天皇(てんのう)は、日本国憲法第1条において日本国及び日本国民統合の象徴と規定される地位、またはその地位にある個人[5][6][7]。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている[8]。
日本 天皇 | |
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在位中の天皇 | |
第126代天皇 徳仁 2019年(令和元年)5月1日より | |
詳細 | |
敬称 | 陛下 |
推定相続人 | 秋篠宮文仁親王(皇嗣) |
初代 | 神武天皇[1][注釈 1] |
成立 | 神武天皇即位元年1月1日 (西暦紀元前660年2月11日)[1][注釈 2] |
宮殿 | 皇居 (東京都千代田区) |
ウェブサイト | 宮内庁 |
2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。
概要
「てんのう」は、「てんおう」の連声(れんじょう)とされる[9][10]。古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[10]。「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、古墳時代以後の奈良時代から平安時代にかけて政治・祭祀の頂点だったが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった[9]。室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、帝国憲法における天皇へとつながった」といわれる[9]。
帝国憲法上は、天皇は神聖不可侵であること(第3条)、国の元首であり、統治権を総攬すること(第4条)[注釈 3]が規定されていた[5][9][10]。
百瀬孝は、「神聖不可侵」とは、天皇の神格化のことではなく、不敬行為を許さぬこと、政治上の責任を負わないこと(天皇無答責)、一般に国法の適応(特に刑事上の責任)を負わないこと、皇位を廃することは不可能であることという4つの法律的内容を持つとし、神聖不可侵性は君主が持つ本来的な性格であり、日本特有のものではなく、国際法上元首には神聖不可侵性が現在でも保証さるべきものとされていると主張する[12]。一方、新田均は「現人神」・「唯一神」・「唯一天皇」・「総帝」・「絶対至尊」といった類の呼称もされ、こうした天皇を全世界・全宇宙の頂点とする価値観は「八紘一宇」・「天皇総帝論」・「唯一の思想的原動力」「国家社会主義」・「純なる日本的世界観」・「大和民族の宿志」・「惟神(かんながら)的世界観」とのように呼称されていたと主張する[13]。(詳細は天皇#一神教・国家神道を参照。)
1936年(昭和11年)以前には「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」で統一された[5]。
戦後の日本国憲法においては「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された。天皇は憲法が限定的に列挙している国事行為のみを行い、国政に関する権能はない(第4条、第6条 - 第7条)[14]。国事行為は国家意思形成に関わらない形式的・儀礼的行為であり、天皇が国事行為を行うには常に内閣の助言と承認が必要であって、内閣は自らの助言と承認に責任を負う(第3条)[14]。天皇は国事行為の責任を負わないが、民事責任は負っている[14]。天皇の刑事責任を免責する明文規定は無いが、摂政はその在任中は訴追されないと定める皇室典範21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある[14]。
帝国憲法においては天皇を元首とする明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため日本の元首について様々な見解がある[15]。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または内閣総理大臣)を元首とする説、元首は不在とする説等がある[16]。条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、内閣を代表する内閣総理大臣を元首とする学説が多い[17]。内閣法制局は「日本国憲法においては天皇を元首であるといっても差し支えない」「天皇は限定された意味で、国家元首である」とする一方、最終的には定義によるとしている。国際慣行上は天皇が元首として扱われている[18][19]。
日本国憲法下の天皇が君主に該当するかどうかについても議論がある。君主とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり[20]、王・帝王・天子・皇帝・きみなどとも言われる[21]。『日本大百科全書』は、天皇は通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[22]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[23]。一方、佐々木弘道は、象徴天皇制をイギリス型立憲君主制に比して、君主権力がよりいっそう消極的な、日本独特の君主制とする[24]。佐藤功は「国民主権下の君主制」と呼ぶのが適当であろうとしている[25]。清宮四郎はイギリスの君主に比べて権限が制約されているものの、歴史的に見て君主と言ってもあえて誤りというほどのものではないとしている[25]。内閣法制局の見解では「日本は共和制ではないことはまず明らか」「立憲君主制と言っても差しつかえないが、明治憲法下における統治権の総攬者としての天皇をいただくという意味での立憲君主制ではない」としている[25]。
天皇は日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」であるが、一方で日本国憲法第1条にある「主権の存する日本国民」ではない[26][27]。『世界大百科事典』によれば日本国憲法によって主権者は国民となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている[14]。「象徴規定にはとくに法的意味はなく、また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない」という[14]。天皇へ認可された権能は極めて限定されており、「行政権ももたず国を対外的に代表することもない天皇を君主とか元首とみることは困難」とされる[14]。天皇の地位は主権者である国民の総意に基づいており(第1条)、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている[14]。「神勅主義は明確に否定されているので、神秘的・宗教的要素がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は公的な宗教的活動が禁止されている(第20条)こともあって、「天皇、国家の世俗化が要求されている」[14]。「神道が特別な地位を与えられることはもはや許されない」のであり、皇位継承の際に行われた大嘗祭や三種の神器の継承は、「天皇家の私事としてのみありうる」とされる[14]。
天皇
『岩波 日本史辞典』によると「天皇」は、日本の君主制を指す[28]。「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から第二次世界大戦敗戦までの近代天皇を指す」語であり[28]、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている[29]。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている[30]。
「天皇」という項目を掲載している学術資料は、Kotobankに登録されている辞事典としては『デジタル大辞泉』、『大辞林』(第三版)、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『百科事典マイペディア』、『世界大百科事典』(第2版)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』がある[31]。2017時点で「天皇制」を使用している研究論文は、
語源
古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ[34]。元は皇帝・天子[34]・君主の敬称であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[35]である。
語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[36]とする説もある(この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れたとする事典[37]もある)。
天皇という二字は、「是全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ漢風諡ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる[38]。また、ある分野で強大な権力を持つ人を指す[9][10]。なお、
地位
憲法の規定
日本国憲法における天皇
日本国憲法では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条)と規定されている(象徴天皇制)。なお天皇を元首や君主とする規定は存在しない。
国籍・日本国民
天皇も日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である[40][41]。研究者による憲法論においては、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[42]。記帳所事件における1989年(平成元年)7月19日の東京高裁判決では「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」と判断されている。
裁判権
刑事裁判権は、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定されており、これは天皇については刑事裁判権が及ばないことを前提にしていると解されている[43]。告訴権については、名誉毀損罪に関する刑法232条2項は、内閣総理大臣が代わって告訴を行うとしており、天皇に告訴権がある事を前提とする。
民事裁判権は、1989年(平成元年)11月20日の記帳所事件における最高裁判決で
天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである
