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彦根城

彦根城(ひこね じょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城松本城姫路城松江城)。

彦根城
滋賀県
国宝天守(2021年撮影)
別名 金亀城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
築城主 井伊直継
築城年 1622年(元和8年)
主な城主 井伊氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋
石垣、土塁、堀
指定文化財 国宝(天守等2棟)
重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
特別史跡
再建造物 御殿
位置

北緯35度16分35秒 東経136度15分07秒 / 北緯35.276422度 東経136.251889度 / 35.276422; 136.251889 (彦根城)座標: 北緯35度16分35秒 東経136度15分07秒 / 北緯35.276422度 東経136.251889度 / 35.276422; 136.251889 (彦根城)

彦根城
彦根城 (滋賀県)
(テンプレートを表示)

概要

江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び(多聞櫓)(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代のなど5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。

天守が国宝指定された5城の一つに数えられる[注 3]姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の(世界遺産暫定リスト)に掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。

滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である(歴史・沿革を参照)。

歴史・沿革

江戸時代

 
玄宮園から天守を望む

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという[2]。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、彦根城を築くにあたり大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却をし、城の建設物に利用したとされる。結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になった。筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。 徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり本来の目的とは違った使われ方をしていた。西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、主な機能は政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。

1854年安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している[注 4]

明治時代

 
大隈重信

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし老朽化していたため、結局民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果天守や櫓の保存が決定し、さらに陸軍省管轄の施設から皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された[3]

昭和時代

 
1985年の彦根城跡周辺の航空写真
  • 1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の(吉田繁治郎)が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。[4]
  • 1944年(昭和19年)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。
  • 1945年(昭和20年)、8月15日夜に連合国軍が彦根市を夜間爆撃する予定であったが、同日正午の終戦の詔勅により日本の降伏が発表され、爆撃は行われなかった[注 5]
  • 1951年(昭和26年)、「彦根城跡」として国の史跡に指定、天守等6棟が重要文化財に指定された。
  • 1952年(昭和27年)、前年重要文化財に指定された6棟のうち、天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定された。
 
彦根城国宝指定書
  • 1956年(昭和31年)、「彦根城跡」が特別史跡に指定された。
  • 昭和の大修理
    • 1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)、天守、附櫓及び多聞櫓の修理、
    • 1960年(昭和35年)~1962年(昭和37年)、西の丸三重櫓と二の丸佐和口多聞櫓の解体修理。
    • 1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)、馬屋などの解体修理。
  • 1963年(昭和38年)、馬屋が重要文化財に指定された。
  • 1987年(昭和62年)、彦根市市制50周年として御殿が復元され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されている。

平成時代

  • 1993年(平成5年)7月1日1996年(平成8年)12月、平成の大修理。天守・附櫓および多聞櫓の屋根の葺き替えと壁や漆の塗り替え、木材の腐食部分補修、唐破風飾金具の金箔押し直し、西の丸三重櫓と続櫓の屋根の葺き替えと壁の塗り替えなどの修理が行われた。
  • 2005年(平成17年)~2008年(平成20年)、石垣の構築調査や石材調査、崩落調査、歴史調査・整理等が行われ、今後の管理・修理に向けての石垣台帳が作成された[5]
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(50番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)、国宝・彦根城築城400年祭が行われた。
  • 2012年以降、堀に自転車(多くは盗難自転車)を投棄される被害が相次いでおり、問題となっている[6][7][8][9]
  • 2014年8月、台風11号の影響で天秤櫓の漆喰が2箇所が剥がれ落ちた[10]
  • 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[14]
  • 2015年12月:大正時代の航空写真が発見され当時はまだ埋められていない堀の様子などが判明した[15]
  • 2017年:「国宝・彦根城築城410年祭」が行われる[16]
    • 同年1月:外堀の発掘調査で切通口御門の礎石と石垣が発見された[17]

世界遺産登録へ向けて

  • 1992年(平成4年) - (暫定リスト)登録。
  • 2007年(平成19年) - 「彦根城の世界遺産登録を推進する方策を考える懇話会」を作り、推薦書の作成などを進める。
  • 2009年(平成21年) - 「彦根城世界遺産登録推進委員会」に改称。

登録への課題に

  • 既に世界遺産に登録されている姫路城との違いを明確にし、姫路城とは異なった顕著な普遍的価値がある事の立証。
  • 彦根城の城郭・庭園・周辺の景観等の保存整備の推進。

