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羽田空港 (大田区)

日本 > 東京都 > 大田区 > 羽田空港 (大田区)

羽田空港(はねだくうこう)は、東京都大田区町名。現行行政地名は羽田空港一丁目から羽田空港三丁目。郵便番号は144-0041[2]。現在は東京国際空港(通称:羽田空港)及び関連施設の敷地が多くを占めるが、かつては穴守稲荷神社を中心とした首都近郊の一大観光地として知られた。

羽田空港
羽田空港
羽田空港の位置
北緯35度33分12.0秒 東経139度46分52.0秒 / 北緯35.553333度 東経139.781111度 / 35.553333; 139.781111
日本
都道府県 東京都
特別区 大田区
地域 蒲田地域
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 0人
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
144-0041[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川

地理

大田区の沿岸部に所在し、多摩川を挟んで神奈川県川崎市川崎区浮島町殿町海老取川を挟んで羽田羽田旭町東糀谷大森南京浜運河東京湾を挟んで昭和島京浜島城南島令和島などと接する。

河川

歴史

新田開発

今の羽田空港一丁目・二丁目付近にあたる地域は「羽田浦」などと呼ばれ、元禄天明の頃にはが一面に密生した干潟であった[4]

当時の羽田一帯は、江戸近郊の漁師町として栄えていたが、武蔵国荏原郡羽田猟師町で代々名主をしていた鈴木彌五右衛門という人物がいた。この彌五右衛門は羽田浦の東方にある干潟に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした[5]

そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという。1815年文化12年)頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[6]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本のの木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から「扇ヶ浦」とか、元々一つの小さな島があったことから「要島」と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さなを建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願し、地主神として、稲荷大神を祀ることにする[7]

1829年文政12年)、この開墾地は羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた。その後、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田の三集落を合わせて「羽田三ヶ村」といわれるようになった[5]

文政の末あるいは天保の初め頃、襲来した大暴風雨津波によって、堤防の土手の横面に大穴が開き、海水が侵入して、懸命に丹精した田圃もまさに荒廃する危険に直面した。その様子を監視していた農夫はすぐさま名主の彌五右衛門に知らせると共に、法螺貝を吹き、篝火を焚いて、五十余名におよぶ農民たちで、鋤や鍬などの農具を持ち集まると、彌五右衛門の指揮の下、死力を尽くしてその土手を守った。その甲斐もあって、海水の侵入を免れることができた[8]。しかも、その後は全く水害に遭わなくなり、凶年の兆しも見えず、一帯は良質な田園地帯となった。これは農民たちの努力のためばかりではなく、神の助けがあったに違いないという声が出て、それはおそらく土手上の祠に祀られた稲荷大神の神徳と人々に考えられるようになった。そのためその祠を敬う人々が増え、また「波浪が穿った穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」の祠ということから、「穴守稲荷大神」と尊称されるようになった。それから、彌五右衛門はそのようなありがたい祠を土手の上にそのままにしてはおけないと、自分の屋敷内に遷して丁重に祀り、これがのちの穴守稲荷神社の起源となった[8]

羽田浦一帯の風景についての歌
いく千代ちよまでも末広すゑひろく、あふぎがうらみやばしら、
太敷ひとしたててうしはける、ところはながめところ
きよき羽田はねだのたまがはは、まへながれてわかれては、
海老取川えびとりがはにしたふ、きたは品川しながはわんにして、
くしよりもなほしげき、とうきやう市街しがい唯一目ただひとめ
ひがしは海原うなばらいやひろく、かすかにゆるやまやまは、
房総諸山ばうそうしょさんられたり、西にし富士ふじいやたかく、
白扇はくせんのさまにて、はねだのかはうつるなり、
夕日ゆふひおうげて、かへるやあまのいさりぶね
なみのまにまに友千鳥ともちどり、よびかふこへ長閑のどけしや、
これぞ此地このちながめなる、
かくばかりながめよろしき扇浦あふぎうら かみうれしとそなはすらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より

門前町としての発展

 
明治34年頃の穴守稲荷神社周辺

1885年(明治18年)11月26日に、穴守稲荷神社が公衆参拝の独立した一社として国家公認の神社となると[9]鳥居前町が急速に発展、さらに1894年(明治27年)、鈴木新田の一部を所有していた和泉茂八が旱魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを東京衛生試験所に成分鑑定を出願したところ、1896年(明治29年)9月に湿疹貧血胃腸カタルなどの諸病に効くナトリウム冷鉱泉と認められた[10]。そこで茂八は泉館という温泉旅館を起こした。その後、付近のあちこちに鉱泉が掘られ、要館・羽田館・西本館などの旅館が神社の傍らに開業した。また、それ以前より営業していた料理店も風呂を設け、後には百余軒もの社前店が並ぶほどになり[11]、神社一帯が東京の花柳界などの保養地となり、神社参拝を兼ねた東京近郊の一大観光地として発展した。

当社鳥居の多きこと一見人をして驚かしむ。 其状数町の間に互り。赤色のもの比々相倚り続々相連る。洞を成し隧を致す処。散ぜざるは何の霞ぞ。霽ざるは何の虹ぞ。実は羽田の一奇観なりといふべし。 — 明治44年刊『新撰東京名所図会』より

1899年(明治32年)には、「稲荷道」と通称される5町程の海老取川から穴守稲荷神社の南側に至る新道が開かれた[12]1901年(明治34年)には、中央新聞社が主催した東日本の避暑地「畿内以東十六名勝」のコンクールで「府下羽田穴守境内」が、1位を獲得した[13]1902年(明治35年)6月28日には、京浜電鉄穴守線(現・空港線)が京浜蒲田から延伸して開通し、海老取川の手前に穴守駅を開業した。海老取川手前までの開通になったのは、鈴木新田周辺が既に住宅密集地であったことと、1903年(明治36年)に架橋された 稲荷橋 [14][15]から穴守稲荷神社までの続く道中の商店主や人力車稼業の人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている[16]

