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ラグビー日本代表

ラグビー日本代表(ラグビーにほんだいひょう)は、日本ラグビーフットボール協会が組織するラグビーユニオンナショナルチーム。愛称は「ブレイブ・ブロッサムズ」(Brave Blossoms[注 1][1]。他のスポーツに先駆けて、1966年から現在まで略称として「ジャパン」と呼ばれ[2][3][4]、さらにヘッドコーチ名を冠し[5][6][7][8]現在は「ジェイミージャパン」[9] とも呼ぶ。ワールドラグビー「ハイパフォーマンスユニオン」に位置し、最上位11か国の1つ[10][11][12]。ファーストジャージは赤と白のストライプで、左胸に「全開の桜3弁」を配置し「桜のジャージ」と呼ばれる[13]

ラグビー日本代表
ユニオン 日本ラグビーフットボール協会
愛称 ブレイブ・ブロッサムズ
エンブレム
コーチ ジェイミー・ジョセフ
主将 坂手淳史
最多キャップ 大野均 (98)
最多得点選手 五郎丸歩 (711)
最多トライ選手 大畑大介 (69)
ファーストカラー
セカンドカラー
初国際試合
 日本 3 - 3  カナダBC州
(1930年9月24日)
最大差勝利試合
 日本 155 - 3 チャイニーズタイペイ 
(2002年7月6日)
最大差敗戦試合
 ニュージーランド 145 - 17 日本 
(1995年6月4日)
ラグビーワールドカップ
出場回数 9 (1987年初出場)
最高成績 ベスト8 (2019)
(テンプレートを表示)

代表資格

国籍は関係ない

ラグビーでは、国の代表チームとしてプレーする際に、国籍は問われない[14][15]。代表資格は、ワールドラグビーのレギュレーション8条により、以下の4条件で規定されている。

  • 当該国(日本)で出生している、または、
  • 両親、祖父母の1人が当該国(日本)で出生している、または、
  • プレーする時点の直前の60ヶ月間(※)継続して当該国(日本)を居住地としていた、または、
  • プレーする時点までに、通算10年間、当該国(日本)に滞在していた[16]

(※)2021年12月31日までは、「60ヶ月間」ではなく「36ヶ月間」[17][18]

上記の規定は、過去に他の国での代表戦出場が無いことが前提となる(他国でのジュニア代表出場は不問)。

帰化した選手が少なくない

「外国人選手が多い」という批判がある[15][19]が、日本は外見的特徴からそのように指摘されやすい。他の国のラグビー代表チームも同様に、異なる国の出身者が多く含まれる[注 2][20][21]。高校・大学時代から日本で生活し、日本に帰化(日本国籍を取得)している選手も少なくない[22][23][24][25][26][27]。なお、カタカナだけの氏名であっても、姓と名の表記の間に「・」が無い選手は、日本国籍を持つ者である(戸籍に記号は使えないため)[28]

南太平洋諸国に配慮した新条件

また、2022年1月1日から、以下の基準を満たす場合に選手が一つの協会(国)から別の協会(国)へ変更できるようになった[29][30][31]。これは、フィジーサモアトンガなどの南太平洋の国々出身の選手が、活躍の場や経済力を求めて外国に行ってしまい、出身国のラグビー運営に支障が出ることへの配慮を主とする規約改正である[32]

  • 36ヶ月間、ラグビーの国際試合に参加していない。
  • 選手が移動を希望する国で生まれている、または親や祖父母のうち誰かがその国で生まれている。
  • 選手は一度だけ協会を変更することができ、各ケースはワールドラグビーの承認が必要となる。

直近の動向

現在の日本代表選手

日本代表メンバー

2022年11月の日本代表欧州遠征メンバー40名(FW22名、BK18名)[41]。キャップ数は、11月20日テストマッチ終了時点。

★印は2022年10月29日のニュージーランド戦出場選手[42](日野剛志は出場登録されたが出場機会が無かった)。

●印は11月12日のイングランド戦出場選手[43]

◆印は11月20日のフランス戦出場選手[44]

選手 ポジション 誕生日 (年齢) キャップ チーム
稲垣啓太★●◆ (プロップ) (1990-06-02) 1990年6月2日(32歳) 45   埼玉パナソニックワイルドナイツ
木津悠輔 (プロップ) (1995-12-02) 1995年12月2日(27歳) 6   トヨタヴェルブリッツ
クレイグ・ミラー★●◆ (プロップ) (1990-10-29) 1990年10月29日(32歳) 9   埼玉パナソニックワイルドナイツ
具智元★●◆ (プロップ) (1994-07-20) 1994年7月20日(28歳) 21   コベルコ神戸スティーラーズ
竹内柊平★◆ (プロップ) (1997-12-09) 1997年12月9日(25歳) 3   浦安D-Rocks
三浦昌悟 (プロップ) (1995-06-08) 1995年6月8日(27歳) 9   トヨタヴェルブリッツ
坂手淳史★●◆ (フッカー) (1993-06-21) 1993年6月21日(29歳) 33   埼玉パナソニックワイルドナイツ
日野剛志 (フッカー) (1990-01-20) 1990年1月20日(33歳) 5   静岡ブルーレヴズ
堀越康介●◆ (フッカー) (1995-06-02) 1995年6月2日(27歳) 7   東京サントリーサンゴリアス
秋山大地 (ロック) (1996-11-14) 1996年11月14日(26歳) 1   トヨタヴェルブリッツ
ヴィンピー・ファンデルヴァルト●◆ (ロック) (1989-01-06) 1989年1月6日(34歳) 22   浦安D-Rocks
大戸裕矢 (ロック) (1990-03-09) 1990年3月9日(33歳) 5   静岡ブルーレヴズ
小瀧尚弘 (ロック) (1992-06-13) 1992年6月13日(30歳) 11   コベルコ神戸スティーラーズ
ジャック・コーネルセン★●◆ (ロック) (1994-10-13) 1994年10月13日(28歳) 12   埼玉パナソニックワイルドナイツ
ワーナー・ディアンズ★●◆ (ロック) (2002-04-11) 2002年4月11日(21歳) 7   東芝ブレイブルーパス東京
下川甲嗣 (フランカー) (1999-01-17) 1999年1月17日(24歳) 1   東京サントリーサンゴリアス
ピーター・ラブスカフニ●◆ (フランカー) (1989-01-11) 1989年1月11日(34歳) 15   クボタスピアーズ船橋・東京ベイ
古川聖人 (フランカー) (1996-12-06) 1996年12月6日(26歳) 3   トヨタヴェルブリッツ
リーチマイケル★●◆ (フランカー) (1988-10-07) 1988年10月7日(34歳) 78   東芝ブレイブルーパス東京
テビタ・タタフ★●◆ (ナンバー8) (1996-01-02) 1996年1月2日(27歳) 15   東京サントリーサンゴリアス
姫野和樹★●◆ (ナンバー8) (1994-07-27) 1994年7月27日(28歳) 25   トヨタヴェルブリッツ
ファウルア・マキシ (ナンバー8) (1997-01-20) 1997年1月20日(26歳) 5   クボタスピアーズ船橋・東京ベイ
茂野海人 (スクラムハーフ) (1990-11-21) 1990年11月21日(32歳) 16   トヨタヴェルブリッツ
齋藤直人★●◆ (スクラムハーフ) (1997-08-26) 1997年8月26日(25歳) 11   東京サントリーサンゴリアス
流大★●◆ (スクラムハーフ) (1992-09-04) 1992年9月4日(30歳) 30   東京サントリーサンゴリアス
中尾隼太 (スタンドオフ) (1995-01-20) 1995年1月20日(28歳) 1   東芝ブレイブルーパス東京
山沢拓也★● (スタンドオフ) (1994-09-21) 1994年9月21日(28歳) 6   埼玉パナソニックワイルドナイツ
李承信★●◆ (スタンドオフ) (2001-01-13) 2001年1月13日(22歳) 6   コベルコ神戸スティーラーズ
梶村祐介 (センター) (1995-09-13) 1995年9月13日(27歳) 2   横浜キヤノンイーグルス
シェーン・ゲイツ (センター) (1992-09-27) 1992年9月27日(30歳) 4   浦安D-Rocks
中野将伍 (センター) (1997-06-11) 1997年6月11日(25歳) 6   東京サントリーサンゴリアス
中村亮土★●◆ (センター) (1991-06-03) 1991年6月3日(31歳) 33   東京サントリーサンゴリアス
ディラン・ライリー★●◆ (センター) (1997-05-07) 1997年5月7日(26歳) 10   埼玉パナソニックワイルドナイツ
ゲラード・ファンデンヒーファー★● (ウイング) (1989-04-13) 1989年4月13日(34歳) 5   クボタスピアーズ船橋・東京ベイ
シオサイア・フィフィタ★●◆ (ウイング) (1998-12-20) 1998年12月20日(24歳) 12   花園近鉄ライナーズ
根塚洸雅 (ウイング) (1998-09-15) 1998年9月15日(24歳) 1   クボタスピアーズ船橋・東京ベイ
松島幸太朗★●◆ (ウイング) (1993-02-26) 1993年2月26日(30歳) 47   東京サントリーサンゴリアス
野口竜司 (フルバック) (1995-07-15) 1995年7月15日(27歳) 14   埼玉パナソニックワイルドナイツ
メイン平 (フルバック) (2000-09-05) 2000年9月5日(22歳) 1   リコーブラックラムズ東京
山中亮平★●◆ (フルバック) (1988-06-22) 1988年6月22日(34歳) 27   コベルコ神戸スティーラーズ

現在のスタッフ

日本代表スタッフ

2022年秋シーズン 日本代表スタッフ 2022年11月2日現在[45]

