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坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日1836年1月3日〉- 慶応3年11月15日1867年12月10日〉)は、日本幕末土佐藩士志士、経営者。直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注 1]。他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。

坂本さかもと 龍馬りょうま
坂本龍馬
通称 直柔、龍馬、才谷梅太郎
生年 天保6年11月15日1836年1月3日
生地 日本土佐藩高知
没年 慶応3年11月15日1867年12月10日
(満31歳没)
没地 日本京都
活動 尊皇攘夷公議政体
土佐藩(高知県)
所属 海援隊
受賞 正四位
京都霊山護国神社霊山墓地
靖国神社
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概略

(土佐藩郷士)の家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立後の慶応3年11月15日1867年12月10日)に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋において暗殺された。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力であるが[1]、異説もある(詳細は「近江屋事件」を参照)。贈正四位。

来歴

幼少年期

 
高知市の生誕地・地図

龍馬は天保6年11月15日1836年1月3日[注 2]土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・坂本直足(八平)、母・の間の二男として生まれた。22歳年上の兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した[2]。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった[3][4]

龍馬の父・坂本直足は婿養子として坂本家を継いだ人物で、実祖父の山本家(山本信固)や、その宮地信貞(宮地家を相続)は共に白札郷士であり、龍馬は血統上は上士の人物である[5]

幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母の幸を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育する。12歳まで夜尿が直らなかったが、乙女が夜中に厠に起こして連れて行き克服させた。乙女は身長176cm、体重110kgを超える当時としては尋常ならざる体躯を持ち、剣術にも秀でていたため、龍馬の剣術師範も務めた。龍馬は終生、乙女への感謝と恋慕を失わず、現存する龍馬直筆の乙女宛の手紙は16通残っている[要出典]

江戸遊学

武術小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から『修業中心得大意』[6]を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[7](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[8])に寄宿し、北辰一刀流桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。ただし、『汗血千里駒』では坂本龍馬は千葉周作の門人としており[注 3]、嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある[9]兵学窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している[10]

 
黒船来航

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている [注 4][11]

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した[12]。そこでは砲術漢学蘭学などの学問が教えられていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[6] を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎長岡謙吉らを紹介されている[13]。また、この時期に徳弘孝蔵の下で砲術とオランダ語を学んでいる。

安政2年(1855年12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[14]。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している[15]

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす[16]。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり[注 5]、北辰一刀流「初目録」である。ただ、千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」など様々な同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠も残っている[注 6]。 同年9月に土佐へ帰国した。

土佐勤王党

土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭薩摩藩主・島津斉彬宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

安政7年(1860年3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[17]

同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが[18]、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前美作備中備後安芸長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。 

同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、(朝廷)を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[19]。これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[20]

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[21]。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

脱藩

挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[6] を授かったあとに、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている[22]。萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫児島惟謙がいた[23]

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[24] 龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。このとき、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[注 7]

脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日寺田屋騒動が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない[25]

一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[25]。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり[26]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。

勝海舟と神戸海軍操練所

 
勝海舟

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した[注 8][注 9]。 この期間、龍馬は土佐藩の同志のほか長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作らと交流している[27][28]12月5日、龍馬は間崎哲馬や近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した[29][注 10]12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった[30]

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[31]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[32]。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い[32][33][34]。いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている[注 11]

勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助新宮馬之助望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである[35]

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした[注 12]5月17日付の姉・乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候…すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」[注 13] と近況を知らせている。

 
神戸海軍操練所跡碑・地図

龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太[注 14]が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎弘瀬健太切腹させられた。平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[注 15] と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行して米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候[注 16] と述べている。

8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年5月に切腹となっている)。

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた[36][注 17]。翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶して再度の脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に『海軍問答』を贈り、海軍建設に関する諸提案をした[37]

5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した[38][注 18]6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている[39]

この時点では龍馬と海舟は知らなかったが[40]6月5日池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後藩宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。

八月十八日の政変と池田屋事件のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少しあとの8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている[41]。8月中旬頃[42]に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している[43][注 19]

望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり[44]10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老の小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月12日に神戸海軍操練所は廃止になった。

亀山社中(のちの海援隊)

 
亀山社中跡(現亀山社中記念館、長崎市地図

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており[45]五代友厚らは慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資した(亀山社中[注 20])。またイギリス式銃兵隊を養成する宇和島藩児島惟謙らとも親交を結んだ。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり[46][注 21]、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。

長州藩では前年の元治元年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵し、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

 
中岡慎太郎

幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった[47]。西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた[要出典]。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した[48]。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった[49]

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている[50]

薩長同盟

 
京都伏見寺田屋・地図
 
慶応2年または3年に、上野彦馬が長崎に開業した上野撮影局で撮影された肖像写真

慶応2年(1866年1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった[51]。龍馬が1月20日に下関から[注 22] 京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた[52]。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった[53]。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日[注 23]、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した[54]。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している[55]。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている[53]

龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある[56]。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる[注 24]。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる[注 25][57]

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた[注 26]。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している[58]

龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」[注 27] と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという[59]

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる[60]。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山日当山温泉塩浸温泉鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている[注 28]

5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した[61][注 29]。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っている[58]

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。

海援隊

 
龍馬と海援隊士
 
海援隊旗。二曳(にびき)と呼ばれていた。

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている[62]。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。

将軍・家茂の死後、将軍後見職一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃[63]、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ[64]。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで[65]、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた[66]

 
後藤象二郎

尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩陸奥陽之助越後長岡藩白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた[67]。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。

北海道開拓計画

龍馬は海運通商活動以外に蝦夷地の開拓も構想しており[68]、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している[69]。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している[70]

亀山社中創設後に薩摩藩小松帯刀の支援で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入したが、1866年(慶応2年)5月2日に暴風雨により沈没し、社中のメンバー12人も遭難死してしまう。また、同年に薩摩藩の保証でウォルシュ商会から購入した洋型帆船「大極丸」は、支払いの問題から運航不能となった。

海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」も発生した。龍馬は大洲藩籍の蒸気船いろは丸を1航海500()で契約して運用していたが、1867年(慶応3年)4月23日の晩、瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖ではるかに大型の紀州藩船「明光丸」と衝突し、大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに[注 30]紀州藩側の過失を厳しく追及。さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった[71][注 31]

1867年(慶応3年)11月10日、死の直前の林謙三宛ての手紙は大極丸のことが述べられていた[72][73][注 32]

薩土討幕の密約

 
薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、乾退助(のちの板垣退助)は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張し、江戸の土佐藩邸に水戸勤皇浪士・中村勇吉相楽総三らを隠匿していた(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され、庄内藩などを挑発して戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)。

慶応3年5月(1867年6月)、乾退助は中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議した。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎が仲介して退助を薩摩の西郷隆盛に会わせることとなり、中岡は以下の手紙を書いた[74]

一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。

(慶応三年)五月廿一日 清之助[注 33] 再拝

(西郷)南洲先生[注 34] 玉机下

これにより、同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居で、土佐藩の谷干城毛利恭助らとともに、薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと武力討幕を議し、

一、勤王一途に存入、朝命を遵奉する。
一、薩摩、土佐の両藩は互いに討幕に向けて藩論を統一させる。
一、両藩は、幕府との決戦に備えて軍備を調達し、練兵を行う。
一、薩摩藩が幕府と決戦となれば、土佐藩はその時の藩論の如何にかかわらず(藩論を討幕に統一出来ていなかったとしても)、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩藩に合流する。(その為には、集団での脱藩もあり得る)
一、上記は乾退助が切腹の覚悟を以って誓約し、その証として、中岡慎太郎が人質となって薩摩藩邸に籠る。
(中岡が人質となる事に関しては「それには及ばない。全面的に乾の去就を信頼する」との西郷の言を以て除外)
附則として、現在、土佐藩邸に隠匿している水戸藩の勤王派浪士は、薩摩藩が責任を持って預かる[75]

