松平氏(まつだいらし)[注釈 1]は、武家・華族だった日本の氏族。室町時代に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に興った小豪族だったが、戦国時代末期の当主・松平家康は徳川氏に改姓し、その嫡流は江戸幕府の征夷大将軍となった。江戸時代に松平氏を称した家には3種あり、三河時代の分流、徳川将軍家や庶流から分家した親藩・御連枝、将軍より特に松平姓を与えられた非一族の大名家がある[2]。鳥羽・伏見の戦いにより徳川慶喜が朝敵となったのを受けて非一族全家が復姓命令に従い、松平姓を廃棄して本姓に復し、分流の一部も改姓した[3]。明治以降、松平氏からは29家が華族に列した(侯爵家1家、伯爵家3家、子爵家23家、男爵家2家)[4]。
松平氏 | |
---|---|
丸に三つ葉葵 | |
本姓 | 称・清和源氏新田氏支流 称・賀茂氏 称・在原朝臣 |
家祖 | 松平親氏 |
種別 | 武家 華族(侯爵)越前松平家 華族(伯爵)松江松平家 華族(伯爵)前橋松平家 華族(伯爵)高松松平家 華族(子爵)上記4家除く旧大名の松平 華族(子爵)松平慶民家 華族(男爵)松平斉家 華族(男爵)松平正直家 |
出身地 | 三河国加茂郡松平郷 |
主な根拠地 | 三河国 武蔵国 東京府/東京都 |
著名な人物 | 松平信光 松平清康 松平広忠 松平元康 |
支流、分家 | 松平郷松平家(武家・士族) 徳川氏(武家・公爵) その他十八松平、御家門、御連枝など参照。 |
(凡例) / (Category:日本の氏族) |
歴史
松平氏の起源
江戸期以降の改鋳も多く出自は確定できていない。『松平村誌』の「松平氏由緒書」では賀茂氏や鈴木氏の一族ではないかと推測されている。
松平氏について、同時代資料で確認できる最も古い記録は、3代松平信光以降についてのものであり、それ以前は判然としていない。
後世の徳川氏・松平氏の系譜によると松平親氏は清和源氏の新田氏の支流[注釈 2]で、上野国新田郡新田荘(得川郷)(えがわ — 、現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔(こうえい)と称する時宗の僧で、松平郷の領主・松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったと称している。
伊勢氏への被官化
同時代の史料によって実在が確認できるのは、親氏の子とも泰親の子ともいわれる3代の松平信光で、室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官となり、京都に出仕したと記録されるのが武家としての松平家の初出である。
これにより三河の足利将軍家直轄領である御料所の経営に食い込んだ信光は、松平郷から見て南の平野の玄関口である額田郡(岩津城)(岡崎市北部岩津町)に居城を移すと[注釈 3]、西三河の平野部に勢力を拡大し各地に諸子を分封して十八松平[注釈 4]と称される多数の分家を創設した。また、同じ頃(寛正年間)に近江国菅浦荘・大浦荘(滋賀県長浜市西浅井町菅浦・大浦)に派遣された京極氏の代官[注釈 5]に松平益親という人物がおり、寛正2年(1461年)10月13日、京都の日野勝光の命によって、以前から代官所を襲撃されるなど対立していた菅浦住民に軍事攻撃を仕掛ける際には、大浦住民のみならず、三河からも配下の援軍が数万騎ほど動員された[7]と記録されている。この近江の松平氏も三河の松平氏(三河松平氏)の同族の1人と考えられている[注釈 6]。
通説では、信光の系統である岩津松平家が松平家の宗家で、後の徳川宗家となる安祥松平家はその分家として位置づけられているが、実際には大給松平家の祖とされている松平加賀守(系譜では「乗元」)が信光とは別に伊勢氏被官としての地位を確保し、更に三河では大草松平家とみられる勢力が独自の動きを見せているため、後世編纂の系図よりももっと早い時期から大給・大草両家は岩津松平家から自立して独自の動きを始めていたとする指摘がある[8]。
三河守護一色氏の衰退
三河の守護は一色氏であったが、山名氏の与党でもある一色氏の勢力を恐れた室町幕府6代将軍・足利義教は、三河守護一色義貫を暗殺し、暗殺に功のあった管領細川氏の一族細川持常を突然三河守護に任じた。これにより三河国内は内戦状態になり、井ノ口砦(岡崎市井ノ口町)を拠点とした額田郡一揆も生じた。この期に乗じた幕府政所執事伊勢貞親被官の北三の松平信光や尾張出身の戸田宗光が勢力を伸ばした。応仁の乱では、松平信光は三河守護細川成之とともに、三河復権を狙う一色氏を破った。なお松平氏は信光の時の内室が(一色宗義)娘であるとされ、一色氏と姻戚関係にあったとされる[9]。
