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星亨

星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日1850年5月19日〉 - 明治34年〈1901年6月21日)は、日本英学者弁護士政治家

星 亨
ほし とおる
生年月日 1850年5月19日
嘉永3年4月8日
出生地 日本 武蔵国江戸築地小田原町
(現・東京都中央区築地
没年月日 (1901-06-21) 1901年6月21日(51歳没)
死没地 日本 東京府東京市
出身校 高島学校
ヘボン塾(現・明治学院大学
ミドル・テンプル
前職 官僚
弁護士
所属政党自由党→)
憲政党→)
立憲政友会
称号 従六位

第10代 (逓信大臣)
内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年10月19日 - 1900年12月21日

在任期間 1892年5月3日 - 1893年12月13日
天皇 明治天皇
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概要

江戸築地の左官職人の子に生まれる。明治維新後に横浜税関長となり、後に渡英して法廷弁護士資格を取得、日本でも代言人(後の弁護士)となる[1]

1882年明治15年)、自由党に入党し、『自由新聞』の経営に参加。1884年(明治17年)には自ら新聞『自由燈』を創刊し、政府批判の論客となったが、その前後に官吏侮辱罪などで2回入獄。1887年(明治20年)には在野各党の大同団結運動を推進した[1][2]

1892年(明治25年)、第2回総選挙に当選し、衆議院議長を務めた。翌年、後藤象二郎とともに取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名されたが、議長解任決議を数度にわたって無視し、登院したことで知られる[1]

日清戦争後、韓国の法律顧問に就任し、1896年(明治29年)には駐米公使に就任。1898年(明治31年)に憲政党内閣(隈板内閣)が誕生すると帰国して憲政党を分裂させ、1900年(明治33年)に伊藤博文とともに立憲政友会を結党した。同年の第4次伊藤内閣で逓信相として初入閣したが、東京市疑獄事件の中心人物と目され辞職[1][3][4]1901年(明治34年)、伊庭想太郎に刺殺された[1]

生前は金権党利党略の徒として激しく批判されたが、実際は我が国に立憲体制を根付かせ、独立不羈の強国としなければならないという強い思いに貫かれていた。 その勉強振りは凄まじく獄中で当時最先端の経済書であるジュボンズやマクラウドを原書で読んでいた。 自身が独立不羈の星は自由党→政友会を中心とした我が国の立憲体制確立と積極主義による国力増強に決定的な役割を果たした。

生涯

旧暦・嘉永3年4月(1850年5月)、江戸築地小田原町(現・東京都中央区築地)に、左官職人佃屋徳兵衛の長男として生まれる(幼名浜吉)。母は松(相模国浦賀の漁夫の娘)。二人の姉がいた。徳兵衛の破産失踪後、娘二人を奉公に出し、松は浜吉を連れて漢方医星泰順と再婚、星姓を名乗った[5]

一家で横浜に転居後、神奈川奉行所付蘭方医渡辺貞庵に弟子入りし、そのつてで、通商上英語のできる人材育成のために幕府が設立した横浜英学所(文久2年設立:ヘボンが設立と教授に参画[6])で英学を学び始めた。その後、江戸で持参金を約して(御家人)小泉家の養子となり、役務として幕府陸軍三兵隊(文久2年創設)の軍事調練に加わるが挫折(のち養子も破談)。開成所教授前島密の家塾に入り、前島の仲介で慶応3年(1867年)に開成所に入所、英語世話役心得に推され仏語も学んだ。さらに同所教授何礼之の私塾に移り、同年10月に何が海軍所へ転出する際、その推薦で同所英語世話役となったが、戊辰戦争勃発により3か月で失職。(横浜居留地)で『万国新聞紙』を発行していた英国領事館付牧師マイケル・ベイリーを手伝い、英字新聞の翻訳で日銭を稼いだ[7]

明治元年(1868年)、開成所同窓生らの縁で若狭国小浜藩英学校教師、さらに大阪に移った何礼之の瓊江塾助教となり、明治2年9月(1869年10月)には何が設立に尽力した大阪洋学校訓導、翌年同校が大学南校分校(大阪開成所)となると小助教となった。まもなく、陸奥宗光から洋学教師の人選を依頼された何の推薦で、大阪の和歌山藩邸で洋学助教として教え、のち同藩兵学寮(明治2年末設置)出仕となった[7]

