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銚子市

銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の関東地方の東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。水揚数量が全国1位である[1]銚子漁港を擁し、国内有数の規模と機能を有する水産都市として重要な役割を果たしている。江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり、市内には醤油製造工場が集積する。東総地域における政治・経済の中心都市である。

ちょうしし 
銚子市
銚子市旗 銚子市章
1934年(昭和9年)1月15日告示
日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
市町村コード 12202-5
法人番号 6000020122025
面積 84.20km2
総人口 54,918([編集])
推計人口、2023年4月1日)
人口密度 652人/km2
隣接自治体 旭市
香取郡東庄町
茨城県神栖市
市の木 サザンカ
市の花 オオマツヨイグサ
市の魚 イワシ
銚子市役所
市長
([編集])
越川信一
所在地 288-8601
千葉県銚子市若宮町1-1
北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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概要

 
犬吠埼からの日の出

太平洋に突出し三方を水域に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 2]。沖合は黒潮親潮が交わる好漁場で、特定第3種漁港である銚子漁港北海道から沖縄まで全国各地から漁船が入港する水産物流通基地の役割を担っており、水揚数量は28万トンを超え全国1位[1]を誇る。利根川河口沿岸には広大な後背地が埋立造成され、第1卸売市場・第2卸売市場・第3卸売市場を中心として、水産会社、水産加工団地、冷凍冷蔵施設、製氷工場、関連運送業者・鉄工所・造船所等が集積し、大規模な冷凍・冷蔵能力を有しており、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[2]、名実共に日本随一の水産都市として発展している。銚子沖で漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された銚子を代表する高級魚である[3]。漁港周辺には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している。江戸の食文化を生んだ関東風(濃口醤油)が発祥した醤油の銘醸地でもあり[4]、街の中心部には国内トップクラスの大手醤油メーカーであるヤマサ醤油(業界2位[5])、ヒゲタ醤油(業界4位[5])の主力工場が立地し、国内における醤油の一大製造拠点となっている。各社では蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品化成品等の研究開発を進めている[6]。国・県の出先機関金融機関が集中する東総地域の政治・経済の中心都市であり、人口集中地区(DID)は東総地域最大である[7]

銚子半島に人が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、海上台地の密林を背景に三方を太平洋に臨むこの地では、数千年の間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれ[8]、市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器骨角器が出土している[9]歴史時代に入ってから、半島に続く広大な下総丘陵一帯は下海上国造の所領として繁栄し、その区域は香取郡南半から匝瑳郡の大部に及んでいた。後に郡郷時代となっても、海上郡は15郡の大郡であった。下って平安時代末期、武士が勃興する頃になると、中央貴族桓武平氏の末孫で房総の大族となった千葉氏の支流、東氏・海上氏が領有するようになり[8]、船木郷には海上氏の居城として中島城が築城された[9]

江戸時代に入ると東廻り海運と利根川水運が確立したことで、海運関連業を中心に、上方から紀州移民によって伝えられた鰯漁や醤油醸造、各種商工業が盛んとなり、東国屈指の港湾都市として発展した。坂東三十三観音第二十七番札所である飯沼観音門前町として諸国から巡礼者や納経者も集まり、松岸・本城・田中には花街が栄えた。幕末には豊漁を祝い銚子大漁節が作られて川口神社に奉納され[10]、銚子を代表する民謡となった。明治以降は犬吠埼灯台の点灯、日本初の無線電信局である銚子無線電信局の開局、総武本線成田線の開通、銚子遊覧鉄道の敷設、保養別荘地の開発、近代的漁港の建設等が進み、図書館劇場カフェその他の文化娯楽施設も充実して、県下有数の人口と商工業が集積した近代都市へと成長した。1933年(昭和8年)には市制を施行し、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が発足した[11]

第二次世界大戦末期の銚子空襲で市中心部は壊滅的な被害を受け、戦後の戦災復興都市計画事業により、首都外郭の工業基地として幹線道路・区画街路・公園等の都市基盤が整えられた。高度経済成長期以降は、銚子大橋の開通、銚子漁港の大型基地化、名洗港臨海工業地域の造成、これらに伴う食品製造業の発展、海岸地域の観光開発、豊里ニュータウンの建設、各種公共施設の整備等が進んだ。平成に入ってからは「房総リゾート地域整備構想」の重点整備地区に指定され、水産ポートセンターの建設、名洗港マリンリゾート構想、利根かもめ大橋の建設等が推進された。名洗港一帯には、収容隻数1000隻を目指す銚子マリーナを中心として、海浜緑地公園・人工海浜・千葉科学大学等が整備され、サーフィンイルカウォッチングシーカヤック等の海洋性スポーツ・レクリエーションの拠点港湾となると共に、海上からのアクセス拠点機能を果たしている[12]1994年(平成6年)からは、首都圏中央連絡自動車道と銚子市を結ぶ銚子連絡道路の整備が進められている[12]21世紀に入ると、西部の台地地帯に大型風力発電所が多数建設され、関東最大規模の風力発電拠点となっている[13]

銚子半島の海岸一帯は国定公園に指定され、関東最東端の岬である犬吠埼や東洋のドーバーと称される[14]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦日本の渚百選に選定された君ヶ浜、地球の丸く見える丘展望館が建つ北総最高峰の愛宕山等、屈指の景勝地を有する観光都市である。歴史文化遺産が多数存在する古都でもあり[13]、外川の町並みや銚子縮は日本遺産に登録されている[15]。犬吠埼には化石海水源泉が湧出し、ホテル旅館が立ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している[16]。市外・県外から年間約250万人の観光客が訪れており、東京銚子間には特急列車しおさい」が運行されている。毎年8月には銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約6000発の花火が打ち上げられる花火大会、約1000人の担ぎ手による神輿巡幸が行われて銚子の街は祭り一色となる[17]。銚子市では、これらの観光資源を活用したシティプロモーションの展開により、移住・定住や長期滞在・交流型ワーケーションを促進している[18]

犬吠埼灯台は1872年(明治5年)、明治政府が招聘した英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計施工のもとに起工され、1874年(明治7年)に完成、初点灯された日本を代表する灯台である[12]。煉瓦造りの建築物としては日本で最も高い31.3メートルであり、参観可能な灯台としては日本最多の参観者数がある[19]。灯台敷地内の犬吠埼灯台資料展示館では、初代レンズ(フランス製・フレネル式第1等8面閃光レンズ)が展示されている。歴史的価値の高さから国の重要文化財に登録されており、世界灯台100選日本の灯台50選に選定されている[20]

江戸時代の文化文政期から、数々の文人墨客浮世絵師が奇岩怪石・断崖絶壁・白砂青松・怒涛等、変化に富んだ銚子海岸の磯巡りに訪れ、文学作品や絵画の題材としている[21]。明治期からは避暑客や海水浴客が増加し、海岸一帯には資産家や文筆家の別荘が構えられた。竹久夢二の代表詩「宵待草」の詩想は、明治末の海鹿島海岸で生まれている[22]1905年(明治38年)には、犬吠埼に伏見宮貞愛親王別邸瑞鶴荘が竣工した[23]。作家・国木田独歩出生の地でもあり[24]、海岸には銚子ゆかりの文人墨客の歌碑・詩碑が多く立っている[25]

古くから野球が盛んであり、木樽正明篠塚和典ら、数多くのプロ野球選手を輩出している。1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持しており[26]1965年(昭和40年)に準優勝、1974年(昭和49年)に全国優勝を果たしている[27]

千葉県で唯一(日本ジオパーク)に指定されている銚子半島は、日本の地質体を大きく二分する東北日本西南日本の境界付近に位置し、関東地方で唯一、中生代ジュラ紀から白亜紀の地層が露出しており、アンモナイトトリゴニアシダソテツ等の化石琥珀が多産する[28]。犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は1億2000万年前に形成されたもので、漣痕化石生痕化石等が見られる学術的に貴重な地層であることから、国の天然記念物に指定されている[29]

年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後であり、夏涼しく冬暖かい快適な居住環境である。銚子の海には20種を超える野生のイルカクジラが生息しているほか、利根川河口付近は日本及び世界有数のカモメ探鳥地となっている[30]。肥沃な土壌と温暖な気候を生かした農業も盛んであり、主にキャベツダイコン等の露地野菜が栽培され、首都圏における生鮮野菜の供給基地となっている[31]。春キャベツは「灯台キャベツ」としてブランド野菜に指定されている銚子を代表する野菜であり、生産量は全国1位である[31]。また、銚子メロンは品質等が市場や消費者から高く評価され、第16回日本農業賞を受賞している[12]

銚子市沖は遠浅の地形が続き、年間を通して風が強いことから、2020年(令和2年)に「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電の促進区域に指定された[32]2025年(令和7年)から三菱商事を中心とする「千葉銚子オフィシャルウィンド」が洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)に運転を開始する見込みであり、銚子市は県内初となる「ゼロカーボンビジョン」を策定し[33]、漁業と共生した「銚子モデル」の実現、メンテナンス関連産業の創出、地域循環共生圏の形成、メンテナンス人材の育成、更には新たな景観資源としての活用による交流人口・関係人口の増加等に取り組み、2050年(令和32年)のカーボンニュートラルに向け、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している[34][35]

地理

 
利根川河口と銚子市街地

銚子市は東経140度50分、北緯35度44分、千葉県北東部に位置する。市域は東西に約16.2キロメートル、南北に約12.8キロメートルへと広がり、面積は84.20平方キロメートルである。県庁所在地である千葉市から約65キロメートル、成田国際空港から約40キロメートルの距離である。東京都心から90 - 100キロメートル圏内であり、JR総武本線特急列車しおさい」により、東京駅と約1時間50分で結ばれている。

関東平野の東端に位置し、日本列島沿岸で最も早く初日の出を望む。市域の北部は利根川を経て茨城県と相対し、東と南側は太平洋、南西側は九十九里平野に続いている[36]。沖を流れる黒潮親潮の影響により、夏涼しく冬暖かい気候である。古くから利根川河口に水産業醤油醸造が発達し、千葉県下2番目に市制を施行、国内有数の水産都市へと発展を遂げている。観光では、利根川河口から始まる約10キロメートルの海岸線が水郷筑波国定公園に指定されており、名所である犬吠埼灯台を中心として、白砂青松、奇岩怪石、断崖絶壁、また湾や岬といった変化に富んだ海岸美を有する屈指の景勝地である[37]

銚子市の地勢の特性は、丘陵性台地の発達と、これに伴う小規模の坂と谷との錯綜である。西方より延び来たった下総台地は、名洗・新生を結ぶ半島くびれ部の低地帯に終末を告げるが、先端部には最高73.5メートル(愛宕山)の34.5メートル(笠上町西端)内外の丘陵が連亘して、一帯の高台を形づくっている。この台地の飯沼に接する辺は、和田山・浅間山・前鬼山等の高地となり、清水坂・浅間坂等の傾斜を見せている[8]

一方利根川に沿う低地帯は、安是ノ海時代の名残りを思わせるような砂地で、松本・本城から松岸・余山にかけてのあたりには砂丘が残存する。これに対し、南方に急崖をなして迫る海上台地は50メートル内外の高原をなしているため、至るところに急坂が見られる。そしてこれらの台地の諸処に、浸食によってできた細い谷が帯のように深く入り込んでおり、いずれも耕作水田が営まれている。水田に恵まれない当地方にあっては、これらの谷が利根川沿いの地帯に次ぐ重要な米作地であり、最大限に利用せざるを得なかったのである[8]

