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犬山城

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」にあった日本の城である。現在の場所で言えば愛知県犬山市(旧丹羽郡)にあり天守のみが現存し江戸時代までに建造された「現存12天守」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城松本城彦根城松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている[1][2]日本で最後まで個人が所有していた城(2004年まで個人所有)である。

犬山城
愛知県
天守(国宝)
別名 白帝城
城郭構造 平山城
天守構造 複合式望楼型 3層4階地下2階(1620年改)
築城主 織田信康
築城年 1537年(天文6年)
主な改修者 成瀬正成
主な城主 織田氏豊臣氏石川氏平岩氏成瀬氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 櫓、門(模擬)
位置 北緯35度23分17.96秒 東経136度56分21.34秒 / 北緯35.3883222度 東経136.9392611度 / 35.3883222; 136.9392611座標: 北緯35度23分17.96秒 東経136度56分21.34秒 / 北緯35.3883222度 東経136.9392611度 / 35.3883222; 136.9392611
地図
犬山城
(テンプレートを表示)

概要

 
犬山城主要部の空中写真
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
 
木曽川の犬山橋から望む犬山城
(2012年(平成24年)11月)

尾張国美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦い関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。

江戸時代には尾張藩付家老平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年元和3年)ごろである。2004年平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月1日付けで設立された財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されている。2006年平成18年)4月6日には、日本100名城(43番)に選定された。

歴史・年表

室町時代

安土桃山時代

江戸時代

 
歌川国貞木曽六十九驛『鵜沼 犬山の城遠望・道節』(1852年・嘉永5年)

明治時代

  • 明治元年新暦換算:1868年/1869年) - 犬山城の松ノ丸本丸門が、浄蓮寺(一宮市(千秋町)穂積塚本郷内に所在)に払い下げられ、移築されて山門として再利用される。「天守以外の遺構」節を参照。
  • 明治4年7月14日(新暦換算:1871年8月29日) - 廃城。この日、全国で廃藩置県が断行される。これに前後して全国各地の城郭の多くは廃城・破却処分となっていったが、犬山城も例外とはならず、天守を除いて城門などほとんどが取り壊された。
  • 1876年(明治9年) - 犬山城から払い下げられた各所の城門が、複数箇所の寺院に移築され、山門などとして再利用される。
  • 1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地方濃尾地震が発生し、犬山城では天守の東南角の付櫓が壊れる。
  • 1895年(明治28年) - 愛知県から旧犬山藩主・成瀬正肥へ条件付き無償譲渡される。条件は修復等であった。修復の際、現存天守及び石垣に紋が入れられたが、別の家紋が誤って入れられた可能性が高い[3]

昭和時代

 
国宝指定書 昭和27年

平成時代

令和時代

  • 2019年令和元年) - 耐震工事。
  • 2020年(令和2年)3月下旬 - 2017年の落雷により破損した鯱の胴体部分が天守の北東約30メートルの地点で発見される[7]
  • 2021年(令和3年)7月から犬山城南側の発掘調査を行っていて、このほど絵図に描かれていた堀などが良好な状態で地中に残っていたことが分かった。