廃藩置県後の明治4年8月(1871年10月)に陸奥が神奈川県知事に就任すると、同時期に星も和歌山県貫属の身分[8]で横浜の英学校・修文館の教師に就任。明治5年3月(1872年4月)、神奈川県二等訳官に補され、学校事務取扱として修文館(啓行堂)教頭に任ぜられた[7]。さらに、大蔵省租税頭兼任となった陸奥の引き立てにより、同年4月に大蔵省雇、9月には租税寮七等出仕となり、新暦・1874年(明治7年)1月、横浜税関長(租税権助・従六位)に抜擢された。ところが同年5月、いわゆる「女王事件」[9]を引き起こし、7月に非職扱いとなった。

まもなく、同年9月に太政官より英国留学を命ぜられ、翌月に横浜出航、1875年(明治8年)1月、ロンドンのミドル・テンプル(4大法曹院の一つ)に入学、1877年(明治10年)6月には日本人初の法廷弁護士 Barrister 資格取得者となった[7][10]。帰国後、1878年(明治11年)2月には、司法省付属代言人(後の弁護士)の第一号となった[1]

1882年明治15年)、前年10月に結成された自由党(84年10月解散)に入党し、機関紙『自由新聞』の経営に参加。1883年(明治16年)7月より治罪法に基づく初の高等法院裁判として福島事件国事犯審理が東京高等法院で開かれた際、星は被告河野弘中の弁護人を務めた[11]1884年(明治17年)5月に新聞『自由燈』(後の東京朝日新聞)を創刊。同年9月22日、前日の演説が官吏侮辱罪にあたるとして新潟で逮捕され、12月18日、新潟軽罪裁判所は重禁固6か月、罰金40円と判決。また、1885年(明治18年)末に発覚した大阪事件をめぐる裁判では大井憲太郎らを弁護した。

1886年(明治19年)10月24日、星・中江兆民らが発起人となり、東京で旧自由党員を中心に全国有志懇親会を開き、星らは小異を捨てて大同団結すべしと主張。藩閥政治を批判し、1887年(明治20年)の三大事件建白運動に参加した。これがきっかけで、保安条例で東京を追われ[12]出版条例違反で投獄される。

釈放後の1888年(明治21年)に日本を発ち、米国とカナダに約1年間滞在。その後、英国さらにドイツ(ベルリン)に滞在し、1890年(明治23年)に帰国した[13]。同年結成の立憲自由党に参加[1]1892年(明治25年)には、自らの衆議院議長就任を公約として第2回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から出馬、当選を果たし[14]、公約通り2代目議長に選出された。

1893年(明治26年)11月29日、衆議院にて相馬事件の被告弁護、取引所からの収賄疑惑などにより議長不信任案が可決される[15]。星は議長辞職を拒否したため、さらに12月1日議長不信任(上奏)案が可決された。翌2日、明治天皇は上奏は議長更迭の請願か、議院の不明を謝するの意かと質問し、衆議院は後者の意とする奉答案を可決。12月5日、衆議院は議院法第96条に基づき星に対して一週間の登院停止の(懲罰)、さらに同13日には最も重い懲罰である議員(除名)が議決された。しかし、3か月後の衆院選挙で再選され、政界に復帰した。

藩閥政治に対する批判者であったが、非藩閥の陸奥宗光から重用されていたため、韓国政府の法務顧問(1894-96年)[16]や駐米公使(1896-98年)の他、法典調査会委員、(鉄道国有)調査会委員などに任ぜられた。

1898年(明治31年)の第1次大隈内閣(隈板内閣)では、外務大臣として入閣する予定であったが、大隈重信首相がこれを拒否、憲政党分裂を生む原因となった。1900年(明治33年)発足の立憲政友会に参加したことで伊藤博文から信頼を受け、第4次伊藤内閣において逓信大臣として初入閣。その逞しい政治手腕から「おしとおる」と渾名された。

星の政治主張・手法は、積極財政(軍備拡張・産業育成のための基盤整備)により地域への利益誘導を図り、支持獲得・党勢拡大を目指す積極主義で、収賄などの噂も絶えなかったことから(本人は否定[15])、日本型(政党政治)の原型を築いたとされる[17]