南北狭小な地形のため、利根川以外にはこれといった河川は見られず、僅かに各々の谷から流入する細流があるだけである。その小川も太平洋側に流れるものは少なく、殆ど利根川に注いでいる。半島で太平洋に入るものは、屏風ヶ浦の通蓮洞に注ぐ磯見川と、名洗から海に流れ出る小畑川の2川だけである。利根川に流入する河川は、東より滑川、清水川、八幡川、高田川、忍川等であるが、流路最長の高田川でも僅か7〜8キロメートルの長さである[8]

地形

 
屏風ヶ浦

銚子市の地形は台地低地に分類され、更に台地は東側の半島部と西側の本土部に分けられる。半島部の西の端は名洗の谷と呼ばれ[36]、幅が狭く、くびれて低い谷部に連なり、谷は更に延びて本土部とのつねぎとなっている。本土部の三角形の北辺の利根川に沿ったJR総武本線までの幅約1.5キロメートルにわたる沖積地一帯は標高10メートル以下の平坦な低地帯で、ここに市街地が形成されて銚子市の中枢地帯となっている[36]

半島部は西から東に向かって突き出した拳のような形をなし、東西3.5キロメートル、南北6キロメートルの低い平坦な台地状をなしている。平坦上には残丘状の愛宕山が中央南寄りにあり、海抜73.6メートルの高さをもつ。飯沼観音を経て黒生に至る道路に沿った35.7メートルの高地が愛宕山に次いで高いところである。これは大きく見れば台地平坦面の一部であるが、愛宕山と共に銚子半島を東と西に分ける脊梁のようなものである。これより東は太平洋に向かってゆるく傾斜し、西は名洗の谷を隔て、本土の方の台地へ面している。太平洋に向かう部分は、元来25メートルから30メートルの高さであった平坦な台地が浸蝕されて、ゆるい谷が出来たものと考えられる。半島の西半、即ち榊町の平坦台地は関東地方一帯によく発達している段丘地形と全く同じ性質のもので、海抜25メートルから30メートルある。この台地は海の浸蝕作用によって出来た平坦面上に、成田層(砂礫層)及び関東ローム層火山灰)が堆積したもので、広く千葉・東京・茨城方面に広がる武蔵野段丘の一部である。高神原町及び名洗町の北には、この段丘を浸蝕してできた新しい谷があり、泥炭を含む沖積層を堆積し、水田として耕作されている。谷に面し、少し低くなった段丘の端には、旧石器時代の人類遺跡がある。武蔵野段丘の生成は成田層を被うローム層によって示されるように洪積世後期であり、新しい谷が出来たのは沖積世である[8]。半島部の犬若から名洗を経て本土部に続く海岸線は高さ40メートルから58メートルの屏風ヶ浦の絶壁で、太平洋の波浪の海蝕作用により海岸線が大きく後退したものである[36]

名洗より西方は、本土部の関東平野の東端にあたり、九十九里浜と利根川に挟まれて三角に広がっている。利根川南岸に沿う幅1.5キロメートルの間は、幅10メートル以下の沖積平野であるが、それ以外に大部分は武蔵野段丘に相当する極めて平坦な台地である。この台地は半島西半の台地と全く同時代に、同じ成因によって出来たものであるにもかかわらず、その平均の高度が半島部よりも高い。かつ太平洋側の急激な海蝕作用のために、屏風ヶ浦が陸地に向かって後退するため、利根川と屏風ヶ浦との間の分水嶺は著しく南に偏っている。したがって、台地上の最高点は屏風ヶ浦の崖に接する[8]

半島東海岸の夫婦ヶ鼻から長崎に至る海岸は安山岩白亜紀砂岩古生代粘板岩等に保護されているため、第三紀の軟らかい地層の南海岸のように海蝕が著しくはないが、やはり険しい崖が発達している。武蔵野段丘形成後の河蝕は、利根川に向かうものと太平洋に向かうものの2系統に分かれる。谷壁は急傾斜の段丘崖を形成し、川と川の間には広い平坦面が残されており、武蔵野段丘を浸蝕しはじめた幼年期の地形を示している。この浸蝕作用が始まって間もなく陸地が沈降したために谷の下流の部分が沈水し、沖積層が堆積して、谷ごとに低い細長い平野が出来ている。愛宕山山麓の小畑池は、谷の下流が君ヶ浜の砂丘の発達によってせきとめられて出来たもので、昔は小畑・小畑池・君ヶ浜という方向に流れていたものである[8]

銚子半島沖では、海底の傾斜は60分の1内外であるが、陸岸から約4キロメートル離れた深さ20〜50メートルの部分に、直径2〜5センチメートルで丸く滑らかに水磨された礫が存在する。これよりも岸に近寄った部分には細砂ばかりの地帯が幅3キロメートルも続いているが、沖合遙かにはこのような礫や細かい砂がある。すなわちこれらの礫や粗砂は、波浪や海流等で現在の海岸から運搬されてきたものではなく、過去の産物が沈水したものである[8]

地質

 
犬吠埼 砂岩泥岩互層

銚子市は地質研究の宝庫と呼ばれる[38]ほど、各時代の地層が市内随所に見られる。銚子市は愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、この境界の東端はまだ確定していないため銚子市の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている[30]。太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦等の地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に(日本ジオパーク)に認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している[30]

銚子市は地質学的にみても、東の半島部と西の本土部に分けられる。すなわち半島部には、古生代二畳紀層・中生代白亜紀及び頑火輝石安山岩を基底とする新生代第三紀層並びに第四紀層が存在するが、本土に属する部分には、新生代の地層以外には古い地層の露出が知られていない。愛宕山を中心として残っている古生層は、白亜紀の地層を堆積する時にその物質を供給し、更に新生代の地層が堆積を始めた時には、この古生層が白亜紀層と共に島のような形をしてそびえていた。本土方面の第三紀層は、この昔の島の西側に堆積し、非常にゆるやかな傾斜をもって西方に傾き、漸次上位に地層を重ねている[8]

愛宕山や犬岩、千騎ヶ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体である。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩砂岩泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイト等の化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は「銚子石」と呼ばれ、古くから建材等に利用されてきた。銚子市の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分され、いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ヶ鼻層は銚子市の北東端の夫婦ヶ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、銚子漁港外港建設により銚子ポートタワー下にわずか6メートル程度が露出するのみとなっている[30]

下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。銚子市の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝および天然記念物として指定されている[30]

土地利用

 
銚子大橋前交差点

銚子市の市街地には、銚子駅飯沼観音銚子漁港を中心として、行政施設・オフィスビル・金融機関・商店街・ビジネスホテル・マンション等の主要な都市機能が集積している。2020年(令和2年)国勢調査による人口集中地区はほぼこれにあたり、面積9.6平方キロメートル、人口31947人(総人口の約50パーセント)、人口密度1平方キロメートル当たり3338.2人となっている。市南部の外川漁港を中心とした地区にも人口が集中している。この2地区を連絡する主要道路・鉄道の沿線には、市街地の周辺部及び高神地区等の集落があり、国道356号沿いとその南側の台地の一部には、海上・船木・椎柴・豊里の各地区の集落が形成されている。また国道126号沿いには市街地の周辺部を経て豊里地区の集落がある。

商業地は市街地内に住居地と混在しているほか、郊外の国道126号沿いに大型商業施設(イオンモール銚子)が立地している。工業地は醤油製造等の工場が内陸部に、造船・機械製造修理・缶詰製造・水産加工等の工場が利根川沿岸及び銚子漁港周辺に立地しているほか、名洗港臨海工業地域、銚子漁港域内の水産物産地流通加工センター及び小浜工業団地等がある。高度経済成長期以降、市街地、特に利根川沿岸の中心市街地が世帯の細分化、産業活動の進展、地価の高騰等を背景に、主に国道126号、国道356号、県道銚子公園線県道外川港線及び銚子電気鉄道線沿線等に沿って拡大している。農業地は、利根川沿岸の平地水田地帯と東部及び南西部の丘陵性台地畑地帯からなり、その面積は2540ヘクタールで、市域面積の約30パーセントを占めている。このうち農振法に基づく農業振興地域は6868ヘクタール、農用地区域は2109ヘクタールである。

銚子市においては、2019年(令和元年)策定の「銚子市総合計画基本構想」に土地・周辺海域利用方針が示されており、その基本方針は「まちの賑わいを育み、人や自然にやさしいコンパクトな都市構造への展開と地域の特性を生かした土地利用の推進」とされている[39]。各種の個別法等による規制としては、「自然公園法」に基づいて、川口町から犬吠埼を経て、屏風ヶ浦に至る太平洋沿岸部の陸域・海域一帯と四日市場町から上流の利根川沿いの陸域・水域一帯が水郷筑波国定公園の第二種特別地域第三種特別地域として指定されている。また、「千葉県立自然公園条例」に基づく屏風ヶ浦一帯と七ツ池を含む内陸丘陵部は県立九十九里自然公園普通地域に、猿田神社周辺の森は千葉県郷土環境保存地域に指定されている。愛宕山頂附近は「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」に基づく景観形成地区である。いずれの区域についても法・条例に基づき、すぐれた自然環境の保全・活用を図るために各種開発行為が制限されている[12]

気候

 
日本列島近海の海流
1.黒潮 2.黒潮続流 3.黒潮再循環流 4.対馬暖流 5.津軽暖流 6.宗谷暖流 7.親潮 8.リマン寒流

銚子市は太平洋に突出し三方を海と河に囲まれ、また、沖合が黒潮と親潮が交わる寒暖流の交錯地点であることにより、日夜の気温差は僅少であり、年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい住みよい気候である[36]湿度は夏に高く冬は低いが、年平均75パーセント前後と内陸方面に比べて相当高い。年間降水量は1700ミリメートル以上あり、冬は晴天が続く。年間の晴曇は相半ばし、降雨日数は平均約127日であり、千葉県内でも雨が多く、雨と黒潮の影響により濃霧の発生する日が多い地域である。この気候が良質の醤油を生んだ素因であり、また、寒暖流の交錯地点である沖合は全国屈指の好漁場となっている[36]

銚子市の夏は関東平野部の中では最も涼しく、日中でも30度を超えることは少なく、35度を超えることはめったにない[注 3]熱帯夜になることもほとんど無く、関東屈指の避暑地である。一方、冬は南九州並みに温暖であり、冬の最低気温は千葉県内で最も高い。気温が氷点下になることは少なく、冬季の南岸低気圧通過時に暖気を巻き込むことが多いため、積雪は非常に珍しい[注 4]。年間を通して比較的風が強く、無風の日は僅かであり、一日の中でも風向の変転が急激である。例えば、春季の風は北東から南東で、午前中は北東から吹き、午後は南東に転じ、夜間は北東に帰る。夏季は南東から南で、午前中は南東より吹き、午後はやや東に偏り、夜間は南東に転ずる。秋季は北東が多く、午前中は北東より吹き午後は東に偏り、夜間は北東となる。冬季は北西から北で、午前中は北と西の間より吹き、午後より日没までは北から北北東に転じ、夜は北西より吹く、といった具合である[36]。市内では風力発電所の風車が34基稼働しており、沖合では洋上風力発電施設の建設計画が発表されている[40]