との大意を確認し薩土討幕の密約を結ぶ[75]。翌日5月22日(太陽暦6月24日)、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げた[74][75]。また、薩摩藩側も討幕を目指す薩土密約締結の翌日にあたる5月22日(太陽暦6月24日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された[74]

中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを知らせ、土佐勤王党の同志に、

天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。 — 中岡慎太郎

と「檄文」を飛ばした[76]

入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる。

龍馬の進言と大政奉還

 
坂本龍馬座像(慶応3年頃撮影)

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年6月9日(1867年7月10日)に藩船「夕顔」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。

  1. 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
  2. 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
  3. 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
  4. 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正
  5. 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
  6. 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
  7. 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
  8. 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

以上の八項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた[77][78]。しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる[77]。同年11月に書かれた新政府綱領八策(後述)の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる[注 35][57]

薩土盟約

慶応3年6月(1867年7月)、龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助毛利恭助谷干城らが薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。

そのため、一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。次いで後藤は6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛と小松帯刀および大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝弟寺村左膳真辺正心(栄三郎)が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日芸州藩が加わって(薩土芸盟約)が成立した。

7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた[79])。

薩土盟約の解消

 
『大政奉還図』邨田丹陵

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩、土佐両藩は薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになる。

9月2日付けの、桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に送られた手紙が残されている[80]。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を千丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。

土佐勤王党員の釈放

慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。

9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には、

一筆啓上仕候。然ニ先日の御書中、大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、彌憤発可仕奉存候。其後於長崎も、上國の事種々心にかゝり候内、少〻存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、藝州蒸氣船をかり入、本國ニつみ廻さんと今日下の關まで參候所、不計(はからず)も伊藤兄上國より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本國をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希ふにひまなく、殘念出帆仕候。小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐[]に)かへり乾(板垣)退助ニ引合置キ、夫(それ)より上國(京都)に出候て、後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕(つかまつるべき)と存申候。先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認もの御出來に相成居申候ハんと奉存候。其上此頃の上國の論は先生に御直ニうかゞい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。

(慶應三年)九月廿日、(坂本)龍馬。

木圭先生左右[81]

大政奉還が受け容れられなかった場合は後藤を国へ返し乾退助を出すと述べている[81]

9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く[82]

これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。浦戸入港の時、龍馬が土佐藩参政・渡辺弥久馬斎藤利行)に宛てた書簡には、

一筆啓上仕候。然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。參がけ下ノ關に立より申候所、京師の急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数も上坂 是も三大隊斗かとも被存候との約定相成申候。小弟(坂本龍馬)下ノ關居の日、薩大久保一蔵長ニ使者ニ来り、同國の蒸汽船を以て本國に歸り申候。御國の勢はいかに御座候や。又、後藤(象二郎)參政はいかゞに候や。 京師の周旋くち(口)下關にてうけたまわり實に苦心に御座候。乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。

(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬

渡辺先生 左右

と書き送っている。

9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す[82]

9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助は土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜられる[82]が、10月8日(太陽暦11月3日)には大政奉還に真っ向から反対して土佐藩歩兵大隊司令役を解任され、失脚する[82]

再び大政奉還論へ

土佐藩は乾退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで藩論が揺れ動く中、10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。しかし乾退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した[83]

大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり[84] — 乾退助

徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなた(後藤象二郎)はその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」[注 36] と激しい内容の手紙を送っている[85]。一方、将軍・徳川慶喜は10月13日二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。

討幕の密勅

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。

(訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。 朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ[86]

しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。

新政府綱領八義

展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の『新官制擬定書』を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある[87][88]。ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり(『千里駒後日譚』)、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって[注 37] 尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。

また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる『新政府綱領八策[89]』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある[注 38]

暗殺(惨殺)

 
霊山墓地にある龍馬の墓(左側、右は中岡慎太郎の墓)

後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した[90]。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し[90]、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している[90]

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し、面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところ、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られ、ほとんど即死に近い形で殺害された[91][92]。享年33(満31歳没)。奇しくも、自身の誕生日に暗殺された。

当初は新選組の関与が強く疑われた[93]。また、海援隊士たちは紀州藩による、(いろは丸事件)の報復を疑い、12月6日陸奥陽之助らが紀州藩御用人の三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭して捕縛された新選組局長の近藤勇は、部隊の小監察であった土佐藩士谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名は全く出しておらず、斬首の理由としても言及していない[94]。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている[91][95][注 39]。その一方で、薩摩藩黒幕説や後藤象二郎プロモーター説、フリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている[96][97][98]


墓所は京都市東山区京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社靖国神社にも祀られている。

年譜

年齢は数え年

和暦 (西暦)
坂本龍馬関連事項 参考事項
天保6年(1835年 01 11月15日[注 2])龍馬出生。
弘化3年(1846年 12 (この年)母・死去。
(この年)小高坂の(楠山塾)で学ぶが、退塾。
弘化5年/
嘉永元年(1848年
14 (この年)日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。 (12月)山内豊信が土佐藩襲封。
嘉永5年(1852年 18 (7月)中浜万次郎アメリカ合衆国から土佐へ帰国。
嘉永6年(1853年 19 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。
(6月頃〜9月頃)臨時御用として品川藩邸警衛にあたる。
(12月)佐久間象山の私塾に入門[12]
6月3日黒船来航
6月22日)将軍徳川家慶死去。
11月23日徳川家定将軍宣下。
嘉永7年/
安政元年(1854年
20 6月23日)土佐に帰郷。
(この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。
3月3日日米和親条約締結。
安政2年(1855年 21 12月4日)父・八平死去。
安政3年(1856年 22 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年 23 8月4日)盗みを働き切腹沙汰となった仲間(山本琢磨)を逃がす。
安政5年(1858年 24 (1月)千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授[注 5]
(9月)剣術修行を終えて帰国。
4月23日井伊直弼が幕府大老に就任。
6月19日日米修好通商条約調印。
7月6日)将軍・家定死去。
(9月)安政の大獄始まる。
10月25日徳川家茂に将軍宣下。
安政6年 (1859年 25 2月26日)土佐藩主・山内豊信隠居。以後、山内「容堂」と号す。10月に幕府より蟄居謹慎を命じられる。
安政7年/
万延元年(1860年
26 (1月〜11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。
3月3日桜田門外の変
万延2年/
文久元年(1861年
27 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。
(8月頃)土佐勤王党に加盟。
(10月)武市の密使として長州へ向かう。
(8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成。
文久2年(1862年 28 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。
3月24日沢村惣之丞とともに脱藩
(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。
12月5日)幕府政事総裁職松平春嶽に面会。
(12月)勝海舟に面会して弟子となる[注 40]
4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。
4月23日寺田屋騒動
文久3年(1863年 29 2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。
4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所と(神戸海軍塾)の設立を許可。
(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける[注 12]
(10月)海軍塾塾頭をつとめる[注 17]
5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃。
(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。
(7月)薩英戦争
8月18日八月十八日の政変
(8月〜9月)天誅組の変
9月21日)武市半平太投獄。
文久4年/
元治元年(1864年
30 (2月)帰国命令を無視して再脱藩。
5月14日)神戸海軍操練所創設[注 18]
6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く。
11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。
6月5日池田屋事件
7月19日禁門の変
7月23日)幕府が長州征討を発令。
8月5日7日四国連合艦隊が下関を砲撃
(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。
(12月)長州で高杉晋作が挙兵 (功山寺挙兵)。
元治2年/
慶応元年(1865年
31 3月18日)神戸海軍操練所廃止。
(5月)薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。
閏5月21日中岡慎太郎土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける[50]
閏5月11日)武市半平太切腹。
慶応2年(1866年 32 1月22日[注 23])龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる[注 25]
1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋遭難)。
2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。
(3月〜4月)負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行する。
(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
(6月〜9月)第二次長州征伐。
7月20日)将軍・家茂死去。
12月5日徳川慶喜に将軍宣下。
12月25日孝明天皇崩御。
慶応3年(1867年 33 1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。
(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没
(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
6月9日後藤象二郎とともに船中八策を策定[注 35]
6月22日薩土盟約成立。
10月16日戸田雅楽と「(新官制擬定書)」を策定。
(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草。
11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される(近江屋事件)。
1月9日)睦仁親王践祚(明治天皇)。
10月14日大政奉還
12月9日王政復古の大号令
慶応4年/
明治元年(1868年
1月3日鳥羽・伏見の戦い
(4月)江戸開城
(閏4月)海援隊解散。
明治4年(1871年 8月20日綸旨を受け、姉・千鶴の長男・高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継ぐ。
明治16年(1883年 (この年)板垣退助の要望により『土陽新聞』が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。
明治24年(1891年 4月8日)贈正四位

