華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。
概要
版籍奉還が行われた明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達第五四二号で公卿(公家の堂上家)と諸侯(大名)の称が廃され、華族と改められた[1][2]。この時以降華族令制定以前に華族に列した家を「旧華族」と呼ぶことがあった[3][4]。また旧公家の華族は「堂上華族」[5]、旧大名の華族は「大名華族」と呼ぶこともあった[6]。
旧華族時代には爵位は存在せず、世襲制の永世華族と一代限りの終身華族の別があったが[3]、明治17年7月7日に公布された華族令により公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められた。華族令と同時に制定された叙爵内規によりその基準が定められ、公爵は「親王諸王より臣位に列せらるる者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者」、侯爵は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者」、伯爵は「大納言宣任の例多き旧堂上、徳川旧三卿、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者」、子爵は「一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者」、男爵は「一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者」に与えられた[7]。またこの際に終身華族の制度は廃止された[3]。華族令制定後、家柄に依らず、国家への勲功により華族に登用される者が増加し、これを「新華族」と呼ぶことがあった[8]。
華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在という意味で「皇室の藩屏」と呼ばれていた[9]。
有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出され得る特権を有した。公侯爵は終身任期で無給の貴族院議員となり(大正14年以降は勅許を得て辞職可能となった)、伯子男爵は同爵者の互選で選出されれば任期7年で有給の貴族院議員となることができた[10]。
昭和22年(1947年)5月3日に施行された日本国憲法の第14条2項に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより廃止された[11]。
旧華族(1869年-1884年)
華族誕生
版籍奉還と同日の明治2年6月17日(1869年7月25日)に出された行政官達第五四三号「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称は廃され、これらの家々は華族に改められることが定められた[12][1][13]。
「公卿」とは内裏の清涼殿殿上の間に上がることが許された公家の堂上家(殿上人)のことを指し、「諸侯」とは表高1万石以上の石高がある各藩の藩知事(版籍奉還前の藩主)、つまり大名のことを指す[14]。華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の合計427家である[15]。この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は慶応3年10月15日(1867年11月10日)の大政奉還時の公卿・諸侯の数と同数ではない。その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している[16]。
具体的には、公卿からは松崎万長の(万崎家)(慶応3年10月24日公卿)、北小路俊昌の北小路家(慶応3年11月20日公卿)、岩倉具経の岩倉分家(慶応4年6月公卿)、玉松真弘の玉松家(明治2年1月公卿)、若王子遠文の若王子家(明治2年2月公卿)の5家、諸侯からは中山信徴の(中山家)(村岡藩)、成瀬正肥の成瀬家(犬山藩)、竹腰正旧の竹腰家(今尾藩)、安藤直裕の安藤家(田辺藩)、水野忠幹の(水野家)(新宮藩)、吉川経健の吉川家(岩国藩)、徳川家達の徳川宗家(駿府藩)、徳川慶頼の田安徳川家(田安藩)、徳川茂栄の一橋徳川家(一橋藩)、山名義済の山名家(村岡藩)、池田徳潤の(池田家)(福本藩)、山崎治祇の山崎家(成羽藩)、本堂親久の本堂家(志筑藩)、平野長裕の(平野家)(田原本藩)、大沢基寿の大沢家(堀江藩)、生駒親敬の生駒家(矢島藩)の16家が加わっている[17]。
公卿の方を見ると、松崎は孝明天皇の寵臣だったことからその遺命で、北小路は地下家からの昇進で、岩倉具経は岩倉家の分家だが戊辰戦争での東征軍東山道鎮撫副総督としての功績で、玉松は山本家分家だが還俗後王政復古の詔勅文案の起草などにあたった功績で、若王子は山科家分家だが還俗後一家立てるのを認められたことで、それぞれ堂上家に列していた[18]。諸侯の方は明治初年に新たに藩を与えられた徳川宗家と徳川御三卿、また徳川御三家からの独立を認められた付家老家、戊辰戦争での加増や高直しで万石越えした交代寄合などであり、いわゆる維新立藩をして新たに大名になった者たちである[19]。
逆に大政奉還時には諸侯だったが、明治2年6月17日時点で諸侯でなくなっていたのは戊辰戦争の戦後処理の減封で1万石割れした旧請西藩林家1家のみである(同家は明治26年に至って特旨により華族の男爵家に列している[20])。同家以外の大政奉還時に諸侯・公卿だった家は全家が明治2年6月17日をもって「華族第1号」となっている[16]。
その後明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で五爵制が導入されるまで、華族はその内部に等級を付さずに一身分として存在することになった[21]。また華族令制定前の華族においては終身華族(一代限りの華族)と永世華族(世襲制の華族)の別があったが、終身華族に叙されたのは北畠通城、(松園隆温)ら宮司や僧から還俗した一部だけであり大部分は永世華族である[3]。
旧諸侯華族は当初各藩の藩知事を兼ねる存在であったが、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県をもって全員が藩知事を解任されたため、以降は旧公卿華族との区別はなくなった[22]。