外洋に面しているため、東京湾内に比べて干満の差ははるかに小さくなっている。普通は潮の満ち引きは1日2回起こる。銚子では朔と望、すなわち新月と満月の時はそうであるが、上下弦すなわち月が半分に見える時は、1日1回の満ち引きとなる。これを日潮不等と呼ぶ。そして朔望の時が干満の差が大きく、このうち特に干満差の大きいのが大潮である。また二回潮でも、5月から9月までは昼間の方が夜間より干満差が大きく、反対に10月から4月までは夜間の方が大である。大潮は旧5月または6月15日頃、昼間の干満差が最大に達する時で、銚子では旧暦6月15日に盛大な大潮祭りが行われる[8]

銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 23.6
(74.5)
24.0
(75.2)
23.3
(73.9)
25.9
(78.6)
29.5
(85.1)
32.0
(89.6)
34.8
(94.6)
35.3
(95.5)
33.7
(92.7)
30.6
(87.1)
24.8
(76.6)
23.4
(74.1)
35.3
(95.5)
平均最高気温 °C°F 10.1
(50.2)
10.3
(50.5)
12.8
(55)
17.0
(62.6)
20.5
(68.9)
23.0
(73.4)
26.6
(79.9)
28.6
(83.5)
25.9
(78.6)
21.5
(70.7)
17.3
(63.1)
12.7
(54.9)
18.9
(66)
日平均気温 °C°F 6.6
(43.9)
6.9
(44.4)
9.7
(49.5)
13.8
(56.8)
17.4
(63.3)
20.2
(68.4)
23.5
(74.3)
25.5
(77.9)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
14.4
(57.9)
9.3
(48.7)
15.8
(60.4)
平均最低気温 °C°F 2.9
(37.2)
3.3
(37.9)
6.4
(43.5)
10.7
(51.3)
14.8
(58.6)
17.9
(64.2)
21.2
(70.2)
23.3
(73.9)
21.3
(70.3)
16.8
(62.2)
11.1
(52)
5.7
(42.3)
13.0
(55.4)
最低気温記録 °C°F −6.2
(20.8)
−7.3
(18.9)
−4.3
(24.3)
−0.2
(31.6)
4.3
(39.7)
10.2
(50.4)
13.0
(55.4)
15.9
(60.6)
11.2
(52.2)
4.5
(40.1)
−1.3
(29.7)
−4.6
(23.7)
−7.3
(18.9)
降水量 mm (inch) 105.5
(4.154)
90.5
(3.563)
149.1
(5.87)
127.3
(5.012)
135.8
(5.346)
166.2
(6.543)
128.3
(5.051)
94.9
(3.736)
216.3
(8.516)
272.5
(10.728)
133.2
(5.244)
92.9
(3.657)
1,712.4
(67.417)
降雪量 cm (inch) 0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
平均降水日数 (≥0.5 mm) 8.2 9.1 13.0 12.3 11.3 12.3 10.4 7.4 11.8 13.3 10.6 8.7 128.4
平均降雪日数 4.5 6.0 1.7 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.9 13.1
湿度 62 64 68 74 82 88 90 87 84 77 72 66 76
平均月間日照時間 179.8 159.0 168.9 183.0 188.9 142.3 174.0 221.3 159.0 137.9 140.1 163.7 2,017.8
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[41][42]

植生

 
犬吠埼崖地植生群落

銚子市は海岸一帯を中心に水郷筑波国定公園や千葉県立九十九里自然公園風致地区に指定され、各種法令により開発行為が制限されている。このため比較的多くの自然が残り、貴重な植生や環境に適した変化を遂げた植物を見ることができる[30]。銚子の森は照葉樹林で一年中緑豊かな土地であり[30]、人の手が加わっていない環境の中形成された極相状態にある森林の中で最も広く見られるのは、スダジイタブノキが茂った照葉樹林で、古い寺社の社叢林や丘陵の傾斜地でみることができる[30]

社叢林のうち「渡海神社の極相林」と「猿田神社の森」が千葉県指定の天然記念物である。南向きの乾きやすい斜面や急な尾根の潮風の影響がやや強い場所はスダジイの林で、林の中にサカキヤブニッケイなど常緑の低木があり、地表にはヤブコウジベニシダ等の草本類が生えている。やや北向きの斜面や深い谷、沢沿いの湿った環境にはタブノキが多く、林の下はアオキが、地表はイノデが主体である。遠望すると青みがかったタブノキの密な樹冠が特徴的である。海岸線の植生も特徴的で、「外洋性海岸砂丘地」の君ヶ浜一帯は、コウボウムギネコノシタハマゴウオオマツヨイグサ等を見ることができる。「犬吠埼崖地植生群落」や「犬若海岸崖地植生群落」では、海岸崖地の厳しい環境下で生育するイソギク、タイトゴメ、ハチジョウススキ、ヒゲスゲ等の植物群落がある。このような「崖地植生」は屏風ヶ浦に面する海食崖付近でも確認できる[30]

利根川の河川敷にはヨシ原が広がり、マコモガマ類、オギ、イソギクカサズゲ等が観察できる。ヨシ原に混じって見られたタチヤナギ群集は、河川改修が進む過程で断片的なものとなっている。利根川沿岸の浜堤上に形成された東光寺には千葉県の県木であるイヌマキがまとまって生育しており、銚子市指定天然記念物である。この地域では、利根川方向から吹く「筑波おろし」の北風を防ぐためにイヌマキを屋敷林として利用する家が数多く見られる[30]

生態系

銚子市には約150種の鳥類が生息している。利根川河口から長崎鼻までの沿岸部は県内有数の渡り鳥の渡来地で、2012年(平成24年)度から千葉県の「銚子鳥獣保護区」に指定されている。利根川河口では冬になると多くの種類のカモメウミネコウミウ、海洋性のカモ等が飛来する。最も多いのはウミネコやセグロカモメで、外洋性のミツユビカモメも時折見ることができ、銚子市は日本及び世界でも有数のカモメ探鳥地となっている[30]。黒生海岸や屏風ヶ浦等では、イソヒヨドリハクセキレイ等が周年生息していることが確認され、屏風ヶ浦の上をハヤブサチョウゲンボウ等の猛禽類が飛行している姿が確認されている[30]

春になると黒潮の流れにのって小笠原諸島伊豆諸島からイルカ等が北上し、1年を通じて20種類以上の野生のイルカ・クジラ類を見ることができ、イルカ・ホエールウォッチングツアーを提供している観光船が運航している。また、千葉県レッドデータブックに掲載されているアカキツネ(重要保護生物)やニホンアナグマ(要保護生物)、カヤネズミニホンジネズミ(一般保護生物)等の貴重な野生哺乳類が生息していることが確認されている[30]

人口

市人口は1950年代まで増加し、以後は横這いから減少方向に進んでいる。これは、病気による死亡等の自然減少に加えて、社会増加分を超えて就業や進学等のために市外転出した社会減少が多かったことによる[12]。世帯数は、共働き世帯の増加、女性の社会進出、核家族の増加等により増加し、近年は2万5000世帯を超えている[43]。銚子市は「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」のもと、生産基盤の整備、人材育成、創業支援、洋上風力発電施設の誘致、シティプロモーションの推進、移住・定住の促進、子育てサービスの充実、地域包含ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等の施策を進めており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[44]

 
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 銚子市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

銚子市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


隣接自治体

歴史

地名の由来

 
銚子

銚子は酒をその中に入れる口と、そこからつぐ口が別になった酒器である[注 5]。銚子という器と名称は、10世紀に成立した「和名類聚抄」に既に見られるが、それによると日本名では「さしなべ」といった。「さしなべ」とはつぎ口の付いたなべのことで、上には握り用の鐶が付いていた。大きさは普通のなべより小さく、ものを温めるために使われた。中世になると酒器を銚子と称するようになった。これは両口のものと片口のものがあり、現代でも神前結婚式で使われている。そして近世になると提子のことも銚子と呼ぶようになった。銚子の本体は表面積の広い容器で、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れ、に酒をつぐときは本体に付いている小さなつぎ口からつぐ。利根川は内部の川幅が非常に広いにも関わらず、河口付近が極端に狭く、特異な形状である。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒がつがれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こったのである。

古代の銚子は「三前」あるいは「三崎」と呼ばれていた。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。中世になると飯沼・荒野・本城・垣根・野尻・笹本等の地名が史料の上に現れてくる。「銚子」という文字が古文書の類に登場するのは1644年(正保元年)に製作が始まり、1648年(慶安元年)に刊行された「正保日本図」であり、現存史料としては最古のものである。これは徳川幕府が諸大名に命じて領内の図を献上させて編集したものである。常陸府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口廿一里十四丁」と記されている。銚子という地名が発生したのは慶長から正保1596年1648年)に至るおよそ半世紀の間と見られているが[12]、これより早い時期から海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。これらの船舶の乗組員や海運業者の間に「銚子口」の名が起こったのである。この時期の「銚子口」という名称は利根川河口の名称に過ぎず、「銚子湊」も利根川の内水面の呼称にとどまっていた。

その後正保・寛文期(1645年1673年)に入ると、銚子は海運の発達に伴って農村から港湾都市へと大きく発展していった。それまで銚子湊沿岸地域には飯沼村・新生村・荒野村・今宮村の4村があったが、船員にとってはそれぞれ固有の村名で呼ぶよりも一括して捉えた方が簡単で都合が良い場合が多く、単に湊や水域名であった銚子という地名は沿岸の陸地名として定着していった。そして江戸との交通が頻繁になるにつれて銚子の呼称は江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地域を銚子として認識するようになったのである。銚子とは銚子湊沿岸の港湾機能あるいは産業都市的機能を有する地域の名であり、前記4村に隣接する諸村もこの機能の一部を担っていたから、垣根・松岸村あたりから東の半島部が銚子の範囲として認識されていた。

この汎称が初めて行政区画名となったのは、1889年(明治22年)4月1日市制町村制が施行されてからである。すなわち、本銚子町銚子町西銚子町の3町である。そして1933年(昭和8年)にこれら3銚子町と豊浦村が合併して銚子市が誕生し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て近代の単一都市名に到達したのである。

原始・古代

旧石器時代

銚子半島に人が住むようになったのは、約2万8千年前の旧石器時代であり、初めて人類がこの半島に住みつき、自然採集経済の生活を営むようになった。海上台地の密林を背に、三方を太平洋に臨む銚子は、狩猟に漁労に豊かな生活を保障していた。屏風ヶ浦断崖地帯からは多数の石器が出土しており、銚子に最も早く人間の生活した舞台は、波浪によって失われた台地上に及んでいた。

縄文・弥生時代

 
縄文時代の関東平野

縄文時代前期遺跡は愛宕山・西小川町荒野台に、また前期より中期にまたがる遺跡として南小川町粟島台遺跡があり、後期より晩期に続くものとして余山貝塚が挙げられる。これらの遺跡中、粟島台遺跡と余山貝塚は銚子の先史時代遺跡として重要なばかりでなく、日本考古学上からも著名な遺跡である。

粟島台遺跡は南小川町県立銚子高等学校の南方、海抜15メートルの台地で、前期から中期にかけての諸遺物を包含する遺跡である。この地にまず住みついた前期縄文人は台地の高所に住居を営んだが、当時はその近くまで海水が侵入していた。前期末から中期初頭にかけては漸次西南方へと居を遷していき、その一部は台地下方の低地に集落を営んだ。粟島台遺跡から採取された石器のうち、硬玉製飾石と琥珀製飾石は異色あるものである。琥珀はこの地に近い外川の石切場からも発掘され、また海岸においても往々採取されており、ここが琥珀の原産地一つであった。この地方の縄文人はこれを活用して各種の資源を他からも獲取しており、黒曜石や硬玉が琥珀との交易品であった。余山貝塚は高田川に面し国道と成田線の線路に挟まれた一帯の貝塚で、日本考古学上、東京大森貝塚と並んで最も古くから著名であった遺跡である。

