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柳営秘鑑

柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)は、江戸幕府年中行事、諸士勤務の執務内規、格式故事、旧例などを記した書物。幕臣の菊池弥門著。寛保3年(1743年)に成立した。10巻。

概要

『柳営秘鑑』は、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などを記載しており、三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)などが記載されている。著者は菊池弥門。原本(定本)は10巻。ただし続巻が多く、『後編柳営秘鑑』(12巻)、『拾遺柳営秘鑑』(5巻)、『柳営秘鑑脱漏』(12巻)、『温知柳営秘鑑』(12巻)、『残集柳営秘鑑』(10巻)、『新益柳営秘鑑』(10巻)がある。

江戸幕府の教育施設で林羅山に由来する昌平坂学問所の旧蔵本が、はじめの10巻と続巻を含めた形で原本として存在する。国立国会図書館所蔵。この複製が『内閣文庫所蔵史籍叢刊』(汲古書院、1981年)から「柳営秘鑑」の題で刊行されている。

大名の格式等に関する法曹法(役所の執務内規)として用いられた。書名にある柳営とは、幕府将軍将軍家を指す用語である。ただし内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。

幕府の『柳営秘鑑』に範をとり、編纂されたものに、金沢藩前田家の『北藩秘鑑』、姫路藩の『姫陽秘鑑』(姫路市)がある。

柳営秘鑑は、民間に出回ったものではないと言う。(一橋大学附属図書館)

内容

御普代の規定

譜代大名たる「御普代」にあたる家や該当する譜代の種類を以下のように記す。

扇の御馬印について

徳川家康馬印の一つ「大馬印」の由来を述べている。大馬印の由来は諸説あるが、柳営秘鑑では(本多中務大輔家)由来説を次のように示している。

  • 「一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。」

この記述は常山紀談でも、類似した話が掲載されている。

  • 「金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸(ひのまる)附けたる馬印は、参河の設楽郡(注;宝飯郡の誤り)牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年(1563年)に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て(清田畷)にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。其子忠勝が時に至りて、永禄二年(1559年)東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。」

三つ葉葵紋の由来

徳川氏の家紋である三つ葉葵紋の由来を解説している。由来には諸説あるが、柳営秘鑑に記載されるのは酒井家由来説である。その内容は次のとおり。

  • 文明11年7月15日(1479年新暦8月2日)の安祥城攻の時、酒井家始祖・(酒井親清)が、丸盆に葵葉三つを鼎のごとく置き、熨斗、搗栗、昆布を盛って松平信光に献じた。その後この合戦に勝利をしたため、この三つ葵を酒井家の紋とすることになった。五代松平長親の時、文亀元年9月(1501年新暦10月)今川方の伊勢新九郎を撃退した際、酒井氏忠・(親重)からこの紋を返してもらう形をとって松平家の家紋と定め、酒井家には酢漿草の紋を与えたという。

研究会

  • 『柳営秘鑑』研究会(國學院大學史学科日本近世史、根岸茂夫)

写本

関連項目

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