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倫子女王(ともこ じょおう、元文3年1月20日(1738年3月10日) - 明和8年8月20日(1771年9月28日))は、江戸時代後期の皇族で、閑院宮直仁親王第六王女。江戸幕府第10代将軍徳川家治の正室(御台所)。幼名は五十宮(いそのみや)。第113代東山天皇の孫、第119代光格天皇の叔母にあたる。
生涯
元文3年(1738年)1月20日、閑院宮直仁親王の第6王女として京都に誕生した。母は閑院宮家の女房の讃岐。
寛延元年(1748年)10月26日、京都所司代牧野貞通が朝廷と交渉し、将軍家重の世子・家治との縁組が決定された[1]。寛延2年(1749年)2月5日に京都を発ち、3月19日に江戸へ到着すると江戸城浜御殿へ入った[1]。
宝暦3年(1753年)11月11日に縁組の披露が行われ「姫宮様」と称される。翌4年(1754年)12月1日に江戸城西の丸へ入り、婚礼の式を挙げた。以降は「御簾中様」と称された。宝暦6年(1756年)7月、家治との間に長女・千代姫を産んだが、姫はわずか2歳で夭折した。
宝暦10年(1760年)4月、江戸城本丸へ移り御台所となる。同年の8月に従三位に昇進し、9月には夫の家治が征夷大将軍を拝命した。翌11年(1761年)8月には次女の(万寿姫)を出産し[2]、また家治が側室出生の子も御台所の御養としたため、側室・お知保の方が生んだ世子・徳川家基(幼名・竹千代)の養母となった。
明和8年(1771年)8月20日、34歳で薨去した。戒名は心観院殿従二位浄池蓮生大姉。江戸上野の春性院にて葬られた。同年8月23日には従二位を、さらに天明3年(1783年)8月には従一位を追贈された。
人物
関連作品
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