古墳時代

古墳時代には、いわゆる東国開拓と称されて記紀に載る外来東漸の大氏族が各々進出して逐次勢力を拡大するにつれ、土着の小氏族・住民はその傘下に統合されていった。下総は早くから東国に進出していた武蔵国造を中心とする出雲族の勢力下にあり、常総境辺には香取鹿島両神宮を中心に天神系の中臣が控え、これに安房より北上した忌部氏が繁栄していた。安是ノ海沿岸の低地帯が庶民生活の舞台であり、鹿島台地と海上丘陵の高燥地は首長の占拠するところであった。

古語拾遺」によれば、1世紀余には総ノ国開発は相当に進み、 135年成務天皇5年)には印波武社上菟上下菟上・菊間・馬来田・須恵・伊甚長狭安房の10国に分けられ、各国造が置かれた。海上郡はこのうち下菟上国にあたり、印波・下菟上両国が後の下総である。下菟上は後に下海上と書かれ、東は安是ノ海(後の利根川)を隔てた常陸国鹿島郡南部(現茨城県)、北は香取郡の大部、西は匝瑳郡全部、それに海上郡を加えたもので、ほとんど東下総の大半であった。南の方、太平洋に面しては房総第2の大湖「椿海」(江戸期末に干拓されるまでは印旛沼に次ぐ湖)と湿潤地帯があったが、屏風ヶ浦海上にはまだ浸蝕海没しない陸地が存在していた。銚子の地はこれら海没した集落に北接する農漁村として、下海上国の東隅に偏在していた。

飛鳥・奈良・平安時代

 
和名抄

 
-下総国
-東海道

大化改新に際し、中央集権を確固たるものにするために諸国には国司、諸郡には郡司が任命された。海上国造が廃されて海上郡司が置かれたのもこの時であった。海上郡家は海上台地に設けられ、葛飾郡の下総国府に属した。郡郷の秩序が備わって地方制度が確立してから、奈良時代の東下総は海上郡15郷、匝瑳郡18郷、香取郡6郷となったことが、「和名抄」から窺知される。上代の海上郡は香取市大倉あたりから銚子半島へかけて15郷を統轄した上郡であったが、銚子半島の古郷は、大体、石田・石井・橘川・横根・三前・三宅・船木の7郷があてられる。

銚子半島は上海上国造の都邑から離れていたが、豊かな水産物を供給する重要な経済地帯としてその統治下にあった。西方は椿海(当時は既に淡水であった)に面する農業集落、石井・須賀・横根の各郷が連なり、東方は香取海(現利根川であるが当時は全く海水であった)に沿う漁業を主とする集落が多く、その間に皇室直轄の三宅や特殊職業に従う船木部の郷が交じっていた。したがってこれらと交渉がある中央政府(大和)や地方官衙の役人の来訪もあり、文化の波及も全くの僻地農漁村とは違っていた。

万葉集」に、常陸の国司高橋虫麻呂が中央から派遣されてきた検税使大伴卿を送って、常陸鹿島郡刈野橋に別れる時詠んだ歌が残されている。その歌に三宅滷とあるのは、当時この沿岸は海に面して干潟が諸所にあり、その一つの三宅郷につづく干潟を指したものである。これが常陸への渡津となっており、更には常陸から遠く蝦夷地陸奥への要津ともなっていた。そのため造船も行われ、船木部の集落が栄えていた。三前・三宅・船木の3郷が銚子市域に該当し、奈良時代の残存戸籍に基づいて銚子付近3郷の人口を算定すると3900人と推定され、2020年(令和2年)現在の約15分の1にあたる。

  • 三前郷 - 銚子市東半部が該当する。市内に遺名として三崎町がある。半島の地形によって上代より名付けられたものであり、中世に三崎庄55郷を包括していた。安是ノ海に面した半農半漁の集落に端を発し、後には三崎ノ津としての機能も加わって発展した。
  • 三宅郷 - 銚子市三宅町が遺称で、屯倉より起こった地名である。王朝時代に海上国造が大和朝廷に帰属した際、すぐにここに皇室御料の収納倉庫が置かれた。以後、鎌倉時代に至ってもここは中央貴族の所領であった。
  • 船木郷 - 内海、外洋に面し、造船の用材を扱う船木部の旧地で、他の諸国にも多い地名である。光仁天皇紀に、776年(宝亀7年)、安房・上総・下総・常陸4か国に命じ、軍船50隻を造らせて陸奥に送るとあり、この時この船木部は大いに活躍した。

中世

鎌倉・室町時代

吾妻鏡」の記すところにより、「和名抄」の海上郡三前郷は、鎌倉時代に三崎庄という荘園となり、片岡常春なる荘官が支配していたことがわかる。これは殿下御領とあって、実際は関白近衛基通になっており、藤原定家が領有したこともあった。片岡常春が支配したのはこのうち船木・横根であったが、三崎庄全体としては他に本城・松本・今宮・荒野・新生・飯沼・高神・小川戸・辺田から猿田、飯岡の一部にわたる一帯が包括されていた。

 
『前賢故実』より千葉常胤(菊池容斎筆)

1185年(文治元年)、源頼朝は各地に守護地頭を設置し、以後の各時代の封建制度の基礎をなした。この時代に、下総国守護として銚子地方に君臨した武士は、千葉常胤であった。常胤は鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣であり、頼朝の信任が厚かった。彼は6人の子を下総各地に分封したが、その子孫は後世までながく房総の名族となっている。本地方は東ノ庄に属する海上ノ庄(旧三崎庄)に該当するが、6男胤頼がこの庄を拠点として東氏を称し、その孫胤方が海上ノ庄を与えられて海上郡船木郷中島城を居城に海上氏を名乗り、それぞれ権威を振った。「千学集」には、「海上庄は三郷なり、舟木郷千貫、本庄郷千貫、横根郷千貫、以上三千郷の所を海上庄といふ。本庄三郎常高、海上太郎常幹の弟なり。本庄郷に住する故、本庄殿と申也、此時海上三郷第一の人といはれし」とある。本庄郷は庄の中心地(本郷)で早くより開け、土地も広く人口も多かった。海上氏はこの本庄郷を基盤として栄え、室町時代にその一族支流が付近一帯の各地を分領して繁栄した。

浄土教は鎌倉時代に入って法然一派によってますます隆盛となった。銚子においても野尻の東光寺が著しい例で、室町時代末期に真言宗に改宗するまでは、阿弥陀信仰の念仏道場としてこの地方の中心をなしていた。東光寺の支配下にあった真言宗円福寺も、同じく念仏道場として栄えていた。こうした信仰の所産として鎌倉中期から供養塔婆の造立が盛んとなり、武蔵の青石塔婆と並んで下総地方に銚子産硬砂岩の板碑が盛行したが、これは武士や土豪等の上層階級に止まった。次の室町時代末頃からは庶民の共同造立が現れる。石に恵まれない東下総一帯において、岩石に富む銚子半島は重要視され、早くからこの方面で採石されたものが舟や筏によって水辺沿いの東下総地帯に供給されていた。このため、銚子の一角は上代この石材の切出しによって賑わっていた。

この時代、坂東三十三観音霊場が新設され、第27番札所に銚子の飯沼観音が指定された。その理由は鎌倉幕府に重きをなした東氏・海上氏の推挙があったためで、円福寺が所蔵する多くの古文書は、海上氏累代との関係を物語っている。飯沼観音に巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると、門前町は次第に活況を呈し、旅宿や遊女屋が発達した。そしてこれまで他からの影響感化をほとんど受けることがなかった水辺の村が、外来者による影響を受けることとなった。第26番の常陸国筑波清滝寺から十数里の行程であり、陸路によるも水路によるここに一泊を余儀なくされた。またここから第28番の滑川観音へも十数里と恰好の仲継宿であり、銚子市街の起源となった。

銚子の地形から見て、交通運輸の路線は水上と陸路の両者にあった。「常陸国風土記」の記述から、鹿島郡軽野あたりが下海上国に属していたことがわかり、この地への安是ノ海を渡る交通路が早くから開けていた。当時の立地条件から、この交通路は銚子川口の上流の野尻あたりに渡津があり、ここから古道が一つは西へ香取神宮から香取郡家の方面へ、他の一つは海上郡家より海上国造の地へ、更にもう一つは猿田から常世田を通って横根(飯岡)を経て匝瑳郡家へと通じていた。鎌倉時代に入ると鎌倉街道が放射状に各地に達したが、銚子地方においては八日市場・成東・東金・士気等の古い宿場を通ってそれらの古道と連絡していた。次にこの時代に坂東三十三観音霊場が撰定され、銚子の飯沼観音が第27番札所に加えられたことで信仰庶民の往来が盛んになり、26番札所常陸筑波山大御堂から当地へ、当地から28番札所滑川観音への交通路が栄えた。この経路は多く水上が利用されたが、物資の交流もまた遠隔地とはほとんど水路によっていた。当時輸送するものは、漁獲物と犬吠埼特産の銚子石が主たるものであった。この交通機関としては古く独木舟が使われたが、木造船技術の進歩に伴って、それぞれの用途による様々な船が造られるようになった。銚子石のような重量物は小形のものは車や馬背によって運搬されたが、大形の場合は筏を組んでこれに載せて運んだ。

香取神宮に伝えられる古記から、安是ノ海時代の内海沿岸一帯の漁業が盛んであったことがわかっている。漁獲物は、その多くが香取神宮関係の需要を満たしていた。1207年(建永2年)の神宮御下文によると、年中行事は90余度と見えている。これに附属の小祠や末社の祭祀を加算した場合、年間百数十度に及び、これらの祭典に要した供進した海の幸は莫大であり、これらが内海から銚子にかけての漁業を維持していた。香取神宮の大禰宜家はその漁業権を掌握して子孫相伝の財産としていた。「香取文書」の1368年(応安元年)の海夫註文に、飯沼くわうやの津(飯沼知行)・かきねの津(海上知行)がみえる。沿岸随所には漁夫居住の津があり、飯沼荒野の漁業権は飯沼氏、垣根の漁業権は海上氏が知行していたが、その他の水上は香取神宮の大禰宜の領有であり、その権益を独占していた。しかし、武士の勢力が増大するにしたがってその手中に侵略収奪されるようになり、「金沢文庫古文書」には、入海浦の漁業権が千葉支族である東盛義の私有財産となったことがみえている。また1400年(応永7年)の「香取文書」は、海上筑後入道が神宮漁業権横領を企つと、時の政府に訴えている。海上筑後入道とは当時銚子地方の豪族であった円福寺別当職大檀那であり、香取神宮と円福寺の間に勢力争いがあったことを示している。この頃の円福寺は、海上氏最大の氏寺として半島最大の大地主であった。銚子の漁業は内海の豊富な漁獲に始まり、その拠点は飯沼・荒野と垣根より利根上流に至る沿岸にあり、外海に出漁して近海漁業の開拓に第一歩を記したのは、江戸時代初期の紀州漁民の東漸であった。

