『海燕ジョーの奇跡』(うみつばめジョーのきせき)は、佐木隆三が1980年に発表した小説。また、これを原作とした1984年公開の日本映画である。沖縄の暴力団抗争が続く中で、抗争相手のトップを狙撃したヒットマンの逃避行を描く。
第4次沖縄抗争の中で起こった旭琉会理事長射殺事件(1974年10月24日)をモデルにしたフィクションである。実際は、モデルになった主犯の男は直ちに自首し、懲役13年の刑を受け服役。出所後は漁師になったが、2009年に海難事故で行方不明。
佐木は本作に先立ち、「褐色の銃弾」(「別冊問題小説」1976年春季号掲載、1977年単行本『殺人百科』に収録)で、理事長射殺事件を取り上げている。モデルの男については佐野真一が『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』で書いている。
小説
1979年、『小説新潮別冊』に4回にわたって連載された。1980年、新潮社より単行本化された。
あらすじ
沖縄の暴力団、島袋一家は琉球連合から破門される。親分の島袋は逃亡し、島袋一家が追い詰められる状況の中、ジョーは琉球連合理事長の金城を高級キャバレーの店内で射殺する。
ジョーは逃亡生活に入り、サロン「ミッチー」のママ(ミッチー姐、親分の元愛人)の紹介で黒人女性の住むハウスに転がり込む。米軍基地内で琉球連合の男に見つかるが、危ないところを、顔見知りの元革命運動家、上勢頭に助けられる。
ミッチー姐から「フィリピンの与那嶺を訪ねるように」との親分の伝言を聞き、ジョーは上勢頭の仲介で漁船に乗り、与那国、台湾を経てフィリピンに向かう。
ジョーの役目は覚せい剤ルートの強化だった。フィリピンで与那嶺から麻薬の製造法を教えられる。また、かつて自分と母を捨てたフィリピン人の父親に対面する。落ちぶれていた父親には、漢方薬と偽って覚せい剤の原料(麻黄)を栽培してもらう。
麻薬取引も軌道に乗りつつあった頃、恋人の陽子がフィリピンを訪ねてくる。陽子から、与那嶺はかつて仮想敵としていたはずの真岡組(本土の暴力団)所属であったことを知り、親分の真意を疑うようになる。
ある日の取引で身元がばれ、危ういところを陽子に助けられる。与那嶺も殺されたらしい。ジョーは偽造パスポートを手に入れ、陽子とともに沖縄へ帰る。
沖縄で親分に再会したジョーは、真岡組と手を組むことを知らされる。ジョーが逃亡している間、島袋一家への報復はすさまじく6人が殺されていた。
ジョーは琉球連合のもう1人の理事長、仲宗根を狙うことを決意する。報復で殺された男の弟とペアを組み、ついに仲宗根を射殺する。再びジョーは逃走するが、警官隊に包囲されてしまう。
映画
海燕ジョーの奇跡 | |
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THE MIRACLE OF JOE PETREL | |
監督 | 藤田敏八 |
脚本 | 神波史男 内田栄一 藤田敏八 |
原作 | 佐木隆三 |
製作 | 奥山和由 |
出演者 | 時任三郎 藤谷美和子 |
音楽 | 宇崎竜童 |
主題歌 | (アン・ベルトゥッチ) 「ランナウェイ・ランアフター」 |
撮影 | 鈴木達夫 |
編集 | 井上治 |
製作会社 | 三船プロダクション 松竹富士 |
配給 | 松竹富士 |
公開 | 1984年4月28日 |
上映時間 | 133分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 3億3800万円[1] |
キャスト
- 時任三郎(海燕ジョー)
- 藤谷美和子(陽子)
- 清水健太郎(ルポライター・沢井)
- 正司歌江(琉球食堂の女将ヤス子)
- オマー・カマー(ジョーの父ロペス)
- 辻伊万里(ジョーの母ウタ)
- 原泉(与那国島のお婆)
- 田中邦衛(上勢頭)
- 加藤嘉(亀千代)
- 内藤武敏(島袋長幸)
- 伊藤敏八(島袋長幸・弟)
- 鈴木瑞穂(金城盛光)
- 五月みどり(ミッチー姐)
- 原田芳雄(与那嶺)
- 三船敏郎(漁師)
スタッフ
- 監督:藤田敏八
- 企画:三船史郎
- 製作:奥山和由
- プロデューサー:鍋島壽夫
- 制作補:真鍋和己
- 脚本:神波史男、内田栄一、藤田敏八
- 原作:佐木隆三
- 撮影:鈴木達夫
- 美術:望月正照
- 照明:熊谷秀夫
- 音楽:宇崎竜童
- 主題歌:アン・ベルトゥッチ
- 録音:紅谷愃一、信岡実
- 編集:井上治
- 助監督:長石多可男、原田昌樹
- 特殊技術∶トビー門口
- 製作:三船プロダクション、松竹富士
- 配給:松竹富士
脚本
本作の脚本は、当初、神波史男が単独で担当していたものの、監督の藤田敏八が初稿の結末に不満を持ち、神波らと籠もっていた旅館に永年の盟友である内田栄一を呼び寄せて後半三分の一を書き換えさせたことを神波が明かしている(神波の初稿では結末は原作に沿ったものだったとされるので、藤田は原作を改変したことになる)[2]。
