『HOUSE ハウス』は、1977年公開の日本映画。ファンタジータッチのホラー・コメディ作品[5][6][7][8]。カラー、スタンダード[1]。同時上映は『(泥だらけの純情)』[1]。
概要
CM監督として活動していた大林宣彦の初劇場用映画監督作品[4][9][14][15][16][17]。元祖"Jホラー(ジャパニーズホラー)"とも[18][19]、元祖"アイドル×ホラー"とも評される[20][21][22][注釈 1]。大林宣彦はのちに尾道三部作『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)を制作して代表作とする[14]。
当時は東宝のようなメジャーな映画会社の映画を[注釈 2]、映画会社の社員でない監督が製作するというのは有り得ない時代[11][24][25][26][27]。とかくテーマ主義に走り、映像への配慮があまりなされていなかった当時の日本映画の中で[28]、ポップな色彩とおもちゃ箱をひっくり返したような華麗な映像世界は世の映画少年を熱狂させた[10][12][15][25][27][29][30][17][31]。客層は15歳以下で[12][32][33]、一部の劇場ではメイン作のモモトモ映画『(泥だらけの純情)』に代わり、メイン作に変更された[12][27]。公開後に大林は「観客の8割に否定された」と話し、熱狂的な支持は若年層だけで、「こんなものを見せるとは何事だ」と劇場に怒鳴り込んだ客もいたといわれ、山根貞男は「CFテクニックのオンパレード。耐えられない、我慢ならない」と[34]、大半の批評家からも「CM風に映像を数珠つなぎにしたカタログ的映画」などと酷評された[12]。東宝の本作品の前番組は、橋本プロがイニシアティブを執った『八甲田山』、後番組は東宝が角川ブームに便乗して作った『獄門島』であった[12]。本作品の成功は日本映画界に、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身の映画監督の出現という新たな流れを生み出した[10][12][23][26][27][30][35][36][37][38]。ぴあフィルムフェスティバル(PFF)は、『HOUSE』公開と同じ年の1977年暮れから始まったものだが、本作品公開以降、PFFの応募用紙に「最も尊敬する監督が大林宣彦。最も影響を受けた映画は『HOUSE』」と記入する者が圧倒的に増え、古い映画人は隔世の感に驚いたと言われる[23]。『転校生』を救った逸話でも知られる大森一樹監督は、本作品を観て、自身の監督デビュー作『オレンジロード急行』の撮影を阪本善尚に依頼し、阪本の手練れの温厚なるリードによって『オレンジロード急行』の現場は円滑に進んだといわれる[39]。犬童一心は「大林宣彦の轍を辿って私たちがいる。『HOUSE』や大林さんの初期の商業作品に対して、当時の映画評論家の多くは、自身の感性に合わないと恐れ酷評した。10代だった私は本当にダメな大人たちだと思い、心底がっかりした」などと述べている[40]。井口昇は小2の夏休みに『HOUSE』の存在を知ったが、大場久美子が生首にお尻を噛みつかれるシーンが怖すぎ、『HOUSE』恐怖症になって映画館に行けず、数年経ってテレビで観て「頭どころか細胞が全て入れ替わるほどの衝撃を受けた。未知の異世界として魅了されたことは勿論、池上季実子を始め、ヒロインたちの魅力をイキイキと引き出す撮り方に『女の子ってこんなに可愛く映画に写るものなんだ。今まで観た映画と全然違う!』と、その後の監督としての自身の意識に多大な影響を与えられた」などと話している[40]。三留まゆみは「8ミリ少年たちは『好きな女の子を好きなだけ撮っていいんだ!』と思ったんだよね。映画ってこんなに自由なんだって。何でもやっていいんだって、それが衝撃だったと思う」などと述べている[41]。
なお、本作品において大林はプロデューサーも兼ねているが、純粋の東宝映画を資金分担しない監督にプロデューサー兼任させるのは異例中の異例であり、特にプロデューサーシステムの総本山である東宝ではなおさらであった。わずかに市川崑のみが(この後十年程度にわたって)この待遇を得ているが、監督歴30年の大功労者と同じ待遇を思い切って外部新人に与えた東宝の、いわば大きな権限をもって大林に存分に腕を振るうことへの期待が現れている。撮影監督や特撮スタッフを東宝社外から導入することができたのも、その結果のひとつである。
原案者の(大林千茱萸)(ちぐみ)は大林監督の実娘で当時12歳の女子中学生だった[6][16][35][42]。娘が風呂上がりに鏡台の前で髪をとかしながら「鏡の中の私が私を食べに来たら怖いわよ」と言ったことにヒントを得て、『ジョーズ』を始め、当時流行していた動物が人を襲うアメリカのパニック映画と合わせ、家が丸ごと妖怪で、人を食べるというアイデアを思いついた[35][42][43]。
このころ、日本映画は大作洋画に押されて振るわず、特に若い観客は日本映画から離れていた[43]。原作がベストセラーか、人気漫画か、大スターが主役でないと映画化はされない、流行の後ばかり映画は追いかけていた[44]。大林自身「日本映画を見て育った人間としてそれじゃ淋しい。CMをそれまで作ってきた長い間に、僕と東洋現像所で開発した色んな技術を全部使って、今までにない日本映画を作ってやろうと思った」という製作の動機を話している。このため、映画のほとんど全シーンに何らかの特殊効果が使われており[26][45][46]、製作過程ではどんな映像が出来上がっているか判然とせず、製作担当者がやきもきしたといわれる[25]。本作品で用いられた特殊効果の技術の大部分は当時の東宝撮影所には無く、光学撮影技師の宮西武史を除いては、CMを手掛けてきた外部スタッフを使った[47]。特撮シーンも大林が手掛けたため、特撮監督の役職は設けられていない[16]。パナビジョンのキャメラを日本で初めて入れたり[注釈 3]、またコーディネイターという職種を導入したり[47]、今でいうスタイリストが映画に就いたのも本作品が最初といわれる[49]。
