仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)は、仏教信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための美術の総称である。これらには、仏陀や菩薩、実在・伝説上の尊格や尊者、祖師、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、曼荼羅や修行のための図像、さらに、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、金剛杵などの仏具が挙げられる[2]。
仏教美術は、釈迦入滅以降のインド亜大陸で興り、仏法(ダルマ)と僧伽(サンガ)が拡がるのと同様、仏教が伝来したアジア各地で発展した(#インド仏教美術)。インド北部から中央アジアを経由して、東アジアへと至り、北伝仏教美術が生まれた一方(#北伝仏教美術)、東南アジアでは主に南伝仏教の美術が生まれた(#南伝仏教美術)。インドでは、先行するバラモン教の理論を取り入れ[3]、ヒンドゥー教やジャイナ教とともに洞窟寺院をつくったように、各地でも、在来宗教を取り込み、独自の発展をした[4][5]。
インド仏教美術
無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀)
なぜ仏像は作られなかったのか?
最初期の仏教において、釈迦は人間の形で表されることはなく(不表現、英:aniconism)、(仏教のシンボル)によって描写された[6]。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる[7]。
- 仏教以前に主流であったバラモン教が偶像を必要としなかったので[注釈 1]、造像の発想自体が無かった[8]。
- (反偶像主義) - 釈迦入滅後数百年間は、「眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
- 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった[注釈 2][9]。
- 三十二相八十種好に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため[注釈 3]。
仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにも関わらずである)[12]。この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。
紀元前3世紀に石像が登場する以前、木像や金属像があったとの仮説もある[13]。
仏像以前の仏教美術
初期仏教の時代は、建築や装飾美術において、後代の造像につながる様式が確立された。ストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ[注釈 4])であった[16][15]。
インド亜大陸の大部分を版図に治めたマウリヤ朝の第3代アショーカ王(紀元前3世紀半ば)は、戦いでの傷心から仏に帰依し、入滅時に8基のストゥーパに分けられた舎利を分配し、8万4千ものストゥーパと、象・牡牛・馬・獅子を頂に抱いた石柱を築いたとされる[17][18][19]。釈迦の彫刻は作られなかったものの、仏教由来でない、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像が制作された[20][21][22][23][注釈 5]。
紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また紀元前1世紀にかけて、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる[24]。奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔の塔門浮彫(サータヴァーハナ朝)と(バールフットの欄楯)が挙げられる。
インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤのマハーボディー寺院は、ビルマとインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカ、シギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている [25]。
『アショーカの獅子柱頭』 アケメネス朝との交流に基づく、ペルシャ美術の影響が見られる。
仏像時代(紀元1世紀 - 現在)
2020年時点で、最古の仏像は、ガンダーラかマトゥラー産か、結論が出ていないが[26]、イラン系の王朝、クシャーナ朝のカニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。(カラチ博物館)所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう[27]。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドのマトゥラーと南東インドのアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた[28]。
なお、初期仏教の末期に成立したとされる『増一阿含経』には造仏像の功徳を説く記述が存在する(優填王造仏像伝説)[29]。ただし、これに対応するパーリ語経典『増支部』には、この記述は存在しない。
ヘレニズム文化は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321–298年)は、4世紀末の(セレウコス・マウリヤ戦争)でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:
アショーカ王の時代には過去仏信仰がすでに始まっていた[32]。初期の仏像美術において、歴史的な仏陀も過去七仏の一つである釈迦牟尼仏も(大乗仏教成立以降は阿弥陀仏も)、瞑想する仏陀として同様の表現方法が行われた。それゆえに、仏陀の周囲に施された装飾が文脈を理解し、どの仏陀であるか判別する上の鍵となる[33]。
ガンダーラ(クシャーナ朝以前)
- 詳細はガンダーラ美術も参照
紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝がシュンガ朝によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であったグレコ・バクトリア王国やそれに続くインド・グリーク朝の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、(ギリシャ式仏教美術)がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、メナンドロス1世(ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには出家して阿羅漢果[注釈 6] を得たという[34]。
また、この時代、紀元前1世紀には、上座部から分裂し教勢を増しつつあった説一切有部が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた[35]。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。
紀元1世紀、北インドを統一したクシャーナ朝は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現代のパキスタン、ペシャワール)を都と定め、(第3回仏典結集)を主催し、この頃すでに盛んになっていた大乗仏教・菩薩信仰を保護した。
初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現において(ヘレニズムがインド美術に及ぼした影響)をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪やコントラポスト、通肩[注釈 7]、靴、サンダル、アカンサスによる装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや古代オリエント由来のものである。
