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阿含経

阿含経(あごんきょう、あごんぎょう、: āgama, アーガマ)とは、最も古い仏教典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。阿含(あごん)とは、サンスクリットパーリ語アーガマの音写で、「伝承された(教説)、その集成」という意味である[1]。阿含の類義語には(ぶ、Nikāya)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている[1]

仏教用語
アーガマ
パーリ語 āgama
サンスクリット語 āgama
チベット語 Lung [1]
中国語 阿含
日本語 阿含
英語 "sacred work"[2] , "scripture"[3]
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釈迦の死後、その教説は迦葉阿難を始めとする弟子たちを中心として何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した[1]。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが[1]、一般に紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている。その経蔵はそれぞれ阿含(āgama, アーガマ)または(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた[1]

これらの現存するものは、スリランカミャンマータイカンボジアラオスベトナムに伝えられている『パーリ語仏典』と、それに相応する漢訳経典などである[1]。漢訳では増一四阿含(しあごん)があり、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。パーリ語訳では五部が伝えられている。両者は共に同一の原典から訳されたもので一定の対応関係がある。

構成

パーリ語仏典の経蔵と、漢訳『阿含経』の主な対応関係は以下の通り。

  1. 長部」(: dīgha-nikāya, ディーガ・ニカーヤ) : 『長阿含経』(じょう-) - 長編の経典集。全30経。
  2. 中部」(: majjhima-nikāya, マッジマ・ニカーヤ) : 『中阿含経』 - 中編の経典集。全222経。
  3. 相応部」(: saṃyutta-nikāya, サンユッタ・ニカーヤ) : 『雑阿含経』(ぞう-)- 短編の経典集。全1362経。
  4. 増支部」(: aṅguttara-nikāya, アングッタラ・ニカーヤ) : 『増一阿含経』(ぞういつ-)- 法数ごとに集められた短篇の経典集。全473経を全11集にまとめたもの。
  5. (「小部」(: khuddaka-nikāya, クッダカ・ニカーヤ) - 『法句経』(ほっくきょう)や『本生経』(ほんじょうきょう)など。漢訳では相当文が散在するが、主に大蔵経の「本縁部」に相当する。)

所持部派

上記の漢訳「四阿含」は、分別説部スリランカ仏教大寺派)で一括的に継承されてきた「パーリ五部」とは異なり、異なる部派の『阿含経』(アーガマ)を寄せ集めたものである。今日考えられている各『阿含経』(アーガマ)の所持部派を示すと以下のようになる[4]

歴史

中国においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。天台宗教相判釈である五時八教では、『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な教えだと位置付けているくらいである。日本にも仏教の伝播初期から伝えられており、倶舎宗で研究されていたとされるが[5]、五時八教の影響が強かったため久しく読まれることがなく、江戸時代になってから儒学者の富永仲基に再評価された程度であった[6]

研究史

『阿含経』はむしろ近代文献学を事とするヨーロッパの研究者たちによって正当な評価を受けた。

上述の通り、阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されずにあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに研究され今日に至っている。以下、パーリ語の研究史とも併せて略史を記す。

研究の契機は、イギリスによるセイロン島支配(1815年に英領編入が完了)であった。1824年、イギリス人宣教師クラフによってパーリ語の文法書が出版[7]されて以来、まずパーリ語の研究が始まる。これはセイロンの歴史書研究の必要性からであった。フランスも、同じくパーリ語仏教圏であるタイビルマに勢力を伸ばしており、1826年ビュルヌフによるパーリ語に関する学的論文が発表される。やがてこれらの研究の成果として、1837年セイロン島史『マハーヴァンサ』(大史)がパーリ語原典からターナーによって英訳された。

 
ブライアン・ホートン・ホジソン

同じ頃、ブライアン・ホートン・ホジソンによって1826年にネパールサンスクリット(以下、梵語)仏典が紹介されており、欧州は仏典に梵語によるものとパーリ語によるものの別が存在することを知った。この両者の新古をめぐって論争が起こり、仏典の比較研究が始まる。1852年に上述のビュルヌフは『法華経』をフランス語訳したが、このようにパーリ語仏典の研究は梵語の研究と深い関係を持つものであった。ホジソンはやがて梵語仏典が古層であるという自説を撤回したが、ビュルヌフにしても、梵パ仏典の前後関係については資料不足のために結論を出すことは出来なかった。

1855年ファウスベルが『法句経』のパーリ語原文とラテン語訳を出版して以降、原典出版が盛んとなり、1881年にはリス・デイヴィッズによってパーリ聖典協会(Pāli Text Society)がロンドンに設立され、パーリ語学者の総力を挙げて組織的な出版が開始されるに至る。今日に至るまで、同協会の出版がパーリ語仏典研究の基礎である。

既に記したように、パーリ語の研究は当初キリスト教の宣教師によって開始されたもので、宣教師の研究動機は「仏教よりもキリスト教が優れている」ことを証明するため[8]であった。これに対し、植民地支配の構造とも相俟って劣勢に置かれた仏教徒の反論がなされた。1873年セイロンのグナーナンダは新聞社主催の討論でキリスト教を論破し、仏教の威信を回復した。これを機会に1874年コロンボにヴィドヨーダヤ大学が設立されて、仏教徒による研究が起こった。

セイロンの仏教は、ポルトガルオランダヒンドゥー教徒の国王の迫害などによって数度にわたり出家比丘サンガの伝統が途絶えた。現存する比丘サンガは、1756年にタイから、ついでビルマから具足戒を逆輸入することで復興された。このために、タイ・ビルマの仏教徒の研究と出版の成果が、国際色の強いセイロンから発表されるという構図を取ることとなった。セイロンは南伝上座部仏教の国際センターといった地位を獲得したのである。