内容は羽臼(ハウス)屋敷を舞台にしたホラーであり、7人の美少女が夏休みを屋敷で過ごそうとやってくるが、実はその屋敷は人を喰らう妖怪であったため、少女たちは1人また1人と屋敷の餌食にされていく。少女が1人食べられるごとに屋敷の女主人は若返り、花嫁衣装を着られるようになる。ただし、少女たちが食べられる際の描写の大抵はシュールかつチープな特撮技術で処理されており、直接的な流血シーンは少ない。
大林は「作品を自分で売りたい」と、本作品の監督と同時にプロデューサーを兼ね、多くのマスメディアに登場して作品を売り込んだ[16][24][26][50]。また、主要出演者の7人はハウスガールズと呼ばれ、映画の宣伝のためにテレビや雑誌に登場した[12]。それ以外では、南田洋子が今までの経歴からは想像できないような役柄を演じ、歌手の尾崎紀世彦も三枚目キャラを演じた。さらに、当時はすでにスターだった三浦友和や檀ふみは、1分に満たないシーンであるもののストーリー上では重要な役柄で友情出演している。また、大林監督の家族(娘の千茱萸、恭子夫人)や小林亜星などの製作スタッフも出演している。
劇中でファンタが井戸から逃げてきた際にメロディーが「泥だらけの純情?」と言うシーンがあるが、これは、当時本作品と同時上映されていた山口百恵・三浦友和主演の映画タイトルでもある。一方、その『泥だらけの純情』にも、モブシーンでハウスのTシャツを着た若者(エキストラ)が登場する。
「HOUSE」という横文字の映画タイトルも、当時は珍しく画期的であった[35][43][47]。
10年後の1987年ごろ、続編の話が出て脚本段階までいったが、「"HOUSE"は1回限りのイベントだろう」と考えて止めたという[51]。
あらすじ
この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 |
闇夜に姿を現す美女の幽霊。幽霊の正体は女子高生のオシャレ(本名・木枯美雪)。音楽家を父に持ち、東京郊外のお嬢様学校に通う彼女は、お嬢様然とした風貌に反し、金持ち呼ばわりを嫌う明朗快活な現代っ子。演劇部のエースとして「化け猫伝説」の練習に励んでいたのである。親友で同じ演劇部のファンタもオシャレの勇姿を撮影していた。
夏休みが近いある日、オシャレは突然帰国した父から再婚相手を紹介されショックを受ける。夏休みに父や再婚相手と軽井沢に行きたくない彼女は、いつも演劇部の合宿先に利用していた旅館が一時休業になったと知らされ、代わりの合宿先に長年会っていなかった“おばちゃま”の家を提案してしまう。慌てた彼女は後からおばちゃまに訪問したい旨を手紙で伝え、許可をもらう。
そして、オシャレとその仲間たちは羽臼屋敷に向かう。しかし東郷先生が出発前に事故で遅れてしまい、部員だけで行くことになる。電車の中でオシャレはおばちゃまの悲劇を仲間に伝える。未来を約束されたはずだった最愛の婚約者に赤紙が届き、婚約者は戦地へ行ったきり帰らぬ人となってしまう。悲しみにくれるおばちゃまに追い討ちをかけるように、妹(オシャレの実母)の結婚式が行われる。
電車からバスに乗り換え、さらに徒歩で羽臼邸に到着。7人はおばちゃまに歓迎されるが、その後降り掛かる惨劇のことは予想だにしていなかった――。
舞台
オシャレたちの通う女子高は東京の郊外にある。少なくともオシャレは通学しており、他のメンバーも通学しているものと考えられる。
一方、羽臼邸は具体的な場所は不明だが、人里離れた山奥にあることだけは確かである。羽臼家はその昔開業医だったが、戦後過疎のためもあって屋敷の周辺は開発から取り残され、事実上交通手段を失ってしまった。
7人の少女たちはまず東京駅から特急か快速電車に乗り、次に路線バスに揺られ、森の中を徒歩で屋敷まで向かった。また、涼子は次の日の早朝、車で屋敷に向かった。前者はオシャレが屋敷の場所を知っていたため、後者はオシャレの父親から道順を聞いたらしく、いずれも無事到着できたが、東郷先生は途中道に迷い、結果到着できなかった。
一説によると、羽臼邸は未婚の娘以外には見えないという。
登場人物
本作品の7人の美少女の役名はあだ名であり、それまでの映画にはないユニークなものであった[26][52]。当時、演じる女優の所属事務所から「何とか名前を付けてもらえませんか。キャスティングできません」と言われたと大林は話している[47][52]。
- オシャレ - 池上季実子
- 本編のヒロイン。幼いころに母を亡くし、現在は父と父方の祖母との三人家族である。
- 外見は容姿端麗な典型的お嬢様だが(池上は当時18歳)[53]、実際は金持ち扱いされることを嫌う、少々甘えん坊だが明朗快活な現代っ子。
- 所属する演劇部では花形女優として活躍している。
- ニックネームはファッションやメイクに対して関心が高いことに由来。ちなみに本名は木枯美雪で、おばちゃまとの手紙のやり取りの中で判明する。
- 大好きな父の突然の再婚話に反発しており、新しい母親と軽井沢の別荘に行かずに済むように、部活仲間に夏休みの合宿先を羽臼邸にすることを提案する。
- ファンタ - 大場久美子
- オシャレの一番の親友。夢見がちで少々ドジっ子だが、明るく人懐っこい女の子。写真撮影が趣味で、常にカメラを携帯している。
- 東郷先生に好意を持っており、しばしば白馬にまたがる東郷先生の妄想を見る。
- ガリ - 松原愛
- メガネが特徴の優等生で委員長タイプ。本当は美少女なのだが、ど近眼のためメガネを外すと何も見えなくなってしまう。
- 少々口うるさいものの、しっかり者で仲間の面倒見も良い。
- 演劇部では彼女が部長兼脚本担当で、偶然発見した「化け猫伝説」を劇にして発表すべく奮闘している。
- クンフー - 神保美喜
- メンバーの中でも長身で、ニックネームの通り空手の達人。武闘派で正義感が強い一方で、友達思いで明るく気さくな性格の持ち主。
- 屋敷内でのタンクトップとブルマーといういでたちと、その人柄ゆえ、当時の男子中高生の間で断トツの人気を誇った。
- マック - (佐藤美恵子)
- 陽気で天真爛漫な、気のいい女の子。とにかく食いしん坊で、どの場面でも必ず食べ物を手にしている。
- 制服姿の時は一応髪を二つに結っているが、メンバーの中でも髪が短めで、判別がしやすい。
- ニックネームの由来は英語で「胃袋」を意味する「ストマック (stomach)」と、「マクドナルド」の通称から。
- スウィート - (宮子昌代)
- ふんわりカールのヘアスタイルに、当時流行だったガーリーなファッションを好む、乙女チックな女の子。