役職 名前 所属
ナショナルチームディレクター 藤井雄一郎 日本ラグビーフットボール協会
ヘッドコーチ ジェイミー・ジョセフ 日本ラグビーフットボール協会
アシスタントコーチ トニー・ブラウン 日本ラグビーフットボール協会
アシスタントコーチ 長谷川慎 日本ラグビーフットボール協会
アシスタントコーチ ジョン・ミッチェル[46] 日本ラグビーフットボール協会
ストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ アンドリュー・ベードモア 日本ラグビーフットボール協会
アシスタントストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ 太田千尋 日本ラグビーフットボール協会
分析 アンドリュー・ワッツ オタゴハイランダーズ
分析 浜野俊平 日本ラグビーフットボール協会
分析 瀬尾勝太 静岡ブルーレヴズ
ドクター 高森草平 横浜南共済病院
パフォーマンスコーディネーター カール・マクドナルド 日本ラグビーフットボール協会
アスレティックトレーナー 濱野武彦 武蔵野アトラスターズ整形外科スポーツクリニック
アスレティックトレーナー 國次聡史 横浜市スポーツ医科学センター
通訳 吉水奈翁[47][48][49] 日本ラグビーフットボール協会
チームマネージャー 波多野恵介 日本ラグビーフットボール協会
アシスタントマネージャー ジョシュ・ウェストブルック 日本ラグビーフットボール協会
ロジスティックマネージャー 中村彰 日本ラグビーフットボール協会
チームメディアマネージャー  津久井信介 日本ラグビーフットボール協会
ビデオグラファー  中村拓磨 日本ラグビーフットボール協会
レフリー  滑川剛人 トヨタヴェルブリッツ
アシスタントコーチ  田邉淳(※) クボタスピアーズ船橋・東京ベイ
アシスタントコーチ  斉藤展士(※) 浦安D-Rocks
コンバットトレーナー  ライアン・ヘンリー(※) 日本ラグビーフットボール協会
ストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ 臼井智洋(※) ブリングアップアスレチックソサエティー
ストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ アダム・キーン(※) 日本ラグビーフットボール協会
分析 神亮輔(※) 早稲田大学
分析 瀬尾勝太(※) 日本ラグビーフットボール協会
アスレティックトレーナー 久々知修平(※) 国立スポーツ科学センター
アスレティックトレーナー 小川秀治(※) フリーランス

※は、2022年11月の欧州遠征には不参加。

ワールドラグビー男子ランキング

上位30チーム(2023年5月22日時点)[50]
順位 変動* チーム ポイント
1     アイルランド 091.82
2     フランス 090.47
3     ニュージーランド 088.98
4     南アフリカ共和国 088.97
5     スコットランド 082.77
6     イングランド 082.12
7     オーストラリア 081.80
8     アルゼンチン 080.72
9     ウェールズ 078.08
10     日本 077.39
11     ジョージア 076.23
12     サモア 076.03
13     フィジー 074.84
14     イタリア 074.63
15     トンガ 071.21
16     ポルトガル 067.62
17     ウルグアイ 066.24
18     アメリカ合衆国 065.92
19     ルーマニア 065.85
20     スペイン 064.05
21     ナミビア 061.60
22     チリ 060.89
23     カナダ 060.46
24     香港 059.66
25     ロシア 058.06
26     オランダ 055.84
27     (スイス) 055.32
28     ブラジル 055.23
29     ベルギー 054.58
30     韓国 052.62
*前週からの変動
日本のランキングの推移

生のグラフデータを参照/編集してください.

出典: ワールドラグビー[50]
推移グラフの最終更新: 2023年5月22日

毎週月曜の日中(アイルランド時間。日本時間では同日夜)までに ワールドラグビーが発表するデータにもとづく。このシステムは2003年10月に日本は18位から始まり、直後に開催のワールドカップ2003で全敗し20位に落ちた。

日本代表の過去最高ランクは、ワールドカップ2019準々決勝(南アフリカ戦)の前日、2019年10月19日(土)に記録した6位[51][52][53]。翌日、南アフリカに敗れて8位になった[54]。右のランキング推移グラフは毎週月曜のデータを使うため、6位は反映されていない。

2023年2月27日付ランキングで、9位だったウェールズシックス・ネイションズの不調で10位になり[55]、10位の日本は2年16週ぶりに9位となった。2週後にウェールズ復調で、日本は10位に戻った。

対戦相手別 テストマッチ勝敗表

1930年から現在までの全テストマッチ(国代表どうしの試合)を対戦相手ごとに集計した。現在ではテストマッチ扱いにしない対戦相手(XV・Aなどの二軍チーム、学生・U23などの若年チーム、州・マオリ・ライオンズなどの限定チーム)について、1989年までは日本側だけがテストマッチ扱いにしていた[56]ことに留意されたい。

色つきは「ティア1(tier 1)」[注 3]の国の代表チーム[57]。2022年11月21日現在。

対戦相手 試合数 勝率 対戦
最終年
  アイルランド 12 1 11 0 8.3%
2021
  アイルランド学生選抜 1 0 1 0 0%
1987
  アメリカ合衆国 24 10 13 1 41.7%
2019
  アラビアンガルフ 3 3 0 0 100%
2010
  アラブ首長国連邦 3 3 0 0 100%
2013
  アルゼンチン 6 1 5 0 16.7%
2016
  イタリア 8 2 6 0 25%
2018
  イングランド 3 0 3 0 0%
2022
  イングランドXV 7 0 7 0 0%
2003
  イングランド学生選抜 1 0 1 0 0%
1982
  イングランドU23 2 0 2 0 0%
1976
  オックスフォード大学&ケンブリッジ大学 3 0 3 0 0%
1983
  オックスフォード大学 4 0 4 0 0%
1988
  ケンブリッジ大学 4 1 3 0 25%
1979
  ウェールズ 10 1 9 0 10%
2016
  ウェールズXV 3 0 3 0 0%
1983
  ウルグアイ 5 4 1 0 80%
2022
  オーストラリア 6 0 6 0 0%
2021
  オーストラリアA 4 0 4 0 0%
2008
  オーストラリア学生選抜 6 2 4 0 33.3%
1981
  クイーンズランド州 1 0 1 0 0%
1978
  オーストラリア・コルツ(U23) 2 1 0 1 50%
1972
  オランダ 1 0 1 0 0%
1980
  カザフスタン 5 5 0 0 100%
2012
  カナダ 25 15 8 2 60%
2016
  ブリティッシュコロンビア州(BC州) 6 2 2 2 33.3%
1976
  韓国 36 29 6 1 80.6%
2017
  サモア 16 5 11 0 31.3%
2019
  ジョージア 6 5 1 0 83.3%
2018
  シンガポール 1 1 0 0 100%
2009
  ジンバブエ 1 1 0 0 100%
1991
  スコットランド 9 1 8 0 11.1%
2021
  スコットランドXV 4 1 3 0 25%
1989
  スペイン 3 3 0 0 100%
2013
  スリランカ 3 3 0 0 100%
2014
  タイ 1 1 0 0 100%
1970
  チャイニーズタイペイ 4 4 0 0 100%
2002
  トンガ 18 9 9 0 50%
2019
  ニュージーランド 5 0 5 0 0%
2022
  ニュージーランドXV 2 0 2 0 0%
1987
  ジュニア・オールブラックス 3 0 3 0 0%
2009
  マオリ・オールブラックス 1 0 1 0 0%
2008
  ニュージーランド大学選抜(NZU) 15 2 11 2 13.3%
1982
  ニュージーランド・コルツ(U23) 5 1 4 0 20%
1972
  フィジー 18 4 14 0 22.2%
2019
  フィリピン 2 2 0 0 100%
2014
  フランス 6 0 5 1 0%
2022
  フランスXV 7 0 7 0 0%
1985
  ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ 1 0 1 0 0%
2021
  ポルトガル 1 1 0 0 100%
2021
  香港 29 24 4 1 82.8%
2017
  南アフリカ共和国 3 1 2 0 33.3%
2019
  ルーマニア 6 5 1 0 83.3%
2017
  ロシア 7 6 1 0 85.7%
2019

大会成績(ワールドカップ、太平洋地区、アジア地区)

ラグビーワールドカップ

回数(開催年) ラウンド 日付 開催地 対戦相手 勝敗 スコア 監督・ヘッドコーチ
第1回(1987年) 1次リーグ 5月24日 ブリスベン   アメリカ合衆国 18-21 宮地克実
5月30日 シドニー   イングランド 7-60
6月3日 シドニー   オーストラリア 23-42
第2回(1991年) 1次リーグ 10月5日 エディンバラ   スコットランド 9-47 宿澤広朗
10月9日 ダブリン   アイルランド 16-32
10月14日 ベルファスト   ジンバブエ 52-8
第3回(1995年) 1次リーグ 5月27日 ブルームフォンテーン   ウェールズ 10-57 小藪修
5月31日 ブルームフォンテーン   アイルランド 28-50
6月4日 ブルームフォンテーン   ニュージーランド 17-145
第4回(1999年) 1次リーグ 10月3日 レクサム   サモア 9-43 平尾誠二
10月9日 カーディフ   ウェールズ 15-64
10月16日 カーディフ   アルゼンチン 12-33
第5回(2003年) 1次リーグ 10月12日 タウンズビル   スコットランド 11-32 向井昭吾
10月18日 タウンズビル   フランス 29-51
10月23日 タウンズビル   フィジー 13-41
10月27日 ゴスフォード   アメリカ合衆国 26-39
第6回(2007年) 1次リーグ 9月8日 リヨン   オーストラリア 3-91 ジョン・カーワン
9月12日 トゥールーズ   フィジー 31-35
9月20日 カーディフ   ウェールズ 18-72
9月25日 ボルドー   カナダ 12-12
第7回(2011年) 1次リーグ 9月10日 オークランド   フランス 21-47
9月16日 ハミルトン   ニュージーランド 7-83
9月21日 ファンガレイ   トンガ 18-31
9月27日 ネーピア   カナダ 23-23
第8回(2015年) 1次リーグ 9月19日 ブライトン   南アフリカ共和国 34-32 エディー・ジョーンズ
9月23日 グロスター   スコットランド 10-45
10月3日 ミルトン・キーンズ   サモア 26-5
10月11日 グロスター   アメリカ合衆国 28-18
第9回(2019年) 1次リーグ 9月20日 東京都調布市   ロシア 30-10 ジェイミー・ジョセフ
9月28日 静岡県袋井市   アイルランド 19-12
10月5日 愛知県豊田市   サモア 38-19
10月13日 神奈川県横浜市   スコットランド 28-21
準々決勝 10月20日 東京都調布市   南アフリカ共和国 3-26
第10回(2023年) 1次リーグ 9月10日 トゥールーズ   チリ -
9月17日 ニース   イングランド -
9月28日 トゥールーズ   サモア -
10月8日 ナント   アルゼンチン -

