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青春の門

青春の門』(せいしゅんのもん)は、五木寛之1969年昭和44年)6月から『週刊現代』に断続的に連載している大河小説1994年平成6年)4月の第8部まで断続的に連載され、2017年(平成29年)より23年ぶりに連載を再開した[1]

戦後、筑豊の地に生まれた少年の、人生への旅立ちを雄大な構想で描く。

小説

概要

福岡県筑豊に生まれた伊吹信介を主人公とする群像小説で、シリーズ累計で2,200万部に迫る大ベストセラーとなり、1976年昭和51年)に吉川英治文学賞を受賞。テレビドラマ化や映画化、漫画化もされた[1]

筑豊篇、自立篇、放浪篇、堕落篇、望郷篇、再起篇、挑戦篇、風雲篇(前半)と書き継がれ[2]、2017年より新章となる「新 青春の門」の連載を同誌でスタートした[3]

あらすじ

太平洋戦争真っただ中の昭和時代。九州筑豊に、一人の少年が生を受けた。彼の名は伊吹信介。父親はかつて働いていた炭鉱で「のぼり蜘蛛」と称されたが、炭鉱内の事故で早逝。義母・タエに育てられている。やがて終戦を迎え、タエは病で倒れた。彼らを取り巻く人々とのふれあいや様々な出来事を経て、信介は波乱に満ちた人生を歩み始める。

作品の舞台

など

登場人物

  • 伊吹 信介(いぶき しんすけ) - 主人公。
  • 伊吹 タエ(いぶき たえ) - 信介の義理の母親。
  • 伊吹 重蔵(いぶき じゅうぞう) - 信介の父親。炭鉱での事故により逝去。
  • 牧 織江(まき おりえ) - 信介の幼馴染。
  • 留二(とめじ) - 信介の幼馴染。「でく」と呼ばれている。
  • 塙 竜五郎(はなわ りゅうごろう) - ヤクザ「塙組」の親分。
  • 長太(ちょうた) - 塙組の一人。竜五郎からの信頼が厚い。
  • エリカ - 長太が惚れている美しい女性。
  • 金 朱烈(きん しゅれつ) - 在日朝鮮人。信介から「兄ちゃん」と呼ばれている。
  • 金 九南(きん きゅうなん) - 朱烈の弟。信介の友達。
  • 矢部 虎次(やべ とらじ) - ケンカ師。「筑後の虎」として恐れられていた。
  • 早竹 先生(はやたけ せんせい) - 野球部の顧問。
  • 梓旗江 先生(あずさはたえ せんせい) - 音楽の教師。

構成

  1. 「第1部 筑豊篇」
  2. 「第2部 自立篇」
    「第2部 自立篇」は雑誌掲載時には「立志編」とされていた。
  3. 「第3部 放浪篇」
  4. 「第4部 堕落篇」
  5. 「第5部 望郷篇」
  6. 「第6部 再起篇」
    「第6部 再起篇」までについては、1989年(平成元年)から1990年(平成2年)にかけて著者による大幅な加筆を受けた「改訂新版」が出版され、それ以後は通常はこの「改訂新版」が流通している。
  7. 「第7部 挑戦篇」
  8. 「第8部 風雲篇」
    「第8部 風雲篇」については、1993年(平成5年)7月から1994年(平成6年)4月にかけて雑誌『週刊現代』に掲載された。加筆修正の上、2016年(平成28年)12月に刊行された。
    2004年に講談社文庫から刊行された「新装決定版」は、文字を大きくし装丁を改めたもので、本文は「改訂新版」と同じである。
  9. 「新・青春の門 第9部 漂流篇」

年譜

  • 1969年(昭和44年)- 雑誌『週刊現代』で掲載開始。
  • 1970年(昭和45年)- 「第1部 筑豊篇」講談社から単行本で刊行開始。
  • 1971年(昭和46年)- 「第2部 自立篇 上」単行本刊行。
  • 1972年(昭和47年)- 「第2部 自立篇 下」単行本刊行、講談社文庫から文庫版刊行開始。
  • 1973年(昭和48年)- 「第3部 放浪篇 上」単行本刊行。
  • 1974年(昭和49年)- 「第3部 放浪篇 下」単行本刊行。
  • 1976年(昭和51年)- 「第4部 堕落篇 上」単行本刊行。
  • 1977年(昭和52年)- 「第4部 堕落篇 下」単行本刊行。
  • 1979年(昭和54年)- 「第5部 望郷篇 上・下」単行本刊行。
  • 1980年(昭和55年)- 「第6部 再起篇 上・下」単行本刊行。
  • 1980年から1981年(昭和56年)- 「第1部 筑豊篇」から「第6部 再起篇」までを『五木寛之小説全集』第17巻から第22巻に収録。
  • 1989年(平成元年)から1990年(平成2年)- 「第1部 筑豊篇」から「第6部 再起篇」までについて、著者による大幅な加筆を受けた「改訂新版」を単行本及び講談社文庫で刊行。
  • 1993年(平成5年)- 「第7部 挑戦篇 上・下」単行本刊行。
  • 2004年(平成16年)- 講談社文庫から「新装決定版」刊行開始。
  • 2016年(平成28年)- 「第8部 風雲篇」単行本、講談社文庫と電子書籍を同時刊行。
  • 2017年(平成29年)2月 - 第9部に相当する「新・青春の門」を連載開始(2018年7月まで)。
  • 2019年(令和元年)- 講談社から「新青春の門 第9部 漂流篇」単行本刊行。