評価

 
今幡西衛の尽力により建てられた京都円山公園 龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の銅像(写真は戦後再建された2代目の像)・地図
 
海援隊京都本部のあった材木商「酢屋」(京都市中京区
 
「坂本龍馬寓居之趾」石碑(酢屋前・地図
 
「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」石碑(京都市河原町地図
 
龍馬・慎太郎の墓がある霊山護国神社(京都市東山区
 
護国神社の龍馬・慎太郎像
 
坂本龍馬宿泊所跡 升屋屋跡(広島県福山市地図
 
龍馬自筆の『新政府綱領八策』(国立国会図書館)

死後

 
本山白雲作の坂本龍馬像(高知桂浜地図

箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。明治3年(1870年)8月に政府は龍馬と中岡慎太郎の家名存続を沙汰し[99]、龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して坂本家を継ぐことになり、高知県から永世15人口(30)が下された[100]。なお、他の維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,800石、後藤象二郎は1,000石であった[101]

坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され[102]、大評判となったことにより一躍その名が知られるようになった[103]。ただ、当時の龍馬はまったくの無名ではなく、『新選組始末記』の作者として有名な西村兼文が編集し、明治9年(1876年)1月に出版された志士番付『(近世報国赤心士鑑)』において[104]、龍馬は東西七段の表で二段目の三番目の位置である。この番付の最上段は藩主や公家・家老クラスで、家士クラスは二段目から。東の一番は長州・来島又兵衛、二番目も長州の久坂玄瑞高杉晋作は龍馬の次の東の四番目である。しかも龍馬は土佐では最上位にランクされているので、十分大物の扱いであろう[105]。学校教科書にも掲載され、歴史教育でも扱われるようになる[106]

明治24年(1891年)4月8日、中岡慎太郎、武市瑞山、吉村虎太郎と共に正四位が贈られ、同年5月8日に富士見町富士見軒(現・靖国神社)で式典が開催された[107]

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本がロシア帝国と国交を断絶した明治37年(1904年2月6日、皇后・美子の夢枕に白衣を着た37、8歳の男性が立ち、「微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ」[108] と名乗り、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まることとなった[109]。この頃、寺田屋伊助[注 41] が偶然龍馬の手紙を持って逓信大臣大浦兼武のもとを訪れており、皇后は龍馬を哀悼して弔慰金を下賜している。これに感動した伊助は基金を募り、同年12月、京都霊山護国神社に「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」を建立した。題字は皇后宮大夫を務めていた香川敬三が揮毫、碑文は大浦兼武が撰んでおり、田中光顕の弔歌も刻まれている[108]。また寺田屋の隣に複製の碑が設置されている[108]

庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、第二次世界大戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画・演劇が多数製作されている[110]

昭和2年(1927年)、旧自由党員の今幡西衛らは「坂本中岡両先生銅像建設会」を組織し、その銅像建設資金に充てようと自ら『雋傑坂本先生傳』を執筆した。これが昭和9年(1934年)1月、京都円山公園に建立された龍馬と中岡慎太郎の銅像である。

昭和3年(1928年)には高知の青年たちが募った寄付により、本山白雲の製作による龍馬の銅像が桂浜に建立された[111]。第二次世界大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは「海軍の祖」であるとして供出を免れている。

昭和31年(1956年)に山岡荘八著『坂本竜馬』が刊行。さらに、昭和37年(1962年)に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた[112]。以後も、龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。

平成12年(2000年)に朝日新聞社が実施した、西暦1000年から1999年までの日本史の人物を対象にした「あなたが一番好きな政治リーダー」の読者投票において、龍馬は1457票を集めて1位を獲得した[113]

異説

2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける説が現れ、テレビ番組でも取り上げられている[114][115][116]。 主な論者は作家の加治将一[117]など。

異説の内容は以下のようなものである。

  • 龍馬は脱藩後に継続的に接触したグラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中創設、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある[118]

人物

坂本家の家系・家族

女性関係

龍馬の女性関係は華やかである。恋人とされる女性には史実で明らかになっているだけでも平井加尾千葉さな子、そして妻の楢崎龍などがいる。

その他に、高知の漢方医の娘・お徳[119] や公家の腰元・お蝶[120]、長崎の芸妓お元[121]、京都の旅宿の娘・お国[122] などの名が伝わるが詳細真偽は不明である。多くの女性は、坂本龍馬と出会って、命がけで助けようとしたとされる。フィクションの世界では、断片情報から龍馬が女性に好かれたとの記録が残っていることから、さらに多くの女性を登場させている。これは、藩の要職にあったほかの歴史的志士と違い、一介の素浪人にすぎない龍馬の記録が極めて限定的なことから、記録があまり残っていないため推測の余地が大きく「おそらくこうであったろう」との作家らの推測で記述されている。その多くは、美男子との記述が特に残されていない龍馬が女性に好かれたのは、人間的魅力に溢れていたことを示唆し、その女性関係も龍馬人気の一助となっている。

手紙と変名

 
龍馬の署名
 
龍馬の手紙(京都国立博物館蔵)
慶応2年(1866年)12月4日付乙女宛 重要文化財
  • 現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、約130通が確認されている。もっとも多いのは姉・乙女宛のもので13通、次に伊藤助太夫佐々木高行宛の各12通、これに三吉慎蔵宛が10通、桂小五郎宛が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ[注 42] 連名のものも2通、兄の坂本権平・乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の坂本春猪連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。妻・お龍宛の手紙は1通のみ残されている。
  • 姉・乙女に宛てた手紙には文久3年5月の手紙のように「勝海舟の門弟になったこと」を「エヘンエヘン(咳ではなく「偉いだろう」の意)」とユーモラスに自慢しているものがあり、龍馬の暖かい人間性をほうふつとさせている。その後も乙女には詳しく自分の行動を報告する習慣があったようだ[123]
  • 龍馬の変名としては、慶応2年(1866年)11月16日付で溝淵広之丞に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいたに うめたろう)」とあるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。ほかに「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」などがある。なお、これは変名ではないが、慶応3年(1867年)11月13日付と推定される陸奥宗光に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」のを署名している[124]

関義臣「坂本龍馬を、りうまと訓む物があるが、これはれうまで無くてはならぬ。りうは関東の訛りで、関西では総てれうと云う。りうの彫物、富士越のりうと云っては、関西では何のことやら解らぬ。やはりれうの彫物、富士越のれうである。坂本自身もれうまと云っていた。薩州の文書の中には、坂本良馬と書いたのがあるのを見ても、れうと訓むべきが当然ぢゃ」(『実録維新十傑』第9卷)