2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた[36]。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ(観音)信仰やマイトレーヤ(弥勒)が始まると、現世利益のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる[37]。
マトゥラー
紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝のプシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが [39]、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像、ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている[28]。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである[注釈 8]。
後期石窟寺院美術
インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、アジャンター石窟の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している[41]。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、バラモン教からの民衆化・世俗化が進展しつつあったヒンドゥー教の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。
インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。グプタ時代(4世紀から6世紀)には、マトゥラーの赤色砂岩彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。この時期には、マトゥラー様式の影響が及んだサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方[42]、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。この時代の傑作、「初転法輪仏坐像」に見られるように、サールナート様式はマトゥラー様式と比べて相貌が穏やかになり、装飾もより一層繊細なものになった[42]。サールナート様式は、後期石窟美術やナーランダーの仏像美術にも影響を与えた点でも重要といえる。
グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は南アジアのなかではヒマラヤ地域でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、ラダックの芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。
密教の登場
6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝[43] の北インド統一と[注釈 9][44]、ローマ帝国の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増加させることとなった[45]。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教やベンガル地方で勃興しつつあったタントラ、あるいはその他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。密教の成立によって、インドにおける仏教美術は曼荼羅や動的な仏像を生み出した。インドにおける密教美術は、この地へのイスラーム勢力の侵攻が決定的となった13世紀初頭まで続いた[注釈 10]。
密教が体系化されていくにあたって、儀礼の採用(護摩、真言や曼荼羅、印契)が図られた。その中で、密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。4世紀から6世紀頃までは、北方系と南方系、いずれの仏教においても、除災招福を目的とした日常的な儀礼・慣習としての呪術は行われていた[注釈 11][48]。しかし、これらの儀式はあくまで悟りの追求とは目的を別としていた。ところが、6世紀から7世紀にかけて、これらの呪術の目的は現世利益的なものから正しい悟り・成仏(解脱)へと焦点が移される[49][注釈 12]。また、4世紀から5世紀頃、ガンダーラの僧、世親が『倶舎論』の一章、世間品のなかで須弥山と宇宙について説いたことで、仏教においても宇宙観について議論が行われるようになった[50]。これらの要因を背景として、瑜伽観法が成立し、また宇宙に充満する仏・菩薩・明王・諸天・(鬼神)にいたるまでをパンテオンとして視覚的に表した曼荼羅が登場したのである[51]。なお、曼荼羅をはじめとした密教における「視覚芸術」は、布教や美的感覚を満足させるために制作されたわけではなく、色や形を通じて宇宙の本質性を表すことを目的に作られたことに留意しなければならない[52]。中国や日本の密教においてはこの関係性は顧みられなくなったものの[注釈 13][54]、その後のインド仏教やチベット密教においては引き続き重視された[55][52]。8世紀に入ると、インドにおいては『大日経』系密教にかわって『金剛頂経』系の密教が主流となり[56]、したがって、曼荼羅においても胎蔵界曼荼羅の作例は途絶え、金剛界曼荼羅[57]、さらにこれを踏まえた無上瑜伽密教系の曼荼羅が制作されるようになった[58][59]。インドやチベットで作られた、膨大なバリエーションを持つ無上瑜伽系の曼荼羅はいくつかの系統に大別することができるが[注釈 14]、芸術・聖像学的な視点で見た場合、以下のような特徴をあげられる[58]:
仏教彫刻においても密教化は進んだ。6世紀中頃に造営が始まった(アウランガーバード石窟)では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる[64]。これは、彫刻史においても変化を意味した。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったのは、古典的で内省・均整が特徴的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった[65]。
11世紀末から始まったセーナ朝の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに制作された最後の時代であった。1203年にゴール朝の軍勢によってヴィクラマシーラ大学が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術は終焉を迎えた。
諸難救済の観音菩薩[66] マハーラーシュトラ州アウランガーバード石窟第7窟 玄武岩 6世紀後半
密教の女尊群 アウランガーバード石窟
説法釈迦像 ナーランダ僧院出土 ビハール州(パトナ博物館)蔵
多羅菩薩像 ナーランダ僧院出土 ビハール州(パトナ博物館)蔵
パハルプールの仏教寺院遺跡群の塑像 粘土 9世紀 パーラ朝 バングラデシュ
11世紀に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや大スンダ列島、チベットといった、インドの周辺地域で隆盛した。特にチベット仏教とその美術は、モンゴル系民族や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。
釈迦入滅後、仏教がインド亜大陸内外にひろまるにつれ、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国のあいだで仏教美術の発展的差異が生じていった[67]。
北伝仏教美術
