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西川きよし

西川 きよし(にしかわ きよし、1946年昭和21年)7月2日 - )は、日本漫才師お笑いタレント司会者政治家。元参議院議員(3期)、文化功労者

西川きよし
第96回あしなが学生募金街頭活動
(2018年4月28日)
本名 西川 潔(にしかわ きよし)
ニックネーム キー坊、きよっちゃん、きよし師匠
生年月日 (1946-07-02) 1946年7月2日(76歳)
出身地 日本高知県高知市
血液型 O型
身長 165 cm
言語 日本語
方言 大阪弁
最終学歴 大阪市立三稜中学校
師匠 石井均
出身 吉本新喜劇
コンビ名 横山やすし・西川きよし(解散)
相方 横山やすし大平サブロー
芸風 漫才(ツッコミ)
事務所 吉本興業
活動時期 1963年 -
過去の代表番組 パンチDEデート
反応ゲーム2つに1つ
料理天国
他の活動 タレント
政治家(元参議院議員
配偶者 西川ヘレン
親族 西川忠志(第一子の長男)
西川弘志(第二子の次男)
西川かの子(第三子の長女)
弟子 西川のりお ほか
(テンプレートを表示)
西川きよし
西川 潔
にしかわ きよし
生年月日 (1946-07-02) 1946年7月2日(76歳)
出生地 高知県高知市
出身校 大阪市立三稜中学校卒業
前職 漫才師
現職 お笑い芸人
所属政党 第二院クラブ
称号 ロードシーランド公国
旭日重光章(2016年)[1]
文化功労者(2020年)
配偶者 西川ヘレン

選挙区 大阪府選挙区
当選回数 3回
在任期間 1986年7月8日 - 2004年7月25日
(テンプレートを表示)

本名は西川 潔(読み同じ)。高知県高知市朝倉生まれ、大阪市港区住吉区育ち。吉本興業所属。5人姉弟の次男(姉3人、兄1人)。

妻はタレントの西川ヘレン。子供に俳優西川忠志(長男)、元俳優の西川弘志(次男)、タレント西川かの子(長女)がいる。

人物

血液型はO型。高知市立朝倉小学校から大阪市立市岡小学校を経て大阪市立三稜中学校卒業(14期生)。姉は六代桂文枝と同級生であった。

きよしと同じく高知県で生まれ、大阪府で育った横山やすしと漫才コンビを結成し、国民的人気を博した。漫才コンビ「やすしきよし」(略称・やすきよ)は漫才ブームの火付け役になり、日本武道館での公演も果たし吉本興業の躍進に貢献、2020年に漫才分野として初の文化功労者に選ばれた。平成以降三代目笑福亭仁鶴六代桂文枝(旧名:桂三枝)と共に所属筆頭格の芸人とされている(かつて発売された「よしもとタレント名鑑」では当時の三枝と共にトップページに掲載された)。また(座右の銘)であり、漫才における決め台詞「小さなことからコツコツと」をスローガンとして政界にも進出し、芸人としての活動を並行して行いながら参議院議員を3期18年務めた。

弟子漫才師西川のりお等がおり、弟子には芸名に「西川」の屋号(苗字)を与えている。

フジテレビザ・ベストハウス123」の番組にてシーランド公国のロードの称号を得た(ただし、この称号は、数千円相当で購入可能なものである)。「伯爵位を持つ」と誤解されることがあるが、本番組できよしの得た称号「ロード()」は男爵以上の爵位を持つ貴族全般への敬称であり爵位とは異なるものである[2]

大阪市内に、吉本とは別に個人事務所「オフィス西川」を設けている。

2022年10月、日本経済新聞朝刊に「私の履歴書」を連載。

来歴

生い立ち

高知市で5人姉弟(姉が3人、兄1人)の次男として生まれた。父は製材所を営んでいたが、知人の保証人となったことから債務取り立てに追われるようになり[3]、1954年、きよしが小学2年生の時に一家で逃げるように大阪に転居した。家計は苦しく、父は2日に1度しか帰宅できない過酷な条件でタクシー運転手となり[4]、母は内職をし、姉・兄もアルバイトに明け暮れ、きよしも10歳のときから[注釈 1]八百屋、牛乳配達、新聞配達(毎日新聞)などのアルバイトをするなどして家計を支えた。中学時代はサッカーに傾倒し、高校でもサッカー部に所属することを希望していたが、父親が十二指腸潰瘍で倒れたことから、高校進学を断念しやむなく就職する[5]

