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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ、のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)・信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。

 
織田 信雄
(北畠 具豊 / 信意)
総見寺蔵
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年)3月
死没 寛永7年4月30日1630年6月10日
改名 茶筅丸(幼名)→北畠具豊→信意→信雄→常真(号)
別名 三介(通称)、御本所(尊称)
戒名 徳源院殿実巌常真大居士
墓所 群馬県甘楽郡甘楽町小幡の(崇福寺)
京都府京都市北区の紫野大徳寺
官位 従五位下、侍従左近衛権中将正五位下、従四位下、中納言正三位従二位正二位内大臣、伊勢国司(知行国主)
主君 織田信長秀信豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
大和国宇陀松山藩
氏族 織田氏北畠家→織田氏
父母 父:織田信長
母:生駒吉乃
養父:北畠具教
兄弟 信忠信雄信孝羽柴秀勝勝長信秀信高信吉信貞信好長次信正
正室:千代御前(雪姫)北畠具教の娘)
継室:木造具政の娘
側室:織田長利の娘など
秀雄小姫豊臣秀吉養女、徳川秀忠正室)、於加爾[注釈 1]、(高雄)、女((佐々一義)室)、信良高長(信友)信為良雄、(長雄)、玉雄院(八重姫、土方雄氏室)、女((生駒(佐々木)政勝)室)、女(生駒(吉田)直勝室)
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生涯

出生から幼少期

永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現・愛知県江南市)の生駒屋敷織田信長の次男として生まれる。幼名は茶筅。『勢州軍記』によると生母は生駒家宗の娘・吉乃[要出典]。弟・織田信孝との出生順位を巡る異説があり、実際は信雄は三男で、信孝が先に誕生していたが、信孝の母の坂氏より信雄の母が正室的立場で、身分の差により信長への報告を遅れさせ、出生順位を置き換えられたとの説があるが、事実かは定かではない[1][2][3]

北畠家時代

永禄12年(1569年)、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となって[4]、具房の妹の(雪姫)(北畠具教の娘)を娶った。元亀3年(1572年)に元服して北畠具豊と称した。天正2年(1574年)7月には北畠軍を率いて(第三次長島侵攻)に参戦し、大船に乗って戦った[5]天正3年(1575年)に北畠家の家督を相続し、大河内城から度会郡の田丸城へ移った[6]。同年、越前一向一揆討伐に参戦し塙直政滝川一益神戸信孝長野信良と共に転戦した[5]。この頃から津田一安の補佐の元、家中の実権を掌握し始める。

家督を相続後は信意に改名。天正4年(1576年)11月25日、滝川雄利・(長野左京亮)・(軽野左京進)に命じて多気郡の三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と具教の息子2人と北畠家臣14人を殺害した。同日、信意自身も田丸城に長野具藤ら北畠一族を饗応と偽って呼び出し謀殺した(三瀬の変)。12月15日には滝川雄利と柘植保重の讒言により津田一安を粛清している[7]。その後の北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信雄の権力基盤へと継承されていく[8]

天正5年(1577年)、織田信忠の下で紀州征伐に従軍[5]。天正6年(1578年)4月、信忠の下、石山本願寺を攻める[9]。5月、播磨国に従軍。信忠らと共に神吉城を攻める[9]

天正7年(1579年)9月16日、信意は信長に無断で自身で8000人、柘植保重に1500人の兵を率いさせ、伊賀国に3方から入り(伊賀惣国一揆)を攻めたが、(伊賀十二人衆)と呼ばれる自治集団に大敗し、殿軍の柘植保重は植田光次に討ち取られた。これを受けて信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責された((第一次天正伊賀の乱))[注釈 2]

天正8年(1580年)、田丸城が焼失したため、松ヶ島城を築いて居城とした。天正9年(1581年)には、信長が司令して、大和・近江・伊勢の軍勢に信意も加わり、再度伊賀へ侵攻し、同国を平定した((第二次天正伊賀の乱))。 第二次天正伊賀の乱ののち、伊賀3郡を信雄が、残りの1郡を叔父の織田信包が領することになった[11]

本能寺の変から小牧・長久手の戦い

天正10年(1582年)6月2日、父の信長が家臣の明智光秀によって討たれ(本能寺の変)、6月13日には織田家臣の羽柴秀吉が光秀を討つ(山崎の戦い)。本能寺の変に際して信意は近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、戦わないまま撤退した。『勢州軍記』によれば、伊賀の国人衆が不穏な動きを見せた事や、信孝の四国征伐軍に信意の軍勢の大部分を援軍として派遣しており兵数が2500程度で心もとなかった事が理由だという。確かに、信孝は5万石程度の所領(『当代記』)で各地の軍勢がかき集められたが、伊勢国からは北伊勢衆のみである[12]。10月に、東国において徳川家康後北条氏らとのあいだで甲斐・信濃の武田遺領を巡り発生した天正壬午の乱では、信意は信孝とともに双方の和睦を仲介した。

