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羽柴氏

羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、武家士族だった日本の氏族。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は織田家重臣となった後の1575年木下から羽柴に改めた[1]1585年関白に就任するに際し近衛前久の養子となって藤原姓、翌年太政大臣就任に及んで朝廷から豊臣姓を受けた[1]。秀吉政権下では一族や大名などに羽柴氏が称号として授与された。1615年大坂夏の陣豊臣秀頼が自害に追いやられたことで宗家は滅亡。明治になると日出藩木下家の分家の交代寄合だった(俊清)が羽柴に改姓して士族に列した[2]

羽柴氏
五七の桐
本姓 豊臣朝臣
家祖 羽柴秀吉
種別 武家
士族
出身地 尾張国愛知郡中村
主な根拠地 近江国長浜城
山城国伏見城
摂津国大坂城
著名な人物 羽柴秀吉
羽柴秀長
羽柴秀次
羽柴秀俊
(凡例) / (Category:日本の氏族)

ただし、同時代の出羽国にも「羽柴」姓を名乗る一族がいた。『(羽源記)』に名の見える羽柴勘十郎(橋間勘十郎、柴橋頼綱)などがいるが、この大江氏寒河江氏の一族は上記の羽柴氏とは血縁などの関係はない。詳しくは「柴橋氏」の項目を参照。現在も山形県には羽柴を名乗る家が存在する。

概要

織田信長の家臣であった秀吉は、はじめ名字は「木下」を用いていた。木下氏の由来は諸説があり、秀吉の氏素性は確かではなく、秀吉は名字を持たない無姓の下層民出身ではないかという説も根強くある。桑田忠親は、秀吉の妻となったねねの実家が播州龍野の「木下氏」の出であったので、名字を持たなかった足軽の秀吉が結婚を機に武士身分らしく「木下」を名乗ったものであるとする[4]。一方で、秀吉の父木下弥右衛門浅井氏の庶流浅井忠政の弟・昌盛法師が還俗して近江高島氏の木下越中守高泰の娘を娶り木下弥助国吉と名乗ったことに始まるとする説もある[5]。秀吉の母大政所の姉妹たちが、青木重矩青木一矩の父)・(小出正重)(小出秀政の父)といった武士階級に嫁いでいることからまったくの下層民というわけでもないと推測することもできる。いずれにせよ秀吉が歴史に姿を現すのは、信長が美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが最初である[7]

その後、秀吉は戦功を重ねて信長の有力部将として台頭する。木下から羽柴に改めたことを示す最初の例は、元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状[8]であり「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。『信長公記[9]では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、同年8月条では(虎御前山)に建設された砦の「定番(じょうばん)」として「羽柴藤吉郎」の名が記されている。

名字の変更について、竹中重門の『(豊鑑)』 には以下のようにある。

其頃信長の心に叶ひののじる柴田修理亮勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人の名字を、一字づゝ賜らんとて、丹羽の羽に、柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しとなり。 — 『豊鑑』、近世日本国民史[10]

『豊鑑』はこれを永禄6年以前の記事として掲げているが、秀吉は永禄11年4月16日付書状で「木下藤吉郎」と署名していて、明らかに一次史料と矛盾する[10]

羽柴の由来をめぐって、徳富蘇峰は、木下から羽柴に替えた時期を「元亀の末より天正の始め」と推定し、筑前守を称したのも「天正3、4年」とした[10]。蘇峰は天正2年の書状を羽柴姓の初出としているが、前述のように、羽柴の名字を用いるようになったのは元亀4年以後とされる。丹羽と柴田から取ったかどうかについては、渡辺世祐丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を組み合わせたものだとそのまま受け入れ[11]小和田哲男も「羽柴の名の由来であるが、信長の重臣である柴田勝家の”柴”と丹羽長秀の”羽”を一字ずつもらいうけ、羽柴としたことは言うまでもない」[12]と書いている。蘇峰も概ね『豊鑑』を受け入れつつも「随分笑止な事と云わねばならない」[13]と書き、信長の機嫌をとるための行為だったとして冷笑的に秀吉を「信長学の大博士だ」と評している[14]

これらは一次史料に基づかない後世の推測に過ぎないものの、秀吉は二人の養子に「秀勝」という諱を重複して与えて執着しており、そのつくりが丹羽長秀の下の諱(「秀」)に柴田勝家の上の諱(「勝」)を敷かせる、という羽柴性と同じ構造を持っているに着目し、これをもって羽柴性の丹羽・柴田両姓合成説の補強とする見方もある[要出典]