1962年、中学卒業と同時に自動車整備工場にに就職したが[6]、1年目に溶接中の引火事故で首から上に大やけどを負った[7]。4ヵ月の長期入院により奇蹟的に回復したが、大事故のトラウマを抱えたまま整備工の仕事を続けるのは無理だと感じ、退院と同時に退職した[7]。第2の人生に芸の道を志したのは、職場の先輩から「陽気で頓智がきく」[注釈 2]と褒められたことも伏線となっているが、「カネなし、コネなし、学歴なし」でも勝負できると考えたことが大きい[7]ミヤコ蝶々藤田まこと白木みのる佐々十郎らの喜劇役者に弟子入り志願するが断られ、石井均に入門。1年後に杉浦エノスケから、人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われて研究生として入団し[注釈 3]秋山たか志の付き人をしていたが、白木みのるの付き人が辞めたために人手が足りなくなり白木の付き人となる[注釈 4]。のちになんば花月の舞台に端役で出演するようになり[9]、『てなもんや三度笠』の着ぐるみの熊役がテレビ初出演となった[10]

妻となるヘレン杉本との馴れ初めは、扁桃腺が弱く熱を出したヘレンをきよし宅で静養させることを吉本幹部に命じられたことに遡る[注釈 5]。きよし宅では一家総出でヘレンの看病に当たり、ヘレンはきよしの家族ともすぐ仲良くなった。きよしとの交際も始まり、やがて結婚を前提とした同居を始めた[11]

低迷時代、きよしと坂田利夫はヘレンに食べさせてもらっており、3人で暮らしていた。また、同時期に共に苦労したレツゴー三匹のじゅんとも親友として知られており、きよしは「坂田くんとじゅんちゃんは、いつも自分のことを心配してくれる大事な人」とコメントしている[9]

しかし、当時吉本興業部長だった中邨秀雄は、人気女優だったヘレンと無名のきよしとの結婚に反対し、きよしに引退を迫ったが、「ヘレンを引退させて自分が芸を続ける。それを認めないなら夫婦そろって引退する」ときよしは主張したという。きよしとヘレンは1967年9月に結婚。ヘレンは主婦業に専念するため新喜劇を引退した。当時吉本のドル箱スターであったヘレンを引退させたきよしは会社・劇団から冷遇されてしまう。が、この時のきよしの不退転の覚悟が、程なく漫才で大ブレイクする原動力となる。

やすきよ時代

 
2017年7月12日、吉本興業東京本部にて法務大臣金田勝年(左)と
 
2020年11月4日、文化功労者顕彰式にて文部科学副大臣横田比奈子(右)から顕彰状を受領

1966年中山礼子が間に入る形で、横山やすし(きよしと同じ高知県生まれの大阪府育ち)と漫才コンビを結成し[注釈 6]、6月に京都花月で「自動車教習所」を演じ[12]初舞台を踏み、めきめきと頭角を現す。1967年、デビュー10ヵ月後にして上方漫才大賞新人賞を受賞[13]。第一次演芸ブーム(1965年 - 1970年)の折、東京ぼん太の後釜として起用されたフジテレビお茶の間寄席」司会や、朝日放送の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京に進出。1970年には上方漫才大賞を受賞[14]。同年の相方のやすしの暴行事件をはじめとした不祥事でコンビ活動自粛の際も、「素人名人会」(毎日放送)「爆笑寄席」、「(ナイトパンチ)」、「パンチDEデート」(以上、関西テレビ)、「仁鶴・きよしのただいま恋愛中」、「プロポーズ大作戦」(以上、朝日放送)、「料理天国」(TBSテレビ)、「スター誕生!」(日本テレビ)などテレビ司会者としての露出が増え、さらに1980年代初頭の漫才ブームでは、人気が頂点に達した。