映画

1975年・1977年版

青春の門
監督 浦山桐郎
脚本 早坂暁
浦山桐郎
原作 五木寛之
製作 藤本真澄
(宮古とく子)
針生宏
ナレーター 小沢昭一
出演者 田中健
小林旭
吉永小百合
大竹しのぶ
小沢昭一
仲代達矢
音楽 真鍋理一郎
撮影 村井博
編集 小川信夫
製作会社 東宝
配給 東宝
公開   1975年2月15日
上映時間 188分
製作国   日本
言語 日本語
配給収入 5億4800万円
1975年邦画配給収入5位
次作 青春の門 自立篇
(テンプレートを表示)
青春の門 自立篇
監督 浦山桐郎
脚本 早坂暁
浦山桐郎
原作 五木寛之
製作 藤本真澄
針生宏
出演者 田中健
大竹しのぶ
いしだあゆみ
梢ひとみ
高瀬春奈
小林旭
高橋悦史
梅宮辰夫
音楽 真鍋理一郎
撮影 村井博
編集 小川信夫
製作会社 東宝
配給 東宝
公開   1977年2月11日
上映時間 161分
製作国   日本
言語 日本語
前作 青春の門
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1975年2月15日に第1作、1977年2月11日に「自立篇」と題した第2作が東宝で公開された。いずれも脚本は早坂暁、監督は浦山桐郎が担当した。「自立篇」がキネマ旬報ベストテン5位に入るなど評価も高く、興行的にもヒットしたが、原作者の五木と監督の浦山との間で、キャスティングや内容描写で意見が衝突し[4]、第3部は制作されなかった[4]。こののち映像化がすべて「自立篇」どまりとなるジンクスの始まりとなる。

第1作は5億4800万円の配給収入を記録、1975年(昭和50年)の邦画配給収入ランキングの第5位となった[5]

キャスト

第1作

製作

梓旗江役がなかなか決まらず、浦山桐郎監督や藤本真澄針生宏プロデューサーは関根恵子を推したが[6]、原作者の五木寛之一人が反対した[6]。「じゃあ実物に会ったら?」と言われ、関根に会った五木が大賛成に豹変し、浦山たちに「五木さんは全然節操がない」と笑われた[6]。五木は「写真写りが悪い」と弁明した[6]。関根の出演が決まったことで、関根は景気よく脱ぐことで知られていたため[6]、主演の吉永小百合が「『青春の門』にはずいぶん脱ぐ場面がありますけれども、その道の専門家がいるから安心しました」と発言[6]。五木は憤慨し「いや、吉永さんに脱いでもらわなきゃ意味がないんで、今度は関根さんは徹頭徹尾精神的な芝居をしてもらわなきゃ困ります」とプロデューサーに抗議した[6]

第2作

1981年・1982年版

青春の門
監督 蔵原惟繕
深作欣二
脚本 野上龍雄
原作 五木寛之
出演者 菅原文太
松坂慶子
佐藤浩市
杉田かおる
若山富三郎
鶴田浩二
渡瀬恒彦
音楽 山崎ハコ『織江の唄』[7]
撮影 (仲沢半次郎)
中島徹
編集 鈴木晄
製作会社 東映京都
配給 東映
公開   1981年1月15日
上映時間 140分
製作国   日本
言語 日本語
配給収入 8.2億円[8]
次作 青春の門 自立篇
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青春の門 自立篇
監督 蔵原惟繕
脚本 高田宏治
原作 五木寛之
出演者 桃井かおり
佐藤浩市
杉田かおる
風間杜夫
平田満
城戸真亜子
西川峰子
萬屋錦之介
音楽 菊池俊輔
撮影 (仲沢半次郎)
編集 鈴木晄
製作会社 東映京都
配給 東映
公開   1982年1月23日
上映時間 137分
製作国   日本
言語 日本語
前作 青春の門
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1981年1月15日に第1作、1982年1月23日に「自立篇」と称した第2作が東映で公開された。監督は第1作が蔵原惟繕深作欣二の共同で、第2作は蔵原の単独である。