信長が本能寺の変で横死し、秀吉が代わって天下人の座に就くと、秀吉の発給する文書はその地位の向上にともなって必然的に尊大化・薄礼化し、あるいは奉書にとって代わられ、直状も単に「秀吉」とのみ署名したもの、花押のみ署したもの、印判のみ押したものなどで占められ、羽柴名字の使用例は見られなくなる。天正13年(1585年)10月13日付の伊達政宗の重臣遠藤基信宛書状に「羽柴筑前守」と署名したのが秀吉が羽柴名字を使用した最後の例である[15]。ただし、単に使用されなくなっただけで、秀吉がさらに別の名字に改めたというわけではない[16]。秀吉は本姓としてはじめ平姓を用い、関白就任時には藤原姓に改め、その後、新しい姓を創始して豊臣の姓を用いたが、氏と姓の違いがあり、羽柴に代えて豊臣にしたというわけではない。

慶長20年(1615年)5月、大坂の陣で秀吉の後継者豊臣秀頼が自害に追い込まれ、羽柴宗家は滅亡した。

豊後国日出藩木下家の分家で5000石の交代寄合だった(木下俊清)が明治5年(1872年)3月10日に羽柴に復姓した[2]

明治17年(1884年)に施行された華族令華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元交代寄合が元高家とともに男爵に含まれており、羽柴家も男爵位を授けられるべき家に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため結局羽柴家は士族のままだった[17]

羽柴俊清の息子(羽柴俊朗)はその後も明治から大正にかけて叙爵請願運動を盛んに行っており、本家の木下俊哲子爵からも叙爵請願が行われているが、結局実現せず同家は士族のままだった[18]。豊臣秀吉に所縁のある羽柴姓は、現代においてはこの一族だけである。

主な構成員

秀吉の一族に対する羽柴名字・豊臣氏下賜の文書は一切残されておらず、一族に対しては下賜の手続きは省略されていたと見られている[19]

羽柴宗家
秀吉の近親者
羽柴秀長→秀保家(大和羽柴家)
  • 当主:羽柴秀長(秀吉の弟)
  • 正妻:お藤((秋篠伝左衛門)の娘)
    • 長男:小一郎 (木下与一郎とも。夭折)
    • 娘:大善院(毛利秀元の妻)
    • 娘:おみや(秀保の妻)
    • 養子:羽柴秀保(秀長の死後家督を継承。三好吉房とともの息子。早世)
    • 養子:仙丸丹羽長秀の三男。その後藤堂高虎の養子となり高吉と名乗る。名張藤堂家の祖)
羽柴秀勝家(岐阜羽柴家)
羽柴秀次家(近江→尾張羽柴家・宗家)
羽柴秀俊家(丹波羽柴家)
羽柴秀頼家(大坂羽柴家・宗家)
  • 当主:羽柴秀頼(秀吉の実子。側室の子。関白職に就くことを徳川将軍家に阻止され、後に滅ぼされた)
  • 正妻:千姫徳川秀忠の娘)
羽柴利次家(近江木下家)
  • 当主:羽柴利次(秀吉の未亡人北政所の養子となり羽柴宗家の後継者とされるも幕府に羽柴公称を許されず一旗本木下家の当主に格下げされた)

血縁の有る親戚

系図

1) 実線は実子。 2) 点線は養子。 
木下弥右衛門
 
 
 
 
 
 
竹阿弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三好吉房
 
 
 
 
 
羽柴秀長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
羽柴秀次羽柴秀勝羽柴秀保
 
 
秀保
 
 
 
高台院
 
 
 
羽柴秀吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利次[* 1]石松丸秀勝鶴松秀頼於次秀勝[* 2]秀次秀康[* 3]秀勝秀俊[* 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国松天秀尼仙千代丸百丸十丸隆清院完子
  1. ^ 足守藩主・木下利房次男。羽柴宗家滅亡後に高台院の養子となるが、高台院の死後、木下氏に復姓。
  2. ^ 織田信長四男。
  3. ^ 徳川家康次男
  4. ^ 木下家定五男。

称号としての羽柴名字

秀吉は、近親者以外にも羽柴の名字を与えている。最初の例は、天正10年(1582年)10月の堀秀政に対するものである[20][21]。その後、旧主であった織田一族、かつて秀吉の同僚であった大名、あるいは天下統一の過程で臣従させた大名などを中心に、羽柴名字の授与が行われている[22]。秀吉が没する直前には直臣層への授与が盛んに行われており、主従関係の強化を図ったものと見られている[23]