有馬藤太「先生(西郷)は龍馬(りょうま)を龍馬(りうめ)と呼んでいた」

愛用の品

 
S&W モデル1
  • 当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の(檜垣清治)が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣は拳銃を早速買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である[125]
  • 龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。ひとつは高杉晋作から贈呈された (モデル 2 アーミー)(英語版)32口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。後日、兄・坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。しかし同事件の際に紛失し、のちに買い求めたのが S&W (モデル 1 1/2)(英語版)32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉・乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺されたときも携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
  • 龍馬はその生涯において多数の刀剣を所持している。龍馬が所持していたとされる刀4振りのうち「吉行」など2振りは京都国立博物館が、1振りは高知県立坂本龍馬記念館が所蔵し、1振りは行方不明になっているが、これら4振りを研ぎなおす前に墨でとった「押し型」が北海道で発見されている[126]近江屋事件の際には刃渡り二尺二寸で反り浅めの新刀、銘「吉行」を帯びていた。福永酔剣によれば、これは刺客(見廻組渡辺吉太郎が自供)の太刀(無銘、大和保昌一派、刃渡り二尺四寸程度。明治三十年代に佐伯理一郎氏に譲渡される)を鞘ごと受けた際に匁の部分を三寸ほど、刀身に至るまで削られている。[127]。なお龍馬の手紙には、随所にこの吉行の話が出てくる。彼が兄・権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬ごろ長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行くときは、いつもこれを差して、兄からの贈り物だと自慢していた[128][注 43]。龍馬の死後、この吉行は明治4年(1871年)に坂本家を継いだ甥の小野淳輔の手元に残された[129]
  • 他に龍馬が所有していた刀剣として、三吉慎蔵に形見として与えられた伝相州正宗の無銘刀、姉の岡上乙女に形見として与えられた刃渡り二尺四分直刀の銘備前修理亮盛光と刃渡り八寸二分半 直刃無銘(1867年に毛利敬親に謁見した際に拝領した粟田口吉光の短刀と福永酔剣は推察している)、お竜が形見としていたものの明治時代に手放したあと、宮内省へ献上され射撃コンクール優勝者の松永正敏に下賜されたのち軍刀として拵え直された磨り上げ無銘 伝備前元重、晩年のお竜が世話になった旧広島藩(安芸藩広島新田藩かは不明)士族西原只乃進へ贈与し大正元年に山内豊中が購入した刃渡り二尺 大磨り上げ無銘 鞘書き相州(秋広)、同じくお竜が手放したと思われる田内宇吉氏所蔵の左行秀の短刀、第二次世界大戦前に高知城懐徳館が龍馬の佩刀として陳列していた刃渡り二尺六寸六分 銘相州鎌倉住(国秀) 嘉永七歳八月日、生前の龍馬が薩摩志士吉井幸輔に贈った大磨り上げ無銘 茎に「神崎則休指料」の銀象眼入り(明治四十年に(本阿弥成善)が肥後の延寿物と鑑定、鞘書き)が確認されている[131]。これらのうち、松永正敏の旧蔵した元重は昭和に入り山形県の個人の所有となり、その縁から山形市最上義光歴史館に寄託されている(通常非公開)[132]
  • 龍馬が姉・乙女などに宛てる手紙などの紙入れとして使った三徳。江戸時代に紙入れとして流行したもの。遊里に出入りし、都々逸を謡ったという粋なセンスを感じる品。牡丹と菊の模様が綴織され、金具には二羽の蝶がデザインされている。縦十四・五センチ、横二一・五センチ。

身体的特徴

  • 一説では身長6尺(約182cm)[注 44]とされ、江戸時代の当時としてはかなりの大男であったといえる。なお、ほかの研究では174cmや169cm・62kg[133]という説もある。
  • 親戚である武市半平太も大男で、武市とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。

その他のエピソード

龍馬のエピソードには、素朴な人間愛を感じるものが多い[134]

  • 龍馬の従弟山本琢磨が切腹を申しつけられたとき、「こんなことで死ぬな。ばかばかしい」と逃がしたという。琢磨はのちにニコライの弟子となり、大司教として一生を終えた[134]
  • 母親代わりに育ててくれた三女で姉の乙女をとにかく好きで信頼していたのか、手紙も乙女や乙女との連名の手紙が妻のお龍よりはるかに多い。恋した女性の相談も乙女に話していた。

歴史教育

坂本龍馬が掲載された教科書

明治初年教科書(学制発布から検定制度確立まで)[106]
  • 『近世史畧. 卷ニ』(椒山野史)著、(紀伊国屋才輔)・(紀伊国屋徳蔵)(明治5年)[135]
  • 『近事紀略』(石津賢勤)編、(北村四郎兵衛)(明治6年)[136]
  • 『近世事情.三篇』 (山田俊蔵) 著者刊 (明治7年) [137]
  • 『近世紀聞.七編巻一』条野伝平染崎延房共著金松堂(明治8年)[138]
  • 『近世内国史略. 利』(太田秀敬) 編、(万笈書屋)(明治10年)
  • 『近世太平記.巻之中』(吉村明道) 、片野東四郎(明治8~12年)
  • 『近世史略. 再刻 巻二』(山口謙)、(稲田佐兵衛)等(明治8~13年)
教科書検定制度確立以降(明治20年〜)
  • 『皇國史要.下』勝浦鞆雄 著、吉川半七版(明治27年)
  • 『中学日本史』(重田定一)・(高山栄一)著、(内田老鶴圃)(明治32年)
  • 『中学日本史 下巻』(箕田申之)著、吉川半七(明治33年)
  • 『高等小學校.尋常小學校用唱歌科教科書.國母陛下の御瑞夢』(加藤義清)作歌、(寺田伊助)編(明治37年)[139]
  • 『日本史』(島村東洋)編、(修学堂)(明治41年)
  • 『日本通史』(高桑駒吉)著、弘道館(大正元年)
  • 『国民日本歴史』(高橋俊乗)、(藤山房)(大正7年)
  • 『新日本史』(中等教科研究会)、 (有精堂書店)(大正8年)
  • 検定小學唱歌.第六学年 皇后陛下御瑞夢』納所弁次郎 編、(京文社)(昭和4年)
  • 『増訂国民日本歴史』(高橋俊乗)著、冨山房(昭和5年)
  • 『大日本青年教科書.巻2』(大日本図書株式会社)編、大日本図書(昭和11年)
  • 『新修国史 初学年用』(及川儀右衛門)著、星野書店(昭和14年)
国定教科書(明治36年~昭和20年)