北伝仏教の美術は、大乗仏教の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な阿含経に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、初期仏教が修行の到達点としていた阿羅漢[注釈 17] ではなく、そこからさらに菩薩の境地をめざすことを重要視していた。般若経(大乗仏教の経典群)において、仏陀は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は菩提、六波羅蜜、知恵の完成(般若波羅蜜多、Prajñāpāramitā)、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する菩薩たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な成仏(過去七仏)や如来、菩薩や天部(韋駄天や帝釈天)に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と結びつくことで新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった[注釈 18]。
中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る仏教のシルクロードを介した伝播は、後漢の明帝によって西方へと派遣された甘英ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、クシャーナ朝(仏教の庇護者であった)の西域への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。支婁迦讖のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、(パルティア人)、月氏、ソグド人またはトハラ人とされる。
北伝仏教の美術と東方への影響
シルクロードを通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の新疆ウイグル自治区にあたるタリム盆地で2世紀から11世紀にかけて栄えた(東トルキスタン)の美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合ガンダーラ地方で、インドやギリシャ、ローマの影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。また、ヘレニズム仏教美術は、大乗仏教の教えを伝えたのみならず、古代ギリシャやローマ、ペルシャ、北西インドの文化・風俗・身体表現・装飾を伝える役割をも担い[68][69][70][71]、近くは南インド、遠くは日本にまで今日まで至る文化的な影響をのこした。それらは、建築の紋様((宝相華文)や(連珠文))や聖像、仏画、仏像、神道(水天や鬼子母神)に見ることができる。
図像的なディーテールにおいても、ヘレニズム文化から仏教美術への影響が及ぼされた[72][73]。翻波式衣文といった衣紋の表現や、フリーズにおける植物や幾何学パターンにおいて顕著であるが、聖像表現においてもそれは例外ではなかった。例えば、尊格の装束においてはディアデーマがある。ディアデーマ(希:διάδημα)とは、ペルシャやヘレニズム国家の王が身につけた冠であり、王権の象徴でもある。ディアデーマは仏教美術にそのまま尊格の表現として採り込まれると、中国の莫高窟の壁画や日本の来迎図などに登場する菩薩や飛天の表現様式とともに定着した。
また、ガンダーラおよび中央アジアにおいて仏教彫刻が成立していくなかで、ギリシャ神話の神々やゾロアスター教の神々、そして他のインドの神々が取り込まれていった。これらの地域で制作された仏教彫刻にのみ作例がのこるアトラース神[注釈 19]やトーリトーン神、アフロディーテー神、ポセイドーン神のような神格もあれば、美術様式の一端となって東アジアまで伝わった、ミスラ神と習合したヘーリオス神、クベーラと習合したディオニューソス神、ニュクス神、エロース神などの神格、後代には天部として仏教において信仰対象になったヘーラクレース神(執金剛神)やスーリヤ(日天)、ハリーティー神と習合したテュケー神(鬼子母神)、クベーラと習合して食厨の神としての大黒天を形作ったファッロ―神(後述)などがいた[75]。20世紀に入ってからの美術史における研究で、仏教美術に取り込まれた神格が、本来ギリシャに源流を持つことが明らかになった例もある。ガンダーラ、敦煌にも作例が残る風神と雷神は、本来はギリシャ神話のボレアース神に図像的な起源を持つことが研究によって指摘された[76]。さらに、日本の宗教美術史家である田辺勝美は、「武装した毘沙門天」という図像の成立過程に関する研究を通じて、天部のひとつである毘沙門天が、ギリシャのヘルメース、ローマのメルクリウスに源流をもつ、クシャーナ人に信仰された福神、ファッロ―(バクトリア語:Pharro、アヴェスター語:クワルナフ)を基に成立したことを明らかにした[77][78]。
アッシリア王ティグラト・ピレセル3世のレリーフ 紀元前8世紀ごろ
蓮花を囲むヘレニズム風の数珠紋 紀元前115年頃 サーンチー、ストゥーパ第2塔
奈良出土の寺院の瓦 7世紀 東京国立博物館平成館
ギリシャ仏教美術の展開と伝播 | ||||||
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年代 | 北東アジア&西域 | 中央アジア | ガンダーラ | インド | 東南アジア | |
紀元前5世紀 | 仏教の誕生
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紀元前4世紀 | アレクサンドロス大王による支配(紀元前330年)
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紀元前3世紀から2世紀 | セレウコス朝 (紀元前300-250年) ---------- (紀元前250-125年) (ヘレニズム文化)
| マウリヤ帝国 (紀元前321-185年) (Aniconic art)
| ミャンマーに仏教が拡がる | |||
紀元前2世紀から1世紀 | 中国、前漢 西域における仏教と仏像についての言及 (紀元前120年)
| インド・グリーク朝 (前200年-後80年) 仏教の拡がりとシンボルの確立
自立仏
| シュンガ朝(紀元前185-73年)
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紀元前1世紀 | 月氏 遊牧民族であったがギリシャ化し、仏教に改宗した | インド・スキタイ王国(前80年-後20年)
| ||||
1世紀 | 中国における仏教公伝 | インド・パルティア王国
| マトゥラーの美術
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1世紀から3世紀 | 確認されている中国最古の仏像 (後漢、200年頃) ----------
| ガンダーラ(ハッダ遺跡):クシャーナ朝
| 北インド:クシャーナ朝 (10年-350年)
南インド:サータヴァーハナ朝(-3世紀初頭)
| |||
4世紀から6世紀 | タリム盆地(東トルキスタン)
---------- 朝鮮、日本への仏教伝来 | エフタル | グプタ朝(320年-550年)
| 大乗仏教が ベトナムに伝わる | ||
7世紀から 13世紀 | 吐蕃(チベット)への仏教伝来 (8世紀頃) ---------- 日本
| ウマイヤ朝 イスラーム教勢力による支配 | パーラ朝(11世紀)
| インドシナ半島
11世紀、スリランカから上座部仏教が拡まる |
アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)
バクトリア地方(現在のアフガニスタン)の仏教美術は、7世紀に(イスラーム勢力)がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、紀元1世紀頃に人の姿をした仏陀(仏像)が初めて制作された。湿潤高温であるインドとは異なり、天空の神秘が重んじられた結果、弥勒信仰や兜率天信仰に由来する美術が多くつくられ、それまでになかったドーム窟が盛んに造営された。これはインドではほとんど作例のないものである。また、それに続いて(釈迦菩薩)や弥勒菩薩などの菩薩像や、仏伝図[注釈 20] を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための浮彫が作られるようになる[23]。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、カニシカ王の舎利容器が挙げられる。