戦国期
安祥松平家の発展
戦国時代に信光は、岩津から南下し、岡崎城や安祥城を勢力下に置くなど勢力を広げ、自身の子を分立して、竹谷松平家、安祥松平家、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、(丸根松平家)、(牧内松平家)、長沢松平家といった分家を各地に置いた[10]。
信光の子のうち、碧海郡安祥城(安城市)を与えられた安祥松平家初代の三男親忠(1501年没。のち宗家4代に数えられる)は、井田野(岡崎市井田町周辺)[注釈 7]で中条氏らを破り武勇を上げたほか、当初与えられていた(鴨田郷)(岡崎市鴨田町)の館跡に、増上寺開山聖聡孫弟子の(愚底)を呼び松平氏菩提寺大樹寺を建立した[12][13][14]。また、聖聡弟子の(了暁)を開山として大恩寺(愛知県豊川市御津町)を中興し、同寺で学んだ第4子の存牛は浄土宗総本山知恩院住持を務め皇室との関係を深めた。
親忠の嫡子・長親(天文13年(1544年)没。5代)は、三河に侵攻してきた北条早雲を、岩津城下井田野(岡崎市井田町周辺)で破ったが、これらの混乱のなか宗家の岩津松平家は滅び、代わって安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。
この安祥松平家に仕えた家臣は、安祥譜代と呼ばれ、徳川最古参の家臣として、『柳営秘鑑』および『三河物語』に記載されている。とりわけ、酒井氏は松平郷時代からの家臣で、松平氏の同族ともいわれる。7代清康による山中城攻略、岡崎城攻略以降の時代は、山中譜代、岡崎譜代として、2番目に記載されている。徳川家臣団の形成に、安祥城時代が大きな影響を及ぼした。
『改正三河後風土記』に「三州十八松平家の事、徳川家是ハ御本家をさしていふ。昌安より岡崎城を清康君に献じ徳川家安祥岡崎を兼領し給ふ」と記載されており、本家・分家の関係が詳細に記述されている。
安祥松平家の台頭後も、宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代に数えられる信忠(1531年没)は一族を抑えられず、1523年に父・長親の命で若くして隠居させられた。
清康による躍進と今川氏への従属
代わって13歳で家督を相続した7代清康(天文4年(1535年)没)は翌年岡崎松平家の山中城を攻略。明大寺城、岡崎城を取得し、本拠を岡崎に移した[15][16]。岡崎の地では、城下町形成や、岡崎五人衆・代官・小代官体制などの整備を行った。清康は加茂郡・渥美郡の諸豪族を攻めて北三河・東三河まで服属させ三河の統一を進めたが、西に転戦して尾張へと進出したところで家臣に刺殺されてしまった(森山崩れ)。
8代広忠(天文18年(1549年)没)は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず、駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で小豆坂の戦いが行われた。しかし、父の清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして亡くなった。
安祥松平家による岡崎奪取以前の、「光重」-「親貞」=「昌安(信貞)」にいたる旧・岡崎城主家を、安祥家に対して岡崎松平家と呼ぶことがある。後述の「大草松平家」がこれにあたる。
家康の徳川改姓と家臣化
広忠の嫡子・竹千代(9代。元服して元康)は今川氏の人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断を余儀なくされた。一方、清康にも広忠にも公式には嫡子以外の男子がいないため(落胤がいたとの説はある)、広忠の死去当時8歳であった竹千代を後見する親族がおらず、また、竹千代の身に万が一があった場合にはそのまま松平氏の滅亡につながる状況にあった。従って、今川氏が竹千代を保護して松平氏を従属した国衆にすることで存続が図られた側面もあった。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、元康は大樹寺住職の説諭を得て生誕地の岡崎城に戻る。やがて今川氏から独立し、名を松平家康と改める。家康は三河を統一すると永禄9年(1566年)に勅許を得て、先祖義季以来の得川の名字を復活させると、さらに嘉字である徳川氏に改めた。ただし、徳川の名乗りは家康一家のみが名乗り、松平諸家の姓は松平に留めた。家康はこれにより自身の家系を松平一族中で別格の存在として内外に認知させることに成功し、「十八松平」諸家は徳川氏の親族ではなく家臣の格である「譜代」に位置付けられた(実際、十八松平諸家は重臣である酒井氏や石川氏の与力・組下とされていた)。