とする。
大日本帝国憲法における天皇
大日本帝国憲法では、天皇は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(第4条)と規定され(元首かつ君主)、憲法解釈として憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあった。
天皇についての学術的言説
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- 横田耕一(憲法学者)『平凡社大百科事典』「天皇」:
- ベン=アミー・シロニー(歴史学者):
権能
日本国憲法下の権能
日本国憲法下においては、天皇は「国事に関する行為(国事行為)」のみを行い、国政に関する権能を有しない(日本国憲法第4条1項)。次に掲げる国事行為は、すべて内閣の助言と承認のもとに行われる儀礼的・形式的な行為である。
- 内閣総理大臣の任命(日本国憲法第6条第1項)
- 最高裁判所長官の任命(第6条第2項)
- 憲法改正、法律、政令、条約の公布(日本国憲法第7条第1号)
- 国会の召集(第7条第2号)
- 衆議院の解散(第7条第3号)
- 国会議員の総選挙の施行の公示(第7条第4号)
- 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏(認証官)の任免、全権委任状、大使・公使の信任状の(認証)(第7条第5号)
- 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権(恩赦)の認証(第7条第6号)
- 栄典の授与(第7条第7号)
- 批准書及び法律の定めるその他の外交文書の認証(第7条第8号)
- 外国の大使及び公使を接受(第7条第9号)
- 儀式を行う(第7条第10号)
- 国事行為の委任(日本国憲法第4条第2項)
- ただし、国事行為の委任については、国事行為に含まれないとする見方もある。
これらの国事行為に関し、天皇は政治的に責任を負わない(無答責)。ただし、君主無答責とは異なり、天皇の政治的無答責は「象徴」としての地位に内在するものではなく、憲法第3条に定める国事行為についての内閣の責任と憲法第4条に定める政治的諸関係からの厳格な隔離から導き出されるものと解されている[48]。
この他、天皇の公務として公的行為がある。国会開会式への出席や宮中晩餐会などが挙げられる。
大日本帝国憲法下の大権
称号
日本国内における称号
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日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。10世紀以降、1000年近く「天皇」号の使用は廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
称号の由来
「天皇」は、字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が(中世)までに連声により「てんのう」に変化したとされる。漢音で「てんこう」と読まず呉音で読む理由は不明であるが下記の「天王」との関連が考えられる。中国では秦の始皇帝が、秦の統一後に、皇帝と名乗る以前の大王時代に支配者の新しい名称を求めて例示された「天皇・地皇・泰皇」中に「天皇」号があるが泰皇を改定して「皇帝」号を創始した(『史記』始皇帝本紀)。この記事を参照して、第2回遣隋使国書「天子」使用で煬帝から無礼とされたことから、天を含み王がない号として天皇号を選んだとの吉田孝の説がある[49]。後に、中国の唐の高宗は 道教から「天皇」と称した。(上元元年(674年)8月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と為し、皇后を天后と為す」(巻8)とある。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の
古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[34]。
「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット「sume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語「sümer」(須弥山)と同源であろうとしている[要文献特定詳細情報]。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない[50]。
万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が「オオキミ」、5例が「スメロキ」と訓ませている。それぞれの文意の比較から、「オオキミ」は今上天皇、「スメロキ」は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても「スメロキ」と訓ませているため、過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている[51]。
日本では「天皇」という文字は、奈良の法隆寺金堂の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は推古天皇(在位592~628)の代であり製造は推古15年とされた。このことから、戦前に津田左右吉の推古天皇期という説が、過去には有力だった。しかし、戦後に、美術的な様式からも同じ金堂内の623年製造銘の釈迦三尊像より新しいと推定され、製造は後世であり、666年野中寺(弥勒像)銘が金石文では天皇号の確実な初見だとしている[52]。推古8年(600年)第1次遣隋使では「オホキミ」号を使用し、推古天皇16年(607年)第2次遣隋使国書で「日出處天子致書」と日中とも「天子」として煬帝を怒らせ、それへの隋からの国書は皇帝が蕃夷の首長に下す形式である。それへの日本からの返書の国書に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀にあり、日本の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られるが、前回国書の対等書式とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる[53]。ただし、「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある[54]。考古学的には、 明日香村飛鳥池遺跡出土の天皇木簡が最も古く一緒に出土した木簡から天武朝( - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)の時期のものと判定されている[55]。
文書・銘 | 年代 | 抜粋 | 出典 | 現存 |
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遣隋使国書 | 607年 | 日出處天子致書日沒處天子無恙 | 隋書(636年成立) | |
法隆寺金堂 薬師如来像光背銘 | 607年 | 池辺大宮治天下天皇 | 法隆寺金堂薬師如来像 | 実物が存在。[注釈 4] |
隋への国書 | 608年 | 東天皇敬白西皇帝 | 日本書紀(720年成立) | 日本書紀以外に記録がない。 |
法興寺丈六 釈迦像光背銘 | 609年 | 多知波奈土與比天皇 | 元興寺伽藍縁起 並流記資財帳 (746年成立) | 実物が失われている。 |
天皇記 | 620年 | (書物の題名自体に「天皇」を含む) | 日本書紀 | 実物がない。 日本書紀以外に記録がない。 |
天寿国繡帳 | 7世紀 | 斯帰斯麻宮治天下天皇 悲哀嘆息白畏天皇前日啓 | 上宮聖徳法王帝説 (成立年不明) | かろうじて現存。[注釈 5] |
野中寺弥勒菩薩像銘文 | 666年 | 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 | 野中寺弥勒菩薩像 | 実物が存在。[注釈 6] |
木簡 | 677年 | 天皇聚露忽謹 | 飛鳥池工房遺跡出土 |
天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物は、以下の通り。
- 唐の第3代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
- 日本の第40代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
- 南漢の初代皇帝劉龑は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。
天皇の称号を存命中に自ら付した人物は、以下の通り。
称号の変遷
古代
倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[注釈 7]。大王号の時には姓名を持っていて、姓を「倭」、名を「大王」と称していた、という説がある[58]。600年、隋国に倭国使が大王名を姓「アメ」、名を「タラシヒコ、オオキミ」と表明していて、天皇号の確定で氏名が無くなる前の過渡的な状態だとしている(『隋書』600年条)[59]。
律令制下
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律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている[60]。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
天皇の死没は崩御といい、在位中の天皇は
奈良時代、天平宝字6年に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されている。この「諡号」とは、一人一人の名前であって、たとえば神武天皇といった時の前半の「神武」の部分が諡号である。後半の「天皇」という称号とは関係ない。
中世
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順徳天皇(在位1210年 - 1221年)以来、光格天皇(在位1779年 - 1817年)で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[61]。
在位中の天皇は、帝、
また、
当代の天皇は「
明治以降
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大日本帝国憲法(明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。
口語ではお上、
