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国鉄スハ43系客車

国鉄スハ43系客車(こくてつスハ43けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1951年昭和26年)から製造した客車の形式群である。

国鉄スハ43系客車
スハフ42形。車掌室は出入台の外側にある。写真の車両では、車掌室は奥の乗降扉の右側にある(仙台駅1985年3月撮影)
基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造年 1951年 - 1955年
主要諸元
軌間 1,067 mm
最高速度 95 km/h
全長 20,000 mm
全幅 2,900 mm
全高 4,020 mm
台車 TR47
(テンプレートを表示)
オハ46形(高松駅付近、1984年撮影)

本形式は急行列車等の優等列車運用に供する目的で投入され[1][2][注 1]、その目的から資料によっては急行形車両に分類されることがある[3][4]。一方後年は普通列車にも使用されており、国鉄の現場などでは一般形客車在来形客車旧型客車とも)と呼ばれ[5]、一般形車両に分類されることもあるが、本形式は正式な意味で急行形[6]や一般形に分類される車両ではない[7][8][9]

在来設計の発展型ではあるが、台車構造や車内設備などに多くの新機軸を採り入れ、従来の客車と比較して居住性を大幅に改善した、画期的な客車であった。

本項では、当形式と設計の基本を同じくする、特急列車で使用することを目的に投入された客車であるスハ44系客車についても記述する。

概要

国鉄が定めた正式な系列呼称ではなく、軽量客車と称された10系と従前のオハ35系との間に位置する、同一の設計思想によって製作された客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。スハ43形を代表としたスハ43系客車の呼称が一般的である。

具体的には、三等車スハ43形スハ44形スハ45形オハ46形、三等緩急車のスハフ42形スハフ43形スハフ44形オハフ45形、三等荷物合造車のスハニ35形特別二等車スロ53形スロ54形食堂車マシ35形マシ36形郵便車スユ41形スユ42形スユ43形、およびこれらの改造車が該当する。

また、1950年度に製造された特別二等車のスロ51形寝台車スロネ30形(マイネ41形)、および郵便車のオユ40形についても、車体構造などに共通点が多いため、同じ系列に含めることが多い。

運用

本形式は前述のとおり車両上の区分を定めていないものの、優等列車で使用することを目的に投入されたが、実際の運用では種別を問わず運用された。登場間もない頃は優等列車で使用され、急行列車だけでなく、特別急行列車にも使用された。1960年代以降は陳腐化に対処するため、室内灯の蛍光灯化・ドアの取り替え・内張りの取り替えおよび塗りつぶし・窓のアルミサッシ化・扇風機の取り付けなどを行った近代化改造および体質改善工事を施工した(1964年以降に施工された車両は区別のため、青15号に塗装された)車両のみが原則として急行列車に使用されていた[10]

1980年代初めまで、日本全国で急行列車に広く運用されたほか、急行列車への後継車の増備や置き換えにつれて捻出された車両は、次第に普通列車にも運用されるようになった[11]。これは国鉄時代の客車の導入に対する考え方にもよるが、10系以前の客車が製造された時代の客車には特定の列車種別を専用とする車両がほとんどなく、優等列車の性質上、新車の投入は優等列車が優先され、登場後しばらくは状態の良い車両を使用し、後継車両への増備や置き換えなどにつれて捻出した車両は普通列車にも使用する措置を採っていたためである。

国鉄分割民営化直前まで定期運用され、JRへの移行後も少数の車両がイベント列車・観光列車で運用されている。

構造

戦前から戦後にかけて製作されたオハ35系の改良版として設計された。

外観

車体

鋼体化車両と称されたオハ60形1949年から製造)で採用された、完全切妻形車体(連結面に後退角がない車体)を引き続いて採用した。これにより客室と出入り台(デッキ)の有効面積が広がり、わずかではあるが座席間隔も広くなった。製造上も、デッキ部分の工数が減ってコストダウンにつながっている。

従来の緩急車は、出入り台と客室の間に車掌室を設けていたが、本系列ではオハ60系と同様、車掌室を車端部に移した。これは車掌の後方監視の改善に寄与している。

本グループに属する各車の生産時期は、日本の戦後復興が進展した時代にあたり、資材の品質や内外装の仕上げも、終戦直後の混乱期と比較して平時水準の良好なものとなった。

台車

新形台車TR47が採用された。これは、オハ35系のマイナーチェンジ版というべきスハ42形客車で採用された、ウイングばね式鋳鋼台車であるTR40の設計を基本としつつ、(基礎ブレーキ装置)を構成する連動てこ類の取り回しと枕ばね部分の設計を変更して乗り心地の改善を図ったものである。

 
スハフ42形のTR47形台車。台車の左に見える円筒形の機器は車軸発電機
(大井川鐵道千頭駅

国鉄で戦前設計の在来形2軸ボギー客車に多用されていたTR23・34は、軸箱直上に圧縮コイルばねを置く単純な軸ばね式台車であった。しかし、ばねの変位量を大きく設定することが困難で、かつ極端な過積載(88名の定員に対し400名 = 乗車率450 %程度)を想定していた[注 2]ため、枕ばねについて過大なばね定数が設定されていた。これにより、乗り心地が悪かった。

これに対し、TR34の後継として側枠の一体鋳鋼化を実施したTR40では、基本設計に携わった扶桑金属工業モハ63形用として国鉄に納入したTR37[注 3]で成功を収めた、「ウィングばね式軸箱支持機構」が採用された。枕ばねの設計こそ前世代のものが踏襲されたものの、軸ばねの変位量増大と2本のばねへの負荷分散に伴うばね定数の大幅引き下げ、それに揺れ枕吊りの延長による揺動周期の長周期化で、乗り心地が大きく改善されることが確認された。

本系列が設計された当時、優等客車は戦前以来の伝統でばね定数を引き下げるために車軸数を増やし、3軸ボギー台車とするのが常識とされていた。しかし冷房装置などの追加に伴い、床下機器搭載スペースの不足が問題となりつつあったことから、TR40での成果を受けて設計が見直され、本系列以後に新造される優等客車は、3軸ボギー台車ではなく通常の2軸ボギー台車を使用することが決定された。

この方針に従い、まず食堂車であるマシ35形・カシ36形用として、TR40の設計を基本としつつ緩衝ゴムの挿入や枕ばねのばね定数変更などを実施したTR46が、今後の標準台車試作の意味合いも込めて1950年(昭和25年)に設計された。

さらに、その枕ばねに用いる重ね板ばねを4列から2列に減らす[注 4]など、主として枕ばね周辺の設計を簡素化し、客車用標準形台車として設計されたのが、TR47である。

TR47は、定員オーバー時の荷重をより現実的に130人(乗車率147%)程度と見積もることでばね定数の大幅な引き下げを実現しており、これによりTR40と比較して大幅な乗り心地の改善が実現した。ばねの適切な設定と、一体鋳鋼製側枠による高剛性によって振動が小さくなり、国鉄の旧型台車の中では格別に乗り心地の優れた台車の一つとなった。

一方で、鋳鋼製の台車枠と軸箱守のため重量がかさむ上、ばね下重量が過大で軌道破壊が起きやすく軌道保守に負担を強いるという欠点があるため後期形では側枠や軸箱守などの設計が変更され、軽量化が試みられている。

なお、このTR47はその優秀な性能を買われ、本系列群から捻出した他の用途への転用例も多く生じている[注 5]

車内設備

 
スハフ44形(近代化改装車)の内装。座席形状と通路側頭もたせが大きな特徴である
 
スハフ44形の座席側面に設けられた栓抜き。これが当初の形態であった
 
スハフ42形の座席テーブルに設けられた栓抜き

それまで、優等客車に比してアコモデーションが劣るのもやむを得ないとされてきた三等客車の接客設備であるが、43系ではこの面で著しい改善が見られた。設備自体の改善に加え、新しい着想による装備も追加して、旅客サービスの向上が図られている。

従来の客車では、車内照明は天井中央に1列で最小限であったが、43系では80系湘南電車と同様に2列配置とした。当時は、車載の蛍光灯照明は技術・コスト的に困難であり、まだ白熱灯照明ではあったが、照明数の倍増で、従来の客車に比べ車内は大幅に明るくなった[注 6]

座席は、背ずりの下半分の詰め物を厚くして腰への当たりを良くするとともに、スプリングも軟らかくされて座り心地が良くなり、長距離利用者に配慮したものとなった。シートピッチは15 mm拡大され1,470 mmとされている。また、座席の通路側には固定式の頭もたせが付けられた。頭もたせは、特に夜行列車運用時には乗客に好評で、43系の後続形式である10系客車では窓側にも追加設置された。