戦後の清洲会議で信意は兄・信忠亡き後の織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は三法師、後見役は信意、信孝となる。信長の遺領配分で、信意は尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。その際、織田姓に復して信勝[要出典]、次いで信雄[要出典]と称し、家臣の津川義冬家老に取り立てている[要出典]。義冬は信雄の一字を与えられて「雄光」と改名した[13]。 天正10年(1582年)、信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善とが荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市志摩市だけの地域に限定された[要出典]。 天正10年10月28日、秀吉・惟住長秀池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故し、信雄を当主として擁立し主従関係を結んだ[14][15]。後にこれは徳川家康にも賛同された[要出典]

尾張・伊勢を支配した信雄は、2度にわたる検地を実施し、知行制の統一を図った。天正11年検地は、全領国を貫高で統一的に把握し、改めて知行宛行を行うことで統一的知行制を実現した。更に天正14年再検地では、新たな検地原則の下に在地掌握の強化が図られ、それによって確立した知行制は、貫高制ではあっても既に信長時代の貫高制を止揚した、近世石高知行制の内実を備えたものとみなし得る[16]

その後、台頭してきた秀吉と信孝・柴田勝家らが争い、天正11年(1583年)4月に賤ヶ岳の戦いが発生した。信雄は秀吉方に属した。5月には信孝を岐阜城に攻めて降伏させた。信孝は尾張に送られる途中で切腹させられた。柴田勝家とお市の方が自害した後に三人の娘を引き取って後見して面倒をみたのは秀吉ではなく、信雄であるともいわれており[17]、また三姉妹の三女の佐治一成に嫁がせたのも秀吉ではなく、信雄であったとされる[18]藤田達生は、山崎や賤ヶ岳で勝利した秀吉が信長の政権を直接継承した訳ではなく、信雄が秀吉に臣従するまでは親子2代の織田政権(安土幕府)であったとする見解を示している[19]

さらに勝家方の滝川一益も秀吉に降服し、信雄は北伊勢・伊賀を加増され、前田玄以京都所司代に任命し、三法師の後見として安土城へ入城した。しかし、すぐに秀吉に退去させられ、信雄と秀吉の関係は険悪化した。天正12年(1584年)正月に近江国坂本の三井寺で秀吉と会見したが決裂し、伊勢長島城に戻った[20]。そして信雄は家康に接近し同盟関係を結ぶ。

天正12年(1584年)3月6日、家康と相談した上で秀吉に内通した疑いにより重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝浅井長時を殺害して秀吉に宣戦布告をする(小牧・長久手の戦い)。3月11日に清洲城で家康と作戦会議を開き陣城の構築を指示した。また長宗我部元親佐々成政雑賀衆とも結び連合して羽柴家と戦った。織田・徳川連合軍は秀吉と戦闘状態に入り、4月9日の(長久手の戦い)で羽柴方の池田恒興森長可らを討ち取った。しかし、伊勢では誅殺された重臣3人の一族が造反し、更に秀吉の計略で九鬼嘉隆秋山直国らも謀反に及び、また羽柴秀長蒲生氏郷堀秀政筒井順慶藤堂高虎ら羽柴勢の侵攻を受け、峯城松ヶ島城戸木城が落城した。そして11月15日、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。このため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。なお、柴裕之はこの講和の後に秀吉は信雄を正式な織田家の当主(三法師の名代ではなく)に据えたとする[21]

戦後、信雄の領国は、尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)となった[22]。領国の縮小により、家臣団の知行替えが大規模に行われた。この際、滝川雄利に神戸城(河曲郡)を与えた[22]

以降は秀吉に臣従し、天正13年(1585年)8月の富山の役に従軍した。また11月には家康の元へ織田長益・滝川雄利・土方雄久を送り上洛を促している。天正15年(1587年)の九州征伐では出陣する秀吉を勅使らとともに見送った。九州征伐後は内大臣に任官。天正18年(1590年)1月、秀吉の養女となった長女・小姫徳川秀忠が結婚。なお、長島城は天正13年(1585年)11月の天正地震で大破したため、地震以後は清洲城を改修[23]し、居城とした。