1900年(明治33年)11月15日、東京市会汚職事件に関して市参事会員を兼任していた星逓信相らが告発され、12月20日星は辞表を提出。同月22日、原敬が後任として任命された。日本裏面史より見れば、三多摩村野常右衛門森久保作蔵など大阪事件以降の自由党右派の壮士たちを政界に引き入れていることから、たとえ星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には星の責任も大きいと言われる。

1901年(明治34年)6月21日午後3時過ぎ、東京市会議長に就任していた星は、東京市庁参事会議事室内で市長・助役・参事会議員らと懇談中、元東京市四谷区学務委員の伊庭想太郎心形刀流剣術第10代宗家)によって刺殺された[18]。満51歳没。墓所は東京大田区池上本門寺

1913年大正2年)、星光および遺族は1万冊余の蔵書を慶應義塾大学に寄贈、「星文庫」として保管されている[19]

移民政策の推進

1894年(明治27年)、官約移民の廃止にあたって、星は私約移民体制の設置を日本政府に働きかけ、民間移民会社の認可を取り付けた。以後、日本の民間会社を通した斡旋が行われるようになった。当時は海外移民と国内との送金業務は横浜正金銀行が独占していたが、星は五大移民会社(広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社)のうち主要数社の事業に関与していた[20]。当時ホノルルで稼働していた鉄道を国内へも導入しようとした井上敬次郎の活動にも助力した[21]

エピソード

 
星亨
  • 神奈川県出仕時代、大坂から付いてきた4、5人の書生と起居を共にし、街に出て飲みかつ放吟しては邏卒と揉み合うことしばしばで、大蔵省出仕時の明治5年6月、車夫を殴打し邏卒に乱暴したとして、閉門百日を命じられ、8月に大蔵省も失職する。上京した両親は、失職した星が大勢の食客を抱えているのに呆れ、「この際書生を断ってはどうだ」と説いたが、有意な人材だから及ぶ限り養うと言って聞かず、愛蔵の蔵書も売り払って食費に充てたという。

  閉門が解けた時陸奥は生活を変えさせるために、陸奥の屋敷に移るよう勧め、星が書生がいるからと断ると陸奥は書生たちも一緒に来てもかまわぬといい、「食客の食客」という世間に例のない姿で星は陸奥屋敷に移った。

  • 横浜税関時代、荷物の検査を強要されたと抗議し、外交官特権を主張するロシア臨時公使に対して、氏名を告げなかったそちらが悪いと突っぱね、所定の波止場以外から乗下船しようとする外国人に対しても密輸封じの厳重な取り締まりを行った。
  • 1874年(明治7年)5月の「女王事件[9]:星が英国領事への英文書翰中の Her Majesty's Court を訳文で「女王陛下ノ裁判庁」と表記したところ、ロバートソン領事が「女帝」でなく「女王陛下」となっているのは不敬無礼だと難癖を付けてきた。星は英国でEmpressでなく、Queenを自称しているのだから、「女王陛下」で誤りではないと突っぱねたところ、翌6月に英国公使パークスが外務省に乗り込み、「貴国天皇ヲ男王ト云フモ宜敷星ノ女王ト云セシヲ罰セスンハ我モ亦タ貴国男王ト唱フヘシ」など星の免職と謝罪を迫った。困惑した三条太政大臣と寺島宗則外務卿は、星に文書を改め、陳謝するよう言い含めたが、星は先方こそ不当と上申を行った。英国の威勢を恐れる政府が、公文書には外国君主の公称はすべて「皇帝陛下」を宛てることとし(明治7年太政官布告98号)、星に対しては、贖罪金二円を科し、横浜税関長を免職にして、パークスをなだめ事件を落着させた。
  • 1893年(明治26年)11月29日、衆議院では同院議長であった星に対する議長不信任案が166対119で可決された。しかし、星は「条約改正を支持する自分に対する硬六派国民協会立憲改進党ら)による嫌がらせでやましい所はない」として、これを拒否(大日本帝国憲法下の議院法では衆議院議長は勅任官扱いのため任免権は天皇にあった)。そこで明治天皇に対して星の解任を求める上奏案を152対126で可決した。対して、天皇からは「議院自ら不明なりしとの過失」として衆議院の怠慢を責める勅答が下された(これは、星への不信任を当時の外務大臣陸奥宗光への間接的攻撃とみた伊藤博文が宮内大臣土方久元に要請して出させたものとされる)。以降、星がなおも議長席に着席して職務を続ける姿勢を見せたため、12月5日には星の登院停止一週間の懲罰が決議された。しかし、登院停止が切れた12月12日に星がまたも議長席に座ろうとしたため、12月13日に最も重い懲罰である議員(除名)が議決(185対92:除名要件である出席議院の三分の二を超える67%が賛成)されたため、星は衆議院議員の資格を失い、自動的に議長を解任された。
  • 墓所のある池上本門寺境内には星亨の銅像も置かれていたが、第二次世界大戦中の金属供出のため、台座を残して撤去された。戦後、遺族により台座は寄進されたものの、現在は日蓮上人の像が置かれている。
  • 数々の汚職疑惑で当時から金権政治の権化と評されているが、私生活では慎ましく実直であったと言われる。後任の逓信大臣原敬も「淡泊の人にして金銭についてはきれいな男」と評し、また、中村菊男によれば「世間に伝えられているスキャンダルは、政敵の悪宣伝か、門下生や壮士のそれが多かったものと思われる」という[22]。星の存命中はもとより現代の政治家でも妾を持つことは珍しくないが、女性関係の潔癖さは星を非難している側でさえも認めざるを得ず、また、書生を含めて家中の者には愛情を持って接したと伝えられる。自らの資産形成に関してもあまり意を用いなかったと見られ、暗殺後に明らかになった星の遺産は1万円余りの借財のみだったという。

