皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
太田亮が近衛家に対して用いたのが最初。
弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸から帰化した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ造語である。ただし、同様に「皇別」「神別」の分類を用いた明治時代の宗族制では、該当する摂家はいずれも「神別」として扱われている。
概説
江戸時代までは、彼らのような出自を持つ人々を、源氏・平氏などの賜姓皇族(皇族を離脱して臣籍に降下した者及びその子孫)と同様に「王孫」と呼んでいた。
氏族・系図研究の大家であった太田亮が1920年(大正9年)刊行の『(姓氏家系辞書)』において近衛信尋を「皇別摂家の鼻祖」と呼んだのがこの語の初出であるが、一条家や鷹司家に対しては「皇別摂家」の語は使われなかった。太田が1934年(昭和9年)にまとめた畢生の大著『(姓氏家系大辞典)』は、信尋以後の近衛家を「皇胤近衛家」と呼んでそれ以前の近衛家と区別している。ただしここでは近衛・一条・鷹司3家のいずれにも「皇別摂家」を使っていない。このあと、丹羽基二なども稀に近衛家を指してこの語を用いたが、いずれにせよ広く用いられるには至らず、歴史学者が使う学術用語としても、在野の系図研究家が使う専門用語としても、この言葉が定着することはなかった。
以上のように「皇別摂家」の語は、もっぱら五摂家筆頭とされる近衛家の貴種性を表現する修辞の一つに過ぎなかったが、のちに用法を拡大し、摂家(近衛・一条・鷹司)にとどまらずその男系血統の子孫たち、つまり本家に加えて分家や他家の養子として分かれた系統についても、男系の実親子関係をたどって近世の皇室以来の血統を保持している子孫まで含まれるようになった。
一方、平安時代後期より御堂流の嫡流として摂政・関白・藤氏長者を継承してきた摂家の立場としては、その皇室に次ぐ貴種性を維持するために養子縁組を迎える場合には同じ摂家から養子を迎える、という認識が古くからあったが、江戸時代初期にそれが不可能になったために止むを得ずそれよりも上位の貴種性を持つ皇室から養子を迎えている。こうした貴種性を重んじる養子縁組の考え方は江戸時代に家格に基づく公家間の身分統制が強化されるとともに摂家の間で理念として確立されていくことになる[1][2]。ただし、これは当時の朝廷を主導・統制してきた摂家の主張・論理であり、天皇や他の公家の間で共有されていたわけではない[注釈 1]。
また、近衛信尋や一条昭良の相続は母親が近衛前子であったことから認められた特殊な事例で、江戸時代の朝廷や幕府にとっては前例とすべきではないと認識され、実際には皇室の血の引く摂家が生まれることを望ましくはないと考えられていた可能性がある。寛保3年(1742年)に九条家と鷹司家が相次いで当主の死去で断絶の危機に陥った時に、桜町天皇の弟である政宮(後の遵仁法親王、中御門天皇第六皇子にあたる)にいずれかもしくは二条家[注釈 2]を相続させようと言う案が浮上したものの、天皇は親王の養子縁組が安易に行われることは皇室の威信(「王威」)を傷つけるとした上で政宮が病弱であることを理由に最後まで反対し、また摂家や武家伝奏の間では『禁中並公家諸法度』第6条にある養子縁組は同姓から迎えるという規定との兼ね合いで幕府から許可が得られるかも問題視されている。最終的には天皇・摂家・幕府との調整の結果、天皇の実子である政宮の相続は回避され、鷹司家には閑院宮家からの養子縁組が行われることとなった[4]。
系図
継承・存続状況
近衛家・一条家・鷹司家の本家は、現在ではいずれも「皇別摂家」に該当しなくなっている。
近衛系
信尋-尚嗣-基熙-家熙-家久-内前-経熙-基前-忠熙-忠房-篤麿-文麿-文隆と血統を伝え、明治期には公爵家となった。
特に、後陽成天皇の男系12世子孫にあたる近衛家第30代当主の文麿は昭和初期に3度にわたって内閣総理大臣を務めたが(第34、38・39代)、日中戦争(支那事変)を泥沼化させ(第1次近衛内閣)、日米開戦直前に政権を投出し(第2次・第3次近衛内閣)、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)後にGHQのA級戦争犯罪人指定(極東国際軍事裁判)により出頭命令を受けて自殺した。敗戦の際に旧満州(現:中国東北部)でソ連軍に捕らえられてシベリア抑留にあった文隆が1956年(昭和31年)に夫人との間に子供を儲けること無く死去した後、文麿の末娘(二女)温子の二男忠煇(旧名は護煇、父は細川護貞)を当主に迎えたことで、近衛家の本家は「皇別摂家」から外れた。
文麿の弟秀麿が分家した旧子爵近衛家と、常磐井家を相続した堯猷(忠房の子)の男系子孫が現存する。忠房の弟忠起が興した男爵水谷川家は、文麿・秀麿の弟忠麿が相続し、さらに秀麿の子忠俊が継いでいる。
小説家西木正明の著したドキュメンタリー小説『夢顔さんによろしく』では、文隆には旧満洲国領の牡丹江市の芸者である妾の東美代子との間に誕生した非嫡出子が存在したことを紹介している。この人物は元俳優の東隆明である。美代子の証言以外にその真偽を確認する術はないが、同書によれば美代子・隆明母子は一般には非公開の近衛家墓所で文麿・文隆の墓参をすることが許容されていたという。また、隆明のブログによれば、隆明は通隆(文隆の弟)夫妻の居住する荻外荘を毎月のように訪問していたという[5]。
一条系
昭良-教輔-兼輝と継承された後、兼香(鷹司房輔の子)が養子に入って継ぎ、昭良の男系はいったん途切れた。
