陸奥 宗光(むつ むねみつ、1844年8月20日〈天保15年7月7日〉- 1897年〈明治30年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家[1]。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。
陸奥 宗光 むつ むねみつ | |
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陸奥 宗光 | |
生年月日 | 天保15年7月7日(1844年8月20日) |
出生地 | 紀伊国名草郡和歌山城下 |
没年月日 | 明治30年(1897年)8月23日(53歳没) |
死没地 | 東京府北豊島郡滝野川村西ヶ原 |
出身校 | 神戸海軍操練所 |
前職 | 武士(紀州藩士) 外交官 |
称号 | 正二位 勲一等旭日大綬章 伯爵 |
配偶者 | 陸奥蓮子(前妻) 陸奥亮子(後妻) |
子女 | 陸奥広吉(長男) 古河潤吉(次男) 陸奥清子(長女) 陸奥冬子(次女) |
親族 | 伊達宗広(父) 陸奥イアン陽之助(孫) 岡崎邦輔(従弟) 中島信行(義弟) |
第10代 (外務大臣) | |
内閣 | 第2次伊藤博文 |
在任期間 | 1892年8月8日 - 1896年5月30日 |
第6代 (農商務大臣) | |
内閣 | 第1次山縣有朋内閣 第1次松方正義内閣 |
在任期間 | 1890年5月17日 - 1892年3月14日 |
在任期間 | 1875年4月25日 - 1875年11月28日 |
選挙区 | 和歌山県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1891年12月25日 |
第3代 神奈川県知事 | |
在任期間 | 1871年10月5日 - 1872年8月17日 |
その他の職歴 | |
第4代 兵庫県知事 (1869年7月28日 - 1869年8月24日) |
版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に多大な影響を与え、カミソリ大臣とも呼ばれて第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)(治外法権(領事裁判権ともいう))に努力した。
生涯
生い立ち
天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(徳川治宝の側用人渥美勝都の長女)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝(伊達政宗の末子)の後裔と伝えられるが、実際は12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した(駿河伊達氏)(の分家紀州伊達家)の子孫である。伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため[2]、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。
幕末期
安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、泊園書院(現・ 関西大学)で学んだのちに勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした[3]。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。
龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
維新後
明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係[注 1](1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には支払えなかった。これを大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受けることに成功する。兵庫県知事(1869年)[4]、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。
投獄と欧州留学
明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆[注 2]を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡[注 3]を取り合っていた。翌年に発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け投獄された。山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。
明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートは7冊現存されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのかを、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収し、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んだ。
政界への復帰
明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。
明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。
明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選[5]を果たし、1期を務めた。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚となった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密顧問官となる。
外相時代
明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結[注 5]。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。
以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)(関税自主権は戻らない)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。一方、同年5月に朝鮮半島で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
戦勝後は伊藤博文とともに[注 6]全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。
日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。これ以前より陸奥は(肺結核)を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)[注 7]やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去[注 8]。享年54(満53歳没)。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬された。
明治40年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和41年(1966年)に再建された。
栄典
- 位階
- 明治5年
- 1875年(明治8年)11月28日 - 従四位[6]
- 1878年(明治11年)8月19日 - 位記被褫[6]
- 1887年(明治20年)3月25日 - 従四位[6][7]
- 1890年(明治23年)
- 1897年(明治30年)8月21日 - 正二位[9]
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月8日 - 勲三等[6]
- 1889年(明治22年)9月11日 - 勲二等瑞宝章[6][10]
- 1890年(明治23年)10月21日 - 銀牌一個・七宝白鷺図花瓶一封[6]
- 1893年(明治26年)10月30日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 1894年(明治27年)8月29日 - 子爵[12]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 伯爵[13]・旭日大綬章[13]
- 外国勲章佩用允許
家族
- 妻
- 息子
- 娘
- 陸奥清子(長女、1871年-1893年)
- 陸奥冬子(次女、1873年-1904年。祇園の芸者との子[26]。宗光の死後、陸奥家に引き取られ、広吉の養女となる)
- 孫
- 陸奥イアン陽之助(広吉とエセルの長男。1907年-2002年。)
宗光の4人の子のうち、広吉を除く3人は未婚のまま没したため、広吉の子の陽之助が宗光の唯一の孫である。鎌倉の寿福寺に陸奥家の墓所がある。
著作・書翰
評価