華族創設をめぐる様々な案
明治初年以降、明治2年6月17日に行政官達第五四三号が出されるまでの間、公卿・諸侯の扱いをめぐっては様々な議論があったことは深谷博治『華士族秩禄処分の研究』、『華族会館史』、(坂巻芳男)『華族制度の研究』に詳述される。『華士族秩禄処分の研究』によれば、伊藤博文は諸侯を公卿とし、位階によって序列化する案を岩倉具視に宛てて進言しており(『岩倉家蔵書類』)、この案は公家と大名を一つにするというより大名を公家に含有するものだったと指摘する[23]。
ついで広沢真臣が岩倉に送った意見書では公卿・諸侯を統合して「貴族」とする案が出されており、最終的には名称以外はこの案でいくことになるのだが、名称については当時は「華族」ではなく「貴族」とする案が相当有力だったと見られている[23]。大久保利通や副島種臣も「貴族」の名称を支持している[24]。しかし岩倉は「名族」という名称を推していた[24]。これ以外にも「勲家」「公族」「卿族」などの名称案が出されていたことが確認されており「華族」に決まるまで相当の紆余曲折があったと見られる[23]。
前述の行政官達の「華族」の部分も直前まで欠字になっており、容易に決定されなかったことがうかがえる。明治2年6月7日(1869年7月15日)の草案では大久保・副島の「貴族」案と岩倉の「名族」案の間で論争があったことの付箋が付けられている。最終的にはどちらの案も採用されず「華族」となるが、誰がそれを提唱し、どのような経緯でそれに決まったかは今のところ不明である[24]。
当時「華族」という言葉は公家の清華家の別称だった(「花族」ともいった)。平安時代末頃までは家柄の良い者の美称として「英雄」「清華」「栄華」「公達」などとほぼ同義に使われており、藤原宗忠の『中右記』、九条兼実の『玉葉』などにその用法での使用例がみられる[25]。その後公卿の家格が形成されていく中で「華族」は摂家に次ぐ公家の家格の清華家の別称となっていった[25]。このように「華族」とは歴史ある言葉であり、維新後に公卿と諸侯の総称という新たな意味を持つに至った[25]。
華族の役割と「皇室の藩屏」
廃藩置県によって藩知事たちが解任された明治4年7月14日(1871年8月29日)、華族戸主に東京在住が命じられた。この頃、結婚や職業の自由などの太政官布告が出されており、特権はく奪や四民平等的な政策への不安が華族の間に広まっていた[26]。華族たちの不安が頂点に達していた同年10月10日に明治天皇より「華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可き儀」という勅旨が出された[25]。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて小御所代(京都御所と同じ部屋を赤坂仮御所内に設けた部屋)に召集し、ここでも「華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや」と勅諭している[25][26]。この勅諭に触発・奮起された華族は少なくなく、日本型ノブレス・オブリージュの原点となる勅諭となった[26]。
この華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は「皇室の藩屏(はんぺい)」と呼ばれるようになった。「藩屏」とは「外郭」のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である[9]。華族のうち旧公家華族は古代より皇室に仕え、その守護にあたってきた家々であるが、旧武家華族は歴史上皇室と敵対することも多かった家々である。すなわち華族制度の創設は旧公家だけでなく旧大名家もすべて天皇の臣下に組みこむことにその本質があった[9]。
なお皇族も華族と似た役割を負っていたことから「皇室の藩屏」と呼ばれることがあったが、最大の違いとして皇族は「天皇になりうる家系」であり、華族は「天皇になりえぬ家系」である[9]。
華族制度の整備
1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。
1876年(明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。
また、1876年にはお雇い外国人の金融学者パウル・マイエットとこれを招聘した木戸孝允が共同で、華族や位階のための年金制度を策定した。40万人の華族に年間400万石(720万ヘクタール分)の米にあたる資金を分配することになり、最終的に7500万円分(現代で1.5兆円)が償還可能な国債のかたちで分配された[27]。
1878年(明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。
華族の上院議員化構想
明治2年6月17日(1869年7月25日)の華族創設から1884年(明治17年)7月7日に華族が五爵制になるまでの15年間にも華族の役割・在り方については様々な議論があった。
もともと立憲制より君主制を重視していた岩倉具視は「皇室の藩屏」たることが華族の存在意義と強く意識したため、華族銀行(第15国立銀行)の創設など華族の生活安定には熱意を注いだが、彼らを国政に関与させることには否定的だった[28]。これに対してヨーロッパ貴族の在り方を思い描いていた伊藤博文は、華族の政治参加を意識し、上院議員化構想を持っていた。特に1881年(明治14年)に9年後の国会開設が公約された後には伊藤は民権派が議席の多数を占めることが予想される下院への防波堤として華族による上院の設置を重視した。しかし華族には国政に関心を示す者が少なく、これに不満を持った伊藤は、華族のみならず士族以下からも有能な者を抜擢して上院議席をもたせる必要を考えるようになり、この構想が後に勲功華族に繋がっていく[29]。
当初は華族を国政に関わらせることを嫌がっていた岩倉も1880年代入ると民間ジャーナリズムの勃興や自由党の結党など時代変化に影響されて、より積極的な「華族改良」が必要と考えるようになり、華族教育の充実を図る一方、華族を上院議員にしたり、勲功華族を設置するといった伊藤の考えにも理解を示すようになっていった。1883年(明治16年)の岩倉死去後は伊藤らの華族の上院議員化構想は一層進められていく[30]。
「華族第2号」