また、天皇は陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道するマスメディア等において用いられた。
現在
日本国憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」と表記されることもある[62]。
憲法学界においては、象徴天皇と歴史上の天皇との連続性について、二つの学説が対立している。歴史的存在としての天皇を存続させたものと捉える「宣言的規定説(=連続説)」と、無から新たに「天皇」と称する存在を創造したものと捉える「創設的規定説(=断絶説)」である[63][64]。後者の見解によると、神話由来の第124代天皇だった昭和天皇が、国民由来の「天皇」の初代になったということになる[64]。
なお、今後も「○○(=時の元号)天皇」という形式の追号になると確定しているわけではない。すなわち、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の過去3代がそうだからといって、平成、令和の天皇が同様に「平成天皇」「令和天皇」になるとは限らないのである。元号法の制定議論時の大平正芳首相(当時)の国会答弁によれば、追号とはあくまで皇室の儀式として贈られるものであり[65]、法定された元号に縛られることなく天皇が自由に決めることが可能である[65]。
日本国外における呼称
英語圏における呼称
天皇は、英語で「emperor」、「the Emperor of Japan」と称され、在位中の天皇は「The Current Emperor」と称される。ただし、英語で公式に初めて「the Emperor of Japan」と称された人物は、江戸時代末期・幕末期当時で、孝明天皇ではなく、時の執権者の第十二代将軍徳川家慶であった[注釈 9]。1852年のミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領の親書の宛て名には、「His Imperial Majesty, the Emperor of Japan」と記されている[67]。かつて、「Mikado」(帝、御門)と一般的に称されていた時期もあった[68]。
ドイツ語圏における呼称
ドイツやオーストリア等の地域においては、皇帝を意味する「Kaiser」(カイザー)と称されている。また一部地域においては、「Keyser」(ケイゼル)と読まれることもある。本項目のドイツ語版の記事名は「Tennō」であるように日本固有の存在としての天皇を強調する場合はTennōと呼ぶこともある。
中国における呼称
現在の中華人民共和国政府などの公的機関では、「天皇陛下」、「日本天皇陛下」などの「陛下」の敬称付で呼ばれるのが通常である[69]。
朝鮮半島と天皇の呼称
朝鮮半島の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の韓国併合による大日本帝国統治下では「天皇」の称号が用いられた。第二次世界大戦後、大韓民国独立後は英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず、「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し産経新聞ソウル支局長黒田勝弘に拠れば、2006年9月の悠仁親王誕生時、韓国日報を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという[70]。
金大中は大統領在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。大韓民国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[71]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[71]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[71][72]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[71]。李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた[73]。
韓国人ジャーナリスト崔碩栄によると、韓国では80年代後半まで新聞などで天皇表記が確認でき、「日王」表記が始まったのは、韓国が民主化した1987年以降で90年代に入ると天皇の表記は姿を消したと指摘している[74]。
歴史
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『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、学問上確定できないとしている。『古事記』『日本書紀』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、皇統譜で神武天皇を第一代とし弘文天皇を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。欽明天皇と安閑天皇・宣化天皇との両朝併立を推定する学説を除いても、後鳥羽天皇と安徳天皇は一時期相並んで天皇とされており、南北朝時代には、北朝の光明・崇光・後光厳・後円融・後小松(南北合体以前)各天皇と、南朝の後醍醐・後村上・長慶・後亀山各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた[23]。
大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあり、これを認める学説もあるが、皇位継承がもとより「一系」であったかを疑問視する学説も多くある。(三輪王朝)・河内王朝など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を応神天皇の子孫とする系譜の信用性を疑う学説、倭の五王時代にあっても定まった王位継承家系が存在しなかったとする学説、神武天皇に始まる王朝と同祖としつつも応神天皇による王位簒奪を推定する学説もある。6世紀初頭の武烈天皇の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。ともかく、皇統が定まって以降、皇位継承の資格は父系血族であれば足り、傍系や女性で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した制度や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、8世紀以後は天皇の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。天武天皇が内乱(壬申の乱)の勝者として、先帝天智天皇の子大友皇子を倒して天皇に即位した例や、淳仁天皇・陽成天皇・仲恭天皇のように、それぞれ太上天皇・摂政・幕府の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・光厳天皇の交替、南北両朝への分裂のように、武力抗争に基づく非常事態の発生もある[23]。
天皇がいつどのように成立したかは、現在の学界では学説が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす大王が遅くとも5世紀の初めには、のちの畿内の地の政権の王として存在したことは中国の史書からも認められる。古墳時代から勢力圏を拡大し、はじめは毛野・吉備・出雲・筑紫その他の各地の有力豪族と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から8世紀初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている。この統一の時期・範囲は研究者によって意見がわかれる。
『古事記』『日本書紀』が伝える物語は、歴史的事実や慣行習俗をいくらか伝承・反映しているにせよ、その基本構想は大王政権が君主の地位を得た後に、その支配権を正当化するため造作され、成立まで潤色が重ねられたと一般的に見られている。ここに記される、神武天皇が日向から大和に入り、その地の支配者を破って帝位についたという歴史は「神代」の延長線上に造られた物語で、綏靖天皇から開化天皇までの書物に記述の少ない欠史八代は「名号・相続方式」であり、実在の人物と認めがたいとすることが、現在学界主流派においてほぼ共通の認識となっている[23]。一方、どこまでを史実とし、どこまでを脚色・造作とするかの意見はわかれるものの、多くは在野を中心として、学会の一部ではこれらの記述の史実性を認める研究者もいる。
一般に実在が確かであるとされている初の天皇は第10代天皇の崇神天皇である。
神代と天皇の発祥
皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。最初に葦原中国に降臨したのは高皇産霊尊と天照大御神の孫である瓊瓊杵尊である。 紀元前663年、長髄彦を神武天皇が打ち破り(神武東征)、神武天皇が統治することになったとされる。明治政府から戦時中までの日本では、神武天皇以降の史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。しかし、津田左右吉の学説が広まった戦後は、『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在についての実証性に欠けるものと見る説が主流となった。特に欠史八代の天皇について、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を付け加えたのではないかと指摘する学説が主流となっている。一方、讖緯説は時代錯誤であるとの批判もあり、宮都・天皇陵の記述や婚姻氏族の存在などを根拠とした欠史八代実在説もあって、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄ともされるが、記紀から推定される河内湖の存在などから、神武天皇の実在を主張する説もある。
3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる素戔鳴尊が弥生時代に朝鮮半島から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または近畿地方にあった邪馬台国の卑弥呼を天照大御神と見て、その系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。
古代の天皇
倭の五王
