大 金就(だい きんしゅう、テ・グムチュイ、朝鮮語: 대금취)は、朝鮮氏族の永順太氏の始祖である。渤海国滅亡後、高麗王朝に帰化した靺鞨族。太金就(テ・グムチュイ、朝鮮語: 태금취)とも。
人物
都始祖・太仲象の18世孫である[1]。1253年、武臣政権の末期のモンゴルの高麗侵攻の際に、大金就は校尉の官職で、牛峯別抄30余人を率い、金郊・興義両駅間において(モンゴル帝国軍)と交戦している。1259年、開城に侵攻した(モンゴル帝国軍)を撃退している[2]。以上から、大金就は、(文臣)より劣る(武臣)の地位であり、しかも武臣のなかでも比較的低位であることがわかる[2]。
大金就の率いた牛峯別抄は、牛峯県で組織された編成軍であり、牛峯県所在の大氏の一員として、大金就が指導にあたったと推測される[2]。