パシフィック・ネイションズカップ

環太平洋の国々が、強豪国との格差を縮める目的で設立された。現在、フィジー、サモア、トンガ以外の参加国は流動的。

日本も、かつては適度な難度の国際大会として毎回参加していたが、近年は不参加が多い。2019年にはワールドカップ2019の前哨戦として参加した。2022年はフランスとのテストマッチ2連戦のため参加していない。

2023年7月~8月、パシフィック・ネイションズカップ2023を日本で開催し、ワールドカップ2023の前哨戦としてサモア、トンガ、フィジーと戦う。

アジアラグビーチャンピオンシップ

しばしばワールドカップのアジア地区出場権1枠を決める大会となる。そのため、2014年まで日本にとって重要な大会だった。現在日本代表は、アジア相手で常勝し、ワールドカップでは次回出場権を得る結果を出しているため、アジア大会に参加せず、ティア1[注 4]の国々に挑む体制へと変化している。2018年から日本は不参加となっている。

★は、日本が翌年のラグビーワールドカップへの出場権を得られたもの。第1回ワールドカップ1987は、日本を含む招待開催のため、アジア地区予選は行われなかった。

歴史

黎明期

1899年(明治32年)慶應義塾大学にラグビーが伝えられて[58][59]以来、各大学を中心に競技が広まった。その大学OBの活動を元に、1924年(大正13年)関東ラグビー蹴球協会1925年(大正14年)に西部ラグビー蹴球協会ができ、1926年(大正15年)11月30日に日本ラグビー蹴球協会(現在の日本ラグビーフットボール協会)が発足した[60]

1930年 日本代表誕生、初の海外遠征へ

初めて日本代表が編成されたのは1930年(昭和5年)8月~10月のカナダ遠征である[61]香山蕃が初代監督に就任し、全7戦のうち6戦目、9月24日に行われたブリティッシュコロンビア州代表戦 (カナダBC戦)が初のテストマッチ認定試合となり[62]、双方1トライずつで3-3の引き分け(当時のトライは3点[63])となった。この試合には、後に映画俳優となる藤井貢も出場した[64]。日本代表は、この海外遠征で6勝1分の成績を残した[61]

国内での初テストマッチは、1932年(昭和7年)1月31日のカナダ代表戦。戦績は日本の2戦2勝だった[65][66]。この試合から、後に日本代表の国際試合における最多得点記録(33点)を1970年代まで持ち続けた笠原恒彦が加わった。

その後、海外遠征はなく、国内開催になった[67]1934年(昭和9年)2月にオーストラリア学生代表戦[注 5][68][69]1936年(昭和11年)2月には北島忠治が監督となりニュージーランド大学選抜(NZU)戦[70][71]を行い、これが戦前最後のテストマッチとなった。

1952年、テストマッチ再開

1952年(昭和27年)10月、来日したオックスフォード大学と対戦[72][73]、これが戦後初、16年8か月ぶりのテストマッチとなる。2戦とも得点できず、完敗した[72][73]1953年(昭和28年)のケンブリッジ大学戦との2戦でも敗れた[74][75]

1956年から1959年までにも、来日チームとのテストマッチを計10回行ない、1分け9敗だった[76]。そして、1960年から1962年まではテストマッチが行われていない。

当時は、年によって日本代表の体制がまちまちだった。1958年に来日したニュージーランドU23代表(コルツ)に対しては、監督のほかにコーチ3人と選手29人のスコッドを構成して準備万端だったが[77]1959年のオックスフォード・ケンブリッジ大学連合との試合では、日本代表側はその時だけ招集した臨時チームになっていたという[78]

1962年(昭和37年)に来日したフランス学生選抜と、テストマッチ不認定ながら日本代表チームとして戦ったが、2敗した[79]

1963年、戦後初の海外遠征

1963年葛西泰二郎が監督に就任し、33年ぶりにカナダへ遠征した。4月13日にブリティッシュコロンビア州代表戦(カナダBC戦)を33-6で制し、海外遠征テストマッチ初勝利を挙げたほか、通算成績4勝1敗の成績を残した[80]。遠征メンバーの中に、後にプロレスラー グレート草津となる草津正武もいた[81]

1966年~ 大西ジャパン

1966年早稲田大の監督を務めていた大西鐡之祐が監督就任。

それまではラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして[82]、1966年、代表選手を集めたミーティングで、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!これから『ジャパン』ということにする。」と説いた[2]。当時は「ジャパン」だけで、ラグビー日本代表を意味していた[注 6]。大学ラグビーで「大西早稲田」「北島明治」など監督名を冠する呼称が一般的だったので、日本代表は「大西ジャパン」と呼ばれた[2]。 現在もヘッドコーチの名前をつけて「〇〇ジャパン」と呼ぶ、そのルーツとなった[2]

大西は、スター選手の寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、大胆な選手起用を行った[83]。パスにかかる時間などを計測、客観的な数値を選手に示し、作戦を練った[84]。戦法を統一し、日本人の俊敏さを生かす戦術として「展開・接近・連続」を掲げた[85]

1か月のニュージーランド遠征

1968年ニュージーランドオーストラリアへ遠征し、1か月間で11試合を行った。6月3日のオールブラックスジュニア戦[86]と6月8日のNZU(ニュージーランド大学選抜)戦[87]がテストマッチ対象試合となった。23歳以下で構成するオールブラックスジュニアとの試合では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破する大金星を挙げた[86]。地元新聞では「NZラグビー暗黒の日」と報道された[88]。この長期遠征は5勝6敗だった[89]

日本選手権出場辞退事件

1969年3月に開催された第1回のアジアラグビーフットボール大会(アジア選手権ともいう)で優勝[90][91]

1970年、タイ・バンコクで開催の第2回アジア選手権は1月10日から18日までの開催で、1月15日の第7回日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)と日程が重なった。このため、アジア選手権の開幕直前に、前年優勝の近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都の3チームは、アジア選手権に主力選手を投入するため、日本選手権出場を辞退する騒動が起きた(詳しくは、(日本ラグビーフットボール選手権大会#日本選手権の辞退)を参照)。結果、第2回アジア選手権で日本代表は連覇を果たした[92]が、第7回日本選手権では社会人チームが勝利できなかった[93]

1970年3月にNZU(ニュージーランド大学選抜)とカナダBC代表(ブリティッシュコロンビア州代表)を日本に招いたが、エース坂田好弘は当時ニュージーランド留学中のため、NZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが[94]、NZUには3戦全敗[95][96][97]。大西ジャパン時代は、NZUに勝つことができなかった。

イングランド相手に大健闘

1971年9月、イングランド代表が来日。24日の花園での試合では、5度にわたる逆転劇の末、 19-27で敗れた[98]

28日の秩父宮では、双方ノートライで、日本の得点は山口良治が挙げた1ペナルティゴールのみだったが[99]、後半32分頃にあと2センチあればトライを取れていたプレイがあるなど、イングランドと互角に渡り合い、3-6で惜敗した[100]

これは日本代表試合史に残るベストゲームとして語り継がれている[101][102][103][104]。この後、大西は監督を辞任した。

1972年~ 相次ぐ海外遠征

海外遠征の増加

1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となった。23歳未満で構成のオーストラリア代表コルツが来日し1勝1分を記録する[105][80] など、国内強化試合を含めて無敗を記録した。8月、岡が指導する同志社大で練習中に部員が死亡する事故が起き[106]、岡は監督を辞任した。

1973年イギリス・フランス遠征の監督には急遽横井久が就任、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」となった。10月6日に当時世界一の評価を得ていたウェールズと、10月28日にフランスと、それぞれ初のテストマッチを行なった。ウェールズには14-62で敗れたが、フランス戦では18-30と健闘した[106]

1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1か月にわたり、6年ぶりにニュージーランド遠征を実施。遠征最終戦で、「大西ジャパン」時代でも勝利できなかったNZU(ニュージーランド大学選抜)に対し、「アニマル」こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で初勝利を挙げた[107]

1975年、岡仁詩が監督に復帰し、7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表とテストマッチを2試合行い、第2試合では25-30と健闘した[108]。この頃までは、IRFB正加盟国8カ国[注 7]の代表に対し、勝てないまでも、健闘する試合が少なくなかった[108]

ラグビーブームとは裏腹の日々

1970年代後半から80年代前半まで、大学チームを中心に国内ラグビーが空前のブームとなった。早明戦早慶戦全国大学ラグビーフットボール選手権大会日本ラグビーフットボール選手権大会では、スタンドがほぼ満席になった[109]。しかし日本代表は、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績だった[80]。1975年のオーストラリア遠征から1980年までのうち、キャップ対象試合で日本代表が勝利したのは、アジア選手権において3回韓国を破ったのみ[110][111][112]。それ以外では、1979年5月にイングランド戦の惜敗(19-21)[113]があったものの、1引き分けを挟んで19連敗を喫した[80]

1981年3月にオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利[112] すると、1982年1月香港[114]と4月カナダ戦に勝利し[115]テストマッチ5連勝を記録した[80]。1982年9月26日にはNZUから国内初勝利を挙げた[115]

1983年ウェールズ遠征の成功

1983年10月の遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合は、イギリスのメディアでも高く評価された[116] [117]。一方では韓国に敗れて[118]アジア王者から陥落した第8回アジア選手権[80] などがあり、安定しなかった。

この間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなどしていた。当時、国内の爆発的なラグビー人気があり[119][120]、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも[121]、国外チームと戦う日本代表は成績が振るわなかった。