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中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等に比定する説や仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。
これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて(百済以外の)朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王(おおきみ)」が用いられていたと考えられている。
『宋書』には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。
皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います[75][]。
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が皇位を継いだとされているが、実際は皇位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。
また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が皇位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、皇統交代があったとする説もある。
しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が大王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で大王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。
以降
不安定な基盤に乗っていた皇統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。[要出典]
この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称した[76]と『隋書』に見える。
大化の改新から摂関政治まで
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天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに四半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。
律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど幼齢な天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。
摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。
もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した((平将門の乱))。
これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
院政期
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平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。
後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息の堀河天皇・孫の鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父の後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。
この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。
治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。
後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
時に、両統迭立の時代になると、(神孫為君)の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。
院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
鎌倉時代
中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。
しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。
承久の乱で権威を失った皇室は、早い段階で権威回復を遂げたとされる[77]。後嵯峨上皇が院評定制を定めて以降、徳政評定と雑訴沙汰の分離に代表される亀山上皇の弘安徳政、記録所再興に代表される伏見天皇の永仁徳政、訴訟制度の効率化を進めた(後宇多院政)、暦応雑訴法制定や「政道興行」に代表される光厳上皇の(貞和徳政)など、鎌倉時代後期から南北朝時代初期(北朝)の朝廷では徳政と呼ばれる政治・訴訟制度改革が盛んになり、鎌倉期や南北朝期の朝廷(北朝)は種々の制約を受けながらも、依然として国政機関としての実体を保つことができた[78]。
「 | 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 | 」 |
—『二条河原落書』 |
大覚寺統傍流の後醍醐天皇は、鎌倉幕府を崩壊させ、中央集権的な天皇親政(建武の新政)を試みたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、建武の新政(建武の中興)は足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。
南北朝時代・室町時代
建武の新政の崩壊の後、太上天皇となっていた光厳上皇は、後鳥羽天皇の先例を基に譲国詔宣用いて弟の光明天皇を践祚させ、治天の君として院政を始めた。また、足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府が開かれた。しかし、密かに京都を出奔した後醍醐上皇は、光明天皇に渡した三種の神器を偽物だとして譲位の無効を主張し、南北両朝が並立することとなった。
南北朝時代とはいえ、京都を抑え、武家(室町幕府)を味方に付ける北朝が終始優勢をほこった。北朝では、幕府の実質的頂点であった足利直義の協力を得ながら、光厳上皇による政道興行が進められ、元弘の乱以降の混乱からの、政治的・文化的復興が図られた。しかし、観応の擾乱に起因する正平の一統によって、一時的に北朝が消滅。京都に天皇及び治天の君が不在になったことで公武ともに混乱を極めたが、幕府と旧北朝の貴族らは、上皇らの救出を諦め、継体天皇の先例をもとに光厳上皇第3皇子である後光厳天皇を践祚させて北朝を復活させた。
幽閉中の光厳上皇は、後光厳天皇践祚に反発して出家し、帰京後に崇光上皇を持明院統正嫡に定めて[注釈 10]、持明院統伝来の財産の大半を崇光上皇に譲渡した。この崇光上皇の直系子孫が、旧宮家の宗家である伏見宮家であるが、後光厳天皇系統と崇光天皇系統(伏見宮家)に北朝天皇家(持明院統)が分裂し、その後後小松天皇が伏見宮家から持明院統伝来の財産を没収するなど、北朝内部の対立が激化していく。
正平の一統後の朝廷(北朝)は、著しい権威失墜を招き、足利義満を頂点とする公武統一政権が誕生した。そして、永徳3年(1392年)、足利義満の独断に近い状態であったが、北朝が南朝を吸収することで南北朝時代は終焉を迎えた。
なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の子孫であり、明治時代まで北朝正統であったものの、明治44年(1911年)以降、世論の煽りを受けて出された、「明治天皇の勅裁」を根拠に、南朝が正統となった。
また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったとする説もあるが、今日の研究では概ね否定されている[79]。義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞している。
称光天皇の崩御により、伏見宮家出身の後花園天皇が、後小松上皇の猶子として即位したことで、後光厳天皇系統と崇光天皇系統の対立が収束。後花園天皇は良好な公武関係を構築し、積極的に政務を展開。正平一統後に失墜した権威を回復させるも、応仁の乱が発生し、再び権威失墜を招いた。
戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。
江戸時代
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江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。
しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった。
一方で朝幕間の対立による緊張もたびたび発生し、紫衣事件では幕府の態度に憤慨した後水尾天皇が幕府に無断で譲位し、対立は頂点に達した。
江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
明治時代
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幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。
このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。
その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。
戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。一方で「公平無私の上御一人」とその徳を称える風潮も起った。
なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制および皇室というしくみ自体を指して、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられており、通常「王制」あるいは「君主制」などと同様の性質を持つ用語として扱われる。そのいっぽう、この言葉を最初に使いはじめたのがコミンテルンであるという説から、反共的な政治思想を持つ立場からは使用を忌避されることがある。戦前は国体と称された。