3世紀前半、クシャーナ朝はゾロアスター教を奉じるサーサーン朝によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。バーミヤンでは、4世紀から6世紀にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの石仏や、石窟壁画が作られた[注釈 21]。バーミヤンの石窟美術においては、インドで見られる本生図や仏伝図はモチーフとして見られない一方、幾何学的な構成で弥勒菩薩と無数の仏たちを描く千仏構図が登場した[83]。他にも、スタッコ、片岩または粘土でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドのグプタ朝以降の様式主義とギリシャ美術、(ヘレニズム美術)、ことによってはそれに引き続いたローマ美術をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。
イスラムの支配は、他の「啓典」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「偶像崇拝」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。8世紀以降も、アッバース朝の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊はタリバン政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、ハッダの彫刻、(アフガニスタン国立博物館)に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。
1980年代以降、長く続いたアフガニスタン紛争による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、2000年代に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、平山郁夫らの主導による返還事業が行われた[84]。
トルキスタン(中央アジア)
中央アジアは長い間、ペルシャ、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。紀元前2世紀ごろ、前漢による西域への影響力の拡大は、中国文明へ西アジアのヘレニズム国家、特にグレコ・バクトリア王国とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも紀元前1世紀頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、イラン系のクシャーナ朝の王、カニシカ1世による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。
これらの動きは、タクラマカン砂漠の周縁に栄えたオアシス諸都市に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。シルクロードの一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。
西トルキスタン(パミール高原以西、現在のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)
6世紀、玄奘がソグディアナを訪れた際には、この地に住んでいたソグド人は主にゾロアスター教を信仰していた。しかし、のちにソ連によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している[86]。8世紀に入ると、アッバース朝による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。
良質な石材に乏しかった中央アジアでは、粘土は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった[87]。
東トルキスタン (特に( タリム盆地、新疆ウイグル自治区 ))
以降千年ほど、エフタル、西突厥、唐、東突厥、ウイグルと支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、10世紀、カラハン朝の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた[88]。
ドイツの東洋学者で、アルベルト・グリュンヴェーデルの調査隊に随行した(エルンスト・ヴァルトシュミット)によって提起された年代観に依れば、西域北道における仏教壁画美術、西域様式は、おおまかに三段階に分けられる[89]。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式(500年頃)、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式(600年頃と600年から650年の間、それに650年以降の3段階)、漢民族の強い影響を受けた第3様式である[注釈 22][90]。第2様式とそれ以前のスタイルの違いとして、第1様式と比べてより対比的な彩色とパターンの多用があるが、これは技術的な要因としてラピスラズリが新たに登場したことと、イラン的な要素が強まったことが原因であると考えられている[91]。クチャのキジル石窟は西方からの影響が大きい第1様式と第2様式の壁画から成るのに対して、同じくクチャのクムトラ石窟では第3様式も見られる[89]。
ベゼクリク千仏洞『誓願図』 9世紀 第3様式の例。人物の相貌や装束に唐の影響が強く表れている。
ベゼクリク千仏洞 第3様式では同形仏を繰り返し描くのが特徴。
中国
1世紀、仏教は中国へと至り、この国の美術、とりわけ塑像の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった[93]。
中国における仏教の受容において、(漢訳仏典)と教相判釈が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来サンスクリットやパーリ語で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で偽経と呼ばれる、原典にはない経典[注釈 23] も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、征服王朝である14世紀の元と17世紀以降の清の時代には特に、チベット仏教とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった[94]。
後漢・三国時代・晋
中国における最初期の仏像[注釈 24]や仏教彫刻[98][99] は後漢まで遡ることができる。また、三国時代、魏の曹植は梵唄を学んだようである。しかしながら、皇族や豪族層への本格的な普及は西晋に至るまで限定的であり、ゆえにこの時代に確認できる仏教美術は少ない。
魏晋南北朝時代
五胡十六国時代には、西域と中原を結ぶ交易路として栄えていた河西(現在の甘粛省)で、敦煌の莫高窟をはじめとする石窟寺院が建設され始める。この時代の仏像の様式と造形には、交脚したポーズや右肩を露出する「偏袒右肩」と呼ばれるスタイルなど、インド的な要素が強く遺されている[102]。5世紀に入ると、仏像は明確ではっきりとした輪郭線で表現されるようになる。造形も、こと如来像においては左右対称、厚手の衣装、より柔和な表情など中国風の表現が施されるようになっていく。
北魏による華北統一によって五胡十六国時代は終止符を打たれ、南北朝時代と呼ばれる時代に移っていく。これ以降、異民族系の北朝と漢民族の南朝が、隋によって統一がなされるまでの160年近くに渡って対峙を続けた。これらの政治的・文化的対立を背景に、仏教美術もそれぞれの地域で異なった展開をしていった。
北魏は建国当初から仏教保護政策を行っていた。晋の滅亡後、長く続いていた戦乱と経済的・社会的混乱は、五胡と呼ばれた非漢族系の異民族による華北への流入によって既に決定的なものとなっていた。このような状況において、それまで支配的であった儒教に変わって急速に拡がったのが仏教であった。仏教への改宗者は五胡の支配層にも多く、また彼らも仏教を民衆教化のため、政治的・文化的な動機で利用した。以降、仏教が国教化した北朝では、仏教教団と支配層の結びつきが強まっていく。それらの状況を色濃く反映したものとして、雲崗石窟寺院の石仏が挙げられる[注釈 25]。また、同時期の生活様式を映す仏像の様式として、4世紀に多く作られた小型で金属製の仏像である、小金銅仏がある。移動の多い騎馬民族や、戦乱と隣り合わせであった漢族にとっても持ち運びやすいことから重用された。