- 甘ったれでか弱いが、アットホームで大変優しい性格の持ち主。また、綺麗好きで家事は万能。
- 甘いを意味する「スウィート (sweet)」がニックネームの由来。
- 宮子は大林が長年構想していた"さびしんぼう"のヒロインに近いイメージを持っていた[44]。国鉄のCMで柳川に一緒に行ったとき、いつか映画をやろうと約束していたことが本作品の出演につながった[44]。この映画のあと人気も出たが、当人に欲が全くなく『(瞳の中の訪問者)』出演後、結婚を機に引退した[44]。大林が1998年、講演のために山形を訪れた際に宮子が和装で大林を訪問し、20年ぶりの再会を喜びあった[59]。当時宮子は某名家に嫁いでおり、義父が長く病床にあるため、「監督がこの街に来てると聞いて、お姑さんに15分だけお許しをもらって会いに来ました」と話したという[59]。意味合いは違うものの、結婚して旧い家に食べられてしまった映画を地でいく運命を辿っている[59]。
- メロディー - (田中エリ子)
- 音楽が大好きで、特技はピアノ演奏。
- 基本的には明るく良い子だが、今で言うところの天然系かつ不思議系キャラで、しばしばスベリギャグを口にする。
- 東郷圭介先生 - 尾崎紀世彦
- 7人が通う女子高の先生で、演劇部の顧問。明るく優しいがおっちょこちょいで少々頼りなく、部員からは呆れられている。ただしファンタからはベタぼれされており、予告編で白馬に乗り颯爽と登場する姿は実は彼女の妄想である。
- 階段で白い猫を避けようとして足を踏み外して転倒、軽傷だったものの尻がバケツに入ってしまい、病院で診てもらっていたために出発が遅れてしまう。そのため屋敷までの道順が分らなくなってしまい、7人を追って珍道中をする羽目になる。
- オシャレの父 - 笹沢左保
- 職業は音楽家。仕事柄、海外を飛び回ることが多い。イタリアで意気投合した涼子を連れ突然帰国、家族に再婚することを報告し、オシャレを困惑させる。結果的にとは言え、事件の元凶となった人物。
- 役名の名字は「木枯」だが、これは笹沢の代表作「木枯し紋次郎」に由来している。
- オシャレの母 - 池上季実子(一人二役)[16]
- おばちゃまにとっては実の妹に当たる。若くして亡くなっており、写真(遺影)でだけ登場。オシャレと瓜二つ。
- 西瓜を売る農夫 - 小林亜星
- 半袖シャツに半パン、麦藁帽子で「裸の大将」を彷彿とさせる格好をしたひょうきんな巨漢。
- 東郷先生に「スイカよりバナナが好き」と言われてショックを受け、なぜかガイコツになってしまう。
- 小林は本作品の音楽も一部担当している。
- 写真屋さん - 石上三登志
- ベレー帽に芸術家髯で、いかにも芸術家といった出で立ちの男性。
- オシャレの母の結婚式の記念撮影を担当。姉妹だからということで、白無垢姿で幸せまっただ中のオシャレの母と黒っぽい服で寂しげな表情のおばちゃまを一緒に撮影してしまう。
- 江馬涼子 - 鰐淵晴子
- オシャレの父の再婚相手。オシャレの父とはイタリアで出会った。
- 職業は宝飾デザイナー。そのせいかメイクもファッションも派手で、必ず長いスカーフを巻いている。
- 陽気で気が良く料理上手だが、世間知らずで超鈍感。それでなくても父の再婚など考えもしていなかったオシャレには快く思われていない。
- 何とかオシャレに気に入られようと、よせばいいのに後から羽臼家を訪れ、やはり食べられてしまう。
- 羽臼香麗(おばちゃま) - 南田洋子
- オシャレの母方の伯母。地元でピアノ講師をしていた。上品な感じの初老の女性で、オシャレたちハウスガールズがやって来た時は車椅子に乗って出迎えたが、途中からなぜか歩けるようになっている。
- 実は本編開始より数年前に既に死去しており、屋敷と一体化して若い女性を餌食にする化け物と化している。屋敷そのものが彼女の体となっており、屋敷に存在する家財道具などのあらゆる物体を操って若返りのために少女たちを餌食にしていく。
- 名前は「はうす かれい」と読む。由来は、『ハウス食品』のカレー。
- 寅さんに似た男[16] - 原一平
- 東郷先生が道中で出会った、車寅次郎のそっくりさん。中盤のコメディリリーフの1人。
- ラーメン屋の客[16] - 広瀬正一
- 東郷先生が中盤で出会うギャグメーカーの1人。熊が営んでいるラーメン屋でラーメンをすすっていた。映画『トラック野郎』シリーズのパロディであるらしい。
- 村の老人 - 大西康雅
- 中盤のコメディリリーフの1人、東郷先生が屋敷への道のりを聞くも、チンプンカンプンな解答ばかりする。
- オシャレの祖母[16] - 津路清子
- オシャレの父方の祖母。母が亡くなり、父も海外へ行くことが多いオシャレの面倒を見ている。
- 青年(おばちゃまのフィアンセ)[16] - 三浦友和 (友情出演)
- おばちゃまの最愛の人。医者で羽臼医院の跡取り(婿養子)としても羽臼家から期待されていたが、ある日赤紙が届いてしまう。おばちゃまに戦地から戻ったら結婚すると誓うも戦死。その事実を受け入れられないおばちゃまは、彼を待ち続けることになる。
- 彼の軍服姿の写真がおばちゃまの鏡台に置かれているのを、軽い好奇心でおばちゃまの部屋に入ったオシャレが発見する。
ノンクレジット出演者
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2022年2月) |
スタッフ
- 監督 - 大林宣彦
- 製作者 - 大林宣彦、山田順彦
- 企画 - 大林宣彦、角田健一郎
- 原案 - 大林千茱萸
- 脚本 - 桂千穂
- 助監督 - 小栗康平、(小倉洋二)
- 撮影 - 阪本善尚
- 美術 - 薩谷和夫
- 録音 - (伴利也)
- 照明 - 小島真二
- 殺陣 - 伊奈貫太
- 音楽 - 小林亜星、ミッキー吉野
- 演奏 - ゴダイゴ
- スチール - (中尾孝)
- 合成 - (松田博)
- 光学撮影 - 宮西武史
- 作画 - 石井義雄、(塚田猛昭)
- 制作担当 - (広川恭)
- ピクトリアルデザイン - 島村達雄
- 音響デザイン - (林昌平)
- ファッションコーディネーター - (吉田叡子)
- 演技事務 - (栗田実)、(中川原哲治)
- 製作宣伝 - 富山省吾
- 製作 - 東宝映像
音楽