キャップ制度の導入

1982年12月17日、日本ラグビー協会はテストマッチ出場選手にキャップを授与し表彰する制度の導入を決定した。1930年9月24日の初めてのテストマッチまでさかのぼって77試合254人の出場選手に対し、1983年1月16日にキャップ授与を行った[122]

1987年~ 第1回ワールドカップ

初のワールドカップ

長年ラグビーには世界一を決める大会がなく、日本は海外遠征やラグビー強豪国(IRFB正加盟国8か国)[注 7]を招いて勝利することが悲願であったが、実力が及ばず、試合機会も少なかった。そんな中、1987年にラグビーワールドカップが創設され、第1回大会に日本を含む16チームが招待された。

しかし、第1回ワールドカップの招待を受けたにもかかわらず、岡仁詩監督が大会直前になってニュージーランドへの研修留学という名目で辞任[123]。急遽宮地克実が監督に就任した。後年、宮地は「どたばたしてしまったね。大会直前に岡さんが監督を辞めて、FWコーチだった自分に回ってきた。本当に急だった」と振り返っている[124]。初戦のアメリカ戦ではペナルティキックを5回も外し[124]、勝てる期待の高かった試合を18-21で落とした。続くイングランド戦で7-60、オーストラリア戦で23-42と、3戦全敗で予選敗退となった[125][126]

1986年9月のスコットランド[127]から連敗が止まらなかった。その間、日比野弘が1987年10月に監督に再任された[125]が、1988年11月の韓国戦までで11連敗となり、辞任した[128]

1989年~ 宿澤ジャパン

銀行員から監督に

1989年1月、宿澤広朗が監督就任[129]。宿澤は早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人で、「伝説のスクラム・ハーフ」と言われていたが、当時は住友銀行の英国支店に勤務しており、ラグビー界から遠ざかっていた[130]。日本代表の新任監督は、1980年の山本巌以来、9年ぶり。

スコットランド相手に「金星」

1989年5月28日秩父宮ラグビー場で、宿澤ジャパンとして初めての国際試合が、これまで3戦全敗のスコットランドと行われた。スコットランド代表メンバーのうち、中心選手9名はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため[131]、ベストの布陣とは言えず代表扱いではないチームとして「スコットランドXV(フィフティーン)」と名乗っていた[132]

当日は晴天、最高気温25℃の夏日[133]で午後2時開始のため、その気温はスコットランドに不利であり、PGを7本も外すというスコットランドの不調があった[134]とはいえ、日本の5トライに対してスコットランドを1トライに抑え、28-24のスコアで勝利[135][136]。旧IRBファウンデーション8か国[注 7]の1つを破る金星となった。試合後「宿澤コール」が会場に鳴り響き、宿澤監督は胴上げをされた[130][137]

スポーツ新聞各紙はこの金星を一面で大々的に報道したほか、雑誌(Sports Graphic Number)「第8回Number MVP賞」を日本代表チームが受賞した[138][139]

この試合の主将に、神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、シナリ・ラトゥ吉田義人堀越正巳青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢した[140]。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、「宿澤は日本のラグビーを変えた」とまで言われるようになった[141]

この試合は、日本側ではキャップ授与対象のテストマッチ扱いだが、スコットランド側は上記のように自国では代表チームではないとしてテストマッチとは認めておらず、スコットランドの選手にキャップは授与されていない。

テストマッチの基準を変更

その後は、日本側のみがテストマッチとする対戦のあり方を、宿澤は抜本的に見直した。

各国代表チーム以外のチームとの対戦(二軍に相当するXVチームやA代表チーム、大学生チーム、州代表などとの試合)については、テストマッチとはみなさないことにした。この基準は現在も「ワールドラグビーが認めた国際試合」として踏襲されている。ただし、過去に日本協会がテストマッチ認定した試合については、現在の基準を満たしていなくても、取り消しは行わない。

1989年9月のカナダ遠征では、カナダBC(ブリティッシュコロンビア州)XV(二軍)戦とカナダBC代表戦の2試合が行われた。カナダBC代表戦は、過去の基準ではテストマッチとしていたが、この試合からは「強化試合」扱いとなった[142][131]日本ラグビーフットボール協会公式サイト「日本協会主催試合・国際試合一覧」で、1990年の前後でテストマッチとなるチームが大きく変わったことが確認できる[143]

強豪国との対戦無し

1989年カナダ遠征での強化試合で2敗、翌1990年3月のフィジー戦でも完敗した[131]ワールドカップ1991のアジア太平洋地区予選は1990年4月に行われ、トンガ韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた[144]。しかし、1990年4月から1991年5月までテストマッチ6連敗となった[144][145]

1989年スコットランド戦の金星があったとはいえ、その後は強豪国相手ではなく、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を宿澤は志向したため、強豪IRB8か国[注 8]との対戦は、ラグビーワールドカップ1991までの2年間は行われなかった[131][144][145]。しかしワールドカップを迎えるにあたって、宿澤の情報収集力や明快な選手起用方針などから、宿澤ジャパンに対する評価は、不安よりも期待感のほうが高まっていた[146]

ワールドカップ1991で初勝利

ワールドカップ1991でプールBに入った日本は、優勝候補の一角スコットランドと初戦を迎えた。2年前のような勝利を期待していた日本のラグビーファンも多かったが、前半は9-17で折り返したものの、後半はスコットランドの一方的展開となり9-47で完敗した[147][148][149]

続くアイルランド戦は、初戦から中3日で行われた。吉田義人の70m独走トライなどが見られ拮抗した内容になったものの、16-32で敗北[150]。この時点で予選敗退が決まった[151]

1991年10月14日、最終戦のジンバブエ戦では、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて、52-8でワールドカップ初勝利を収めた[152][146][153]

結局、1勝2敗でプールステージ敗退となった[154]

1993年~ 歴史的大敗の時代

ワールドカップ1995に向けた準備

ワールドカップ終了後、宿澤が退任し、新日鐵釜石時代に監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任した。

小藪はチームコンセプトとして、大会直前にルーマニアに快勝した戦略「タテ・タテ・ヨコ」(ボールが出てから、フォワードが前への突進を連続して行い距離をかせいだ後、バックスへ展開しトライのチャンスを得る)というパワーラグビーを志向した[155]。しかし、アジア諸国相手には勝てるものの、強豪国相手には通用しなかった。

10年ぶりウェールズ戦の失敗

1993年10月のウェールズ遠征では、10年前に高い評価を受けたため、期待が大きかった[117]。しかしウェールズ代表に5-55で大敗、二軍のAチームにも惨敗を喫した[156]。この結果は「失われた10年」と批判され[117]、小藪解任論が噴出した。

1994年5月、フィジーとのテストマッチで連勝[157][158]1994年の第14回アジア選手権決勝で韓国を破り[159]、3大会連続のワールドカップ出場権を得た。

145失点「ブルームフォンテーンの悪夢」

1995年、南アフリカで開催の第3回ワールドカップでは全く歯が立たなかった[160]。1戦目5月27日のウェールズ戦で10-57[161]、2戦目5月31日のアイルランド戦で28-50[162]と完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定した。

一部の主力選手たちは、ワールドカップ期間中にゴルフに興じたり、明け方までカジノで遊んだり、二日酔いで練習中に嘔吐する者もいた[163][164][165]

当時27歳で初参加の今泉清は、スタッフが日本からゴルフ道具を持ってきていたと証言しており[164]、南アフリカの警備担当の警察官から「お前たちはワールドカップに何をしに来たんだ? ゴルフとカジノに来たのか?」と問われ、日本代表の意識の低さを悲しんだ[164]。当時26歳でW杯出場2回目の吉田義人は、「国を代表して戦いに来ているのに、信じられなかった。日本代表として一つになれなかったことが一番悔しかった」と振り返っている[163]。W杯第2回から第4回までの3大会連続で参加した村田亙は、第3回の日本代表について「W杯に臨むという体制も気構えもできていなかった。それが第2回大会の宿澤ジャパンとの大きな違いだ」と語る[166]。チーム内の摩擦を避けるため、カジノやゴルフで遊ぶ者に対して、目をつぶる者もいたという[165]

6月4日、2戦目までと同じくブルームフォンテーンフリーステイト・スタジアムで行われた3戦目では、決勝トーナメント進出を決めていたニュージーランドは、控え選手主体のメンバーだった。日本代表も一部の主力選手(平尾誠二など)が出場しなかった。

主将を務めた薫田真広(当時28歳)は、「ニュージーランド戦の直前まで出場メンバーが決まらないなど、スタッフも選手も準備ができていなかった」と明かしている[167]

ニュージーランドには前半だけで12トライ、後半に9トライを取られるなど、17-145と歴史的大敗をした[168]。ニュージーランド戦では過去に100失点以上を経験していたため、戦う前から日本代表の大敗は予想されていたとはいえ、「ブルームフォンテーンの悪夢(悲劇・惨劇・国辱とも)」と呼ばれる歴史的な大敗を喫した[169][170][165][171]

この試合によりニュージーランドはプール戦において225得点、日本は252失点。ラグビーワールドカップ史上、プール戦最大得点、プール戦最大失点はいまだ破られていない記録である。1試合での得点差(128点)も、当時はワースト記録だった(第5回ワールドカップ2003でオーストラリア対ナミビアで142-0になり、得点差のワースト記録が更新された[172])。

ワールドカップ1995を開催した頃の南アフリカを舞台とする映画「インビクタス/負けざる者たち」(2009年公開)で、南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが、ニュージーランドが日本から145得点した情報に驚くシーンがある。

また、この試合には、後に日本代表ヘッドコーチになるジェイミー・ジョセフが、後半からニュージーランド側のフランカーで出場している[173]

この南アフリカ大会から、ラインアウト時にボールキャッチする選手をリフトアップするサポート行為が正式に認められていた[174]。しかし日本代表チームはその準備をしておらず、試合で相手チームがリフトアップサポートを行っても、日本は行わなかった。それも大きな不利となった[175]