関連作品

小説・ドラマ・漫画・ゲームなど。

関連施設・銅像など

名前を冠した施設・銅像・展示など 。

関連項目

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道公立高校入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。
    •   坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応3年1月20日付姪春猪宛. - . 
    •   坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応元年9月9日付池内蔵太家族宛. - . 
  2. ^ a b 別説に10月15日生(坂崎紫瀾『汗血千里駒』)と11月10日生(瑞山会『維新土佐勤王史』)がある。11月15日説では、現行の太陽暦に照らすと龍馬が生まれた日は年明け後になり、1836年になる。
  3. ^ 清河八郎記念館が所蔵する『玄武館出席大概』にも坂本龍馬の名前が見られる。
  4. ^ (嘉永6年9月23日付書簡)原文「(前略)、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく。」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.46.*  坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/嘉永6年9月23日付父坂本八平直足宛. - . 
  5. ^ a b 「北辰一刀流長刀兵法目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
  6. ^ (安政5年7月付書簡) 原文「又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り申候。今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく (後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.51.
    •   坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/安政5年7月? 坂本乙女宛. - . 
  7. ^ 従来の通説では、刀を授けたのは二姉の栄になっているが、これは才谷屋七代坂本源三郎の養女宍戸茂の証言(『土佐史談』115号)を採用した司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1963年)以降に信じられた話で、これ以前の史料では刀を授けたのは三姉の乙女になっていた。昭和63年に柴田佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見されて彼女の没年が脱藩の17年前の弘化2年(1845年)と明らかになり、通説は覆されている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.62-63、139-140
  8. ^ 「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」瑞山会『維新土佐勤王史』
  9. ^ 千葉佐那の回顧(「千葉灸治院」)では安政5年に帰国した以降、龍馬は小千葉道場に現れていないと述べており、脱藩後の小千葉道場寄宿を疑問視する見方もある。『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20/学研[]パブリッシング、2009年)p.52
  10. ^ 拝謁の紹介者については明らかではなく、龍馬史研究家の平尾道雄は千葉重太郎と推定し、池田敬正(『坂本龍馬』中公新書)と松浦玲(『勝海舟』中公新書)は横井小楠、飛鳥井雅道は間崎哲馬と推定している。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.173-176。
  11. ^ (文久3年3月20日付書簡)「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、(後略)」 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.60-61.*  坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年3月20日付坂本乙女宛. - . 
  12. ^ a b 『維新土佐勤王史』を典拠に一般には五千両として知られているが、より信頼性の高いこの時に龍馬と対面した横井小楠の記録では千両になっている(『横井小楠関係史料』)。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.30
  13. ^ (文久3年5月17日付書簡)原文「この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.64-67.*  坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年5月17日付坂本乙女宛. - . 
  14. ^ 文久3年(1863年)3月に「留守居組」になり上士に取り立てられている。
  15. ^ (文久3年6月29日付書簡)原文「平井の収二郎ハ誠にむごい いもふとかをなげき、いか計か」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.75-87
    •   坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛. - . 
  16. ^ (文久3年6月29日付書簡)原文「(前略)右申所の姦吏を一事に軍いたし、打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事二いたすくとの神願二て候。(以下略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』 (講談社学術文庫、2003年) pp.75-87.*  坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛. - . 
  17. ^ a b ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)、(濱口裕介)「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  18. ^ a b しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
  19. ^ この西郷と龍馬との初対面の逸話について時期的に疑問とする見方もある。佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)pp.62-68
  20. ^ 「亀山社中」の名称は同時期の記録にはなく単に「社中」と記されていた。「亀山社中」の名称は明治期の文献以後に生じている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.144-145
  21. ^ 初期の株式会社は出資者のことを「社中」と称した。ただし、亀山社中の「社中」にはそのような意味は含まれていないのではないかという人もいる。坂本藤良『幕末維新の経済人』pp.201-203。
  22. ^ ユニオン号所有権問題の談判を行っていた。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.92-94。
  23. ^ a b 1月21日とする説もある。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.100
  24. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)、芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(高城書房、1998年)、維新史料編纂事務局『維新史』(1941年)など。
  25. ^ a b 青山忠正を皮切りに、芳即正、(三宅紹宣)、宮地正人高橋秀直、佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」 (『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
  26. ^ 上京した際に会見した大久保一翁から警告されていた(『三吉慎蔵日記』)。
  27. ^ 原文「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」  坂本龍馬. 坂本龍馬/坂本龍馬手帳摘要. - . 
  28. ^ 小松清廉が先であるという異論もある(「日本初の新婚旅行は小松帯刀? 通説“龍馬”に異論登場」『読売新聞』2008年10月16日)。
  29. ^ 『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.110-117、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20/学研パブリッシング、2009年)p.91。
  30. ^ ただし、万国立法は海事のことは扱っておらず基準として出したにすぎない。* 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 大築拙蔵訳『万国公法』
  31. ^ しかし、近年沈没したいろは丸に対して行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。リーフレット京都 No.216 (2006年12月) (PDF) - (財) 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
  32. ^ のちの北海道には開拓使として医学者のスチュアート・エルドリッジ、鉱山開発者としてベンジャミン・スミス・ライマントーマス・アンチセルなど、多くのアメリカ人がお雇い外国人として派遣されることとなった。
  33. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  34. ^ 西郷隆盛のこと。
  35. ^ a b 龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、「船中八策」の原文書が存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)、松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  36. ^ (慶応3年10月13日付書簡)原文「建白の議、万一行はれざれば固より必死の後覚悟故、御下城これ無き時は、海援隊の一手を以て、大樹参内の道路に待受け、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否二論なく、先生に地下に御面会仕り候」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.483-484.*  坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応3年10月13日付後藤象二郎宛. - . 
  37. ^ 世界の咄しも相成可申か(陸奥宗光宛 慶応三年十一月七日)
  38. ^ 中岡慎太郎は、薩土討幕の密約が締結された慶応3年(1867年)5月、これを知らせる書簡を土佐勤王党の同志たちに送った際、「天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である」と檄文を飛ばしている。(『中岡慎太郎先生』尾崎卓爾著)
  39. ^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)p.309。1994年の初版時ではやや薩摩藩陰謀説に含みを持たせた構成だったが、2008年の文庫版のあとがきで著者の一人の菊地明はその後の新史料の発見から京都見廻組であると断定している(同書pp.350-351)。
  40. ^ 一説には勝を暗殺するために面会に行ったと言われるが、色々と異説があり、正確な史実は確定していない。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。
  41. ^ 龍馬が寺田屋で襲撃された際に女将であったお登勢の子。
  42. ^ おやべなる人物は乳母とも姪の春猪とも言われている。
  43. ^ ただし。福永は著書『日本刀物語』の中で「この陸奥守吉行は寺田屋遭難以前に龍馬が薩摩屋敷を訪ねた折、西郷から譲り受けたものである。この際、龍馬は西郷の近従である熊岡にそれまでの差料であり、直に注文して鍛たせた刃渡り二尺八寸二分の銘武州住(源正雄) 安政二年八月日 を与えている。この後、西郷は陸奥守吉行が誰かからの預かりものであった事を思い出したが、今更返せとも言えなかった」という旨のエピソードを紹介しており、間接的に先の話を否定している[129]。しかし、後年福永が記した『日本刀百科事典』には西郷のこのエピソードは記されておらず、第三者の記した文献にて同様のエピソードは確認されていない[130]
  44. ^ 写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm(「(爆笑問題のもうひとつの龍馬伝)」NHK総合テレビ、2009年12月30日放送)。

出典

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  4. ^ 『坂本龍馬とその時代』p.19
  5. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』宮地家の項目参照。
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  10. ^ 『武士道教育総論』pp.155〜182).
  11. ^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.72
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  18. ^ 『維新土佐勤王史』p.63
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  21. ^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.17-18
  22. ^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.18-19
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    • Wikiquote坂本龍馬
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参考文献

  • 瑞山会『維新土佐勤王史』 (冨山房、1912年)
  • 勝安芳 『勝海舟全集〈21〉氷川清話』(講談社、1973年)
  • 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』(光風社出版、1988年)(ISBN 4-87519-400-5)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)(ISBN 978-4-06-159546-0)
  • 宮地佐一郎 『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)(ISBN 978-4-06-159628-3)
  • 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)(ISBN 978-4-404-03513-4)
  • 松浦玲 『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)(ISBN 978-4-00-431159-1)
  • 佐々木克 『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)(ISBN 978-4-309-22519-7)
  • 菊地明、伊東成郎、山村竜也 『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03757-2)
  • 菊地明『龍馬暗殺 最後の謎』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03769-5)
  • 相川司『龍馬を殺したのは誰か-幕末最大の謎を解く』(河出書房新社、2009年)(ISBN 978-4-309-40985-6)
  • 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03762-6)
  • 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)(ISBN 978-4-05-605751-5)
  • 『坂本龍馬伝』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03647-6)
  • 『幕末土佐の群像』(学研パブリッシング、2009年)(ISBN 978-4-05-605578-8)
  • 山岡悦郎「薩長盟約と龍馬伝説」『人文論叢』第30巻、三重大学人文学部文化学科、2013年、107-122頁、NAID 120005228807。 