『「ハウス」オリジナル・サウンドトラック』 | |
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ゴダイゴ の サウンド・トラック | |
リリース | |
ジャンル | ニューミュージック ロック 劇伴 |
時間 | |
レーベル | 日本コロムビア |
プロデュース | 小林亜星 ミッキー吉野 |
ゴダイゴ アルバム 年表 | |
『「ハウス」オリジナル・サウンドトラック』収録のシングル | |
『「ハウス」オリジナル・サウンドトラック』は、日本の(ロックバンド)・ゴダイゴが1977年6月25日に日本コロムビアから発売した2枚目のサウンドトラックである。
収録曲
全編曲: ミッキー吉野。 | |||
# | タイトル | 作曲 | 時間 |
---|---|---|---|
1. | 「ハウス-ハウスのテーマ」(MAIN THEME) | 小林亜星 | |
2. | 「バギー・ブギー」(BUGGY BOOGIE) | ミッキー吉野 | |
3. | 「ハングリー・ハウス・ブルース」(HUNGRY HOUSE BLUES) | スティーヴ・フォックス | |
4. | 「イート」(EAT) | ミッキー吉野 | |
5. | 「いつか見た夢-ハウスのテーマより」(SWEET DREAMS OF DAYS GONE BY) | 小林亜星 | |
6. | 「昨日来た手紙-ハウスのテーマより」(A LETTER IN THE PAST) | 小林亜星 | |
合計時間: |
全編曲: ミッキー吉野。 | ||||
# | タイトル | 作詞 | 作曲 | 時間 |
---|---|---|---|---|
7. | 「君は恋のチェリー」(CHERRIES WERE MADE FOR EATING) | H.E.R.Barnes | ミッキー吉野 | |
8. | 「イート・イート」(EAT EAT) | ミッキー吉野 | ||
9. | 「夜霧は銀の靴-ハウスのテーマより」(IN THE EVENING MIST) | 小林亜星 | ||
10. | 「西瓜売りのバナナ」(ORIENTAL MELON MAN) | ミッキー吉野 | ||
11. | 「イート・イート・イート」(EAT EAT EAT) | ミッキー吉野 | ||
12. | 「ハウスのふたり-ハウス愛のテーマ」(LOVE THEME) | 橋本淳 | 小林亜星 | |
合計時間: |
解説
- ハウス-ハウスのテーマ
- 4thシングルのカップリング曲。
- バギー・ブギー
- ハングリー・ハウス・ブルース
- この楽曲だけモノラル録音で制作された。
- イート
- いつか見た夢-ハウスのテーマより
- 昨日来た手紙-ハウスのテーマより
- 君は恋のチェリー
- 5thシングルの表題曲。
- イート・イート
- 夜霧は銀の靴-ハウスのテーマより
- 西瓜売りのバナナ
- イート・イート・イート
- ハウスのふたり-ハウス愛のテーマ
- 4thシングルの表題曲。
参加ミュージシャン
- ゴダイゴ
- タケカワユキヒデ:Vocal (#7)
- ミッキー吉野:Keyboards
- スティーヴ・フォックス:Bass (#1,3)、Vocal (#3)
- 浅野孝已:Guitars (#1,3)
- 浅野良治:Drums (#1)
- サポートミュージシャン
製作
撮影まで
大林に映画製作の話を持ちかけたのは、東宝映像企画室長の角田健一郎であった[12][42][62]。時は1975年[12]。新しい企画を探していて、東宝スタジオでCF撮影を行なっていた大林に目をつけていたという[35][58][63]。大林は最初は、檀一雄の『(花筐)』を持ち込んだが手応えがなく[12]、続いて大林の持ち込んだ本作品の脚本を見た松岡功東宝企画部長(当時)は「こんな無内容な馬鹿馬鹿しいシナリオを初めて見ました。でも私が理解できるいいシナリオはもう誰も観てくれません。だから私には理解不可能なシナリオをそのまま映画にしてくれませんか」と大林にいったと言い[12][35][42][43]、企画としては1975年に東宝の会議を通っていた[12][63]。当時はオカルト映画、パニック映画、カンフー映画などの洋画が日本の興行界を席巻していたが[12]、そうしたシンプルな娯楽映画は生真面目な日本の映画会社の企画部からは生まれて来なかった[12]。東宝は長く映画部門を統括していた藤本真澄プロデューサーが、児玉隆也の映画の製作を中止させられて揉め1975年に退任[64][65][66]。副社長になった松岡功を中心として企画委員会が設立され[66]、その新体制のもとで生まれた企画が『HOUSE』だった[66]。
しかしノースター+無名監督の映画が東宝の番線に簡単に乗るはずもなく[12][27]、撮影所の助監督を経験していない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちも反対した[58][27]。CM撮影では東宝撮影所にいつも出入りしていたのに、映画を撮るとなると話は別で、撮影所の入口ですれ違った恩地日出夫に「大林さん、ぼくらの職場を荒らさないで下さいね!」と釘を刺された[67]。それに対し、「我々が映画を作っても、ヒットしない。ここは、外部の人にやらせて、どれだけのものができるかを知ろうではないか」と説得したのが、前年末に堀川弘通とともにフリーとなったものの東宝系監督としては依然重鎮であった岡本喜八であった[12][25][47]。また大林の友人だった小谷承靖と西村潔も賛成した[68]。
1976年6月には馬場毬男名義[注釈 5]による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされた[62]。『キネマ旬報』1976年8月上旬号に以下の記事が載る(原文のまま)。