豊臣政権期の改易から晩年

天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、伊豆韮山城攻めから、小田原城包囲軍に転属し、武功をあげる。しかし、戦後の論功行賞で、家康旧領(駿遠三甲信5ヵ国)への移封命令を、父祖の地の尾張からの移動を嫌がり拒否したことから、秀吉の怒りを買って改易される[24]。改易されたのは7月13日とされる。7月14日から8月4日の間が正しいのではないかとの説もある[25]。また京都舘に天皇行幸啓のための「内府屋形」を建設中だったのを危険視されたとの説もある[26]。改易後は下野国烏山(一説に那須とも)に流罪となり[27]、出家して常真と号した。

その後、出羽国秋田八郎潟湖畔、次いで伊予国へと流され、文禄元年(1592年)の文禄の役の際に家康の仲介で赦免され、御伽衆に加えられて大和国内に1万8000石を領した。肥前名護屋城にも兵1500を率いて着陣したという(『太閤記』)。

嫡男・秀雄は越前国大野に5万石を与えられていた[注釈 3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍についたと認識されており、義演は信雄に尾張一国が返付されるという風聞を記している[28]。また義演の9月14日の日記には大津城にこもる京極高次のもとに「真常」が高台院の使者として派遣され、開城させている。白峰旬は信雄の法名「常真」の誤りではないかとしている[28]。戦後には嫡男の織田秀雄ともども改易されている。

戦後は豊臣秀頼に扶持を与えられ、大坂城下で隠遁生活を送った[29]慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前には、大野治長織田頼長らが片桐且元を殺害して江戸幕府と敵対しようとしている情報を掴み、これを且元に伝えた[30]。これをうけて且元は出仕を取りやめ、後に大坂城を退去している。この時期、京都所司代板倉勝重は、織田頼長らが幕府と対峙する際には秀頼を大坂城から追い出して信雄を入城させ、総大将としようとする動きがあるという情報をつかんでいる[31]。また『(慶長年録)』によれば、信雄は秀頼に呼び出され、且元を成敗するから信雄に家政全般を差配するよう依頼されたとしている[32]。しかし9月27日には信雄も大坂を退去して京都に移った[33]

徳川将軍家時代の大名

元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。領地に風雅な庭園楽山園を造る一方、養蚕など産業育成にも力を注いだ。既に嫡男の秀雄が病死していたため、四男・信良に上野小幡藩2万石を分知して、自らは京都に隠居し、鷹狩りなど悠々自適の日々を送った。寛永5年(1628年)10月には、将軍・徳川家光より、江戸城での茶会に招待されている。

寛永7年(1630年)4月30日、京都北野邸で死去。享年73。実質的な隠居料であった大和宇陀郡の領地は、五男・高長が相続する。なお、高長の宇陀郡の相続については小幡織田家側から異論が出されている。

信雄の読みについて

の読みには「のぶかつ」と「のぶお(のぶを)」[34]など複数の説がある[35][注釈 4]。信雄から「雄」の偏諱を与えられた家臣は、いずれも「かつ」と呼ばれ「のぶかつ」が一般的呼び名とされる[36]。一方で息子の秀雄、(高雄)、良雄、(長雄)は「お」と読む[37]神沢杜口は『翁草』において、前大納言花山院定成の説として以下のことを記している。公家の世界では「雄」は上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「お」と読む。信雄は最初は「のぶかつ」であったが、(公家成)をして以降は「のぶお」と改めたという[38]

また江戸時代後期の故実家伊勢貞丈は、「のぶよし」であったとしている。根拠としては(村井古巌)が『御湯殿上日記』にある「織田のぶよし」は信雄のことと指摘していたこと、信雄から一字拝領した土方雄久の子孫・土方雄忠は「よしただ」と呼ばれ、先祖からその読みを受け継いでいたことなどをあげている[39]

子孫

  • 四男・信良の系統は、当初、上野小幡藩主であったが、明和事件に伴い出羽高畠藩に転封され、さらに陣屋の移転に伴って出羽天童藩主となり、そのまま廃藩置県を迎えた。
  • 五男・高長の系統は、当初、大和宇陀松山藩主であったものの、御家騒動に伴う転封によって丹波柏原藩主となり、そのまま廃藩置県を迎えた。後に庶流は、信長の七男・信高の系統である旗本家に養子として入った。
  • 六男・信為の系統は、津田姓を称して、宇陀藩主家や小幡藩主家の家臣となった。信為の長男・(津田外記)や次男・津田八郎兵衛((谷山真弥))は宇陀藩織田家、三男・津田頼母は小幡藩織田家に仕えた。
  • 信良の系統は皇室へ繋がっている。
    織田信良 - 娘(稲葉信通室)[注釈 5] - 稲葉知通 - 稲葉恒通 - 娘(勧修寺顕道室) - 勧修寺経逸 - 勧修寺婧子 - 仁孝天皇 - 孝明天皇
  • 数多くいた信長の息子の中で、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけである。上述の他に、信長の弟・長益(有楽)系の芝村藩柳本藩を、高長の孫の長清と曾孫の信方がそれぞれ継いでおり、以後は血筋の上では信雄の系統で続いた。