関連文献

原典

  • 『雋傑坂本先生傳』今幡西衛著、坂本中岡両先生銅像建設会、1927年
  • 尾佐竹猛解題 『近世社会経済学説大系〈第14〉 坂本龍馬・由利公正集』、誠文堂新光社1935年
  • 平尾道雄監修、宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
    • 限定版、1978年5月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.907 - 952
  • 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
  • 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店
    • 増補3訂版、1982年11月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.987 - 1032
  • 宮地佐一郎編・解説 『坂本龍馬全集』 光風社書店、(ISBN 4-87519-400-5)
    • 増補4訂版、1988年5月、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: pp.1045 - 1090
  • (岩崎英重)・日本史籍協会編 『坂本龍馬關係文書〈1・2〉』、〈日本史籍協会叢書. 115・116〉東京大学出版会
    • 日本史籍協会、1926年刊の複製、1967年、1988年12月〜1989年1月
  • 日本史籍協会編 『坂本龍馬関係文書〈1・2〉』、北泉社
    • 日本史籍協会、1926年刊の複製、1996年9月
  • 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集.付.関係文書・詠草』、旺文社文庫、1984年
  • 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』、PHP研究所〈PHP文庫〉、1995年8月
  • 宮地佐一郎編・解説 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』、講談社講談社学術文庫〉、2003年12月、(ISBN 4-06-159628-4):上記2冊を増補。
  • 京都国立博物館編 『坂本龍馬関係資料』 京都国立博物館1999年8月

書籍

  • (弘松宣枝)『坂本龍馬』(民友社、1896年)[1]
  • 瑞山会編『維新土佐勤王史』(冨山房、1912年、睦書房、1969年、日本図書センター、1977年。マツノ書店、2004年)[2]
  • 千頭清臣『坂本龍馬』(博文館、1914年、土佐史談会、1985年、新人物往来社、1995年-新版は『坂本龍馬伝』に改題)(ISBN 978-4-404-02234-9)
  • 寺石正路『土佐偉人伝』(沢本書店、1914年、歴史図書社、1976年)
  • 尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(文化生活研究会、1925年、のち、『尾佐竹猛全集.1』に収録、実業之日本社、1948年、『尾佐竹猛著作集9』に収録、ゆまに書房、2006年)(ISBN 978-4-8433-1899-7)
  • (坂本中岡銅像建設会)編『雋傑坂本龍馬』(坂本中岡銅像建設会事務所、1927年、象山社、1981年)
  • 徳富蘇峰『土佐の勤王』(民友社、1929年)
  • 白柳秀湖『坂本龍馬』(平凡社「現代大衆文学全集 第二十巻」、1929年、作品社、2009年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末』(万里閣書房、1929年、白竜社、1968年)
  • 平尾道雄『維新暗殺秘録』(民友社、1930年。白竜社、1967年、新人物往来社、1978年。河出文庫、1990年)(ISBN 978-4-309-47196-9)
  • 尾佐竹猛『幕末維新の人物』(学而書院、1935年、『尾佐竹猛著作集.20』に収録、ゆまに書房、2006年)(ISBN 4-8433-1887-6)
  • (維新史料編纂事務局)編『維新史』全5巻(明治書院、1939〜1941年、吉川弘文館、1983年)
  • 平尾道雄『海援隊始末記』(大道書房、1941年。白竜社、1968年、中公文庫 1976年、新版2009年)(ISBN 978-4-12-200386-6)、(ISBN 978-4-12-205250-5)
  • 尾佐竹猛『明治維新』上・中・下の一・二(白揚社、1942〜1944年・1949年、宗高書房、1978年、『尾佐竹猛著作集 16・17』に収む、ゆまに書房、2006年)
  • 平尾道雄『武市瑞山と土佐勤王党』(大日本出版社峯文荘、1943年)
  • 遠山茂樹『明治維新』(岩波全書、1951年、『遠山茂樹著作集.1巻』に収録、岩波書店、1991年、岩波同時代ライブラリー、1995年、岩波現代文庫、2000年)(ISBN 4-00-260211-7)、(ISBN 978-4-00-600032-5)
  • 井上清『日本現代史I 明治維新』(東京大学出版会、1951年、新装版2001年)(ISBN 4-13-026305-6)
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  • 山本大『真説坂本竜馬』(人物往来社、1968年。新人物往来社、1974年-新版は『坂本竜馬』に改題)
  • 土居晴夫『坂本家系考』(土佐史談会、1968年)
  • 松浦玲『勝海舟』(中公新書、1968年)(ISBN 978-4-12-100158-0)
  • (今井幸彦)『坂本竜馬を斬った男』(新人物往来社、1971年、文庫版2009年)(ISBN 978-4-404-03780-0)
  • 石井孝『勝海舟』(吉川弘文館、1974年)(ISBN 978-4-642-05062-3)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年、講談社学術文庫、2000年)(ISBN 4-8288-3245-9)、(ISBN 978-4-06-159546-0)
  • 絲屋寿雄『坂本龍馬』(汐文社、1975年)
  • 山本大『近世土佐と民権思想』(高知市民図書館、1976年)
  • 尾崎秀樹『歴史文学論』(勁草書房、1976年)(ISBN 978-4-326-85026-6)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(中公文庫、1975年、改版2009年)(ISBN 978-4-12-205250-5)
  • 平尾道雄『中岡慎太郎 陸援隊始末記』(中公文庫、1977年、改版2010年)(ISBN 978-4-12-205274-1)
  • 嶋岡晨『龍馬追跡』(新人物往来社、1977年。復刊『坂本龍馬の生涯』新人物往来社、1983年)
  • 市井三郎『歴史を創るもの』(第三文明社、レグルス文庫、1978年)(ISBN 447601092X)
  • 松岡英夫『大久保一翁』(中公新書、1979年)(ISBN 978-4-12-100536-6)
  • (石尾芳久)『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)(ISBN 978-4-380-79204-5)
  • 平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』(新人物往来社、1979年)(ISBN 978-4-404-00968-5)
  • 入交好脩『武市半平太』(中公新書、1982年)(ISBN 978-4-12-100645-5)
  • 嶋岡晨『坂本龍馬の手紙』(名著刊行会、1983年)
  • 宮地佐一郎『坂本龍馬 男の行動論』(PHP研究所、1983年)(PHP文庫、1985年)(ISBN 978-4-569-56354-1)
  • 吉永豊海『土佐海事法制史』(山海堂出版、1983年)
  • 坂本藤良『幕末維新の経済人』(中公新書、1984年)(ISBN 978-4-12-100726-1)
  • 坂本藤良 『坂本龍馬と海援隊 - 日本を変えた男のビジネス魂』(講談社、1985年)(ISBN 978-4-06-202517-1)
  • 土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社、1985年)(ISBN 978-4404-01318-7)
  • 平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)(ISBN 978-4-404-01277-7)
  • 平尾道雄他『坂本龍馬読本』(新人物往来社、1985年)
  • 古川薫『坂本竜馬』(講談社、1985年)
  • (関家新助)『近代日本の反権力思想』(法律文化社、1986年)(ISBN 978-4-589-01288-3)
  • 山田一郎『坂本龍馬 隠された肖像』(新潮社、1987年)(ISBN 978-4-10-367601-0)
  • 鹿野政直『「鳥島」は入っているか』(岩波書店、1988年)(ISBN 978-4-00-001497-7)
  • 小西四郎他編『坂本龍馬事典』(新人物往来社、1988年、コンパクト版、2007年)(ISBN 978-4-404-01484-9)、(ISBN 978-4-404-03446-5)
  • 山田一郎他『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』(新人物往来社、1988年)(ISBN 978-4-404-01483-2)
