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興正寺

興正寺(こうしょうじ)は、京都市下京区花園町にある真宗興正派本山寺院山号は円頓山(えんとんざん)。本尊阿弥陀如来西本願寺の南隣に位置する。かつて西本願寺の脇門跡であったが、1876年明治9年)に真宗興正派として独立した際に同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。

興正寺
所在地 京都府京都市下京区堀川七条上ル花園町70
位置 北緯34度59分23.28秒 東経135度45分7.26秒 / 北緯34.9898000度 東経135.7520167度 / 34.9898000; 135.7520167
山号 円頓山(圓頓山)
院号 華園院
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗興正派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 建暦2年(1212年
開山 伝・親鸞
了源
中興 本寂(『真宗法脈史』)
正式名 圓頓山華園院興正寺
公式サイト 本山興正寺
法人番号 9130005001071
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歴史

承元元年(1205年専修念仏は禁止され、浄土真宗の宗祖である親鸞越後国に配流されたが、建暦元年(1211年)に赦免された。

寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建した。そして、親鸞はこの寺を弟子の真仏上人(第2世)にまかせると、阿弥陀仏の本願を広めるために関東行化に旅立ったとされている。その後、順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これにより寺号を「興正寺」とし、真宗念仏宣布の根本法城としたという。しかし、真仏は親鸞が関東教化に遊行した際に下野国(現・栃木県)に建てた専修寺(現・本寺専修寺)を任されるなど、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには根拠が乏しく、一般的には越後より直接関東へ旅立ったとする説が有力である。

興正寺の寺伝では、第7世了源によって事実上創建されたとみなされるが、実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を元亨元年(1321年)頃に、了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかといわれている。了源は元々大仏家の家臣に仕えていた中間の出身で関東の荒木門徒に属していたとされ、前述の親鸞の京都帰還説も同門徒が主張していた説とみられることから、彼が京都帰還後の親鸞が西洞院の住房にいたと考え、山科の地に同房を移転・復興させたとする考えを持っていたとする見方もある[1]

嘉暦3年(1328年)前後、了源は教化活動の拠点を旧仏教の盛んな地に移すべく、寺基を洛東の汁谷(渋谷、しるたに・しぶたに、現・京都国立博物館周辺)に移し、光明本尊・絵系図・名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れた。この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜っている。この寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込んでくるという夢を見、その光が発せられた場所から興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきた、という霊験に由来している。また、これを縁に山科より洛東渋谷に寺基を移したともいわれる。

一説に、「興正寺」は聖徳太子が作ったとされていた「廟窟偈」の一節から了源が本願寺第3世覚如の許しを得て命名したものの、了源が覚如から義絶された長男の存覚を庇護したことで覚如と決別した際に、本願寺から与えられた体裁を取っていた「興正寺」の寺号が使えなくなったために、光明本尊にちなんだ「佛光寺」の名を存覚の許しを得る形で命名したとされる話もある。後年、本願寺に帰属した佛光寺の人々が興正寺の名称を復活させたのも、この名称が本願寺から与えられたものであったからとされるものである[1]

その後、佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失した。

文明13年(1481年)、第14世経豪が教線を拡大させていた本願寺第8世蓮如に帰依してしまうという事件が起きた。経豪は蓮教と法名を改め、山科郷西野にある山科本願寺に隣接する地に新たに「興正寺」として寺院を創建し、佛光寺の有力末寺48坊のうちの42坊と共に本願寺派に帰属した。残された佛光寺は蓮教の弟の経誉が継ぐが、急激に衰えた佛光寺派の寺勢は如何ともしがたかった。

蓮教は蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、天文元年(1532年)8月、山科本願寺の戦いで山科本願寺と共に兵火にかかって興正寺は焼失した。

永禄12年(1569年)、興正寺に本願寺第11世顕如の次男顕尊が入寺し、大坂本願寺脇門跡に任ぜられる。この後、興正寺は本願寺と共に織田信長石山合戦を戦うこととなった。

天正13年(1585年)第15世蓮秀は幸いにつつがなきをえた真影を供奉して、大坂天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に法燈をかかげた。

天正19年(1591年)第17世顕尊の時に豊臣秀吉による都市計画の一環で、七条堀川にある時宗市屋派本寺の金光寺を移転させて、そこに本願寺と共に寺基を移した。

このように蓮教以来、興正寺は本願寺と行を共にしていたが、1876年明治9年)、第27世本寂関白鷹司政通の次男、華園摂信)は興隆正法の実を挙げるべく真宗興正派として独立し、東山に親鸞聖人の廟所である霊山本廟を建立した。ただし、本願寺派に残留した興正寺末寺も少なくなかった。本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の三門と共に、日本三建築の一つと称せられた「一つ御堂」と呼ばれる壮大華麗な本堂であったが、1902年(明治35年)11月、不慮の火災により本堂その他ほとんどが灰燼に帰した。第28世(本常)(華園沢称)は直ちに再建の工を起こすが、その際、再建する本堂の形式を他の浄土真宗の本山寺院と同様の阿弥陀堂と御影堂からなる両堂形式とすることとした。

