廣幡家(ひろはたけ、新字体:広幡)は、(正親町源氏)嫡流の公家・華族の家。公家としての家格は清華家、華族としての家格は侯爵家[1]。家紋は十六葉裏菊。
歴史
江戸時代前期、正親町天皇の皇孫で陽光院太上天皇誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王の三男忠幸王は、慶安2年(1649年)に尾張藩主徳川義直の長女・京姫と結婚して義直の猶子となり名古屋城で暮らしていたが、万治3年(1660年)に帰洛して公家となることを願い出、寛文4年(1663年)に霊元天皇より源姓を下賜されて臣籍に下り、「廣幡」の家号が与えられた[2]。この廣幡忠幸に発する源氏は(正親町源氏)と呼ばれる[2]。
廣幡家の公家としての家格は清華家(新家、内々)[3]。家禄は500石[3][注釈 1]。江戸時代の家臣に諸大夫として渡邊家、上田家、岸本家、森家、侍として葛西家、太田家、毛利家などがある[3]。廣幡家の菩提寺は八条宮家(桂宮家)と同じ相国寺[3]塔頭の慈照院。
初代の忠幸には女子しかなかったので、2代当主には村上源氏の久我家から養子豊忠が迎えられた[2]。歴代当主には豊忠、前豊、経豊など内大臣まで昇る者が多く、朝廷内で重きをなした。明治維新までに出した公卿の数は8名。うち内大臣まで昇った者5名、大納言まで昇った者3名である。
幕末維新期の当主忠礼は議奏および国事御用掛、内大臣などを歴任し、尊王攘夷派の公卿として活躍[4]。維新後には華族に列し、明治17年(1884年)7月7日、華族令施行により華族が五爵制になったのに伴い、忠礼は旧清華家として侯爵に叙せられた[5]。
その子である2代侯爵忠朝は侍従を務めた[6]。忠朝の子である3代侯爵忠隆は逓信省に入って灯台局長・管船局長・高等海員審判所長を歴任し、昭和7年(1932年)宮中に入り皇后宮大夫兼侍従次長を務めた[7]。また歴代当主は侯爵として貴族院議員を務めた[7]。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
- (*廣幡家における通字は「忠」(ただ)。4代前豊から8代忠礼までは代々五摂家のひとつ近衛家の猶子となって偏諱を賜っており、4代前豊・6代経豊・7代基豊の3名は、2代豊忠の「豊」(とよ)も使用している。)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 広幡家 ひろはたけ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、5122頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。(全国書誌番号):(47004572) 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- 倉本一宏『公家源氏―王権を支えた名族』中央公論新社〈中公新書2573〉、2019年12月。ISBN (978-4121025739)。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN (978-4820540342)。
系譜参考
- - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分)