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昭和一桁

昭和一桁(しょうわひとけた)は、昭和元年1926年12月25日から昭和9年(1934年末日までの8年7日間を指す名称である。1920年代後半の大半と1930年代前半に当たる。この間に生まれた人々を指して、「昭和一桁世代」といった世代区分がなされることもある(後節参照)。

なお、元号0年は存在せず(元年=1年を意味する)、昭和は前述の通り元年(1月1日ではなく)12月25日から始まったため、昭和一桁は10年間に1年11か月24日間満たない。

時代

この時代は、政党内閣の一時的な成立と崩壊、昭和金融恐慌世界恐慌などの経済的混乱が発生し、日中戦争が勃発して戦時体制に移行し始めた時代であった。

世界恐慌による就職難の時代であり、1932年の失業率は6.9%[1][注 1]にまで上り、1990年代 - 2000年代前半の「就職氷河期」の同義語に当たる「大学は出たけれど」が流行語になった。中でも、高等小学校を出た“大正一桁”(1912年(大正元年) - 1920年(大正9年))生まれが、軒並み就職難に遭遇した。冷害の年が続いた為、寒冷地の農村では「娘の身売り」が社会問題に発展した。

世界的には世界恐慌に伴うブロック経済の流れが進む中で、日本の関東軍1928年(昭和3年)に張作霖爆殺事件を惹き起こし、1932年(昭和7年)3月には満州国を樹立するなど、18年に亘る日中戦争が始まった時期であった。当時の関東軍による日中戦争のスローガンは、「満蒙は日本の生命線」であった。

内閣総理大臣には若槻禮次郎田中義一濱口雄幸・若槻禮次郎(再任)・犬養毅齋藤實岡田啓介が就いた。前半は憲政会立憲民政党の党首だが、1932年(昭和7年)の五・一五事件で犬養が暗殺されてからは政党政治は勢いを失い、現役軍人か軍出身者が就くようになった。

世代的特徴

この時代に生まれた人々は、「昭和一桁生まれ」「昭和一桁世代」または「昭和ヒトケタ」[2][3]と呼ばれている。世界恐慌の最中に生まれ、戦時体制に少年期を送った世代である。世代区分では、大正世代焼け跡世代に挟まれている。なお、この世代を学齢年度で定義する場合では1927年(昭和2年)4月2日 - 1935年(昭和10年)4月1日生まれとなる。

成長過程

「昭和一桁世代」には2つの層がある。それは、昭和一桁前期生まれ(1926年(昭和元年)末 - 1929年(昭和4年)生まれ)と後期生まれ(1930年(昭和5年) - 1934年(昭和9年)生まれ)という2つの層である。前期の人々の多くは、大戦末期に兵士として戦地へ動員され、また軍需工場に徴用されるなどで、戦争に参加した。特別攻撃隊として出撃したり工場で空襲を受けたりして戦死した例も少なくない。後期の人々の多くは、地上戦が行われた沖縄などの少年兵を除いて戦地へ動員されていない。

昭和一桁後期の人々は予科練にも間に合わなかったが、青年学校で軍事教練を受けて、学童疎開などを経験した。この場合、1920年代後半生まれは「真っ只中の(戦中派)」、1930年代前半生まれは「焼け跡闇市派」と呼ばれる場合もある。例えば1927年(昭和2年)生まれであれば第二次世界大戦終結時に18歳であるのに対し、1934年(昭和9年)生まれだと終戦時に11歳であり、一口に昭和一桁といっても第二次大戦の記憶は人それぞれであるが、大正期からの文化的連続性があった昭和初期の平和であった時期の記憶を持つのは、この昭和一桁前期生まれが最後の世代である。

そのため1920年代後半(昭和元年生まれ - 昭和4年生まれ)に生まれた人々は、小学校卒業後の思春期に第二次大戦に遭遇した。対して1930年代前半(昭和5年生まれ - 昭和9年生まれ)に生まれた人々は、日中戦争の最中に小学校に入り、第二次大戦の最中に小学校(第二次大戦中の国民学校)を出たか、小学校在学中に終戦を迎えた。