撮影
プロデューサーの奥山和由は、フィリピンロケ中に藤谷美和子が突然失踪したため、代わりにマニラで急遽探したフィリピン人女性でクライマックスシーンとラストシーンの撮影を強行したと話している[3]。
深作欣二版映画企画
松竹富士で藤田敏八が映画化する以前に東映が映画化権を取得し、深作欣二を監督に、松田優作を主演にそれぞれ起用して映画化する企画があった[4][5]。東映は1981年の正月作品として公開する予定でポスターを製作し、松田優作主演の『蘇える金狼』のフィルムを流用した特報も10日間映画館で流していた[6]。チーフ助監督には崔洋一が起用され、脚本作りにも参加した[7]。しかし、松田優作が松田寛夫の脚本を酷評し[8][9][10]、自身と親しい丸山昇一に脚本を書かせると一方的に主張したことから[8]、憤慨したプロデューサーの日下部五朗が松田優作を降板させ、企画は流れた[4][6][8][11]。松田が東映の脚本を最終的に断ったのは1980年の暮れも押し迫った時期で[12]、物理的にももう正月映画には無理な状況ではあったが、松田が当時所属していた夢屋事務所の代表・笹岡幸三郎が岡田茂東映社長に謝罪に出向く事態に発展[12]、東映も大混乱に陥った[8][13][14]。
この時点で、沖縄、与那国、フィリピンにシナリオハンティングを行ない、2000万円を費やしていたという[4][15]。また、当初ヒロインには1980年の『四季・奈津子』で大胆なヌードを披露して人気の上がっていた烏丸せつこをキャスティングしていたが[10]、東映が烏丸のヌードばかりを売るプロモーションを展開したために本人が「もう東映には出たくない」と降板した[10]。一方の東映は「思いあがりもはなはだしい」と激怒している[10]。
1981年の正月映画として予定していたこの企画が流れたため、東映は深作と蔵原惟繕の2班体制で急遽『(青春の門)』を製作し、正月第2週に公開した[6]。
出典
- ^ 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、119頁。
- ^ 荒井晴彦 編『映画芸術12月増刊号 ぼうふら脚本家神波史男の光芒:この悔しさに生きてゆくべし』編集プロダクション映芸、2012年12月、182-183頁。
- ^ 奥山和由 Okuyama Kazuyoshiツイッター 2019年4月7日 6:41(JST)
- ^ a b c 深作欣二インタビュー「松田優作―二度すれ違って、初めて会った役者」『松田優作クロニクル』キネマ旬報社、1998年、pp.68-69
- ^ 「松竹『あの頃映画』DVDセレクションレア作、カルト作満載のお蔵出し企画、登場!」『映画秘宝』、洋泉社、2012年1月、75頁。
- ^ a b c 関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、pp.316-320
- ^ 立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、pp.155-156
- ^ a b c d 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、126-129頁。(ISBN 978-4103332312)。
- ^ 『サンデー毎日』1980年11月23日号 「正月映画が決まらずに頭が痛い東映」、p.153
- ^ a b c d 『サンデー毎日』1980年10月5日号 「東映をふった烏丸せつこ 売れたら裸はお断り!?」、p.132
- ^ 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、p.183
- ^ a b 「笹岡幸三郎 映画とテレビと夜中の電話製作」『映画芸術』1998年夏号No.385、プロダクション映芸、pp.33–34
- ^ 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、148-149頁。(ISBN 978-4-636-88519-4)。
- ^ 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、381-385頁。ISBN (4-1637-68-10-6)。
- ^ 日下部五朗、中島貞夫、田中美佐江、上野隆三「撮影所がサクさんの帰るところだった」『キネマ旬報臨時増刊 映画監督深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年、p.100
外部リンク
- 海燕ジョーの奇跡 - 松竹DVD倶楽部