客室とデッキを仕切る扉の(戸車)についても、従来は優等車に限って使用されていた防音戸車を標準採用し、車端座席の乗客の居住性改善を図っている。

便所は、80系湘南電車同様に便器を埋め込み式として、内装にタイルによるシーリングを行い、清掃をしやすくして清潔性を高めた。また、便所使用中に客室にその旨を知らせる表示灯も、この形式から採用された。客室端壁面に装備されたこの表示灯は、当初は赤ランプだったが、非常信号と紛らわしく乗客が不安になった事例があったため、後に橙色に変更された[注 7]

新製当初の初期形車では、乗客の利便性を考慮し、各座席下にくず物入れが設けられたが、運用してみると清掃の手間がかかり過ぎるため、後に洗面所に大型のくず物入れを設ける方向に転換した。洗面所もしくはデッキへの大型くず物入れ設置は、以後の長距離用車両の標準装備となっている。

本系列群が登場した1950年代には市販の清涼飲料水王冠で栓をした瓶に入って販売されているのが普通であり、栓抜きを忘れた乗客が、客車の窓枠や肘掛けに王冠を引っかけて瓶をこじ開けようとすることも珍しくなかった。このため、多くが木製内装だった当時の客車では、内装の損傷を招いた。

その対策として、本形式群の増備途中から、小さな金属板をコの字状に折り曲げた固定式栓抜きが装備されるようになった。王冠を栓抜きの下あごに掛け、瓶を手前に引き上げれば、栓抜きの上あごに王冠の中央が当たって折られ、梃子の原理で栓が抜ける仕掛けである。この単純だが実用的なアイデアが導入されたきっかけは、考案者である市井の一市民が国鉄に無償で使用権を寄付したことによるもので、当初は通路側肘掛け中央に装備された。[要出典]のちには本系列群も含め、多くの国鉄長距離車両の窓側テーブル下に設置された。なお、本系列ものちの近代化改造時、窓側に栓抜き付きのミニテーブルが取り付けられている。

形式別概説

基本形三等車

スハ43形

 
スハ43 2280。(松本駅、1977年)
0番台(スハ43 1 - 698、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
一般形として新製されたグループで、1951年(昭和26年)から1955年(昭和30年)にかけて新潟鉄工所日本車輌東急車輛帝國車輛日立製作所川崎車輛近畿車輛汽車製造で合計698両が製造された。窓配置等の車体配置はスハ42形と同じであるが、車端部は同時期に改造されたオハ61形と同様に完全切妻形となっており、台車はTR40の基礎ブレーキ装置を電車と同じタイプとしたTR47に変更されている。スハ43 374以降のうち重量が軽い160両は、1956年(昭和31年)にオハ46形に編入され、またオハネ17形およびオシ16形の改造時に、改造種車のTR23(4両はTR34)と台車を振り替えた173両、オハネ17形を冷房化してスハネ16に改造する際、電気暖房車が装着していたTR23(2両はTR34)と台車を振り替えた158両がオハ47形となっている(そのうち、オハネ17形の電気暖房化改造の際に台車を振り替えた4両は元のスハ43形に復元)。さらに、1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて4両が車掌室などの緩急設備を取り付けてスハフ42形400番台に改造され、1973年(昭和48年)から1977年(昭和52年)の間に北海道向けとして17両が500番台(後に700番台に改番)または700番台に改造され、1978年(昭和53年)から1981年(昭和56年)までの間に40両がスユニ50形に改造され、1979年(昭和54年)に2両が保健車のスヤ42形に改造された。
700番台(スハ43 701 - 717)
北海道向けに改造されたグループで、1973年(昭和48年)から1977年(昭和52年)にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで17両改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)の間に改造された11両は当初スハ43 501 - 511という車号であったが、オハ46に改番されずに残った500番台の車両と重複区分になっていたため、1976年(昭和51年)に改めてスハ43 701 - 711に改番された。1978年(昭和53年)に2両が緩急設備を取り付けスハフ42形500番台に改造され、1981年(昭和56年)に1両が保健車スヤ42に改造された。

スハフ42形

 
スハフ42 2195。車掌室の側から見る。妻面に窓がある。(松本駅、1977年)
基本番台(スハフ42 1 - 335、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スハ43形の緩急車版として製造された基本番台。車掌室は、従来車と異り乗降デッキの外側にあり、妻面には監視窓がある。
後に19両がスハフ42形500番台車に改造された。オールロングシート化され、オハフ41形(200番台)となったものや、軽量化改造を行いオハフ33形に編入された車両(スハフ42 18 → オハフ33 630)もある。1978年(昭和53年)以降、一部の車両は郵便荷物車スユニ50形に台車などを流用された。
400番台(スハフ42 2401 - 2404、全車電気暖房付き)
1965年(昭和40年)から翌1966年(昭和41年)にかけてスハ43形基本番台を緩急車改造して登場したもので、乗降デッキの内側に車掌室があることで、スハフ42新造車と区別できる。4両が改造された。4両とも電気暖房付きのため、車番は原番号に2000を足した番号である。北海道向けのスハフ42形500番台に改造されたものが1両(スハフ42 519)ある。
500番台 (501 - 523)
スハフ42形の北海道向け改造車の番台であるが、種車が数車種ある。内訳として、スハフ42形0番台から改造されたものが19両(スハフ42 501 - 518・520)、スハフ42形400番台から改造されたものが1両(スハフ42 519)、スハ43形700番台から改造されたものが2両(スハフ42 521・スハフ42 522)、スハ42形の北海道向け改造車から改造されたものが1両(スハフ42 523)となっている。基本的にはスハフ42形の他番台と見た目は変わらないが、スハフ42 523は種車がオハ35形の最終製作グループと同一車体のスハ42形であったため、他の43系客車と異なりオハ35形と同様の妻面に後退角が付いた半切妻になっており、台車もTR40を装着していた。スハフ42 522は、オハ47形からスハ43形に復元された車両が種車である。なお、釧網本線で運用されていたスハフ42 520 - 523は、車掌室部分の窓に住宅用の引き違い式アルミサッシを使用していた。

酷寒地形三等車

 
スハ45 13

北海道向けとして製造されたもので、客用窓が二重窓となっており、耐寒構造が強化されている。蓄電池は大型化され、車軸発電機も歯車駆動式が装備されている。国鉄10系客車には北海道向け500番代が無かった為、(国鉄14系客車500番台(座席車))が登場するまで主力として活躍した。

スハ45形

0番台(スハ45 1 - 53)
スハフ44形とともに北海道向けに製造された座席車で、1952年(昭和27年)から1954年(昭和29年)にかけて53両が製造された。車体の基本構成はスハ43形と同じであるが、客窓の二重窓化、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており、台車は歯車駆動方式の車軸発電機を使用している。外観はスハ43形に酷似している。後に5両が五稜郭工場で車掌室と緩急設備を取り付ける改造を施されスハフ44形に編入された。

スハフ44形

 
小樽市で保存されているスハフ44 7
0番台(スハフ44 1 - 27)
スハ45形とともに北海道向けに製造された緩急設備付き座席車で、1952年(昭和27年)から1954年(昭和29年)にかけて日本車輌製造、川崎車輛、汽車製造で27両が製造された。車体の基本構成はスハフ42形と同じであるが、客窓の二重窓化、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており、台車は歯車駆動方式の車軸発電機を使用している。外観はスハフ42形に酷似している。定期運用の消滅に伴い、国鉄分割民営化までに大半が廃車されたものの、5両が保留車としてJR北海道に引き継がれてC62ニセコ号に使用され、1988年(昭和63年)に1両がスハシ44形に改造されたものの、同列車が1995年平成7年)11月3日をもって運行を終了したことにより、1996年(平成8年)11月8日付で廃車[注 8]され、形式消滅した。
100番台(スハフ44 101 - 105)
スハ45形に車掌室と緩急設備を取り付けスハフ44形に編入したグループで、1972年(昭和47年)に五稜郭工場で5両改造された。前位側の座席1ボックス分を撤去して車掌室が設けられたため、出入台はスハフ44形0番台と異なり車体両端にある。

軽量形三等車

乗客にも現場にも好評だったスハ43系だが、積車重量が40トンの「ス」級であるため長大編成を組む際には機関車に大きな負担となる問題があった。そこで、1955年(昭和30年)には、各部の軽量化を図り重量を「オ」級に下げる改良を行った、オハ46形・オハフ45形が製造された。車体構造や内装はスハ43系と同等であるが、屋根が鋼板製となったことで、妻面のキャンバス押さえが省略され、雨樋も金属製となり、縦樋が円管状の細いものとなっていることなどが外観上の特徴である。台車はTR47であるが、側枠や軸箱守の素材に工夫を行う等により、軽量型となっている。