江戸時代
家康が江戸幕府を開き、征夷大将軍職を世襲するようになったことで徳川氏は武家の棟梁家となったが、徳川の名字を名乗れたのは将軍家、御三家嫡流(後に御三卿や、甲府徳川家・館林徳川家の両典厩家にも許される)の当主に限られ、それ以外の親族は松平を称した[17]。
たとえば、御三家の分家(連枝)は松平を用い、越前家・会津家・越智家などの親藩の家も松平を用いた。
十八松平の子孫も多くが大名となり、さらに旗本としても多数の松平家が存続した。また、これらとはべつに、豊臣政権期の羽柴姓と同様に徳川氏と縁戚関係にある一部の有力な譜代大名や外様大名にも賞与として松平の名乗りの公称が許され、これらの諸家は江戸時代には松平の姓を用いた[18]。
明治時代以降
王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍・徳川慶喜らが鳥羽・伏見の戦いを起こした。新政府は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となった[19]。これをうけて鳥取藩池田氏と岡山藩池田氏からは松平の姓をやめ、池田の本姓を称したいという願いが新政府に出された。郡山藩主・柳沢氏も1月16日の段階で松平姓を廃棄して柳沢姓に戻している[20]。
1月27日に政府は賜松平姓を受けていた大名家に対し「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる布告を出した。2月8日にも再確認の布告が出されている[3]。これにより本来の名字に代わって松平姓を名乗っていた大名家は全家が松平姓を廃棄して本来の姓に復した。また本姓が松平だった家の中からも十八松平に連なる一部の松平家(桜井松平家・大給松平家・滝脇松平家)は旧領に由来した新姓(桜井家、大給家、滝脇家)に改姓した[21][22]。また吉井藩主の鷹司松平家も封地にちなんだ吉井に改姓している[23]。
しかし、それ以外の本姓が松平の家はそのまま松平姓にとどまった。そのため松平氏を称する華族は29家にも及び、同じ名字を名乗る家の中では最も多かった。爵位の内訳は侯爵家1家、伯爵家3家、子爵家23家、男爵家2家である[4]。徳川姓の家も12家が華族(公爵家3家、侯爵家2家、伯爵家2家、子爵家1家、男爵家4家)となっているので、合わせると徳川・松平家で華族41家を占めている[4]。
侯爵になった松平家は越前松平家である。旧福井藩の現米は11万1010石であることから、叙爵内規上、本来の爵位は旧_・中藩知事(現米5万石以上15万石未満)として伯爵であるが[24]、松平春嶽の維新の功により1888年(明治21年)に侯爵に (しょうしゃく)した[25]。伯爵家となったのは越前一族の(松江松平家)および前橋松平家、ならびに水戸系の高松松平家の3家である。いずれも現米が5万石以上であったため旧・中藩知事として伯爵家に列した[24]。高松松平伯爵家は日本有数の富豪華族だった。1898年(明治31年)時の高額所得者ランキングにおいて年間所得12万5856円で第10位にランクインしている(旧武家華族で同家より上位に入ったのは前田侯爵家・島津公爵家・毛利公爵家・紀州徳川侯爵家の4家のみだった)[26]。
それ以外の旧大名だった松平家は旧小藩知事として子爵家に列している。越前松平家の分家である松平慶民も特に子爵に叙せられた。男爵に叙されたのは津山松平の分家である松平斉と、旧福井藩重臣で会津征伐において戦功をあげ、明治以降宮城県知事や熊本県知事、内務次官、貴族院勅撰議員などを歴任した松平正直(長沢松平氏)である[27]。
松平氏の本姓について