近世

安土桃山時代

室町時代以降、関東では新興勢力の後北条氏が覇を唱えるようになり、千葉氏もこれに服属するに至った。戦国時代に入っても海上氏は有力な武将として銚子地方に権威を保っていたが、次第に凋落していき、1479年(文明11年)正月には千葉孝胤太田道灌の戦により、飯沼城が落城している。そして安土桃山時代、後北条氏は天下統一を志す豊臣秀吉によって小田原城に滅亡したが、千葉氏一門も共に滅亡し、鎌倉以来銚子半島に権威を振った海上氏も終焉を告げた。その居城であった中島城は1590年(天正18年)9月に落城した。城跡の畑には要害の小字名が伝わる。

江戸時代

 
利根川東遷を行った徳川家康

1590年(天正18年)、徳川家康は発祥地の三河から後北条氏旧領の関東に移封され、8月1日本拠を江戸に定めて入国した。家康は直ちに家臣団の知行割を行い、家臣を関東各地に配置した。このとき飯沼2000石を与えられて銚子地方を知行するようになったのは松平伊昌である。知行高2000石であるから大名ではなくいわゆる旗本であるが、伊昌は三河以来の譜代の家臣であった。銚子が高崎藩領となったのは1717年(享保2年)からで、以後明治に至るまで10世の間、150余年の長きに及んでいる。東北廻船の要地として軍事上、また経済上に等閑を許すことのできない銚子は、江戸の発展に伴って益々重要度を増したため、長く親藩の手に委ねられた。

 
近世利根川水系の水運
 
利根川の高瀬舟

徳川家康三国山脈に発し、関東平野の中央部から南流して江戸湾に流れ込む利根川を、銚子から太平洋に注ぐように、河道付け替えの大土木工事を施した。目的は治水・利水・水運・新田開発・軍事等様々にいわれている。1594年(文禄3年)に着工され、1635年(寛永12年)に竣工、1654年(承応3年)に完成した。この工事により利根川が銚子に流れるようになり、また途中関宿付近で江戸川ともつながり、銚子と江戸は初めて水路で結ばれ、内川廻りすなわち利根川水運が可能になった。内川廻りは従来の外海回りよりも安全で迅速であったため、仙台はじめ東北各地の物資の江戸廻送の多くが銚子経由となり、銚子湊は東北地方と江戸を結ぶ東廻り海運と利根川水運との中継港として、日本の海運に重要な機能を果たすようになった。また外海廻りも必ず銚子に寄港したため、その賑わいは一段と加わるに至った。荷は大別して東北諸藩及び天領の回米とその他の物資であった。その他の物資は数の子・鰯搾粕・生鮪鰹節・骨粕・干鯣・魚油昆布等海産物や回米以外の米殻・大豆・木材等である。鮭・鱒は塩にしたものであり、鮭はすき身にしたものである。元船は帰路江戸や常総の産物を積んで戻った。このため海運に関係して、従来半農半漁の農村であった銚子に穀宿・廻船問屋・仲買船宿引船・川船等、各種の商業が成立するようになった。荷主である諸藩自体も蔵屋敷を設置し、幕末には仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城3棟・笠間藩1棟の米蔵が立ち並ぶという盛況であった。利根川の各地には高瀬船が置かれ、往来の船が絶え間なく行き交うようになった。飯沼に49艘、高田に38艘、野尻に41艘の高瀬船がひしめくという賑やかさで、問屋は飯沼は10余軒に及んだ。高瀬船は500から600俵積の小型から900俵の大型まであり、12反帆をあげて舟子4人から6人で帆走した。当時は江戸通いのこれらの船を指して「利根の直船」と呼んだ。

その頃銚子では漁獲した鮮魚は常陸土浦潮来・牛越から佐原小見川、更に遡って利根中流の布佐・布川・木下方面まで運んで売り、一部は木下から陸行して船橋まで急送した。その運搬方法は速力のはやい猪牙舟で夜通し運び、これを生漕と呼んだ。また鮮魚輸送用の「なま船」や「いけ船」があった。なま船は勢のよい船頭3人で力漕し、銚子を夕方出て明け方の布佐か布川の魚市に間に合わせるという速達船である。いけ船は生簀仕立で、主として夏季生魚を関宿経由の上、日本橋魚河岸へ運んだ。また陸上を持って行くものは、小荷駄馬かあるいは人足が徹夜で急行し、これを生駄賃または生担ぎと称した。この販路はあまり遠方へは達せず、八日市場・太田・等までであった。

利根川水運の発達は必然的に、沿岸諸所の地方物資の集散する町村を河港都市へと育てていった。佐原・小見川・笹川はその最たるもので、これに漁港であり商工業も盛んな銚子や水産物の集散に栄える飯岡等が加わり、東下総に連鎖のごとく河港都市が発達を遂げた。これらの諸都市は地方経済の一単位をなすに至り、諸国からの商人や出稼人の往来が激しい中で、いつしか任侠無頼の徒、いわゆる博徒渡世の温床を醸成したのである。佐原の喜三郎笹川の繁蔵・銚子の五郎蔵・飯岡の助五郎・勢力富五郎等、いずれもそれぞれの地を縄張りとして名を売った博徒の親分である。特に銚子は、絶えず飯沼観音の縁日があり、人の出入りが最も激しく、従って金も動いたことで、博徒の恰好の稼ぎ場所であった。

 
昇亭北寿画『下総銚子浦鰹釣舟之図』

家康の関東入国は、西と東の経済的交流を大幅に促進した。銚子にも諸国から人々が入り込むようになり、次第に植民地的発展を示し始めた。銚子地方の発展に貢献した主要勢力の一つが紀州漁民である。諸国からの移住者の中では関西人が多かったが、その中でも紀州漁民が多かった。漁業の新天地を求めていた彼らは、新漁法を携えてこの地に来、半農半漁的な地元漁業を開拓し、漁業を銚子の主要産業にまで成長させた。元和寛永1615年1644年)の頃から集団的に来銚し、鰹等の釣漁や鰯漁をするようになった。初めは季節的な出稼ぎであったが、やがて定住するようになり、あるいはまた漁業から商工業に転ずる者もあって、銚子の商工業の発展に寄与することとなった。1652年(承応元年)には飯貝根(銚子市東部)に多数の商店ができ、寛文・延宝1661年1680年)の頃には既に鰹船が50艘を超えた。江戸時代を通じて銚子の漁業を代表するものはイワシ漁業であった。初期のイワシ漁業に用いられた網は任せ網であったが、その後間もなく八手網に替わった。当初は外浦長崎・外川・犬若に盛んであった漁業は、後には川口の飯貝根・飯沼に移っていった。この外浦各地の発展は、外川開発者といわれる崎山次郎右衛門の力によるものである。彼がまず第一に力を注いだのが築港事業であり、僅か6年間に外川築港を完成した。次いで外川市街の区割を決定し、西芳寺を建立し、自己の邸宅を構え、大井戸を掘削し、干鰯場を開いて、漁港としての設備を全て具備するに至り、名実共に関東一の外川港を実現した。その間僅かに20年である。

イワシは回遊性の魚であるから、その漁況には何年かの間隔で豊凶の繰り返しがある。最も衰えたのは明和1764年1772年)から安永1772年1781年)の間で、それまで銚子最大のイワシ漁業基地として、「外川千軒」の繁栄を謳歌していた外川浦では、50張余もあった八手網が僅か3張を残すだけとなり、ほとんどの網方や商人が転退してしまった。崎山次郎右衛門の2代目が郷里に引き揚げざるを得なくなったのもこのときのことである。しかしこの不漁も、寛政年間(1789年1801年)には漸次回復に向かい、文化年間(1804年1818年)には飯沼村の八手網は約70張を数えるようになり、外川浦もまた復興した。そして弘化1844年1848年)・安政1854年1860年)の頃に江戸時代最後の豊漁期を迎え、1864年(元治元年)には大漁節が生まれるような豊漁をみることとなった。

イワシは肥料にするのが主目的であって、食用は微々たるものでしかなかった。肥料としては、そのまま乾燥させた干鰯、煮て圧搾した〆粕へと加工された。干鰯は近世農業における最高の金肥であり、関西地方で栽培される綿花の肥料として需要が増大して、当時の成長産業となっていた。〆粕製造過程では灯火用の魚油がとれた。これらの流通の過程では仲買・問屋が生まれ、漁業生産に必要な漁船漁具漁網等に関する商工業も盛んとなった。

 
銚子組造醤油仲間

元禄期になると、海運・漁業と並ぶ大きな産業として醤油醸造が発展した。銚子における醤油醸造の歴史は、1616年(元和2年)の江戸時代初頭にさかのぼる。この地の豪農であった田中玄蕃が、摂津国西宮出身の江戸豪商真宜九郎右衛門の教示により、溜醤油の醸造をはじめたのが起こりである。真宜は造酒と海産物問屋をもって巨富を積み、干鰯その他の海産物取引の関係上、しばしば銚子に来て、当初は干鰯等で田中玄蕃と接触交渉を持つようになったとみられている。こうして創始されたのが、ヒゲタ醤油である。これより30年程遅れて、1645年(正保2年)紀州広村の濱口家が荒野村に来て、同じく醤油醸造を始めたと伝える。これがヤマサ醤油である。当初は商業あるいは漁業のかたわらの経営であったが、1700年(元禄13年)に濱口知直が銚子店を開祖し、初代儀兵衛を名乗って本格的に事業を始めた。広村は日本醤油史上に最も早く見える湯浅醤油の地に隣接しており、次いで銚子に来た岩崎重次郎も、ヤマジュウ醤油をもって知られた。両者ともに広屋を屋号とし、玄蕃と並んで銚子組造醤油仲間に重きをなした。醤油醸造業者はいずれも富裕で豪商というべき者も多く、文政年間には20軒があった。

 
歌川広重画『下総銚子の濱外浦』

正保寛文期に海運と漁業によって発展の道を歩んでいた銚子は、元禄期に醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保に至るまで農村から港湾都市・産業都市として、発展の一段階を達成した。田中玄蕃家の記録である「先代集」は、松平伊昌が入部した天正文禄期の飯沼村の百姓数を27軒とし、それが1720年(享保5年)には飯沼村家数1492軒、人数6819人と記しており、この頃城下でもない地方の村で、7000人近い人口を有するところは、関東では他になかった。銚子の発展はこの時期だけにとどまらず、海運・漁業・醤油に関連して、その他の商工業も盛んになり、都市化が進展して、文化・文政期には最盛期に達した。文政年代の銚子の人口は飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで1万3千余を擁し、一般の農村の人口とは1桁違っていた。これらの4村は点在していたのではなく、利根川の沿岸に連続した市街地を形成して殷賑を極めていた。1841年(天保12年)、銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写している。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活しており、これらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種もあり、地方の一小地域としては、非常に大きな経済規模を有していた。医療について見ると、1752年(宝暦2年)の飯沼村の医師数は13人で、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、当時の銚子における都市化の進展を示している。江戸末期の銚子の人口は江戸、水戸に次いで関東3位であり、下総・上総を合わせた中では第1位であった。