オハ46形

 
オハ46 13。オリジナル車で、鋼板製の屋根と屋根布押えのない妻面上部に注目。
0番台(オハ46 1 - 60、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
軽量改良形として新製されたグループで、1955年(昭和30年)に汽車製造、川崎車輛、日立製作所で60両製造された。基本構造はスハ43形と同じであるが、鋼板屋根化されているため妻面のキャンバス押さえが省略されており、雨樋も金属製の細いものとなっている。軽量化のために内装の合板の薄板化、台車軸箱の薄肉化、連結器の材質なども変更されている。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)にかけて11両が緩急設備を取り付けオハフ45形100番台に改造され、1981年(昭和56年)から1983年(昭和58年)の間に5両がスユニ50形に改造された。
スハ43形からの編入車(オハ46 374 - 398・494 - 553・599 - 628・654 - 698、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スハ43 374以降のうち重量が軽く「オ」級に収まる車両をオハ46形に形式変更したグループで、1956年(昭和31年)に160両が編入された。もともとスハ43形として製造されているため、外観上はスハ43形と全く同じである。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)にかけて9両が緩急設備を取り付けオハフ45形200番台に改造され、1978年(昭和53年)から1982年(昭和57年)の間に9両がスユニ50形に改造された。

オハフ45形

0番台(オハフ45 1 - 25、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スハフ42形を設計変更し軽量化した車両である。1978年(昭和53年)以降、一部の車両は郵便荷物車スユニ50形に台車などを流用された。
100番台(オハフ45 101 - 111、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
オハ46形の基本番台に車掌室を追設し、緩急車に改造した車両である。種車の関係で車掌室は乗降デッキの内側に設けられている。
200番台(オハフ45 201 - 209、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
オハ46形のうち、スハ43形から編入した車両を緩急車化改造した車両である。種車の関係で車掌室は乗降デッキの内側に設けられている。

スハフ42形は、元々スハ43形よりも自重が重く、計量しなおしても「オ」級になるものが存在しなかったため、スハフ42形からオハフ45形に編入された車両はない[注 9]

台車振り替え改造車

オハ47形

 
オハ47 2261
 
オハ47 2266車内
0番台(オハ47 1 - 328、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スハ43形を種車として改造されたグループで、1961年(昭和36年)から1969年(昭和44年)にかけて盛岡、土崎、新津、大宮、長野、名古屋、松任、高砂、幡生、多度津、そして小倉の各国鉄工場で合計328両が改造された。オハネ17形またはオシ16形への改造(または電気暖房化、冷房化に伴うス級重量増加)に際して、種車の台車とスハ43形のTR47を交換、発生品のTR23をスハ43に装着してス級からオ級に軽量化されたものである。これは寝台車の居住性対策だけでなく、急行用二等座席車(当時)の車重軽減による列車の連結両数増大を企図した措置でもあり、このため約700両製造されたスハ43の半数近くが、乗り心地悪化の難を押してオハ47に改造される結果となった。TR23形台車は、そのままでは心皿面高さの低いスハ43に装着できないため[注 10][12]、心皿と側受部を改造してTR23F、またはさらに円筒コロ軸受に改造したTR23Hを装着している。オハ47 164・オハ47 2168・オハ47 175・オハ47 2200・オハ47 2323の5両はTR34を装着するオハネ17形などと台車を交換したため、コロ軸受のTR34を装着している。1966年(昭和41年)に4両がオハネ17形の電気暖房化に伴って再度TR47に台車交換したため元のスハ43形に復元され、さらに1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)にかけて北海道向けとして8両がオハ47形500番台に改造され、1978年(昭和53年)に1両が緩急設備を取り付けオハフ46形500番台に改造された。
500番台(オハ47 501 - 508)
オハ47形0番台を種車として北海道向けに改造されたグループで、1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで8両が改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。1978年(昭和53年)に1両が緩急設備を取り付けオハフ46形500番台に改造された。

オハフ46形

 
オハフ46 18
0番台(オハフ46 1 - 30、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
オハ47形0番台(旧スハ43形)を種車として改造されたグループで、1965年(昭和40年)から1974年(昭和49年)にかけて大宮、長野、後藤、そして小倉の各国鉄工場で30両が改造された。台車はスハ43形時代にTR47を他形式に供出しているため、TR23形台車の心皿、側受を改造したTR23F、またはさらに円筒コロ軸受に改造したTR23Hとなっている。1973年(昭和48年)から1977年(昭和52年)にかけて北海道向けとして5両がオハフ46形500番台に改造された。
500番台(オハフ46 501 - 507)
オハフ46形0番台・オハ47形を種車として北海道向けに改造されたグループで、1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)にかけて旭川車両センターと五稜郭車両センターで8両が改造された。改造では北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更されている。オハフ46形0番台(旧オハ47形0番台←スハ43形)を改造したオハフ46 501 - 505、オハ47形0番台(旧スハ43形)を改造したオハフ46 506、オハ47形500番台(旧オハ47形0番台←スハ43形)を改造したオハフ46 507の3タイプが存在する。
スハフ42形も、スハ43形と同様に台車交換を行いオハフ47形とする計画があったが、急行寝台列車の格上げによる特急寝台列車への移行が急速に進展しオハネ17形の製造が打ち切られたため、これは実現しなかった。

特別二等車(のちのグリーン車)

スロ51形

急行用として製造されたリクライニングシート付き特別二等車(特ロ、のちの一等車→グリーン車)で、1950年(昭和26年)に近畿車輛、帝國車輛、新潟鉄工所、日本車輌、東急車輛、川崎車輛、日立製作所で60両が製造された。基本設計は1,100 mmピッチのリクライニングシート付きのスロ50形と共通であるが、のちの冷房化を考慮していなかったため、配電盤のスペースを省略し 専務車掌室と荷物保管室を若干狭くして定員を52名としている(スロ50形は48名)。台車はTR40の枕ばねを2連に変更したTR40Bを装着する。スロ51 5 - 10・30・31の8両は新製当初から北海道向け設備を装備していたため、1952年(昭和27年)に別形式が付与されてスロ52形 スロ52 1 - 8に改番され、後になって北海道向け改造を行った11両についてもスロ52形 スロ52 9 - 18に改番された。全国の急行列車で使用されたが、1966年(昭和41年)と1967年(昭和42年)に4両がスロフ51形2両とスロフ52形2両にそれぞれ改造され、さらに1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)の間に2両が荷物車のマニ37形30番台、23両が全ロングシートの通勤形客車であるオハ41形350番台、1両が保健車のスヤ52形にそれぞれ格下げ改造され、残りの6両も1972年(昭和47年)までに廃車となり形式消滅した。なお、後年、団体臨時列車に充当された一部は電気暖房が取り付けられて2000番台となった。

スロ52形

北海道向けとして新製されたスロ51形を改番した特別二等車(特ロ、のちの一等車→グリーン車)で、1952年(昭和27年)に8両が改番により登場した。窓配置等の車体配置はスロ51形と同じであるが、客窓の二重窓、温気暖房装置等の北海道向け設備を装備しており(蓄電池箱は大型化されていない)、台車は歯車駆動方式の車軸発電機付きのTR40Bを装着する。1952年(昭和27年)から1966年(昭和41年)にかけて北海道に転属したスロ51形8両についても旭川工場と五稜郭工場で同様な設備に改造されたため、スロ52 9 - 18として編入されている。なお、新たにスロ51から編入された8両は、最初に改造された8両とは車軸発電機の取付位置が異なる。

1968年(昭和43年)と1969年(昭和44年)に14両が全ロングシート車のオハ41形400番台に格下げ改造、1969年(昭和44年)に3両が保健車のスヤ52形に改造され、残る1両も同年に廃車となり、形式消滅した。

スロ53形

1951年(昭和26年)に30両が製造された。座席間隔が1,160 mmに拡大され、現在につながるグリーン車の基本様式を確立した。

スロ60形・スロ50形・スロ51形の既存特ロ3形式における使用実績と乗客・乗務員の意見をもとに設計されたため、当時としては完成度の高い特別二等車とされるが、本形式で新採用したアメリカ流の鋼板製荷物棚は、忘れ物のトラブルが多発したため失敗と評価され、以降製造された国鉄の特急・優等座席車の荷物棚は長らくステンレスパイプ棚が採用された。

1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて、客車の近代化改装工事により側窓のアルミサッシ化と室内灯の蛍光灯化が実施され、1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)にかけて全車が緩急車化され、スロフ53形となった。本形式も冷房化改造を実施されなかったため、ロングシート化されてオハ41形・オハフ41形に、郵便車・荷物車に改造されてマニ37形・スユニ61形になったものがあるが、改造されなかったものは1975年(昭和50年)までに廃車されて形式消滅となった。最後まで在籍したスロフ53 2025(←スロ53 4)は、1971年(昭和46年)に松任工場で側廊下14畳敷に簡単な供食スペースを備え、側窓下にかつての三等車を意味する赤帯を巻いた「お座敷食堂車」に改造され、前年秋から運行されていた能登半島観光列車「ふるさと列車おくのと号」に連結されて1973年(昭和48年)9月末の列車廃止まで運用に就いた。

