後桃園天皇(ごももぞのてんのう、1758年8月5日〈宝暦8年7月2日〉 - 1779年12月6日〈安永8年10月29日〉)は、日本の第118代天皇(在位: 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉 - 1779年12月6日〈安永8年10月29日〉)。諱は英仁(ひでひと)。幼名は若宮。
生涯
宝暦12年(1762年)、父の桃園天皇が亡くなったときにまだ5歳であったことから、摂家の当主による話し合いで英仁ではなく、天皇の姉である後桜町天皇が即位した。英仁の即位が回避された理由については諸説があり、幼帝の即位によって新たな側近衆が形成されて側近衆と摂家の政治的対立に端を発した宝暦事件の再来を警戒したという説[1]、英仁親王への直系継承を支える仙洞(太上天皇)の存在が必要とされたからだという説[2]、英仁親王の養育に生母の一条富子の関与を求めた(当時の慣例では天皇と母后は同居しないことになっており、英仁が即位すると富子が養育に関われなくなる)からだという説[3]が出されている。
明和5年2月19日(1768年4月6日)に立太子。皇太子が天皇の子(皇子)でないのは熙成親王(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2020年現在最後の例[注釈 1]。天皇の甥が皇太子(皇太甥)になった例は益仁親王(光明天皇の甥、のちの崇光天皇)以来430年ぶり[4]。明和7年11月(西暦1771年1月)、伯母の後桜町天皇の譲位を受けて即位。
在位中の安永2年(1773年)には、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われた(安永の御所騒動)。
病気がちであり、安永8年(1779年)に在位のまま22歳で崩御。なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。
崩御後
子が欣子内親王のみであったので、急遽、傍系にあたる閑院宮家より養子を迎え、光格天皇(師仁親王、即位後は兼仁に改名)として即位させた。
欣子内親王はのちに光格天皇の中宮となり、6年後の寛政12年1月22日(1800年2月15日)、第三皇子温仁親王を出産するも、夭折。その後、文化13年1月28日(1816年2月25日)に再び第七皇子悦仁親王を出産するが、こちらも文政4年2月11日(1821年3月14日)に6歳で夭折。これにより中御門天皇からの皇統は女系も含めて完全に途絶えてしまう。
系譜
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系図
后妃・皇子女
略年表
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。