利根川の水運が開け、東北米の廻送や銚子の水産物・醤油等によって江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、両地に今までなかった立派な妓楼が建つようになった。本城は天保弘化嘉永と年を追って繁昌し、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒を並べていた。本城遊廓の衰微の最大要因は、1840年(天保11年)・1849年(嘉永2年)・1861年(文久元年)と三度火災にあったことである。このため幕末慶応年間に至ってもなおかつてのように復興せず、維新後1872年(明治5年)の法律改正により貸座敷営業となり、1879年(明治10年)廃業の諭旨を受け、1912年(大正元年)に全廃した。本城と並び栄えた松岸遊廓の開創は、本城よりやや古く、全盛は文化年中より前であるが、明治大正に及んでもなお全国に知られて昭和まで存続した。1872年(明治5年)の届出書類を見ると松岸町に4軒の女郎屋があり、総勢64名の妓が抱えられている。また1879年(明治12年)の届書には遊客を妓楼に案内する引手茶屋は24軒の名が記されており、この頃からの松岸遊廓は、大利根の流れに映える不夜城の灯火と野趣に満ちた大漁節をもって、その名が広く全国に喧伝されていた。

近代

明治・大正

 
1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における新治県

1869年(明治2年)、銚子は宮谷県の管轄となり、県庁大網白里に置かれ、飯沼陣屋に支庁が置かれた。1872年(明治5年)に新治県に編入されたが、1875年(明治8年)に廃され千葉県となった。1889年(明治22年)に近代的な地方制度を定めた「市制町村制」が施行され、この時江戸時代の村は単独もしくは合併して近代町村に生まれ変わった。銚子では本銚子町・銚子町・西銚子町・高神村・豊浦村・海上村の3町3村になり、初めて銚子の名は行政区画名になった。銚子は明治期を通じて県下最大規模の戸数(5600余戸)と人口をかかえ、醤油醸造・漁業・水産加工業・商業等の諸産業が盛んであった。銚子町と本銚子町をあわせた人口は2万3000余人で、県庁所在地である千葉町をしのいでいた。東京となってからは日本の発展と共に周辺に大都市が発生したが、江戸の頃には銚子が最大の衛星都市であった。その名残りが明治期まで続いていたのである。

 
藤島武二筆『犬吠岬の灯台』
 
リチャード・ヘンリー・ブラントン

明治に入って、銚子にも相次いで文明開化の新施設が見られるようになり、犬吠埼灯台の建設、蒸気船の出現、測候所の創立、電信線の架設をはじめ、鉄道が開通し無線電信塔が聳立する等、その変貌は目まぐるしいものがあった。犬吠埼灯台は1872年(明治5年)、明治政府が雇った外国人技術者の英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計施行のもとに起工され、1874年(明治7年)に完成、初点灯された。測候所は気象災害防止のため、利根川汽船会社取説役と海上郡郡長ほか有志によって1886年(明治19年)に開設され、銚子地方気象台の最初となった。銚子無線電信局1907年(明治41年)、逓信省により日本最初の無線電信局として開設され、航行中の船舶や諸外国との通信事業が開始された。1872年(明治5年)には野尻郵便局が開設され、次いで銚子町に銚子郵便局が開設された。銚子郵便局は1889年(明治22年)に銚子電信局と合併し、以来郵便と電信の両事務を取り扱ったが、1906年(明治40年)には電話事務を開始し、更に1907年(明治41年)からは千葉県最初の電話交換事務を開始した。

明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退した。また、利根川河口の水深の関係により、銚子港への大型船の出入は困難であったことから、明治以降の大型船舶の発達の中で、銚子港の商港としての役割は大きく後退した。しかし、利根川の水運だけは昭和に至るまで残っており、新文明の花形である蒸気船の登場は、旧来の高瀬船による利根川水運に一大革新をもたらすに至った。1874年(明治7年)、汽船利根川丸が回航されたのを皮切りに、年を追って個人企業の就航汽船数は増加していった。1881年(明治14年)には町の有志が銚子汽船株式会社を設立して一本化された。こうして東京と利根・江戸両川の沿岸並びに北浦霞ヶ浦の各地を結ぶ交通運輸の便が開かれて従来の小規模な、しかも長時日を要する交通情勢を一変させ、銚子をはじめ沿岸各地の発展に資するところも少なくなかった。銚子・波崎間には江戸時代から渡船連絡が行われており、大正期には銚子に11か所の手こぎ和船の渡船場があった。これらの多くは波崎側の人々によって行われていたが、銚子に鉄道が開通した後は、銚子汽船株式会社が発動機船で巡航方式の渡船営業を開始した。

 
1935年(昭和10年)頃の新生駅
 
銚子遊覧鉄道の敷設工事

総武本線1894年(明治27年)に総武鉄道株式会社市川佐倉間で営業を開始したのに始まり、その後1897年(明治30年)に本所・銚子間、1904年(明治37年)に両国・銚子間が開通し、次いで1907年(明治40年)に国有鉄道となった。船便で17時間を要した銚子・東京間は、汽車で4時間に短縮された。成田線は1897年(明治30年)、成田鉄道株式会社が佐倉・成田間で営業を開始したのに始まり、翌年には成田・佐原間が開通し、その後1920年(大正9年)から国有鉄道となってから、地元住民の要望にしたがって佐原・松岸間に延長工事が実施され、1933年(昭和8年)に開通した。これによって銚子から佐原・成田回りで両国へ行くことも可能となり、銚子を含む利根川沿線の町村がようやく鉄道によって結ばれたことで、交通や物資輸送面で多くの利益がもたらされた。また、明治の末頃から避暑客・遊覧者の増加をみるようになって、土地の有力者間に私設鉄道敷設の議がおこり、1912年(大正元年)に銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、1913年(大正2年)に銚子・犬吠間が開通したが、1917年(大正6年)に廃業した。その後1923年(大正12年)に再び有志らが銚子鉄道株式会社を設立し、銚子・外川間が開通した。戦後は銚子電気鉄道株式会社と改称した。これら各鉄道の開通は産業の発展と文化の向上に大きな役割を果たし、江戸以来明治に至る長い間、利根川による水運に依存していた銚子は、陸運の発達に恵まれた近代都市へと移行した。1930年(昭和5年)には民間飛行場である大利根飛行場が三軒町に開設した。海軍払い下げの水上飛行機を7機保有し、銚子・佐原間の旅客輸送や犬吠・佐原・潮来上空の遊覧飛行等を行い、時代の最先端を行くものとして人々を驚かせた。

近代に入ってからも、漁業は依然として銚子の主要産業であった。むしろ漁業への依存度は江戸時代以上に高まり、銚子の産業における漁業の比重は増大した。それは明治維新によって東廻り海運が急速に衰微したためである。そのため銚子の町は往年の活気を失い、しばらくの間沈滞を続けねばならなくなった。しかしやがて漁業が文明開化の進展と共に近代漁業へと発展し、銚子港は全面的にその根拠地として大きく機能していくこととなったのである。銚子の漁業は、明治末期に始まる漁船の動力化によって近代化の道を歩み始め、その後更に大型化や漁具漁船の改善、鉄道の発達による鮮魚消費市場の拡大その他が加わって発展していった。イワシ漁網は明治前半までは依然として八手網が使われていたが、明治後半になってからあぐり網が入ってきて、江戸時代からの長い歴史をもつ八手網は姿を消した。明治期からはカツオ・マグロ漁業が非常に盛んとなったが、昭和初期を過ぎると漁場が次第に遠くなったことで漸次衰微を余儀なくされた。大正期にはタイヒラメカレイその他の底魚類を対象とする機船底びき網漁業が盛んになった。1864年(元治元年)に大漁節を生んだ幕末のイワシの豊漁期は明治中頃に終わって不漁期に入ったが、大正から昭和初期にかけて豊漁期に転じ、水揚げ高は1936年(昭和11年)に史上最高記録を示した。イワシは搾粕に加工され、同時に魚油も生産されたため、地域経済に対する波及効果が大きく、イワシ漁さえあれば銚子は不景気知らずといわれた。そのため、この時期銚子の町は活気に溢れ、1932年(昭和7年)には、あぐり漁労長ら80余人が大新旅館で盛大な大漁祝賀会を開いた。

昭和前期まで、銚子は県下有数の甘薯産地であった。これらの甘薯の大部分は澱粉の原料とされ、澱粉製造は漁業に関連する水産加工業と同様に、農業関連産業として銚子市の主要な地場産業の一つとなっていた。澱粉製造は明治中頃に始まり、農家数戸が家内工業とする程度であったが、1907年(明治40年)には製造農家27戸と大幅に普及した。明治後期には人力の手摺機に改良を加えた澱粉分離機が考案され、更には日露戦争後の急速な日本工業の発展に伴って蒸気機関石油発動機が登場し、技術も生産も一段と向上した。

 
ヤマサ醤油広告 1919年(大正8年)

日清・日露戦争後、銚子には缶詰製造、製網、造船、漁船用発動機製造等、多くの産業が勃興し、活発な経済活動を展開した。1910年(明治43年)には地元有志により銚子町に銚子電燈株式会社が設立されて、千葉に次いで千葉県で2番目に電灯がともるようになった。1913年(大正2年)には本銚子町に銚子瓦斯株式会社が設立され、ガス灯が登場した。銚子町には天明年間創業の豊田菓子が工場を設け、水戸屋の屋号で広く銚子一帯に知れわたった。醤油産業では、多くの醸造業者は小規模の家内工業の段階に止まっていたが、ヤマサ・ヤマジュウ・ヒゲタ等の江戸期以来の大工場は、着々と機械化装備を整えて資本主義興隆期の波に乗った。ヤマサ醤油は1906年(明治39年)に濱口合名株式会社に組織変更し、ヒゲタ醤油の会社化と並んで日本屈指の醤油会社となり、ジガミサ、ヤマジュウその他の同業銘柄を合併吸収し、また、第2・第3工場を新設・拡張する等、昭和以降躍進の一途をたどった。明治後期には、漁民家庭の主婦たちの不漁時の内職として工業が始まり、次第に専業化するものも現れ、大正期の関東大震災後に最盛期を迎えた。こうした産業の発展に伴って大手銀行支店の進出、銚子信用組合はじめ地元銀行の設立等、金融機関の開設も多くなり、1914年(大正3年)には8行を数えるに至った。国や県の出先諸官庁も設置されて、銚子は千葉県北東部における政治・経済の中心都市としての機能を備えていった。1936年(昭和11年)には、千葉県で最初の商工会議所として銚子商工会議所が設立された。

1925年(大正14年)にはヤマサ醤油株式会社社長濱口梧洞によって財団法人公正会が設立され、翌年には活動拠点である公正会館が開館した。公正会の主な事業としては、公正図書館の経営、夜間学校である公正商業学校の経営、講演会・講座・展覧会・音楽会・芸能会その他の各種事業であった。公正会館は鉄筋コンクリート2階建で、講堂その他を完備した近代的な建物であった。公正会は1948年(昭和23年)の解散まで、銚子の文化の向上に大きく貢献した。

この頃、銚子市はまだ誕生していなかった。後年銚子市となる地域は、本銚子町・銚子町・西銚子町・高神村・豊浦村・海上村等に分かれていた。銚子町は銚子の中央部に位置する商工業の町であった。荒野・新生・今宮の3村合併によりできた町で、銚子の主要な官公署・企業・銀行・公立中等学校等はこの町に集まり、富裕な町民も多く、経済・文化の中心地になっていた。本銚子町は飯沼村1村で町制を施行した町で、銚子半島の東北部を占め、最大の人口を有する漁業の中心地であった。商工業も盛んで観光資源にも恵まれ、飯沼観音を中心に歓楽街が発達していた。西銚子町は銚子町の西に銚子街道に沿って発達した村で、かつては松本・本城・長塚の3村に分かれていた。町としての規模は3銚子町の中で最も小さく、産業は農漁業である。これらの町は連続して市街地を形成して一つの町のようにつながっており、場所によっては一つの家の屋敷が2つの町にまたがっていることもあった。