一方、海外から見た別の視点もある。権力が将軍家に移ってから1868年までの間、世に知れずに続いてきた貧困な皇族は、薩長土肥が武装反乱を正当化するために、「日本の天皇は神」という8世紀の神話の再興によってその革命政権の表看板になった。そして、現人神としての天皇が強調され、新しい公立学校教育システムの核として思想教化されていった[80]。
1898年(明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。
1901年(明治34年)4月29日、裕仁親王(のちの昭和天皇)が誕生。
1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。
第二次世界大戦前
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その後、2度にわたる護憲運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。
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1933年(昭和8年)12月23日、昭和天皇第五子で初の皇男子である明仁親王(のちの第125代天皇)が誕生。
1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。
世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。帝国憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。
この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは太平洋戦争時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。
1943年11月カイロ会談の間、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは天皇制度を廃止するべきかどうか中華民国国民政府主席蔣介石に意見を求めたことがある。蔣介石は戦争の元凶は日本の軍閥であり、国体の問題は戦争が終わってから日本人自体が決定すべきだと答えた[81]:693。
第二次世界大戦後
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第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では天皇を、枢軸国の国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。事実、世界史上でもかつての帝政ドイツやオーストリア、ロシアなど敗戦や革命などを経て君主制が消滅する国々は存在した。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても天皇制を存続させたが、その地位は日本国憲法によって元首ではなく日本国および日本国民統合の象徴と位置付けられた。
これと似たような例があり、戦勝国ベルギーの場合レオポルド3世は対独戦での敗戦の責任を追及されて「国王支持派」と「反国王派」に分裂したため、国家の分裂を避けて君主制を維持するためボードゥアン1世に王位を継承した。しかし敗戦国日本の皇室との最大の相違点は存命中に退位した事である。
昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。天皇の廃位を唱える見解や「昭和天皇の退位と高松宮宣仁親王を摂政として皇太子明仁親王の即位により改元する(元号を改正する)のが妥当」とする意見を昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王、要人では近衛文麿・木戸幸一・南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘が唱えたが、一部にすぎなかった。
近衛文麿は、昭和天皇を京都の仁和寺に出家させようと考えていたとされる[82]。
昭和天皇自身は「退位の意向」を示したが、「かえって戦争責任を認めることになる」として周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂とダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた[83]。
天皇退位論への反応は、天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった[84]。
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており[85][86]、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった[85][87][88]。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない[85]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された[85]。1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった[85]。
昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。((昭和天皇#行幸))。
宗教
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神道との関係
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神道は日本古来の宗教である。古代の日本は祭政一致であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。仏教が伝来した後の用明天皇は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は天武天皇の大宝律令などで定められてゆき、奈良時代から平安時代にかけて、天皇は新嘗祭などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る伊勢神宮に斎宮を遣わし、延喜式に定められた神社などに奉幣を供えた。
武家政権に移行して、鎌倉時代の順徳天皇は『禁秘抄』において「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、戦国時代の後柏原天皇などは大嘗祭を執り行えなかった。江戸時代には江戸幕府の要求と金銭補助の下、徳川家の神格化を目的とする日光東照宮への奉幣なども行われた。
明治時代になると、神道は国家神道となり、神武天皇を祭る橿原神宮、桓武天皇を祭る平安神宮、明治天皇を祭る明治神宮などが創建され、戦前戦中の昭和天皇は現人神として崇拝された。戦後は政教分離となり国家神道は廃止され、昭和天皇は人間宣言により自らの神格化を否定した。現在は宮中祭祀として新嘗祭や四方拝などが執り行われ、一般人男性と結婚し民間家庭に嫁いだ皇女が伊勢神宮の祭主となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている[89]。
仏教との関係
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『日本書紀』によると552年に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教の信仰の可否について家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺や法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。
また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。
平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海と最澄を遣唐使とともに唐に送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。
その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年(明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により神仏分離が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。
職能神・芸能神との関係
天皇という王は、本来自然の領域に属する超越性を人間社会内へ奪取する媒介者の働きをしており、その多義性は宗教や儀礼、技芸の神にまつわっている[90]。天皇と職人とには、内密な関係が見られる。金春禅竹が『明宿集』で語るところによると、芸能や職人の守護神である宿神(翁)は、宇宙の中心、王の中の王であると諸職の民によって考えられていた。これは、大蛇(自然)の力から剣(レガリア)を取り出すスサノオのように、宿神が荒々しい自然から美や富を人間の社会に持ち込む離れ業を演じる霊であったことによるという。すなわち天皇の権力は、芸能者や職人の日々行う業と似通った性格となっている[91]。
『明宿集』は、星宿神を北極星とし、「翁」を宿神と呼ぶことは太陽・月・星宿の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王を鳥に喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている[92]。また、本地垂迹はすべて本体は一つであり、不増不減、常住不滅の一つの神に集約されるともいう[93]。『明宿集』の末尾では、翁とは日月星宿がすべての人の心に宿ったものであり、俗体は翁の化身であり、それを知っていると知らないとの違いがあると説かれている[94]。
天皇は、律令制という合理的制度が導入された以後も、自然の内奥との深い結び付きを主張する王の宿神的身体(翁的身体)を、あるいは「王の熊の身体」を、様々な宗教儀礼や神話的観念を通して維持しようとしてきた[95](神やカムイという言葉は、熊や狼のような強力な森の住人を指していた[96])。特に古代的天皇の復活を目指した後醍醐天皇による建武の中興では、密教の道具立てを使って、自然の内奥から超越的主権を取り出してくる異形の王としての天皇、という大規模な演出まで試みられた。網野善彦の『異形の王権』はこの問題を主題としている[95]。
一神教・国家神道
