萩中 (はぎなか)は、東京都大田区の町名。住居表示実施済み。現行行政地名は萩中一丁目から萩中三丁目。郵便番号は144-0047[2]。
地理
大田区の南東部に位置し、蒲田地域に属する。多摩川の河口から近く、東京都道311号環状八号線(環八通り)の南側に位置する。東で産業道路を境に羽田と、南で(弁天橋通り)を境に本羽田と、西で南六郷・東六郷と、北で西糀谷・東糀谷・南蒲田と隣接する。地内には、糀谷商店街と萩中商店街との交点と、京浜急行電鉄大鳥居駅周辺の二つの商業的拠点がある。最西部の一丁目から最東部の三丁目に至る東西に細長い形をしており、中央を東西に萩中通り(萩中商店街)が貫いている。一丁目、二丁目は北接する西糀谷から伸びる糀谷商店街と萩中商店街とが交差しており、商業地を形成している。三丁目は西糀谷の大鳥居駅を中心に商店が見られるほか、(萩中公園)が大きな面積を占めている。
歴史
1693年(元禄6年)頃、羽田村(現・本羽田周辺)より分村されて荏原郡萩中村が成立、当初天領で伊奈氏に支配され、1792年(寛政4年)の伊奈氏改易後は大貫次右衛門光豊支配となった[4]。村内には六郷用水が流れ、水田として利用されていた。
1889年(明治22年)5月1日、町村制の施行に伴い、東京府荏原郡麹谷村・萩中村・鈴木新田・羽田猟師町・羽田村の全域が合併し、東京府荏原郡羽田村が発足。現・萩中にあたる地域は、東京府荏原郡羽田村大字萩中となる。この頃の小字に宮下耕地・宮前耕地・天当耕地・南耕地・中耕地・北耕地・大道下・江川などがあった[4]。
1907年(明治40年)10月4日、羽田村が町制施行して東京府荏原郡羽田町大字萩中となる。
1932年(昭和7年)10月1日、荏原郡全域が東京市に編入。東京府東京市蒲田区萩中町と改称された[4]。
本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。小田原北條氏の時代には羽田浦又は扇ケ浦と稱し家人行方彈正の所領となり、德川氏入國後は其の直領として代官を置かれた。元祿六年羽田村から羽田獵師町を分ち、同年更に羽田村から萩中村が分村し、文化十二年羽田獵師町から鈴木新田を分つた。天保十四年に幕府は海外の事情(阿片戰爭)に鑑み此地に奉行を置き老中眞田幸貫をして羽田奉行に任じ砲臺を築かしめた。明治元年品川縣に屬し、同年東京府の管下に入り明治二十二年に羽田、羽田獵師町、鈴木新田、糀谷、下袋、濱竹、萩中を合併して羽田村を編成したが同四十年十月町となった。漁業を以て生業としてゐる。本町は蒲田より分岐して居る京濱電車と京濱バスを唯一の交通機関として居る。 敎育施設としては本町は面積廣き爲め、尋常高等小學校二、尋常小學校二を有する。逐年兒童が増加する結果全校二部敎授を施工するの止むなき狀態である。 其他實業補習學校二、靑年訓練所二、尋常夜學校一がある。尚東京府立工藝學校の實習所が設置されてゐる。 町内の社會事業としては方面委員制度の外見るべきものなく、町營以外では府立勞働紹介所出張所が町役場内に設置されてゐる外私設の羽田保育會託兒所がある。
町内の神社佛閣を通じて著名なものは穴守神社だけである。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町』より
1943年(昭和18年)7月1日 、東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止。東京都蒲田区萩中町となる。
世帯数と人口
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
交通
鉄道
一・二丁目は京急空港線糀谷駅が、三丁目は大鳥居駅が最寄駅となる。両駅はともに西糀谷に所在する。
道路
- 東京都道311号環状八号線
- 産業道路
- 萩中通り
施設
出身著名人
脚注
外部リンク
- 大田区