松平信光は賀茂氏[28]あるいは源姓を称していたことが知られる[要出典]。元来賀茂姓であったのを源姓に改めたものとみられる。三つ葉葵の家紋もまた賀茂氏に由来するともみられている[28]。7代清康は清和源氏(源朝臣世良田氏)と名乗ったこともある[29]。9代当主となった家康は、今川からの独立直後である永禄4年(1561年)に発給した菅沼氏への安堵状において「源元康」と署しており(「菅沼家譜」『久能山東照宮所蔵文書』)[30][31]、永禄4年から6年の間に、5点の正文を含む6点に「源氏」の署名がみられる[32]。
家康の徳川改姓と叙任の際、吉田兼右が万里小路家の文書を調査した結果、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見された[33]。この件には近衛前久が関与しており、その経緯を子である近衛信尹に送った書状が現存している[34]。このため家康の叙爵は「藤原家康'」として行われ、以降家康も藤原氏を名乗った。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている[35]。
米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、天正14年(1585年)の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、天正15年(1586年)などは不明であり、天正20年(1592年)9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していたことが明らかになっている[36][37]。米田は源氏改姓を天正20年(1592年)と見ているが、笠谷は『(聚楽行幸記)』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、天正16年(1588年)の聚楽第行幸頃の時期であるとみており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったとみている[38]。以降の現存する発給文書でも源姓となっている[32]。
松平家の歴代当主と諸分家
廃藩置県まで存続した松平を称した大名家一覧
藩名は廃藩置県時。
家康前の分流の松平家
- 形原松平家(丹波国亀山藩。維新後子爵)
- 能見松平家(豊後国杵築藩。維新後子爵)
- 深溝松平家(肥前国島原藩。維新後子爵)
- 大給松平家(三河国西尾藩。維新後子爵)
- 滝脇松平家(上総国桜井藩。維新後滝脇に改姓し子爵)
- 桜井松平家(摂津国尼崎藩。維新後桜井に改姓し子爵)
- 藤井松平家(出羽国上山藩。維新後子爵)
家康以降の男系の松平家
- 越前松平家(越前国福井藩。維新後伯爵 → 侯爵) - 秀康の次男忠昌の子孫
- 雲州松平家(出雲国松江藩。維新後伯爵) - 秀康の三男直政の子孫
- 広瀬松平家(出雲国(広瀬藩)。維新後子爵)
- 母里松平家(出雲国(母里藩)。維新後子爵)
- 前橋松平家(上野国前橋藩。維新後伯爵) - 秀康の五男直基の子孫
- 明石松平家(播磨国明石藩。維新後子爵) - 秀康の六男直良の子孫
- 津山松平家(美作国津山藩。維新後子爵) - 光長の養子宣富の子孫
- 会津松平家(陸奥国斗南藩。維新後子爵) - 徳川秀忠の庶子保科正之の子孫
- 越智松平家(石見国浜田藩。維新後子爵) - 徳川家宣の弟清武の子孫
- 徳川御三家分家(御連枝)
家康の血縁により一族に准じた松平家
その他の一族に准じた松平家
鷹司松平家は鷹司家出身で、徳川家光の正室鷹司孝子の弟信平が徳川頼宣の娘を娶って松平姓を与えられ、紀州徳川家御連枝扱いを受けている特殊な家であった。
松平氏の分家ではないが、松平姓を許された大名家
江戸幕府開府以降、徳川氏は松平氏と血縁関係のない有力大名にも松平の名字を名乗る許可を与えた。これらの大名は公的な場では松平姓を名乗り、本来の名字は使用しなかった。ただし、松平姓を名乗ったのは当主と将軍家への披露が済み、叙位任官を受けた世子に限られ、披露前の世子や一族は本来の名字もしくは別の名字を名乗った[42][43]。これらの家は先述の慶応4年(1868年)の新政府の復姓命令により全家が松平姓を廃棄して本姓に復している。
譜代大名
- 松井家(武蔵国川越藩。維新後子爵)永禄7年(1564年)賜・松平姓[44]。
- 戸田家(信濃国松本藩。維新後子爵)永禄10年(1567年)賜・松平姓[44]。
- 大河内家(上総国大多喜藩。維新後子爵)年不明だが、家康の命により家号を松平にする[45]。
- 柳沢家(大和国郡山藩。維新後伯爵)元禄14年(1701年)賜・松平姓[46]。