スロ54形

スロ53形に続いて特急用として製造されたリクライニングシート付き特別二等車(特ロ、のちの一等車→グリーン車)で、1952年(昭和27年)末から1955年(昭和30年)にかけて47両が製造され、全車が冷房化されて1982年(昭和57年)秋まで運用された。

0番台/2000番台
特急用として新製されたグループで、近畿車輛、日本車輌、汽車製造において、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけて32両、1955年(昭和30年)に15両の計47両が製造された。基本設計はスロ53形と変わらないが、新製時より室内灯に蛍光灯を採用したためスロ53形とは別形式となっている。スロ53形では荷物棚が鋼板製であったが、荷物の置き忘れが多いためステンレスパイプに変更されている。定員はスロ53形と同じ48名で、台車は防振ゴム付きのTR40Bを装着する。1955年(昭和30年)製のグループは座席灯が埋め込み式になったり、座席形状の変更等のマイナーチェンジが行われた。
スハ43系としては唯一、冷房取付改造の対象形式となったため、1964年(昭和39年)に2両が先行試作として床下冷房装置を取り付けマロ55形となった。残りの45両については、1966年(昭和41年)と1967年(昭和42年)に低屋根化して屋根上にAU13Aユニットクーラーを5台取り付け(電源は(4DQ形)ディーゼル発電機式)、重量増加を抑えるために台車をスハネ30形やスロ43形などのTR23DまたはTR23Eと交換した。床下冷房装置を取り付けた2両のマロ55形についてもスロ43形のTR23Eと振り替えて軽量化されたため、1965年(昭和40年)にスロ54形に再編入された。さらに1968年(昭和43年)と1969年(昭和44年)に11両が北海道向け改造を行い、スロ54 501 - 511に改造された。当初は本州・九州の主要な客車区に配置され、東北地方から九州にかけて特急列車や主要な急行列車で運用されたが、この時点では座席の構造上、電気暖房装置の設置が困難だったため、1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)にかけて電気暖房を標準で設置したオロ61形がオハ61形からの改造で増備されると、全車が品川客車区以西の配置とされて上野発着の列車から撤退した。のちに一部車両は新式の電気暖房装置を取り付けて2000番台となったが、品川以北への転属は行われず、東京以西の急行列車や大阪 - 青森間急行「きたぐに」等に運用されたものの、山陽新幹線の博多開業に伴い名古屋・関西 - 九州間の急行列車廃止で余剰となり、蒸気暖房のみの0番台は1974年度末までに運用を退き廃車された。2000番台はスロ62形・スロフ62形とともに大阪発着の急行「きたぐに」「だいせん」に運用された他、団体臨時列車にも運用されたが、1978年(昭和53年)10月のダイヤ改正で急行運用を失い、団体臨時列車用の車両も1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正で運用から外され、1983年(昭和58年)6月の2041・2047(名古屋客車区所属)の廃車により、本州向けのスロ54形は消滅した。
500番台
北海道向けに改造されたグループで、1968年(昭和43年)と1969年(昭和44年)に五稜郭工場で、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけて製造された0番台車から11両が改造された。北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造が施工されており、台車はベルト式発電機から歯車駆動方式の車軸発電機に変更された。
14系500番台が道内の客車急行に投入されたため、1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正で運用を外れ、翌1983年(昭和58年)に残存車すべてが廃車された。

マロ55形

スロ54形の冷房化にあたり、先行試作として床下冷房装置を取り付け重量増加となり"ス"級から"マ"級となった一等車で、1964年(昭和39年)に小倉工場で2両が改造された(番号はスロ54形時代の番号を踏襲)。改造では20系客車と同じAU21Cユニットクーラーと4DQ-11Pディーゼル発電機を床下に取り付け、ナロ20形と同様に座席部分の床下を100 mmかさ上げして冷風ダクトを設けた。1965年(昭和40年)に台車をスロ43形のTR23Dと交換して軽量化しスロ54形に再編入されたため、わずか1年で形式消滅となった。

一等緩急車(のちのグリーン緩急車)

スロフ51形

スロ51形を緩急車化改造した一等緩急車(のちのグリーン緩急車)で、1966年(昭和41年)と1967年(昭和42年)に大船、高砂、小倉の各国鉄工場で8両改造された。改造では専務車掌室に車掌弁を取り付け、出入台に手ブレーキを取り付けた程度である(6両は緩急車化改造と同時に電気暖房化も行われた)。改造後の番号はスロ51形時代の番号を踏襲したため飛番となっている。1970年(昭和45年)に3両がオハフ41形に改造され、1970年(昭和45年)と1971年(昭和46年)に2両がオハ41形500番台に改造、さらに1972年(昭和47年)に1両が保健車のスヤ52形に改造された。残る2両はそのまま廃車となり、形式消滅した。

スロフ52形

スロ51に緩急設備を取り付け、さらに北海道向け改造を行った一等緩急車(のちのグリーン緩急車)で、1966年(昭和41年)に五稜郭工場で2両が改造された。改造では車掌弁と手ブレーキを取り付け、北海道向けに客窓の二重窓化等の耐寒改造を施工しており、台車のベルト式発電機は歯車駆動方式の車軸発電機に変更している。改造後の番号はスロ51形時代の番号と一致しない。1971年(昭和46年)に1両が保健車のスヤ52形に改造され、残りの1両も同年に廃車となり、形式消滅した。

寝台車

マイネ41形

(国鉄マロネ40形客車#マイネ41形(マロネ41形))参照。

スロネ30形

1951年(昭和26年)に10両が製造された二等寝台車。前年に改造で登場した(マロネ39形)と同様、4人用のコンパートメント形式の寝室を8室設け、寝台は枕木方向に600 mm幅の二段式寝台を設けた。のちの(オハネ14形700番台)に近い車内寝台配列であった。 定員が32名と多く利用者からも好評であったが[13]、マロネ29形などが返却されはじめると寝台幅が狭く、区分室のため、見知らぬ客同士が同室になることへの抵抗感も手伝って、必ずしも評判は良くなかった。

マロネ29形が駐留軍輸送から返還され、より接客設備の良いオロネ10形が登場すると定期急行列車運用から外され、臨時急行や準急列車、団体臨時列車に使われた。

冷房改造や二等寝台(二等級制時代の)への格下げ改造はされず、1970年(昭和45年)までに余剰廃車またはマニ36形・マニ37形への改造により姿を消した。

なお、1950年(昭和26年)に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの命令で進駐軍兵員輸送用寝台車として「マロネ31形・スハネ40形」を製造する計画もあったが、これは実現しなかった。

食堂車

マシ35形・カシ36形

カフェカー

スハシ44形

 
スハシ44 1

C62ニセコ号での運用のため、スハフ44 2を種車として改造された。内部は従来のシートから小テーブル付きのクロスシートに変更された上、カウンターが設置されている。C62ニセコ号の運行終了により、他のスハフ44とともに廃車となったが、JR北海道の(SLすずらん号)運行のため、苗穂工場に運び込まれ再改造、再整備が行われ新たにだるまストーブが追加された。落成後すぐはSLすずらん号で運用されていたが、運行終了により、現在はSL冬の湿原号に使用されている。

郵便車

オユ40形

1951年(昭和26年)に3両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。台車は電車用を改造したTR35Uを使用。1956年(昭和31年)に締切郵袋室の拡大化改造(荷重8t化)を行い、スユ40形(0番台)に改称された。1972年(昭和47年)までに全車が廃車された。

スユ41形

1952年(昭和27年)に2両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。台車はTR23Aを使用。車内はオユ40形と同じで、新製時より室内灯に蛍光灯が採用されているため、通風器の配置がオユ40形と異なる。1965年(昭和40年)に前位側荷物扉を両開き式に改造した。1972年(昭和47年)までに全車が廃車された。

スユ42形

1953年(昭和28年)から12両が製造された取扱便用郵便車。荷重は7t。製造年次により形態の差異があり、1953年(昭和28年)3月製造のスユ42 1 - 6は区分室採光窓が枠付の内傾式で、台車はTR23形を使用。同年11月製造のスユ42 11 - 13は同仕様の車体であるが、台車を防振ゴム付のTR40Bに変更。1954年(昭和29年)以降製造のスユ42 14 - 16は区分室の窓をすべてHゴム固定式に変更し、作業環境改善のため床下に集塵機を設置、腰板部には通気口が設けられた。台車は変わらずTR40B。本形式の室内配置は後に製造された(オユ10形)などの10系郵便車、また郵便電車や気動郵便車にも踏襲された。冷房は設置されず、1979年度までに全車が廃車された。