1869年(明治2年)の創設で427家の華族(「華族第1号」)が生まれた後、1884年(明治17年)に華族令が施行されるまでの15年間にさらに76家が華族に追加されている[31]。彼らが「華族第2号」ともいうべき層だが、その大半は華族令施行で五爵制になった後に最下級の男爵に叙されたことからも分かるように「華族第1号」と比べると格下と見なされていたようである[32]。次のような家々が「華族第2号」であった。
- 奈良華族(26家) - 奈良興福寺に入っていた公家の分家で維新後還俗して朝廷に仕えた者たち。彼らはいったん終身華族になった後、永世華族になった。公卿華族は一般に貧しい家が多かったが、その分家の奈良華族はさらに貧しいことが多く貧乏華族で知られた[33]。具体的な家々は(奈良華族#奈良華族(26家))参照。
- 神職・僧侶華族(20家) - 由緒ある神社の社家や浄土真宗の門跡寺院もしくは准門跡寺院の住職を世襲する僧家が華族に列した。浄土真宗以外にも門跡寺院はあったが、真宗のみが華族となったのは真宗のみ住職を世襲制でやっていたからである。華族とは世襲の地位なので一代かぎりの住職は華族にはできなかった[34]。まず社家の方は(北島家)(出雲大社神職)、(千家家)(同神職)、津守家(住吉大社神職)、阿蘇家(阿蘇神社神職)、到津家(宇佐神宮神職)、(宮成家)(同神職)、河辺博長家(伊勢神宮神職)、(松木家)(同神職)、(紀家)(日前・国懸両神宮神職)、千秋家(熱田神宮神職)、高千穂家(英彦山神職)、小野家(日御碕神社神職)、金子家(物部神社神職)、西高辻家(太宰府天満宮神職)の14家である。浄土真宗の方は東本願寺と西本願寺の両大谷家、渋谷家(浄土真宗渋谷派総本山仏光寺住職)、(華園家)(浄土真宗興正派総本山興正寺住職)、常盤井家(浄土真宗高田派総本山専修寺住職)、木辺家(浄土真宗木辺派総本山錦織寺住職)の6家である[34]。
- 分家華族(17家) - 有力な公卿・諸侯の分家はこの時期から華族に列せられはじめている。北畠家(久我家分家)、玉里島津家(島津家分家)、長岡家(細川家分家)、池田勝吉家(岡山池田家分家)、山内豊尹家(山内家分家)、小早川家(毛利家分家)、中御門経隆家(中御門家分家)、(酒井忠積家)および酒井忠惇家(姫路酒井家分家)、前田利武家(前田家分家)、三条公美家(三条家分家)、(万里小路正秀家)(万里小路家分家)、徳川厚家(徳川宗家分家)、(岩倉具徳家)(岩倉家分家)、(坊城俊延家)(坊城家分家)、(鷲尾隆順家)(鷲尾家分家)、伊達宗敦家(仙台伊達家分家)がある[35]。
- 忠臣華族(3家) - 南北朝時代の南朝方の忠臣の子孫にあたる家がこの時期から華族に列せられるようになった。この時期に列せられたのは新田家(新田義貞子孫)、菊池家(菊池武時子孫)、名和家(名和長年子孫)の3家である[36]。(五条家)(五条頼元子孫)と南部家(南部師行子孫)は明治30年になって華族に列せられている[37]。
- 地下家(2家)- 壬生家と押小路家の2家。地下家は原則として士族だったが、この2家は他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「官務、大外記」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列した[38]。
- 勲功華族(3家) - 華族令施行後の叙爵内規で各爵位に勲功による登用規定が設けられた後には勲功華族は数多く任命されていくが、この時期には極めて少なく、(大久保家)(大久保利通子利和)、木戸家(木戸孝允養子正二郎)、(廣澤家)(廣澤真臣子金次郎)の3家のみである。いずれも父(養父)が維新の勲功者で政府の要職を務めて高い位階を所持していたが、勲功者当人がすでに死んでいたことが特例的な叙爵を受けた理由である。この3家が華族に叙されたことは家柄に依らず勲功のみでも華族に叙され得る先例になったという点で華族の門戸を大きく開くものとなった[39][40]。
- 清水徳川家 - 明治初年に際して戸主不在だったため御三卿で唯一維新立藩できず、「華族第1号」になり損ねていたが、明治3年2月に水戸家の篤守が養子に入ることで再興されたため、大名だったことはないものの特例で華族に列した。同家は明治前期に清水に改姓していたが、明治20年に徳川に再改姓した[41]。
- 第二尚氏 - 旧琉球王室。明治5年9月14日に尚泰が琉球藩王に任じられた際に華族に列している[41]。
- (本多副元家) - 本多副元の家は旧福井藩主越前松平家の付家老だった。御三家の付家老は「華族第1号」になっていたが、本多家は(おそらく越前松平の家格の問題で)「華族第1号」になれず、士族となっていた。不満に思った副元はたびたび華族取り立て運動をおこし、明治11年時の東京府知事への請願が認められて華族に列した[42]。
逆に「華族第1号」だったが、この間に華族でなくなった家として次の2家がある。
五爵制度下の華族(1884年-1947年)
華族令施行
明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行され、華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5階級にランク付けされる五爵制になった[7]。五爵は古代中国の官制に由来し、五経のひとつ『礼記』の王制編の冒頭には「王者之制禄爵、公侯伯子男、凡五等」とあり、『孟子』にも周代の爵禄について「公侯伯子男」の別があるとされている[45]。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる[45]。また華族令制定によって一代限りの終身華族は廃止され、世襲制の永世華族のみとなった[3]。
1884年(明治17年)7月7日と7月8日にかけて最初の叙爵が行われた。7日に117家(主に伯爵以上)、8日に387家(主に子爵以下)、総数で504家に叙爵があり[3]、公爵家11家、侯爵家24家、伯爵家73家、子爵家322家、男爵家74家が誕生した[46][47]。
叙爵内規の爵位基準
叙爵の基準は『叙爵内規』によって定められていた[48]。
公爵
最上位の公爵の基準について叙爵内規は「親王諸王より臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家に偉勲ある者」と定めていた[48]。