  • 石井寛治『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館、1989年、小学館ライブラリー、1993年)(ISBN 978-4-09-461012-3)
  • 山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)(ISBN 4-10-367602-7)
  • 井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)(ISBN 978-4-12-101033-9)
  • 宮地佐一郎『龍馬百話』(文春文庫、1991年)(ISBN 978-4-16-733802-2)
  • 下関市立長府博物館編『坂本龍馬と下関』(下関市立長府博物館、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(PHP研究所、1992年)(ISBN 978-4-569-53681-1)
  • 田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年)(ISBN 978-4-08-195015-7)
  • (吉村淑甫)『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)(ISBN 978-4-620-10461-4)
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  • 田中彰『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年)(ISBN 978-4-642-03660-3)
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  • 吉田常吉『幕末乱世の群像』(吉川弘文館、1996年)(ISBN 978-4-642-07479-7)
  • 青山忠正『幕末維新 / 奔流の時代』(文英堂、1996年)(ISBN 4-578-00657-3)
  • 木村幸比古『龍馬の時代』(高知新聞社、1997年、増補版高知新聞社、2000年。淡交社、2006年)(ISBN 4-87503-221-8)
  • 新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社、1997年)(ISBN 978-4-404-02508-1)
  • 松岡司『武市半平太伝』(新人物往来社、1997年)(ISBN 978-4-404-02473-2)
  • (菊地明)『龍馬 最後の真実』(筑摩書房、1998年、ちくま文庫、2009年)(ISBN 978-4-480-85759-0)、(ISBN 978-4-480-42586-7)
  • 芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(髙城書房、1998年)(ISBN 978-4-92475282-5)
  • 松岡司『(中岡慎太郎伝)』(新人物往来社、1999年)(ISBN 978-4-404-02694-1)
  • 小美濃清明『坂本龍馬・青春時代』(新人物往来社、1999年)(ISBN 978-4-404-02802-0)
  • (前田秀徳)『龍馬からのメッセージ』(自費出版、2000年/発売: 南の風社)写真多数
  • 青山忠正『明治維新と国家形成』 (吉川弘文館、2000年)(ISBN 978-4-642-03692-4)
  • 菊地明『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社、2000年)(ISBN 978-4-404-02870-9)
  • 下関市立長府博物館編『三吉慎蔵と坂本龍馬』(下関市立長府博物館、2001年)
  • 松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)(ISBN 978-4-8460-0289-3)
  • 山本栄一郎『真説・薩長同盟』(文芸社、2001年)(ISBN 978-4-8355-2479-5)
  • 黒鉄ヒロシ『坂本竜馬』(PHP研究所、2001年)(ISBN 978-4-5695-7497-4)
  • 菊地明『坂本龍馬進化論』(新人物往来社、2002年)(ISBN 978-4-404-02977-5)
  • 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)(ISBN 978-4-16-660221-6)
  • 井上勝生『日本の歴史18. 開国と幕末変革』(講談社、2002年)(ISBN 978-4-06-268918-2)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)(ISBN 978-4-06-159546-0)
  • (宮川禎一)『龍馬を読む愉しさ』(臨川選書、2003年)(ISBN 978-4-653-03918-1)
  • 松岡司『定本坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)(ISBN 978-4-404-03116-7)
  • 成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』(朝日選書、2003年)(ISBN 978-4-02-259828-8)
  • 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)(ISBN 978-4-06-159628-3)
  • 福井市立郷土歴史博物館企画・制作・編集『天下の事成就せり - 福井藩と坂本龍馬 - 』(同館刊、2004年)
  • (菅宗次)『龍馬と新選組』(講談社選書メチエ、2004年)(ISBN 978-4-06-258309-1)
  • 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)(ISBN 978-4-642-03393-0)
  • 小椋克己土居晴夫監修『図説坂本龍馬』(戎光祥出版、2005年)(ISBN 978-4-900901-50-6)
  • 京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』(京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)(ISBN 978-4-7924-0607-3)
  • 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』 (新人物往来社、2006年)(ISBN 978-4-404-03428-1)
  • 井上勝生『シリーズ日本近現代史(1)幕末・維新』(岩波新書、2006年)(ISBN 978-4-00-431042-6)
  • 高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)(ISBN 978-4-642-03777-8)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書、2007年)(ISBN 978-4-569-69065-0)
  • 松浦玲『坂本龍馬』 (岩波新書、2008年) (ISBN 978-4-00-431159-1)
  • 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)(ISBN 978-4-404-03627-8)
  • 新・歴史群像シリーズ 20『坂本龍馬と海援隊』(学研パブリッシング、2009年)(ISBN 978-4-05-605751-5)
  • 佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)(ISBN 978-4-309-22519-7)
  • 菊地明・伊東成郎・山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03757-2)
  • 菊池明『龍馬暗殺 最後の謎』(新人物往来社、2009年)(ISBN 978-4-404-03769-5)
  • 相川司『龍馬を殺したのは誰か』(河出書房新社、2009年)(ISBN 978-4-3094-0985-6)
  • 北影雄幸『龍馬伝説』(桜の花出版、2009年)(ISBN 978-4-4341-3944-4)
  • 星 亮一『坂本龍馬 その偽りと真実』 (静山社、2009年)(ISBN 978-4-8638-9002-2)
  • 坂崎紫瀾『坂本龍馬伝 明治のベストセラー「汗血千里の駒」』(東邦出版、2010年)(ISBN 978-4-8094-0859-5)
  • 磯田道史『龍馬史』(文藝春秋、2013年)(ISBN 978-4-16785801-8)
  • 宮川禎一『坂本龍馬からの手紙』(教育評論社、2014年)(ISBN 978-4-905706-87-8)
  • 坂本登・三吉治敬他監修、森重和雄・倉持基編『坂本龍馬関係写真集』(国書刊行会、2014年)(ISBN 978-4-336-05809-6)
  • 小美濃清明『龍馬の遺言 近代国家への道筋』(藤原書店、2015年)(ISBN 978-4-86578-052-9)
  • 山村竜也『世界一よくわかる新選組』(祥伝社、2017年)(ISBN 978-4-396-61621-2)