『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた[97]。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた[97]。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された[97]。「天皇は国家神道のいわば最高祭司であり、神社の祭式は皇室祭祀を基準に整えられた」とされる[97]。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される[98]。
また、大日本帝国が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり[99]、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった[100](一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる[101])。例えば、帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた[100]。
ユダヤ教・キリスト教
宗教学者・思想史学者の前川理子の研究論文によれば、天皇を唯一なる存在(唯一神)と見なす例として、比較宗教学者の加藤玄智の論がある[102]。加藤は東京帝国大学神道研究室の公的研究者であり、「国家的神道(State Shinto)」の主な提唱者だった[103]。加藤によれば、数多くの殉教者を出した日本精神――つまり武士道・大和魂等の伝統――は、一神教の絶対服従の精神と「同一」である[102]。その精神とは、旧約聖書(ユダヤ教)のアブラハムやヨブが見せたような態度である[102]。
このような考えによって日本精神は、宗教進化論(ティーレの論)でいう「倫理的宗教」のレベルに到達済みであることが明白だとされるようになった[102]。加藤は唯一神(キリスト)と天皇を結びつけ、
と述べている[102]。同時に加藤は、日本人はみな「神の子」であるとしている[104]。
一方で言語学者のB. H. チェンバレンは、日本人の天皇崇敬は明治時代以後の人為的な「新宗教の発明」であると述べたり、今の「武士道」という語は昔は使われていなかったと論じていた[105]。こうした研究に強い不満を持った加藤は、日本の固有思想は日本人が一番理解できるという理由をもって、日本に対する外国人の「誤解」を退け、「科学的」に「忠君愛国説をも立てゝ来なければならない」と述べている[105]。
イスラム
ピーター・リャン・テック・ソンの歴史学論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラムへ命令が下されることもあった[106]。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた[106]。
(ジャワ奉公会)や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした[106]。しかしその前に、日本軍が唯一神(アッラーフ・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した[106]。
世界的に帝国主義(皇帝主義)・君主制(君主主義)・国家社会主義(ナチズム)は悲惨な失敗を招き、それに対する反動も同程度の流血沙汰となった[107]。現代のイスラム過激主義はそうした反動の例であり、カブールからジャワにいたる世界各地で活発化している[107]。
天皇総帝論・八紘一宇
- 「現人神」論の一般化
現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋の絶対神が合理主義で批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした[108]。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された[108]。
「現人神」論は「天皇絶対」論を兼ねており、東京帝国大学で憲法学者上杉慎吉も主張していた[109]。天照大神や天皇の絶対的唯一性を否定する論について、上杉は批判している[110]。以下に引用する[110]。
上杉はこうも言った[111]。
- 「八紘一宇」へ
「世界統一」思想である「八紘一宇」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、田中智学の日本神話解釈から由来している[111]。天皇は天照大神の延長であり、よって日蓮主義者は天皇の徳と政治が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である[111]。
- 「伝統精神」(国家社会主義)へ
国家社会主義は社会主義的な「国家主義の一種」であり、日本では「純正日本主義(皇道主義)」と連れ立って活動していた[112]。特に「国家社会主義」(ナチズム)は、民族主義・全体主義・反個人主義・反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義・反マルクス主義等を掲げる[113][114]。なお、「右翼」は「一般にはドイツのナチス,イタリアのファシスト,日本の超国家主義者などがその代表」とされている[115]。
昭和時代初期には、天皇にまつわる「伝統の発明」として代表的に佐藤信淵および大国隆正の思想が利用された[116]。江戸時代末期の著述家である信淵の、帝国的で統制経済的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった[116]。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として満州・朝鮮・中国を併合すべきであると説かれている[116]。後者は、国家による統制経済の必要を説いている[116]。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「大東亜戦争の予言者」と称賛された[116]。
だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に政治へ影響した例が無かった[117]。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは1887年(明治20年)以降だった[117]。
世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、日露戦争の勝利後である[117]。また、社会主義の観点から信淵に興味を示す日本知識人も現れ始めた[117]。信淵への評価を決定的に変化させたのは、1927年(昭和2年)に大川周明が著した『佐藤信淵の理想国家』だった[118]。信淵の思想は
鮮明に国家社会主義的である
と位置づけられ、「伝統精神」と見なされた[118]。また、次のようにも評価された[118]。
こうして信淵の思想は「国家社会主義」であり、「伝統精神」「日本精神」の中核であると見なされた[119]。1934年(昭和9年)には、三上参次や河野省三といった歴史家・神道研究者までもが、日本の「伝統」的な「国家社会主義」を讃えるようになった[119]。この「伝統精神」は小学校の歴史教科書でさえ扱われるようになり、「進んで海外に植民地を開拓し、国力を伸ばさなければならない」「日本が海外に進出する提唱がすでに江戸時代からあった」というように論じられた[119]。
- 「天皇総帝論」へ
戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた[120]。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者、大国隆正が唱えた議論である[120]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[120]。
「天皇総帝論」は、もとより外交や政治に影響を与えたことが無かった[121]。しかも、隆正の一部の弟子以外には忘れ去られていた[121]。だが、帝国の昭和時代になると世間から注目され始めた[121]。その発端は昭和2年5月、宮中顧問管((山口鋭之介))が「大国隆正と日本精神」という文章を新聞に掲載した頃である[121]。隆正は「日本の最も偉大な思想家であり、最も偉大な国学者であつた」、「明治維新の基礎をなした第一の功績者である」と断定された[121]。
新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う論文が急増し、『大国隆正全集』も公刊された[122]。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『古事記』、『日本書紀』を「わがくにの小説演義の鼻祖(作り話の元祖)」と扱っていた[122]。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった[122]。
第二次世界大戦に至る中で、「天皇総帝論」は
明治維新から今日の皇道世界維新に直通一貫して生きてゐるのである。
と、(大崎勝澄)によって理屈付けられた[123]。そして「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた
等であると認識されていった[124]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が明治維新や日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[125]。
当時アメリカ合衆国では、「天皇とは何か」というアンケート調査が行なわれた[126]。1944年4月に雑誌『フォーチュン』で日本特集号が組まれ、調査の回答結果は
という内容だった[126]。
- 敗戦後
日本の降伏後のGHQの神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた[127]。神道指令を起草する際にW. K. バンスが用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた[127]。
敗戦後の加藤は公職追放された他、恩給を一時停止された[128]。加藤たちの時代の宗教学的理想は、諸宗教の融合調和だった[129]。加藤によれば、神道と仏教との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た[129]。しかし1959年、当時の皇太子だった上皇明仁の結婚によって、「此破天荒の精神的大事業」が定結されたと加藤は述べた[129]。キリスト教(カトリック)系教育の中で成長した正田美智子を皇室に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという[129]。前川はこれを、加藤の「二〇歳代の夢の続き」と評している[129]。
- 批判