歴代城主

累代 人名 在位期間 備考
1
織田信康
天文6年 - 天文16年(西暦換算:1537年 - 1547年 今に伝わる犬山城の築城
2
織田信清
天文16年 - 永禄7年(西暦換算:1547年 - 1564年
3
池田恒興
元亀元年 - 天正9年(西暦換算:1570年 - 1581年
4
織田勝長
天正9年 - 天正10年(西暦換算:1581年 - 1582年
5
(中川定成)
天正10年 - 天正12年(西暦換算:1582年 - 1584年
6
池田恒興
天正12年(西暦換算:1584年)
7
(加藤泰景)
天正12年(西暦換算:1584年)
8
(武田清利)
天正12年 - 天正15年(西暦換算:1584年 - 1587年
城代
土方雄久[8]
天正15年 - 天正18年(西暦換算:1587年 - 1590年 ※累代に含む考えもあり。
三好吉房
天正18年 - 文禄元年(西暦換算:1590年 - 1592年 1591年から豊臣秀勝
9
(城代)
三輪吉高
文禄元年 - 文禄4年(西暦換算:1592年 - 1595年
10
石川貞清
文禄4年 - 慶長5年(西暦換算:1595年 - 1600年
11
小笠原吉次
慶長5年 - 慶長12年(西暦換算:1600年 - 1607年
12
平岩親吉
慶長12年 - 慶長17年(西暦換算:1607年 - 1612年 末裔大相撲大関で7代目伊勢ヶ濱親方の清國勝雄の夫人(落語家林家木りんの母)がいる。
13
成瀬正成
元和3年 - 寛永2年(西暦換算:1617年 - 1625年 犬山成瀬家 初代当主。犬山藩初代藩主。
14
成瀬正虎
寛永2年 - 万治2年(西暦換算:1625年 - 1659年 犬山成瀬家 第2代当主
15
成瀬正親
万治2年 - 元禄16年(西暦換算:1659年 - 1703年 犬山成瀬家 第3代当主
16
成瀬正幸
元禄16年 - 享保17年(西暦換算:1703年 - 1732年 犬山成瀬家 第4代当主
17
成瀬正泰
享保17年 - 明和5年(西暦換算:1732年 - 1768年 犬山成瀬家 第5代当主
18
成瀬正典
明和5年 - 文化6年(西暦換算:1768年 - 1809年 犬山成瀬家 第6代当主
19
成瀬正寿
文化6年 - 天保9年(西暦換算:1809年 - 1838年 犬山成瀬家 第7代当主
20
成瀬正住
天保9年 - 安政4年(西暦換算:1838年 - 1857年 犬山成瀬家 第8代当主
21
成瀬正肥
安政4年 - 明治2年(西暦換算:1857年 - 1869年/1870年
明治28年 - 明治36年(西暦:1895年 - 1903年
犬山成瀬家 第9代当主。犬山藩最後の藩主。廃城処分によっていったん城主でなくなったが、廃城後の所有者であった[* 2] から無償譲渡されて再び城主となった。
22
(成瀬正雄)
明治36年 - 昭和24年(西暦:1903年 - 1949年 犬山成瀬家 第10代当主
23
成瀬正勝
昭和24年 - 昭和48年(西暦:1949年 - 1973年 犬山成瀬家 第11代当主
24
成瀬正俊
昭和48年 - 平成16年(西暦:1973年 - 2004年 犬山成瀬家 第12代当主
25
成瀬淳子
平成16年(西暦:2004年) 犬山成瀬家 第13代当主・(成瀬正浩)の妹で、最後の城主となり、個人所有から法人所有への移管を行った。

天守

 
犬山城天守(正面)と周辺(パノラマ)

犬山城の天守は、外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。窓は(突上窓)と火灯窓、両開き窓なと、地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。 天守台石垣野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。

成瀬家7代の当主正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現された。

なお、2017年平成29年)7月12日16時過ぎ、が胴体から尾にかけて大きく破損しているのが見つかった。天守の北側にある避雷針が曲がっており、この日は午後から雷雨が降っていたため、犬山市は落雷が原因とみている[9]。鯱は製で作り直されて、2018年2月26日に天守へ設置[10]。同年3月17日に記念式典が開かれた[11]

文化財指定

1935年昭和10年)5月13日、当時の国宝保存法に基づき旧国宝(文化財保護法における重要文化財に相当)に指定[12]1952年(昭和27年)3月29日付けで文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。指定に係る告示は1952年(昭和27年)10月16日付けの官報に掲載され、指定名称は「犬山城天守 1棟」。構造・形式は「三重四階、地下二階付、本瓦葺、南面及び西面附櫓、各一重、本瓦葺」とある[13]。所有者は公益財団法人犬山城白帝文庫。犬山市が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている[14]

