尾張林氏
- 定説では河野氏一族の(河野通広)が美濃国に定着したというが疑わしい。実際は稲葉氏の一族であり、(稲葉通村)の代に、姓を「林」と改めたという。
- 戦国時代に織田信長に重臣として仕えた林秀貞が有名。しかし秀貞は1580年に追放されてしまい、林氏は没落した。子孫は藩士となって尾張藩に仕えた。
- 子孫については、その後九州の黒田藩(現在の福岡県福岡市)に仕え、そこで家老の職に就いていたとのこと。
- また、(林政秀)の子の正成が稲葉重通の養子となり、稲葉正成として稲葉氏家督を継ぐなどの密接な関係が見られる。
- 林通政の弟(林通起)の子孫の林十蔵が伊藤博文の父であると言われている。
周防林氏
博文自身の語るところ[1]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父(林助左衛門)は、林家の本家(林利八郎)の養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する(伊藤弥右衛門)の養子となり、(伊藤直右衛門)と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[2]」という。伊藤十蔵の長男が、伊藤博文公爵である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ。
仙台藩士越智姓林氏
『角川日本姓氏歴史人物大辞典4 宮城県姓氏家系大辞典』に、平士150石の仙台藩士に越智宿禰で稲葉氏一族の四門氏を祖とする林氏がある。(稲葉通富)の子である(林通兼)の子の(林新左衛門通安)の数世孫の(四門四郎兵衛)を祖とする。
四門四郎兵衛は堀秀政の堀氏に仕え、慶長年間に近江国岡村に住んで岡村氏を称する。子孫は福島正則の家臣になった後に江戸幕府幕臣となるが、正徳5年(1715年)に浪人となった。その後幸運にも幕府に召抱えられ書物奉行(620石)となったが(岡村良通。召抱えられた時期は不明)、謹厳実直で上司とあわず1741年に職を辞し浪人になった。良通にはさる大名家で3千石の家老職を勤めていた兄がおり子供を預けようと訪れたが、主君に諫言死した後だったため、結局葬儀で会った弟の林従吾道明に子供を預けた(道明が林姓に復姓した時期は不明)。
道明は開業医であったが後に仙台藩医となり、良通の娘で道明の姪である「なほ」が仙台藩に奉公に上がる。なほは伊達宗村に見初められの側室となり、その影響により弟の(林友諒)が仙台藩士となり、以後続いていく(なほは宗村死後出家し円智院となる)。林友諒の弟の林子平は寛政の三奇人の一人として知られる(子平も部屋住みから仙台藩士に取り立てられたが、自らの献策が取り上げられないのを嘆き自ら部屋住みに戻った)。
三河林氏
林氏 (三河林氏) | |
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本姓 | 清和源氏義光流小笠原支流 |
家祖 | (林政家) |
種別 | 武家 華族(男爵) |
出身地 | 信濃国 |
主な根拠地 | 信濃国林村 上総国望陀郡請西村 東京都 |
著名な人物 | 林忠英、林忠崇 |
(凡例) / (Category:日本の氏族) |
甲斐源氏・小笠原氏の傍系であり、松平親氏の頃より松平氏(徳川氏)に仕えたとされる譜代家臣。 信濃林城を築いた府中小笠原家の小笠原清宗の次男の林光政を始祖とする。
江戸時代後期までは代々旗本であったが文政8年(1825年)、11代将軍徳川家斉の寵臣であった林忠英の代に貝淵藩1万8千石の大名に列せられた。子の忠旭の代に1万石に減らされ、陣屋を移し請西藩となる。
幕末、請西藩第3代(通算で4代)忠崇は、藩主であるにもかかわらず自ら脱藩し、藩士を率いて旧幕府軍として戊辰戦争に参戦、その責任を取られ請西藩は明治元年(1868年)に明治新政府により取り潰しとなった。しかし、明治26年(1893年)に赦され、忠崇は無爵華族に、嫡男(忠弘)は男爵に叙されている。なお、林忠崇は昭和16年(1941年)まで存命しており、「最後の大名」とも呼ばれた。
結果論であり、伝承に拠ることになるが、徳川氏の始祖から、徳川幕府の最後まで、林家は徳川の臣として仕えたことになる。
加賀林氏
林家
林家は、京都の町人であった林信時の子である林羅山(本名:林信勝)を祖とする朱子学派儒学者一門。「りんけ」と呼び習わされてはいるが、名字は「はやし」である。
羅山以降、一族は江戸幕府に儒官として仕え、3代林鳳岡からは代々大学頭を世襲した。しかし7代林信敬には嗣子がなく、岩村藩主松平乗薀の子の松平乗衡が養子となり、8代林述斎として林大学頭を継いだ。
系図
(斎藤宗助) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(林貞宗)1 | (富樫家国) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(貞光)2 | (利波豊久) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(光家)3 | (成家) | 女 | (石黒光久) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(光明)4 | (大桑利光) | (豊田光成) | (松任範光) | (板津成景) | (倉光成澄) | (宮永国員) | (光興) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(光平)5 | (安田惟光) | (山上光隆) | (横江基光) | (近岡利明) | (石黒氏) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(光在)6 | (林家朝) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(光起)7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(兼光)8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(則兼)9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(正兼)10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(正光)11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(兼松正輝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ 1909年(明治42年)松山での講演会での発言。
- ^ 『海南新聞』明治42年(1909年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。
- ^ (伊藤直右衛門)の養子。
- ^ 長州藩士・(井上光遠)の四男、井上馨の甥。
- ^ (石井竹二三)の子。
- ^ 府中小笠原氏・小笠原清宗の子。
- ^ 元帝京大学教授
- ^ 旧姓:高麗氏
- ^ 旧姓:富田氏
- ^ 美濃岩国藩主・松平〈大給〉乗薀の三男。
- ^ 旧姓:(山高氏)