前川によると、加藤の研究は「多分に規範的」であり、「神道研究」というよりは「神道論」だった[103]。また、加藤と同世代の民俗学者・柳田國男は、最近の世の神道論は現実を踏まえてない、「人為的」な「新説」だと批判した[103]。当時、神社は国家の「宗旨」であり、宗教でないとされていた[103]。それは学問から見て「無内容」だったが、多様な神道論や神社論が主張されることとなり、加藤は有力な論者の一人となっていた[103]。
皇位継承
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皇位継承とは、皇太子などの皇嗣が皇位(天皇の位)を継承することである。皇位継承が世襲により行われることは、大日本帝国憲法・日本国憲法ともに明文規定があり、詳細なルールは皇室典範において定められる。
三種の神器
日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられた神器。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物。
天皇の践祚に際し、この神器のうちの八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが正統な天皇たる証であるとされ、皇位継承と同時に継承される((剣璽等承継の儀))[130]。
即位の礼
天皇の即位に際しては、即位の礼が行われる。これは皇室典範に定められた国事行為であり、以下の諸儀式から成る。
- 剣璽等承継の儀
- 即位後朝見の儀
- 即位礼正殿の儀
- 祝賀御列の儀
- 饗宴の儀
即位礼正殿の儀は、戴冠式に相当する即位の礼の中心的儀式であり、天皇が即位を国内外に宣明する。
大嘗祭
天皇の即位に際し、一世一度の重要祭祀である大嘗祭が行われる。日本国憲法下では皇室の公的行事とされる。
氏姓
配偶者
現皇室典範下においては、天皇の配偶者は皇后1名のみである(一夫一婦制)。現在皇位を継承できるのは男子のみであり、その配偶者は女子となる。
大王の正室は大后(おおきさき)と称され、律令制下では天皇の正室は皇后とされた。天皇は正室以外にも複数の側室がいたほか(一夫多妻制)、皇后(正室)すら二名をもつことができた(皇后宮と中宮:一条天皇が2后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。
明治20年代半ば(1890年代後半)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による一夫一妻制の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた[131]。そこで、健康な九条節子が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の昭和天皇)ら、4人の男児が誕生した。大正天皇は自身が側室柳原愛子の子であることを知って衝撃を受け、またその后貞明皇后も側室である生母野間幾子の不遇を見て育ったことから、一夫一妻制を推進した[132]。
続く、昭和天皇は、20~21歳にかけて欧州訪問を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け[133]、主体的な意思を持って側室制度を拒否した[134]。
組織・役職
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宮内庁
宮内庁[135](くないちょう、英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。
なお、宮内庁はかつて総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ宮内省が設置された。1947年には宮内府となり、さらに1949年に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。
幹部
内部部局
皇宮警察本部
皇宮警察本部[136](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[137]。天皇及び皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警備、その他の皇宮警察に関する事務をつかさどる[137]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。
本部長は、(皇宮警視監)の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。
本部の紋章は五三桐である。桐紋は菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署が設置されている[138][139]。
役職
葬制
葬送儀礼
葬送儀礼の形式は、古くは神式であり、平安時代頃から江戸時代までは仏式で営まれたが、江戸時代後期には神式が復活し、以降この形式で行われる。
皇室行事としての天皇の葬送儀礼を大喪儀という。大喪儀の特徴として、長期間にわたって通夜にあたる儀式「殯宮祇候」が営まれることが挙げられる。これは古代の葬送儀礼・殯(もがり)に由来するもので、本来は一年間行うが、昭和天皇の大喪の際は40日ほどであった。葬儀・告別式は「斂葬の儀」といい、葬場殿という仮の御殿を建てて行う。
この皇室の私的な儀礼の他、国事行為として大喪の礼という国葬が行われる。大喪の礼は宗教色を排除したもので、国内外から弔問団が訪れる。
葬法
大王陵が大規模に造営されていた頃、まだ倭国には火葬の文化はなく、例外なく大王は土葬であった。初めて火葬された天皇は、持統天皇である。これ以降、江戸時代初めに至るまで葬法には火葬が多く採用されたが、後光明天皇崩御時に土葬が復活すると、昭和天皇・香淳皇后までは土葬された。しかし、第125代天皇明仁は在位中に自らの葬儀や陵の簡素化・火葬導入を希望すると、これにあわせて新たな葬儀のあり方が打ち出され、これ以降の天皇・皇后の葬制に火葬が復活することとなった。
天皇陵
(外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁
皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の皇太子や親王などの皇族を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかにニニギノミコトなど三神の陵として神代三陵が宮内庁によって治定されている[142]。
天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ大王と呼ばれていた時代には巨大な前方後円墳が造営され、その後方墳、円墳、八角墳と変遷した。院政期の白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇以降も大規模な上円下方墳が造営される形式が続いたが、明仁が自らの葬法について火葬を希望すると明らかにした際に、陵の規模を縮小する方針が発表された。
国際関係
天皇の外国訪問は国事行為の臨時代行に関する法律が整備されておらず長年実現されていなかった。
1971年(昭和46年)、昭和天皇が天皇として初めて外遊し、イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待により、天皇として初めてアメリカ合衆国に公式に訪問した。
第125代天皇だった明仁も1991年(平成3年)にタイ王国などに行幸したのを始め、年に1、2回のペースで海外行幸をしている。また、各国の王室との間で様々な機会にプライベートな電話会談などのやり取りが行われている[143]。
第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、外国元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝のハイレ・セラシエ1世、1957年(昭和32年)にインド首相のジャワハルラール・ネルー、1958年(昭和33年)にインドネシア大統領のスカルノ、1960年(昭和35年)に西ドイツ首相のアデナウアー、1968年(昭和38年)タイ国王のラーマ9世の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[144]。
昭和天皇の大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。ベルギー・ブータン・ブルネイ・ヨルダン・レソト・ニジェール・トンガの国王、バングラデシュ・ブラジル・ブルンジ・ジブチ・エジプト・フィジー・フィンランド・フランス・ガンビア・ドイツ連邦共和国・ギリシャ・ホンジュラス・アイスランド・インド・インドネシア・アイルランド・イスラエル・イタリア・ケニア・モルディブ・ミクロネシア連邦・ナイジェリア・パキスタン・フィリピン・ポルトガル・スペイン・スワジランド(現エスワティニ)・トーゴ・チュニジア・トルコ・ウガンダ・タンザニア・アメリカ合衆国・バヌアツ・ザイール・ザンビアの大統領・首相、国際連合の事務総長が参列した[145]。
天皇に関する課題
皇位継承権問題
国体論争
退位問題
日本の皇室系図
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第126代天皇の男系(父系)直系祖先
- 代数は、皇統譜による。
- 北朝は、歴代に算入していない。
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 |
6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 |
稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 | 34 舒明天皇 | 38 天智天皇 |
志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 |
66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 |
88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 栄仁親王 | 貞成親王 | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 |
104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 直仁親王(閑院宮) | 典仁親王(慶光院) |
119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 明仁 | 126 徳仁 |