大会後、小藪は監督を退任した。この惨敗は、その2年前に発足したサッカーJリーグ人気の日本で、ラグビーの人気が低迷する一因となったという指摘がある[176]

ラグビーユニオンがプロ化

1995年8月26日、IRFB(国際ラグビーフットボール評議会)ラグビーユニオンのオープン化(プロ化)を宣言した[177]。選手の報酬制限やメディア活動制限など、それまでのアマチュアリズムが全て撤廃されることになった。日本ラグビーフットボール協会は選手のプロ化についての検討・対策を始めたが、日本協会がプロ化宣言したのは5年以上たった2001年1月のことだった[178][179]

1996年

後任の監督には、サントリーの部長だった山本巌が3度目の就任となった。1996年から毎年開催することになった太平洋上と沿岸の国々によるパシフィック・リム選手権では、第1回大会で2勝4敗の最下位に終わり[180]、山本は同年限りで退任した。

1997年 平尾ジャパン

1997年、平尾誠二が監督に就任。平尾は、競技人口の減少を背景に「平尾プロジェクト」を立ち上げ[181]、これは、埋もれた逸材や、他のスポーツの優秀な選手を取り込み育成し、日本代表選手を発掘するコンセプトだったが、成果は挙げられなかった[181]。1997年パシフィック・リム選手権でカナダに32-31に逆転勝利した以外は全敗し、1勝5敗の最下位に終わった[180]

1998年、日本代表として初めて外国籍選手のアンドリュー・マコーミックが主将なった[182]第4回ワールドカップのアジア予選の壮行試合となったアルゼンチン戦に44-29で勝利[183]ワールドカップ1999アジア予選でも優勝し[184]、4大会連続のW杯出場を決めた。

1999年5月~7月の第4回パシフィック・リム選手権で初優勝を果たした[180]

ワールドカップ1999当時の日本代表には、元オールブラックスジェイミー・ジョセフ(17年後に日本代表ヘッドコーチに就任)など、ニュージーランド出身の選手が5名登録され[185]、その人数の多さから、イギリスBBCなど海外メディアから「Cherry Blacks(チェリー・ブラックス)」と報じられた[186][187][188]。これに対し平尾監督は「人種や国籍ではなく、共通の目的とビジョンで団結している」とイギリスのガーディアン紙に反論している[189]

ワールドカップ1999は3戦全敗に終わり、プール敗退となったが、パシフィック・リム選手権優勝が評価され、平尾体制を継続していくことを決めた[190][191]

2000年、第5回パシフィック・リム選手権では5戦全敗となり最下位[180]。11月のフランス・アイルランド遠征では、アイルランドU25代表に13−83、アイルランド代表に9-78の大敗を喫した[192][193]。11月25日、日本協会は平尾の監督辞任を了承した[194]

2001年~ 再建への試行錯誤

日本代表選手のプロ化容認

2001年1月、日本ラグビーフットボール協会が「アマ・プロのオープン化」を宣言(プロ化容認)した[195][179]。協会は日本代表選手についてオープン化を実施[196]。5月〜6月に、計8名の日本代表選手が日本ラグビーフットボール協会と専従契約を結んだほか、活躍に応じた報酬規定などが定められた[196]

大正製薬がスポンサーに

平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任[197]。宿澤からのオファーにより、2001年から大正製薬が日本代表のスポンサーになった[198][199]。以後、日本代表戦は国内開催で「リポビタンDチャレンジカップ」、海外遠征で「リポビタンDツアー」の冠名がつく。

学閥排除でも不調

宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」[200][201][202][203]の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招へいした。

向井は、東芝府中監督時代に「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、相手がペナルティを与えられたらペナルティキックやラインアウトへのキックを狙わずに間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げていた[204]

この戦術に対し、他国チームは逆にセットプレーが日本の弱点だと考え、そこを突いてきた。日本はフィジカル不足などのためほとんど対応できなかった[205]

結局、向井時代にアジア諸国以外のテストマッチで勝利したのは、2001年カナダ[206]と、2002年ロシア[207]のみだった。

ワールドカップ地区予選となる2002年アジア3国対抗では、2002年7月6日に国立競技場で行われたチャイニーズタイペイ戦で155-3で勝利し、日本代表として最多得点試合となった[208][209]。さらに韓国にも勝利し、W杯出場権を得た。しかし、秋からのアジアラグビーフットボール大会では格下の韓国に敗北を喫し、優勝を逃した[210]

2003年10月、ワールドカップ2003に向けた壮行会でジャパンラグビー応援ソングとして、ゆず威風堂々』が発表される[211][212]

Brave Blossoms誕生

ワールドカップ2003は4戦全敗 (3大会連続の全敗)[213] でプール敗退となったが、初戦2003年10月12日のスコットランド戦で11−32[214]と健闘したことから、地元オーストラリアの新聞コラムで記者のRich Freemanが「Brave Blossoms」(勇敢な桜たち)というニックネームをつけた[215][216]。これがラグビー日本代表の愛称となる。

向井監督は「世界の背中が見えた」とコメントした[217][218]が、大会終了後に解任された。

迷走時代突入

2004年3月、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威が監督に就任[219]。当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝[220][221]、世界ランキングが過去最高の18位まで躍進した[222]。しかし続くイタリアには敗戦し[223]、11月欧州遠征において、スコットランドに8-100[224]ルーマニアに10-25[225]ウェールズに0-98[226] と、いずれも完敗ないし大敗したため、監督解任論が出た[227][228]

しかし、萩本監督解任を唱えた向井昭吾春口廣清宮克幸の3名が、逆にラグビー協会内の監督評価機関である8強会議(世界8強進出対策会議)の委員を解任された。また、欧州遠征と前後して日本代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで深夜未明の繁華街でのトラブルで合宿中に逮捕される不祥事が起きた[229] が、監督の萩本には協会規定で最も軽い「警告」という処分にとどまった[229]

翌2005年4月の南米遠征でウルグアイアルゼンチンに連敗[230][231]。さらに5月から6月にかけてカナダ戦、アイルランド戦(2試合)にもそれぞれ大差で敗れたため[232][233][234]、萩本は監督を解任された。

ヘッドコーチ制を導入

これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本ラグビー協会は、海外で一般的になっている分業制を導入し、ヘッドコーチ(HC)はコーチたちのリーダーとして現場で指揮をとり、ゼネラルマネージャー(GM)はチーム強化に関する総合マネジメントを行う体制に変わることになった[235]。これにより、親代わりのように各選手のマネジメントまで行う学生ラグビーの監督などと異なり、日本文化に詳しくない外国人であっても、現場指揮だけに徹する人材としてヘッドコーチに起用することが可能になった。

2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツ太田治、HCには、初の外国人指導者となるジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、2005年11月から2006年5月にかけてテストマッチ4連勝(スペイン、アラビアンガルフ、韓国、グルジア)を果たし[80] 上々の滑り出しと思われた。しかし2006年6月からの第1回パシフィック・ネイションズカップ(PNC)は4戦全敗[80] で最下位に終わった。

兼業ヘッドコーチを契約解除

2006年9月、エリサルドHCが、フランスのクラブチーム・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明した。日本ラグビー協会は、契約書には兼職を規制する「日本代表HC専任」の条項がないことを明らかにすると同時に、日本協会はHCに専念するよう求めたが、エリサルドが拒否した[236]。このため日本ラグビー協会は、ワールドカップ10か月前となる10月31日付でエリサルドを契約解除した[236][237][238][239]

その後2か月は、暫定的にGMの太田治がHCを兼務した。そして太田は、かつてNECでチームメイトであり、第1回W杯におけるニュージーランド優勝の立役者ジョン・カーワンに白羽の矢を立てることになる。

2007年~ JKジャパンの5年間

急ごしらえでワールドカップ2007へ

太田HC代行体制による2006年11月のW杯アジア予選で、韓国と香港に快勝し、6大会連続のワールドカップ出場を決めた。

ワールドカップ2007まで8か月を切った2007年1月9日(就任は同年1月1日付)、日本協会はジョン・カーワンをヘッドコーチ とすることを発表、「JKジャパン」が発足した[240]。カーワンは1984年から1994年までオールブラックスに在籍したスーパースターであり、1987年第1回ワールドカップのイタリア戦での90メートル独走トライで知られていた[241][242]。また晩年にはNECでもプレー経験があり[240]、日本のラグビーファンにも知名度があった[242]。現役引退後はイタリア代表のヘッドコーチを務めた[240][242]

既にワールドカップ出場を決めているため、カーワンに求められたのはワールドカップでの実績だった。カーワンは、フィジーカナダ相手に2勝すること[240][243]を主眼におき、決勝トーナメント(各プール2位まで)には残れなくとも、3位(同位以内であれば、次回のW杯予選が免除される)になる計画だった[244]

ワールドカップ前のパシフィック・ネイションズカップ(PNC)では1勝4敗で最下位[245]。8月18日にイタリアサン=ヴァンサンで行われたイタリア戦も12-36で完敗した[246]

主力を温存し、強豪相手に「捨てゲーム」

ワールドカップ2007開幕直前に、エースの大畑大介[247]山本貢[248]安藤栄次[249]の3選手が怪我により帰国するといった事態に見舞われた。

カーワンは、日本代表を主力選手とリザーブ(控え選手)との2チームに分けた。強豪のオーストラリア戦とウェールズ戦は「捨てゲーム」としてリザーブ主体で戦い、フィジー戦とカナダ戦に主力選手を使い、2勝を目指した[250][251][252]

初戦オーストラリア戦は3-91で大敗した[253]が、最初から「捨てゲーム」としていたカーワンは「想定の範囲内」とした。しかし、続くフィジー戦では、日本チームが主力選手中心で構成したにもかかわらず、31-35で敗北[254][253]。さらに「捨てゲーム」のウェールズ戦を18-72で大敗し[253][252]、6大会連続の予選プール敗退が決定した[255]1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗となった。

最終戦カナダに勝ったとしても、最低限の目標「次回W杯出場権獲得となる3位以内」も難しくなった。カナダ戦では、試合終了直前まで5-12でリードされ、4大会連続の全敗が確実視されたが、ロスタイムに平浩二がトライを決めて2点差まで迫り、大西将太郎がゴールキックを決め12-12の引き分けとなった[256]。日本は14試合ぶりに敗戦を免れ、4大会ぶりに予選プール最下位を免れたが、次回ワールドカップ2011の優先出場権は得られなかった[251][252][257]

JK続投

目標としていた「ワールドカップ2勝」はできなかったものの、準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、日本協会は引き続きカーワンに託した[252]

 
日本代表対オーストラリアA代表、2008年、レベルファイブスタジアム にて

2008年、同年から始まったアジア5カ国対抗で優勝。パシフィック・ネイションズカップ(PNC)は前年同様1勝4敗に終わったが、トンガには前年に続き勝利。11月のアメリカ来日シリーズで連勝。2009年アジア5カ国対抗を連覇。続くパシフィック・ネイションズカップはトンガに3年連続で勝利したが1勝3敗に終わった。

ワールドカップの日本開催が決定

2009年7月28日に行われた国際ラグビー評議会(IRB)の理事会で、2019年のラグビーワールドカップ開催国に日本が決定した[258]。同年11月、来日したカナダに連勝し[259][260]、世界ランキングが過去最高の13位になった[261]

2010年5月、アジア5カ国対抗で3連覇し「アジア地区1位」枠として、7大会連続となるワールドカップ2011への出場を決めた[262][263]

2010年6月のパシフィック・ネイションズカップでは3位とはいえ、サモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げ[264]、世界ランキングが過去最高の12位になった[265]。10月30日のサモア来日テストマッチでは10-13と惜敗したが、翌週11月6日のロシア来日テストマッチでは75-3と大勝[266]。JK体制の成果が現れつつあり、翌年のワールドカップ2011に期待が高まった[266]

強豪国との試合が組まれない

2011年4〜5月のアジア5カ国対抗で4連覇。

7月のパシフィック・ネイションズカップではサモアに敗れた[267] が、続くトンガを1点差で破る[268] と、最終戦フィジーに17年ぶりに勝利し[269]、大会初優勝を果たした[270]

8月イタリア遠征で24-31で敗れたとはいえ、前半は17-14でリードした[271]。同月21日のワールドカップ壮行試合のアメリカ戦は20-14で下し[272]、いわゆる「第2グループ」の国々にはほとんど勝てるほどにチーム力が向上していた。しかし、ワールドカップ以外のテストマッチでは、強豪国である旧IRFBファウンデーション8か国[注 7]との対戦が全く組まれなかった。

2011年ワールドカップ「ハミルトンの失笑」

9月からのワールドカップ2011で、日本は、開催国ニュージーランド、フランス、トンガ、カナダと共にプールAに入った。カーワンは、前回W杯同様、主力選手と控え選手とを分けた戦略を使った[250][273]

初戦9月10日のフランス戦では、後半57分で4点差(21-25)まで詰め寄ったが、後は大きく引き離され、21-47で敗れた[274][275]

2試合目は9月16日、ニュージーランド北島ハミルトン市ワイカト・スタジアムで行われた。開催国であり強豪のニュージーランドは、16年前のW杯「ブルームフォンテーンの悪夢」のときの相手だった。JKジャパンは、初戦メンバーから10人を入れ替えて主力選手を多数温存した[276][273]。その結果、相手の速い攻撃に終始防御を強いられ、前半に6トライ、後半に7トライを献上[277]。結局、本大会ワースト2位の得失点差である7-83で惨敗した[278][279]。16年前と同じく主力選手を使わない「ニュージーランド戦から逃げるような」[280]メンバー構成による大量トライ献上には、地元ニュージーランド人の観客で埋まる会場から大きな失笑が漏れるほどで[250]、ファンの間では現地の名前を冠して「ハミルトンの失笑」と呼ばれる汚点になった[280][250]

その後の試合は、念願の2勝を目指したが、予選3試合目トンガ戦ではミスを連発した上に、日本の速い攻撃を完全に封じ込められて18-31と完敗[281][282]

最後のカナダ戦も、前半に17-7でリードしながらも、後半終盤になってミスを連発、立て続けに得点を許し、23-23で2大会連続ドローとなってしまった[283]。結局、強豪国に対して主力選手を温存した作戦でも2勝はおろか、5大会連続勝利なしという結果に終わった[284]

停滞JKジャパンの終焉

通常テストマッチで強豪国とは試合を組まず、W杯では2大会連続で主力選手を温存し強豪国相手には出さないカーワンの方針は、ファンを失望させ[250][280]、選手の強化機会を無くす結果になった[273]太田治GMは「これでは強化が停滞してしまう」と、カーワン体制の5年間を総括した[273]。ラグビーライターの中尾亘孝はJKジャパンの5年間を「カネと時間だけを浪費した壮大な無駄」と辛辣に切り捨てた[280]。2007年のW杯では最終登録の外国人選手は5人だったが、2011年には倍の10人になっていたことも強く批判された[250]。同年10月13日、正式にカーワンの解雇が決まった[285]

2012年~ エディージャパン

2012年

サントリーサンゴリアスのゼネラルマネージャーを3年間務めていたエディー・ジョーンズが、2012年から日本代表ヘッドコーチに就任[286]。前任者カーワンのチーム作りが、外国人への依存度が大きかった[250]という反省の意味もあり、3月19日に発表された代表メンバーは、当時外国人選手にけが人が続出という背景もあったが、当時日本国籍取得申請中のマイケル・リーチ以外は全て日本人選手で、ノンキャップ選手が13名というフレッシュな顔ぶれとなった[287]。主将には、5年振りの代表復帰となった廣瀬俊朗を任命した。

アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、5連覇を達成。続く、パシフィック・ネイションズカップは3戦全敗で最下位[288]。フレンチ・バーバリアンズを招待した[注 9] が2連敗し[289][290]、春シーズンを終えた。

11月に欧州遠征。ルーマニア戦を34-23で下し、欧州で行われたテストマッチにおいて、ホームのチームに初めて勝利した[291]。さらにジョージア戦では、同点で迎えた試合終了直前にドロップゴールを決め、25-22と劇的な勝利を収めた[292]。この遠征から元フランス代表のマルク・ダルマゾがスクラムコーチに就任した[293]

2013年 ウェールズに初勝利

2013年アジア5カ国対抗では6連覇を達成。パシフィック・ネイションズカップでは、トンガとフィジーに敗れ、5か国中4位となった[294]

6月、ウェールズ代表の日本遠征により、国内では12年振りとなるウェールズとのテストマッチ2試合を行った。第1戦では18-22で惜敗[295]。第2戦では、前半は互いにPGのみで6-3でリード。後半には2トライを追加し、五郎丸歩は前後半あわせて5つのPK・GKを決め、23-8でウェールズ戦初勝利を挙げた[296]

旧IRFBファウンデーション8か国[注 7]のチームに勝利したのは、宿澤広朗監督時代の1989年に秩父宮で行われたスコットランド戦以来のことである。当時試合をしたスコットランドは正式な代表ではなかったため、正代表に対しては史上初めての勝利だった。さらにパシフィック・ネイションズカップで組まれたカナダ戦とアメリカ戦にも勝ち、春のシーズンを終了した。

秋シーズンは、国内でニュージーランドと戦い、1トライも挙げることができずに敗れる[297]。その後、海外遠征を行い、スコットランド代表とイングランドのクラブチーム グロスター・ラグビーに敗れたが、ロシアスペインには勝利した。

2014年

2014年4月8日、エディー・ジョーンズHCは、リーチマイケルをキャプテンに指名[298]。以後、W杯2大会、7年以上に渡りリーチは日本代表チームの顔となる[299]

エディジャパン最初の試合は、アジアと太平洋地区から選抜されたアジアパシフィックドラゴンズとの対戦で、29-35で敗れた[300]

アジア5カ国対抗では7連覇を達成。「アジア地区1位」として、8大会連続となるワールドカップ2015への出場を決めた[301]

続くパシフィック・ネイションズカップでは、カナダ、アメリカに連勝し、アジア・パシフィック・カンファレンスで1位になる。その後イタリアと秩父宮で対戦し勝利。イタリアに6戦目にして初勝利を挙げ、テストマッチ10連勝を達成。世界ランキングが過去最高の10位となり[302]、春のシーズンを終了した。

DFコーチに香港ヘッドコーチだったリー・ジョーンズ、FWコーチにイングランド代表主将だったスティーブ・ボーズウィックが就任[303]

秋シーズンは、国内で2試合マオリ・オールブラックスと戦い、11月1日にノエスタで行われた第1戦は終始リードされて、21-61で完敗した[304]。翌週8日の秩父宮で行われた第2戦では前半5-15でリードされるも、後半五郎丸歩のPG2発などで逆転した。しかし37分に決勝トライを決められて、18-20で逆転負けを喫した[305]。しかし、世界ランキング上位国がテストマッチで敗北したため、一時、世界ランキングは過去最高の9位に浮上した[306][307]

その後、海外でテストマッチを行い、ルーマニアに勝利した[308] が、ジョージアには敗れ[309]、1勝1敗でシーズンを終える。アジアパシフィックドラゴンズ戦、マオリ・オールブラックス戦はテストマッチではないため、ジョージアに敗れるまでテストマッチ11連勝だった。

2014年に行われた日本代表の強化合宿は合計114日だった。トップリーグが通常開催しているなか、この合宿日数は非常に多い[310]

2015年、ワールドカップへ

アジア5カ国対抗の改編により発足した2015年のアジアラグビーチャンピオンシップで優勝。パシフィック・ネイションズカップではカナダに勝利した[311] が、アメリカ[312]、フィジー[313]、トンガ[314] に3連敗して4位で終えた。世界選抜戦も敗れた[315] が、ウルグアイには2試合とも勝利[316][317] し、ジョージアにも勝利した[318]。4月下旬には、日本代表応援キャラクターとして鉄腕アトムが発表された[319]