「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時には明確な定義がなかった[49]。当初は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際にはその該当者は維新の功をもって皇族に列していたので(これにより皇族は4家から15家に急増した)、華族令制定当時において「親王諸王」から華族に列した者というのは存在しなかった[49]。後に臣籍降下で華族となる皇族の例は増えてくるが、これは1907年(明治40年)2月11日制定の皇室典範増補第1条「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」の規定に基づくものであり、これによる臣籍降下で公爵になった者はおらず、侯爵か伯爵だった[49]。
「旧摂家」とは摂政・関白まで昇進する資格を持っていた公卿の中の最上位の家格であり、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の5家が該当する[50]。
「徳川宗家」は旧将軍家、旧静岡藩主家だった徳川宗家のことである。武家華族の中では唯一偉功なくして公爵家と定められていた[51]。
「国家に偉勲ある者」は、勲功による登用の規定である。他の爵位も勲功による登用の規定があるが、侯爵以下が「国家に勲功ある者」となっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求されている。明治17年の最初の叙爵において公爵に叙された勲功華族は、三条家(三条実美の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧清華家として侯爵[52])、島津家(島津忠義の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵[52])、毛利家(毛利敬親・元徳の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵[52])、岩倉家(岩倉具視の功績。家格のみでの内規上の爵位は大納言直任の例のない旧堂上家として子爵[52])、玉里島津家(島津久光の功績。家格のみでの内規上の爵位は明治以降の華族分家として男爵[53])の5家である。
侯爵
第二位の侯爵の基準について叙爵内規は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩知事即ち現米拾五万石以上、旧琉球藩王、国家に勲功ある者」と定めていた[48]。
「旧清華家」とは摂家に次ぎ太政大臣まで登る旧公卿の家格で9家存在したが、そのうち三条家は公爵となったので、それ以外の大炊御門家、花山院家、菊亭家、久我家、西園寺家(後に公爵)、醍醐家、徳大寺家(後に公爵)、広幡家の8家が侯爵に列した[46]。
「徳川旧三家」とは徳川宗家の支流で大名でもあった尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家(後に公爵)の三家である。
「旧大藩知事」とは現米(現高)15万石以上として大藩に分類された藩の藩知事だった旧大名家。15万石の基準は表高や内高(実高)といった藩内の米穀の総生産量ではなく、藩の税収を指す現米である点に注意を要する[54]。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。明治2年時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである[55]。
現米15万石以上だった旧大藩大名のうち旧薩摩藩主の島津家、旧長州藩主の毛利家は公爵に列せられたので、それ以外の浅野家(広島藩)、池田家(岡山藩と鳥取藩)、黒田家(福岡藩)、佐竹家(秋田藩)、鍋島家(佐賀藩)、蜂須賀家(徳島藩)、細川家(熊本藩)、前田家(加賀藩)、山内家(土佐藩)が侯爵に列せられた[56]。
「旧琉球藩王」とは旧琉球王国国王、旧琉球藩王だった尚家のことである。
「国家に勲功ある者」は功績による登用の規定である。大久保利通の(大久保家)と木戸孝允の木戸家、中山忠能の中山家が明治17年の最初の叙爵で侯爵となった。前述のとおり大久保家と木戸家は勲功華族が規定された華族令制定前から華族となっていた家である。なお大久保利通、木戸孝允と並ぶ維新三傑の一人である西郷隆盛の西郷家は西南戦争により当初叙爵がなかったが、西郷隆盛赦免後の1902年にただちに侯爵位を与えられるという大久保家・木戸家と同様の扱いを受けた[57]。中山家は公家の羽林家だった家だが、中山忠能の勲功により家格(家格のみの基準では伯爵)より高い侯爵位を授けられた。同家の爵位が上げられたのは忠能が明治天皇の外祖父にあたることが影響したとみられる[58]。
伯爵
第三位の伯爵の基準について叙爵内規は「大納言迄宣任の例多き旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即ち現米五万石以上 国家に勲功ある者」と定められている[48]。
「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とは、摂家と清華家を除く旧堂上家のうち、歴代当主の中に大納言に直任されたことがある当主がある旧公家華族のことである。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、いったん中納言を辞してから大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた[59]。具体的に叙された家については(伯爵#旧公家の伯爵家)参照。
「徳川旧三卿」とは江戸時代中期以降にできた新たな徳川家支流の田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家(後に爵位返上、さらに後に男爵)の3家を指す。
「旧中藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石以上15万石未満で中藩に分類された藩の藩知事だった家である[60]。具体的に叙された家については(伯爵#旧大名家の伯爵家)参照。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では旧公家華族からの勲功登用として東久世家が東久世通禧の維新の功により伯爵に叙された(家格のみでの内規上の爵位は子爵)。華族令制定前から華族となっていた(廣澤家)は伯爵に列せられた。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から大山巌、川村純義、黒田清隆、西郷従道、寺島宗則、松方正義の6名、旧長州藩士から伊藤博文、井上薫、山縣有朋、山田顕義の4名、旧土佐藩士から佐佐木高行、旧肥前藩士から大木喬任が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより伯爵に叙されている[61]。うち伊藤家(→侯爵→公爵)、井上家(→侯爵)、大山家(→侯爵→公爵)、西郷従道家(→侯爵)、佐佐木家(→侯爵)、山縣家(→侯爵→公爵)、松方家(→侯爵→公爵)は日清・日露戦争において勲功を重ねて陞爵した[62]。