人物

  • ルイス・フロイスは本能寺の変時の安土城焼失を信雄の命令であるとしており、以下のように記述している。「明智の軍勢が津の国において惨敗を喫した事が安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は忽ち落胆し、安土城に放火する事もなく急遽坂本へ退却した。然しデウスは信長があれ程自慢にしていた建物の思い出を残さぬ為、が(存続を)許したその豪華な建物が其の儘建っている事を赦し給わず、そのより明らかな御智慧により、付近に居た信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、(彼に)邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた。(城の)上部が全て炎に包まれると彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」。当時フロイスは九州の口之津(現長崎県南島原市)におり、記録を行ったのは変から4ヶ月後であった上、伊賀掌握に苦しんでいた信雄が安土に入ることは困難であった[40]。更に発掘調査では炎上したのは本丸とその周辺のみと見られており、「市」にも放火したというフロイスの記述は完全に異なる[40]。さらに三男信孝はキリスト教に好意的で宣教師の間で評価が高く[41]、そうでない信雄にはフロイスは厳しい面があり、注意が必要である。
  • 織田一門の席次は、信忠、信雄、信包、信孝の順であり、信孝の上位に配されていた。天正9年(1581年)の御馬揃えでは、信忠が率いた騎馬衆が80騎、信雄が30騎、信孝・信包が10騎であり、信孝とかなりの差があったと推測される 。
  • の名手であり、高い評価を得ていた。文禄2年(1593年)、秀吉が主宰した天覧能を観た近衛信尹は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」との感想を残しており、『徳川実紀』には聚楽第で催された能について、「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されている。また、能役者にとっても信雄の発言が貴重な指針になっていたとされる(『観世流仕舞付』)[42]
  • 伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある(『勢州軍記』)。
  • 信孝死亡後、家督を継いでからは印文に「威加海内」の朱印を用いた。
  • 荒木村重より、その秘蔵の(兵庫茶壺)を天正13年(1585年)2月に進上されている[43]。村重の子の岩佐又兵衛を信雄は召し抱えていた時期もあった。

偏諱を与えた人物(家臣)

信勝時代
信雄時代
  • 天野
  • 小坂(信雄の傅役)
  • (小坂)(雄吉の子(※『武功夜話』のみ))
  • 小坂(雄吉の子)
  • (小坂)(雄長の子)
  • (小坂)(雄長の子)
  • 滝川(北畠氏時代からの家臣、別名:親、滝川一益の娘婿)
  • 津川(旧名・津川義冬、滝川一盛(雄利の旧名)との連署書状(「廓坊文書」)に署名が残されている)
  • (中山) - 犬山城を守るが池田恒興に攻略される。
  • 土方 - 以後土方氏は「雄」の字を継承。
  • ()(森正成(甚之丞)の長男、通称:久三郎、森氏一族の者か)
  • ()(森正成の次男、通称:清十郎、森氏一族の者、(森正好)と同一人物か)

主題とする作品

小説
舞台

関連作品

テレビドラマ
映画

脚注

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注釈

  1. ^ 読みは「おかに」。母は北畠具教の娘で、夭折した。
  2. ^ その書状の内容は以下の通り。

    今回伊賀の地で大敗したそうだが、これは天の道理に反することで正に天罰と言えよう。その理由は、信雄が遠国へ遠征すれば兵達は疲れ果てるというので、つまり、隣国で合戦となれば遠国へ出兵せずに済むという考えに引きずられ、もっと厳しく言えば、若気の至りでこうなったということであろうか。

    まことに残念なことだ。上方へ出陣すれば、それは天下のためになり、父への孝行、兄・信忠への思いやりともなるのだ。そして巡り巡って自分の功績になるではないか。

    当然だが、今回、柘植保重およびその他の武将を討ち死にさせたのは言語道断、けしからぬことである。 いつまでもそのような考えなら、親子の縁を切ることになると思うがよい。 なお、詳細はこの書状を持参する使者が伝えるであろう。