品川より電車にのりて大森蒲田を経て、羽田に至る。橋をわたれば両側数町の間、物うる家、立ちつづき、赤き鳥居密接してトンネルを成す。そのきはまる処小祠あり。穴守稲荷とて、近年にはかに名高くなり、その参詣者の多きことは、ここに電車が通じたるにても知らるべく、鳥居のトンネルにても知らるべく、鉱泉宿、料理屋、商店など僅々十年の間、洲渚に市街を現出したるにても知らるべし。(中略)十年前、稲荷に接近せる鉱泉宿の要館に数日逗留して、著述に従事したこともありしが、その時は二三の鉱泉宿が出来て居り、祠前に十数軒出来て居りしのみなるに、十年の後には、かくまでに市街が出来るものかと、茫然として、しばし祠前に彳立す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋

当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の押川春浪や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川の働きかけにより、1909年(明治42年)に陸上トラック・野球場・テニスコート・弓道場・土俵のほか、花壇や遊園地も兼ね備えた羽田運動場(野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出し、境内には動物園までつくられた。

1910年(明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ、1911年(明治44年)7月5日には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、報知新聞社と提携し同社の主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵や渋沢栄一樺太探検で有名な白瀬矗中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている[17]。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家浄化海水プールも新設されている[18]。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった[19]

 
羽田穴守海水浴場
 
京浜電鉄(現・京急)の広告

同年10月、京浜電鉄は穴守線を神社のすぐ近くまで延伸することを計画し、東京府に申請を行った[20]。しかし、この動きに対して再び「稲荷道」関係者が150名以上による延伸反対の陳情書を東京府知事に対して提出するなど反対運動を展開[21]、これを受けて警視庁などが調停に乗り出し、稲荷橋駅から穴守新駅までの間は別に運賃を徴収するということで落着し、延伸が決まった[22]

また同年11月18日から11月19日には、1912年ストックホルムオリンピックに日本が初参加することになったことで、予選会を都心から近くて交通の便がよい羽田運動場で開催することになり、野球場を1周約400メートルの運動場に転換して、国際オリムピック大会選手予選会が開催された。

1913年(大正2年)には一帯が三業地花街)に指定され、そして同年12月31日には、遂に穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業、穴守詣でと羽田の遊覧に弾みを与えた。夏季には観光客輸送のため本線と直通する急行列車も運転されるようになり、一層の賑わいを見せるようになった。一方で、それまで繁栄を極めていた「稲荷道」沿道は、客足がぱったりと途絶え、僅か一か月後の翌年1月には、延伸前合計80軒以上存在していた土産物屋や飲食店などが一挙に3軒を残すばかりになっている[23]

このような、明治半ばから始まる羽田地域の行楽地化は、日清日露の両戦争に勝利して、ようやく近代国家として歩み始めた時代と社会の反映でもあった。東京を代表とする都市の新興市民は、日曜休暇というそれまでの農間休暇とは明らかに質の異なる新しい生活リズムの休日を持つようになり、郊外に日帰りあるいは一泊で手軽に遊べる行楽地を求め出したわけである[24]。信仰と娯楽を混然とさせつつ、近郊オアシスとして羽田は姿を整えていったのである[24]。羽田穴守が優れていたのは、花街のような妖艶な空間、運動場や海水浴場といった幅広い層に向けたレジャー施設、東京湾や多摩川河口の優れた景観や神社のような聖域が共存していたところにある[25]。明治時代末期には、人口が1万人以上いた羽田町の町税の内、人口700人の羽田穴守地域が2割以上を納めていたという[26]

橋の袂へかゝると、あゝもし〱橋銭をと傍らの番小屋から声をかけられ、大枚往復一銭の切符を買って橋を渡ると、赤い華表が算へ切れぬまでぎっしり建て隧道をなしてゐる、又其間には芸者や役者や落語家などの名を記した無数の献灯が行列してゐる、片側には名物の宝玉煎餅、飴、 蛤や土産物の玩弄物を売る店が軒を連ねて客の懐ろを狙ってゐる、一丁計りも真っ直ぐに行って左へ直角に折れると、両側の茶屋からコツテリ塗った口の光つた穴守だけに狐に縁のありそうな怪しい女が出て来て、お休みなすって入らつしやい奥もすいて居ります、お支度も出来て居ります。 お風呂も出来て居ります、お休みなすつて入っしやいと殆んど手を捉へんばかりに呼び込む — 『横浜貿易新報 穴守詣で(上)』明治41年2月27日付けより
社の後辺へ出ると松風と波の音とが先づ聞える、これから奥の院の人造が嶽に登つて、何処か絵になりそうな場所は無いかとレンス眼を睜つてゐると、傍らの四十恰好の男、鋸山が見えませんかえ、今日は生憎沖が霞みましたね、此見当が横浜で、彼処が高輪でさアと聞きもせぬ講釈をする(中略) 兎に角穴守第一の観と云へば、此処から東の海を見たところであらう、コバルト色の空と水との継目を、其間に点綴せる沖の白帆が楔のや(ママ)うにも見えて、一寸した洲鼻を黄ばんだ蘆が水を隔て向ふの岸を穏(ママ)して、その蔭を近く行く船の帆ばかりが松の隙から見える工合は、瀟洒してのび〱した光景で、俗の俗なる此境域には珍らしい眺めである — 『横浜貿易新報 穴守詣で(下)』明治41年2月29日付けより

航空適地としての羽田と戦争

大正時代に入ると京浜間の工業地帯化が始まり、東京湾岸の埋め立てが進んでゆく中で、羽田地域にも行楽地以外の要素が生まれてくるようになる。その最たるものが、こんにちの羽田を象徴する航空好適地としての存在である。きっかけとなったのが、1917年(大正6年)1月4日日本飛行学校[注釈 1]と「日本飛行機製作所」の穴守稲荷門前への設立である。これは穴守稲荷神社総代で鉱泉宿・要館当主の石關倉吉が、航空に志を立てた玉井清太郎相羽有という二人の若者の熱意に感じ入って、使わなくなっていた建物などを提供したことに始まる[27]