 
明治末頃の銚子

銚子は江戸時代の中期に既に芝居の劇場ができており、地方の町の割には娯楽施設が発達していた。大正から昭和にかけては映画館や劇場のほか、撞球場・麻雀屋・射的場その他の遊戯場があり、高級料亭から小料理屋、蕎麦屋・食堂に至るまで飲む場所もまた不自由はなかった。カフェー全盛の時代であったので、新生の仙松軒をはじめカフェーも各所にできていた。松岸・本城・田中の3か所には江戸時代から花街が発達していた。銚子では公娼を相手とするところを女郎屋と称し、私娼を相手とするところを茶屋と称したが、松岸にあったのは全て女郎屋であり、本城は女郎屋と茶屋であった。田中は全て茶屋であった。松岸の第一、第二開新楼は三層の建物が豪壮で有名であった。田中は飯沼観音裏手から和田町にかけての一帯の俗称であり、漁船の出入が絶えず、漁労の若者が集まる銚子において歓楽街として賑わった。商家と民家に90余軒の茶屋が混在し、およそ400から500人の私娼がいた。旧正月と八日まち(灌仏会)には、飯沼観音境内に様々な見世物小屋が掛かり、露店香具師が出、近郷近在からの人出で幾日も賑わった。

この頃、銚子ではその将来を左右する一大公共事業が歩一歩と進められていた。銚子漁港修築工事いわゆる銚子築港であり、この事業を軸に銚子は前近代から近代へと大きく転換しようとしていた。江戸時代の銚子港は主として商港として興り商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかった。大正期に入っても銚子港の形態はほとんど天然のままの河口港であり、僅かに沿岸の海岸のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。港口の出入りには危険が伴い、漁船の遭難が繰り返されていた。そのうえ港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。そこで近代的な漁港を建設して航行の危険を除くとともに、施設の整備により地元船ばかりでなく廻船を誘致し、銚子の新たな発展の基盤にしようという機運が高まっていった。

 
銚子醤油株式会社社長 濱口吉兵衛

築港事業は漁業関係者の一致した認識となり、1919年(大正8年)には具体的な実現運動に発展した。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国水産業の発展という大局的な見地から一大整備を行うこととなった。銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛は、代議士の立場から築港の促進を図るため衆議院議員選挙に立候補して当選し、在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけた。工事は1923年(大正12年)度から10か年継続とし、総工事費1千万円を千葉県の他に将来銚子漁港を利用する各府県で分担することとなった。しかし各府県の財政事情によりこの案は廃され、国庫補助金等を合わせて、千葉県単独で実施することとなった。これに至るまでには、銚子町選出の県会議員小野田周斎の努力があった。

しかし、内務省は利根川河口の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとせず、起債と工事施行の認可は容易に下りようとしなかった。銚子はその将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員選挙に再出馬し当選した濱口吉兵衛や香取郡から再選された今井健彦を動かし、内務省や農商務省に働きかけた。その労が実り、1925年(大正14年)、部分的に第二漁船渠の工事が認可され、飯沼魚市場において盛大に起工式が挙行された。1932年(昭和7年)には第二漁船渠後背地に東洋一を誇る[12]新魚市場が完成し、1934年(昭和9年)度からは埋立地を貫通する延長5500メートルに及ぶ臨港道路の建設が開始された。

昭和前期

 
初代銚子市長 川村芳次

市制施行は県都千葉市が発足して間もない1923年(大正12年)頃から有識者間で度々話題になっていた。昭和に入り築港工事を控えて、銚子では各町村が大同団結して大銚子市を建設し、もって地域の発展を図ろうとする機運が高まり、1年の準備期間を経て1933年(昭和8年)2月11日、銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が合併して銚子市が発足した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった。初代市長には川村芳次が就任した。1937年(昭和12年)には高神村・海上村が合併し、近世以来銚子という文化圏を形成していた地域はようやく一つの行政区画となった。

この時期から銚子市に軍事施設が設置されるようになり、1936年(昭和11年)に下志津陸軍飛行学校銚子文教場が春日台に設置された。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、銚子市には関係陸海軍部隊が配置され、犬吠埼に海軍の防空監視部隊である横鎮犬吠望楼が常駐するようになり、1942年(昭和17年)の初の本土空襲後は、愛宕山に陸海軍のレーダー部隊が配置された。これに続いて、1943年(昭和18年)には三崎町に陸軍千葉防空学校銚子分校が開校した。1944年(昭和19年)には、新生駅から銚子漁港魚市場に至る臨港線が敷設され、戦時下において東京への鮮魚輸送を担った。1945年(昭和20年)に入ってから、軍部は本土決戦の準備に本格的に取り組み始めたが、米軍上陸の公算の大きい地域として九十九里浜は重視され、その東端に近いところに位置する銚子市には陸海軍部隊が派遣されて不動山と妙見町方面に防御陣地が築かれ、弥生町・幸町と外川には海軍の特攻基地が建設された。末期には銚子半島の防護を担う陸軍決戦部隊が移駐した。

 
銚子を襲ったB29戦略爆撃機

1944年(昭和19年)以降、関東地区には米軍の大型戦略爆撃機B29が飛来し、銚子市上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となった。1945年(昭和20年)2月には銚子市に初めて米軍艦載機が侵入し、下志津陸軍飛行場銚子分教場が攻撃を受けた。3月9日深夜には5機のB29が銚子市に侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であり、北北東の風に煽られて市中心部は火の海となり、陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。この空爆は千葉県に行われた最初のもので、死者47人、負傷者163人、焼失戸数は1000戸余であった。この空襲により銚子駅前一帯は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通せる状態となった。

そして7月19日の深夜、銚子市は3月の空襲を遥かに上回る2度目の大空襲を受けて、市街地のほとんどが全滅した(銚子空襲)。この夜、91機という多数のB29が来襲し、市街地に大量の焼夷弾・爆弾を投下し、低空で機銃掃射を行った。死者278人、負傷者は808人で、総焼失戸数は3950戸と銚子市全戸数の30パーセント強が焼失し、銚子駅・警察署・測候所・税務署・土木出張所・銚子漁港修築事務所・銚港神社・峯神社・各種学校等、多数の建物が灰塵に帰した。焼失前は建物に遮られて市街地からはほとんど見えなかった御前鬼山という小さな丘がどこからでも見えるほど、銚子の街は見渡す限り焼け野原となった。銚子市のような地方小都市が狙われたのは、銚子市が水産業と醤油製造業の中心地で、また千葉県第2の都市でもあり、空襲が成功すれば東京の主要食糧供給基地の一つを破壊できると考えられたためである。

現代

昭和後期

終戦後、銚子市には米軍が駐屯するようになり、ヤマサ醤油本社ビルを接収して関東各地の旧日本軍の砲弾弾薬の海中投棄作業を指揮した。銚子駅から臨港線によって銚子漁港に集積された爆弾・砲弾は銚子・波崎・片貝方面の漁船によって銚子沖に投棄された。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなり、大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。闇商売も横行したが、それはやがて銚子市の地域経済を活発にし、戦災復興の原動力となった一面もあった。焼失した学校や諸官公庁もだいたい1950年(昭和25年)までには再建された。

戦災によって国内の主要市街地の多くが焦土と化し、その復興が急務とされていた終戦直後、銚子市の最大の課題は市街地の復興であった。1946年(昭和21年)に戦災復興都市計画事業が決定され、県が土地区画整理事業を施行することとなった。計画の立案・設計に当たっては、首都の外郭都市群の一つとして安定した工業基地の条件を備え、農産・水産加工、農・漁業関係機械工業、造船等の工業基地であることに重点をおき、将来人口10万の文化的な近代都市を建設することが目標とされた。5か年計画事業として区画整理事業、街路事業、水道事業、ガス事業、公園事業等の工事が開始され、当初計画の修正を経て、1960年(昭和35年)に終了した。事業によって銚子市の景観は一変し、市街地は広い幹線道路とその間を結ぶ区画街路によって整然と区画され、古い港町の面影は全く払拭された。市街地の寺院墓地の移転、駅前広場・商店街アーケードの完成、都市公園の配置、街路樹の植栽等も進み、銚子市は近代都市へと変貌を遂げた。小さなバラック建ての店舗から出発した商店街は、アーケードや街路灯によって整備された近代的な商店街に生まれ変わり、1956年(昭和31年)の戦災復興10周年を記念する全市的な復興祭には、華やかな装飾で行事に色を添えた。戦災復興事業終了に引き続いて飯沼都市改造区画整理事業が実施され、1969年(昭和44年)に終了し、空襲で焼失した銚子市の市街地は一体的に整備された。

1953年(昭和28年)、国は国と地方の行政事務の再配分と合理化のため「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進した。このような背景の中で、銚子市は1954年(昭和29年)4月1日海上郡船木村椎柴村を合併し、1955年(昭和30年)2月11日には香取郡豊里村を、1956年(昭和31年)4月10日には海上郡豊岡村を編入合併した。これらの市村合併により、銚子市の人口はそれまでの7万人台から一挙に9万人台に増加し、市制施行当時の約2倍となった。

1960年代に入ると日本経済池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」による高度経済成長期に入り、各地で拠点開発方式の経済産業発展政策が強力に推し進められた。京葉地帯の工業開発やベッドタウン化に伴い、首都近郊50キロ圏に産業・人口・都市機能が集中し、近隣においても成田空港建設や鹿島開発等が進み、銚子市を取り巻く環境が大きく変化する中で、銚子市においては、1961年(昭和36年)実施の「市勢振興調査」が既存産業の一層の発展とあわせて大工業化、新産業創設を提起し、これを受けて「銚子市長期計画」が策定された。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)に「銚子市基本構想」が定められた。この初の基本構想は、市民福祉の増進を目的に、東総地域等における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とし、基礎的条件の整備、生活環境の整備と社会福祉等の充実、教育文化水準の向上及び産業の振興を施策の大綱と定めたものであった。以後、銚子市では様々な地域振興策を盛り込んだ基本構想が数次にわたって策定された。

日本道路公団1959年(昭和34年)に銚子市と波崎町を結ぶ利根川架橋の架設工事を決定し、1960年(昭和35年)に起工した。橋脚工事には当時の最新技術であった潜函工法が用いられた。工事は1962年(昭和37年)11月に完成し、12月10日、全長1450メートルの銚子大橋が開通した。この日銚子市内は祝賀一色となり、銚子大橋付近や主要な街頭は空前の人出で終日賑わった[12]。開通後の銚子大橋の車両通行量は本格的な自家用自動車の普及によって予測を遥かに上回るものとなり、1974年(昭和49年)に無料化された。1953年(昭和28年)には政令第96号をもって2級国道千葉銚子線が指定され、のちに一般国道126号となった。1974年(昭和49年)には政令第364号をもって一般国道356号が指定された。

 
建設が進む銚子漁港 (国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

銚子漁港は1960年(昭和35年)に政令第255号をもって水産業の振興上特に重要な漁港を表す特定第3種漁港に指定され、1963年(昭和38年)に成立した第三次漁港整備計画により、最新の技術と機械力を投入した抜本的改修が実現することとなった。工事は1963年(昭和38年)に起工され、続く第四次整備計画では1971年(昭和46年)に利根川を航行しない新航路が開通し、これ以後利根川河口付近における漁船の遭難は後を絶った。1973年(昭和48年)成立の第五次漁港整備計画においては、夫婦ヶ鼻から黒生漁港に至る間の外港工事が実施され、漁港整備にあわせた沿岸漁業等の水揚げ拠点基地として、埋立造成された公共施設用地に多数の水産物流通加工機能が建設された。県事業の進捗に伴って、銚子市漁業協同組合では魚市場・給油施設・製氷工場・冷凍冷蔵施設等を整備した。これらの工事によって銚子の東海岸の約3分の1が漁港化され、銚子漁港は太平洋に臨む広大な外港とこれに続く内港とによって、近代的漁港として歴史的変貌を遂げた。