などが挙げられている。

  • 2018年(平成30年) - 文化遺産分野におけるユネスコの諮問機関国際記念物遺跡会議(イコモス)の「城塞・軍事遺産国際学術委員会(イコフォート)」を招聘しての国際会議を開催し[18]、天守のほか大名庭園武家屋敷などと一体とした「江戸期の武士の統治を表す複合体」をコンセプトに2024年の登録を目指すことを表明[19]
  • 2020年(令和2年)3月 - 暫定リスト掲載から四半世紀以上を経て、2022年の登録審査を目指し初めて推薦書原案を文化庁に提出した[20]。なお、金を中心とする佐渡鉱山の遺産群飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群も2022年の登録審査に向けて推薦書原案を出しており、2020年夏頃に文化審議会が正式候補として一ヶ所に絞り込む(候補地なしという判断もあり得る)。
  • 2021年(令和3年)6月14日 - 和田彦根市長は、市議会定例会の一般質問の回答の中で彦根城が暫定リスト入りしてから30年近く過ぎたことに触れ、2024年の登録を逃した場合、これ以上の労力や資金を掛けることは避けたいと発言。運動打ち切りを示唆した[21]
  • 2022年(令和4年)8月3日 - 文化庁は彦根城の2024年の世界遺産登録を1年延期し、2025年に変更する旨を同月1日に滋賀県と彦根市に通知したことを同県などが明らかにした。ユネスコから不備などを指摘された佐渡金山の推薦書を再提出する影響によるものとしている[22]

構造

 
御城内御絵図(1814年(文化11年))

城の形式は連郭式平山城。本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置された。御殿は二の丸に置かれた。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。山崎曲輪三重櫓は明治初期に破却された。なお、城の北側には玄宮園楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園、楽々園はかつて松原内湖(戦中・戦後に干拓)に面しており、入江内湖も望める絶景であった。

また、現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。この石垣は(天秤櫓)の向かって右が牛蒡積み(野面積みの一種)、向かって左が(落し積み)となっている。

地理特性・縄張り

琵琶湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸からに至る東国西国の結節点であった。このため戦略拠点として古くから注目され、壬申の乱672年(白鳳元年))、姉川の戦い1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い1600年(慶長5年))など古来多くの合戦がこの周辺で行われた。織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城羽柴秀吉に与えている。また、豊臣秀吉徳川家康はそれぞれ重臣の石田三成井伊直政を、この地に配置している。

彦根城は対西軍の防衛のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られていた。敵が中に攻め入っても、階段を上がって敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。梯子のような階段は、ただ上の小さな掛かりが掛かっているだけで、敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とせる構造となっていた。

建築

 
天守東側、御金蔵、続櫓を望む

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城岡山城姫路城福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている[注 6]。この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。

本丸

天守

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)[注 7]」といわれる石垣で支えられ、1重目の窓は(突上窓)、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。大津城天守(4重5階)を5重の江戸城より低くするために敢えて3重に縮小して移築したといわれ[注 8]昭和の天守解体修理(1957年(昭和32年)- 1960年(昭和35年))のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている[23]。天守3階には破風の間という小部屋がある[24]

月見櫓・二十間多聞櫓
 
表門から本丸を望む古写真。右端から月見櫓、土塀、二十間多聞櫓、天守の入母屋が確認できる。そのさらに左は天秤櫓、麓には表御殿が見える。

かつて天守の南面にそびえていた二層二階の櫓。着見櫓ともいう。月見櫓から西へと方角を変えると、土塀を挟んで二十間多聞櫓が続いていた[25]。この二つの櫓群は山麓の表門から本丸を仰ぎ見ると、天守とともに眺めることができた。

太鼓門櫓

二十間多聞櫓を経た先にある櫓門。現存。続櫓として多聞櫓を脇に備える櫓門であり、解体修理の結果、場所は不明なものの城郭か寺院の大規模櫓門を縮小・移築したものであることが判明している[2]。櫓部分には勾欄が開口部として備わっており、往時はその名の通り太鼓を置き、周囲に時を知らせていたとされる[26]。なお太鼓門櫓を南にくぐった先は、本丸の中でも特に本丸南腰曲輪と呼ばれる区画となる。