1912年(明治45年)、現在の両堂伽藍が完成する。

2018年平成30年)、大阪府北部地震や相次ぐ台風により倒壊や損傷、倒木など境内各所に被害が生じた。なかでも御影堂は地震により構造に歪みが生じており、立ち入りが禁止された。修復に向けて足場を設け、御影堂に安置されていた宗祖親鸞聖人の御影は阿弥陀堂に移され、報恩講なども阿弥陀堂で行われた。また、長年耐震面で対応を検討されてきた興正会館も震災が決定打となり、解体を決めた。

2022年令和4年)、御影堂の工事を終えて震災前の形式に戻る。

境内

  • 阿弥陀堂 - 本堂。1915年大正4年)再建[2]
  • 渡廊下 - 阿弥陀堂と御影堂を繋いでいる。
  • 御影堂 - 当寺で一番大きい建物。1912年明治45年)建立[2]。この時に当寺では初めてとなる御影堂が建てられた。
  • 表対面所[2]
  • 奥対面所
  • 宗務所[2]
  • 鐘楼 - 安永3年(1774年)再建[3]桃園天皇の13回忌に際し、皇太后恭礼門院(一条富子)から梵鐘とともに寄進された。
  • 三門(楼門)[2] - 1912年(明治45年)建立。
  • 経蔵 - 嘉永元年(1848年)建立[2][3]。法宝蔵ともいう。勅額「法宝蔵」は右大臣近衛忠煕の筆で孝明天皇から賜ったものである。北小路通を挟んで北側には西本願寺の飛雲閣がある。
  • 阿弥陀堂門[2] - 1912年(明治45年)再建。阿弥陀堂の正面にある興正寺の正門。

なお、境内には興正会館があったが、以前から耐震強度の問題があり、2018年平成30年)の大阪府北部地震の後に解体が決まり、解体された。

歴代門主

第二十七世までは『真宗法脈史』による。

  • 開祖 親鸞
  • 第二世 真仏
  • 第三世 (源海)
  • 第四世 (了海)
  • 第五世 (誓海)
  • 第六世 明光
  • 第七世 了源
  • 第八世 (源鸞)
  • 第九世 (室了明尼)
  • 第十世 (源讃)(唯了)
  • 第十一世 (性曇)
  • 第十二世 (性善)
  • 第十三世 光教
  • 第十四世 蓮教
  • 第十五世 蓮秀
  • 第十六世 (証秀)
  • 第十七世 顕尊
  • 第十八世 准尊
  • 第十九世 准秀
  • 第二十世 (良尊)
  • 第二十一世 (寂岷)
  • 第二十二世 (寂永)
  • 第二十三世 (寂聴)
  • 第二十四世 (法高)
  • 第二十五世 (眞恕)
  • 第二十六世 (本誓)
  • 第二十七世 本寂
  • 第二十八世 (本常)
  • 第二十九世 (本昭)
  • 第三十世 本賢
  • 第三十一世 本顕

交通アクセス

  • 京都駅烏丸中央口より徒歩12分(経路案内)。

廟所

興正寺別院

  • (札幌興正寺別院) - 北海道札幌市中央区にある同別院。収容避難場所に指定されている。
  • (穴馬興正寺別院) - 愛知県犬山市にある同別院。穴馬は福井県大野市の地名であり、もとはその地にあった別院だが、ダム建設により水没するため移転してきた。
  • 富田林興正寺別院 - 大阪府富田林市にある同別院。富田林寺内町の中核をなしている。
  • (大阪興正寺別院) - 大阪府高槻市奈佐原にある同別院。もとは天満興正寺別院という名称で大阪市北区河内町1丁目(現・天満4丁目)にあったが大阪大空襲により焼失。1965年に大阪興正寺別院と改称して大阪市旭区赤川町4丁目(現・赤川4丁目)にて再建、1988年に現在地へ移転した。天満の跡地は滝川公園となっている。
  • (高松興正寺別院) - 高松市にある同別院。東讃教務所が併設されている。
  • (郡家興正寺別院) - 香川県丸亀市郡家町にある。西讃教務所が併設されている。
  • (鹿児島興正寺別院) - 鹿児島市にある同別院。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 熊野恒陽 2005b.
  2. ^ a b c d e f g 興正寺境内のご案内
  3. ^ a b 真宗教団連合 > 加盟宗派 > 真宗興正派 興正寺

参考文献

  • 中島慈応『真宗法脈史』法文館、1911年。 
  • 熊野恒陽『了源上人:その史実と伝承』白馬社〈興正寺史話1〉、2005年。ISBN (978-4-938651-52-7)。 
  • 熊野恒陽「了源上人の教化と興正寺の建立」『真宗教団の構造と地域社会』、清文堂出版、41–71頁、2005年。 (大阪真宗史研究会編)

関連項目

外部リンク

  • 本山興正寺 - 公式サイト
  • 真宗教団連合 > 加盟宗派 > 真宗興正派 興正寺
  • 『真宗法脈史』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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