穴守随一の有力者、石関さんと初会見した私は、「将来の国防は飛行機が第一線に戦う武器となる。この製造と飛行士の育成はもっとも緊急を要する」と臆面もなくまくしたてた。大地主の石関さんは、どこの馬の骨とも知れぬ一青年の、おこがましくも航空に一身を捧げる覚悟を披露したことに感動せられた。老侠客のような石関さんの快諾は千鈞の重みがあった。立派な玄関のついた建物を本館とし、元料亭の離れ家を教室として開校した。これは無償提供されたものだ。かなめ館の女中が上等の料理を運び込んで、主人からの進物ですといわれて、食い気ざかりの一同が欣喜雀躍したこともある。 — 昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ち(相羽有)より

多摩川が海にそそぐ海岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になり、平坦で、軽い飛行機の滑走には好適であった[28]。この羽田の地を飛行場好適地と見出した彼らが居たことが、後の東京飛行場建設に繋がり、今日の東京国際空港発展の礎となった[29][30][31]

大正五年(一九一六)、弱冠二十一才で、東京府荏原郡羽田町穴守の稲荷神社の近くに、日本飛行学校と日本飛行機製作所とを創立した。(中略)六郷川の海にそそぐ両岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になる。平坦であり、軽い飛行機の滑走には好適であった。(中略)それから十余年の空白期間を過ごした羽田穴守が、東京国際空港として再び浮かびあがる奇縁をもったのは、昭和四年のことである。(中略)そこへ日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だからとて特別の承認を得、(中略)昭和二十年、終戦とともに、米軍命令で、えびとり川以東の穴守一帯は、稲荷神社、数百戸の住居全部が一夜にして立退きを強制された。弁天橋と稲荷橋も交通を遮断された。この前代未聞の不測の運命に泣いた方々に、ここに半世紀前に飛行場を創始したことに発端することを顧み、申しわけないと思っている。 — 昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ち(相羽有)より

1923年(大正12年)の関東大震災の際には、鉄道が壊滅的被害をうけたことで帝国飛行協会副会長の長岡外史は飛行機による物資輸送の重要性を主張し、羽田に飛行場が必要だと提言した。

1929年昭和4年)には、穴守稲荷神社が昭和の御大典を機に村社へ昇格し、名実ともに鈴木新田の鎮守となった。同年10月には、京浜電鉄の重役から一の大鳥居として朱鳥居(後の羽田空港に残された大鳥居)が、穴守駅前に奉納されている。

そして、逓信省航空局が神社北側の土地(現在の整備場地区付近)を、前述のように飛行機の適地であり、東京都心部に近く、京浜間の中間に位置し、水陸両用飛行場として利用可能だと目を付け[32]飛嶋文吉飛島組)から買収、新しい飛行場の建設に着手し、1931年(昭和6年)8月25日にそれまで立川にあった東京飛行場が移転開港した。ただ、コンクリート敷の滑走路以外はほとんど草地であったうえ、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった(面積53ha、滑走路300m、幅15m)。滑走路脇にカタカナの右読みで「トウキヤウ」と書かれたコンクリート製の標識文字が設置されていた[33][34]。これ以来、羽田の街は今日に至るまで空港城下町として発展してゆく事になる。

 
空中からみた羽田競馬場

1932年には、羽田競馬場が近隣の羽田入船耕地(現東糀谷付近)から、鈴木新田の東にある御台場(羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場)へ移転してくることになった。予定地である御台場は多摩川の河口にできた広大な干潟で、天保年間には江戸幕府が砲台をつくろうとして中止したところでもあった。現在の東京国際空港第3ターミナルあたりがその場所である。ただ、同地は土地台帳上こそ畑地とされていたものの、満潮時にはほとんどが水没してしまう湿地帯だった。そのため、主催者側は東京湾埋立株式会社に施工を発注。同地を埋め立て、盛り土をして競馬場を建設するという当時としては一大プロジェクトを敢行した。完成した新競馬場の総面積は、10万坪(約333平方メートル)・1周1600メートル・幅員30メートルと、現在の大井競馬場の外回りコース(1周1600メートル、幅員25メートル)と同規模であった。新競馬場での最初の開催は7月3日から5日にかけて行われ、55万4229円の売上を記録している。さらに、1934年(昭和9年)7月の開催で売上は初めて100万円の大台を突破、その後も地方競馬では全国一の盛況が続き、羽田の地に新たな名所が誕生することになった[35][36]

また、1932年10月1日には、鎮座地である荏原郡羽田町が東京市へ編入され、新設された蒲田区の一部となった[注釈 2]。あわせて、鈴木新田も羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町・羽田御台場・鈴木御台場に改称・分割された。

本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。小田原北條氏の時代には羽田浦又は扇ケ浦と稱し家人行方彈正の所領となり、德川氏入國後は其の直領として代官を置かれた。元祿六年羽田村から羽田獵師町を分ち、同年更に羽田村から萩中村が分村し、文化十二年羽田獵師町から鈴木新田を分つた。天保十四年に幕府は海外の事情(阿片戰爭)に鑑み此地に奉行を置き老中眞田幸貫をして羽田奉行に任じ砲臺を築かしめた。明治元年品川縣に屬し、同年東京府の管下に入り明治二十二年に羽田、羽田獵師町、鈴木新田、糀谷、下袋、濱竹、萩中を合併して羽田村を編成したが同四十年十月町となった。漁業を以て生業としてゐる。