キャスト

第1作
  • 伊吹 重蔵(じゅうぞう) - 菅原文太 - 「昇り蜘蛛[注 1]」と呼ばれ、坑夫たちのまとめ役。信介が幼い頃に亡くなっている。喧嘩っ早いが人情があり男気溢れる男。
  • 伊吹 タエ - 松坂慶子 - 重蔵の妻。信介の母。愛情深く厳しく信介を育てる。普段は謙虚だが時に身を挺して行動を起こす。
  • 伊吹 信介 - (村上尚治)(赤ん坊)/(加瀬悦孝)(幼年期)/(熊谷康二)(小・中学校時代)/佐藤浩市(高校時代) - 伊吹家の一人息子。タエ、塙、金山の影響を多大に受けながら、重蔵に似て根性のある熱い性格に育つ。
  • 牧 織江 - (中嶋香葉子)(小学校時代)/菊地優子(小・中学校時代)/杉田かおる(中学校時代) - 信介の幼馴染。信介とは友達として接するが、いつしか恋心を持つようになる。16歳ぐらいで小倉で暮らし始める。
  • 牧 昌江 - 新橋耐子 - タエの近所の家のおばさん。タエと親しくしており彼女と同じ職場で働き同じく貧しい生活を送る。
  • 塙 竜五郎 - 若山富三郎 - 『塙組』の親分。生前の重蔵とは因縁の仲だが彼の死後、タエと信介を気にかける。
  • 長太 - 小林稔侍 - 塙組の組員。塙の手下。塙組と敵対する団体に塙が襲われた時に、相手のもとへ殴り込みを仕掛ける。
  • 春男 - 時任三郎 - 高校生。高校生の頃の信介と同じ学生寮で暮らす。いたずらっ子な性格で信介をからかう。
  • 矢部 虎 - 鶴田浩二特別出演) - 納屋頭と呼ばれ、筑豊の町を仕切る人物。重蔵と塙のケンカを仲裁する。
  • 金山 朱烈 - 渡瀬恒彦 - 作中の在日韓国人のリーダー的存在。昔重蔵に助けられたことからタエと信介に恩を返そうとする。
  • 梓旗江 - 影山仁美 - 高校の音楽教師。東京から飯塚に引越してきた都会的な女性。信介が異性を意識し始める相手。
  • 平野 - 石田純一 - 飯塚にある高校の野球部のコーチ。高校入学前の信介を野球部にスカウトする。
  • 羽根沢 - 金田龍之介 - 石炭鉱業会社の経営者。タエを含めて近辺の住人たちの雇い主。待遇に不満を持った金山たちと対立する。
  • 平井 亀吉 - 金井進二
  • 平井 君代 - 中島葵
  • 崔吉道 ‐ 大林丈史
  • 村田 雄蔵 - 梅津栄 - 伊吹家の近所の住人。戦争が終わったことを知り、近所の者と共に喜ぶ。
  • 木村 - 菅貫太郎
  • 呉 昌源 - 金内喜久夫
  • 李 九南 - (大小原繁)
  • 趙 隆夫 - 市川好朗
  • 鄭 奔一 - 志賀圭二郎
  • 所長 - 加藤和夫
  • 坑夫の遺族 - 荒木雅子 - 冒頭で夫を亡くし、運ばれる棺桶にしがみついて激しく嗚咽する。
  • 坑夫主 - 守田学哉小田部通麿
  • 子分 - 岩尾正隆日尾孝司、(勝野賢三)
  • 補充兵 - (世羅豊)
  • 下士官 - (小坂和之)
  • ハルミ - (井上真由美)
  • 旅館の主 - 岡嶋艶子 - 小倉で旅館を営む。終電をなくして帰れなくなった信介に、部屋を案内する。
  • ボーイ - (幸英二)
  • 係長 - (大木晤郎)
  • 親分 - (疋田泰盛)
  • 保安係 - (丘路千)、小峰隆司、(藤沢徹夫)、(大矢敬典)
  • 坑夫 - 有川正治、(奈辺悟)、畑中猛重、(西村泰治)
  • 学友 - (小野田晃弘)、(野田利明)、(篠原仁)、(室岡隆博)
  • 警察署員 - (高並功)、(秋山勝俊)
  • 芸者 - (末永容子)、(宮嶋真理子)、速水典子 - 塙たちが開いた宴会の場で、彼らを相手にお酌をする。
  • パンスケ - 松香ふたみ、(日高久美子)
  • 壇組組員 - (丹治勤)、(川本勝久)、(滝本光一郎)、(丸山俊也)、(鳥居敏彦)、(羽根田真之助) - 塙組が管轄する店で働いていたタエを、重蔵が勝手に辞めさせようとしたため手荒いやり方で引き止めようとする。
  • 玄海のチンピラ - (細川純一)、(司裕介)
  • 群衆 - 笹木俊志、(軽部仁)
  • 長屋の住人 - (藤長照夫)、(久保井法高)
  • 看護婦 - (徳永真由美)、前川恵美子、(稲垣陽子)
  • 用務員 - (宮城幸生)
  • 高校生 - (高山成夫)
  • 警防団員 - (久保政行)
  • 警官 - 白井滋郎
  • 結婚式の女 - (梅田まゆみ)
  • 少年 - (田中淳也)、(守田昌史)
  • 店の女主人 - 絵沢萠子 - 若い頃のタエの雇い主。塙の息の掛かったカフェーらしき店で働く。
  • その他 - (蓑和田良太)
  • ナレーター - 鈴木瑞穂
第2作
  • 伊吹 信介 - 佐藤浩市 - 早稲田大学入学を機に福岡から上京。自分がどういう人間か何に向いているのかを模索する。
  • 牧 織江 - 杉田かおる - 好意を寄せる信介の後を追って上京する。しかし不慣れな都会暮らしに不運が続きトラブルに遭う。
  • カオル - 桃井かおり - 娼婦。美人できっぷが良く姉御肌だが、ちょっと気難しい性格。周りで困り事があると手助けしようとする。
  • 緒方 達也 - 風間杜夫 - 信介の大学先輩。大学の劇団に所属し演出を担当。やや強引な性格で金にだらしない。
  • 河内 正和 - 平田満 - 信介の大学の同級生。緒方と同じ劇団に所属。
  • 沢野 昌子 - 城戸真亜子 - 緒方の劇団仲間。比較的裕福な家の娘。緒方や他の学生たちと共に学生運動に参加している。
  • 沢野 怜子 - (江月美穂) - 昌子の母。夫がいるのかは不明だが、緒方を用心棒代わりに自宅に間借りさせている。
  • 笹崎 ルミ - (山本ゆり子)
  • 藤井 道子 - (矢場みどり)
  • 悦子 - 片桐夕子
  • マリ - 高橋洋子
  • 静子 - 橘麻紀
  • 照代 - 緑魔子
  • 「一竜」女将 - 馬渕晴子 - 売春宿の経営者。カオルたち遊女に頑張って稼いでもらう。
  • 角田 卓治 - 火野正平 - 詳細は不明だが売春宿で働く。好意を寄せるカオルに気に入られようと色々と頼まれ事を聞いている。
  • 初美 - 西川峰子 - カオルと同じ店の娼婦で、年上である彼女を慕っている。常連客の河内に本気で恋心を抱く。
  • 浜崎 竜二 - 矢吹二朗 - ボクシングの学生チャンピオン。数ヶ月後、信介とボクシングで戦う。
  • ラーメン屋店主 - 江幡高志 - 上京直後の織江の雇い主。ある時店の金が無くなってしまい織江が盗んだと疑う。
  • 木元 良次 - 小林稔侍 - 飲み屋のマスターだが、2階に待機させた女性に売春させるガラの悪い男。織江とトラブルを起こす。
  • 二木 英治 - 萬屋錦之介(特別出演)木元の知人。『人斬り英治』の異名を持つヤクザ風の男で木元も恐れる存在。
  • おえい - 加賀まりこ - 英治の女。女郎として働く。これまで英治から義理人情を理由に苦労させられてきたが彼に惚れている。
  • 早瀬 理子 - 中島ゆたか - 石井の恋人。東京女子医大のスポーツ医学の教授。石井の子を妊娠している。
  • 石井 忠雄 - 渡瀬恒彦 - 大学の体育の実技を教える教授。ボクシングジムで、信介に個人的にボクシングを教え始める。