栄典

位階
勲章

訳書

  • 『海外万国偉績叢伝』萬巻楼(全4巻)、1872年。
  • 『印紙税略説』大蔵省(有島武 共訳)、1873年。
  • 『各国国会要覧』麗沢館、1886年。
  • 『英国法律全書』東生亀次郎、1873-78年(底本はウィリアム・ブラックストンの著書の短縮版)[26]
    • 首巻 (NDLJP):785749
    • 第1編 巻之1 (NDLJP):785750
    • 第1編 巻之2 (NDLJP):785751
    • 第3編 巻之1上 (NDLJP):785752
    • 第3編 巻之1下  (NDLJP):785753
    • 附録 全  (NDLJP):785754

主な評伝

配下

利光鶴松小林清一郎大塚常次郎横田千之助渡辺亨磯部保次林謙吉郎小久保喜七日向輝武井上敬次郎渡辺勘十郎菅原伝などがいる[27][28]

星は海外経験を積ませて党の原動力とする狙いから渡米者の一部を支援し、帰国後には自由倶楽部員を政党機関紙誌などの要職や移民事業などに重用した。彼らは星派の中核を担う人材となり、自由倶楽部員も多くが星派に連なり、壮士の政治上昇の契機となった[29]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g 松尾章一「星亨」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館及び「星亨」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』Britannica Japan(コトバンク参照)。
  2. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』545頁。
  3. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』546頁。
  4. ^ 明治編年史編纂会『新聞集成明治編年史』 第11巻、168-169頁:「星逓相辞職を強要せらる」『日本』1900年12月17日、「星逓信大臣遂に辞表提出」『時事新報』同年12月22日(国立国会図書所蔵)。
  5. ^ 中嶋繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社(青春文庫)、2004年、206-207頁。
  6. ^ 権田益美「横浜開港場における英語教育−ヘボンを介して開設した『横浜英学所』」『郷土神奈川』55号、神奈川県立図書館、2017年3月。
  7. ^ a b c d 石井重光「星亨 英学と近代主義」『近畿大学語学教育部紀要』第5巻1号、2005年7月。
  8. ^ 後年大蔵省出仕となる際の肩書き参照(国立公文書館所蔵「和歌山県貫属星亨租税寮七等出仕被命ノ件」明治5年9月)。
  9. ^ a b 国立公文書館「横浜税関長租税権助星亨英国領事ニ贈書中女王ノ文字ヲ記載セル罪ヲ贖フ」明治7年6月28日参照(外務省によるパークス・寺島会談、大蔵省による経緯取調、星本人、司法省の上申書及び翻訳書翰の写しを収録)。
  10. ^ 星のミドル・テンプル入学及び資格取得年に関しては以下の書籍参照。Foster, Joseph (1885) . Men-at-the-bar: A Biographical Hand-list of the Members of the Various Inns of Court, Including Her Majesty's Judges, Etc. (2nd ed.), London: Printed for the author. 星についての記載(誤記含む)は以下の通り:"Hoshi, Toru, a student of the Middle Temple 25 Jan., 1875, called to the bar 13 June, 1877 (only son of Taijinu Hoshi, of Tokio, Japan); born, 1851. Tokio, Japan" また、同時期の英国への留学生については、井上琢智「幕末・明治・大正期イギリス日本人留学生資料(2)」『経済学論究』第57巻、関西学院大学経済学部(2003年4月)など参照。
