» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

加賀藩

加賀藩(かがはん)は、江戸時代加賀能登越中の3国の大半を領地とした。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。

金沢城石川門(重文)

概要

加賀国石川郡にある金沢城金沢市)に居城。明治2年(1869年)の版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。

藩主の(前田家)は外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩として松平姓葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領した。

極官従三位参議と他の大名とは別格で公卿となったのは徳川一門以外では前田のみ、また伺候席徳川御三家越前松平家などの御家門が詰める大廊下である(他の外様の国持大名は大広間)[1]など御三家に準ずる待遇であった[2]他、一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となる、将軍家にとっては陪臣である加賀八家(後述)にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格の扱いであった。

藩史

 
加賀藩邸跡(京都市中京区木屋町御池)

前史(桃山以前)

織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子・利長に越中のうち射水砺波婦負三郡32万石を与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された[3]文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る[4]

慶長4年(1599年)利家の死後、利長に前田家の家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。 前田家は加賀北部と越中を領する利長と、能登に21万石を領するその弟・利政に分割されたが、総石高は合計83万石に達し、利長は五大老に準ずる役割を果たす(正式に利家の後任で大老になったとの異説もあり。「五大老」も参照)。

利長と関ヶ原

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ(異説あり)、戦後に利政は所領を没収された。かわりに利長が利政の旧領と加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加能越3か国に及ぶ所領(加賀に能美郡白山麓の幕府直轄領あり)を獲得した。利長は領内の再検地を行ない実高の高直しを実施した[5]

寛永8年(1631年)、将軍・徳川家光は2代・利常(利長の弟)の行動を疑い「前田征伐」を計画するが、横山康玄に陳述させ、利常も自ら長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示すことで収めた(寛永の危機)。寛永11年(1634年8月には、家光から利常に発給された領知朱印状により、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定する[6]

加賀百万石の確定

寛永16年(1639年)に利常が隠居するとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。支藩(別家)として他に前田利孝(利長の弟・利常の兄)を祖とする上野七日市藩1万石がある[7]

宝暦9年(1759年)には火事で金沢城の本丸を始め1万5千軒余りが炎上、幕府より5万を借用して復興にあたる。

寛政4年(1792年)藩校・明倫堂、経武館が完成する。

利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫・綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。

幕末大政奉還時は将軍・徳川慶喜を支持したが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

明治4年(1871年廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。

明治17年(1884年)の華族令により旧藩主前田家は侯爵家となった。

歴代藩主

※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)

前田家
  1. 利長 従五位下肥前守従三位権中納言
  2. 利常 従四位下侍従筑前守→従三位権中納言肥前守
  3. 光高 正四位下左近衛権少将筑前守
  4. 綱紀 正四位下左近衛権少将加賀守参議→従三位肥前守
  5. 吉徳 正四位下左近衛権少将若狭守左近衛権中将加賀守→参議
  6. 宗辰 正四位下左近衛権少将佐渡守→左近衛権中将加賀守
  7. 重煕 従五位下但馬守→正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将
  8. 重靖 従五位下上総介→正四位下左近衛権少将加賀守
  9. 重教 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将肥前守
  10. 治脩 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将→従三位参議
  11. 斉広 正四位下左近衛権少将筑前守→左近衛権中将加賀守・肥前守
  12. 斉泰 正四位下左近衛権少将若狭守→左近衛権中将加賀守→参議→正二位権中納言肥前守
  13. 慶寧 正四位下左近衛権少将筑前守→正四位上左近衛権中将→参議→従三位

なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った[8]。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表すを付した。

家臣

加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家、あるいは前田八家ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上、少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在した。

人持組頭(加賀八家)

