醍醐家(だいごけ)は、藤原北家一条家の支流にあたる公家・華族。公家としての家格は清華家。華族としての家格は侯爵家[2]。家紋は(下り藤)。
歴史
封建時代
醍醐家は関白一条昭良の二男冬基を祖とする[3]。一条昭良は後陽成天皇の第9皇子であり[4]、冬基は霊元天皇にとって従兄弟にあたるため、延宝6年(1678年)の霊元天皇の詔で「醍醐」の家名を下賜され、一条家から分家して新たな堂上家を興すことを許された[1]。
家格は清華家・新家・内々[4]。家禄は312石[4][注釈 1]。醍醐家の家臣には諸大夫に高津家、堀川家、奥田家、侍に川合家、下司家、板倉家などがあった[4]。菩提寺は大徳寺内芳春院[4]。通字は特に決まっていないようだが、「冬」「兼」「輝」などが見られ、幕末以降は「忠」で一定しているようである。
醍醐家が明治維新までに輩出した公卿の数は 8名。清華家は太政大臣まで昇れることになっていたが、醍醐家から太政大臣に昇った者はなく、左大臣まで昇った者1名(2代冬熙)、右大臣まで昇った者1名(3代経胤)、内大臣まで昇った者1名(7・9代輝弘)、大納言まで昇った者3名(初代冬基、6代輝久、10代忠順)、中納言まで昇った者2名(4代兼純、5代冬香)となっている。
始祖である醍醐冬基の父が後陽成天皇の第9皇子であることから皇室の血筋を男系で引き継いでいる家である。途中、第3代当主の兼潔は、初めはなかなか子に恵まれず、本家の一条家より兼純を養子に迎えていたが、やがて実子の冬香、輝久が誕生。兼純が早世したこともあって、冬香、輝久が当主となった。また、嗣子を亡くしたり、スキャンダルが起きたりなどで、再び当主の座に就く者も見られるが、何とか血脈が絶えることなく、皇室の男系子孫としては現在に至るまで続いている(系図)。これは、度々他家からの養子を迎えている本家の一条家とは異なり、途中養子を介していない。
明治以降
明治維新時の当主、忠順は王政復古後、新政府の参与となり、さらに内国事務掛、大阪鎮台督、大阪裁判所総督。兵庫裁判所総督、大阪府知事などを歴任し[5]、明治17年(1884年)7月7日に旧清華家として侯爵に列する[2]。
忠順の娘の好子は賀陽宮邦憲王妃である。また成瀬隆蔵の五男である大児を養子にした[6]四男・(醍醐忠直)(1874/7/3-1966/5/12[7])は、式部官、掌典次長、宮中顧問官などを務めた。
忠順の嫡男忠敬の三男忠重が祖父の跡を継いで襲爵[1]。忠重は海軍兵学校40期を経て海軍に入り海軍中将にまで進み、侍従武官、第五潜水艦隊司令官、第六艦隊司令長官などを歴任するが、戦後戦犯に指定される。昭和22年(1947年)オランダ軍によって銃殺刑に処された。
醍醐侯爵家の邸宅は昭和前期に東京市目黒区(衾町)にあった[1]。
忠重の長男の忠宜、次男で海軍兵学校77期[8]の忠久(1928/6/8-[7][注釈 2])が継ぎ子には現在当主格[9]の忠紀(1958/9/22-[7])が孫には忠明(1993/5/2-[7]、2018年現在学生[9])がいる。
系譜
※ 実線は実子、点線(縦)は養子、当主は太字。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 43.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ "醍醐冬基". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e 太田 1934, p. 3233.
- ^ "醍醐忠順". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年11月8日閲覧。
- ^ 成瀨隆藏 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成下p1
- ^ 『少年皇族の見た戦争―宮家に生まれ一市民として生きた我が生涯』 PHP研究所、2015年、P87
- ^ a b “「圭くん」に代わる「眞子さま」のお相手も? 女性皇族「お相手候補リスト」にある名前”. 週刊新潮. (2018年11月8日号) 2019年8月12日閲覧。
- ^ 一条兼香の庶子。まだ子のなかった兼潔(のち経胤)の養子となった。この後に実子の冬香が生誕。兼純自身は結局早世してしまい、冬香がその跡を継いだ。
- ^ a b 一時、本家・一条実良の婿養子となるが、離縁されて醍醐家に戻る。代わりに四条隆謌の子・実輝が養子となった。
- ^ 兄・隆謌の養子となるが、離縁され分家した。
参考文献
系譜参考
- - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分)
- 世界帝王事典「醍醐」