スユ43形

1956年(昭和31年)に6両が製造された、国鉄郵便車初の護送便用郵便車。乗務員室が中央にあり、その前後に締切郵袋室、後位に車掌室がある。区分室はなく、その分荷重は13tに増加。東京 - 門司間の鉄道郵便路線(東門線)の輸送改善のために投入された。台車は全車とも防振ゴム付のTR23D。1両は火災のため1972年(昭和47年)に廃車され、残存車も(スユ15形)などに置き換えられる形で1977年度までに全車が廃車された。

荷物車

マニ35形

200番台(マニ35 2201 - 2204、全車電気暖房付き)
元特急用のスハニ35形から改造された。台車はTR47を使用。
220番台(マニ35 2221・マニ35 2222、2両とも電気暖房付き)
オハニ40形から改造された。台車はTR23を使用。

200・220番台のいずれも両端に出入台を設け、前位には自転車置場、後位には便所、貴重品室、車掌室が配置されていた。後位にある種車の荷物室側の車掌室を再利用していたため、車掌室は、いずれも狭くなっていた。荷重は14t。

他に0・50番台が存在したが0番台はスハ32系、50番台はオハ35系に属する。

マニ36形

200番台(マニ36 212 - 216、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スハニ35形から改造された。台車はTR47を使用。スハニ35形時代に近代化改造工事を施工済みの車両は側窓がアルミサッシに更新されていた。
他の200番台はオハ35系に属する。
300番台(マニ36 332 - 337、電気暖房付き車両は基本番号+2000)
スロネ30形から改造された。台車はTR40BからTR23に振り替えられている。荷物車化に際して後位に新たに出入台が設けられ、側窓は700 mm幅に統一された。
他の300番台は60系に属する。

他に0番台が存在したがスハ32系オハ35系に属する。

マニ37形

パレットと一般荷物の輸送用として余剰座席車を改造した荷物車。新聞用A形ボックスパレットを積載するため、床は鋼板張りに改装され、パレット固定用のロープ掛けが装備されていた。荷重は14t。

30番台(マニ37 31・32)
スロ51形から改造された。
60番台(マニ37 61 - 64、電気暖房付きは基本番号+2000)
スロフ53形から改造された。
100番台(マニ37 101 - 103)
スロネ30形から改造された。
200番台(マニ37 205)
マニ37 64から改造された。(14系座席車)と併結可能なようにブレーキ装置を変更した。
他の200番台は60系に属する。

30・60・100番台の各番台ともに台車はTR40BからTR23に振り替えられている。荷物車化の際、前位に新たに出入台が設けられた。

他に0・150番台が存在したが0番台は60系、150番台はスハ32系に属する。

救援車

スエ31形

0番台(スエ31 79・182・186)
1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけてマニ35 2204・マニ35 2203・マニ35 2221から改造された。該当車両は1987年(昭和62年)までに全車が廃車された。
他の0番台はスハ32系オハ35系に、他の100番台はオハ35系にそれぞれ属する。

オエ61形

600番台(オエ61 602)
マニ37 102を1981年(昭和56年)に幡生工場で改造した救援車で、外部色は青15号からぶどう色2号に変更された。
改造後は広島運転所(広ヒロ)に配置され、1987年(昭和62年)に廃車された。
他の600番台は60系とスハ32系に属する。他に0・300の各番台が存在したが、0番台は60系に属し、300番台はスハ32系とオハ35系と60系に属する車両が混在する。

職用車

スヤ42形

2次形(スヤ42 2 - 4)
スハ43形を改造した保健車。国鉄職員の健康診断を行うための巡回車両で、車内にレントゲン室、暗室、聴力検査室、診察室などを設けた。駅構内での留置状態で用いられることが多いため、その間の暖房用として温気暖房装置を搭載している。北海道内で用いられたが、1986年(昭和61年)までに全車が廃車された。
なお、スヤ42形は(他に1両が存在した)が、マロネ40形を改造した車両である。

スヤ52形

保健車の増備のため、スヤ52 1はスロフ52形、スヤ52 2 - 4はスロ52形、スヤ52 5はスロフ51形、スヤ52 6はスロ51形からそれぞれ改造された。外観は一部窓が埋められているがほぼ原形を保っていた。スヤ52 2・5は単独で使用されるため両デッキ式に改造され、それぞれに入口、出口の表示があった。スヤ52 3・6は機器搬入出用の増設扉が特徴である。床下には独立した温気暖房装置を備え、構内に長時間留置中でも自車で暖房が可能である。スヤ52 1・6は2両1組で使用された。1986年(昭和61年)までに全車が廃車された。

スハ44系

 
スハフ43 3(琴平駅、1985年)
 
スハフ43 19(1981年)

1951年(昭和26年)に特急列車のサービス改善を目的として、戦前のスハ33形に相当する専用三等客車が設計された。

基本構造はスハ43形に準ずるが、デッキは特別二等車並みに片側のみとされ、車内は、2列配置の一方向き固定クロスシート[注 11]がシートピッチ835 mmで通路の左右に配置されるなど、戦災復旧車の70系や、窮屈な60系鋼体化客車が当たり前に使われていた当時の一般向け三等客車とは比較にならない、普通二等車(「並ロ」と呼ばれた)並みの高水準なアコモデーションを備えていた。

このグループとしては、基幹形式であるスハ44形(スハ44 1 - 34)、緩急車として車掌室や手ブレーキ装置を持つスハフ43形(スハフ43 1 - 3)、それに緩急車としての機能に加えて荷物室を持つスハニ35形(スハニ35 1 - 12)の3形式49両が製造されている。

新造後は当初の計画通り、東海道本線特急「つばめ」・「はと」東北本線特急「はつかり」などの特急列車を中心に使用されたが、昼行特急はスピードアップのために電車化あるいは気動車化され、夜行特急は20系車両を使用した寝台車主体の寝台特急、いわゆる「ブルートレイン」に移行したため、冷房化されることもなく一般形車両に格下げ運用された。なお、この格下げに際して回転クロスシートに改修しているが、シートピッチの関係で向かい合わせ使用は不可能であった。また、スハニ35形は後に近代化改造工事で回転シートになった3両を除き、特急時代の一方向固定式のままであった。

1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけてスハ44形14両(スハ44 9 - 22)が緩急車に改造され、スハフ43形10番台(スハフ43 11 - 24)となった。車掌室が0番台は出入口の外側にあるのに対して、10番台は出入口の内側にあるのが特徴である。また、1962年(昭和37年)にはスハニ35形2両(スハニ35 2・3)が(オシ16形)改造の際、改造種車のTR23とTR47の振り替え対象となり、背摺りを木製で垂直のものに交換して、オハニ40形(同一番号)となったが、これらを含めてスハニ35形は全車、1965年(昭和40年)以降荷物車であるマニ35形・マニ36形や教習車オヤ33形に改造され、1970年(昭和45年)までに消滅している。

近代化工事

特急列車の相次ぐ電車・気動車化で余剰となったスハ44系について、観光団体専用列車や急行列車などへの転用が実施されることになった際、一つの問題が生じた。

それは、本系列の座席が終端駅での編成全体のデルタ線による方向転換を前提とする一方向固定式クロスシートであり、そのような運用が困難な団体列車や急行列車での使用に適さなかったこと[注 12]であった。

そこで団体・急行列車に転用される車両は各車の回転式クロスシートへの交換工事が実施されたが、これにあわせ、10系客車などと比較して陳腐化が目立ち始めていた、内装の近代化改修もあわせて実施することとなった。

このスハ44系の近代化工事は時期により窓枠の構造が変更されたため、2種に大別される。

  • スハ44 1 - 8・スハフ43 11 - 24・スハニ35 4 - 6
    • 最初の近代化工事施工車。1960年度に施工され、客室窓枠のアルミサッシへの変更、照明の蛍光灯化、座席の回転クロスシート化、内張りの木材からメラミン樹脂化粧板への張り替え、客用扉の交換などである。このため無塗装のアルミサッシ窓枠に10系客車に準じた客用扉を備え、塗装も青15号を基本に車体裾部にクリーム色の帯を巻いた当時の観光団体列車専用塗装に変更されたため、新造時とは見違えるような近代的な外観となった。
  • スハ44 23 - 34・スハフ43 1 - 3
    • 改造コスト削減のため、窓枠のアルミサッシ化と内張りの変更が見送られ、客用ドアの交換も行っていない。ただし、後にドアを交換した車両は幾つか存在する。
    • 照明は、最初の近代化工事施工グループが直管の蛍光灯を使用しているのに対し、このグループは従来の灯具位置に設置可能な円環型の蛍光灯を使用している。客室内張りは、コストダウンのため従来のベニヤ板を塗りつぶす形となった。これも上記のグループが淡緑色系なのに対し、このグループは暖色系になっている。ただし、1975年(昭和50年)に四国総局に転属したスハフ43 2・3は1976年(昭和51年)・1977年(昭和52年)に多度津工場で体質改善工事を施工されている。このうち、スハフ43 3はトイレ、洗面所の窓がHゴム支持の固定窓となり、ウインドヘッダーも窓の上で切れている。
    • なお、本グループは当初車体色がぶどう色2号で出場している。