    信長 織田信雄殿[10]
  3. ^ この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5000石(当代記)で、信雄は後見役(隠居身分)として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは御伽衆として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7000石ともいう(武家事紀)。
  4. ^ 直木孝次郎著『日本史B 新訂版』(文部科学省検定済教科書高等学校地理歴史科用。平成9年3月31日検定済。平成14年1月25日発行。実教出版。教科書番号 7 実教 日B 582) p 149に「のぶかつ」というふりがなと「のぶお」というふりがなの双方が記載されている。
  5. ^ 稲葉信通には信良の次女(光浄院)と三女(天量院)が嫁いでいるが、知通の母がどちらかは不詳。

出典

  1. ^ 小和田 1991, p. 116.
  2. ^ 谷口 2005, p. 248.
  3. ^ 柴裕之「織田信長の御一門衆と政治動向」『織田氏一門』岩田書院、2016年。 
  4. ^ 岡野友彦『北畠親房』ミネルヴァ書房、2009年、250頁。 
  5. ^ a b c 戦国史研究会 編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年。 
  6. ^ 美杉村史編集委員会(1981)
  7. ^ 神戸良政『勢州軍記』巻七
  8. ^ 藤田達生『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館、2004年。 
  9. ^ a b 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「高倉山西国陣の事」
  10. ^ 『現代語訳 信長公記』- 訳:中川太古、364 - 365ページ
  11. ^ 『織田信長家臣人名辞典 第2版』114頁
  12. ^ 谷口 2005, p. 247.
  13. ^ 木下聡「斯波氏の動向と系譜」『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』戒光祥出版、2015年、52頁。 
  14. ^ 尾下成敏「清洲会議後の政治過程-豊臣政権の始期をめぐって-」『愛知県史研究』10号、2006年。 
  15. ^ 藤田達生『天下統一』中央公論新社、2014年4月25日、167頁。 
  16. ^ 加藤益幹 著「織田信雄の尾張・伊勢支配」、有光友学 編『戦国期権力と地域社会』吉川弘文館、1986年。 
  17. ^ 宮本 2010, pp. 112–116.
  18. ^ 宮本 2010, pp. 114–123.
  19. ^ 藤田達生『天下統一 -信長と秀吉が成し遂げた「革命」-』中央公論新社、2014年、167-179頁。 
  20. ^ 小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年、122頁。 
  21. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。(ISBN 978-4-864-033015) pp.90-91.
  22. ^ a b 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  23. ^ 森勇一、鈴木正貴「愛知県清洲城下町遺跡における地震痕の発見とその意義」(PDF)『活断層研究』7号、1989年3月24日、63-69頁、2011年9月12日閲覧 
  24. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、155頁。 
  25. ^ 岡田正人「織田信雄の改易について」『歴史手帳』3巻12号、1975年。 
  26. ^ 小和田 1991, p. 123.
  27. ^ 『三重県の歴史』(山川出版社)では、下野国烏山2万石としている(同書P.155)。
  28. ^ a b 白峰旬 2016, p. 92.
  29. ^ 黒田基樹 2017, Kindle版、位置No.全3159中 1679 / 51%.
  30. ^ 黒田基樹 2017, Kindle版、位置No.全3159中 1631-1676 / 51%.
  31. ^ 黒田基樹 2017, Kindle版、位置No.全3159中 2583 / 82%.
  32. ^ 黒田基樹 2017, Kindle版、位置No.全3159中 2594 / 81%.
  33. ^ 黒田基樹 2017, Kindle版、位置No.全3159中 2525-2594 / 81%.
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  36. ^ 小和田 1991, p. 117.
  37. ^ 『寛政重脩諸家譜 第3輯』 國民圖書(1923年)、559p
  38. ^ 神沢貞幹、池辺義象(校訂)『翁草 : 校訂 12』五車楼書店。doi:10.11501/772579。 
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参考文献

  • 小和田哲男『織田家の人々』河出書房新社、1991年。ISBN (4309222072)。 
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -武将たちの出世競争-』中央公論新社、2005年。 
  • 小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年 (ISBN 978-4642063258)
  • 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ〈マイコミ新書〉、2010年。ISBN (978-4839936211)。 
  • 戦国史研究会 編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年。ISBN (978-4872946802)。 
  • 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』中経出版〈新人物文庫〉、2013年。ISBN (978-4046000019)。 
  • 木下聡『管領斯波氏』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第一巻〉、2015年。ISBN (978-4864031462)。 
  • 白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2)-時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)-」『史学論叢』第46巻、別府大学史学研究会、2016年3月、ISSN 03868923、NAID 120005832107。 
  • 黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』平凡社、2017年。ISBN (978-4582477337)。 

関連項目

外部リンク

  • 徳源寺(名古屋市)
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