「 | 東宝映像製作『HOUSE』で、日本にもテレビのCM畑から初めて"映画監督"が誕生する。大林宣彦、37歳。 ―"CM界のクロサワ"の異名を持つ大林監督に劇映画への起用を考えたのは東宝だけではない。『JAWS・ジョーズ』のような面白い話で映画を、という東宝映像・角田健一郎プロデューサーの申し入れが公式のものでは一番早かった。『CMで外国の大物スターを十分使い切れているうえ、訴求対象を鮮明に出している。映画でもヤングの訴求対象を鮮明に出せるのでは...。既成の映画監督が持っていないザン新な演出に期待する』というのが東宝の大林監督起用の弁だ。 『HOUSE』の企画は(1976年)5月の企画会議で珍しく全員一致で、映画化が決まったという。脚本、大林宣彦、桂千穂。とりあえず週刊誌に劇画で連載。小林亜星のテーマ曲でムードを盛り上げて(1976年)秋に(撮入)。来年(1977年)3月公開の予定。大林監督は『現在の映画のつまらなさは、監督側に映画を持って行き過ぎるからで、監督は作品ごとに変身、化身する必要があるのではないか』という主張から、今回は"馬場毬男"の名で演出するという。沈滞しきっている邦画界に、同監督の登場はいろいろと話題を呼ぶことは確かだ[62]。 | 」 |
「 | 大竹宣彦という人をご存知か。CF界の巨匠、プライベート・フィルムの先駆者として知る人ぞ知る人物だ。ブロンソン、ドヌーブ、リンゴ・スターのCFを手がけた第一人者。『伝説の午後・いつか見たドラキュラ』のプライベート映画は傑作の誉れ高い。高林陽一監督とは10年来の映画仲間だ。その大林監督が、初めて商業映画に取組む。山間の洋館にやってきた7人の少女を家具が食い殺してしまうというオカルト映画の『HOUSE』(東宝配給)。企業外からの殴り込みが、沈滞気味の邦画界にどんな波紋を投げかけるか、楽しみな作品だ。 | 」 |
などと書かれている[69]。
しかしすぐに製作開始とはならず、宙吊り状態が続いた[58][63]。大林は映画化されるまでが一つの挑戦と考え[44]、作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち[24]、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、『11PM』など積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことをやった[12][70][71]。前年のラジオドラマ版にも出演した松原愛のみ、大林から直接出演オファーし[56]、残りの6人はCM関係の代理店や知人に呼びかけて、出演する女の子を推薦してもらってオーディションを行い、200人の中から選んだ[44]。池上季実子以外は全員新人で平均年齢は18歳だった[44]。当時一番売れていた週刊少年マガジンの宮原照夫編集長に売り込み[12]、グラビアにレオタード姿の7人を掲載し"ハウスガールズ"と名づけ売り出した[21][44]。水着姿の7人を登場させ大磯ロングビーチでキャンペーンを行ったり[56][35]、日比谷の七夕まつりで、車に何人乗れるかというイベントをやったり[56]、『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡した[63]。しかし映画製作はなかなか進まず、プロモーションに2年を要した[35]。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった[12][63]。大林自身「『HOUSE』での仕事は八割がプロデューサーとしてのもので監督としての仕事は全体の二割くらいだった」と述べている[63]。先の『HOUSE』のイラスト入り名刺を見た角川春樹は「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している[63]。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けていた[26][63]。東宝の富山省吾は、当時宣伝部の一番の若手であったが、富山から「あれはつまり、一人クロスメディアでしたねぇ」と言われたという[47]。ラジオドラマがオールナイトであるにもかかわらず、高い聴取率を挙げ、三大新聞がこの評判を報道したことが最終的に映画の製作開始へ至る[58][63][72]。当初は『東宝チャンピオンまつり』の一本として公開することも検討されていた[61]。
"77東宝ラインアップ"として終りの方に記載され[73][74]、映画ジャーナリストは1977年に映画が製作されるのかという認識を持った[73]。この記載ではスタッフだけで、出演者は記されておらず、内容紹介として「果てしない荒野にポツンと建っている朽ちかけた西洋館は、そこを訪れる少女を待っていた。しの館は少女を喰べては、老いを防いでいたのだった。CF界の巨匠大林宣彦が鮮烈な映像を引っ下げてオカルトブームの頂点に挑む」「主役とも云うべき少女役には中学一~三年生が出演する」などと書かれていた[73]。
製作会見
1977年2月22日、日比谷公園内の松本楼で製作発表があり[73][74][75]、大林らスタッフが出席[73]。出演者の出席詳細は不明。大林は「従来の日本恐怖映画にありがちなオドロオドロしい怪談趣味に走らず、洋画のというより現代の少女たちの趣味嗜好にのっとった恐怖譚を目指して、とにかく美しい画面、素晴らしい音楽、ファッショナブルな衣装によって夢を与える美しい作品にしたい。製作費は3億円を投じて(1977年)3月8~9日に(クランクイン)し、4月いっぱい撮影、編集に時間をかけて6月上旬に完成、夏に山口百恵作品(『(泥だらけの純情)』)と併映で拡大公開する。(配収)は10億円台を狙い海外にも輸出できるような大作に仕上げる」などと話した[73][74]。音楽担当の小林亜星は「今の若い層は音楽に大いに関心がある。それだのに日本映画ではそれが無関心で、それが映画ファンを離反している」と日本映画批判をした[73]。
撮影
当時の東宝最大の第一スタジオ(現在はない)の他、6つのステージと屋外プールを使って撮影された[12]。メイン作の『(泥だらけの純情)』はレンタル料の安い日活撮影所で撮影[76]。
本作品では大部分にオプチカル合成が施され、三重合成もザラ[77]。ブルーバック、多重露光、(フィルムのコマ)抜き、ワイプといった当時の(フィルム)で可能なエフェクトを総動員している[77]。これらは今でこそ、というより、当時の映画ファンから観ても、背景の(書き割り)も酷く、あまりにチャチに見えた[78]。しかしトリック見え見えだからこそ、装飾過剰な世界に没入できるだろうという大林の狙いを持つものだった[77]。