製作経緯

東宝版で五木と監督の浦山の意見が対立し[4]、東宝版自立編公開から2年経った1979年5月に東宝版のプロデューサーだった藤本真澄が亡くなり、五木は「このままでは『第3部 放浪篇』はデッドロックしてしまう、違う人の手で映画化しないと生きのびない」と判断[9]。藤本逝去の直後に岡田茂東映社長を訪ね[9]、「今度は是非東映でやってもらいたい」と五木から東映での製作引き継ぎを要請し[4][9]、シリーズものでは異例の他社移行が決まった[4]。五木からの条件は、本作の主人公のイメージである高倉健の主演であった[10][11]。この後五木と岡田社長とで話し合いが持たれ[4][12]、五木の希望通り、第3部「放浪篇」を製作すれば良かったのだが、東映は改めて第1部から第3部までを一本にまとめて製作することで両者が了解点に達し[4][13]、1979年秋に製作発表が行われた[4]。前作からまだ数年しか経っておらずリメイクには早過ぎ[14]、これがまたも第3部は作られないという運命を辿る。岡田は「五木氏は『青春の門』はライフワークだといっており、映画化にも強い関心を寄せている。今回東映での製作希望があったのでウチでやることになった。前二作に負けない魅力あるスタッフ、キャストで質的にもすぐれた娯楽作品を作りたい。主人公の信介、織江役を東宝作品とは違う若手スターの起用を考えている。脚本には笠原和夫を予定。1981年の正月公開を予定している」などと話した[4]。五木は「『青春の門』は60歳まで書き続けるつもり。1981年にやっと半分終わり、二年休憩してまた後半を書くつもり」などと話していたという[12]高岩淡企画製作部長は「『人生劇場』だって何本も作られているし、全く新しい東映調の『青春の門』を作り上げる。元々、五木さんは高倉健藤純子をイメージして小説を書かれたそうだし、そうした意味からも東映で製作されてしかるべきものなのだ。もちろん二人には出演依頼をするつもりでいる」と話した[4]

しかし製作は進まず。東映は年始に年間ラインアップを発表しても半分は潰れるということは珍しくなかった[15]1980年までの5年間、正月興行第一弾を担っていた「トラック野郎シリーズ」が終了し、1980年夏の時点では萬屋錦之介主演の『(仕掛人梅安)』と[10]佐木隆三原作の『海燕ジョーの奇跡』を松田優作主演・深作欣二監督で1981年の正月興行第一弾に併行して準備していたが[10]、『海燕ジョーの奇跡』を最有力にという流れが強まって来た[16][17]。『ロードショー』1980年12月号には「キャンディーズから始まって、ピンクレディー、引退した山口百恵と、この数年、日本列島を巻き込んだアイドル(スター)はみんな女性だった。女性上位や女の自立などの現象に押されて、男たちの存在は薄かった。だが、ようやく男のスターが生まれようとしている。さあ、男くささの復権だ。トップバッターは、松田優作だ。『野獣死すべし』で(三番打者)に成長した。『野獣』のあとは(四番打者)の声もかかっている。彼が次に取り組むのが深作欣二監督との『海燕ジョーの奇跡』だ。これは東映の正月映画だ。つまり、ゼニの稼げるスターの仲間入りしたということだ」などと書かれた[18]。ところが松田が脚本にクレームを付けるなど二転三転、正月興行第一弾には間に合わない状況になり[17][19]、正月興行の選定は東映内部で紛糾した[19]。『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』で凌ぐ案や[20]、深作監督の『謀叛』なども候補に挙がり[21]、『海燕ジョーの奇跡』を正月興行第二弾までずらしてまで粘ったが結局流れた[17][22]((海燕ジョーの奇跡#深作欣二版映画企画))。

1980年10月20日、東京會舘にて岡田社長、今田智憲東映動画社長、渡辺亮徳東映常務、石森章太郎明比正行監督らが出席して製作会見が行われ[23][24]、岡田社長より「1981年正月第一弾作品として長編SFアニメ『(サイボーグ009 超銀河伝説)』を『'80アニメーション ザ・ベストテン』との併映で全国一斉公開する」と発表された[23]。『サイボーグ009 超銀河伝説』は洋画系(東映洋画)で流すつもりだったが[25]、東映の本番線の正月興行としては初めてアニメが公開されることになった[11]。これに「劇映画のメジャーがアニメに逃げるとは」と撮影所内部が猛反撥した[11]

