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羽田 (大田区)

日本 > 東京都 > 大田区 > 羽田

羽田(はねだ)は、東京都大田区町名。現行行政地名は羽田一丁目から羽田六丁目。郵便番号は144-0043[2]

羽田
多摩川河口の羽田漁港。遠方に羽田空港が見える。
羽田
羽田の位置
北緯35度33分0.33秒 東経139度44分48.31秒 / 北緯35.5500917度 東経139.7467528度 / 35.5500917; 139.7467528
日本
都道府県 東京都
特別区 大田区
地域 蒲田地域
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 14,604人
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
144-0043[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川

地理

大田区の南東部に位置する。北辺は環八通りに接し、これを境に大田区東糀谷羽田旭町に接する。東辺は海老取川に接し、これを境に大田区羽田空港に接する。南辺は多摩川に接し、対岸は神奈川県川崎市川崎区殿町大師河原になる。西辺は産業道路に接し、これを境に大田区本羽田萩中に接する。

北部を東西に京急空港線線路が通っており、町域内に大鳥居駅の出口(駅所在地は西糀谷)・穴守稲荷駅があり、首都高速神奈川1号横羽線が南北に縦貫している。

駅付近には商業地があり、幹線道路沿いにはビルマンションが見られるほかは、主に住宅工場、漁業設備が混在している。また、羽田空港利用者向けの、宿泊施設レンタカー業者の店舗も多く、航空安全や旅行安全で知られる穴守稲荷神社が鎮座している。

防災

東京都都市整備局2022年に公表した「地震に関する地域危険度測定調査(第9回)」では、羽田三丁目および六丁目は、地震に対する建物倒壊危険度・火災危険度および総合危険度が、五段階評価のうち相対的に最も危険とされる「レベル5」となった[4]

歴史

 
羽田沖の潮干狩り(1937年
本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。小田原北條氏の時代には羽田浦又は扇ケ浦と稱し家人行方彈正の所領となり、德川氏入國後は其の直領として代官を置かれた。元祿六年羽田村から羽田獵師町を分ち、同年更に羽田村から萩中村が分村し、文化十二年羽田獵師町から鈴木新田を分つた。天保十四年に幕府は海外の事情(阿片戰爭)に鑑み此地に奉行を置き老中眞田幸貫をして羽田奉行に任じ砲臺を築かしめた。明治元年品川縣に屬し、同年東京府の管下に入り明治二十二年に羽田、羽田獵師町、鈴木新田、糀谷、下袋、濱竹、萩中を合併して羽田村を編成したが同四十年十月町となった。漁業を以て生業としてゐる。

本町は蒲田より分岐して居る京濱電車と京濱バスを唯一の交通機関として居る。 敎育施設としては本町は面積廣き爲め、尋常高等小學校二、尋常小學校二を有する。逐年兒童が増加する結果全校二部敎授を施工するの止むなき狀態である。 其他實業補習學校二、靑年訓練所二、尋常夜學校一がある。尚東京府立工藝學校の實習所が設置されてゐる。 町内の社會事業としては方面委員制度の外見るべきものなく、町營以外では府立勞働紹介所出張所が町役場内に設置されてゐる外私設の羽田保育會託兒所がある。

町内の神社佛閣を通じて著名なものは穴守神社だけである。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町』より

元々、羽田は平治年間ごろから漁業が行われた地域であり[5]、多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れた。江戸時代には、羽田村のうち多摩川に面した一帯が、「羽田猟師町」と呼ばれる漁業専業の町となり、人家が集中し活況を呈した。

羽田猟師町が出来たのは、1693年(元禄6年)頃といわれ、漁村部が農村部と分かれる形で羽田村(現・本羽田周辺)から分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね、現在の弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から、東の大東地区(海老取川の際)までの範囲。中心に「羽田の渡し」を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く、経済力を背景とした商人も多く存在していたという。

なお「羽田の渡し」は別名「六左衛門の渡し」と称されるが、これは公許の渡しではなく、稲荷新田(右岸)の小島六郎左衛門組が営んでいた私設の渡しだったためである。正確には「六郎左衛門の渡し」或いは「六稲荷の渡し」と呼ぶ。江戸時代にはこうした村持ちの渡しとは別に、川舟がもぐりの駄賃稼ぎとして行う「脇渡船」というのが客を奪い、「六郷の渡し」の管理権を持っていた川崎宿はいつも倒産寸前の経営状態だったとされる。

羽田は多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つとして幕府から指定を受け、羽田猟師町は江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄した。