外部リンク
  • 前田家重臣系図

主な人持組

  • 今枝家(1万4000石・家老
    今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出した。維新後男爵。家紋は四ッ俵。蓮華寺 (京都市左京区) も参照。
    今枝重直直恒(日置忠勝の五男)―近義直方日置忠治の三男)=直道(前田知久の次男)=直郷(前田孝資の次男)―易直直寛易良(直寛の弟)―直応直邦
  • (津田家)(1万石・家老
    豊臣秀次の家臣で慶長14年(1609年)に前田家に仕えた津田正勝を祖とする。幕末の藩主側近であった津田正邦が維新後、斯波に改姓して斯波蕃と名乗り男爵。家紋は片喰。
    津田正勝―正忠正真孟昭敬脩将順正昭政本正矩正直正行正邦
  • 横山家(神谷家)
    神谷家と横山家の二重当主家。神谷家は加賀八家制定以前の人持組頭。家紋は角ノ内万字。
    神谷守孝神谷長治(横山長治)(養子。横山長知の三男)- (横山長昌)(神谷長昌)。
  • 横山蔵人家(1万石・家老)
    横山正房(横山長治四男)―正武=正従(横山長元の子)=政礼(横山貴林の子)―政寛政孝政和
  • 本多図書家(1万石・家老)
    本多政長の四男本多政冬が初代。家紋は丸ノ内本ノ字。
    本多政冬―政恒政康政養=(政守)
  • 成瀬掃部家(8000石)
    徳川家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)は17歳で徳川家を出奔、浅野幸長小早川秀秋家臣を経て、利常に仕える。家紋は丸ノ内片喰。
    成瀬吉政ー當胤ー當隆ー當廣ー當延ー當昆ー當義ー當職ー主計
  • 青山将監家(17000石-9700石-7650石)
    青山吉次(妻は利家の姪)以降、魚津城代を4代務める。家紋は丸ノ内蔦。
    青山吉次ー長正(長次)ー正次ー吉隆ーー聚次ーー勇次ー知次ー成次ー悳次ーー孝次
  • 寺西要人家(7000石)
    旧織田家臣で加賀松任城代を務めた寺西秀則が初代。家紋は丸ノ内九枚笹。
    寺西秀則ー秀澄ー秀賢ーー秀一ー秀詮ー秀周ーー秀敬
  • 前田図書家(7000石・藩主一門)
    前田利家の六男利貞が初代。家紋は角ノ内梅鉢。
    前田図書利貞―貞里―貞親―貞直―貞幹―貞一―貞道―貞事―貞発―
  • 前田織江家(7000石・藩主一門)
    前田長種の次男(長時)が初代。家紋は菊一文字。
    前田長時―長重―長成―長則―長治=長澄――道柯―道済―道益―道貞
  • 前田修理家(6000石・藩主一門)
    前田利家の三男知好(一族の前田利好の名跡を継いだ)が初代。家紋は亀甲ノ内梅鉢。
    前田安勝―利好―)前田知好―知辰―知臣―知頼―知久=知定―知周―知故―知足
  • 山崎庄兵衛家(5500石)
    越前朝倉家旧臣の山崎長徳を祖とする。家紋は小槌。
    山崎長徳ー長郷ー長常(光式)ー長応ー長治ー長質=長恒=範古ー
  • 多賀数馬家(5000石)
    堀秀政の実弟多賀秀種が初代。家紋は片喰。直昌は隠居し茶道宗和流8代を継承した。
    多賀秀種―秀誠―直定―直方―直房―直清―直昌――直良―
  • 玉井頼母家(5000石)
    支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。
    玉井頼母ー貞直ー市正ー貞信=貞衛=貞通ー貞矩ー
  • 伴八矢家(5000石)
    織田家臣伴無理兵衛の子、(伴長之)を祖とする。家紋は三巴。
    伴長之ー
  • 中川八郎右衛門家(5000石)
    前田利家の次女蕭の夫中川光重を祖とする。光重の祖父織田刑部大輔は織田信長の叔父信次の孫とされる。家紋は片喰。