子爵
第四位の子爵の基準は「一新前家を起したる旧堂上 旧小藩知事即ち現米五万石未満及び一新前旧諸侯たりし家 国家に勲功ある者」と定められている[48]。
「一新前家を起したる旧堂上」とは、伯爵以上の基準(摂家、清華家、大納言宣任の例多き堂上家)に当てはまらない旧公家華族全家である。
「旧小藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石未満で小藩に分類された藩の藩知事だった家である[63]。旧小藩知事の定義の後半にある「一新前旧諸侯たりし家」は、表高が1万石に達していなかったが諸侯扱いになっていた足利家(旧喜連川藩主喜連川家)を入れるために付けられていた表現である[63]。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から伊東祐麿、樺山資紀、高島鞆之助、仁礼景範、野津道貫の5名、旧長州藩士から鳥尾小弥太、三浦梧楼、三好重臣の3名、旧土佐藩士から谷干城、福岡孝弟の2名、旧肥前藩士から中牟田倉之助、旧筑後藩士から曾我祐準が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより子爵に叙されている[64]。
男爵
最下位である第五位の男爵の基準は「一新後華族に列せられたる者 国家に勲功ある者」と定められている[48]。
「一新後華族に列せられたる者」の「一新」の基点は慶応3年12月9日の王政復古ではなく、10月15日の大政奉還である[16]。したがって先述した「華族第1号」のうち大政奉還から明治2年の華族制度創設の間に公卿・諸侯に列した家、および「華族第2号」で紹介した家は原則として男爵となった[65]。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では勲功華族は子爵以上になっており、男爵はなかったが[64]、後世には勲功華族は原則として男爵スタートだった[66]。特に日清日露以降に急増することになる爵位である[66]。
叙爵内規に基づかない例外的な叙爵
1884年(明治17年)7月7日と7月8日の最初の叙爵にあたって叙爵内規の基準は厳格に守られたが、松浦家(旧平戸藩主)と宗家(旧対馬藩)の2家については例外的な扱いとなった。両家とも現米5万石未満の旧小藩知事であり、本来なら子爵であるところ伯爵になっている。すべての爵位には勲功の規定があるので勲功があるのであれば家格以上の爵位が与えられていても問題はないが、この両家についていえばそれほどの勲功があったと考えるのは無理があることから叙爵内規に基づかない特例処置だったと見られている[60]。次の事情が考えられている。
- 松浦家の場合 - 当時の当主松浦詮が明治天皇の又従兄弟にあたるため(詮の曽祖父の松浦藩主松浦清の娘愛子は公家中山忠能に嫁いでおり、明治天皇国母中山慶子を生んだ)、子爵では低すぎると判断されたと思われる。しかし原則として叙爵内規に例外は設けないことになっていたので、松浦家の伯爵叙爵にあたっては三条実美が理屈を考え出している。平戸藩は先述の明治2年の現米申告の時、支藩の植松藩の物と合わせて現米5万1021石と申告していたが、政府に認められず、改めて植松藩の物を抜いた現米4万6410石をもって小藩に分類されていた。しかしその後の明治3年9月2日に植松藩は平戸藩に吸収されて廃藩になった。大中小藩の分類が設けられたのはその直後の9月10日であった。三条はこの時事系列に目をつけ、大中小藩に分けられた時点では平戸藩は中藩だったとして松浦家は叙爵内規に照らして伯爵相当になるとしたのである(しかし先述のとおり叙爵内規の現米とは元治元年から明治元年までの5年間の平均の現米であり、しかも植松藩主松浦家の方も本家と別に華族となり子爵に叙されているため、この説明では矛盾していた)[67]。
- 宗家の場合 - 宗家は江戸時代に対馬藩主だった家で李氏朝鮮との外交を任されており、その関係で国主格という石高不相応の高い家格が与えられていた。しかし叙爵内規においては国主か否かは関係ないので、宗家は旧対馬藩の現米3万5413石に基づき旧小藩知事として子爵になるべきだったが、伯爵に叙された。こちらには松浦家の場合のような合理的な理由付けすら確認できず理由は不明だが、やはり国主格だったことが関係しているのではないかと推測されている。宗家以外の旧国主大名はすべて伯爵以上になっているため、宗家だけを子爵としてしまうと宗家から不満が出そうであったため、特例措置で伯爵にしたのではないかという推測である[68](現に宗家では本来もらえない伯爵位すら不満があったらしく、旧国主であることを理由に侯爵位を要求する請願書を三条実美に提出している[69])。
爵位をめぐる様々な案
華族の等級をめぐっては華族令制定前に様々な案が存在した。華族の中に等級を作る案自体は、明治2年6月に華族制度が創設される前から存在した。同年5月の版籍奉還決議上奏には九等の爵位案が出されている。これは公、卿、大夫、士に四分し、さらに卿を上下、大夫と士を上中下に分けるものだった[70]。
明治4年9月2日、最高官庁の正院から左院に発せられた下問に上公、公、亜公、上卿、卿の五等案があり、さらに10月14日には左院がこの案を改めて、公、卿、士の三等案を提出している[70]。この三等案が引き継がれる形で1876年(明治9年)に法制局が提出した「爵号取調書」には公、伯、士の三爵案が出ている[70]。
ついで1878年(明治11年)2月14日に法制局大書記官尾崎三郎と同少書記官桜井能監が岩倉具視や伊藤博文に爵位令草案を提出しており、ここで初めて公侯伯子男の五爵制が出てくる[45]。宮内省のお雇い外国人だったオットマール・フォン・モールが著した『ドイツ貴族の明治宮廷記』によれば、彼が西欧の「大公」の爵位の導入を提案したのに対し、日本人は拒んだという記述がみられる[7]。
また各華族家の爵位のランク付け基準をめぐっても様々な案が存在していた。