  11. ^ 福島事件及び高等法院裁判の概要については、手塚豊「自由黨福島事件と高等法院」『法學研究:法律・政治・社会』Vo1.32、No.11、慶応義塾大学法学研究会(1959年)など参照。
  12. ^ 『新聞集成明治編年史』第6巻、551-553頁(国立国会図書所蔵) 。
  13. ^ 『新聞集成明治編年史』第7巻、502-503頁:「星亨帰朝す」『東京日日新聞』1890年10月9日(国立国会図書館所蔵)。
  14. ^ 『衆議院議員総選挙一覧』1912年2月(国立国会図書館所蔵)。
  15. ^ a b 中嶋繁雄、前掲書、204-205頁。
  16. ^ 『新聞集成明治編年史』第9巻、236頁:「星亨朝鮮法務顧問となる」『東京日日新聞』1895年4月14日(国立国会図書館所蔵)。
  17. ^ 江戸人物事典「星亨」(Weblio 辞書参照)。
  18. ^ 中嶋繁雄、前掲書、202-203頁。
  19. ^ 慶応義塾大学三田メディアセンター所蔵「星文庫」概要:明治39年(1906年)星光および遺族より慶應義塾へ委託、大正2年(1913年)に正式に寄贈されました。江戸から明治にかけての和漢書の古典と、政治、経済、法律資料を中心とする、和漢書5732冊、洋書4817冊のほか、若干の中国書が含まれています。
  20. ^ 井上敬次郎「自叙伝 波乱重畳の七十年(抄)」国立国会図書館電子展示会「ブラジル移民の100年」より。
  21. ^ 飯田耕二郎「移民の魁・星名謙一郎のハワイ時代後期─ワイアルア耕地監督・新婚の頃─」『大阪商業大学論集』第9巻4号、大阪商業大学商経学会、2014年。
  22. ^ 中嶋繁雄、前掲書、206頁。
  23. ^ 国立国会図書館所蔵『太政官日誌 明治七年』第24号(コマ番号110参照)。
  24. ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
  25. ^ a b 『官報』第5391号「叙任及辞令」1901年6月23日。
  26. ^ 首巻及び附録の序文によれば、本編部分の底本は1867年刊行の英国裁判官 R. Malcolm Kerr(馬耳幹格爾)編纂による短縮版 The Student's Blackstone (斯周典徳貌刺屈斯的翁)。また、附録の底本は英国留学で入手した1876年発兌のもので、前掲書以降の英国法の改革・異同が抄録されているという。
  27. ^ 有磯逸郎(横山源之助)「移民界の活動者」〜移民の散布地図、国立国会図書館電子展示会「ブラジル移民の100年」より。
  28. ^ 「鬼怒川水電を倒せ」『東京毎日新聞』1912年12月2日-12月10日(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ・新聞記事文庫参照)。
  29. ^ 海野大地「官民調和への移行と院外者―20世紀転換期における自由党系青年運動を通して」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、立命館大学人文科学研究所、2019年。

関連項目

外部リンク

  • 星亨 | 近代日本人の肖像
  • 星亨関係文書(寄託) | 国立国会図書館 憲政資料室[]
  • 星亨伝 - 前田連山『星亨伝』の復刻版(著者の孫によるデジタル化)
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