    中川光重=重勝=長種ー長輝ー長定ー惟忠ー寄忠ー顕忠ー
  • 深美縫殿助家(4500石)
    堀田正盛の旧臣(深美秀剰)が初代。家紋は内ノ内十文字。
    深美秀剰ー秀直ー
  • 不破彦三家(4500石)
    府中三人衆で前田利家の同輩であった不破光治の嫡男・直光を祖とする。家紋は三巴。
    不破直光ー光昌ー勝次ー為貞ー為像ー直廉(高像)=為章ー為周=為貴ー為儀
  • 西尾隼人家(4300石)
    豊臣秀次の家臣西尾光昌の子(西尾長昌)が初代。家紋はクシ形松。
    西尾長昌ー政親ー長頼ーー長宗=長恒(長道の子)ー明教(長教)ー明義ー
  • 大音帯刀家(4300石)
    利家越前時代に家臣となり、各合戦や主に能登方面で政治活動を行った、能登小丸山城代(大井直泰)と、その子で、幾多の合戦に活躍し、魚津郡代なども務めた(大音厚用)(大音主馬)を祖とする。厚用は養子に利家三男の知好の長男好次を迎えた。家紋は丸ノ内志ノ古文字。
    大音厚用=好次ー好政ーー厚固ー厚曹ー厚績ー
  • 篠原織部家(4000石)
    篠原一孝の義弟篠原長次が初代。家紋は三巴。
    篠原長次ー長経長栄幸昭保之得寿ー(忠貞)ー(忠意)ー(忠篤)
  • 松平大弐家(4000石)
    三河伊保城主(松平康元)の子で、大坂の陣にて武者奉行を務めた(康定)を祖とする。家紋は井桁。
    松平康定ー康浄ー太郎左衛門-康孝-康英ー康満ー康済ー康風-康保-康祥-康永ー康職=康正=康蕃
  • 前田兵部家(4000石・藩主一門)
    前田利意の子(誠明)が初代。家紋は五七ノ桐。
    前田誠明―孝起―孝博―純孝―孝義―孝事―孝享―孝友―以孝
  • 竹田掃部家(3530石)
    横山長知の家臣であった竹田忠明の子(忠次)が藩主利常に小姓として登用され、後累進して、人持組となる。家紋は抱柏葉。
    竹田忠次ー忠張ーー忠順ー忠周ー
  • 横山外記家(3500石)
    横山長隆の子(長秀)を祖とする。家紋は三巴ノ内万字。
    横山長秀=長治ー長昌(式部)-氏従(常知・治之)
  • 前田将監家(3400石・藩主一門)
    前田直知の四男(恒知)が初代。家紋は三釘貫ノ内二ッ引通。
    前田恒知―恒長―恒篤―恒箇―恒固―孝弟―孝備―
  • 三田村左京家(3300石)
    浪人であった(三田村定長)は娘の町が綱紀の側室となった縁で100人扶持となる。町は5代藩主吉徳の生母となり、その弟孝言は吉徳の叔父として人持組4000石に登用された。孝言は刃傷事件を起こして知行召上となり、改めてその子定保が3000石を与えられる。家紋は鶴ノ丸。
    三田村定長=定敬(孝信)ー定昌ーー
  • 菊池十六郎家(3200石)
    佐々成政の家臣で阿尾城主であった菊池武勝が初代。利家の調略で前田家の家臣となる。家紋は丸ノ内石畳。
    菊池武勝ー安信=大学ー武直=武康ーー
  • 生駒勘右衛門家(5000→3000石)
    織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀次・織田秀雄と仕えた生駒直勝(室は秀雄の妹)が関ヶ原の合戦後に浪人し、前田利長に招かれた。家紋は五三ノ桐。
    生駒直勝ー直義=(直方)ー(直政)ー直武ー直廉ー
  • 前田内蔵助家(3000石・藩主一門)
    前田孝貞の子(孝和)が初代。家紋は六角ノ内梅鉢。
    前田孝和―――――――孝保―孝錫
  • 前田式部家(3000石・藩主一門)
    前田利意の子(孝效)が初代。家紋は折敷ノ内桐。
    前田(孝效)―矩豊―孝慈―孝始―矩正―国規―規遠
  • 篠原監物家(3000石)
    藩祖利家の正妻芳春院の実家である篠原家の縁者、篠原一孝(妻は利家の姪)に始まる。利長の時代には奥村・横山と執政を務めたが知行の分割で石高を減らした。一時岩松の代断絶するが後名跡継がれる。家紋は三巴。