- 本庄家(丹後国宮津藩。維新後子爵)宝永2年(1705年)賜・松平姓[47]。
外様大名
- 前田家(加賀国金沢藩。維新後侯爵)慶長10年(1605年)賜・松平姓[48]。
- 伊達家(陸奥国仙台藩。維新後伯爵)慶長13年(1608年)賜・松平姓[49]。
- 毛利家(周防国山口藩。維新後公爵)慶長13年(1608年)賜・松平姓[50]。
- 池田家(備前国岡山藩。維新後侯爵)慶長13年(1608年)賜・松平姓[51]。
- 山内家(土佐国高知藩。維新後侯爵)慶長15年(1610年)賜・松平姓[52]。
- 黒田家(筑前国福岡藩。維新後侯爵)慶長17年(1612年)賜・松平姓[53]。
- 蜂須賀家(阿波国徳島藩。維新後侯爵)慶長20年/元和元年(1615年)賜・松平姓[54]。
- 島津家(薩摩国薩摩藩。維新後公爵)元和3年(1617年)賜・松平姓[55]。
- 浅野家(安芸国広島藩。維新後侯爵)寛永4年(1627年)賜・松平姓[56]。
- 前田家(越中国富山藩。維新後伯爵)寛永8年(1631年)賜・松平姓[57]。
- 前田家(加賀国大聖寺藩、維新後子爵)寛永11年(1634年)賜・松平姓[56]。
- 鍋島家(肥前国佐賀藩。維新後侯爵)正保5年/慶安元年(1648年)賜・松平姓[58]。
- 池田家(因幡国鳥取藩。維新後侯爵)年不明、賜・松平姓[59]。
- 池田家(播磨国福本藩。維新後男爵)年不明、賜・松平姓[60]。
脚注
注釈
- ^ もともとは(松本氏)と呼ばれたという[1]。
- ^ (谷口雄太)は、「新田氏流」という概念は軍記物の『太平記』によって生み出された概念で同時代(室町・戦国期)の武家故実の文献などでは全て新田氏は足利氏の支流となっていることを指摘し、世良田氏・得川氏も足利氏の支流と定義するのが正しく、家康もそうした理解をしていたとする[5]。
- ^ 岩津進出は泰親のときという説もある。
- ^ 松平宗家である安祥松平家、すなわち後の徳川宗家も含む。
- ^ 菅原正子は、『山科家礼記』の記述を元に当時の菅浦は公家である裏松日野家領であり、益親もその家臣・代官であったとする[6]。
- ^ 「徳川家譜」(『好古類纂』収録)によれば益親は2代泰親の子だとされる。
- ^ 現在、井田町との境に近い鴨田町字向山の西光寺の境内に「井田野古戦場」の看板が建っている[11]。
出典
- ^ 丹羽 1990, pp. 76–77.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『(松平氏)』 - コトバンク
- ^ a b 井戸田 1985, p. 41.
- ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 322 - 364.
- ^ 谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」『史学雑誌』122巻12号(2013年(平成25年))/所収:谷口『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年(令和元年)) ISBN (978-4-642-02958-2) 2019年、P184 - 191・202.
- ^ 菅原 1998, pp. 175–178.
- ^ 『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』、清水克行、2021年(令和3年)6月発行、新潮社、P71
- ^ (柴裕之) 編『シリーズ・織豊大名の研究 第十巻 徳川家康』(戎光祥出版、2021年(令和3年)) ISBN (978-4-86403-407-4) 柴裕之「総論 戦国・織豊期の徳川家康の動向と研究」P11.
- ^ 平野 2002, pp. 97–101, §. 信光の妻子.
- ^ 岡崎市 2017, p. 40.
- ^ “井田野古戦場”. 岡崎おでかけナビ. 岡崎市観光協会. 2023年3月9日閲覧。
- ^ 大樹寺の歴史, p. 14.
- ^ 佐々木洋之「大樹寺の成立過程について -大樹寺と松平親忠-」『印度學佛教學研究』第18巻第1号、日本印度学仏教学会、1969年、331 - 333頁。
- ^ 岡崎市 2017, p. 79.
- ^ kotobank-松平清康, 世界大百科事典 第2版.
- ^ kotobank-松平清康, 日本大百科全書(ニッポニカ).