- 勝海舟 「あれも一世の人豪だ。しかし陸奥は、人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚に長としてこれを統率するには不適当であった。あの男は、統御もしその人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ。あれがもし大久保(利通)の下に属したら、十分才を揮い得たであろう」[27]
- 渋沢栄一
- 「外務大臣をなされたことのある陸奥宗光伯は、平岡円四郎と殆ど全く同型の人で、一を聞いて十を知る機敏な頭脳を持つて居られたかのやうに思はれる。兎角一を聞いて十を知る質の人は、余りにさき廻りをするので、他人に厭やがれる[厭やがられる]傾きのあるものだが、陸奥伯には爾んな傾向がなく至つて交際ひ易い人であつた。随つて平岡円四郎のやうに非業の最期をも遂げず、畳の上で死ぬことが出来たのである。」[28]
- 「伯も平岡円四郎のやうに、一寸したことを聞いた丈けでそれからそれへと考へを進めて往き、事を未然に察知するまでの才智のあつた人だが、孰らかと謂へば金銭と権勢とに動かされ易く、一身の利達を謀らんが為めには形勢を察して金銭と権勢とのあるところに就くを辞さなかつたらしく、大丈夫の志が無かつた人のやうに思へる。それから妙に他人を凌ぐやうな傾向があつて、談話などでも自分の才智に任せて対手を圧迫して来る如き気味合を示したものである。之が為め、多少他人から厭がれた[厭がられた]こともあらうが、交際は至つて如才のなかつた方である。」[28]
- 「陸奥宗光伯も、前条に談話した通りで、御自身には優れた才識のあらせられた人で、権勢と金力とのあるところを見て之に就く事にかけては誠に敏捷であつたが、人物を鑑別する力に於ては、余り優れた方であつたとは申上げかねるやうに思へる。随つて、陸奥伯の交はられた人や用ひられた人は、必ずしも善良誠実の人ばかりであつたやうにも思へぬ。」[29]
- 関直彦
- 「龍馬の薫陶によって陸奥も彼だけの人物になったと言っても可い位で、平生、龍馬は陸奥を評して『彼は非常な才物である。外の者は大小を取り上げれば殆ど食うにも困る者ばかりだが、陸奥だけは上手に世渡りをして行ける』と言っていた」
- 「剃刀大臣といわれしだけありて、機略縦横、電光石火の立回りに妙を得た人であった上にも、また弁舌の雄として世に認められたる人である。」[30]
- 「陸奥伯は子供の時より涎を垂らすの癖あり。堂々たる国務大臣として、条約改正に、各国の政治家を向こうに回し、折衝応答の時にも、また、日清講和談判に李鴻章を悩ましたる時にも相変わらずだらだら涎を垂らしつつ議論せられたるものならん。伯は、常に葉巻煙草を吸わるるが、その半ばは涎に濡れて、火の消ゆるを常とす。偉人にも妙な癖があるものかな。」[30]
エピソード
- 若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。
- 後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。
- 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
- 「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と自著『蹇々録』の中で語っている。
- 坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作ともいわれる[要出典]。
- 海援隊時代の経験を買われ、横浜の生糸貿易の総元締となっている。
- 現存する陸奥の居宅としては死去した旧古河庭園のほか、東京根岸にコロニアル様式の洋館が残る。地元の歴史を研究する「根岸子規会」が、旧陸奥邸であることを示す案内板を2017年3月に設置した[32]。外壁が白いため、地元の子供たちには「ホワイトハウス」と呼ばれてきた[33]。
脚注
注釈
- ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。
- ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。
- ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
- ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
- ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
- ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
- ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。
- ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「陸奥宗光」
- ^ 母方の渥美勝都も治宝派排斥により失脚している。
- ^ 陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
- ^ 『大日本維新史料稿本』第四部 コマ856「豊崎縣知事陸奥宗光陽之助ヲ兵庫縣知事ト為ス」
- ^ 衆議院議員之証(陸奥宗光関係文書108-66)
- ^ a b c d e f g h i j 「陸奥宗光」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166200
- ^ 『官報』第1119号「叙任及辞令」1887年3月28日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」1897年8月26日。
- ^ 『官報』第1927号「叙任及辞令」1889年11月29日。
- ^ 『官報』第3103号「叙任及辞令」1893年10月31日。
- ^ 『官報』第3352号「叙任及辞令」1894年8月30日。
- ^ a b 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。
- ^ 『官報』第3336号「叙任及辞令」1894年8月11日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1894年3月31日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1895年10月7日。
- ^ 『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 『陸奥宗光. 正編』伊藤痴遊 著 (東亜堂, 1912)
- ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂著 (大学館, 1903)
- ^ a b 陸奥宗光未亡人没す新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940
- ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社
- ^ 純愛. 講談社
- ^ 『文藝春秋』第77巻、第3号、p83
- ^ 『海舟全集』第十巻
- ^ a b 3. 陸奥伯に丈夫の志無し
- ^ 7.井上侯の人物鑑別眼
- ^ a b 関直彦『七十七年の回顧』三省堂、1933年、pp.242-243
- ^ 『兆民文集』
- ^ 読売新聞朝刊2017年3月30日都民版「旧陸奥宗光邸の歴史 案内板/根岸祷民ら設置 建物の特徴や写真掲載」
- ^ “【11位】旧陸奥宗光邸(鶯谷)”. テレビ東京「出没!アド街ック天国」2016年5月14日放映. 2017年4月9日閲覧。
参考文献
- 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所、1987-88年)、のちPHP文庫
- 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代 第1巻」 PHP研究所、1999年、新版2009年、のちPHP文庫
- 萩原延壽責任編集・解説「陸奥宗光紀行」、『日本の名著(35) 陸奥宗光』(中央公論社、1973年)、新版・中公バックス
評伝
関連項目
- 日英通商航海条約
- 日清戦争
- 陸奥外交
- 小村寿太郎
- 国是綱目 - 伊藤博文らと提出した建白書。版籍奉還に影響を与えた。
- 廃藩置県 - 廃藩置県のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。
- 徴兵令 - 徴兵令のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。
- 地租改正 - 陸奥が建議し、租税頭として実施に当たった。
関連作品
- 映画
- 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、東宝、演者:堀広道)
- TVドラマ
- 『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演者:東野孝彦)
- 『(竜馬がゆく)』(1982年、テレビ東京、演者:岡本富士太)
- 『(竜馬がゆく)』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演者:大柴邦彦)
- 『坂の上の雲』(2009年、NHK、演者:大杉漣)
- 『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演者:平岡祐太)
- 『歴史秘話ヒストリア』(2019年、NHK、演者:岩永徹也)など
- 小説
- 舞台劇
- 漫画