    篠原一孝ー一次(出羽)ー岩松=重一(重孝)ー一致ー(一脩)ーーー一進ー一精一貞
  • 前田監物家(3000石・藩主一門)
    七日市藩主・前田利孝の三男寄孝が初代。家紋は丸ノ内立葵。
    前田寄孝―察孝―孝信―孝恭―道孝―孝亮―孝成―孝連―孝央
  • 永原久兵衛家(3000石)
    赤座直保の子孝治が幕府を憚り、藩主・利常の命により改姓。家紋は並三釘貫。
    永原孝治ー孝政ー孝貞ー孝之ーー
  • 織田左近家(3000石)18番
    織田有楽斎の長男長孝の次男(長政)が初代。支藩の大聖寺藩に付属せられるが、後に本藩に復帰した。家紋は瓜。
    織田長政ー織部ー信重ー信庸-倶秀-益堅-益道-益堅-益興
  • 本多主水家(3000石)
    本多政長の五男(政寛)が初代。家紋は角切角ノ内立葵。
    本多政寛ー
  • (品川左門家)(3000石)
    白川伯王家神祇伯・参議(雅陳王)の子が(品川雅直)(品川左門)と名乗り、以降子孫は加賀藩に仕えた。家紋は五三ノ桐。
    品川雅直―直幸――
  • 前田兵庫家(2500石・藩主一門)
    前田孝行の八男(孝覩)が初代。
    前田(孝覩)――――孝寧―
  • 前田主殿家(2450石・藩主一門)
    前田利政の外孫の(前田季明)(大納言(四辻公理)の三男重丸)が利家側室隆興院の養子となり2000石で加賀藩士となった。家紋は角切角ノ内梅鉢。
    前田季明―季隆――――――――季久
  • 上坂蔵人家(3000石)
    江戸浪人であった(上坂景氐)の妹(浄珠院)が5代藩主前田吉徳の側室となり、6代藩主前田宗辰の生母になった縁により、前田吉徳に召抱えられ加賀藩士となる。その後に上坂主鈴家から上坂蔵人家と改める。
    上坂景氐ー景福ーー
  • 小幡佳太郎家(3000石)
  • 伊藤主馬家(2800石)重正-重澄-正純-時純-
  • 奥村源左衛門家(2700石)
  • 多賀典膳家(2500石)
  • 永原権左家(2500石)
  • 成瀬主税家(2500石) 吉安-憲政-生直-正生-助太郎-三晴-三順-正喬-左近-正敦-正居
  • 篠島欽次郎家(2500石)清了-清政-清長-
  • 津田主税家(2500石) 勝良-長政-喬長-信要-兵蔵-信節-伝八郎-主税-信勝-則長
  • 富田治部左衛門家(2500石)
  • 富田織人家(2400石)
  • 岡島左膳家(2300石)
  • 奥村主馬佐家(2200石)
  • 奥野右兵衛家(2200石)
  • 葛巻隼之助家(2000石)
    陸奥葛巻城城主の子孫だと考えられる。この(葛巻氏)は工藤氏の一族だと伝えられている。家紋は丸ノ内木爪。
  • 小幡頼母家(10950石-10650石-2000石) 長次―長治―立信―満清―通久――政久――厚久
  • 藤田求馬家(2000石)
  • 佐々木左近大夫家(2000石)
    近江守護六角氏宗家ともされる。初代定治は(六角高賢)の子で六角家16代当主六角義治の娘婿である。家紋は四ツ目結。
    六角定治―定之―定賢―定明―定国―定則―定正―定舒
  • 松平敷馬家(2000石)
  • 横山中務家(2000石)
    • 横山長知八男定治が祖
    • 横山定治ー
  • 永井志津摩家(1750石)
  • 奥村弾正家(1700石)
  • 大野木良之助家(1650石)
  • 庄田誠磨家(1600石)
  • 松平帯刀家(1500石)
  • 遠田勘右衛門家(1350石)
  • 原頼母家(1280石)
  • 関屋一学家(1050石)
  • 本多求馬佐家(1000石)
  • 勝尾左近家(1000石)
  • 津田弾正家(1000石)

