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福釜松平家

福釜松平家(ふかままつだいらけ)は、松平氏庶流のひとつ。松平長親の次男・親盛を祖とし、三河国碧海郡福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を領したことから福釜松平家と称する。親盛は甥の松平清康に仕えて東三河平定に従い、宇利城の戦いで戦死した[2][3](ただし、戦死したのは2代目の親次であるとする系図もある)。

福釜松平家
嫡流元禄12年(1699年)絶家)
丸に対い梅(まる に むかいうめ)[注釈 1]
本姓 伝・清和源氏松平庶流
家祖 松平親盛
種別 武家
出身地 三河国碧海郡福釜
支流、分家 伝次郎康珍家(武家)
東次郎康胤家(武家)
三郎次郎康年家(武家)
宇右衛門康能家(武家)
(凡例) / (Category:日本の氏族)

嫡流元禄年間に絶家となったが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では庶家4家が旗本として存続している。


沿革

 
(福釜城)跡にある福釜城主松平家塋地の碑
 
福釜松平家の菩提寺である宝泉院
 
福釜松平家三代の墓(右から初代親盛、2代親次、3代親俊)

松平親盛(三郎次郎、右京亮)は長親から福釜・東端の両村を与えられて福釜に住し[4]、宝泉院などを創建した。2代目の松平親次(三郎次郎、右京亮)は幼少時より松平清康に仕え、その武勇により「鎗三郎次郎」と呼ばれたという[4][注釈 2]。ただしこの2代の年代は不透明であり、後述する宇利城攻め時の当主など、矛盾する事績が伝えられている(松平親盛参照)。

松平清康が(宇利城)を攻めた際(『寛政譜』や『三河物語』によれば享禄3年(1530年))、福釜松平家の当主「松平右京亮」は、松平信定(親盛の桜井松平家)とともに大手口の主将を務め[5]、城方(熊谷氏)が突出して松平軍が敗走する中で踏みとどまって勇戦して討死した[6]。この「右京亮」は、『三河物語』によれば親盛である[注釈 3]。一方『寛政譜』によれば親盛は「某年」に没したとあり[4]、宇利城で戦死したのは親次(28歳)とされる[6][注釈 4]。宇利城跡には、江戸時代に建てられた松平右京亮の供養塔がある[注釈 5]

3代目の松平親俊(三郎次郎、左馬助)は松平広忠徳川家康に仕えて軍功があった[6]。天正9年(1581年)に親俊が病死した際[注釈 6]、実子の松平康親(三郎次郎、右京亮、のち筑後守)は幼少であったが型通り家督を継ぐことが認められた[6]。なお、親俊は酒井忠次の四男・(松平久恒)(甚三郎)を養子としていたが、久恒は「ゆへありて」実家に帰っている[6]

康親は、家康の関東転封後下総武蔵両国に若干の領地を与えられ、大番頭を務めた[6]関ヶ原の戦いののち、旧領福釜を与えられる[6]慶長10年(1605年)に従五位下に叙せられ、家康から偏諱を受けて「康親」と称した[6]子孫はこの前例により「」の字を用いるという[6])。その後、康親は伏見城番を務め、大坂の陣にも加わった[6]

元和3年(1618年)、康親の病死に伴い息子の(松平康盛)が家督を継承すると、下総国香取郡三河国碧海郡福釜で1100石領知朱印状を下され、御小姓組に列した[6]。なお、康親の三男の康勝は御小姓組番士から三の丸御膳奉行などを歴任、500石を知行した[9]

康盛の二男・(松平康俊)は300石を弟の康末(康盛の五男)に分け、800石の知行を継いで御先手鉄砲頭を務めた[1](なお、康盛の長男・康次は御小姓組番士として出仕しているが早世している)。康盛の三男・(松平康兼)は徳川頼房を娶り、水戸藩で家老を務めて1500石を知行した[注釈 7]。このほか、康済(康盛の四男)は慶安4年(1651年)に召し出され徳川綱重付きとなり、徳川家宣の江戸城西の丸入りに従って幕臣に復帰、康行(康盛の六男)は正保3年(1646年)に徳松(徳川綱吉)付きの小姓として召し出されたが、慶安4年(1651年)に継嗣なく死去した[1]