新編武蔵風土記稿」は羽田猟師町の項に、家数は300軒余りで、平田船15艘、茶船38艘があり、皆「御免言字御極印船(ごめんげんのじごこくいんせん)」であるとし、極印船は、昔大阪の役の際軍船を多く出したことによって極印を賜わったと説明している。

寛政の頃の「江戸近傍図」中、荏原郡付近の注釈に、「羽田村、漁士町の2ヵ所で300艘余りの漁船・商船・肥取船を持っている」ことが書かれている。(昭和4年の統計では、羽田町の漁船及び艀船の数1492隻、漁業人口 9,350名などとなっている。)

羽田浦は漁猟とともに、江戸廻米の船運権益を一手に握っていた。即ち、多摩川流域村からの「津出し」(幕府領の城米と旗本知行所などの年貢米を江戸へ回送する)を、他の介入を許さずに独占して請負っていたのである。

流域の村々は城米や年貢米を最寄の船着場まで馬の背で運び出し、そこから羽田浦の船方に江戸への回送を委託したのである。多摩川を利用して津出しを行っていた村々は、下流域の六郷領世田谷領川崎領稲毛領の沿川村にとどまらず、左岸では多摩郡中領(府中是政・石原・布田国領など)、右岸では都筑郡小机領・多摩郡柚木領にまで及んでいた。津出しの河岸は多くの場合古くからの渡船場が使われた。

多摩川は流れが速いわりに水量が少なく、羽田浦の茶船はせいぜい古市場(現在のガス橋多摩川大橋の中間)の河岸までしか上れなかった。そこで川上の村には、船頭が平田船の船首に曳綱を結び、川岸づたいに引張りあげたという。平田船は羽田までの川下げ専用船で、羽田で海上輸送の茶船に積み替えられて江戸に運ばれた。

天明年間(1780年代頃)になると、武蔵国荏原郡羽田猟師町で代々名主をしていた鈴木彌五右衛門という人物が、羽田村・羽田猟師町の東方にある干潟(羽田浦、今の羽田空港一丁目・二丁目付近)に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした[6]

そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという。1815年文化12年)頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[7]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本のの木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から「扇ヶ浦」とか、元々一つの小さな島があったことから「要島」と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さなを建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願して、のちの穴守稲荷神社となる稲荷大神を祀ることにする[6]

1829年文政12年)、この開墾地は羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた。その後、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田の三集落を合わせて「羽田三ヶ村」といわれるようになった[8]

町村制施行以降の沿革

地名の由来

新編武蔵風土記稿』では未詳とするが[9]

  • 海老取川を挟んだ土地の形が鳥の羽のように見える、肥沃な田地だったこと。
  • 低湿地を意味する「埴田」(はにだ)、あるいは開墾地を意味する「墾田」(はりた)から転じた。
  • 鳥の羽が落ちる田地だった。

など、さまざまな説が挙げられている[10]

催事

穴守稲荷神社の例祭や初午祭等の祭礼日には、多くの人が訪れる。

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
羽田一丁目 1,156世帯 2,357人
羽田二丁目 1,074世帯 1,943人
羽田三丁目 1,373世帯 2,489人
羽田四丁目 1,585世帯 2,586人
羽田五丁目 1,914世帯 2,894人
羽田六丁目 1,262世帯 2,335人
8,364世帯 14,604人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]

丁目 番地 小学校 中学校
羽田一丁目 1〜4番 大田区立羽田小学校 大田区立羽田中学校
その他 大田区立萩中小学校 大田区立出雲中学校
羽田二丁目 全域
羽田三丁目 全域 大田区立羽田小学校 大田区立羽田中学校
羽田四丁目 全域
羽田五丁目 全域
羽田六丁目 全域

施設

 
穴守稲荷神社

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “世帯と人口”. 大田区 (2017年12月4日). 2017年12月15日閲覧。
  2. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月15日閲覧。
  3. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月15日閲覧。
  4. ^ “地域危険度一覧表:大田区”. 東京都都市整備局 (2022年9月). 2023年1月29日閲覧。
  5. ^ 京急電鉄(2008)、P10。
  6. ^ a b 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 
  7. ^ 大田区史編纂委員会『大田区史 中巻』東京都大田区、1992年、571頁。 
  8. ^ 森重和雄『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 
  9. ^ 新編武蔵風土記稿 羽田村.
  10. ^ 京急電鉄(2008)、P8~9。
  11. ^ “通学区域”. 大田区 (2016年5月30日). 2017年12月15日閲覧。

参考文献

  • 『京急グループ110年史 最近の10年』京浜急行電鉄、2008年。 
  • 「羽田村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ40荏原郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。(NDLJP):763981/11。 

関連項目

外部リンク

  • 大田区
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