ハウスガールズは最年長の松原愛を中心に仲が良く[56]、本読み段階から大騒ぎで、毎日、東宝撮影所に通い、学校の延長のような楽しさだったという[56]。朝から晩まで、東宝スタジオでの撮影のため、ハウスガールズは他の人の撮影も見て楽しんだという[56]。
初期の大林作品らしく、登場人物が脱ぐシーンが多い[22][79]。主演の池上季実子が入浴シーンでヌードになった他、ラスト近くでファンタを襲うシーンでもセミヌードになった。ガリ役の松原愛も水中ヌードを披露した。
池上季実子は、NHK「少年ドラマシリーズ」『(まぼろしのペンフレンド)』で、当時の中学生のアイドルだった人で[78]、『HOUSE』公開時に中学生だった町山智浩は普通のホラー映画だと思って観に行ったら、池上のヌードが全シーンで一番インパクトがあったと話している[78]。
池上は「従来の役柄のイメージを払拭したい」という意向から脱ぐことを快諾、その結果、実力派女優への脱皮に成功している。また、「火が噴くほど恥ずかしかったけど、他の皆さんが頑張っていたので自分も一発奮起した」「前の晩は興奮して眠れなかった。深夜、そっと自分の裸を鏡に映してね。とうとう私の体、みんなに見せるんだな、みたいな感覚。自分の体が他人のものになるみたいな…それで裸になったとき、監督とカメラマンだけかなって思ってたら、スタッフ誰も出て行かないんだから。みんないたのよ。悔しい(笑)。檀ふみちゃんからは『どうしたの?季実子ちゃんはずいぶん大胆になったわね』と言われるしね」[80]などと語る。
松原は脱ぐだけでなく潜水の必要があったため、都内のプールで2日間猛特訓を受けた。さらに湯気が出るのを防ぐため、水温10℃の中での撮影だったが、適温のお湯の入ったドラム缶で暖を取りながら撮影に臨んだ。その甲斐あって、水中シーンはどれもほぼ一発でOKが出ている。
南田洋子は大林とはカルピスのモノクロCMを作っていた時代からの付き合いで、当時まだ40代半ばであったが老婆役で出演した[67]。「日活の女優魂をお見せします」と、若い池上がヌードシーンにたじろいでいると「着物はさっとこう脱げばいいのよ」と自らも初ヌードを披露した[22][67]。南田のヌードは撮影台本には無く[81]、南田が見本を見せたことで池上もパッとつられて脱いだ[81]。南田の大林映画の次の出演は27年後の『(理由)』だが、この時も大林が出演俳優107人全員にノーメイクという無茶な演出を強要したが[81]、やはり率先して大林の演出意図を最初に呑み込み、率先してノーメイクになった[81]。大林は「南田さんは女優ではあるけれど、それ以前にものづくりという同志という感覚があります。俳優としての在り方を身を以て示されたんだと思います」と話している[81]。
池上はデビュー4年目での初主演映画。当時は演出家と役柄の確認をしながら芝居をしていた。演じる役柄の気持ちになり切らないとうまく芝居はできないという自身の演技法であったのだが、大林の極めて独特の演出法に戸惑った。「笑って」という指示に「嬉しそうに笑えばいいんですか? それとも面白そうに笑えばいいんですか? それによって笑い方も違ってくると思います」と聞き返すと、「いいから、とにかく笑ってください。笑ってくれさえすれば、こちらで判断します」と言われ、いろんな笑いの表情、パターンを撮られ、消化不良の連続。池上は、女優デビュー40周年を回顧しても「この映画ほど悩んだり、葛藤した作品はなかった」と述べている。また「自分では納得できる芝居ではなかったが、この映画の評価が年を追うごとに上がっていったことで、振り返ってみると、時代感覚を先取りした大林監督のデビュー作に主演できたことはいい思い出になっている」と話している[82]。2020年4月の大林の逝去の際も、砧の東宝撮影所での大林との初顔合せで、当時の映画業界には無い雰囲気の風貌に驚き、自身の衣装は全て決められていて驚き、役者の主体的な演技を全く要求されない独特の演出法にまた驚き、「結局、最後まで監督が何をしたかったのか分からなかった」などと話した[53]。
大場久美子は当時、映画と同じ名前で協賛していたハウスのCMに出ていたが、アイドルとして歌手デビューする直前でまだ無名だった[51][83]。ラジオ版の岡田奈々の代役として大役をつかんだ[51]。映画も1976年の『遺書 白い少女』(桜田淳子主演)の小さな役で映画デビューしていたが、ちゃんと演技をする役は本作品が初めてだった[83]。アイドルのため一切脱がなかったが、その分泥まみれになったり、水浸しになったりとイメージを壊さない範囲内で相当ハードなシーンをこなした。水のシーンは東宝の汚いプールに入り浮かべた畳にしがみつき、寒い上に本物の家具をバンバン投げ込まれ、演技じゃなくギャーギャーと本当に泣いた。撮影終了後すぐ東宝の風呂に池上と一緒に飛び込んだ。二ヶ月くらい撮影にかかり最後は疲労で熱が出たという[83]。「映画をやったな、という充実感を感じるのは今でもこの映画ぐらいしかない。大林監督がこの後、色んな女優の映画を撮るので、どんなふうに女優を撮っているのか気になって、ジェラシーさえ感じた」などと話している[83]。
また、マック役の(佐藤美恵子)は、生首の模型を作るための型取りで苦労した。呼吸だけはできるようにしてあったものの、頭部に石膏を流し込まれ、2時間そのまま保持しなければならなかった。その後、型にゴムが流し込まれて完成した。
大林とともに特撮を担当したのは後に『ALWAYS 三丁目の夕日』などを手掛ける島村達雄である[84][85]。東宝特撮監督の川北紘一は、本作品が日本映画で初めてビデオ合成を使用したと推測している[58]。
評価
打ち上げパーティで助監督だった小栗康平が、脚本の桂千穂に「こういう映画は日本映画を30年遅らせる」と喰ってかかった[23]。「他の映画に較べるとまだマシな方だが」との言葉もあったため、桂は気分を害さなかった[23]。撮影中、ある女優がいい芝居をして小栗はそれを使いたかったが、大林が「僕の生理に必要ない」とチョンチョンと切った[23]。小栗はラッシュを見ながら「俺が監督になったら…」と悔しい思いをしていたという[23]。『HOUSE ハウス』が公開された1977年は、日本映画が斜陽した時期で[86][87]、この年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林ただ一人だった[86][87]。