これらの近代化改造工事を施工されたグループは、当初は観光団体列車にオハネ17形などとともに運用され、東京 - 伊東間の臨時準急「いこい」にも使用されていたが、1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業後は、幹線系統の急行列車の普通指定席車に充当されるようになり、「瀬戸」・「明星」・「銀河」・「日南」・「つくし」・「さんべ」などの東海道山陽線夜行急行を主体に使用された。

その後は1970年代以降格上げによる特急列車への種別変更と、1975年(昭和50年)の山陽新幹線博多開業で急行列車が激減し[注 13]、また車両そのものの老朽化も進行したことから、最後まで本系列を使用していた急行「銀河」については20系客車への置き換えが決定され、1976年(昭和51年)をもってスハ44形の全車廃車と本系列の急行運用消滅となった。

もっとも、老朽化していたとはいえ60系よりは格段に良好なコンディションであったこともあり、車掌台付きのスハフ43形についてはその大半が当時大量の60系客車を抱えていた四国総局への転属の手配がとられ、体質改善工事などの大がかりな更新修繕工事を実施の上で、国鉄分割民営化直前まで使用され続けた。

その後、1986年(昭和61年)に財団法人日本ナショナルトラストの活動により、スハフ43 2・3の2両[注 14]が同団体に払い下げられ、現在も大井川鐵道で動態保存されている。

私鉄の同形車両

紀勢本線への乗り入れ列車を運行していた南海電気鉄道が、その専用客車としてスハ43形をベースとしたサハ4801形客車を保有していた。

海外向け新車

本形式が製造されていた時期から1970年代にかけて、日本は工業製品の輸出の一環として、造船(1960年代より自動車類も含む)とともに鉄道車両の輸出に力を入れていた。そのため、世界各地の鉄道において需要の高い客車の輸出も多く行われ、それらの多くは当時の日本国鉄の代表的な客車であった本形式を基礎としたものであった。以下にそれを述べる。

  • ブラジル(国営ノルデスチ鉄道)(ポルトガル語版)向け - 1957年(昭和32年)から翌1958年(昭和33年)にかけて、富士重工業(現・SUBARU)において製造。側窓のシル・ヘッダーを持たない、全長は約15 - 16 m、幅は約2.7 mの少し小柄な車両で、日本国鉄10系と類似した車体軽量化技術が導入されている点が特徴。一等車・二等車・近郊列車用三等車・食堂車・荷物車があり、近郊列車用三等車は2021年令和3年)現在も同国東北部のマセイオの近郊列車で現役を続けている[14]。なお、類似するものの側窓のシルおよびヘッダーを持つ形態の客車が同国の(サンタ・マチルジ工業)(ポルトガル語版)において1950年代の前半から製造されており、実際の運用でこの客車と混結されるほか、この客車の導入後に同社において多少の設計変更を施した車両が大量に製造された[注 15]
  • フィリピンマニラ鉄道→国鉄/(パナイ鉄道)(英語版)向け - GHQによる占領時の1949年(昭和24年)から日本国鉄12系・14系客車の製造開始後の1973年(昭和48年)にかけて、川崎車輛、日本車輌、新潟鐵工所、近畿車輛、帝国車輛、東急車輛、汽車製造、日立製作所、ナニワ工機→アルナ工機において製造、形式は7A - 7Sほか。パナイ鉄道向けは日立製作所のみが担当。側窓のシル・ヘッダーのない軽快な見た目の車両で、全長は約21 - 22 m、幅は約2.9 - 3 m。三等車・展望室付き三等車・一等車・冷房付き一等車・荷物車・荷物電源車・寝台車・食堂車と多岐に渡る種類があり、冷房付きの車両を編成に含む場合は荷物電源車から冷房用の電源を確保する仕組み(集中電源方式)を採用している。車内の座席配置は三等車が通路を挟んで左右に2人掛けと3人掛けのボックス席が並ぶもの、一等車が通路を挟んで左右に2人掛けの回転リクライニング席が並ぶもので、両方とも日本国鉄用のものとほぼ同様。
  • 台湾鐵路管理局向け - 1951年(昭和26年)から1970年(昭和45年)にかけて、川崎車輛、東急車輛、富士車輌、近畿車輛、汽車製造、新潟鐵工所、日立製作所、日本車輌において製造。最高時速110 kmに対応する特甲客車、最高時速100 kmの甲種客車、最高時速85 kmの乙種客車に分かれ、特甲客車には莒光号用の冷房付き客車および冷房用電源を搭載する荷物電源車が、甲種客車には2020年(令和2年)まで普快車として運用されていた客車が、乙種客車には乗降扉が車体中央寄りに設置されている近郊・通勤用客車がそれぞれの代表的な車両として該当する。一部の優等車両を除き、基本的に側窓のシル・ヘッダーはない。車体幅や全長は本形式43系とほぼ同様であるが、1956年(昭和31年)から翌1957年(昭和32年)に川崎車輛にて製造されたTP/TPK32600形は車体長が17 m級となっている。
  • インドネシア・国鉄向け - 1963年(昭和38年)から1983年(昭和58年)にかけて、日本車輌、川崎車輛、富士重工業、日立製作所、近畿車輛にて製造。本形式および10系客車を基礎・参考としつつ、インドネシア独自の車両限界に適応するように工夫がなされており、車体長は本形式とほぼ同様ながら、車体幅は約3.1 - 3.2 mと広く、車体高は建築物の限界に支障しないようやや低くなっている点が特徴。1985年以降は日本車輌の主導で同国の鉄道車両メーカー、インダストリ・クレタ・アピへの技術移転が行われ、以降2017年に至るまでこの車両を基礎とした客車が継続して製造されている。一等車・二等車・三等車があり、一等車は通路を挟んで2人掛けの回転リクライニング席(日本国鉄用のR20系列と同様のもの)が、二等車は通路を挟んで2人掛けのボックス席ないし通路を挟んで2人掛けと3人掛けの転換クロス座席[注 16]が、三等車は通路を挟んで2人掛けと3人掛けのボックス席が並ぶ座席配置であるが、三等車には簡易厨房を持つものがあり、また一等車は二等および三等車からの格上げ改造となっている[注 17]
  • タイ国鉄向け - フィリピン向けと同様、GHQ支配下の1949年より、日本車輌、川崎車輛、近畿車輛、東急車輛、汽車製造、宇都宮車両(のちの富士重工業)、富士車輌、日立製作所、ナニワ工機にて製造。側窓のシル・ヘッダーはなく、全長は約17 - 19 m、幅は約2.7 mと少々小ぶりな車両で、一等車・二等車・三等車・荷物車・食堂車および貴賓車の種類がある。1960年代以降に製造された車両は本形式から10系客車に基礎が変更されており、それに伴い軽量化がなされている。
  • ビルマ国鉄向け - 1954年(昭和29年)から1979年(昭和54年)にかけて、日立製作所、近畿車輛、川崎重工業、汽車製造、輸送機工業にて製造。こちらもほかの車両と同様、さまざまな種類があるが、ビルマはイギリス領インドの支配下にあったことから、「インド規格」と呼ばれる、地域独自の規格に沿って製造された点が特徴。1960年代以降は台枠と台車のみを輸出のうえ、同国鉄のミンゲ工場において車体の製造および艤装を行うノックダウン生産も始まったほか、1980年代以降は類似した形態の車両が大韓民国および中華人民共和国インドの鉄道車両メーカーより製造・輸出されている。

現状

後に登場した10系軽量客車グループは車体構造などの問題から劣化が進行し早期に大量廃車となったが、本系統車両群は頑丈かつ丁寧な造りから、21世紀の現在でも本線上で運行される車両がある。