青壮年期

第二次大戦が終わると、いずれの層(特に昭和8年生まれ以降)も金の卵など若い労働力として戦後復興の担い手となった。昭和一桁生まれの子供世代は、主に昭和30年代生まれであり、「新人類」と呼ばれている。子供が生まれた時期は主に安保闘争前夜から東京オリンピックまでの高度経済成長の序盤の時期であり、この時期に「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ洗濯機冷蔵庫を買いそろえた者も多い。また、1960年代後半以降になると後期生まれの層を中心にマイカーを持つ者も徐々に増えていった。

「昭和ひとけた」という語が発生したのは、『昭和ひとけたの人間学』(1978年)における(福田邦夫)によれば、この世代が満36歳 - 満44歳を迎える1970年(昭和45年)前後であるとされ、野坂昭如(1930年生まれ)によれば、この世代が「花の中年」「違いのわかる年代」になった時代であるという[4]。「花の中年」とは野坂、永六輔(1933年生まれ)、小沢昭一(1929年生まれ)による「花の中年トリオ」(1974年)、「違いのわかる年代」とは、1967年(昭和42年)に発売された(ネスカフェゴールドブレンド)のキャッチコピー「違いのわかる男のゴールドブレンド」に由来する表現である。小林桂樹(1923年 - 2010年)が「昭和元年生まれの社長」を演じた劇場用映画『昭和ひとけた社長対ふたけた社員』(東宝)が公開されたのは、1971年(昭和46年)5月22日であり、同作の主人公である「昭和ひとけた」の人物は、公開当時「満44歳」ということになる[5]

定年後

勤め人としては1980年代後半 - 1990年代に引退した世代で、2000年代のうちに全員が後期高齢者となった世代ではあるが、第二次世界大戦とその後に続く高度経済成長で完全に文化面や社会面での連続性が途切れてしまった時代にあっては、第二次大戦の開戦前の情報を持つ生き証人でもあり、地域おこしなどで伝統産業や伝統芸能を復活させようとする際には、貴重な証言者ともなっている。また、零細企業や地方農村では、後継者不足もあって長く現役で働く昭和一桁世代が多く、2000年代 - 2010年代に至るまで農業地場産業の担い手として活躍した。2020年代の現在では、前期生まれを中心に既に死亡していたり、存命中でも要介護状態になっている者も多い。

平成期に三宅久之・渡部昇一など1930年(昭和5年生まれ)の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会が組織される[6]

昭和一桁世代の有名人

+表記の人物は故人。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 2002年の完全失業率は5.4%であった。出典:ジョブゲッター.com「完全失業率とは」

出典

  1. ^ 日刊ゲンダイ 2008年12月26日付3頁
  2. ^ 野坂・村上、[]
  3. ^ 高瀬、[]
  4. ^ 焼跡闇市の記憶と<妄想>の軌跡、慶應義塾大学、2012年10月5日閲覧。
  5. ^ 昭和ひとけた社長対ふたけた社員、allcinema、2012年10月5日閲覧。
  6. ^ 三宅久之, 木場康治「「昭和初午会」顛末記 よき友を持つことは幸いなるかな--政治評論家 三宅久之 本誌編集主幹 木場康治」『バンガ-ド』第21巻第2号、バンガ-ド社、2001年2月、24-33頁、NAID 40004477898。 

参考文献

  • 『昭和ひとけたの人間学』、(福田邦夫)、(青娥書房)、1978年3月
  • 『昭和ヒトケタ商社マン - 江商・安宅・伊藤万転戦記』、高瀬湊、朝日新聞社、1988年6月 (ISBN 4022558725)
  • 『亡国の輩 昭和ヒトケタと団塊の世代の責任を問う』、野坂昭如村上玄一角川書店、2001年5月 (ISBN 481042684X)

関連項目

政治

経済・教育

世相

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