1981年の正月興行は松竹寅さん(『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』)、東宝山口百恵のさよなら映画『古都』と強力で、これに対抗する作品もなく[11]、正月興行第二弾で反撃を期待されたが[注 2]、並みの映画では代打にならず、1980年10月に入っても正月第二弾が決まらない異常事態になった[11][16]。プロデューサーの日下部五朗は、岡田社長から「五朗、お前、正月第二弾に何やんねん!」と矢の催促を受けた。このため本作『青春の門』が再浮上し[20]、五木は前作の東宝版でも伊吹重蔵役に高倉をリクエストし[26]、高倉主演が五木の東映移行の条件だったため[10][11]、高岩淡と俊藤浩滋が急いでヨーロッパ旅行中の高倉をスイスジュネーブまで追いかけ交渉したが[10][11][20]、高倉は当時東宝の『駅舎』(『駅 STATION』)の出演が決まり[10]、1980年12月のクリスマスイブから(クランクイン)が決定していたこともあり[27]松田優作の代替映画のオファーにプライドの高い高倉が難色を示し[20]、「急造の大作では責任が持てない」[10]、「泥縄仕事はいやだ」などとにべもなく断られた[10][11][20]

1980年11月11日には東映本社会議室で[28]、岡田社長や池波正太郎降旗康男監督らが出席して『(仕掛人梅安)』の製作発表があり[28]、同作を正月に公開すると発表されたため、『仕掛人梅安』は正月第二弾を意味するため、この時点では『青春の門』は正月映画としては製作されないことが確定していた。

しかし菅原文太1980年大河ドラマ獅子の時代』の主演をこなし、役者としてもスケールがさらに一段アップしたことで[10]、五木と菅原が早稲田で同門でもあり[10]、男の中の男の炭鉱夫・伊吹重蔵役は菅原でもよいと五木が了承し[10]、『仕掛人梅安』を延期させ、『青春の門』を正月第二弾作品として急ぎ製作することになった[10][29]。日下部は以前から頼んでいた野上龍雄に脚本を急いで頼み[22]、野上はテレビの『必殺シリーズ』が忙しく『青春の門』には取り掛かってなかったが、急ぎ脚本書きを始めた[19][22]

監督には野上が『必殺シリーズ』でコンビを組んでいた蔵原惟繕を推薦し[19][30]、蔵原は脚本にも参加した[19]。蔵原は本作前の『(象物語)』製作中に東映=東京12チャンネル合作による製作費10億円のパニック超大作『東京超大地震』[注 3]の監督オファーを受けていたが、同作は製作中止になっていた[31]ロケハンではチーフ助監督の(土橋亨)が撮影に重要なボタ山を北九州中探しまわった[19]。しかしふさわしい景色がなくボタ山無しでの撮影を考えたが、一般人から聞いた情報により、出光石油の(山口精製所)に元海軍の炭鉱があると聞いた[19]。現地に訪れると最盛期の炭鉱そのままといえるような光景があったという。脚本その他も遅れ、撮影は1ヵ月という状況になったため[30]、蔵原一人では間に合わない、二班体制で撮影した方がいいと蔵原が『海燕ジョーの奇跡』の分解で体が空いた深作欣二にやってもらえないかと提案し、日下部が深作に助っ人を頼んだ[14][32]。深作は快く引き受け、蔵原とシーンの分担が行われ、深作はアクション主体の演出を担当した[14][33]。深作は蔵原の日芸の二年後輩で親しく問題はなかった[14]

映画化決定の話が伝わると織江役とタエ役を「やらせてほしい」と多くの女優から売り込みが殺到したが[32]、タエ役には五木寛之松坂慶子をリクエスト[22][34]。しかし松坂は当時一番脂ののっている女優で[32]倍賞千恵子と共に松竹と専属契約を結ぶ同社の至宝[32][35]。日下部が三顧の礼を尽くして何度も松竹にお願いに上がり土下座までして[22]、最終的に岡田東映社長が松竹に乗り込み[34][36]大谷隆三松竹社長に啖呵を切り[34]、松坂の東映貸し出しが決まった[22][32][36]。当時松竹は『敵中横断三百里』という戦争映画を企画していて、この主演に東映専属の千葉真一を貸してくれと申し入れていて、貸す貸さないで揉めていた[37]。松坂の本作出演は1980年11月17日、東映本社で岡田社長から発表があった[35]。岡田は1980年12月15日に銀座東友クラブであった業界記者団との懇談会で「いまや映画の価値観が変わった。映画が芸術とか娯楽とかというテーマは、ある一部の評論家に通用するだけで、一般大衆に映画が大ヒットするか否かは、作品がいいとかどうとかではなく、イベントになり得る要素があるかないかだ。最初から仕組んだもの、イベントにならないものは大ヒットしない。角川春樹氏はプロデューサーでなくイベント屋だ。橋本忍氏も西崎義展氏も山田洋次氏もイベント屋の才能を持っている。ウチが正月第一弾に『(サイボーグ009 超銀河伝説)』を組んだのもイベント的発想によるものだ。第二弾『青春の門』で松坂慶子を松竹から借りたのは、それをイベントにするためだ。『青春の門』は講談社と提携して宣伝費2億円を投入する。81年の一年間のラインアップはもう大体固めた。春と夏は恒例のまんがまつり、6月は角川の『(魔界転生)』、お盆は秘中の秘(松田聖子主演『野菊の墓』)、秋に『大日本帝国』を準備している(1年延ばし)。とにかく81年は私はプロデューサーではなく、イベント屋に徹するつもりだ。西両撮影所とも、イベントにならないものは一切やらないのが基本的な考え方だ。『二百三高地』はイベントに仕組んで成功したものだが、社内でもイケると理解した者と出来なかった者がいた。駄目だと思った者は価値観が変わっていることに気付かなくてはならない」などと述べた[38][39]