康俊の跡は、康兼の子(母は徳川頼房の娘)の(松平康兆)が養子となって継ぎ、御書院番、御小姓組番頭などを務める[1]。しかし、康兆は元禄8年(1695年)に39歳で死去、康兆の子の(松平康永)も元禄12年(1699年)に8歳で死去したため、嫡流は無嗣断絶(絶家)となった。

『寛政譜』編纂時には、幕府旗本として4家[注釈 8]が存続している。また、松平親俊の養子であった久恒の子孫は、庄内藩酒井家重臣(松平甚三郎家・松平武右衛門家)として続いた。

備考

  • 福釜松平家の菩提寺である安城市(福釜町)の宝泉院には、初代親盛から三代親俊までの肖像画が残る(安城市指定文化財[注釈 9])。
  • 西福釜松平家は、松平親忠の子・松平親光(親盛の叔父)を祖とする家で、福釜のうち西端など5村を領したと称するが、家伝に混乱があり、福釜松平家との混同があることが『寛政譜』で指摘されている[12]。西福釜家の発祥として『寛政譜』が記録する異説の中には「松平親盛の末子・甚三郎親長が西福釜家の始祖である」とする説もある[12]

系図

凡例 1) 実線は実子、点線は養子 2) 数字は家督継承順。 
松平長親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信忠
松平宗家
親盛1信定
桜井松平家
義春
東条松平家
利長
藤井松平家
 
 
 
 
親次2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
親俊3(上田元秀)(盛次)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(久恒)[* 1]康親4(親重)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(康盛)5(盛重)(康勝)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(康次)(康俊)6(康兼)(康済)(康末)(康行)(原田種之)
 
 
 
 
 
 
(康兆)7(康兆)
 
 
 
 
(康永)8
系図注
  1. ^ 酒井忠次四男

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 『寛政譜』による[1]。もとは葵を用いていたが、康親のときに憚って梅を用いるようになったという[1]。『寛永譜』によれば「梅紋」[1]
  2. ^ 親次が使用した(助宗)の槍は、『寛政譜』時点では子孫の松平康珍の家に伝えられているという[4]
  3. ^ 宇利城跡の現地掲示板(新城市教育委員会作成)では、宇利城大手で戦死した「松平右京亮」を親盛としている[7][8]
  4. ^ 『寛政譜』には、ともに討ち死にした(天野忠俊)以下の家臣の名も列挙されている[6]
  5. ^ 供養塔は、寛保3年(1743年)に当地の領主であった安部信平岡部藩主)によって建立されたもの[8]
  6. ^ 『寛政譜』によれば、天正9年(1581年)6月に徳川家康二俣城に進発した折に親俊も同行したが、鳥羽山の陣所でにわかに発病、家康自ら薬を与えて福釜に返したが、7月12日に没したという[6]
  7. ^ 松平康兼(八左衛門・駿河守)は寛永年間に水戸藩に仕えた。子の康兆を本家の養子としたためか、水戸藩家老松平八左衛門家は無嗣となり、元禄7年(1694年)に1代で絶家している[10]:220
  8. ^ 松平伝次郎康珍(康済の長男の家系)、松平東次郎康胤(康済の二男の家系)、松平三郎次郎康年(康末の家系)、松平宇右衛門康能(康勝の家系)。
  9. ^ 文化財としての指定名称は「絹本著色 福釜松平三代像」3幅[3][11]

出典

  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.21。
  2. ^ “松平親盛”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年8月10日閲覧。
  3. ^ a b “絹本著色 福釜松平三代像”. 安城市文化財目録web. 2021年8月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19。
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.19-20。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.20。
  7. ^ “宇利城”. 新城・勝手に応援隊 (2014年5月28日). 2021年8月3日閲覧。
  8. ^ a b “宇利城址” (pdf). 史実・史跡. 富岡ふるさと会館. 2021年8月3日閲覧。
  9. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.24。
  10. ^ 三鬼清一郎「水戸藩家臣団の形成過程」『名古屋大学文学部研究論集』第74号、1978年、2021年8月2日閲覧 
  11. ^ “安城市指定文化財リスト(令和3年4月1日現在)” (pdf). 指定・登録文化財. 安城市. 2021年8月3日閲覧。
  12. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226。

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜』巻第四
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』((国民図書)、1922年大正11年)) 国立国会図書館デジタルコレクション (日本語)
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