政策としての石窟寺院の建立は、仏教彫刻の中国化を促した。前述した雲崗石窟寺院に作られた仏像は、漢民族の好みに合わせて肌の露出が抑えられた表現になっている。また、景明元年(500年)に造営が始まった、龍門石窟に見られる漢化・抽象化した造形様式は、後世の中国諸地域のみならず三国時代の朝鮮や飛鳥時代の日本における造像の規範となった[103]。
6世紀、北周・北斉の両王朝の成立以降、仏像の様式にふたたび西方からの影響を受けたものが見られるようになる。伝来経路そのものは中央アジア経由か東南アジア経由か、あるいは複合的なものだったかは定かではないが、変化の直接的な原因は北魏皇統の断絶(すなわち「皇帝即如来」というイデオロギーの喪失)と鮮卑復古主義(漢化政策の否定)だったようである[104]。
一方、華南、特に沿岸部において仏教が東南アジア経由で広まりつつあった。東晋の法顕は、海路で師子国(現在のスリランカ)に渡り、かの地で見たジャータカ(本生説話)を「変」と記録している(『仏国記』)。これをもって、中国における仏教説話画が始まったとされている。
この時代の仏教彫刻が遺されている代表的な遺跡は、以下のような場所が挙げられる:
隋唐
6世紀末に成立した隋はおよそ40年ほどで滅亡したものの、中国における仏教美術の発展に残した影響は大きかった。300年ぶりに中国全土を統一した文帝(楊堅)は、各地方に僧院と仏舎利塔を建てた。また、中国そのもの政治的統合によって、地域性を保っていた各地の仏像芸術も隋の首都であった大興城(長安)を中心としながら徐々に融合をすすめていく[108]。この時代から、仏像は銅製のものだけではなく、白檀や青銅を用いたものが作られ始める。また、仏教絵画においては、ホータン王国出身の尉遅跋質那(うっちばっしな)とその子、尉遅乙僧(うっちいっそう、塞:ヴィシャ・イーラサンガ)が隋末唐初にかけて活躍し、西域絵画を中国へと伝える役割を果たした。彼らはまた、鉄線描と呼ばれる、緊張感とエッジの効いた画風の作品を遺した[109]。
隋の時代の伝統をふまえ、唐代の仏像はより生き生きとした表現がされるようになる。この頃の仏教彫刻は、グプタ時代のインド芸術に触発された、どちらかといえば古典風な様式を帯びている。それは、唐という国そのものがもっていた外来文化に対する開放性と、玄奘三蔵・義浄らの活動に代表されるインドとの往来によるものであった[110]。結果、仏教は、その一大中心地となった首都長安 (今日の西安)から朝鮮、そして遣唐使を通じて日本へと拡がっていくことなった。
しかしながら、晩唐の頃になると外来の宗教や文化は否定的に捉えられるようになった。845年、武宗は、在来思想であった道教を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教のネストリウス派、ゾロアスター教、マニ教、仏教を含む)を禁止する(「会昌の廃仏」)。この弾圧の結果、仏教教団は寺院や荘園を没収され、国家の擁護から離れて存続せざるを得なくなった[注釈 26][111]。そのため、中国における仏教はしばらく衰退するが、それは宋時代において花開く、禅宗と浄土教のふたつの宗派が民衆へと根ざしていく発端ともなった。
唐は歴代の王朝のなかでも最も仏教が盛んに信仰された時代の一つであり、かつ総じてみれば政治的にも概ね安定していたので、当時の作品も数多く遺されている。
初唐(7世紀)には、北魏時代に盛んであった弥勒信仰に代わって阿弥陀信仰が人気となり、西方極楽浄土を描いた芸術が現れた。唐代、莫高窟では、華やかで清浄な阿弥陀浄土が描かれた[112]。このような状況において、太宗 (唐)の甥、李泰による龍門石窟の復興を皮切りに、北魏の滅亡以降衰微していた華北平原での石窟造営が盛んになる。武宗・武則天の時代には龍門石窟は最盛期を迎え、奉先寺の大仏が建立された。これらの仏像は、雲崗石窟のものに比べるとより繊細で写実的な人物表現がなされている[110]。
盛唐から中唐(8世紀ごろ)にかけて、石窟美術は安史の乱による混乱を経てその中心を華北から四川に移していく。皇沢寺石窟や大足石刻は、玄宗皇帝時代の磨崖仏の白眉であると同時に、国際色と土俗性を兼ね揃えていく過程を窺える遺跡であるといえよう[113]。
五代・宋
先に述べた「会昌の廃仏」と五代十国時代の顕徳年間に行われた仏教弾圧、また唐滅亡後の戦乱によってこの時代は仏教彫刻の衰退期と見做されることが多いが、実際には各地で名品と呼びうる作品が多く制作された[118]。特に華南は戦争による混乱も少なく、後蜀・南唐・呉越・閩のように仏教を保護する国も多かった[119]。
宋の時代に入ると、初代皇帝趙匡胤が成都で『大蔵経』を印刷させたように、国家から仏教に対する支援が盛んになった。諸宗のなかでも教勢の発展が著しかったのが禅宗と浄土教であった[注釈 27][118]。また、この時代には、文人である士大夫層が武人に変わって政治の中心を占めていった。彼らは儒教を栄達のために修めていたものの、哲学・信仰の対象としては仏教、こと禅宗に帰依するものが多かった。このような状況から、墨跡・禅画・頂相といった、仏教美術の新たな流れが生まれていく。
中国禅を巡る芸術は、その担い手の多様性から、制作姿勢や美術の傾向にも異なった様式を生み出した。禅僧たちが修行や儀式のために頂相を制作した一方、在家・居士であった士大夫文人たちは(それが信仰心によるものであったにせよ)余技として禅故事を主題とした水墨画を描くことが多かった[120]。さらに、南宋の梁楷のように、院体画家(宮廷画家)が仏画を描くこともあった[121][122]。
禅僧たちの描いた禅画は、その教義ゆえに信仰の対象というよりも内面的な探求の手助けとするために描かれた。したがって、悟りの助けとなるならば画題に囚われずに描くようになり,絵の主題も、それまでの仏像や仏画が扱ったもの(菩薩や如来など)に留まらず、自然物や図形、神仙(道教)など多岐に渡るようになった。また、絵画表現においても新潮流が起こった。五代の道釈画家・石恪は、当時一般的であった細密な画風ではなく粗いタッチで仏画を描いたが、この画風は宋代の禅僧たちに受け継がれた。彼らは、モノクロームで活き活きとした筆致で悟りの衝撃を表現しようと試みた[123][注釈 28]。
他方、石窟造営も盛んに行われた。北宋における造像の傾向としては、異民族との最前線であった北辺地域(現在の河北省・山西省・陝西省)で造営が盛んであった[125]。制作された彫刻も、外敵の排除と現世・来世の安寧を祈願したものが多い。12世紀の始め、北方から侵攻してきた金によって華北を占領され、宋は靖康の変と呼ばれる屈辱的な敗北を経験する。南遷した宋王朝は南宋と呼ばれ、国土の半分以上を失ったものの、経済基盤は盤石であったことから、仏教石窟での造像は引き続き行われた。南宋時代には、大足の石窟群に数多くの仏像が遺された。人体表現においては北宋時代のものを概ね踏襲しながらも、顔つきはやや面長で肉付きが増し、体型も流麗さを残しながらもボリュームを湛えている点で以前のものと異なっている[126]。
12世紀、南宋の朱熹が主動した宋明理学の台頭によって、禅僧の画家は多くの批判に晒された。くわえて、後代の中国では文人画が尊ばれ、仏教絵画や院体画は相対的に低く見られるようになる。結果として、禅画の作品の一部は「水墨画」として鎌倉時代の日本に渡ったが、新たな文人画の流れが登場する南宋以降の中国では次第に衰退していく[127][128]。
遼・西夏・金
唐の衰退が決定的となると、羈縻政策の影響下にあった周辺民族は自立した。彼らは中原の勢力との対立を繰り広げながら、漢族とは異なった独自の文化を形成した。その一方で、遼や西夏、さらには遼から独立した金といった、宋と対峙したこれらの王国は、唐代に広まった仏教を信仰していた。
916年に成立した遼(契丹族)は、契丹文化と漢文化を同時に保持した二元体制を敷いていたが、12世紀初めに滅亡するまで仏教に対する信仰は篤かった。遼代の仏像美術は、唐の造像文化と華厳と密教をはじめとする五台山信仰の影響に彩られており、特に初期においては北宋とは異なった仏教文化が栄えた。11世紀、北宋との間に澶淵の盟が成ると、徐々に中国からの影響も受けるようになる。遼の仏像は一般的に、唐代に見られる、落ち着いた胴体に対して動きのあるプロポーションというスタイルを受け継いでいる。しかしながら、身体的には平坦な印象を与え、時代を下るにつれて脱力した柔らかい様式になっていった[131]。