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『(徳川氏)』 - コトバンク
- ^ 村川 2000, p. [].
- ^ 井戸田 1985, p. 47.
- ^ 新田完三 1984, p. 327.
- ^ 世界大百科事典『(桜井氏)』 - コトバンク
- ^ 朝日日本歴史人物事典『(大給恒)』 - コトバンク
- ^ 新田完三 1984, p. 891.
- ^ a b 浅見雅男 1994, p. 123.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
- ^ 松田敬之 2015, p. 689.
- ^ a b 笠谷 1997, p. 36.
- ^ 小和田 1994, §. 松平清康.
- ^ 静岡県 1994, p. 1102.
- ^ 愛知県 2003, p. 61.
- ^ a b 笠谷 1997, p. 40.
- ^ 笠谷 1997, p. 38.
- ^ 笠谷 1997, p. 34.
- ^ 笠谷 1997, p. 39.
- ^ 笠谷 1997, p. 35.
- ^ 米田 1994, p. [].
- ^ 笠谷 1997, p. 46.
- ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『(久松氏)』 - コトバンク
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『(奥平氏)』 - コトバンク
- ^ 新田完三 1984, p. 888.
- ^ 村川 2000, §. 松平氏下賜の授受具体像と基本的性格.
- ^ 三田村 1997, p. [].
- ^ a b 新田完三 1984, p. 770.
- ^ 新田完三 1984, p. 147.
- ^ 新田完三 1984, p. 326.
- ^ 新田完三 1984, p. 823.
- ^ 新田完三 1984, p. 227.
- ^ 新田完三 1984, p. 433.
- ^ 新田完三 1984, p. 870.
- ^ 新田完三 1984, p. 170.
- ^ 新田完三 1984, p. 318.
- ^ 新田完三 1984, p. 722.
- ^ 新田完三 1984, p. 559.
- ^ 新田完三 1984, p. 210.
- ^ a b 新田完三 1984, p. 704.
- ^ 新田完三 1984, p. 577.
- ^ 新田完三 1984, p. 352.
- ^ 新田完三 1984, p. 567.
- ^ 新田完三 1984, p. 730.
参考文献
- 愛知県史編さん委員会編『愛知県史』 資料編 11(織豊 1)、愛知県、2003年3月。(全国書誌番号):(20418662)。
- 井戸田博史「平民苗字必称令 : 国民皆姓」(PDF)『法政論叢』第21巻、日本法政学会、1985年、39-48頁、NAID 110002803974。
- “第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. 2022年6月3日閲覧。
- 小和田哲男 著「松平清康」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年11月。ISBN (4023400521)。
- 笠谷和比古「徳川家康の源氏改姓問題」(PDF)『日本研究』第16号、国際日本文化研究センター、1997年、33-48頁、NAID 40004808755。
- “松平清康”. コトバンク. 2018年11月3日閲覧。
- 静岡県 編『静岡県史』 資料編 7 (中世 3)、静岡県、1994年3月。(全国書誌番号):(95022585)。
- 菅原正子『中世公家の経済と文化』吉川弘文館、1998年1月。ISBN (4642027629)。
- 丹羽基二『名字でここまでわかるおもしろ祖先史 : あなたは一体どこから来たのか』青春出版社〈プレイブックス〉、1990年2月。ISBN (4413015185)。
- 平野明夫『三河松平一族』(初)新人物往来社、2002年5月。ISBN (4404029616)。
- 三田村鳶魚 著、朝倉治彦 編『武家の生活』中央公論社〈中公文庫, 鳶魚江戸文庫; 11〉、1997年7月。ISBN (978-4122029002)。[所収、浅野長勲講演録 非専門家向けの内容要旨]。
- 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年6月。ISBN (4823105281)。
- 村川浩平「肥前佐賀藩、鍋島氏への松平氏下賜」『駒沢史学』第87号、駒沢史学会、120-137頁、2016年12月。ISSN 04506928。
- 米田雄介「徳川家康・秀忠の叙位任官文書について」『栃木史学』第8号、国学院大学栃木短期大学史学会、1994年3月、ISSN 09141960。
- 新行紀一『大樹寺の歴史』大樹寺、1983年4月17日。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- (新田完三)『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- (松田敬之)『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN (978-4642014724)。