『(三条文書)』に収められている明治16年頃作成の案である『叙爵基準』は最終的な『叙爵内規』とは様々な違いが見られる。大きな違いとしては、旧琉球藩王が公爵に入っていること(叙爵内規では侯爵)、旧公家華族からの侯爵は清華家と並んで大臣家も入っていること(叙爵内規では大臣家は平堂上と区別されず)、平堂上の公卿華族については大納言に昇る家か、中納言もしくは三位以上に昇る家か、四位以上に上る家かで伯爵、子爵、男爵に分けていること(叙爵内規では大納言直任があるか否かで伯爵か子爵に分けている)、旧武家華族については旧国主が侯爵、現高10万石以上の旧中藩知事が伯爵、現高10万石未満の旧小藩知事が子爵と分けていること(叙爵内規では国主か否かは関係なく、現高15万石以上が侯爵、5万石以上が伯爵、5万石未満が子爵)などがあげられる[71]。『叙爵基準』以外の案でも公家華族は細かく定められている物が多く、細かい位階や官職をランク分けの基準に持ち込んだり、「本家筋」という概念を立てている物まである[72]。
早稲田大学中央図書館所蔵の『爵位発行順序』案(明治15年、明治16年頃)では、爵位の最下位、つまり男爵に該当する爵に叙されるべき家として、武家側では高家や交代寄合、各藩における万石以上陪臣家、公家側では堂上公家に準じる扱いだった六位蔵人や伏見宮殿上人(若江家)などの諸家が挙げられているが、最終的な叙爵内規からはこれらの家は一律削除されている[40]。
爵位制度の概要
爵位の受爵・襲爵の条件としてまず第一に皇室と国家に忠誠を誓う必要があった。叙爵に際しては「長く皇室の尊厳を扶翼せんことを誓う」という誓書を賢所に捧げることが求められ、襲爵に際しては宮内省からその誓書の写しが送られた[73]。
また爵位は華族となった家の男性戸主のみが得られ、女性戸主は爵位を得られなかった。これは華族令3条「女子は爵を襲くことを得ず」の規定による[74]。華族令公布時に戸主が女性だったために爵位が得られなかった華族家に七条家(旧公家)、錦小路家(旧公家)、小松家(奈良華族)、板倉家(旧安中藩主家)、稲垣家(旧山上藩主家)、酒井家(旧姫路藩主家)、牧野家(旧三根山藩主家)、松浦家(旧植松藩主家)の8家があった。ただし続けて「女戸主の華族は将来相続の男子を定めるときに於て、親戚中同族の者の連署を以て宮内卿を経由し授爵を請願すべし」とも規定されていたため、戸主が男子に代わると爵位がもらえた[74]。錦小路家は実に明治31年まで女性戸主だったが、同年に女戸主が養子在明に代わるや子爵位を与えられている。爵位をもらう権利に時効はなかったということである[74]。
明治40年(1907年)の華族令改正で華族が女戸主をたてることはできなくなり、女戸主にした場合は華族の地位は返上したものとして取り扱われることになった(華族の地位にこだわらないなら女性を戸主にすること自体には特に問題ない)。この改正の理由として「女戸主は皇室の屏翰たるの実を挙げしむるに不適当なること」「女戸主を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念をばく(しんにょう+貌)視することになること」「入夫・養子襲爵を請願せしむと云うのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以て誤魔化そうとするものであること」「女戸主を認むるとせば無爵の華族あることを許すことになること」などが挙げられている[73]。
また養子に爵位を継がせる場合は「男系六親等内の親族」「本家又は同家の家族もしくは分家の戸主または家族」「華族の族称を享くるもの」といった条件が存在し、該当しない者を養子とした場合は原則として宮内大臣から襲爵の許可は得られなかったので、爵位は放棄せざるをえなかった[75]。
戸主でない者が叙爵した場合は一家を創設して戸主になる必要があった。これは所属していた家における遺産相続の際に不利になる可能性もあった[76]。
勲功をあげると
爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。
英語呼称
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。
華族取立に関する問題
華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い[77]。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた[78]。
特権
司法
華族や勅任官・奏任官は1877年(明治10年)の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月司法省丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は1886年(明治19年)の華族世襲財産法により公告の手続によって世襲財産を認められ得た。
特権
その他、宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている[79]。
- 爵の世襲(華族令第9条)[80]
- 家範[注釈 2]の制定(華族令第8条)
- 叙位[注釈 3](叙位条例、華族叙位内則)
- (爵服)の着用許可(宮内省達)
- 世襲財産の設定(華族世襲財産法)[80]
- 貴族院の構成(大日本帝国憲法・貴族院令)[80]
- 特権審議(貴族院令第8条)
- 貴族院令改正の審議(貴族院令第13条)
- 皇族・王公族との通婚(旧皇室典範・皇室親族令)
- 皇族服喪の対象(皇室服喪令)
- 学習院への入学(華族就学規則)
- 宮中席次の保有(宮中席次令・皇室儀制令)
- 旧・堂上華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)
財産
1886年(明治19年)に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、1915年(大正4年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は、旧堂上華族保護資金令[注釈 4]により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。
教育
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。
貴族院議員
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。
皇族・王公族との関係
