林 一吉(はやし かつよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩家老。土佐国高岡郡窪川城主。家禄は5000石。
生涯
尾張国の戦国大名・織田信長の筆頭家老・林秀貞の三男として美濃国岐阜城下にて誕生した。初名は勝吉。
父同様、織田信長に仕えるが、天正8年(1580年)8月18日、父・秀貞と共に信長によって追放される。山城国に籠居していたが、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀による本能寺の変によって信長が討たれると、播磨国姫路に赴いて織田家臣の山内一豊に仕えた。これは一豊とは旧知の間柄で、「互いにどちらか、先に領主と成った方に仕えよう」[1]と約束をしていたためといわれる。一豊から偏諱を受け一吉(かつよし)と改める。また林伊賀守と称した。
以後家臣として活躍し、天正13年(1585年)に近江国長浜城主となった山内一豊に従い、近江に移る。天正18年7月(1590年8月)、豊臣秀吉の北条氏政征伐の時、江州長浜より出陣し、櫓を攻め取り功名を挙げる。同年、一豊が遠江国掛川移封に伴い、遠江で500石を与えられた。
慶長5年(1600年)、陸奥国会津の上杉征伐には嫡子・勝久を出陣させ、自らは寺村重友と共に留守居役となる[2]。慶長6年(1601年)、主君・一豊が土佐9万8000石に封じられると、「山内」の名字と土佐高岡郡仁井田・窪川両郷を与えられ、代官兼窪川初代家老職を命じられる。その後、窪川城を修築して城下町の基礎を作り、荒野を開拓させ新田開発に尽力した。
慶長9年(1604年)、死去した。
系譜
美濃(林氏)は、越智姓で伊予河野氏の支流。林勝吉の父林秀貞はもと織田信長の家臣。勝吉が山内一豊に仕え、土佐入国の時に窪川を領して以降、6代110年にわたって善政を敷く。
家臣
- 多賀五郎兵衛
- 浅野弥左衛門
脚注
出典
- 『皆山集』
- 『南路志』
- 『窪川林家録』
- 『御侍中先祖書系圖牒』
- 『三百藩家臣人名事典』
- 『土佐藩家老物語』