天秤櫓
 
天秤櫓と廊下橋。

本丸南腰曲輪に存在する櫓。櫓門及び二層二階の櫓2基が多聞櫓によって一体化した形状で、その様が天秤に似ているためこの名がある。井伊家の文書『井伊年譜』には「鐘丸廊下橋多門櫓は長濱大手の門之由但楠木にて造」との記載があり、長浜城から移築された伝承が残る[27][28]。天秤櫓より廊下橋を渡って進むと、鐘の丸という区画になる。

西の丸

西の丸三重櫓
 
西の丸三重櫓、両翼に多聞櫓を持つ。

天守北面の西の丸に位置する三層三階櫓、現存。両脇に多聞櫓を備える格式高い造りであり、『井伊年譜』にて「西丸三階櫓は木俣土佐へ御預也、一月に廿日程づつ土佐相詰候由」とあるように、竣工時には彦根藩筆頭家老木俣家の預かり櫓・勤務地となっていた[26]小谷城からの移築物とする伝承が残っている[2][27]

山崎曲輪

山崎三重櫓・山崎口門

西の丸のさらに北面に位置する山崎曲輪にかつて存在した三層三階の櫓。往時は千鳥破風を備えた三重櫓であり、長浜城の天守を移築したとする伝承があった[29][26]。三重櫓には櫓門として山崎口門が近接していた。山崎口門は彦根城のなかでも最も琵琶湖側に開く門。櫓部分は失われて久しいが、門扉のみ現存している[2]

内城域

佐和口多聞櫓
 
復元された佐和口続多聞櫓。屏風状に屈折しつつ、多聞櫓、二階櫓が連なる。

彦根城には内城域として佐和口、京橋口、船町口の3つが築かれたが、このうち佐和口に二層二階櫓や多聞櫓が現存する[2]。佐和口多聞櫓は佐和山城からの移築とする伝承があるが[29]、その内部構造から元和年間の創建とする説もある[28]。佐和口付近の堀付近より天守、天秤櫓、佐和口多聞櫓を一望できる。佐和口門跡(非現存)を挟んで、佐和口続多聞櫓が犬走とともに延びており、この部分は復元建築物である[2]

文化財

国宝
  • 天守
  • 附櫓及び多聞櫓(1棟)
重要文化財
  • 天秤櫓
  • 太鼓門及び続櫓(1棟)
  • 西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)
  • 佐和口多聞櫓
  • 馬屋

観光

城域には彦根城博物館[30]や、開国記念館[31]がある。庭園の玄宮園を含めた内堀より中側への入域は有料(大人800円など)である[32]

また観光客誘致のため、彦根市のキャラクター「ひこにゃん」を毎日登場させている[33]

所在地
滋賀県彦根市金亀町1-1
利用情報
日本100名城スタンプラリーのスタンプは、彦根城開国記念館に設置されている。
屋形船(内堀を観光船で巡る)
山崎御門前←→玄宮園前船着場

アクセス

鉄道
タクシー
自動車
駐車場
  • 彦根城駐車場(1日1,000円)

舞台となった作品

映像

以下の作品以外にも、映画やテレビドラマの撮影地として頻繁に使われている。東映京都撮影所京都映画撮影所から場所が近いことから、姫路城とともに時代劇のロケが頻繁に行われている。江戸城の代わりとして用いられる事が多い姫路城に対して、それより小規模な本城は無名の小城という設定での撮影が多い。

文学

井伊直弼が藩主の座に就くまでに先の藩主やその候補者の多くが夭折(ようせつ)していることから、神秘的な物語の舞台に採り上げられることが多い。なお、国宝・彦根城築城400年の開催を機に、小説を対象に2007年(平成19年)、舟橋聖一文学賞が創設された。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 京極高次が建てた大津城天守を移築したもの。
  2. ^ 「附櫓及び多聞櫓」を1棟に数える。
  3. ^ 国宝指定の現存天守を持つ5箇所の城郭、姫路城松本城彦根城犬山城松江城を指す。
  4. ^ 昭和60年度から6年間にわたって修復を受けた。
  5. ^ 前月には中堀と外堀の間にある馬場町が空襲をうけた(彦根空襲)が城は被害を受けることはなかった。
  6. ^ 内藤信成時代の長浜城大手門。
  7. ^ ごぼうのように細長い大小の自然石を土塁の中に差し込み、石を積んでいく野面積みの一種である。外観は野面積みの一種だが、細長い石を縦横に組み合わせた組み木のような石積みで、非常に堅固である。四角く切った石を積んだ石垣と違い、見た目は無骨だが崩れにくく、非常に頑丈な石垣である。(「石垣の積み方」も参照。)
  8. ^ 天守がややずんぐりしているのはそのためであるという。