同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者[注釈 5]に限定された(1918年(大正7年)の旧皇室典範の増補により皇族女子は王族または公族に嫁し得ることが規定された)。
また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。
身分
爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された[注釈 6]。しかし女戸主は1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている[81]。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった[82]。
華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた[83]。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった[84]。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。
華族身分の剥奪・返上
奈良華族などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家(土方与志)の例(スキャンダルは治安維持法関連だが、没収時はソ連にいたため逮捕はされず。)などは華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。
統制
華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。
自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。
批判
華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇と臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷や小野梓元老院書記官が反対の論陣を張り、『朝野新聞』紙上で激しい論戦が繰り広げられた。『朝野新聞』は1880年(明治13年)に「華族廃すべし」と題した論説を掲載している。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。
板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、1887年(明治20年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに結局は爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。また、1907年(明治40年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、息子鉾太郎に遺言して襲爵手続きも行わせなかったため、(板垣伯爵家)は廃絶した。部落解放運動家の松本治一郎は広田内閣当時に衆議院議員として「不当にたてまつられる華族の存在こそは部落民が不当にさげすまれる原因であり華族制度を廃止すべきと思うがどうか」と質問した。
実際
財政
華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。
一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。
華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、1927年(昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。
スキャンダル
華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。
進路
制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。
貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した[85]。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。しかしこのことで、同爵間の議席のたらい回しが横行したり、水野直のように各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した[86]。
陸軍士官学校には明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))、華族子弟のための特別な予科(予備生徒隊)が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。大名・公家華族出身の有名な軍人としては、陸軍では前田利為や町尻量基や山内豊秋、海軍では醍醐忠重や小笠原長生らがいる。軍人華族はのちに、戦功により叙爵された職業軍人(とその子弟)が主となった。
進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかであったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。
学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川生物学研究所や林政史研究室(のちの徳川林政史研究所)を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・巌の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。
珍しい進路に進んだ例としては、映画の小笠原明峰(本名・長隆、小笠原長生子爵嫡男)と章二郎(同・長英、次男)の兄弟、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。小笠原明峰は映画界に入ったことで廃嫡となり、土方はソ連での反体制的言動により爵位剥奪となった。
革新華族
昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄・樺山愛輔・徳川義親などが知られる。
廃止