藩邸および江戸での菩提寺

 
東京大学に現存する赤門徳川家斉の第二十一女・溶姫が第十三代藩主前田斉泰に輿入れする際に建造された。

江戸藩邸本郷五丁目に上屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス)、染井に中屋敷、深川と板橋に下屋敷があった。また、江戸における菩提寺は文京区向丘日蓮宗高耀山長元寺、下谷の臨済宗大徳寺派円満山広徳寺で支藩の富山藩や大聖寺藩はもちろん、会津藩保科松平氏谷田部藩細川氏なども同寺を江戸での菩提寺にしていた。なお、支藩でも七日市藩は諏訪山吉祥寺を江戸における菩提寺としていた。

幕末の領地

上記のほか、明治維新後に北見国礼文郡枝幸郡宗谷郡を管轄した。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『日本一の大大名と将軍さま 徳川家も気をつかった加賀百万石の江戸時代』
  2. ^ 『藩史大事典』
  3. ^ 岩沢愿彦『前田利家』
  4. ^ 新川郡にある白鳥城は、佐々の降伏(富山の役)後に既に、成政に備えるため前田家の城将を置いていた。
  5. ^ 慶長10年(1605)4月8日、利長隠居・利光(のちの利常)宛「領知判物」(「越登賀三州志」高岡市立博物館)
  6. ^ 利常宛て寛永朱印状(「加賀藩文書」前田育徳会など)
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』
  8. ^ 村川浩平「前田氏への松平氏下賜」

参考文献

  • 児玉幸多北島正元 監修 『藩史総覧』 新人物往来社、1977年
  • 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
  • 『三百藩家臣人名事典』 新人物往来社、1987〜1988年
  • 戸部新十郎幕末維新 加賀風雲録』 新人物往来社、1997年 (ISBN 4-404-02514-9)
  • 山本博文 『加賀繁盛記 史料で読む藩主たちの攻防日本放送出版協会、2001年 (ISBN 4-14-080643-5)
    • 山本博文 『日本一の大大名と将軍さま 徳川家も気をつかった加賀百万石の江戸時代』 グラフ社、2009年 (ISBN 978-4-7662-1271-6) ※上著の改題改訂版。
  • 見瀬和雄 『利家・利長・利常 前田三代の人と政治北国新聞社、2002年 (ISBN 4-8330-1204-9)
  • 宮元健次 『加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流』 人文書院、2002年 (ISBN 4-409-52036-9)
  • 長山直治 『寺島蔵人と加賀藩政 化政天保期の百万石群像』 桂書房、2003年 (ISBN 4-905564-58-1)

関連項目

外部リンク

  • 加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡 - 東京大学コレクションX
    加賀藩江戸上屋敷遺跡の考古調査レポート
  • 加賀百万石 美と歴史 - 石川新情報書府
  • 加賀藩研究ネットワーク - 大学研究者らによる加賀藩研究組織
  • 加賀(加賀中将治脩) | 大名家情報 - 武鑑全集
先代
加賀国能登国越中国
行政区の変遷
1639年 - 1871年
次代
金沢県(加賀国)
七尾県(能登国・越中国射水郡
新川県(射水郡を除く越中国)
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。