明治以降の日本の仏教者も、セイロンやタイへの留学が先行して流行した。その後、梵語仏典やインド哲学一般との関係、仏教一般といった視点の獲得を求めて欧州への留学が盛んとなった。日本の仏教者は大乗仏教徒であり、欧州留学の主要な動機も梵語研究にあった。しかし、梵語を習得すればパーリ語の読解も比較的容易であるため、当初は梵語に比べて二次的な関心しか払われなかったパーリ語研究も、時間が経つにつれて梵語・パーリ語・漢語・チベット語の比較対照研究といった方面から盛んとなる。

南条文雄は1883年に英訳『大明三蔵聖教目録』(南条目録と呼ばれる)を出版したが、その中で漢訳の阿含経とパーリ語のアーガマが対応関係にあることを指摘した。この、漢訳仏典との関係という方面については、欧州ではほとんど研究されていない分野であり、その関係も不明とされていた。

高楠順次郎が1896年に漢訳『善見律毘婆沙』がパーリ語律蔵の注釈書『サマンタパーサーディカー』の翻訳であることを発表、パーリ語仏典と漢訳仏典の対応を証明した。高楠は帰国後に東京大学で梵語とパーリ語の講義を開始、その後に彼の主導によって編纂がなされた『大正新修大蔵経』には、阿含部と律蔵についてパーリ語仏典の相当箇所が注記されている。

 
姉崎正治
 
椎尾弁匡

姉崎正治椎尾弁匡によるパーリ五部と漢訳四阿含の綿密な対照研究以降、渡辺海旭長井真琴・(干潟竜祥)・(渡辺楳雄)・赤沼智善木村泰賢宇井伯寿らに[9]よってなされた比較研究は、漢文を苦手とした二十世紀初頭までの欧州の研究を基礎としつつ、伝統的な漢訳仏典研究の基盤というアドバンテージのある日本の研究者の独擅場となる。ここに、日本の近代仏教学の国際的地位が確立した。その精華として、日本の研究者がその総力を挙げてパーリ語の仏典を国訳した『南伝大蔵経』は、翻訳事業としては欧州の研究を規模において凌ぐものであった。

日本では、学問的に還元されうる原始仏教への強い関心からも阿含の研究が盛んとなったのであるが、パーリ語のアーガマにも新古の層があることが判明してゆくにつれ、大乗非仏説に対する(小乗非仏説)まで登場した。中村元三枝充悳も『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」[10]つまり阿含だからといって全部が釈迦の「金口直説こんくじきせつ」というわけではない、と釘を刺している。今日、疑いなく釈迦の直説と認められるものを求めることは不可能に近いが、もしも[11]テキストの中にそれが含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとされる。

内容

直説経典である[要出典]ため、釈迦の言動、並びにその教法――とりわけ七科三十七道品として知られる成仏法(修行法)が記されてある。

漢訳阿含経の信頼性

漢訳の『阿含経』はパーリ語のニカーヤを原典とした翻訳とは考えられない形跡があり、俗語やサンスクリット語で伝えられていた原典がパーリ語訳とは別に漢訳されたと考えられている。一般に、漢訳は意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合がある[12]。このため、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという見方もある。ただし、現存するパーリ仏典の写本はほとんどが18世紀以降のもので漢訳仏典よりずっと新しいため((パーリ仏典#写本の成立年代))、パーリ語文献が絶対とも言えない。

日本語訳

全訳

  • 『国訳一切経』「印度撰述部 阿含部」 第1-10巻 大東出版社

部分訳

  • 『新国訳大蔵経』「長阿含経I-III、雑阿含経I-II」 大蔵出版
  • 『現代語訳「阿含経典」』 第1-6巻(長阿含経) 平河出版社

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g 馬場紀寿 2018, pp. 56–59.
  2. ^ Monier-Williams (1899), p. 129, see "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Cologne" at http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/scans/MWScan/MWScanpdf/mw0129-Akhara.pdf.
  3. ^ Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 95, entry for "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Chicago" at http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:2582.pali.
  4. ^ 「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の目的と方法論 - 【10】本研究の原始仏教聖典観とその取り扱い方 (中央学術研究所)、森章司
  5. ^ 友松 1981, p. 17.
  6. ^ 友松 1981, p. 33.
  7. ^ Clough,Benjamin: A Compendious Pali Grammar, with a Copious Vocabulary in the same Language, Colombo, 1824.
  8. ^ 水野弘元『パーリ語文法』(山喜房仏書林, 1955), pp209. 注で当時の宣教師P. Bigandetが出版した仏伝の序文も掲載している。
  9. ^ 友松 1981, p. 35.
  10. ^ 中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫、2009年)p.52
  11. ^ 『仏典解題事典』(春秋社, 1966, 1977) 阿含経の項目参照。
  12. ^

参考文献

  • 友松円諦『阿含経入門』講談社〈講談社学術文庫〉、1981年4月10日。ISBN (978-4061585461)。 
  • 中村元『広説佛教語大辞典』上巻 東京書籍、2001年6月、13-14頁。
  • 馬場紀寿『初期仏教――ブッダの思想をたどる』〈岩波新書〉2018年。ISBN (978-4004317357)。 

関連項目

外部リンク

  • 原始仏教 - 広済寺ホームページ
  • Ekottara Agama(増一阿含経の英訳)(英文)
  • 佐々木閑「阿含経の教え」 - 仏教学者による解説動画集
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