1947年(昭和22年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。
当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は堂上華族だけでも存置したい意向であり、幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している[87]。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており[注釈 7]、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われたが、岩田宙造司法大臣から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された[87]。結局、華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。
小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、2021年(令和3年)現在も旧・華族の親睦の中心となっている。
脚注
注釈
- ^ 清水徳川家で初め徳川篤守が伯爵、次代の徳川好敏が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、家督を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。
- ^ 華族の一族内に限って通用する法規
- ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
- ^ これは、題名が「旧堂上華族保護資金令」であり「堂上華族保護資金令」が廃止されたため「旧」を付しているのではない。明治45年皇室令第3号。
- ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第2皇子の雍仁親王(秩父宮)が松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵会津松平家の当主は恒雄の兄の容大、その跡を恒雄の弟の保男が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。
- ^ 姫路藩主酒井家で、酒井文子が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた忠興が同時に伯爵を授爵している。
- ^ 白洲次郎の各種述懐による。
出典
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参考文献
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- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- 小林和幸「第一三帝国議会貴族院諮詢の「華族令」改正問題について(小名康之教授・松尾精文教授退任記念号)」『青山史学』第31号、青山学院大学文学部史学研究室、2013年、63 - 78頁、ISSN 0389-8407、NAID 120005433833。
- (内藤一成)『貴族院』同成社〈同成社近現代史叢書〉、2008年(平成20年)。ISBN (978-4886214188)。
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- 香川敬三(總閲) 編『岩倉公實記. 上卷』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781063。
- 多田好問 編『岩倉公実記. 下巻 1』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781064。
- 多田好問 編『岩倉公実記. 下巻 2』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781065。
- (松田敬之)『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN (978-4642014724)。
主な関連書籍
- 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年(平成11年)/中公文庫、2007年(平成19年) (ISBN 4-12-204835-4)
- 小田部雄次『華族-近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社[中公新書]、2006年(平成18年) (ISBN 4-12-101836-2)
- 小田部雄次『華族家の女性たち』小学館、2007年(平成19年)、(ISBN 4-09-387710-6)
- 千田稔『華族事件録 明治・大正・昭和』 新人物往来社、2002年(平成14年) (ISBN 4-404-02976-4)
- 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年(平成21年) (ISBN 4-06-288001-6)
- 保阪正康『華族たちの昭和史』毎日新聞社、2008年(平成20年) (ISBN 4-620-31918-X)
- 『華族のすべてがわかる本 明治・大正・昭和』新人物往来社、2009年(平成21年)、(ISBN 4-404-03728-7)
- 「歴史読本」編集部 編『日本の華族』新人物往来社[新人物文庫]、2010年(平成22年) (ISBN 4-404-03922-0)
- 『皇族・華族古写真帖』新人物往来社、2003年(平成15年)、(ISBN 4-404-03150-5)
- 酒井美意子『ある華族の昭和史-上流社会の明暗を見た女の記録』主婦と生活社、1982年(昭和57年)
- 『大久保利謙歴史著作集3 華族制の創出』吉川弘文館、1993年(平成5年)
- 森岡清美『華族社会の「家」戦略』吉川弘文館、2001年(平成13年) (ISBN 4-642-03738-1)、上記2冊は大著研究
- 華族史料研究会 編『華族令嬢たちの大正・昭和』吉川弘文館、2011年(平成23年) (ISBN 4-642-08054-6)
- 歴史読本2013年10月号「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本編集部