論文

  • (岩崎鏡川)「坂本龍馬先生に就て」(『土佐史談』15号、1926年)
  • 尾佐竹猛「坂本龍馬の『藩論』」(『明治文化研究』9号、1934年、『土佐史談』46号、1934年に再録)
  • (松村巌)「坂本龍馬」(『土佐史談』68号、1939年、『続新選組史料集』新人物往来社、2006年に再録)
  • (赤尾藤一)「幕末に於ける薩長両藩の提携成立と坂本龍馬等土州藩士の周旋運動に就いて」(『中部日本歴史地理学会論文集』1号、飯島書店、1941年)
  • 森銑三「坂本龍馬」(『伝記』1月号、1943年、『森銑三著作集 続編』第1巻、中央公論社、1992年に再録)
  • (塩見薫)「才谷屋のことなど」(『寧楽史苑』8号、1952年)
  • 塩見薫「文久年間の大政返上論-坂本龍馬伝の一説-」(『日本歴史』95号、1956年)
  • 高橋信司「いわゆる「藩論」」(『高知短期大学社会科学論集』2号、1956年)
  • 塩見薫「坂本龍馬語録と伝えられる『英将秘訣』について」(『(歴史学研究)』208号、1957年)
  • 塩見薫「坂本龍馬の元治元年-薩摩藩への結びつきを中心に-」(『日本歴史』108号、1957年)
  • 池田敬正「土佐藩における討幕運動の展開」(『史林』40巻5号、1957年、三宅紹宣編『幕末維新論集4 幕末の変動と諸藩』吉川弘文館、2001年に再録)
  • 平尾道雄「龍馬と勝海舟書翰」(『土佐史談』93号、1958年)
  • 井上清「坂本龍馬」(『朝日ジャーナル』157号、1962年、『日本の思想家』I、朝日新聞社、1962年、および『新版日本の思想家』上、朝日新聞社、1975年に再録)
  • 原口清「「藩論」覚え書」(『日本歴史』176号、1963年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所考」(『土佐史談』115号、1966年)
  • 土居晴夫「兵庫海軍局始末」(『歴史と神戸』25号、1967年)
  • 土居晴夫「海軍操練所始末」(『歴史と神戸』26号、1967年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所史考」(『軍事史学』13号、1968年、「坂本龍馬の神戸時代」と改題の上、1980年発行の高知市民図書館編『平尾道雄追悼記念論文集』に再録)
  • (広谷喜十郎)「勃興期の才谷屋に関する一考察」(『土佐史談』122号、1969年)
  • 土居晴夫「神戸海軍塾の青年群像」(『神戸史談』226号、1970年)
  • 鵜沢義行「幕末における尊攘的開明論と坂本龍馬の周辺について」(『日本法学紀要』11・12号、1970年)
  • 平尾道雄「高杉晋作と坂本龍馬」(『中央公論』86巻5号、1971年)
  • (飯田嘉郎)「伊呂波丸事件について」(『(海事史研究)』16号、1971年)
  • 船津功「「大政奉還」をめぐる政権構想の再検討-坂本龍馬「新官制案」の史料批判を中心に-」(『歴史学研究』375号、1971年)
  • 井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)(二)」(『史学雑誌』81巻11号・81巻12号、1972年)
  • 石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」(『歴史学研究』380号、1972年)
  • 井上勲「激動期の政治リーダー-坂本龍馬と中岡慎太郎-」(『エコノミスト』51巻42号、1973年)
  • 山本大「坂本龍馬の大義料」(『日本歴史』322号、1975年)
  • 池田敬正「司馬遼太郎『竜馬がゆく』をめぐって」(『歴史評論』317号、1976年)
  • 絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて-」(『歴史評論』317号、1976年)
  • 飛鳥井雅道「「奉還」と「討幕」-坂本龍馬の三つの文書- (上)」(京都大学『人文学報』4号1、1976年)
  • 鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」(『岩波講座日本歴史24別巻1』岩波書店、1977年)
  • 尾崎秀樹「龍馬像の変遷」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 井上勲「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • (亀掛川博正)「公議政体論と土佐藩の動向(I)(II)(III)」(『(政治経済史学)』154・156・157号、1979年)
  • (鈴木教道)「西郷隆盛の思想と人格-幕末における坂本龍馬の人間像との比較において-」(『現代科学論叢』13号、1979年)
  • 山本大「坂本龍馬の思想と行動」(『歴史と人物』129号、1982年)
  • 井上勝生「維新変革と後発国型権力の形成-王政復古クーデタを中心に-」(『(日本史研究)』271号、1985年、井上勝生著『幕末維新政治史の研究』塙書房、1994年に再録)
  • マリアス・ジャンセン、秦郁彦訳「坂本龍馬と近代日本」(『土佐史談』170号、1985年)
  • 山本大「海援隊と長崎商会」(『土佐史談』170号、1985年)
  • 土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談』170号、1985年)
  • (広谷喜十郎)「坂本龍馬と立川関」(『土佐史談』170号、1985年)
  • 小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 山本大「藩意識をなぜ持たなかったか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 毛利敏彦「薩長同盟をなぜ画策したか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 松浦玲「「船中八策」の真意は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557号、1986年)
  • (石尾芳久)「坂本龍馬の死-言論と暴力-」(『関西大学法学論集』36巻3・4・5合併号、1986年)
  • 松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)
  • 土居晴夫「検証・坂本龍馬の書状」(『歴史と神戸』144号、1987年)
  • (荒尾親成)「検証・坂本龍馬の書状-土居晴夫氏に答える-」(『歴史と神戸』145号、1987年)
  • 遠山茂樹「坂本龍馬が活動した時代」(小西四郎他編『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年、のちに『遠山茂樹著作集』第1巻、岩波書店、1991年に再録)
  • 井上清「明治維新と中岡慎太郎-坂本龍馬とくらべて-」(北川村『明治維新と中岡慎太郎』1990年、『井上清史論集1明治維新』岩波現代文庫、2003年に再録)
  • 松浦玲「坂本龍馬の実像」(『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年、松浦玲『検証・龍馬伝説』、論創社、2001年に再録)
  • (梶輝行)「幕末土佐藩における西洋砲術の導入・伝習-徳弘孝蔵を中心に-」(『史叢』50号、1993年)
  • 箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(『歴史評論』530号、1994年)
  • (堤克彦)「横井小楠の交友関係-小楠と龍馬を中心として-」(『熊本史学』70・71合併号、1995年)
  • 一坂太郎「薩長同盟の新事実-坂本龍馬周旋説の虚実-」(『歴史読本』41巻19号、1996年、のちに新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』、新人物往来社、1997年に再録)
  • 家近良樹「「大政奉還論」の系譜」(『歴史読本』42巻8号、1997年)
  • (三上一夫)「福井時代の坂本龍馬」(『歴史読本』42巻8号、1997年)
  • (岸本覚)「幕末海防論と「境界」意識-「志士」集う「場」を中心に-」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)
  • 木村幸比古「龍馬関係資料について」(『霊山歴史館紀要』13号、2000年)
  • 青山忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳 -薩土盟約と政権奉還建白-」(佐々木克編『それぞれの明治維新』吉川弘文館、2000年、青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8号、2001年、青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 木村幸比古「海舟と龍馬」(『霊山龍馬歴史館紀要』14号、2001年)
  • (福田一彰)「大政奉還に至る坂本龍馬の尊王思想について」(『霊山歴史館紀要』15号、2002年)
  • (木村幸比古)「龍馬の剣術」(『霊山歴史館紀要』15号、2002年)
  • (松下祐三)「薩長商社計画と坂本龍馬-坂崎紫瀾の叙述をめぐって-」(『駒沢史学』59号、2002年、[3]
  • (三宅紹宣)「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』647号、2002年)
  • 高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41号、2002年、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年)
  • (北野雄士)「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3号、2004年)
  • 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49巻7号、2004年)
  • (三野行徳)「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49巻7号、2004年)
  • (松下祐三)「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49巻7号、2004年)
  • (前田宣裕)「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49巻7号、2004年)
  • 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)
  • (中城正堯)「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』30号、2004年)
  • 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』64号、2005年)
  • 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452号、2005年、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 青山忠正「文久・元治年間の政局と龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • (宮川禎一)「坂本龍馬の生涯と書簡」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』、京都新聞社、2005年)
  • (三浦夏樹)「土佐と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • (古城春樹)「下関と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正「龍馬は『暗殺』されたのか」(NHK学園機関紙『れきし』92号、2005年)
  • 松岡司「坂本龍馬「京都日誌」」(『歴史読本』51巻7号、2006年)
  • 大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』18・19号、2006年)
  • 桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討-第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』51巻10号・51巻11号・51巻12号、2006年)
  • 桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • (濱口裕介)「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)

外部リンク

  • 高知県立坂本龍馬記念館
  • 北辰一刀流兵法 千葉道場
  • 創造広場アクトランド『龍馬歴史館』
  • 北海道坂本龍馬記念館
  • 龍馬の生まれたまち記念館
  • 国立国会図書館 坂本龍馬の政体構想「新政府綱領八策」
  • 国立国会図書館 「近代日本人の肖像 坂本竜馬」
  • 坂本龍馬:作家別作品リスト - 青空文庫
  • 高知市立自由民権記念館
  • 坂本龍馬.com
  • 番組エピソード 大河ドラマの歴代“龍馬”-NHKアーカイブス
  •   日本語版ウィキソースには坂本龍馬著の原文があります。
  •   ウィキソースには、坂本龍馬の手紙の原文があります。
  •   ウィキソースには、坂本龍馬関係文書の原文があります。
  •   ウィキメディア・コモンズには、Sakamoto Ryoma (カテゴリ)に関するメディアがあります。
  •   ウィキクォートには、坂本龍馬に関する引用句があります。

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