稼動車両

  • 東日本旅客鉄道(JR東日本) - スハフ42 2173・2234・オハ47 2246・2261・2266
    高崎車両センターにスハフ42形が2両配置されオハニ36 11およびスハフ32 2357とともにイベント列車等で運用される。
    スハフ42形2両は、近年デジタル無線取り付け工事も施工され車掌室側妻面上部にデジタル無線用アンテナが追加装備された。
    2011年(平成23年)には全車両を対象に以下の整備工事が同年早春に同センター内で施工された。
    JR北海道所有車と同じ方式の集中鎖錠装置を搭載し乗降ドアを半自動化(電磁石により固定されたすべてのドアを磁力解放時にクローザーの引力を利用して閉めた状態でスイッチ操作によりロックを行う)。
    オハ47形のトイレを従来の線路垂れ流し和式から汚物処理装置を備えた洋式に改造(それ以前はスハフ42 2173が現存する旧形客車で唯一汚物処理装置を備えたトイレが使用可能な車両であり、他の車両のトイレは整備されておらず「使用停止」措置が採られていた)。この工事と引き換えにスハフ42 2173はトイレ室を機械室に変更され、さらに2020年にはラウンジカーに改造された[15]
    バッテリーの再整備を実施し、スハフ42 2173・2234は尾灯のLED化を施工。
    工事完了後初の営業運転は2011年(平成23年)4月29日運行の「ELレトロ横川号」からで、蒸気暖房装置は同年初冬に整備が行われ、2012年(平成24年)2月に運行された「SL内房100周年記念号」から使用が再開された。また同年9月にはスハフ42 2173を皮切りに室内灯を従来の蛍光灯から白熱灯風の雰囲気を模したLED灯に交換する工事が施工された。
  • 大井川鐵道 - オハ47 81・380・398・512・スハフ42 184・186・286・304・スハフ43 2・3
    大井川本線オハ35系等とともに主に「かわね路号」で運用される。
    スハフ43形2両はオハニ36 7とともに日本ナショナルトラストの所有である。
    スハフ42形全車とオハ47 81は電気暖房設備付きであったが、撤去されたため車両番号が-2000され原番号に復帰している。
    オハ47 380・398・512は元オハ46形で、同鉄道譲渡後にはオハ47形に改形式されている(形式変更のみであり車両番号とTR47形台車はそのままである)。
    2014年(平成26年)より「きかんしゃトーマス号」運行用として、スハフ42 186とスハフ43形を除いた7両の塗装が従来の青15号またはぶどう色2号から劇中の客車を模したオレンジ色に変更されている。
  • 津軽鉄道 - オハ46 2・3
    1983年(昭和58年)に譲渡され、国鉄時代の車両番号オハ46 2612・2662から改番された。
    イベント・団体列車や冬季ストーブ列車で運用されるが、機関車からの蒸気暖房が通っていないためダルマストーブが各車に設置されている。

静態保存車

北海道に多い。

43系客車保存車一覧
画像 番号 所在地 備考
  オハ47 508 北海道網走市字卯原内
卯原内交通公園
(旧卯原内駅跡)
49643と連結されている。
  スハフ42 502 北海道網走郡津別町字相生83-1
道の駅あいおい
(旧北見相生駅跡)
 
2009年8月8日
スハ45 17 北海道紋別郡湧別町計呂地2620
計呂地交通公園
(旧計呂地駅跡)
C58 139およびオハ62 91と連結され、夏期には簡易宿泊施設として営業する。以前は左写真のように青色に塗装されていたが現在ではぶどう色に塗り直されている。現役時代は近代化改造され青色塗装であった。
スハ43 703 北海道紋別郡遠軽町丸瀬布上武利80
丸瀬布森林公園いこいの森
スヤ42 4 北海道北見市常呂町字吉野137
NPO自然体験村 虫夢ところ昆虫の家
館内施設として使用。
スハフ42 522 北海道川上郡弟子屈町川湯駅前3丁目2-10
川湯温泉 ホテルパークウェイ
カラオケルームとして使用。
スヤ52 2 北海道上川郡美瑛町幸町4丁目3
ライダーハウス蜂の宿
ライダーハウスに併設の居酒屋として使用されている。
スハ45 37
スハフ42 519
北海道沙流郡平取町振内町20-4
振内鉄道資料館
振内駅跡)
ライダーハウスとして使用されており、5月から9月の間は宿泊が可能。
  スハフ44 11
スハフ44 27
北海道夕張郡由仁町川端1110-8
ユニトピア川端パークゴルフ場跡
C62ニセコ号で運用された車両である[16]。C62ニセコ号の運行終了により廃車となりパークゴルフ場の施設として当地に設置されたが、ゴルフ場の閉鎖に伴い放置状態となっている。
スハ45 20
スハフ44 12
オハフ46 504
北海道三笠市幌内町2丁目287
三笠鉄道村
  スハ45 25 北海道勇払郡安平町追分白樺2丁目14
安平町鉄道資料館
スハ45 26 北海道勇払郡むかわ町穂別冨内61
富内鉄道公園
(旧富内駅跡)
ライダーハウスとして使用。
スハ45 14
スハフ44 1
北海道小樽市手宮1丁目3-6
小樽市総合博物館
スハ43 717 (北海道小樽市手宮1丁目3-7) イタリア料理店「リストランテ トレノ」の店舗として使用されていた(同店は国鉄の客車などを改装して1984年に小樽市高島に開店し、その後、小樽市総合博物館敷地内に車両を移送して営業していた[17]。車両は国鉄ワフ29500形貨車と連結。しかし、2021年11月3日に閉店した[17])。
  スハフ44 6
スハフ44 7
北海道小樽市朝里川温泉130
北海道ワイン本社
C62ニセコ号で運用された車両。59614D51 286と連結されている。
オハフ46 501 北海道虻田郡倶知安町北4条東9丁目
六郷鉄道記念公園(旧六郷駅跡)
ヨ7913と連結されている。
スハフ42 507 北海道岩内郡共和町南幌似38-2
幌似鉄道記念公園
(旧幌似駅跡)
ワフ29587と連結されている。
スハフ42 506 北海道久遠郡せたな町北檜山区二俣58-4
バーベキューハウスメーメー
道の駅てっくいランド大成で飲食店として使用後、同町内の「バーベキューハウスメーメー」に移設し店舗として使用。
オハフ46

2005

岩手県遠野市 車体はビアステーション恵比寿として静態保存されていた。閉店後に目白へ移転、目白倶楽部となったがそこも閉店、車体が一ノ関市で保管されていた。

2020年、岩手県遠野市へ移設。阿寒炭鉱と鉄道館で保存されていたオハフ62 95の台車TR11と組み合わされ(オハフ62の車体は解体済み)保存されている。 客車は床下機器が撤去されており、恵比寿の頃に車端部を展望車風に改造されている。正規の台車でないため、現役当時の頃とは若干の差異がある。

スハフ42 2052 茨城県結城市結城10584
富士見幼稚園
客車劇場・客車文庫として使用。
スハフ44 25 栃木県真岡市台町2474-6
真岡駅 SLキューロク館
元々は船の科学館フローティングパビリオン羊蹄丸」船内で展示されていたが、同船の展示廃止・(解体)により同車がオークションにかけられ、真岡鐵道が落札入手した[18][19]
  スハフ42 2067
スハ43 2166
オハ47 2232
オハ47 2327
スハ43 2326
スハ43 2345

オハ47 2058
オハ47 2025
オハ47 2071
オハ47 2300
スハ43 2481
スハフ42 2069

スハフ42 2143
オハ47 2029
オハ47 2027
オハ47 2258
スハ43 2479
スハフ42 2432

新潟県南魚沼郡湯沢町土樽
湯沢中里スノーリゾート
休憩室として利用。塗装は青地に白帯となっている。
7号車(オハ47 2058)は撤去されている。[20][21]
スハ43 321 愛知県名古屋市港区金城ふ頭3丁目2-2
リニア・鉄道館
  オハ46 13 京都府京都市下京区観喜寺町
京都鉄道博物館
2011年(平成23年)10月31日付で廃車[22]
スハフ42 218 福岡県直方市大字頓野550-1
汽車倶楽部
※非公開
鞍手町歴史民俗資料館で保存されていたが、老朽化が進行したため2003年(平成15年)に譲渡。譲渡時に半分にカットされ、車掌室側のみ保管されている。
保存後に解体された車両
スハフ42 510 北海道網走市
湧網線能取駅ホーム跡
2006年(平成18年)に(解体)
スハフ44 4 北海道北見市
とれいん喫茶 ゆうもう線
喫茶店廃業後2006年(平成18年)解体
スハフ44 8
スハ45 15
スハ45 16
北海道釧路市
釧路駅構内「ツーリングトレイン釧路」
簡易列車ホテルとして使用[23]。1998年(平成10年)時点では現存。解体時期不明。
スヤ42 2 北海道帯広市 1997年(平成9年)時点では現存[24]。解体時期不明。
オハフ46 506 北海道河東郡上士幌町
上士幌町鉄道資料館
(旧士幌線上士幌駅跡)
2010年(平成22年)解体
スハ43 711
スハフ44 15
北海道富良野市 富良野駅前で「ツーリングトレインフラノ」として使用されていたが[23]、駅改装の際に個人に売却。解体時期不明。
スハ45 2 北海道江別市大麻中町
レストラン時館
大麻駅前)
2009年(平成21年)に解体
スハ45 19
スハ45 48
スハ45 49
スハ45 51
北海道室蘭市本輪西町
ウインズ室蘭
2012年(平成24年)までに解体
スハ45 40 北海道余市郡余市町
ソーラン号ラーメン列車
ラーメン店店舗として使用。2014年(平成26年)6月ごろ解体。
  オハ47 2079
オハ47 2235
石川県白山市
松任青少年宿泊研修センター
2014年(平成26年)12月解体。同所は少年の家として利用されていた宿泊施設