1986年、「中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです」と、参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し、当選した[15]。義母の介護経験から福祉関連に力を入れ、「小さなことからコツコツと」をキャッチフレーズに3期18年間に渡る議員生活を展開した。参議院会派第二院クラブに所属し、福祉関係の充実を政策の中心とし、政治姿勢は全体的に保守系与党寄りであった。

1989年4月にやすしが自身の不祥事により吉本を解雇されたため、コンビは事実上の解散状態となり、以降は参議院議員と並行してソロでのタレント活動に専念する。なお、やすしとは吉本解雇時に「もう組みたくない」と冷たく突き放していたが、1996年1月にやすしが死去するまで定期的に連絡は取り合っていた。

やすきよ解散後

1994年6月の第129回国会・参議院本会議の首班指名投票では、村山富市海部俊樹に票が分散するなか、当時衆議院議長の土井たか子に唯一の票を投じ、1999年7月の第145回国会・参院本会議の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の採決では賛成票を投じた。議員生活を通して政党に所属することはなく会派としての第二院クラブ消滅後は無所属の会、国会改革連絡会に所属。2003年には国会等移転特別委員長に就任した。

2004年1月、同年7月の参議院選挙に立候補をせず、政界から身を引きタレント活動に専念しつつ、引き続き福祉関係の活動を行っていくと発表した。

大平サブローとの「新やすし・きよし」での活動も行っている。

2006年8月29日日本テレビ系で自身の半生を描いた「ヘレンときよしの物語」が『ドラマコンプレックス』にて放送された。きよし役は実息の忠志。

2015年末に受けた定期健診で初期の前立腺がんと診断され、手術を受けた[16]

2020年、漫才分野から初の文化功労者に選出された[17][18]

選挙歴

当落 選挙 執行日 年齢 選挙区 政党 得票数 得票率 定数 得票順位
/候補者数
政党内比例順位
/政党当選者数
第14回参議院議員通常選挙 1986年7月6日 40 大阪府選挙区 無所属 102万2120票 26.1% 3 1/21 /
第16回参議院議員通常選挙 1992年7月26日 46 大阪府選挙区 無所属 97万5593票 30.6% 3 1/30 /
第18回参議院議員通常選挙 1998年7月12日 52 大阪府選挙区 無所属 105万7393票 26.4% 3 1/13 /

エピソード

「やすし・きよし」を組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』に、ミヤコ蝶々平参平藤田まことと共にゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際に植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという[19]

京都の仕事の帰りに稽古の事でやすしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になった末、やすしは「解散や!」と怒鳴り散らしその場を後にした。後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所の偉いさんから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され、思いとどまる。その時に発した「今後も小さなことからコツコツやらさせてもらいます」というセリフが後に芸人仲間等で語られるようになり、いつしか「小さなことからコツコツと」というギャグになったとされる[9]

1986年、参議院議員として国会に初登院し中曽根康弘首班指名の投票後、帰阪。すると中曽根からきよし宛に「本日は首班指名に中曽根康弘とお書きいただいて、まことにありがとうございます」と丁寧なお礼をもらい感激したとかつて語っていた[20]

政界引退を間近に控えた2004年6月3日、参院厚生労働委員会で小泉純一郎首相らに対し、議員として最後の質問を行う予定だったが、突然自民公明の与党により審議中の年金改革関連法案を強行可決されてしまい、質問を行うことができず、採決にも加われなかった。これについてきよしは「期末試験もないまま卒業式に出て行けと締め出されたようです」とコメントした[21]

誠実で穏やかな人柄で知られるが、実は頑固者で、元マネージャーの木村政雄は自著「やすきよと過ごした日々」にて、「やすしさんは我が儘を言うが、説得する余地があることも多かった。きよしさんは一度こうだ、と決めると、説得をしても絶対に動かず、我を貫き通す人だった」と回想している。

その反面『田舎に泊まろう!』に出演した際、宿泊させてもらった個人宅にみやげを送り続けているなど律儀な側面も持つ[22]

