性は低いとみている[324]

『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争

『旧唐書』渤海靺鞨伝は「高麗別種」としているが、『新唐書』渤海伝は「大氏は、粟末靺鞨の高句麗に属する者」となっており、基本史料から見解が異なり[325]、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之」記事は朴時亨を以ってして「『渤海は本来粟末靺鞨人である。そのうち、かつて高句麗に服属していた姓大氏なる者が、高句麗滅亡後靺鞨の衆を率いて挹婁の(東牟山)に拠点を置き国を建てたものである。その後、靺鞨人とは異なる高句麗遺民が次第に帰属するようになった』と読みとる以外ないくだり」であるのに対して[326]、『旧唐書』「高麗別種」表現は曖昧であることから、「高麗別種」とは何かをめぐって論争となっている。

大祚栄が靺鞨人なのか、或いは高句麗人なのかという議論は、『{"@context":"http:\/\/schema.org","@type":"Article","dateCreated":"2023-05-23T10:30:02+00:00","datePublished":"2023-05-23T10:30:02+00:00","dateModified":"2023-05-23T10:30:02+00:00","headline":"渤海 (国)","name":"渤海 (国)","keywords":[],"url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/渤海_(国).html","description":"渤海 国 この記事に雑多な内容を羅列した節があります 事項を箇条書きで列挙しただけの節は 本文として組み入れるか または整理 除去する必要があります 2023年1月 出典は列挙するだけでなく 脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします 2015年6月 渤海 大震国 渤海 698年 926年 渤海の最大版図 830年代 公用語 靺鞨語 1 2 3 4 5 漢語 6 7 8 3 宗教 仏教儒教道教巫俗首都 東牟山 698 742 中京顕徳府 742 756 上京龍泉府 756 785 東京龍原府 785 793 上京龍泉府 793 926 国王 698年 718年 大祚栄907","copyrightYear":"2023","articleSection":"ウィキペディア","articleBody":"この記事に雑多な内容を羅列した節があります 事項を箇条書きで列挙しただけの節は 本文として組み入れるか または整理 除去する必要があります 2023年1月 出典は列挙するだけでなく 脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします 2015年6月 渤海 大震国 渤海 698年 926年 渤海の最大版図 830年代 公用語 靺鞨語 1 2 3 4","publisher":{ "@id":"#Publisher", "@type":"Organization", "name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az", "logo":{ "@type":"ImageObject", "url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/logo.svg" },"sameAs":[]}, "sourceOrganization":{"@id":"#Publisher"}, "copyrightHolder":{"@id":"#Publisher"}, "mainEntityOfPage":{"@type":"WebPage","@id":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/渤海_(国).html","breadcrumb":{"@id":"#Breadcrumb"}}, "author":{"@type":"Person","name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az"}, "image":{"@type":"ImageObject","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/images\/wiki\/2.jpg","width":1000,"height":800}}