既存の日本映画から大きく飛躍した異色映画の登場は、若い観客を中心に好意的に迎えられたが[12]、大半の批評家からは酷評され[12]、目立った映画賞は受賞していない。ただ、直後のキネマ旬報は森卓也の、上滑りな部分、しつこすぎる描写を具体的に指摘しつつ全体を高く評価する一文、さらには自主映画時代から大林と親しい佐藤重臣の「時間が停止してしまった少女の匂いが、ジャスミンのように鼻を刺激する」など感覚面に切り込んだ一文を並べ、いわば理と情の両面から立体的に論じ、後年の作品にまで通底する先見を示した。
樋口尚文は「『八甲田山』の本編前に『HOUSE』のエネルギッシュかつユニークな予告編を見て、『なんだこれは』と思い、一足早く伝説的試写ホール・東芝銀座セブンに出かけて観た。完成品を観てひっくり返り、その後ちゃんと東宝の封切館で『(泥だらけの純情)』と一緒に観たら、何倍もインパクトを感じた。今のようにインディーズ出身であれテレビドラマ出身であれPV出身であれCM出身であれ、誰でも映画監督を名乗る権利がある時代と違って、自主製作映画(というより個人映画といった方が正しいか)出身のCM界の鬼才が、まるで16ミリの個人映画を撮るようなノリで仕上げたデビュー作が『大東宝』のお盆のスクリーンを飾るというのは、相当エポックメーキングなことであった。いかにCM界の寵児とはいえ、大林宣彦が東宝撮影所に乗り込むというのは大事だったのである。私はこの騒々しいびっくり箱じみたCM的技巧の洪水の中に、フィルムと戯れることが好きで好きでたまらない個人映画作家としての大林監督のフェティッシュさと、後の傑作に結実するリリシズムへの傾斜を垣間見て、ちょっとこれはただごとではないと思った。併映の『泥だらけの純情』は大映出身の富本壮吉監督が10年ぶりに手掛けた劇場用映画だった。オトナの職人監督の手になる『泥だらけの純情』のリメイクは、てらわず真っ直ぐな、清新な作劇で非常に好感が持てた。このきっちりとしたベテラン仕事に対する、銀幕への愛きわまった乱入ともいうべき『HOUSE』の取り合わせは、そのまま新旧日本映画の分岐点という感じもあって、70年代有数の興味尽きない二本立てであった」などと論じている[27]。
大槻ケンヂは「封切当時、『HOUSE』の上映中、大場久美子が生首にお尻を噛みつかれるシーンで、観客のおじいさんが心臓麻痺を起してショック死したという噂話がすごくバズったんですよ。ヤバい映画がある!って騒ぎになって、その話を大人になるまで僕は信じていました。その後に映画秘宝の『底抜け超大作』を読んだりして、そういうショック宣伝の仕方もあるのかと知りました」などと述べている[88]。
井口昇は「自分の成長した年齢によって大きく印象が違って感じられるのが『HOUSE』の特徴だと思います。10代の時は狂気を持ったアイドル映画に見えていましたが、20代では処女喪失のメタファー映画に見え、50代の現在では『死んだ恋人を待ち続けた女性の悲劇』に見えます。実はヒロインたちは餌という役割しかなく『過去の愛にすがって幽霊になったおばちゃま』が主人公の物語だったことにこの歳になってようやく気が付いて、少し腑に落ちました。それは『HOUSE』以降の大林作品でも『過去の失った愛にすがって、そこから抜けられない人々』の物語を繰り返し撮られていることでも分かります。私の『キネマ純情』のトークショーに大林監督にいらして頂き、いろいろお話させて頂いたのですが、『井口くん、映画って何だと思う?言葉で語れないことを描くから映画なんだよ。フィルムとフィルムの間の黒い隙間があるでしょ。それが映画なんだよ」と言われました。おそらく初めて『HOUSE』を観た時に、僕は無意識でフィルムの黒い隙間に魅せられ続け、映画を撮ることになったんだと思います」などと述べている[40]。
30年後の全米公開
本作品は21世紀に入りアメリカで公開され、同国でカルト映画になった[78]。アメリカでの本作品の位置付けは、ホラー映画ではなく、サイケデリック映画という[78]。大林は元々、60年代からCM撮影で世界中を飛び回り、海外のカウンターカルチャーを吸収し、サイケデリック・ムーブメントから出て来た人でもあるので当然といえる[78]。大林は最初から時代に遥かに先行したアバンギャルドな映画作家だったのである[78]。2009年春、本作品は初めて北米巡回興行を開始。興行形態は、一般映画のように単館、もしくは数千館一斉同時公開という形ではなく、1ヶ所ずつ、毎週末、違う都市で巡回興行して行く。既に追加興行を含む100都市以上が公開予定にリストアップされている。北米での配給は1950年代からニューヨークに本拠を置く老舗配給会社の(Janus Films)が行っている。アメリカの会社でありながら、扱うタイトルは主に欧州作品で、黒澤明、小津安二郎、大島渚作品など、数多くの日本映画、クラシック作品の配給を手がけている。日本公開から30年以上経っての全米公開は異例で、数年前にある中国系アメリカ人のファンが本作品をネット上で発見し、Janus Filmsに配給を促したとされる[25]。開始から1年経った2010年春も全米公開は続いている[89]。同作は既に2009年、英国でDVDリリースされ、北米ではJanus Filmsの系列会社クライテリオン・コレクション社が2010年10月26日にリリース。日本では指摘されたことはないが、アメリカに行くといつも最初に「あのおもちゃみたいな、ゴム風船みたいな原子爆弾はどういう意図で描かれましたか?」と質問されるという[90]。
ウディネ・ファーイースト映画祭
2016年4月、北イタリアウーディネで第18回ウーディネ極東映画祭『ゴジラ』以外の日本のSF映画にスポットを当てた特集上映「BEYOND GODZILLA: ALTERNATIVE FUTURES AND FANTASIES IN JAPANESE CINEMA」(「ゴジラを超えて: 日本映画におけるオルタナティブとファンタジー」)が開催された[30][91][92]。特集では『ゴジラ』以外の本多猪四郎監督作品と、本作品『HOUSE ハウス』を含む大林の初期作品を中心にした10作が上映された[91]。大林作品が欧州で大々的に取り上げられるのは初めてとなる[30]。