本町は蒲田より分岐して居る京濱電車と京濱バスを唯一の交通機関として居る。 敎育施設としては本町は面積廣き爲め、尋常高等小學校二、尋常小學校二を有する。逐年兒童が増加する結果全校二部敎授を施工するの止むなき狀態である。 其他實業補習學校二、靑年訓練所二、尋常夜學校一がある。尚東京府立工藝學校の實習所が設置されてゐる。 町内の社會事業としては方面委員制度の外見るべきものなく、町營以外では府立勞働紹介所出張所が町役場内に設置されてゐる外私設の羽田保育會託兒所がある。

町内の神社佛閣を通じて著名なものは穴守神社だけである。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町』より
蒲田區羽田穴守町。京濱電車穴守終點下車。品川から直通電車運轉、所要二五分、賃片道二四銭。蒲田から七分、一一銭。 豊宇氣比賣命を祀る稲荷神社があり、穴守神社とも云ふ。四時参詣者多く、午の日には殊に賑はふ。祠を去る五十米許りの海濱は風光よく、海は遠浅で潮干狩及び海水浴に適し附近に東京飛行場がある。また穴守神社後の近くには東京附近に珍らしい鵜の群棲林がある。 — 「旅程と費用概算」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋

東京を代表する観光地として繫栄を謳歌していた羽田地域であるが、当時の日本(大日本帝国)が1931年(昭和6年)の満州事変を機に、戦争への道を歩んでゆくことで、その荒波に翻弄されることになる。

まず、日中戦争の勃発に伴い立法された軍馬資源保護法の施行によって、羽田競馬場が1937年(昭和12年)限りで休催、翌1938年(昭和13年)に廃場へと追い込まれた[37]。跡地には日本特殊鋼の羽田工場ができ、海岸線寄りの跡地には高射砲陣地が置かれた。日本特殊鋼のほか、荏原製作所明電舎大谷重工等の大手企業が1935年あたりから次々進出してきて、下請け工場も出来た[38]。競馬場廃場の同年には、満洲国建国以降、満洲へ旅客や貨物輸送が増大したこともあり、東京飛行場の拡張用地として羽田運動場が買収され、消滅した[39]。東京飛行場の面積は72haとなり全長800メートル・幅80メートルの滑走路2本が十文字型に配置されるレイアウトになった。これにより、当時としては近代化された民間飛行場となった[40][41]

1939年(昭和14年)6月には、国民精神総動員運動の中で、料亭等の営業時間が短縮され、9月1日興亜奉公日が設けられると、以後毎月一日は酒が不売となり、次第に入手も困難となった[42]。参拝者も行楽客も激減し、料亭は工員相手の食堂になり、鉱泉宿は社員寮へ姿を変えてゆく等、穴守稲荷神社周辺の娯楽施設は急速な衰退を迎え、一帯は工場が立ち並ぶ軍需産業地帯として工場に働く労働者のための街に変貌していった[43]

1941年(昭和16年)10月1日には、茨城県霞ヶ浦より海軍航空隊の一部が飛行機20機・士官70人・兵員1250人の東京分遣隊として東京飛行場に移され、大手企業の工場も全て軍需品を作らされるようになる。穴守の町には軍人が闊歩するようになり、穴守線も軍需産業で働く人の通勤路線となった[44]

1942年(昭和17年)には、更に戦争の影響が表れるようになり、最後まで残っていた羽田穴守海水浴場の営業も中止になった。一方で、1943年(昭和18年)の洲崎遊郭接収により、1944年(昭和19年)初めに洲崎の遊郭関係者が移転してきたため、特殊飲食街が新たに誕生している[45]

1943年(昭和18年)7月1日には、東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止。東京都蒲田区羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町・羽田御台場・鈴木御台場となった。

1944年(昭和19年)秋頃を境に、サイパンから出撃した米軍機による空襲が激しさを増し、穴守稲荷神社の近辺も間引き疎開ということになり、一時はそこに暮らす人はせいぜい20人に満たないほどになったという[46]

1945年(昭和20年)4月3日から4日には、穴守稲荷神社周辺にも爆弾が落とされ、さらに4月15日城南京浜大空襲では羽田全域の3分の2が焼け野原となった。

強制退去

マッカーサー司令部では羽田飛行場を連合軍の日本駐屯軍に引き渡すよう十二日我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋め立て設備を提供するよう要求してきたが、飛行場再建のためには二箇月乃至三箇月を要すると見ている。なお、飛行場付近の一部住民に対して立ち退きが命ぜられることになった。 — 『朝日新聞』昭和20年9月13日付けより

第二次世界大戦が終わった連合国による占領下に置かれた日本は、一般命令第一号によって各地の飛行場や航空施設を良好な状態で保存するよう命じられた。直後の1945年(昭和20年)9月12日連合国軍(のちのGHQ)はアメリカから人材や物資を投入する為、日本政府に対して東京飛行場の引渡しを命じ、翌13日朝には自動小銃を持った連合国兵がジープで乗付け、飛行場にいた人々全員に立ち退きを命じた。こうして東京飛行場は軍事基地「HANEDA ARMY AIR BASE」と改称された[47]。そして9月21日、HANEDA AIR BASEを拡張するため、連合国軍は蒲田区長との連名で日本の警察を通じて、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町の三か町内約1200世帯、約3000名の全住民に12時間以内の強制退去命令を下した[48]

敗戦後、まだ1か月も経たない中では、新聞記事を読んでいた住民は極僅かであり、読んでいたとしても、具体的な範囲が挙げられていなかった為、自分達が当事者であると考えた人は殆どいなかった。「飛行場付近の一部住民」に説明があったのは前日のことであり、警察から口頭で知らされた。そこで住民代表が、12時間とはあまりにも理不尽で到底全住民に周知出来ない事や、立ち退き先も決められないまま路頭に迷う人が出て来る事等を挙げ、蒲田区役所や警察を仲介して交渉が行われた。そうした決死の訴えにより、立ち退き後に立ち入った者の生命の保障はないという厳しい条件付であるものの何とか2日間となったのだが、人手も機材も時間もすべてが不足している、まさに身一つでの立ち退きであった[49]