イングランドで開催されるワールドカップ2015に向け、4月から8月までの5か月のうち、宮崎合宿が9回、計75日間行われた[320]。その合間に、上記の国際大会やテストマッチ、イングランド合宿、カナダ・アメリカ遠征が行われた[320]。9月1日にはイングランド入りし現地合宿を行い、ワールドカップ2015開幕を迎えた。

「ブライトンの奇跡」スポーツ史上最大の番狂わせ

2015年9月19日(現地時間)、ラグビーワールドカップ2015のグループBの開幕戦として、イングランドの南東に位置するブライトン・コミュニティ・スタジアム(現 ファルマー・スタジアム)で、南アフリカ戦が行われた。W杯で過去2回優勝し、当時世界ランク3位の南アフリカ代表に、初対戦ながらラストプレーでWTBカーン・ヘスケスが挙げたトライにより34-32で逆転勝利した[321][322][323][324]。これにより南アフリカの世界ランキングは3位から6位に落ち、日本は13位から11位へ上昇した[325]。南アフリカから奪ったこの24年ぶりのW杯勝利は、日本国内および海外のメディアにより「ブライトンの奇跡」、「スポーツ史上最大の番狂わせ」、「W杯史上最も衝撃的な結果」と報じられ、社会現象を巻き起こした[326][327][328][329]

最強の敗者

9月23日、中3日のスコットランド代表戦では前半は7-12で折り返すが、SHグレイグ・レイドローの正確なキックに苦しめられるなど後半に立て続けにトライを重ねられ10-45で敗れた[330][331]。10月3日の第3戦でサモア代表に26-5で勝利し初のW杯1大会2勝目と通算3勝目を挙げた[332][333]。10月11日の第4戦でもアメリカ代表に28-18で勝利し[334][335]、大会3勝目通算4勝目を挙げるも、勝ち点で南アフリカとスコットランドを下回り、初の決勝トーナメント進出はならず、1次リーグ敗退は8大会連続になった[335]。W杯において3勝したチームが1次リーグ敗退となるのは史上初である[336]。国内外のメディアからは「最強の敗者」と形容された[337][329]

日本代表の活躍は各メディアで話題になり、特に五郎丸歩がプレースキック前に行うルーティンは「五郎丸ポーズ」[338]として有名になった[339][340]。このブームについて五郎丸は、「個人が注目されることに違和感を覚える」と同時に、「僕がきっかけでラグビーを知ってもらえるだけでもありがたい」「2019年W杯に向けてラグビーの良さを発信する責任感も感じた」と語る[341]。五郎丸は、日本代表テストマッチでの最多得点記録(711点)、W杯1大会での日本代表最多得点記録(58点)を持つ[342]

ラグビー日本代表のオフィシャル(公式)スポンサーの大正製薬は、選手・スタッフ全員に1人当たり100万円で合計5000万円の報奨金を贈呈すると発表した[343]。また、新聞・雑誌など様々なメディアから功績を表彰された。

次期監督の就任へ

ワールドカップ2015終了をもってジョーンズHCが退任 (退任自体はワールドカップ開幕前には決定していた)、後任にはスーパーラグビーハイランダーズのヘッドコーチを務めるジェイミー・ジョセフが就任することが決定した[344]。彼は1995年から2000年までサニックス(現・宗像サニックスブルース)に所属し、ラグビー日本代表としてワールドカップ1999に出場し9キャップを持つ[344][345]

しかし、ジョセフ新HCは2016年シーズン終了までハイランダーズとの契約が残っており、日本代表には合流できないため、春に開催の2016年アジアラグビーチャンピオンシップは、U20日本代表のHCを務める中竹竜二が代行し、カナダ遠征と国内スコットランド戦はサンウルブズのHCを務めるマーク・ハメットが代行した。

2016年アジアラグビーチャンピオンシップは若手選手を中心としたチーム編成で臨み、香港韓国を相手に4戦全勝で前年に続き優勝[346]。続くカナダ遠征戦は前年のワールドカップ組の半数を招集して臨み、26-22で辛勝[347]。帰国後のスコットランド戦は、第1戦は13-26[348]、第2戦は16-21[349]と2敗した。

2016年~ ジェイミージャパン

2016年 「ONE TEAM」スタート

9月になりジェイミー・ジョセフHCが正式に就任[350]。トップリーグの視察を繰り返した上で代表選手を選考し、その後に短期合宿を2回行った上で11月のテストマッチに備えた。

また、10月にはチームテーマに「ONE TEAM」を掲げた[351]

秩父宮ラグビー場で行われたランキング4位アルゼンチン戦では、20-54で完敗[352]。翌週からヨーロッパ遠征となり、ランキング11位 (日本は1つ下の12位)ジョージア戦では、22-18でジョセフHC体制で初勝利[353]。その翌週のランキング6位ウェールズ戦は7万人を超える大観衆の中で行われ、互角の戦いを行い、30-33の僅差で敗れた[354]。年度最終フィジー戦では、レッドカード退場で1人少ないフィジー相手に25-38で完敗[355]。ジェイミージャパン1年目のテストマッチ4連戦は、1勝3敗で終わった。

2017年

年初の会見でジョセフHCは、今後はサンウルブズを中心にした代表強化を進めていく考えを打ち出すとともに、サンウルブズが海外で試合をする際は、遠征に参加しない選手を自ら指導するなどで若手を育成していく方針も明らかにした[356]

アジアチャンピオンシップは全勝で優勝[357]。6月に強化試合でルーマニアに勝利、アイルランドに2連敗した[358]

秋シーズンでは、世界選抜戦において27-47で敗れる。11月4日に日産スタジアムで行われたオーストラリア戦でも30-63で敗れたが[359]、国内開催ラグビーテストマッチ史上最多43,621人の入場者数を記録した[360]。フランス遠征でトンガに39-6で勝利、フランスとは23-23で引き分けた[361]

2018年

6月は国内でイタリア戦で1勝1敗[362][363]ジョージアに勝利[364]。10月に国内での世界選抜戦[365]ニュージーランド[366] で敗れた。

11月3日に味の素スタジアムで行われたニュージーランド戦でも31-69で大敗したが[367]、国内開催ラグビーテストマッチで史上最多43,751人となり、入場者数の記録を1年ぶりに更新した[368][360]。続く11月のイングランド遠征では、イングランドに15-35で敗れ[369]、ロシアに32-27で勝利した[370]。CTB中村亮土は、イングランド戦で2トライして前半15-10[371]で日本がリードしたことで、日本代表の成長を強く実感したという[372]

11月1日、B’z兵、走る」(つわもの、はしる) が「リポビタンD ラグビー日本代表応援ソング」としてリリース[373]。以降、テレビCMや試合会場内CMのほか、ワールドカップ2019の日本代表試合会場でも流れ[374][375][376][377]、2022年に至るまで、日本代表戦の会場で選手入場時やハーフタイム、試合後などに流れている[378]

2019年

2019年2月の合宿で、山本幸輝の提案によりチームソングが「ビクトリーロード」に決まる[379][380]

ワールドカップ2019の前哨戦となったパシフィック・ネイションズカップではフィジー[381]、トンガ[382]、アメリカ[383] の3か国に勝利して優勝した。2019年8月29日にW杯最終登録メンバーを発表[384]。9月6日に熊谷で南アフリカに7-41で敗れ[385] W杯前最後のテストマッチを勝利で飾ることはできなかった。

ワールドカップ2019開幕

ホスト国として挑んだワールドカップ2019では、9月20日の開幕戦・予選プール1戦目においてロシアと対戦。序盤、日本のプレーには硬さが見られ、ハイパントの処理ミスからロシアに先制トライを許したが、松島幸太朗の2トライで逆転に成功し12-7で前半を終える。後半もピーター・ラブスカフニと松島のハットトリックとなるトライで突き放した日本が30-10で快勝を収める[386][387]

大金星「シズオカ・ショック」

2戦目(9月28日)は、静岡県小笠山総合運動公園スタジアムで、ランキング9位の日本と、ランキング2位の強豪アイルランドの対戦(いずれも試合前の順位)。前半にアイルランドに2トライを許したものの、3本のペナルティゴールで9-12と接戦に持ち込むと、後半に福岡堅樹のトライにより逆転し、相手を無得点におさえ、19-12で勝利した[388][389]。アイルランドには、通算10戦目にしての初勝利となった[390]。イギリスBBCは「アイルランドの崩壊、日本の歴史的勝利」と報道し[391]、フランスAFP通信は「Shizuoka shock(静岡の衝撃)」と呼んだ[392][393][394]。これにより、9月30日付のワールドラグビーランキングにおいて、日本は8位となった[395]

3戦目(10月5日)はサモアと対戦し、38-19で勝利[396][397]。4トライ獲得によるボーナスポイントによりA組3位以内が確定し、次回2023年フランス大会の出場権を得た[398]

決勝進出を賭けたスコットランド戦

予選プール最終戦となる4戦目(10月13日)は、前回大会で唯一敗戦を喫した強豪スコットランド。勝ったほうが決勝トーナメントへ進出できる戦いだった。序盤にスコットランドに先制トライを許したが、日本は3トライをあげ前半を21-7とリードして終える。後半開始早々42分に福岡のトライで28-7とリードを広げたが、スコットランドも49分、54分に立て続けにトライを奪い28-21と7点差に迫った。しかしその後日本はスコットランドの猛攻を凌ぎ、28-21で勝利した[399][400]。スコットランドの地元紙ザ・スコッツマンの記者アラン・マッシーは、「この試合はどんな勝利よりも記憶に残る試合だ」とし、「スコットランドの負けを嘆くよりも日本を称えよう」と述べた[401]

予選プール1位通過で、史上初の決勝トーナメント進出を決めた。ティア2の国[402] が予選プール全勝で1位となるのはワールドカップ史上初のことである。10月14日付のワールドラグビーランキングにおいて、日本は7位となった[403][395]

世界ランキング6位に

2019年10月19日にはオーストラリアの敗戦により、わずか一日だけ、日本が入れ替わってランキングが史上最高の6位となっていた[52][53]