  • 1階:納戸の間、東西9間・南北8間。床面積は282.752平方メートル。
  • 2階:武具の間、東西9間・南北8間。床面積は246.006平方メートル。
  • 3階:破風の間、東西3間・南北4間。床面積は81.936平方メートル。
  • 4階:高欄の間、東西3間・南北4間。床面積は49.835平方メートル。

創建の時期

1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)に行われた犬山城天守の解体修理と古文献等から、この天守は下の2重2階の主屋が1537年天文6年)[15] または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年元和6年)頃に3、4階を増築。その後唐破風の付加などが行われて現在の姿になったと考えられた[16]

2019年から犬山市の依頼で名古屋工業大学大学院などが行った建築材の年輪年代法による調査では、柱やはり、床板など、天守の主な建築材は1585年からの3年間に伐採されたものと判明し、当初から1階から4階まで現在のような姿で建築されたものとみられると報告された[17]

ギャラリー

遺構・文化財

天守以外の遺構

1873年(明治6年)の廃城後、犬山城の門は撤去され堀は埋められた[18]

犬山城を構成していた建造物の多くは、廃藩置県に伴う廃城処分が下る前後の時期に払い下げられて破却されたり移築されたりしたが、それらのいくつかは現存している。松ノ丸本丸門は、明治元年1868年/1869年)、浄蓮寺(一宮市千秋町穂積塚本郷内に所在)に移築され、山門として再利用された。同年、どこの門であったかは不明ながら旧城門と伝わる門が運善寺(一宮市浅井町大日比野に所在)に移築され、山門として再利用された。この門は1891年(明治24年)に発生した濃尾地震で倒壊した後、違った形に改修されてしまっていたが、1993年(平成5年)に行われた修理で当初に近い姿で再改修されている。1876年明治9年)には、二の丸の矢来門が専修院(丹羽郡扶桑町柏森乙西屋敷に所在)へ移築されて東門として再利用された。同年、第一黒門徳林寺(丹羽郡大口町余野に所在)へ移築され、山門として再利用されたが、移築時に袖塀が併設されている。同年、内田御門(犬山城の搦手門)と伝わる城門は瑞泉寺(犬山市犬山瑞泉寺に所在)に移築され、山門として再利用された。元々この門は美濃金山城大手門であったのを犬山城に移築したものであったとの伝承がある。また、どこの門であったかは不明ながら旧城門と伝わる門が個人宅に移築されている。なお、運善寺山門は一宮市の、専修院東門は扶桑町の、徳林寺山門は大口町の、指定文化財となっている。

外堀があった場所には犬山市福祉会館が建てられたが、2021年3月までに解体され、7月から外堀の発掘調査が行われた[18]。その結果、犬山城の外堀の幅は17.5m、深さ6.5m以上で17世紀の絵図の記載とほぼ一致した[18]。また、2021年の調査で外堀には水を溜めた痕跡がなく空堀で石垣を造らない素掘りだったことも判明した。このほか外堀の埋め立ての土の検証から、埋め立ては廃城時、明治時代後半、大正〜昭和初期、戦後の4回行われていたことが判明した。

犬山城白帝文庫の文化財

公益財団法人(犬山城白帝文庫)が所有・管理する文化財は、犬山市文化史料館(所在地:大字犬山北古券8)本館の主要施設である犬山城白帝文庫歴史文化館に収蔵されている。当施設は、美術工芸品刀剣類、古文書、絵地図などを収蔵している。

重要文化財(国指定)

短刀 銘左安吉作/正平十二年二月日(たんとう めいさやすよし さく しょうへいじゅうにねんにがつひ)