で、車両は子供の憧れである国鉄特急を思わせる朱色クリーム色の塗装が施されていた。 同所にED70-57も保存されていたが、同時期に解体撤去されている。

オハフ46 2029 福井県武生市
金華山やまぼうし高原
2007年(平成19年)ごろ解体
スハフ42 2105 静岡県静岡市清水区
フェルケール博物館屋外展示場
2010年(平成22年)6月に解体
オハフ46 2008
オハフ46 2009
オハフ46 2027
静岡県浜松市中区南伊場町1-1
JR東海浜松工場
2013年(平成25年)9月解体
オハ47 2080 静岡県天竜市阿蔵(当時)
天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅構内
1999年(平成11年)解体
スハ43 275 徳島県板野郡上板町
上板町歴史民俗資料館
展示室として使用。2017年(平成29年)ごろに解体。
オハ47 107
オハ47 129
徳島県板野郡藍住町
阿波っ子ステーション
レストランとして使用していた。2017年(平成29年)ごろに解体。 

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 本形式に限らず、10系以前の客車は三等車(普通車)に関してはデッキを有するクロスシートで製造され、独立した便所と洗面所も備える。戦災復旧車とオハニ63形(のちのオハニ36形)以外の鋼体化改造車を除いて長距離優等列車への投入が優先されていた。
  2. ^ (買い出し列車)やラッシュアワーのすし詰め状態となる通勤電車(TR23系台車は電車の付随車にも使用された)を除けば、平常ではあり得ない過大荷重である。
  3. ^ 社内呼称FS-1、のちのDT14。
  4. ^ 板ばね同士が重なる箇所の摩擦(板間摩擦)を減らすことで、微小荷重域からばねがよく動くようになり、乗り心地が改善する。
  5. ^ 旧形客車改造の軽量寝台車(オハネ17形)制作時には、乗り心地改善のために大量に捻出転用され(この結果、新形式のオハ47形・オハフ46形が出現した)、さらに、はるか後年の(オリエント急行日本運行)(1988年)に際しては、搭載車の自重が「マ」級以上となることからばね定数の変更を実施し、オリエント急行用客車の日本国内運行用台車に流用された。
  6. ^ 1960年代以降、近代化改造工事に併せてサークライン型の蛍光灯に交換されている。
  7. ^ 現代の車両では乳白色のものが採用されている。
  8. ^ 4両すべてが保存・再利用されている。
  9. ^ スハフ42の初期ロットであるスハフ42 18をスハ42→オハ36と同等のメニューで改造したオハフ33 630は存在する。
  10. ^ スロ51 - 54などの優等車形式は台枠の井桁構造(特に中梁部分)が戦前型に近い高さ250 mm形鋼で構成されるのに対し、スハ43など三等車グループでは車端衝撃に対する強度引き上げのため高さ200 mm形鋼の中梁の上に100 mm高の横梁を載せる形に変わっている。結果台枠の全体高さは50 mm増の300 mmとなるが、客車の床面高さは同じため、心皿面を50 mm引き下げている。
  11. ^ 当時の特急列車では、終端駅で編成単位での方向転換を実施し、展望車が最後尾となるようにするのが常識であり、本系列の一方向固定クロスシートの採用も、その常識が前提であった。
  12. ^ これは本来の用途である特急でも問題となった。京都 - 博多間運行であった特急「かもめ」では、京都方では梅小路付近のデルタ線使用で比較的短時間での方向転換が可能であったものの、博多方での編成の方向転換では博多駅界隈にデルタ線がなかったことから博多駅→吉塚駅志免駅酒殿駅香椎駅→吉塚駅→博多駅と福岡近郊の路線群を引き回す必要があった。その作業には実に1時間43分もの時間が浪費され、費用面でも深刻な問題であったため、早期に10系客車への置き換えが実施されている。
  13. ^ この時廃止されずに残った山陽線の夜行急行については、スハ44系の後継車というべき(14系座席車)に置き換えられた。
  14. ^ 当初はスハ44形の面影を留めるスハフ43 11 - 24の譲受を希望していたが、交渉の段階で既に最後の1両が飲食店に払い下げられており、やむなくこれら2両の譲受となったという(「鉄道ジャーナル」1987年10月号 走りはじめたトラストトレイン p.114)
  15. ^ サンタ・マチルジ工業製の一部車両は木造客車の鋼体化により誕生している。このほかにもブラジルにおいては木造客車の鋼体化が多く行われ、意図したものではないものの、その多くは日本国鉄の43系や60系客車と類似した外観となった。
  16. ^ 日本国鉄の「並ロ」に類似した仕様である。
  17. ^ ほぼ時を同じくして同様の車両がヨーロッパ数か国のメーカにも発注されており、二等車と三等車については日本製車両とほぼ同じ仕様を持つが、新製一等車の発注はそちらにのみ行われた。

出典

  1. ^ 「特集 スハ43系 I」『鉄道ピクトリアル』No. 718、電気車研究会、2002年6月、4頁。 
  2. ^ 『国鉄車両一覧 昭和61年11月1日現在』日本交通公社出版事業局、1987年1月、206頁。ISBN (4-533-00752-X)。 同書によれば「形式40番代は戦後に製造された特急・急行用の客車」と説明している。
  3. ^ 寺本光照『さよなら急行列車』JTBパブリッシングキャンブックス〉、2016年2月、88頁。ISBN (978-4-533-10882-2)。 
  4. ^ 『戦後日本の鉄道車両』 p. 88
  5. ^ 『J-train』 vol. 25 p. 41
  6. ^ 鉄道ファン』第413号、交友社、1995年9月、50頁。 
  7. ^ Rail Magazine』Vol. 336、ネコ・パブリッシング、2011年9月、9頁。 
  8. ^ 『Rail Magazine』Vol. 412、ネコ・パブリッシング、2018年1月、73頁。 
  9. ^ 岡田誠一『国鉄鋼製客車』 I、JTBパブリッシング、2008年12月、239頁。ISBN (978-4-533-07318-2)。 
  10. ^ 『J-train』vol. 25 p. 27
  11. ^ 『戦後日本の鉄道車両』 p. 90
  12. ^ 「特集 スハ43系 (I)」『鉄道ピクトリアル』No. 718、電気車研究会、2002年6月。 
  13. ^ 「回想の旅客車 下―特ロ・ハネ・こだまの時代」星 晃 (著) pp58.59
  14. ^ ブラジル都市鉄道公社マセイオ局 (2021年2月20日). “Uma nova plataforma de embarque acaba de entrar em funcionamento na Estação Utinga.”. Facebook. 2021年5月7日閲覧。
  15. ^ 「JR東日本、旧客を改装したラウンジカーを報道陣に公開」『『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース』交友社、2020年3月12日。2022年3月3日閲覧。
  16. ^ 田中雅章「」『北海道新聞』北海道新聞社(どうしんウェブ/電子版(社会))、2015年10月4日。2015年10月4日閲覧。オリジナルの2015年10月4日時点におけるアーカイブ。
  17. ^ a b 「鉄道車両を店舗に 小樽のイタリアン「トレノ」3日閉店 37年の歴史に幕」『北海道新聞』、2021年11月3日。2022年3月3日閲覧。
  18. ^ 「真岡駅「SLキューロク館」がオープン」『『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース』、2013年4月29日。2013年9月10日閲覧。
  19. ^ 「スハフ44 25が真岡駅構内に到着」『『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース』、2012年7月11日。2022年3月3日閲覧。
  20. ^ 越後中里の旧型客車群
  21. ^ 全国保存客車リスト2 越後中里駅前スキー場
  22. ^ 『鉄道ファン』、交友社、2012年7月、[] 
  23. ^ a b 『鉄道ファン』通巻457号、交友社、1999年5月、118 - 119頁。 
  24. ^ 『鉄道ファン』通巻441号、交友社、1998年1月、112頁。 

参考文献

関連項目

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。