映画の(クランクイン)は1980年11月20日[35]。松坂のクランクインは1980年11月25日で[16]、深作のクランクインも同じ日だった[32]。日下部は松坂を口説くため2ヵ月以上通ったと話しているため[30]、キャスティングは早めに進められていたのかも知れない。松坂慶子は「東映さんのほうからまずお話があって、松竹の本部長から『こういう話が来ている。撮影日数もきびしいし、大変だと思うけど、どうする』といわれたんです。東宝で吉永小百合さんがおやりになったのを拝見して、とてもすてきな役だと思ったし、それを私がやらせていただけるんならすごい光栄だし、女優であれば誰でもやりたいと考えてる役。映画化が実現するんなら、ぜひ出させてほしい。ほかの女優さんなんかがやったら、あたし、いやですッ」と強く訴えた[36]。「決まるまでずいぶん時間がかかり、一月以上、ハラハラしながら、ただ、ひたすら待っていました。『関ヶ原』(TBS7時間ドラマ)の撮影で、本栖湖ロケに行ったんですけど、ワイヤレスのマイクつけたままお手洗いに入ってしまい、出たらみんな(音を)聞いていたってことがありまして、それもこれも『青春の門』が決まるかどうかで気がソワソワして、なんかうわの空で」などと話している[36]

高倉健の出演拒否問題をマスメディアが好餌としたため、岡田社長が改めて記者会見を行い製作を発表する一幕もあった[17]佐藤浩市は本作が映画デビュー作[29]。織江役の杉田かおるも映画はこれが実質初出演となる。あわただしい製作過程でありながら、菅原文太若山富三郎鶴田浩二松坂慶子といった大スターのキャスティングに成功し、各々見せ場を披露した[16][32]。特に松坂は菅原と肌もあらわに激しい濡れ場を演じ[40]、演技的にも新境地を開いたと評された[41][42]。松坂は「(松竹と違って)東映さんはすごい男っぽさを感じました。お世辞もいわないし、とっつきにくいところもあったけど、親しくなると人情厚いし、とっても仕事しやすかったです。大変なスケジュールでの撮影でしたから、熱い渦の中に巻き込まれちゃた感じで、夢中でやりました」[36]「それまで紙芝居みたいな芝居ばかりしてきたものだから、悲しいときに人一倍悲しみを誇張した顔をしちゃうんです。今回は深作監督にすぐ見抜かれてしまって、なんだかとてもすがすがしい気がしました。ほんとにすてきな方なんですよね。なんで今まで女性映画をお撮りにならなかったんだろうと思うぐらい、女性をよくわかってらっしゃる方ですね」などと話している[36]

製作も短期決戦、宣伝も短期決戦で、クランクアップは1980年の12月末[16][43]。撮影期間は1ヶ月と大作にしては異例のスピードであった[16]京都撮影所は持てる力を出し切った。岡田は「高岩淡所長が体を本当に張ったのは『青春の門』が初めてじゃないかな」と評した[16]

映画の完成も封切1週間前の1981年1月6日[39]。地方キャンペーンに駆け回ったのは映画の封切り後で[16]、原作の知名度は高いものの、文芸大作はじっくり売り込む姿勢が勝ちのパターンというのが過去の例でもあり、本作は宣伝期間も少なく興行は不安視された[17][39]。しかし原作出版の講談社も映画を盛んにPR[16][39]、高額とされる朝日新聞に一面広告を打った他[39]、多くの地方紙にも広告を打った[39]。また五木寛之も「こんなに目茶苦茶に振り回されたのは初めて」と話すほど、精力的に雑誌インタビューやラジオの取材に応じた[39]。主演の松坂も松竹の専属女優ながら協力的で、3週間の全国キャンペーンにほぼ帯同し東映を喜ばせた[39]。1980年の年内は松坂のヌード写真はマスコミに絶対に出さないでくれと押さえて、年明けから松坂のショッキングな写真を一斉に大公開し、テレビのスポット広告や新聞広告との硬軟組み合わせで一気に話題作りを持って行った[39]

作品の評価

興行成績
松坂が初めて本格的なラブシーンを演じたこともあって大きな話題になり[22][44][45]、公開173館、36日間で[46]、(配収)8億2千万円[47][48]、7億4603万7千円の大ヒット[46]。製作原価7億5000万円[39]。当初は東映が撮るとヤクザ映画調になるのではという声もあったが、感動的な青春ドラマに仕上げ、岡田社長は「文芸大作の風格はカッチリ出たのではないか。今後東映カラーといっても原作ものを手がけることで、東映はヤクザ映画というイメージを克服、脱皮してゆくことになる。文芸大作も出来るという目安だけはこの『青春の門』の成功でついたと思う」などと話した[16]。映画デビュー作だった佐藤浩市は、丸の内東映でスクリーンに映った自分の姿を観て感激し「俳優として生きていこうと決意した」という[43]
受賞歴

