沿革
成務朝に(能等国造)が置かれ、次いで雄略朝に(羽咋国造)が置かれた。養老2年(718年)5月2日に越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して成立した。天平13年(741年)12月10日に越中国に併合された[注釈 1]が、天平宝字元年(757年)に再び分立した。
また、天元3年(980年)、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任している。
能登郡の名称は後に鹿島郡へと改められた。
江戸時代には大部分が加賀藩領であったが、一部に幕府領(旗本領を含む)があった。また、一時的に譜代の小藩が設置されているが(能登下村藩・能登西谷藩)、いずれも短期間で廃止されている。
近代以降の沿革
領域
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国内の施設
国府
源順の『和名抄』には「能登国国府在能登郡」とあり、現在の七尾市古府の総社の付近か府中町にあったと推定されている。発掘調査はまだなされていない。
国分寺・国分尼寺
- 能登国分寺跡 (七尾市国分町) - 国の史跡。
- 国分僧寺は、新たに創建されたものではなく、飛鳥時代後期(700年頃)に創建された大興寺を承和10年(843年)に国分寺としたものである。国分寺跡には建物の基壇や柱跡が表示され、南門と塀などが復元されている。
神社
地域
郡
国司
能登守
- 村国子老 764年(天平宝字8年)8月4日 - 9月25日、外従五位下
- 平群虫麻呂 764年(天平宝字8年)9月25日 - 従五位下
- 多治比名負 774年(宝亀5年)3月5日 - 9月4日、従五位下
- 巨勢馬主 774年(宝亀5年)9月4日 - 、従五位下
- 安倍高貞 869年(貞観11年)1月13日 -、従五位下
- 藤原季行 1133年(長承2年)5月24日 - 1140年(保延6年)4月7日、従五位上
- 平教経 1179年(治承3年)-、従五位下
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- ?~1336年 - (吉見頼為)?
- 1336年 - (吉見頼顕)
- 1337年~1346年 - (吉見頼隆)
- 1348年~? - 吉見氏頼
- 1349年~1351年 - (桃井盛義)?
- 1352年~1379年 - 吉見氏頼
- 1379年~1391年 - (本庄宗成)
- 1391年~1406年 - 畠山基国
- 1406年~1432年 - 畠山満則
- 1432年~? - 畠山義忠
- 1478年~1497年 - 畠山義統
- 1497年~1500年 - 畠山義元
- 1500年~1506年 - 畠山慶致
- 1506年~1515年 - 畠山義元
- 1515年~1542年 - 畠山義総
- 1543年~1551年 - 畠山義続
- 1551年~1565年 - 畠山義綱
- 1565年~1574年 - 畠山義隆
武家官位としての能登守
脚注
注釈
出典
- ^ 石川県史 第四編,p.3. 近代デジタルライブラリー
参考文献
- 角川日本地名大辞典 17 石川県
- 旧高旧領取調帳データベース