突如として町を追われることになった人々は、行く当てもないまま荷車に家財道具を括り付けて、稲荷橋・弁天橋を渡った。48時間後、橋のたもとには連合国軍の兵隊が立ち、街へ戻ろうとする住民に対し、威嚇射撃まで行う横暴ぶりであった。見た事の無い程の大きなブルドーザーパワーシャベルが瞬く間に家や店を押しつぶし、町は徹底的に破壊され、戦闘機が幾機も走る滑走路となった。こうして、東京を代表する観光地として、多くの人々が訪れ、また生活を営んだ三つの町は、終戦から僅か1か月で跡形も無くなり、地図上から抹消されたのである[50]。終戦時に空港内あった上述の航研機や日本軍の軍用機は米軍によって投棄されており、現在も敷地内の地中に埋まっていると言われている[51][52][53]。一方、敷地内にあった穴守稲荷神社の一の大鳥居は住民たちが去った後にも残された[注 1][52][55]。この大鳥居は後に1980年代から始まった沖合展開事業に伴う新B滑走路の建設計画での障害となったため、移設されることとなる[56][57][58]

11月から本格的に開始されたアメリカ軍808飛行場建設部隊による空港拡張工事はまたたく間に進展し、広大な敷地を造成した[51]。この工事には「占領軍労務者」として雇われた約2000人の日本人労働者も参加していた。拡張工事は1946年(昭和21年)6月までに竣工し、旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が完成した[52][59][60][61]

東京国際空港

1947年(昭和22年)3月15日には蒲田区が大森区と合併し、東京都大田区羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町・羽田御台場・鈴木御台場となった。

1952年(昭和27年)7月1日[62]、滑走路・誘導路・各種航空灯火等の諸施設がアメリカ軍から日本国政府に移管され[63]、同日に「東京国際空港」に改名された[64]。しかし、「東京国際空港の共同使用に関する日本国と在日米軍との間の取極」により、管制権や一部施設は引き続き在日米軍の管轄下に置かれ、この時点では一部返還にとどまった[63]

1955年(昭和30年)5月17日、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館した。また、このターミナルビルの建設地が、強制退去となった穴守稲荷神社の本殿跡に当たることから、ターミナルビル屋上には穴守稲荷神社空港分社が祀られた。同年8月には旧A滑走路が2550mに延伸され[65]、1956年7月には空港整備法に基づく第一種空港に指定された[66]。その後1958年6月[66]に全面返還された[67]

1960年代に入ると、1964年東京オリンピックのための空港設備の整備拡張が行われた。旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)されたほか、旧A滑走路が3,000mに延伸され[68]、旧C滑走路(3150m×60m)の新設[68]1964年(昭和39年)8月2日 には首都高羽田線の開通、1964年(昭和39年)9月17日には東京モノレールの乗り入れ、貨物や検疫施設の拡充などが行われ、旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープンした。また、1963年には、航空業界と空港の守り神として、旅客ターミナルに羽田航空神社が建立された。

一方で、京浜電鉄空港線は、東京オリンピックを前に運輸省からなされた空港乗り入れの打診を、本線の輸送力増強に専念するため断ったことで、1972年に再乗り入れの検討を始めて以降も、空港ターミナルへの乗り入れは長らく運輸省東京都とも門前払いが続くことになった[69]

1966年(昭和41年)には、空港周辺で単独機としては当時世界最悪の事故となった全日空羽田沖墜落事故が発生し、その1か月後にはカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が発生するなど悲劇も起きた。そのような中で、「かつて空港内に鎮座していた穴守稲荷神社の祟りであり、神社を空港の中に祀らないと事故がこれからも多発する」のような噂が流布し、神社の遷座を国会議員に陳情する者も現れた[70]。この陳情に「祟りはともかく、神社復興は必要だ。」と、当時の中村寅太運輸大臣瀬戸山三男建設大臣なども賛同し、大臣等を会長・顧問とした「穴守稲荷復元奉賛会」が設立された[71]。結局、社殿再建後であることやターミナルビルの屋上に分社が祀られていることなどから、空港内に穴守稲荷神社を復興する計画は頓挫したが、再建予定地とされた三愛オブリ株式会社が、事務所屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けている[70]

その後1971年(昭和46年)に旧B滑走路が2500mまで延伸[72]し、旧羽田空港が一応の完成を見た。

1967年(昭和42年)5月1日には住居表示が実施され、東京都大田区羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町・鈴木御台場・羽田御台場及び猟師町御台場が、現行の地名である東京都大田区羽田空港一丁目および二丁目になった[73]

一方で、1964年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、羽田空港の施設では増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、首都圏の航空需要を一手に引き受けていた羽田空港は、国際線のみならず国内線ターミナル・貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。1978年(昭和53年)5月20日に漸く新東京国際空港が開港を果たすと、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した。

 
沖合展開事業の埋め立て工事中国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成1984年撮影の15枚を合成作成

しかし、新設された成田空港は激しい反対運動によって拡張が進められなかったために羽田空港から移転された国際線のみで処理能力が飽和し国内線を引き受けられる余力はなく、さらに国内線需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路のみであった当時の羽田空港は間もなくキャパシティの限界を再び迎えた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。

これら空港機能の改善および騒音対策を目的として[74]東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が計画された。1971年5月には既に航空局内部に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置されていたが、革新知事として知られる当時の東京都知事である美濃部亮吉が羽田拡張に反対して国内線専用とすることを主張し、地元では拡張どころか羽田からの空港移転を主張する声さえあった。また、運輸省内部でも「羽田を拡張すれば、成田は不要」と主張する成田空港反対派を刺激したくないとの判断が働き、調査開始から10年余りの停滞があった。しかし、増大を続ける航空需要を背景に、鈴木俊一への知事交代に前後して沖展の調整が進められ、1984年1月26日には、東京国際空港沖合展開事業着工式が穴守稲荷神社で執り行われ、沖合展開事業が開始された[75][76][77][78][79]

沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。「ごみ戦争宣言」を出した美濃部都政下、沖展用地は東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場として、1975年度から土砂の投棄が続けられており、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。

この場所は、含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから、工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め(「おしるこ層」とも[80])、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている[81][82]。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキ油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した[注 2]

この埋め立てによって新たに生まれた広大な土地が全て大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。

1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。

羽田空港の(沖合展開事業)(沖展)の中、拡大する空港及びターミナルに対して東京モノレールだけでは増大する輸送量に対応できないとの判断から、京急の羽田空港乗り入れが認められた。1993年に羽田駅(現在の天空橋駅)が空港島内に開業して都心方面(本線・都営地下鉄浅草線)からの直通運転が開始。この時点では暫定的に同駅から東京モノレールへ乗り継ぐ形で空港アクセスを図っていたが、1998年には羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)が開業し旅客ターミナルビルと直結、羽田空港へのアクセス路線として本格的に機能するようになった。

1993年(平成5年)7月1日には住居表示を実施され、羽田空港三丁目が設置された[83]

1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディング・ブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除く全ての航空会社が移転した[84]。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれに「ビッグバード (Big Bird)」 という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港第1・第2旅客ターミナルの総称としても用いられている。

また、旧ターミナルビルの屋上に祀られていた羽田航空神社も新国内線ターミナルビルに遷座、穴守稲荷神社空港分社は本社に返霊されることになった。尚、航空関係者からは隣り合って祀られてきた2社を別々にする事に対して、反対する声もあったという。又、当初は神殿ではなく神棚に祀るという簡素化の案もあったが、運輸省東京空港事務所等の反対により、規模を縮小するが今まで通り神殿で祀る形に落ち着いた。更に東京空港事務所等は新ターミナルビルでも屋上に祀る事を要望していたが、こちらは実現しなかった。

1994年(平成6年)には、羽田空港新B滑走路の供用が開始され、ついに空港内に唯一残されていた穴守稲荷神社の旧一の大鳥居の移築が実施されることになったが、その後も移築は難航し、ようやく1999年2月3日撤去、翌4日移築と決定した。移築までの間、1995年には運輸省によって、「鳥居参道」と「参拝者専用駐車場」が整備され、鳥居までお参りが出来るようになっていた。移築工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。作業の際は風がやや強く、鳥居をクレーンで吊り上げた時にクレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、東京空港警察署弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている。

 
新B滑走路の整備に伴い移設された大鳥居(天空橋駅の南)

2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に15基のボーディング・ブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始した[84]。第2旅客ターミナルビルの供用開始に先駆け、1998年3月20日に第2旅客ターミナルビルの南寄りに暫定国際線旅客ターミナルビルが完成した[85]。当初はチャイナエアラインのみが使用し、2000年9月から同じく台湾系のエバー航空が就航していたが、2002年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアライン・エバー航空はともに成田空港発着となった[86]

航空需要の増大から、羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、1990年代には発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっていた。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては唯一、小型機の乗り入れが原則として禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。そこで2000年9月から、首都圏第3空港調査検討会により、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田・成田に次ぐ第3の空港を設置し、航空需要の増加に対応する案が検討された。その検討の結果、日本国政府は2001年12月19日に、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うことを決定し、以下の事業が行われた[87]

再拡張と再国際化

D滑走路は、神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に、従来の埋め立てとジャケット工法による桟橋[注 3]を組み合わせた、世界初の人工島と桟橋のハイブリッド滑走路として、既存のB滑走路とほぼ平行に建設された。このD滑走路の設計耐久年数は、100年に設定[88]されている。

東京湾の羽田空港沖は、江戸前マアナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により、漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協国土交通省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために工期短縮の方法などを模索した結果、2010年10月21日に完成し、供用を開始した。

このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・荒天時に千葉県浦安市の市街地上空を通過すること、また東京ディズニーリゾートと直線距離300mの沖合いを通過することが問題視され、滑走路の方位を時計回りに7.5度変更した[89]。この変更により、神奈川県川崎市にある東京湾アクアライン川崎人工島にある換気口のピラミッド状の装飾が制限表面上に出るため、装飾上部が撤去された。

沖合に建設されているD滑走路を含む空港全体の視認性確保などを目的として[90]、新たに旧管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに世界で3番目(当時)・国内最高の高さとなる116mの新管制塔が設けられ、2010年1月12日に運用が開始された。これにより、それまでの旧管制塔の飛行場管制室は供用開始から16年で役目を終えたことになるが、新管制塔供用開始後も撤去されずバックアップ用の予備管制塔となった。なお、新管制塔で新設されるのは飛行場管制室とその付帯設備だけで、ターミナルレーダー管制室や航空局庁舎は従来の位置のままである。

A滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、かつての国内線ターミナル(1993年まで)と国際線ターミナル(1998年まで)、日本航空のライン整備センターなどがあった区域に、新しい国際線旅客ターミナルビルと国際貨物ターミナル、エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備した。2008年4月8日に起工式が行われ、2010年7月末に完成し[91]、同年10月21日に供用開始された[92][93]。これに伴い、10月12日に旧・P5駐車場が営業を終了し、10月20日に暫定国際線旅客ターミナルビルが閉鎖された[94]

国際線旅客ターミナルビルは、5階建て延べ床面積約15万9000平方メートル(付属棟含む)のターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容、延べ床面積約67,000平方メートル)で構成される。空港ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーン(4階「江戸小路」)や日本最大級の規模の免税店を設置して収益を確保する見通しである。国際旅客ターミナルビルの整備・運営は、国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社 (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式で実施している。