ただし、昭良の子(冬基)が醍醐家を興して清華家に列せられ、冬基-冬熙-経胤-輝久-輝弘-忠順-忠敬-忠重と継承し、男系子孫が現存する。忠重は明治に海軍軍人となり、潜水艦の専門家として名を馳せて海軍中将まで昇進した。
また、醍醐忠順の三男が一条家を継ぎ(一条忠貞)、それが実家に戻った後には醍醐輝久-(四条隆生)-四条隆謌-一条実輝と四条家を介した養子相続で血統を伝えた実輝が入ったが、大炊御門師前の長男(一条実孝)が継いで再び「皇別摂家」から離れた。
鷹司系
現在の皇室に男系で最も近い系統で、江戸時代中期に閑院宮家から鷹司家を継いだ輔平に始まる。その兄である閑院宮典仁親王の子が皇位を継承して第119代光格天皇となり、以後直系・男系による皇位継承がなされて第126代今上天皇まで続いている。
輔平-政熙-政通-輔熙と継承されたが、輔熙の子輔政が急逝したため九条尚忠の子熙通が輔熙の養子となった。鷹司家自体は「皇別摂家」からは除外したが、旧華族公爵徳大寺家をはじめ、この系統から養子を迎え現在までその血統を受け継いでいる家系は少なくない。急逝した鷹司輔政の実弟脩季は旧侯爵菊亭家を継ぎ立憲政友会幹事長を務めた。戦前2度にわたり内閣総理大臣を務め、最後の元老であった西園寺公望の父徳大寺公純は鷹司輔熙の密子である。
現在の「皇別摂家」
同性同系譜の分家は各項目参照(爵位持ちで分家した徳大寺男爵家と一条男爵家と四条男爵家を除く)
- 一条昭良の子孫
- 鷹司輔平の子孫
その他の「皇別」
江戸時代に、摂家に次ぐ家格(清華家)の家を創始ないし相続した皇族として、
がいるが、その後はいずれも養子によって相続され、子孫は「皇別」ではない。
皇位継承問題との関連
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「皇別摂家」が脚光を浴びるのは、現在の皇室(全員が大正天皇の子孫)の男系(父系)の血統が断絶する可能性が具体的に意識されるようになった21世紀になってからである。
小泉純一郎首相が、皇位の女系(母系)継承による「女系天皇」(これは、日本史上8代10人存在した「女性天皇」とは異なる)を容認する皇室典範の改正を提起した2004年(平成16年)11月ごろから皇位継承問題への国民的関心が高まり、1947年(昭和22年)のGHQによる占領政策の一環で、皇族の身分を離脱した11宮家の男系子孫(いわゆる「旧皇族」)による皇位継承を想定した議論が起こった。
2006年(平成18年)に悠仁親王が誕生し、小泉の提起した女系継承を容認する議論は下火となった。
また、2019年(令和元年)10月現時点で在位している第126代の今上天皇(徳仁)からの親等が「旧皇族」よりも近い「皇別摂家」から皇位継承者を輩出することを模索する意見も提起された。(しかし皇別摂家は、非皇族となってからの期間は旧皇族よりはるかに長い) 河野太郎衆議院議員も皇位継承問題の中で、皇族復帰の検討の必要性を自身のブログで訴えている。
脚注
注釈
- ^ 寛保年間の鷹司家断絶の危機の際に、桜町天皇は閑院系清華家である西園寺家には鷹司家からの養子が入って男系子孫が続いていることを理由として同家から養子を取るように提案し、この案を支持する公家もいたが、摂家側は激しく反発して提案としても認めなかった[3]。
- ^ 当時の二条家当主である二条宗基が九条家からの養子であるため、宗基を九条家に復帰させて新たな二条家の当主を選ぶとする意見に拠る。
- ^ 一条兼香の庶子。まだ子のなかった兼潔(のち経胤)の養子となった。この後に実子の冬香が生誕。兼純自身は結局早世してしまい、冬香がその跡を継いだ。
- ^ 一時、本家・一条実良の婿養子となるが、離縁されて醍醐家に戻る。代わりに四条隆謌の子・実輝が養子となった。
- ^ 兄・隆謌の養子となるが、離縁され分家した。
出典
- ^ 久保貴子「系譜にみる近世の公家社会-養嗣子の出自を中心に-」『大倉山論集』第47輯、2001年
- ^ 木村修二「近世公家社会の〈家格〉制ー「摂家」と「清華家」を中心にー」薮田貫 編『近世の畿内と西国』清文堂出版、2002年。
- ^ 長坂良宏「近世摂家相続の原則と朝幕関係」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年(原論文:『日本歴史』第721号、2008年) 2018年、P30-40.
- ^ 長坂良宏「近世摂家相続の原則と朝幕関係」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年(原論文:『日本歴史』第721号、2008年) 2018年、P20-43.
- ^ 東隆明ブログ CHANCE!「もう一つの戦争 番外12」 http://ryu-mei.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/12-b6d9.html
- ^ 平成新修旧華族家系大成上p607
- ^ 平成新修旧華族家系大成下p701
- ^ 平成新修旧華族家系大成下p289
- ^ a b 平成新修旧華族家系大成上p368-369
- ^ 平成新修旧華族家系大成上p490
- ^ 人事興信録第14版し34
- ^ 中院通規 『人事興信録』データペース、第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b 人事興信録第14版上ス91
- ^ 人事興信録第28版す39
- ^ a b c d 八幡和郎「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」『新潮45』36巻1号、新潮社、2017年1月18日、42頁。
参考文献
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