エピソード

スケジュールは過密で、福岡のロケ先ではメイン監督の蔵原は寝る間もないほどだったが、助っ人の深作はパートが少なく早めに宿に帰って麻雀をうったりしていた[22][40]。そこで伊吹タエという母であり、女でありという役どころに悩んでいた松坂慶子は、最初に蔵原監督に相談をしたが[44]、蔵原から「お前の好きにしたらいい」と一言われた[44]。松坂は「どうしても納得できない」と高岩に「深作のいる旅館に連れて行ってくれ」と頼んだ[44]。初対面の松坂に深作は「タエは肉体で哲学を語る女なんだ」などと3~4時間力説[44]、高岩はその間、車で松坂を待っていたという[44]。こうした事情で深作と松坂が親しくなった[19][22]。本作の地方キャンペーンで札幌へ行ったときに、夜飲みに出て最後にみんなでラーメンを食べたら、深作の残したラーメンを松坂が啜った[22]。これを見た日下部が二人の仲に気づき、それを周囲に自慢したら、みんなに「何を今さら言っているんですか」と言われた[22]。本作を機に松坂は深作の撮る東映作品によく出るようになった[22][49]

音楽監督の山崎ハコは、同じ東映の1979年地獄』の主題歌を担当したことから、スタッフから「ハコさんで」と再び抜擢された[50]。『織江の唄』[7]はイメージソングで劇中では使われない[50]。映画館で観客の入れ替え時に流したのと、テレビスポットで盛んに使われ、山崎ハコのキャリアで一番のヒット曲になった[50]。この曲の影響で山崎に「暗い」イメージが定着した[50]

第一作のヒットを受け、五木も積極的に年1回のシリーズにしてほしいと要望[51]。しかし第一作公開後、週刊誌のインタビューで伊吹信介役の佐藤浩市が「五木小説はアマい」などと発言し五木を激怒させたが[51]、東映は一年に一本のペースでシリーズ化を発表し[51]、蔵原の単独監督で第二作『自立篇』を製作した。

第二作『自立篇』は主人公・伊吹信介が筑豊をあとにして上京、早稲田大学に入学してからの物語で舞台は東京。信介役の佐藤浩市と信介を慕って上京する幼なじみの織江役の杉田かおる以外はキャストが一新されたが、第一作で朝鮮人炭鉱労働者のボス役だった渡瀬恒彦が今度は早大教授として出演。この教授のモデルは早稲田大学商学部不正入試問題でやり玉に挙がった人物だった[52]。東宝版でいしだあゆみが好演した"二丁目のローズ"カオル役には[53][54]、五木の「彼女でなければピッタリこない」という推薦により桃井かおりが抜擢された[52][54]。前作で死んだ松坂慶子が、親に似ているという設定にするとか、また出させてほしいと頼んだがダメだった[36]。監督の蔵原惟繕は本作撮影後に4年越しの企画『南極物語』のクランクインが正式に決まり、撮影中も『南極物語』の話ばかりしていたといわれる[52]

当初は『自立篇』を1982年正月映画第一弾として予定していたが[51]、『セーラー服と機関銃』『燃える勇者』が正月映画第一弾に変更になり、公開時期が検討された[53]。前記映画に続いて正月映画第二弾の候補だったのは、沖田浩之主演、阿久悠原作による『家族の神話』で[54]、"東映ニューアイドル路線"を敷くという構想もあったが[55]、1981年のお盆映画『野菊の墓』『吼えろ鉄拳』が、東映が期待したほどのヒットでなかったことから[53]、アイドルでは客が呼べないと判断され[53]、『家族の神話』は製作中止となり[53][54]、本作『自立篇』が正月映画第二弾として公開された[53]。『セーラー服と機関銃』『燃える勇者』の二本立てが東映歴代一位を記録するヒットになるとは誰も予想していなかった[56]。しかし『青春の門・自立篇』は興行成績が振るわず、さらなる続編は作られなかった[14]。シリーズものは内容はともかく観客に与える新鮮味が第一弾と第二弾ではかなり違い[48]、東宝版も第二弾は第一弾の6ガケに留まっていた[48]。当時、噂のカップルだった火野正平西川峰子の濡れ場などもあったが[54]、第一弾で大きな反響を呼んだ松坂慶子の濡れ場のようなインパクトはなく、興行は不安視されていた[48]。興行は前作を大きく下回り、第三部『放浪篇』は製作中止になった[57]

テレビドラマ

1976年・1977年版

1976年4月7日から9月29日に第一部「筑豊編」が、1977年12月7日から1978年5月31日に第二部「自立編」が毎日放送制作(TBS系列)で放映された。

北大路欣也が本作の演技に対して、第14回ギャラクシー賞・選奨を受賞[58]

キャスト(1976年・1977年版)

第一部「筑豊編」
第二部「自立編」

スタッフ(1976年・1977年版)

放送日程

第一部「筑豊編」
話数 放送日
第1話 1976年4月7日
第2話 1976年4月14日
第3話 1976年4月21日
第4話 1976年4月28日
第5話 1976年5月5日
第6話 1976年5月12日
第7話 1976年5月19日
第8話 1976年5月26日
第9話 1976年6月2日
第10話 1976年6月9日
第11話 1976年6月16日
第12話 1976年6月23日
第13話 1976年6月30日
第14話 1976年7月7日
第15話 1976年7月14日
第16話 1976年7月21日
第17話 1976年7月28日
第18話 1976年8月4日
第19話 1976年8月11日
第20話 1976年8月18日
第21話 1976年8月25日
第22話 1976年9月1日
第23話 1976年9月8日
第24話 1976年9月15日
第22話 1976年9月22日
最終話 1976年9月29日
第二部「自立編」
話数 放送日
第1話 1977年12月7日
第2話 1977年12月14日
第3話 1977年12月21日
第4話 1977年12月28日
第5話 1978年1月4日
第6話 1978年1月11日
第7話 1978年1月18日
第8話 1978年1月25日
第9話 1978年2月1日
第10話 1978年2月8日
第11話 1978年2月15日
第12話 1978年2月22日
第13話 1978年3月1日
第14話 1978年3月8日
第15話 1978年3月15日
第16話 1978年3月22日
第17話 1978年3月29日
第18話 1978年4月5日
第19話 1978年4月12日
第20話 1978年4月19日
第21話 1978年4月26日
第22話 1978年5月3日
第23話 1978年5月10日
第24話 1978年5月17日
第22話 1978年5月24日
最終話 1978年5月31日
TBS 水曜22時台(MBS制作枠。1976.4-9)
前番組 番組名 次番組
(禁じられた美徳)
青春の門・筑豊編
(愛と憎しみの宴)
TBS系 水曜22時台(MBS制作枠。1977.12-1978.5)
青春の門・自立編
(幸福の断章)