スポットは固定スポットとオープンスポットが各々10か所設置されるのみであるうえ、旅客ターミナルビルがA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、更なる拡張も難しいと考えられたことから、前原誠司国土交通大臣が提唱した「羽田空港国際ハブ空港化」の実現には不十分な規模であるとの指摘もあった。

国際線ターミナルビルの開業に合わせ、同ターミナルへのアクセスとして、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し、ビルに隣接する形での新駅「羽田空港国際線ビル駅」を新設した。また、京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅 - 天空橋駅間のターミナルビル地下に新駅「羽田空港国際線ターミナル駅」を開業し、あわせて国内線ターミナルの最寄駅である羽田空港駅の名称を「羽田空港国内線ターミナル駅」に変更。

2011年11月16日、国内線第1旅客ターミナルビルのリニューアル工事が完了した[95][96][97]。チェックインカウンターが並ぶ2階の出発ロビーの天井には、自然光を取り入れる開口部が設けられ、明るい雰囲気となった。また、保安検査場を通過した後の制限エリア内の商業施設を大幅に拡充したほか、屋上展望デッキも改装して航空機をより見やすくなるようフェンスを更新した[98]

2009年10月13日、国土交通大臣だった前原誠司は、日本の地方空港から韓国仁川国際空港を経由した海外渡航が増加している現状を問題視。その原因とされている「内際分離」の原則(国際線は成田空港、国内線は羽田空港)を改め、羽田空港と成田空港を一体的に運用し、羽田空港を24時間使用可能な国際ハブ空港とする方針を明かした[99][100]。この方針を受け、新設した国際線旅客ターミナルビルを2013年度をめどに夜間駐機場として整備された北側エプロン方面へ延長増築し、搭乗口を増設する拡張計画が打ち出された[101][102]

拡張部分についてもPFI事業として整備され、2011年6月21日、国土交通省東京国際空港ターミナルが国際線旅客ターミナルビル本館の改修と増築、北側エプロンへの固定スポット8か所分のサテライト増築、立体駐車場の増築、ホテルの新設を内容とする拡張計画に合意した[103][104][105]。また、2012年8月31日、国際線エプロンの増設などの拡充整備による事業契約の変更について、国土交通省関東地方整備局と羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が変更契約を締結した[106]

2014年3月30日、拡張部の一部が供用開始。ターミナルビルはT字状になり、延べ面積は約15万9000m2から約23万6000m2に約1.5倍拡大、固定スポット(搭乗口)が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発保安検査場が1カ所から2カ所に増加するなどした[107][108]

2014年8月28日、拡張部一般エリアが供用開始。イベントスペースや多目的ホール、レストランや物販店などの商業店舗が設けられた[109]

2014年9月30日、ロイヤルパークホテル ザ 羽田(現・THE ロイヤルパークホテル 東京羽田)開業[110]。またホテル開業に合わせ、ビジネスジェット専用ゲートの供用が開始された[111]

2009年4月、政府与党が長距離国際線への対応としてC滑走路を南東(D滑走路側)へ360m延長して3,360mにする方針を固め、追加経済対策に盛り込むこととした[112][113]。これは長距離国際線の輸送力を増強、大型機の離着陸を可能にする施策で、特に深夜早朝時間帯に就航する長距離国際線の大型化が可能となる[114]2009年度中に着工し、2013年度完成予定であった[115][116]が、用地内の廃棄物対策の検討に時間を要したため事業期間が約1年伸び、2014年12月11日より施設供用開始となった[117][118][119]

旧空港跡地

2008年(平成20年)3月、国土交通省、東京都、大田区、品川区による羽田空港移転問題協議会は、羽田空港の沖合展開事業及び再拡張事業の結果として発生した跡地について、「羽田空港跡地利用基本計画」を策定し[120]2010年(平成22年)10月には、それを具体化した「羽田空港跡地まちづくり推進計画」をとりまとめた[121]

政府は、羽田空港周辺を訪日客の受け入れ拡大や国際競争力の強化を目指し国家戦略特区に認定し[122]、この地域は「HANEDA GLOBAL WINGS」と名付けられ[123]、第1ゾーンには羽田みらい開発[注 4]が「HANEDA INNOVATION CITY[124]、第2ゾーンにあたる当地区には外国人観光客の増加を見込んだ住友不動産グループが「羽田エアポートガーデン」を整備した[122][125]

羽田エアポートガーデンは、地上12階建て、延床面積は約9万1500平方メートル。ホテル(ヴィラフォンテーヌプレミア/グランド羽田空港)、商業施設、温浴施設、MICE施設ベルサール)、バスターミナルなどを備えた。当初は、2020年(令和2年)4月19日の開業を予定していた。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で延期となり、2023年(令和5年)1月31日に全面開業を迎えた[126][127]

なお、施設開業に先行して、2022年3月12日には羽田エアポートガーデン付近から対岸の川崎市殿町地区「キングスカイフロント」とを結ぶ「多摩川スカイブリッジ」も新たに開通している[128]