出典

  1. ^ 「角川日本地名大辞典 25 滋賀県」
  2. ^ a b c d e f 西ヶ谷恭弘ほか『名城を歩く : 彦根城 : 関ケ原合戦が生んだ湖東の水城』 4巻、PHP研究所歴史街道3月特別増刊号)〉、2003年3月。(全国書誌番号):(20373443)。 
  3. ^ “【展示】公文書に見る近代の城郭”. 滋賀県. 2021年5月28日閲覧。
  4. ^ 広報ひこね第1262号4ページ 2012年3月1日号
  5. ^ 先山 徹 他 編著「特別史跡彦根城跡石垣総合調査報告書」『彦根市文化財調査報告書』3、彦根市教育委員会文化財部文化財課、2010年。
  6. ^ 自転車の盗難急増 彦根城中堀へ投棄も、城内で啓発活動:滋賀彦根新聞(2013年3月8日)
  7. ^ 憤懣本舗「城の堀に大量の自転車が…」:毎日放送(2013年2月25日)
  8. ^ 彦根城の堀に相次ぎ自転車投棄 計115台、愉快犯か:日本経済新聞(2013年2月10日)
  9. ^ ひこにゃんも困った 彦根城の堀に自転車投棄115台、彦根市が告発:産経新聞(2013年2月10日)
  10. ^ 彦根城の壁はがれ落ちる 滋賀、草津宿本陣も
  11. ^ 彦根城 夜間開放14日、城フェスと城サミットのパンフレット完成
  12. ^ 全国城サミットin彦根
  13. ^ 滋賀県観光情報「全国城サミットin彦根」
  14. ^ “琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産”. 文化庁. 2020年9月20日閲覧。
  15. ^ 90年前の彦根城下航空写真発見 埋め立て前の外堀跡も
  16. ^ 国宝・彦根城築城410年祭
  17. ^ 彦根城外堀の正門は櫓門か 滋賀、礎石と石垣出土印刷用画面を開く
  18. ^ “城塞遺産国際会議:彦根城、知名度アップを アジア初、市内で22日から 30カ国100人参加、一般聴講も可能 /滋賀”. 毎日新聞. (2018年10月20日). https://mainichi.jp/articles/20181020/ddl/k25/040/412000c 2018年11月26日閲覧。 
  19. ^ “彦根城24年世界遺産目指す 本年度中に推薦書原案提出へ”. 京都新聞. (2018年10月22日). https://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20181022000077 2018年11月26日閲覧。 
  20. ^ “彦根城、世界遺産へ一歩 県と市が推薦書原案を提出”. 中日新聞. (2020年4月3日). https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20200403/CK2020040302000020.html 2020年4月19日閲覧。 
  21. ^ “彦根城の世界遺産登録、24年度の目標堅持 市長、逃した際「方向性考え直す」”. 中日新聞 (2021年6月15日). 2021年6月19日閲覧。
  22. ^ “世界遺産登録へ1年お預け/滋賀”. BBCびわ湖放送 (2022年8月3日). 2022年8月4日閲覧。
  23. ^ (上田耕三ほか)、三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて : 城の象徴にこめられた技と智恵』学習研究社〈歴史群像シリーズ ; 特別編集〉、2007年4月。ISBN (978-4-05-604634-2)。 NCID BA81899412。(全国書誌番号):(21228492)。 
  24. ^ 彦根城 天守の「隠し部屋」には屋外から見えない小窓が存在
  25. ^ 西ヶ谷 (2001), p. 111.
  26. ^ a b c 土屋 & 城戸 (1938), p. 219.
  27. ^ a b 西ヶ谷 (2001), p. 112.
  28. ^ a b 土屋 & 城戸 (1938), p. 220.
  29. ^ a b 西ヶ谷 (2001), p. 114.
  30. ^ 彦根城博物館(2018年1月20日閲覧)
  31. ^ 開国記念館彦根市ホームページ(2018年1月20日閲覧)
  32. ^ 彦根城観覧について(2018年1月20日閲覧)
  33. ^ 彦根城域での登場ひこにゃん公式サイト(2018年1月20日閲覧)

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 彦根城 - 彦根観光協会
  • 彦根城 - 彦根市
  • 国宝・彦根城築城410年祭
  • 玄宮園・楽々園について - 滋賀県立大学人間文化学部
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