長男の忠志が高校生のころ、友達が禁止されていた買い食いをしようとしていた。忠志は「買い食いはいけない」と最初は反対したものの、友達に流されてしまい、困り果てて家にいたきよしに電話し、「お父さん、僕もカレー食べていいか」と話したところ、きよしは涙ながらに「食べてええで、学校には後で父さん謝りに行ったる」と返した。普段から真面目で友達想いな忠志の事を知る教師は、忠志含め友人の行動を注意はしたが、何かしらの処罰は無かった。後日、きよしが一家団欒しながら「いろいろ苦労したが、大好きな家族とこうして豊かな食卓を囲めるようになった」ことをしみじみ感じ、「シアワセやなァ」と涙を流した。それを見た次男の弘志が台所で料理をするヘレンのもとへ行き、「お母さん、お父さんが『シアワセや』言うて泣いてんで」と報告したところ、ヘレンも野菜を切りながら「私もシアワセやー」と号泣していたという[23]

関ジャニ∞村上信五曰く、新幹線でお弁当を食べている西川に挨拶に行くとお弁当をバーン!と吹っ飛ばしながら立ち上がり「いつもヘレンがお世話になってます」(当時村上は西川ヘレンと番組で共演していた。)と挨拶し、村上が「師匠!お弁当落ちましたよ!」と言っても全く気にしていなかった。

弟子

直弟子

孫弟子

いずれものりおの弟子
  • 西川小のり
  • のりはじめ(廃業)
  • のりのり(後にボソボソ、廃業)
  • 小ざる (元々は桂きん枝の弟子で落語家時代の芸名は桂きん八。後に「なにわ突撃隊」のメンバーとして活躍、現在の活動は不明)
他(いずれものりおの付き人)

演じた俳優

  • 西川弘志(本人の次男:関西テレビ「花王名人劇場・西川ヘレン物語…白地ニ赤ク…」1987年)
  • 生瀬勝久(TBSテレビ「横山やすし追悼ドラマ 俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ! 波瀾万丈の51年を生きた最後の芸人」1997年 ※VHS版タイトル「おこるで、しかし!俺は浪花の漫才師 横山やすし一代記」)
  • 板尾創路(関西テレビ「横山やすしフルスロットル」2004・2005年)
  • 高井俊彦(吉本新喜劇「オヨヨ!!三枝誕生物語」2012年)
  • 西川忠志(本人の長男:日本テレビ「DRAMA COMPLEX・ヘレンときよしの物語」2006年、舞台「吉本百年物語 日本全国、テレビで遊ぼ」2012年)
  • 中川礼二(NHK BSプレミアム「ひとつ星の恋〜天才漫才師 横山やすしと妻〜」2014年11月23日・11月30日)

出演

現在のレギュラー番組

ラジオ

  • (ありがとう浜村淳です土曜日です)(毎日放送

現在のレギュラー特番

過去のレギュラー番組

テレビ

ラジオ

映画

テレビドラマ

CM

レコード

  • ひと目逢ったその日から / パンチ体操(1975年、桂三枝とのデュエット)
  • 子供が三人おりますねん(1979年、B面は西川ヘレン「約束」)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ きよしが9歳で新聞配達を志願した時は、年齢を理由に断られ、代りに新聞を20部預かって港湾労働者に売り、1部につき1円(新聞売値は10円)の歩合を受け取った[4]
  2. ^ 「西川はとんちがええなあ」[6]
  3. ^ この時、石井均は東京へ戻ることを決めており、きよしを吉本興業に紹介していた[8]
  4. ^ 吉本の初月給は手取り5400円で、即席麺で食いつなぐ毎日だったが、白木はそれとは別に毎月1万円をきよしに渡していた[8]
  5. ^ 当時、きよしの父は、うめだ花月の近所のモータープール(駐車場)の管理人をしており、一家はその駐車場の一角の宿舎に住んでいた[10]
  6. ^ きよしは最初、やすしからの漫才コンビへの誘いを20数回断っていたが、やすしは根気強く説得に訪れた[11]