西夏(タングート族)は、初期には中国からの仏教吸収に努めたが、後期にはチベット仏教の力が強まった[132]。また、西夏が河西回廊を掌握して以降は、莫高窟に代わって(楡林窟)の造営が盛んに行われるようになる。楡林窟の壁画には、宋代からの山水画の要素や、明代に成立した『西遊記』の原型となったとされる、三蔵法師が猴(孫悟空)や馬を従えているモティーフを見ることができる[133]。
金は、遼に反旗を翻した女真族によって建国され、宋と結んでこれを滅ぼした。金の仏教美術は、基本的には北宋・遼の文化を継承したものだった。ただ、洪福寺(山西省定襄県)や崇福寺(山西省朔州市)の例にみられるように、元・明・清を経て今に遺る仏教寺院の基盤となった寺院も多い[134]。また、遼との違いとして、金は道教や儒教に対し容認的であったので三教に由来する美術品が同じ工房で制作されることもあり、それゆえに元代以降の仏教美術(天部など)と道教美術双方に影響を残した。
水月観音[注釈 29] 像 遼代後期(11世紀-12世紀) 木造 カンザスシティ、ネルソン・アトキンス美術館蔵 水月観音の作例は宋から元にかけて多い。
観音菩薩像 金代 木造 パリ、(セルヌスキ美術館)蔵
『勢至菩薩』 西夏、13世紀 エルミタージュ美術館蔵
『文殊菩薩騎獅像』 楡林窟第3窟 西夏
元・明・清
13世紀初頭、モンゴル高原を制しこの地の諸部族をまとめ上げたモンゴル部は、金を滅ぼし中国華北を征服。国号を元とし、南宋を平らげここに中国全土を統一した。これにより、中国においてチベット仏教系の美術が制作されるようになった。特筆すべきは、中国本土においてチベット仏教の尊格の金銅仏が作られるようになったことである。この流れは、続く明や清でも続いた。『元代画塑記』(『経世大典』の一部)は、ネパールの仏工(阿尼哥)(アルニコ)とその弟子の劉元が数多くの仏像制作に携わっていたと言及しており、特に劉元は梵像(チベット系仏像)と道教美術の制作にも携わっていたとしている[138]。このことから、この時代の工房では、漢像と梵像の両形式の制作だけではなく、宗教を超えて道教とも相互に直に影響を与えあう関係にあったことがうかがえる。
14世紀、明が漢族の朱元璋はよって興され、元はモンゴル高原へと放逐された。明初期においては、チベット仏教への弾圧が行われたが、のちには仏教保護政策に転換し、チベット仏教と中国仏教の交流も進んだ。この時代の石造美術に名品は少ないが、塑造や銅造といった粘塑素材を扱ったものには優れたものが見られる。現存する遺構は以下のものが挙げられる[139]:
また、この時代以降に現存する作例として、乾漆造、鉄造がある。
16世紀末、明から自立した満州(現在の中国東北部)の女真族国家、後金は、国号を清と改め17世紀にかけて中国統治を完成させた。歴代の皇帝たちは、政治的および個人的な動機で仏教を保護した[注釈 30]。順治帝は禅に傾倒したものの、彼の後継者である康熙帝は父祖からの信仰であったチベット仏教を推進し、文殊皇帝を自称した [141]。しかし、仏教に対する清朝の後援が最高潮に達したのは乾隆帝の治世でのことだった。彼は膨大な数のチベット様式の宗教的作品を制作させ、その多くは彼を僧形で描いている [142]。さらに、乾隆帝は造営者でもあった。1744年、彼は自身の生家でもあった雍和宮(北京)をチベット仏教の僧院として改装させ、仏画、仏像、織物、石碑を寄進した [143]。また、(須弥福寿之廟)(承徳市)とその中に収められた品々は、乾隆帝によって成された、中国におけるチベット仏教様式の受容のひとつの完成形といえる。
1795年に乾隆帝が退位したのち、宮廷でのチベット仏教の隆盛は陰りを見せる。過去の研究では、清の歴代皇帝によるチベット仏教保護策の背後にあった動機は、主に内政的なものであり、満州、(モンゴル)、チベットとの結びつきを強化する手段に過ぎなかったと解釈されてきたが、近年の研究ではこの考え方は批判的に検討されている[144]。
清代に制作された仏教美術は、チベット様式と中国様式の特異な融合をみせた。図像や構図においてはチベット的なアプローチが取られる一方、装飾面(雲や装束)においては中国らしさが際立っている。 また、碑文は多くの場合、中国語、満州語、チベット語、モンゴル語、サンスクリット語など多言語で併記された。絵画は鮮やかで刺激的な色彩で描かれていることが多い [145]。
薬師佛 広勝下寺壁画 1319年頃(元代) メトロポリタン美術館所蔵
准胝観音像 明代
黄檗宗頂相 17世紀(清代) クリーブランド美術館[148] 蔵 最上段の僧侶は隠元隆琦であると判明しているが、全ての僧侶が同定されているわけではない。
『羅漢図』 金廷標画 清代(18世紀)
発掘と研究
中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションを有している。古代の仏教寺院はほとんど残されていないものの、現存する石窟寺院は多く、往時の信仰をうかがわせる手がかりとなっている[150]。とりわけ、高窟の近く敦煌と甘粛省永靖県炳霊寺石窟、河南省洛陽近くの龍門石窟、山西省大同市の雲崗石窟、および重慶市にほど近い大足石刻は、現在でもよく保存されている。唐時代に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす楽山大仏は、現存する石仏としては世界最大規模を誇っている。
20世紀の始め、清朝末期には「敦煌文献」の発見を契機に敦煌学が始まり、仏教経典、仏像、中国仏教美術史の近代的な研究がヨーロッパ諸国、中国、日本によって始められた。
1996年には、山東省青州市、龍興寺址の窖蔵(穴蔵)から、合計で400体以上に上る石仏が発見された。また、2003年には同省済南市、開元寺址から80体余りの仏像が発見され、龍興寺出土の石仏群との比較・照合が行われた。龍興寺で発見されたこれらの仏像は、大きさや題材も様々であったが[151]、埋蔵に至った過程までの経緯から損傷が激しいものが大半であった[152]。だが、(青州市博物館)によって復元作業が行われたことで、制作時期の数世紀以上の幅があったことが判明した。紀年銘によれば、古いものでは永安2年(529年・北魏時代)、新しいものでは天聖4年(1026年・北宋時代)に制作されたことが分かっている。また、これらの仏像が埋蔵されたのは12世紀初期(北宋末期)以降であると推定されている。龍興寺出土の石仏群、特に北斉時代のものは、当時の中国における肉体表現に対する試行錯誤と、東南アジア・南インドに由来する、海のシルクロード伝来の仏像美術・ヒンドゥー教美術の影響をうかがうことができる[153][154]。
朝鮮
朝鮮における仏教美術は一般として、他国から渡来した仏教の影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。また、初期の朝鮮仏教芸術は新羅の(王冠)や角帯(ベルト)のバックル、短剣、(ゴゴク)(勾玉の一種)などの工芸品や埋葬品に見られるように、シベリアやスキタイなどの草原文化の美術様式からも影響を受けていた [155][156][157]。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、シャーマニズムの伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、Arts asiatiques-Guimet ' )などと評されている。この国における仏教とその美術は、李氏朝鮮の初期をのぞいて組織だった破壊行為や徹底的な抑圧に晒されることはなかった、それゆえに、現代においても体系だった研究が行われている。
朝鮮三国時代
3世紀から4世紀頃にかけて、朝鮮半島各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から東北三省の一部まで版図を拡げた高句麗、南部から西南にかけての百済、東南部の洛東江下流の伽倻諸国、そして東南・(慶州盆地)の(のちに朝鮮を統一する)新羅が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる朝鮮三国時代が始まった。
372年、これらの国のうち高句麗が最初に仏教を受容する [158]。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである [159]。 384年、続いて百済に仏教が伝わる [158]。535年[注釈 31]、両国に100年以上遅れて新羅王国が仏教を受容する [160][注釈 32]。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである[161]。
仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「夷狄」であった拓跋氏の北魏様式であった[注釈 33]。北魏、それに続く北斉の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、中国南朝と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる[162]。
6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった[163]。印相・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。
新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる[164]。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた[165][166]。
高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった[167]。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、「延嘉七年」銘金銅仏立像もこの時代に制作された[168]。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。
百済の微笑と半跏思惟菩薩像
このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった [169]。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、梁などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には(百済の微笑)と呼ばれている、神秘的で穏やかなアルカイックスマイルを浮かべているものが少なくない[170]。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて半跏思惟菩薩像が盛んに作られた[163]。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の広隆寺伝来の(宝冠菩薩)にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた[171][172][注釈 34]。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)渡来人が携わっていたからであると考えられている[173]。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである[174]。
また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の益山には(彌勒寺)が、新羅の慶州には(皇龍寺)が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、奈良の法華寺 (飛鳥寺)や法隆寺などの建設を行った [175]。
統一新羅
7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、統一新羅時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、慶州石窟庵の本尊如来坐像に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。
また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、金剛界大日如来や十一面観音、千手観音、明王といった尊格の仏像が作られた[176]。
9世紀後半、中央集権政的な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・花郎の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。
仏陀立像 高句麗 (ソウル大学校美術館)蔵
渤海
7世紀、高句麗の遺民や靺鞨人によって渤海が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである[180]。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。
仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に上京龍泉府と中京顕徳府、東京龍原府に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。
高麗
統一新羅が混乱の末に衰亡し、936年に高麗が朝鮮統一を果たす。初代国王の太祖が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。
高麗仏画は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、華厳思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。
また、宗教的営為としての写経が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった[181]。これら写経のうち、豪奢な作りのものは装飾経と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、木版印刷でも写経は行われた。モンゴルの朝鮮侵入を機に13世紀に彫刻された高麗八万大蔵経は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。
仏像美術においては、俗に「弥勒仏」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた[182]。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度なデフォルメが施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は風水思想や土俗信仰とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退するが、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が作られた。
地蔵菩薩図 高麗末期(14世紀末) メトロポリタン美術館蔵
水月観音図 13世紀から14世紀 ギメ東洋美術館蔵
敬天寺十層石塔 高麗時代 国立中央博物館蔵
李氏朝鮮
李氏朝鮮時代は、最初期こそ仏教が保護されたものの、儒教の国教化を背景に、1406年、太宗の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、1549年、文定王后のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。
朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった[185]。
仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、施食会に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる[186]。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも大衆向けに作られていた。これらは、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった[187]。
(公州新元寺盧舎那仏掛仏幀) 大韓民国指定国宝299号 1664年 (新元寺)蔵
日本