RWC2019準々決勝 南アフリカ戦

準々決勝は10月20日にプールB2位通過の南アフリカと対戦。前半は3-5と接戦で折り返したが、後半に2つのトライを奪われるなど突き放されて3-26で敗れ[404][405]、ワールドカップ史上初のベスト8で大会を終えた。南アフリカ戦直後から大会終了まで、日本のランキングは8位となった[395]

田村優は、W杯1大会での日本代表最多得点記録で歴代2位(51点)となった[406]

大会終了後、ジェイミー・ジョセフの続投が決定した[407][408][409]

12月11日、選手とスタッフの全51人に対して、日本代表公式トップパートナーの大正製薬は、報奨金として1人当たり200万円を贈呈すると発表した[410]。提供ユニフォームであるカンタベリーオブニュージーランドのブランドを持つゴールドウインは、1人当たり100万円を贈ることを発表した[411]日本ラグビー協会からは、事前の規定どおり8強入りの報奨金100万円ずつが選手とスタッフ全51人に贈られる[412]。これにより、1人当たりの報奨金は合計400万円となった[413]

丸の内パレード と 紅白歌合戦出演

2019年12月11日、東京都千代田区の丸の内仲通りで、晴海通りから御幸通りまでの800メートル[414] にわたり日本代表28人[注 10]が歩いてパレードを行った[415][416][417][418]。平日ながら約5万人(主催者発表)の観衆が集まった[419][420]。正午から始まったため、この模様は地上波テレビ各局のニュースや情報バラエティ番組、BSテレビ局J SportsAmeba TVニコニコ生放送などのネット配信などで生中継された[421][422][423][424]

大会終了後は、様々なテレビ番組やCMに出演[425][426]。年末の第70回NHK紅白歌合戦には19人[注 11]でゲスト出演し、後半冒頭でチームソング「ビクトリーロード」をアカペラで司会者や観客と共に合唱[427]、番組終盤近くで松任谷由実は日本代表メンバーが見つめる中、W杯を振り返る映像をバックに「ノーサイド」をテレビ初歌唱した[428][429]。歌唱後、松任谷は「たくさん勇気をもらいました。この歌に、こんなチャンスを与えてくれてありがとう」と日本代表をねぎらった[430]

2020年 コロナ禍による長期停滞

新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、6~7月のウェールズ戦とイングランド[431]、11月のスコットランド戦とアイルランド戦が、次々と中止になった[432]。秋に招待されていた欧州のオータム・ネイションズカップ、コロナ禍で南北半球のラグビー交流が不可能であることを受けて計画された[433]一度限りの国際大会だったが、感染リスクと準備期間の不足を理由に辞退した[434][435]。2020年はテストマッチがまったく行えず、日本のワールドラグビーランキングはアルゼンチンとスコットランドに次々と抜かれ、ポイント数が変わらぬまま8位から10位に落ちた。

ジェイミー・ジョセフHCは、候補選手を50人ほどリストアップし、個別の調整メニューを配布して秋の試合に備えていた[434]リーチマイケルはこの期間中に関節の手術を済ませた[436]。日本ラグビー協会は南半球での試合開催も模索したが、世界中で新型コロナウイルス感染者が増えるなか、政府筋から海外遠征を諦めるよう警告を受けたという[435]

12月14日、ラグビーワールドカップ2023のプール戦おいて、日本はプールDに編成された[437]。プールDは最終的にイングランドアルゼンチンサモア[438]チリ[439][440]となった。

2021年 再始動するもティア1に全敗

ワールドカップ2019終了以来、1年半ぶりの4月12日、2021年度日本代表候補選手とチームスタッフが発表され[441]、6月からの試合に向けて再始動した。

2021年6月12日のサンウルブズとの強化試合[442]で、日本代表側はキャップ非対象チーム「JAPAN XV(ジャパンフィフティーン)」として戦った。2020年に解散していたサンウルブズは、この試合のために日本代表候補選手から9人[443]、新たな選手を数人加えて[444] 再結成[445]、JAPAN XVが32-17で勝利した[446][447]。6月からのヨーロッパ遠征で、1年8か月ぶりのテストマッチ。6月26日に、ブリティシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズと対戦[448][449][450]。10-28で敗れた[450][451] [452][453]。続く7月3日にアイルランド戦では31-39で敗れた[454][455][456]

10月2日、ピーター・ラブスカフニをキャプテンに指名[457][299][458]。10月23日、2年ぶりの国内開催テストマッチとなるオーストラリア戦で23-32で敗れた[459][460][461][462]

秋のヨーロッパ遠征3連戦では、初戦11月6日アイルランド戦で5対60と大敗[463][464][465]ワールドカップ2019後からこの対戦までの2年間、日本の国際試合が3試合のみに対し、アイルランドは16試合も行っており、コロナ禍における日本代表の停滞を如実に示した。遠征2戦目11月13日のポルトガル[466]では苦戦し38-25で辛勝[467][468]。3戦目11月20日のスコットランド戦は[469]20-29で敗れた[470][471][472]

結局、2021年は(ティア1)[注 12]の国に全敗[473][474]ワールドカップ2019以降、日本のティア1入りが期待されていた[475][476][477]が、ワールドラグビーからの発表は無く[474]、結局、その実現には2023年5月までかかった[478]

ヨーロッパ遠征中の日本代表から、バーバリアンズのメンバーに中村亮土垣永真之介堀越康介小瀧尚弘、の4名が選ばれた。イングランドトゥイッケナム・スタジアムサモア代表と2021年11月27日に対戦予定だったが[479][480]、バーバリアンズ内で新型コロナウイルス陽性者が発生し、中止となった[481]

2022年「Our Team」

5月20日、ワールドカップ2023フランス大会において、日本チームのベースキャンプ地がトゥールーズに決まった。トゥールーズは、日本代表が初戦と第3戦で対戦を行う都市[482]

リーグワン初年度が終わった[483]5月31日、日本代表は選手層の厚みを増す目的で2チームに分かれ、日本代表チーム34名とNDSチーム34名がそれぞれ合宿入り[484]ジョン・ミッチェルがアシスタントコーチに加わった[485]

6月18日に秩父宮ラグビー場で、NDSチームが日本代表(キャップ対象試合)としてウルグアイ代表と戦い34-15で勝利した[486]。試合後、NDSチームは解散[487]。6月25日ミクニワールドスタジアム北九州でのウルグアイ戦(第2戦)は、日本代表チームが臨み、HO坂手淳史が初めてキャプテンとなった[488]。43-7で圧勝[489]

7月2日のフランス戦(第1戦)は約5年ぶり。ランキング2位のフランスに対し、10位の日本代表は、試合の数日前に主要選手4名が新型コロナウイルス陽性になるなどしてメンバー構成を大きく変えて臨み[490]、フランス代表は1桁キャップが先発15人中6人という「1.5軍」の編成だった[491]豊田スタジアムで気温35度の猛暑のなか[492]、前半は13-13と互角だったものの、後半は4トライで突き放され、23-42で敗れた[493][494]

7月9日に、フランス戦の第2戦が気温31度超え[495]国立競技場で行われ、前半15-7でリードしたが、逆転され15-20で惜敗[496][497]。この試合では、国内開催ラグビーテストマッチ史上最多57,011人の入場者数となり、4年ぶりに記録を更新した[498][499][360]

7月16日にワールドカップ2023プール戦の初戦がチリに決まった[439][440]

9月4日から18日まで52名で別府合宿[500]、9月18日から10月27日まで41名で宮崎合宿[501]を、それぞれ断続的に行った[502]

6月合宿時からチーム内で使っていたチームスローガン「Our Team[503]を、9月に正式発表した[504][505][506][507]

10月1日から3週にわたり、日本代表候補メンバーの中から編成のセカンドシニア代表チーム「JAPAN XV(ジャパン・フィフティーン)」が、強化を目的に、オーストラリア代表のセカンドチーム「オーストラリアA代表」と日本国内で3連戦した(キャップ非対象)[508]。1戦目は22-34で敗れ[509][510]、2戦目は21-22で敗れた[511][512]。3戦目は双方トライを重ね、日本が終始リードする展開となり52-48で勝利した[513][514]

その後、以下のようにニュージーランド、イングランド、フランスとの強豪国テストマッチ3連戦を行った。

国内テストマッチで最多入場者数を記録

2022年10月29日のニュージーランド戦は4年ぶり7回目。会場となる国立競技場の入場者数は65,188人で、ラグビー国内開催テストマッチだけでなく国立競技場改築後のイベントとしても、最多入場記録を更新した[515][516]。日本は終始積極的に攻め、前半は17-21と接戦に。後半は途中ニュージーランドが1人退場する中、終了近くまで4点差を維持。しかし終了直前にPGを決められ31-38の惜敗となった。通算7敗目となったものの、対ニュージーランド戦で歴代最少の点差であり、続くヨーロッパ遠征に期待できる善戦だった[517][518]

そして、11月12日にロンドントゥイッケナムスタジアム81,087人の観衆の中で、イングランド代表と4年ぶりに対戦。反則を多くとられたほかミスが続き、攻守とも精彩を欠いた。前半はトライできず6-24。後半に1TGを返したのみで、13-52で大敗した[519][520][521][522]藤井雄一郎ナショナルチームディレクターによると、試合後に日本側はレフリーの判定について確認を入れ、日本に不利となる8つのジャッジミスが明らかになったという[523]。試合中のレフリーとのコミュニケーションの重要性が浮き彫りになった[523]

11月20日にフランスのスタジアム・ド・トゥールーズで、フランス代表と7月に続き、この年3回目の対戦をした[524]。日本の反則多発と、フランスの攻撃力で、前半3-21と苦戦。後半は2TGの反撃をしたが、終始フランスが巧みなプレイで翻弄し17-35で敗れた[525][526][527]

強豪国に勝利できない状態について、ジョセフHCは「この期間はベースキャンプという形でたとえている。W杯に向けては、いい方向に向かっていると思う」と総括した[528]。12月17日から2023年5月20日までリーグワンの2シーズン目が開催。

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