出典

  1. ^ “”. 東京中日スポーツ (2016年11月3日). 2016年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月29日閲覧。
  2. ^ “世界最小の「国家」、シーランド公国が148億円で売り出し中。”. ナリナリドットコム (2007年1月15日). 2015年5月7日閲覧。
  3. ^ 西川「私の履歴書(2) 高知」日本経済新聞・2022年10月2日。
  4. ^ a b 西川「私の履歴書(3) 大阪」日本経済新聞・2022年10月3日。
  5. ^ 週刊現代 2010年10月23日 76〜78ページ「私の地図--あの場所へ帰りたい(第26回)漫才師 西川きよし」
  6. ^ a b 西川「私の履歴書(4) 自動車整備工」日本経済新聞・2022年10月4日。
  7. ^ a b c 西川「私の履歴書(5) 長期入院」日本経済新聞・2022年10月5日。
  8. ^ a b 西川「私の履歴書(6) 下積み」日本経済新聞・2022年10月6日。
  9. ^ a b c 文藝春秋 2014年1月号 368-375ページ「西川きよし芸能生活五十年を振り返る やすしさんはちょっと生き急ぎすぎた」
  10. ^ a b 西川「私の履歴書(7) 運命の出会い」日本経済新聞・2022年10月7日
  11. ^ a b 西川「私の履歴書(8) 転機」日本経済新聞・2022年10月8日。
  12. ^ 西川「私の履歴書(9) やす・きよ」日本経済新聞・2022年10月9日。
  13. ^ 西川「私の履歴書(10) 新人賞」日本経済新聞・2022年10月10日。
  14. ^ 西川「私の履歴書(11) テレビ出演」日本経済新聞・2022年10月12日。
  15. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  16. ^ “西川きよし がん手術を報告「フカヒレスープが食べたいな~」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年1月23日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/23/kiji/K20160123011908500.html 2016年1月23日閲覧。 
  17. ^ “西川きよし、漫才師初の文化功労者選出「漫才に誘っていただいた、横山やすしさんのおかげ」”. スポーツ報知 (2020年10月27日). 2020年10月27日閲覧。
  18. ^ “令和2年度 文化功労者”. 文部科学省 (2020年11月3日). 2020年11月9日閲覧。
  19. ^ 佐藤利明・編著『植木等ショー! クレージーTV大全』(2010年・洋泉社((ISBN 9784862486240))・P.28)より。
  20. ^ “西川きよし「後にも先にも中曽根さんだけ」 初登院の首班指名で元首相からの電話に仰天”. スポーツ報知. (2019年11月30日). https://hochi.news/articles/20191130-OHT1T50077.html 2019年11月30日閲覧。 
  21. ^ 2004年6月4日 読売新聞大阪版朝刊「西川きよし議員 最後の質問“アウト” 年金改革法案採決審議打ち切られシュン」他3紙
  22. ^ “TVでた蔵「2013年9月8日放送ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」”. ワイヤーアクション (2013年9月8日). 2015年5月7日閲覧。
  23. ^ “ジャンケン、カレー…西川きよし伝説多数”. 夕刊フジ (2011年4月21日). 2015年5月7日閲覧。
  24. ^ 西川まさとさん自殺か 師匠の西川きよし「残念でならない」 産経ニュース 2017年9月2日閲覧
  25. ^ 西川きよし - オリコンTV出演情報
  26. ^ G20 交通規制 西川きよし/大阪府警察 大阪府警察交通部公式チャンネル
  27. ^ “石田ゆり子「20年ぶり競泳水着を…」“メガビッグ”にうれしかったこと【動画あり】”. マイナビニュース (マイナビ). (2020年3月5日). https://news.mynavi.jp/article/20200305-988445/ 2020年3月10日閲覧。 
  28. ^ 西川きよし - オリコンCM出演情報
  29. ^ “西川きよし、満を持して登場!にぎり長次郎20周年記念アンバサダー就任!都市伝説“西川邸に専用回転寿司レーン”の真相明かす。厳選されたネタの「にぎり盛り」など、お...”. プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES. 2021年12月29日閲覧。

関連人物

関連項目

外部リンク

  • 吉本興業 芸人顔検索プロフィール | 西川きよし
  • 西川きよし・ヘレン 【STAFF】 (@nishikawa.kiyoshi_helen) - Instagram
  • 西川きよし - NHK人物録
  • Kiyoshi Nishikawa - IMDb(英語)
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