1991年版

1991年4月11日4月12日の二夜連続で、テレビ東京系で放映された。現在は放送ライブラリー(横浜市)で視聴できる。

キャスト

スタッフ

2005年版

『青春の門-筑豊篇-』のタイトルで、『TBSテレビ放送50周年スペシャルドラマ』として2005年3月21日3月22日の二夜連続で放映された。視聴率は1日目が16.8%、2日目が13.5%。

キャスト

スタッフ

漫画

いわしげ孝の作画で「筑豊篇」が漫画化され、講談社モーニング』に連載された。講談社モーニングKCより単行本が刊行されている。全7巻。

  1. 1巻 2005年3月17日発行。(ISBN 4063724204)
  2. 2巻 2005年3月17日発行。(ISBN 4063724212)
  3. 3巻 2005年6月23日発行。(ISBN 4063724484)
  4. 4巻 2005年9月21日発行。(ISBN 4063724670)
  5. 5巻 2005年12月22日発行。(ISBN 4063724840)
  6. 6巻 2006年3月23日発行。(ISBN 4063725057)
  7. 7巻 2006年7月21日発行。(ISBN 4063725367)

演劇

脚注

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注釈

  1. ^ 原作では『昇り龍』とされるが、本作では蜘蛛に置き換えられており、冒頭のシーンでは背中に蜘蛛の入れ墨が施されている。
  2. ^ 当時、東宝と松竹の正月映画は一ヶ月以上のロングラン、東映は同期間に正月映画を基本的に前後半の第一弾、第二弾と二週づつに分けることが多かった。
  3. ^ 早坂暁のオリジナル脚本を予定していた。

出典

  1. ^ a b “「青春の門」23年ぶり再開へ 週刊現代に”. 毎日新聞 (2016年10月2日). 2021年8月19日閲覧。
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  3. ^ “語る・新 青春の門 五木寛之さん<1>連載再開に当たり 読者、書き手、媒体が交錯”. 西日本新聞 (2017年1月25日). 202-08-19閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j 「邦画新作情報『青春の門』今度は東映で映画化」『キネマ旬報1979年昭和54年)11月上旬号、キネマ旬報社、1979年、183頁。 
  5. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』キネマ旬報社、2003年、206-207頁。ISBN (4-87376-595-1)。 
  6. ^ a b c d e f g 「対談《この人、この生き方》 ききて・五木寛之(作家) ゲスト・関根恵子(女優) 『16歳で"恋"をして、もう青春は終わった…』」『スタア』1975年1月号、平凡出版、110–116頁。 
  7. ^ a b “山崎ハコ「青春の門」歌えたのは九州女だからこそ”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年7月24日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/07/24/kiji/K20160724013025840.html 2021年8月19日閲覧。 
  8. ^ 「1981年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報1982年昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、124頁。 
  9. ^ a b c “邦画四社待期の正月映画概要会見/試写会を経て檀上に”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1981年12月5日) 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l 「邦画新作情報蔵原、深作の共同監督で撮影強行」『キネマ旬報1980年昭和55年)12月下旬号、キネマ旬報社、1980年、215頁。 
  11. ^ a b c d e f g h サンデー毎日』1980年11月23日号 「正月映画が決まらずに頭が痛い東映」、p.153
  12. ^ a b 高岩淡(常務取締役)・鈴木常承(取締役営業部長)・小野田啓 (宣伝部長)、工藤昌三 (劇場部長)、大内正憲 (洋画興行部長)、聞き手・北浦馨、松崎輝夫「東映三十周年へ大きく羽搏く ―『二百三高地』を起爆剤として最高最大の企画路線を計る―」『映画時報』1980年10月号、映画時報社、13頁。 
  13. ^ 坂本良「特別企画'80年日本映画に何を期待するか東映」『キネマ旬報1980年昭和50年)1月下旬号、キネマ旬報社、146頁。 
  14. ^ a b c d e 深作欣二山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、384-387頁。(ISBN 4-89830-155-X)。 
  15. ^ 「映画・トピック・ジャーナル 大巾な改革を行った東映宣伝部」『キネマ旬報1982年昭和57年)3月下旬号、キネマ旬報社、1981年、172頁。 
  16. ^ a b c d e f g h i j 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、148-149頁。(ISBN 978-4-636-88519-4)。 
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  20. ^ a b c d e 週刊文春』1980年11月13日号 「ThiWseekドロナワでしのぐ東映の正月映画」、p.27
  21. ^ 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、146頁。(ISBN 978-4-636-88519-4)。 
  22. ^ a b c d e f g h i j k l 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、126-129頁。(ISBN 978-4103332312)。 
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関連項目

外部リンク

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