家系図形式(天照大御神から第126代天皇まで)
- 各囲みの一段目は、
諱 /生年-没年/性別 の形式で表記。 - 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
- 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
- 「(諡)」記号は名称が
漢風諡号 (生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。 - 「(第~代)」は天皇の代数[要出典]。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
天照大御神/神話上の存在/♀ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天忍穂耳/神話上の存在/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瓊瓊杵/神話上の存在/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦火火出見/神話上の存在/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦波瀲武盧茲草葺不合/神話上の存在/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦火火出見/前711-前585/♂ 神武天皇(諡) 前660-前585(第1代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前632-前549/♂ 綏靖天皇(諡) 前581-前549(第2代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前577-前510/♂ 安寧天皇(諡) 前549-前510(第3代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前553-前476/♂ 懿徳天皇(諡) 前510-前476(第4代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前506-前393/♂ 孝昭天皇(諡) 前475-前393(第5代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前427-前291/♂ 孝安天皇(諡) 前392-前291(第6代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前342-前215/♂ 孝靈天皇(諡) 前290-前215(第7代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前273-前158/♂ 孝元天皇(諡) 前214-前158(第8代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(諱不明)/前208-前98/♂ 開化天皇(諡) 前157-前98(第9代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御間城/前148-前29/♂ 崇神天皇(諡) 前97-前29(第10代) | 彦坐/?-?/♂ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
活目/前68-70/♂ 垂仁天皇(諡) 前29-70(第11代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大足彦/前13-130/♂ 景行天皇(諡) 71-130(第12代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武/82?-113?/♂ | 稚足彦/84-191/♂ 成務天皇(諡) 131-191(第13代) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
足仲彦/148?-200/♂ 仲哀天皇(諡) 192-200(第14代) | 気長足姫/170-269/♀ 神功皇后(諡) 201-269(摂政) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
譽田/200-310/♂ 應神天皇(諡) 270-310(第15代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大鷦鷯/257-399/♂ 仁徳天皇(諡) 313-399(第16代) | 稚野毛二派/?-?/♂ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
去来穂/336?-405/♂ 履中天皇(諡) 400-405(第17代) | 瑞歯/336?-410/♂ 反正天皇(諡) 406-410(第18代) | 雄朝津間稚子/376?-453/♂ 允恭天皇(諡) 413-453(第19代) | 忍坂大中姫/?-?/♀ | 意富富杼/?-?/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐/?-?/♂ | 穴穂/401-456/♂ 安康天皇(諡) 454-456(第20代) | 大泊瀬幼武/418-479/♂ 雄略天皇(諡) 456-479(第21代) | 乎非/?-?/♂ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
億計/449-498/♂ 仁賢天皇(諡) 488-498(第24代) | 弘計/450-487/♂ 顯宗天皇(諡) 484-487(第23代) | 飯豊青/440-484/♀ 484-484(臨朝秉政) | 白髪/444-484/♂ 清寧天皇(諡) 480-484(第22代) | 彦主人/?-?/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
小泊瀬稚鷦鷯/489-507/♂ 武烈天皇(諡) 498-507(第25代) | 手白香/?-?/♀ | 男大迹/450-531/♂ 繼體天皇(諡) 507-531(第26代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志帰嶋/509-571/♂ 欽明天皇(諡) 540-571(第29代) | 勾/465-536/♂ 安閑天皇(諡) 531-536(第27代) | 高田/467-539/♂ 宣化天皇(諡) 536-539(第28代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
他田/538-585/♂ 敏達天皇(諡) 572-585(第30代) | 額田部/554-628/♀ 推古天皇(諡) 593-628(第33代) | 池辺/540?-587/♂ 用明天皇(諡) 585-587(第31代) | 泊瀬部/553?-592/♂ 崇峻天皇(諡) 587-592(第32代) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
押坂彦人/?-?/♂ | 厩戸/574-622/♂ 聖徳太子(諡) 593-622(摂政) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茅渟/?-?/♂ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軽/596-654/♂ 孝徳天皇(諡) 645-654(第36代) | 宝/594-661/♀ 皇極天皇(諡) 642-645(第35代) 齊明天皇(諡) 654-661(第37代) | 田村/593-641/♂ 舒明天皇(諡) 629-641(第34代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛城/626-672/♂ 天智天皇(諡) 661-672(第38代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大友/648-672/♂ 弘文天皇(諡) 672(第39代) | 鸕野讚良/645-701/♀ 持統天皇(諡) 690-697(第41代) | 大海人/631?-686/♂ 天武天皇(諡) 672-686(第40代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴/668?-716/♂ 春日宮天皇(諡) (追尊) | 阿閇/661-721/♀ 元明天皇(諡) 707-715(第43代) | 草壁/662-689/♂ 岡宮天皇(諡) (追尊) | 舎人/676-735/♂ 崇道尽敬天皇(諡) (追尊) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氷高/680-748/♀ 元正天皇(諡) 715-724(第44代) | 珂瑠/683-707/♂ 文武天皇(諡) 697-707(第42代) | 大炊/733-765/♂ 淳仁天皇(諡) 758-764(第47代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
首/701-756/♂ 聖武天皇(諡) 724-749(第45代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高野新笠/?-790/♀ | 白壁/709-782/♂ 光仁天皇(諡) 770-781(第49代) | 井上/717-775/♀ | 阿倍/718-770/♀ 孝謙天皇(諡) 749-758(第46代) 称徳天皇(諡) 764-770(第48代) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山部/737-806/♂ 桓武天皇(諡) (別名: 柏原帝) 781-806(第50代) | 早良/750?-785/♂ 崇道天皇(諡) (追尊) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安殿/774-824/♂ 平城天皇(諡) (別名: 奈良帝) 806-809(第51代) | 神野/786-842/♂ 嵯峨天皇(諡) 809-823(第52代) | 大伴/786-840/♂ 淳和天皇(諡) (別名: 西院帝) 823-833(第53代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正良/810-850/♂ 仁明天皇(諡) (別名: 深草帝) 833-850(第54代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||