ラジオドラマ
映画本編公開に先駆け、1976年11月27日にニッポン放送の『オールナイトニッポン』において、4時間生放送のドラマとして『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』が放送された[12][25][27][56][93]。オープニングタイトルで既に完成していた小林亜星のテーマ曲が流れ[12]、「東宝映画化決定」というふれこみだったが、実はまだ製作は決定していなかった[12]。大林宣彦と上野修の共同演出、主な出演は岡田奈々、林寛子、木之内みどり、松本ちえこ、三木聖子、秋野暢子、松原愛(彼女のみ映画本編にも出演、役柄はマックからガリにスライド)[27][56]。メンバーはキャニオン所属のアイドル[56]。リアルタイムでこの放送を聞いたファンは、「こんな売れっ子アイドルばかりのキャストでは、どう考えても映画にならないだろう」と思ったといわれる[12]。ナレーションは若山弦蔵が務めた。総合司会は堺正章、テーマ音楽は小林亜星、演奏はゴダイゴ、その他に放送当時の番組ナレーションでは音楽 成毛滋、つのだ☆ひろ、と紹介された。このラジオドラマが大きな反響を呼び[12]、映画化への直接の引き金になった[12][51][72]。映画化に最終的にゴーサインを出した松岡功東宝企画部長は大林に「いま、うちには監督たちにもたくさんいるけれども、映画を撮れるチャンスを棚ぼたのように待っている。だけど、大林さんは棚を自分でこしらえて、自分で棚の上にぼた餅を作って自分で食べている。そのエネルギーは凄い、それに賭けてみたくなった」と言ったという[12]。
スタッフ
ストーリー
話の内容は、映画版とは若干異なっている。ある日、東郷と名乗る新人教師が、実地学習の一環として田舎のクロガミ邸へ七人の少女を誘い出す。その家には、戦争で弟のクロガミゴウスケ中尉を亡くした老女が住んでおり、弟の死に関係している七人の男たちの血縁である少女たちを殺していく。ところがクロガミ中尉の死は誰のせいでもなく、たった一人の肉親であった老女が彼の死を美化した結果の惨劇(逆恨み)という、非常に後味の悪い話として終わる[93][95]。
キャスト
- オシャレ- 木之内みどり[56]
- 最後の犠牲者。絵の中に閉じ込められた。
- ファンタ- 松本ちえこ
- 一人目の犠牲者。階段下の鹿のはく製に噛み砕かれる。
- クンフー- 秋野暢子
- 四人目の犠牲者。廃水処理の穴に突き落とされ、大量の土をかぶせられた。
- ガリ- 三木聖子
- 二人目の犠牲者。大時計の歯車に挟まれる。
- マック- 松原愛
- 三人目の犠牲者。つるべに捕まり隠れていたが、井戸の中に沈められる。
- メロディ- 岡田奈々
- 六人目の犠牲者。ピアノに噛み砕かれる。
- スウィート- 林寛子
- 五人目の犠牲者。鏡の中の虚像に噛み砕かれた。
- クロガミゴウスケ中尉
- 戦死した日本軍の中尉。美系だが粗野な男だった。
- 老女主人- 田中筆子
- 唯一の肉親であった弟の仇を取るために、七人を殺していく老女。
- 執事
- 老女の忠実な僕で、七人を殺す手伝いをする。
- 東郷先生
- オシャレたちが通う学校の新しい先生。実は老女の手先。中尉の分身。
- 謎の男
- バスの運転手。中尉の分身。
- ナレーション- 若山弦蔵
- 惨劇の最後、老女に『真実』を問いかける。
漫画
映像ソフト
脚注
注釈
- ^ 『キネマ旬報』1983年12月下旬号の松田政男が書いた記事に既に「〈美少女ムービー〉のパイオニアとも言うべき『HOUSE』」という記事が見える[23]。
- ^ 厳密には100%子会社の東宝映像による製作だが、当時は東宝本体が映画製作することはなく、外部作品でなければ東宝映画、東宝映像の両子会社が製作を担当していた。
- ^ それまではシネスコのパナビジョンであったが、本作品で初めてスタンダードのパナビジョンのキャメラを日本に入れた[12]。カメラ自体は高いが、レンズの性能がいいので、照明が約半分ですむ[12]。少ない人数で映画を撮る、ローバジェット用の映画を撮るのに便利なキャメラ。技術者がアメリカのパナビジョン社に行って使い方の訓練を1週間受けなくてはならないが、大林らはブロンソンのCMで経験済みだった。そのキャメラはそのまま東宝で市川崑が使った[48]。
- ^ 他に雪印からも同名のアイスクリームが発売されていた。
- ^ マリオ・バーヴァのもじり[61]。
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- 大林宣彦『大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本』角川グループパブリッシング、2008年。ISBN (978-4-04-621169-9)。
- 樋口尚文『ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画』平凡社、2009年。ISBN (978-4-582-85476-3)。
- 『東宝特撮映画大全集』執筆:元山掌 松野本和弘 浅井和康 鈴木宣孝 加藤まさし、ヴィレッジブックス、2012年9月28日。ISBN (978-4-86491-013-2)。
- 中川右介『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』角川マガジンズ、2014年。ISBN (4-047-31905-8)。
- 大林宣彦・中川右介『大林宣彦の体験的仕事論 人生を豊かに生き抜くための哲学と技術』PHP研究所、2015年。ISBN (978-4-569-82593-9)。
- 樋口尚文『フィルムメーカーズ20 大林宣彦』宮帯出版社、2019年。ISBN (978-4-8016-0207-6)。
- 「1977–2020 時をかける―大林宣彦映画入門」『映画秘宝』2020年7月号、洋泉社。
- 講談社 編『ゴジラ&東宝特撮 OFFICIAL MOOK』 vol.0《ゴジラ&東宝特撮作品 総選挙》、講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2022年12月21日。ISBN (978-4-06-530223-1)。