沿革

  • 1960年4月1日 - 蒲田警察署羽田空港支所が東京空港警察署として昇格。

町名の変遷

実施後 実施年月日 実施前(いずれも羽田町
羽田鈴木町 1932年10月1日 大字鈴木新田字宮ノ下・字鈴納耕地・字巽ノ方・字明神崎・字辰巳之方・字堤外東南
羽田穴守町 大字鈴木新田字東崎・字堤外東北・字堤外乾績
羽田江戶見町 大字鈴木新田字江戶見崎・字江戶見崎北ノ方
羽田御臺場 大字羽田字御臺場
鈴木御臺場 大字鈴木新田字辰巳島・字御臺場・字御臺場耕地績中堤防ノ内・字御臺場耕地績中堤防外北ノ方・字御臺場耕地
獵師町御臺場 大字羽田獵師町字御臺場
実施後 実施年月日 実施前
羽田空港一丁目 1967年5月1日 羽田江戸見町の一部、羽田鈴木町の一部、羽田穴守町の一部
羽田空港二丁目 羽田御台場、猟師町御台場、鈴木御台場、羽田江戸見町の一部、羽田鈴木町の一部、羽田穴守町の一部
羽田空港三丁目 1993年7月1日 京浜八区B区、京浜九区A区、京浜九区B区第一工区、京浜九区B区第二工区、羽田沖埋立地第一工区、羽田沖埋立地第二工区A区、羽田沖埋立地第二工区B区、羽田沖埋立地第三工区A区イ区、羽田沖埋立地第三工区A区ロ区、羽田沖埋立地第三工区B区イ区、羽田沖埋立地第三工区B区ロ区、羽田沖埋立地第三工区C区、羽田沖埋立地第三工区D区イ区、羽田沖埋立地第三工区E区、羽田沖埋立地第四工区A区イ区、羽田沖埋立地第四工区A区ロ区、羽田沖埋立地第四工区B区イ区、羽田沖埋立地第四工区B区ロ区、羽田沖埋立地第四工区B区ハ区、羽田沖埋立地第四工区B区ニ区、羽田空港二丁目南東側地先公有水面、羽田空港二丁目地先国有水没地、羽田空港三丁目地先公有水面羽田沖埋立地第四工区B区ホ区、羽田沖その三埋立地第一工区、羽田空港二丁目東側地先公有水面羽田沖その三埋立地第二工区

人口

戦前は1200世帯3000人の住民がいたが、戦後の連合国軍による強制接収以降は、0人となった。その後、羽田空港一丁目に全寮制の航空保安大学校が創設され、寮生160人前後の住民がいた。しかし、2008年(平成20年)3月に同校が大阪府泉佐野市に移転したため、人口は再び0人となった。それから現在に至るまで、羽田空港の人口は常に0人である[151]

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[152]。ただし、住民不在のため、実際には通学する児童・生徒はいない。

丁目 番地 小学校 中学校
羽田空港一丁目 全域 大田区立羽田小学校 大田区立羽田中学校
羽田空港二丁目 全域
羽田空港三丁目 全域

交通

鉄道

バス

道路

施設

脚注

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注釈

  1. ^ 整地に動員されたもと居住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれる[54]
  2. ^ このエピソードについてはNHKで1993年に放送されたドキュメンタリー番組テクノパワー』第3回および2004年放送の『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも取り上げられた。
  3. ^ 鋼管杭を打ち立てた上に鋼構造物を載せる桟橋工法。出典:『新日本の空港シリーズ1 羽田空港』イカロス出版
  4. ^ 鹿島建設大和ハウス工業京浜急行電鉄日本空港ビルデング空港施設東日本旅客鉄道東京モノレール野村不動産パートナーズ富士フイルムが出資。

出典

  1. ^ “世帯と人口”. 大田区 (2017年12月4日). 2017年12月15日閲覧。
  2. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月15日閲覧。
  3. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月15日閲覧。
  4. ^ 『穴守稲荷神社史』穴守稲荷神社、3/31、16頁。 
  5. ^ a b 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 
  6. ^ 大田区史編纂委員会『大田区史 中巻』東京都大田区、1992年、571頁。 
  7. ^ 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 
  8. ^ a b 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、41頁。 
  9. ^ 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、41頁。 
  10. ^ 金子胤徳『穴守稲荷神社縁起』穴守稲荷神社社務所、1912年、163-167頁。 
  11. ^ 『穴守稲荷神社史』穴守稲荷神社、2008年3月31日、29頁。 
  12. ^ 大田区史編纂委員会『大田の史話』東京都大田区、1981年3月、322頁。 
  13. ^ “關以東十六勝避暑地投票!!!外”. 中央新聞社. (1901-5-28,5-29,5-31,6-1,8-22,8-29,10-9,11-10) 
  14. ^ 『ふるさと東京 今昔物語 第2巻羽田・大森・蒲田編』株式会社フォト・パブリッシング、2021年5月1日、8頁。 
  15. ^ 鈴木勇一郎『電鉄は聖地をめざす』講談社、2019年5月10日、120頁。 
  16. ^ 『京急グループ110年史 最近の10年』京浜急行電鉄株式会社、2-25、16頁。 
  17. ^ 青木武雄『報知七十年』報知新聞社、1941年、55頁。 
  18. ^ 京浜急行電鉄株式会社社史編纂班『京浜急行八十年史』京浜急行電鉄株式会社、1980年、135頁。 
  19. ^ 『京急グループ110年史 最近の10年』京浜急行電鉄株式会社、2008年2月25日、23頁。 
  20. ^ 『大正五年 鉄道軌道 冊ノ十二 羽田支線延長敷設御願』東京府、1916年。 
  21. ^ 『大正五年 鉄道軌道 冊ノ十二 京浜電鉄穴守線延長ニ関スル陳情書』東京府、1916年。 
  22. ^ 鈴木勇一郎『電鉄は聖地をめざす』講談社、2019年5月20日、126頁。 
  23. ^ 「羽田町民京浜電車に反抗す」『横浜貿易新報』、1914年1月28日。
  24. ^ a b 大田区史編纂委員会『大田の史話』東京都大田区、1981年3月、324頁。 
  25. ^ 鈴木勇一郎『電鉄は聖地をめざす』講談社、2019年5月10日、124頁。 
  26. ^ 金子胤徳『穴守稲荷神社縁起』穴守稲荷神社、1912年、6頁。 
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  28. ^ 『日本民間航空史話』日本航空協会、1966年6月1日、32頁。 
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  31. ^ 『”羽田の空”100年物語』株式会社交通新聞社、2017年2月15日、4,15頁。 
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関連項目

外部リンク

  • 大田区 公式サイト (日本語)


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