羽柴の名字名乗りは徳川家康のような大身大名から、二千石の織田信高までと幅広い[23]。これらの羽柴名字は「家」に対してのものではなく、個人に対する称号であると考えられている[24]。秀吉は同様に近親者以外への「豊臣朝臣」の氏姓の授与も行っている。豊臣朝臣の授与は叙位任官と同時に行われるケースが多く、多くの大名・直臣は羽柴苗字の授与を受けないまま豊臣朝臣を受けている[25]。また羽柴の名字のみで、豊臣氏を受けていない例も少なくない[25]

羽柴の名字は一定程度既成事実として定着し、江戸幕府成立後も島津家久細川忠興池田輝政福島正則など一部の大名がその使用を続けている。大阪の役後は、羽柴の名字を用いる家系は徐々に姿を消した。

羽柴名字を称した人物

名字の名乗りは官位授与時の口宣案のような明確な資料が存在しないため、下賜を受けた年月日を特定することは困難である[19]。このため古文書・日記類等によって、この時期に羽柴名字を称していたことが明らかなものについて記述する。

長宗我部元親(静岡県史料)[29]

天正20年(1592年)2月21日、第1次朝鮮出兵の際の陣立書(『毛利家文書』)[30]

  • 文禄4年(1595年)7月20日、秀次誅殺後に秀頼への忠誠を誓わせた起請文(『毛利家文書』)[27]

家譜・系図・編纂資料等で羽柴名字を称したとされる人物

黒田基樹は「慶長期大名の氏姓と官位」[16]で、下記の人々を挙げている。

信憑性が低い史料に残る人物

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『ねねと木下家文書』(1982年、山陽新聞社
  2. ^ 中村孝也『徳川家康文書の研究』(1967年、吉川弘文館

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『(豊臣氏)』 - コトバンク
  2. ^ a b 松田敬之 2015, p. 570.
  3. ^ 小和田 2007, p. 100.
  4. ^ 桑田忠親『豊臣秀吉研究』による[3]
  5. ^ 中興武家系図(宮内庁所蔵)
  6. ^ a b c 三鬼清一郎『豊臣秀吉文書目録』名古屋大学文学部国史学研究室、1989年
  7. ^ 「(坪内文書)」[6]
  8. ^ 「(離宮八幡宮文書)」[6]
  9. ^ 奥野高広岩沢愿彦校注 『信長公記』 角川書店〈角川文庫〉、1969年
  10. ^ a b c 徳富 1935, pp. 38–39.
  11. ^ 渡辺世祐『蜂須賀小六正勝』雄山閣、1929年、9頁。 
  12. ^ 小和田 2007, p. 110.
  13. ^ 徳富 1935, p. 39.
  14. ^ 徳富 1935, pp. 38–41.
  15. ^ 山鹿素行武家事紀巻第31』[6]
  16. ^ a b c 黒田基樹 「慶長期大名の氏姓と官位」 『日本史研究』414号 日本史研究会、1997年
  17. ^ 松田敬之 2015, p. 128.
  18. ^ 松田敬之 2015, p. 568.
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 村川浩平 1996, p. 73.
  20. ^ 「(神照寺文書)」[16]
  21. ^ 村川浩平 1996, p. 61.
  22. ^ 村川浩平 1996, p. 61-63.
  23. ^ a b 村川浩平 1996, p. 63.
  24. ^ 村川浩平 1996, p. 60、68.
  25. ^ a b 村川浩平 1996, p. 68.
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 村川浩平 1996, p. 74.
  27. ^ a b 二木謙一 「秀吉政権の儀礼形成」 桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』 新人物往来社、1981年。
  28. ^ a b 村川浩平 1996, p. 77.
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 村川浩平 1996, p. 75.
  30. ^ 小和田哲男 「陣立書にみる家臣団の形成」 杉山博渡辺武・二木謙一・小和田哲男編『豊臣秀吉事典 コンパクト版』 新人物往来社2007年
  31. ^ 村川浩平 1996, p. 75-76.
  32. ^ a b 村川浩平 1996, p. 76.

参考文献

  • 小和田哲男『豊臣秀吉』 〈784〉、中央公論社中公新書〉、2007年。ISBN (412100784-0)。 初版1985年。
  • 徳富猪一郎国立国会図書館デジタルコレクション 『豊臣氏時代 甲篇』 第4、民友社〈近世日本国民史〉、1935年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223724/36 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』第49巻、駒沢史学会、1996年。 
  • (松田敬之)『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN (978-4642014724)。 
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