  • 1940年(昭和15年)5月3日付けで重要文化財に指定[19]正平12年(1357年)の作。差表に「左安吉作」、差裏に「正平十二年二月 日」の銘がある。作者の左安吉は筑前の刀工左文字の子とされる。刃長29.4 cm、元幅2.7 cm。
  • 犬山城白帝文庫の公式サイトには本作を「脇差」としているが、本項では、重要文化財指定名称に準じて「短刀」とする。「短刀」と「脇差」の違いについては諸説あるが、一般的には刃長一以下のものを短刀、一尺以上のものを脇差と称する。
その他

長篠小牧長久手合戦図屏風

現地情報

料金

  • 大人:550円
  • 小人:110円

犬山城と犬山市内5地域にある各有料施設(城とまちミュージアム+からくり展示館+どんでん館・庭園有楽苑・明治村・リトルワールド・日本モンキーパーク)とセットになった割引入場券も販売している。

その他

高知県の中村城跡に建設された四万十市立郷土資料館の建物は、犬山城をモデルにして建設された[20]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 和暦の文明7年11月1日と11月29日(最終日)は西暦ユリウス暦)換算すると、1475年の11月29日と12月27日。
  2. ^ 廃城処分時の所有者は犬山藩であったが、間もなく犬山藩は犬山県に置き換えられ、犬山県はさらに名古屋県へと変わった。その後は名古屋県を前身とする愛知県が所有者であった。

出典

  1. ^ 史跡等の指定等について(文化庁報道発表、2017年11月17日)。
  2. ^ 平成30年2月13日文部科学省告示第23号。
  3. ^ 家紋大図鑑. (1971/3/1) 
  4. ^ 「日本美術観光団」朝日新聞社、2004年
  5. ^ “公益財団法人 犬山城白帝文庫|財団概要”. www.inuyamajohb.org. 2018年10月31日閲覧。
  6. ^ 平成30年文部科学省告示第23号
  7. ^ 三田村泰和 (2020年5月5日). . 中日新聞社. オリジナルの2020年5月6日時点におけるアーカイブ。. 2020年5月6日閲覧。 
  8. ^ 犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会 編『犬山市資料 第一集』犬山市、1981年2月1日、117頁、(NDLJP):9570365(要登録)
  9. ^ “国宝・犬山城の「しゃちほこ」が破損 落雷か”. NHK NEWS WEB (日本放送協会). (2017年7月12日). オリジナルの2017年7月12日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/kh8kG 2017年7月12日閲覧。 
  10. ^ 「しゃちほこ 帰ってきた 犬山城」『読売新聞』朝刊2018年2月27日(社会面)。
  11. ^ 犬山城の新しゃちほこ、取り付け祝い式典 高さ1.3メートル 重さ62キロ『産経新聞』ニュース(2018年3月17日)2018年3月17日閲覧。
  12. ^ 昭和10年文部省告示第194号
  13. ^ 昭和27年文化財保護委員会告示第21号
  14. ^ 昭和40年文化財保護委員会告示第48号
  15. ^ 土屋純一 城戸久「尾張犬山城天守建築考」社団法人日本建築学会『建築学会大会論文集』昭和12年(1937年)3月
  16. ^ 西和夫「犬山城天守の創建年代について」社団法人日本建築学会『日本建築学会論文報告集』第261号 昭和51年(1976年)11月
  17. ^ “愛知県の国宝・犬山城天守は現存する最も古い天守とわかる”. NHK. 2021年3月29日閲覧。
  18. ^ a b c “絵図通り、犬山城の外堀 良好な状態、空堀と判明”. 中日新聞 (2021年9月28日). 2021年9月28日閲覧。
  19. ^ 昭和15年文部省告示第448号
  20. ^ 四万十市観光情報(学習施設)

関連項目

外部リンク

  • 公式サイト
  • 犬山城白帝文庫
  • 犬山城ストリートビュー
  • 犬山城の観光ガイド - 攻城団
  • 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 国宝 犬山城
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