シルクロードの終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で他の宗教や世俗勢力による抑圧が行われた時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた[188]。日本の仏教彫刻の創造性は奈良時代、平安時代、そして鎌倉時代と、8世紀から13世紀にかけて特に豊かであった。仏教と習合して伝わったヒンドゥー教やタントラ、道教の要素や、在来の神道とも混淆・相互に影響が及ぼされたことも見逃せない。
飛鳥時代
538年もしくは552年に、百済からの使者によって仏教が紹介される(仏教公伝)。その後、法興寺(のちの飛鳥寺)や四天王寺が建立されるなど、国家仏教化が推し進められた[189]。
日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。577年には、百済から仏師が渡来した(『日本書紀』巻第二十)[190][191]。『日本書紀』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている[192]。この仏像は金銅仏であったが、法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥寺の釈迦如来像といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、法隆寺夢殿の救世観音像や百済観音といった、金箔で荘厳された木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる[193]。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、左右対称であることが挙げられる。これは、(立体曼荼羅)などにみられる奈良時代以降の仏像と異なり、正面から鑑賞することを前提としていたためであった[192][要検証 ]。
仏教を日本に定着させるうえで重要な役割を担ったのが、推古天皇の甥で、摂政であった聖徳太子である[194]。聖徳太子は深く仏教に帰依し、薨去ののちも太子信仰というかたちで崇拝の対象と芸術の題材[注釈 35]となったが、聖徳太子自身も生前、建設者でありパトロンであった。上述の四天王寺や飛鳥寺の建立を主導したほか、止利様式の仏像の制作に関与した[196]。また、聖徳太子の妃、橘大郎女が織らせた「天寿国繍帳」は、日本に現存する最古の刺繍美術であり、仏教伝来最初期に描かれた浄土表現である[197][198][199]。
「天寿国繍帳」 国宝 622年 聖徳太子の妃である橘大郎女が太子を偲んで制作させたもの[199]。
奈良時代
710年に藤原京から平城京への遷都が行われると、薬師寺、興福寺などに代表される、数多くの寺院が建てられた[207]。この時代では、国家が仏教美術の後援者であった。しかしながら、遁世僧であった行基の協力によって東大寺盧舎那仏像が建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった[208]。また、唐招提寺や葛井寺の千手観音像や、東大寺不空羂索観音立像といった密教像の制作が始まった[209]。『正倉院文書』にも密教経典が残る[210][211]。
東大寺盧舎那仏像 752年(天平勝宝4年)に開眼供養が行われた。「奈良の大仏」とも。度重なる戦災と補修により、建造初期から残っている箇所はわずかである。
平安時代
日本では、平安時代初期から「密教美術」と呼ばれる密教に関する仏教美術が発達した[213][注釈 36]。
9世紀はじめ、唐から密教の奥義を持ち帰った空海が、曼荼羅、法具、(書道)をもたらした[215]。
東大寺盧舎那仏建立に際し、宇佐八幡神が建立を支持して以降、神仏習合が形成され、東寺八幡宮・松尾大社等に、仏像の影響で生まれた神像が祀られた[216][217]。また山岳信仰との融合から修験道が生まれ、蔵王権現と役行者が図像化された[218]。
1052年(永承7年)が、釈迦入滅1000年による末法の世と見なされ、源信『往生要集』に六道の様子が記されると、地獄絵を含む六道絵の典拠となった[219][220]。
11世紀半ば、関白藤原頼通は、現世の浄土として宇治平等院に鳳凰堂を建立した。本尊の阿弥陀如来坐像は定朝制作とされ、寄木造の技法が生まれることにより、木造で丈六仏と呼ばれる高さ3メートル程度の仏像を作れるようになった。この技法は後の慶派らに活用される[221]。
前代からの密教思想と浄土思想に則った、涅槃図に源信が考案した来迎図、平清盛らの奉納による平家納経に代表される装飾経が、極楽往生を願う天皇や貴族らによって盛んに制作された[222][223]。
国宝 (阿弥陀聖衆来迎図) 12世紀 和歌山県、高野山霊宝館蔵
鎌倉・室町時代
民衆層へ仏教が広まるとともに、臨済宗・曹洞宗新仏教(鎌倉仏教)が興り、仏教美術では「禅」が多くの比重を占めることとなる[注釈 37]。
仏像では慶派らによる寄木造が主流となり、高さ8.4メートル (28 ft)の東大寺南大門の金剛力士像を寄木造によって完成させた[226]。
室町時代では、禅の美術が大きな比重を占めることとなる[227]。禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた[228]。足利将軍家は梁楷・牧谿といった宋元の書画や文物を「唐物」と呼び、崇敬をもってこれらを迎えたが、実際に収集に携わっていたのも禅僧であった[229]。こうして宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がはかられていくなかで、水墨画、枯山水、茶道、華道が受け入れられた。相国寺からは、如拙、周文、雪舟ら画僧が輩出された。また、禅僧と公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗の夢窓疎石が大きな役割を果たす[230]。
13世紀、武家の中心地であった鎌倉では、中国との活発な交易と、当時まだ仏像の伝統が確立されていなかったことを背景に「宋風」、「宋元風」と呼ばれる中国趣味が室町時代に至るまで流行・主流をなした[231]。神奈川県立歴史博物館学芸部長(当時)の(薄井和夫)によれば、「宋風仏像の造形に共通する特徴として、立像・坐像を問わず猫背の体勢、頭髪では渦高い宝髻や扁平な螺髪、低い肉髻。面貌では菩薩像の卵型で女性的な顔立ちや、如来像の鼻梁の太い人間くさい面相、着衣では菩薩でありながら衲衣を着ける服制、だらりと袖・裾丈の長い着衣、細かく複雑に変化したり、あるいは大きくうねる衣文など、全体にかなり癖のつよい造形を見ることができる[232]」としている。観音菩薩の(遊戯坐像)や法衣垂下形式の表現は、日本においてはこの時代を中心に見られる。宋風仏像は、室町時代に入ると院吉・院広らによってより形式化した唐様の仏像へと受け継がれていった[232]。一方、京都ではこれらの新様式は受け容れられず[233]、また本来的には仏像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって、室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた[234]
また、縁起絵巻や高僧絵伝が多く作られた。観世音菩薩の功徳を説く『石山寺縁起絵巻』や、室町将軍の正統性の為、薬師如来の霊験にすがろうとした『桑実寺縁起絵巻』に、新羅の僧、義湘と元暁のを題材にした『華厳宗祖師絵伝』、遊行の生涯を、日本各地の景観と貴賤の人々と共に描いた『一遍聖絵』等があげられる[235][236]。
江戸時代
徳川幕府によって、檀家制度が確立され、ほぼすべての民衆は寺と紐づけられた[242]。江戸時代初期において仏教美術は、幕府・諸藩の援助を受け、盛んに制作された。17世紀半ば、明末清初の混乱に伴い、隠元隆琦、逸然性融ら渡来僧によって中国の仏教美術と江南地方の文化が江戸時代の日本にもたらされる。彼ら、唐絵などの黄檗美術や[243]、高僧の頂相、(唐様)(書体)といった、「宋元風」とは異なった新しい表現をもたらした[244][245]。
一方で、江戸期には寺請制度によって寺院と庶民層が接近したことと、庶民が貨幣経済を背景に社会へと進出したことで、仏教美術の大衆化が進んだ。勧進によって、町人からの寄進によって寺社の建設費が賄われることが増え[246]、諸尊の仏像が彼らの要望に応えるかたちで建立され[247]、円空や木喰ら、武家の庇護をうけない僧が現れた[244]。
また、白隠慧鶴や仙厓義梵らによる、既存の画派に染まらない独自の禅画や地獄絵がうまれた[248]。良寛の書も同様である[249]。