銚子半島南岸の犬若・名洗海岸は、強風時における船舶の避難碇泊に適する地形であったため古くから犬若泊地として知られていたが、戦後、避難港として整備されることとなり、1951年(昭和26年)に政令により避難港の指定を受けて、1952年(昭和27年)に運輸省直轄の避難港工事が開始された。1953年(昭和28年)、名洗港は千葉県が港湾管理者となる地方港湾として5月に漁港区域指定の千葉県告示がなされた。避難港工事は1965年(昭和40年)度に完了し、1966年(昭和41年)度からは千葉県が国の「港湾整備計画」による整備を開始した。名洗港の整備と並行して、銚子市は港湾施設用地の確保と企業誘致による市産業の高度化を目的とする名洗港臨海工業用地の造成を行った。1969年(昭和44年)に名洗港は地方港湾として供用開始となった。

戦後の銚子市の漁業は、漁港の整備、技術革新に伴う漁労技術装備の導入、漁船の動力化・大型化・近代化等が進み、飛躍的な発展を遂げた。水揚げ高の面からみると、地元漁業が主体であったのが、地元漁業勢力の後退により回船を主体とする漁業へと変化している。銚子市の漁業は戦前から大衆魚を中心とする漁業として著名であり、魚種はイワシだけであったが、戦後はこれにサンマサバが加わることによって、大衆魚中心の漁業としての性格は一層強まることとなった。サンマは火光利用の大型棒受網漁法の普及によって大量に漁獲されるようになり、銚子沖には全国津々浦々のさんま漁船が集結して日帰りでピストン操業を行った。漁船群が放つ集魚灯の輝きは地上からも眺められた。サバは新漁場の発見によって水揚げが大幅に増加し、漁法も一本釣りからまき網に替わった。銚子市の農業は、戦前から澱粉原料用の甘薯と麦類の輸作が畑作の主体となっていたが、1960年代から、より採算性の高いキャベツが基幹作物となっていった。1962年(昭和37年)には「灯台印」のブランド化により他産地との差別化に成功し、銚子市は春系キャベツの一大供給基地となった。

銚子漁港・名洗港の整備とあわせ、冷蔵施設の普及・発達、原料魚の移入増加による原料供給の安定による年間操業化、機械の導入による省力化等に伴い、銚子市の水産・食品加工業は大きく発展した。戦後の水産加工業の特色は、その主力がイワシ搾粕から養殖の飼料用の冷凍イワシへと替わったことであり、設備の近代化により生産額は大幅に増大した。醤油製造業では、国内市場が飽和状態となってくると、醤油以外の商品の開発に力が注がれるようになり、うどん・そば・ラーメン等のつゆが製造されるようになった。醤油以外の調味料で、戦後銚子市で開発された画期的な調味料は、1961年(昭和36年)に発売されたヤマサの新しい化学調味料「フレーブ」である。化学調味料は、食品産業界では1957年(昭和32年)頃から開発されるようになったが、醤油メーカーでこの分野で先鞭をつけたのがヤマサであった。「フレーブ」はイノシン酸グルタミン酸を複合させた化学調味料であり、日本の化学調味料界に一大革命がもたらされると共に、国民の食生活にも大きな影響が及ぶこととなった。

 
1975年(昭和50年)運転開始の特急しおさい

1959年(昭和34年)、銚子市の海岸一帯が国定公園に指定された。1963年(昭和38年)の銚子市営国民宿舎犬吠ホテル開館に続き、関東の大手私鉄である京成電鉄が犬吠埼に観光ホテルを建設し、1964年(昭和39年)に開館した。これらが契機となって、海岸地帯では新しいホテルの建設や既存旅館の改築整備等が続き、銚子市の観光客受け入れ施設は万全の態勢となった。観光道路についても県道銚子公園線の犬吠埼・長崎間が完成して海岸一周が可能となり、1973年(昭和48年)には愛宕山から屏風ヶ浦の台地を通って三崎町に至る観光有料道路・県道愛宕山公園線が開通し、自家用自動車時代に対応する観光道路網が整えられた。鉄道ではローカル線としては比較的早い時期に電化が実現し、蒸気機関車は1969年(昭和44年)に姿を消すこととなった。電化に伴って列車本数も増え、急行列車特急列車が運転されるようになった。1975年(昭和50年)には、銚子・東京間に特急列車「しおさい」の運転が開始された。途中停車駅は八日市場成東又は八街千葉・錦糸町であり、こだま型の車両を改良した最新の183系が導入された。1970年(昭和45年)からは、新たな観光行事として毎年8月に花火大会及びみこしパレードを柱とする「銚子みなとまつり」が行われるようになった。

1960年代には技術革新と大衆消費革命が進み、銚子市においても商業は競争の時代を迎え、1960年(昭和35年)には、外来資本である株式会社十字屋が新生町に進出したほか、1970年代に入ると市内各地区に中小のスーパーマーケットが開店した。1963年(昭和38年)に銚子銀座に開店した「ミヤスズ」は市内各所及び市外にも店舗を増設して、食料品を中心とするスーパーとしては最大手に成長した。1972年(昭和47年)には、銚子銀座の衣料品店「クリハシ」が銚子市初の百貨店となった。銚子銀座は飯沼観音正面の目抜き通りとして戦前から賑わい、宝飾品衣料品呉服その他の店舗が密集した市内第一の商店街であったが、1976年(昭和51年)の株式会社十字屋による百貨店開店、1979年(昭和54年)の株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店を機に、銚子駅前に流行の飲食店ブティックが集積するようになり、銚子銀座をしのぐ商業集積地区が形成された。戦前においては市内、近隣農村、波崎町を合わせた地域とみられていた銚子市商圏は、自家用自動車の普及と銚子大橋建設等の状況から、1960年代に入ってから拡大し、1968年(昭和43年)の「千葉県商圏調査」結果では、市内及び旭市・海上町・飯岡町・干潟町野栄町・小見川町・茨城県波崎町・神栖町までを含めた人口約22万人の地域とされた。1970年代以降は各地域の商業力向上に伴って佐原市、茨城県側、更に旭・八日市場方面を含め商圏の競争が生じるようになった。

1970年代からは、民間企業によって銚子市の西部地域に豊里団地と呼ばれる大規模住宅団地の造成が行われた。笹本町台地の主要地方道多古笹本線東側の山林部70ヘクタールを宅地造成して、2800世帯、1万2600人が入居するニュータウンを建設しようとする計画であり、1971年(昭和46年)から用地買収が開始され、1974年(昭和49年)から工事開始となった。当初目的は鹿島臨海工業地帯に進出する企業の社宅用であったが、その後の経済情勢の変化によってこれは見直され、一般住宅向け分譲団地となった。1970年(昭和45年)には、財団法人銚子市開発協会と千葉県開発公社の共同事業により、小浜町に18万1500平方メートルの工業団地が造成された。

県立銚子商業高等学校野球部では市立第一中学校から斉藤一之監督を招聘して以後、続けて千葉県代表として甲子園に出場して千葉県下の高校野球に銚商時代を現出した。1965年(昭和40年)の第47回大会においては決勝戦まで進出して準優勝し、更に1974年(昭和49年)の第56回大会においては全国優勝を果たした。1979年(昭和54年)には市立銚子高等学校が、1981年(昭和56年)には市立銚子西高等学校がそれぞれ千葉県予選で優勝し、甲子園に出場した。

平成・令和

1985年(昭和60年)、銚子を舞台にしたNHK連続テレビ小説澪つくし」が大ヒット作品となり、それまで160万人から180万人台であった年間観光客入込数は220万人を超えた。銚子市はこの年を銚子観光元年と銘打ち、観光宣伝はもとより観光レクリエーション拠点の整備を一層推進し、21世紀に向けた新たな都市づくりの主要なステップとする方針を定め、「銚子市観光振興基本計画」を策定した。この計画において、愛宕山展望館の改築、銚子漁港地区水産ポートセンターの整備、インフォメーションセンター、観光案内標識の設置、PR・イベントの実施のほか、海浜レクリエーション基地、マリンスポーツ基地、海岸遊歩道・サイクリング道路の整備、銚子駅前の景観づくり等が掲げられた。

銚子市は社団法人日本港湾協会の「名洗港整備調査報告書」の提言を受け、整備方針について検討を進めていた名洗港を規模及び質において我が国第一級のマリーナを中心とするマリンリゾート拠点として整備し、これを核とするリゾート都市を形成することとした。その整備構想は、名洗港にクルーザー等1000隻の収容能力を持つマリーナを新設し、既存埋立地にリゾート施設を、マリーナ西側に海水浴場を、既存堤防基部に5000トン級船舶が接岸可能な岸壁を新設するというものであった。1987年(昭和62年)の国・県・市による「名洗港マリンタウンプロジェクト調査」委託、1989年(平成元年)の「総合保養地域整備法」に基づく千葉県の「房総リゾート地域整備構想」における重点整備地区としての「銚子マリン・リゾート」指定、1990年(平成2年)の「名洗港港湾計画」策定、翌年の「漁業補償契約書」調印、名洗港の「海洋性レクリエーション拠点港湾」指定といった状況推移の中で、マリーナの管理運営に当たる第三セクターの設立、マリーナ後背地開発の事業主体となる民間企業の選定、マリンリゾートにふさわしい港湾環境の整備が進められた。

 
銚子ポートタワー

観光・レクリエーション施設の整備も推進され、1988年(昭和63年)には地球の丸く見える丘展望館が開館し、1991年(平成3年)には水産ポートセンターがオープンした。銚子駅前通りシンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座通りココロードの整備等により、点から線へと市内観光ルートの整備も進められた。2000年(平成12年)には銚子市と波崎町を結ぶ利根かもめ大橋が開通し、地域高規格道路である銚子連絡道路の整備も進められた。1997年(平成9年)と2000年(平成12年)には、犬吠埼に2つの民間ホテルが続いて温泉掘削に成功して、銚子海岸観光のベストロケーションに天然温泉という関係者の長年の夢が実現した。周辺のホテル・旅館もこの源泉から分湯を受け共同利用することとなり、犬吠埼温泉郷が形成され、銚子観光のイメージアップと集客力強化に大きな役割を果たすこととなった。

マリーナの名称は「銚子マリーナ」と定められ、当初計画の見直しを経て港湾改修、埋立土地造成事業、係留桟橋、船揚場ボートヤード、クラブハウス、修理庫、上下架施設、駐車場等のマリーナ施設の整備が進められて1999年(平成11年)に供用開始となり、同年7月18日に銚子マリーナ完成記念式典が挙行された。マリーナ泊地の北側には多目的広場、親水護岸、休憩所等を備えた名洗港海浜公園が整備され、また、屏風ヶ浦の景勝を活かしたマリーナと一体となった海洋性レクリエーション拠点づくりのための海岸環境整備として、人工海浜が造成された。マリーナ後背地には2004年(平成16年)に千葉科学大学が開学し、2005年(平成17年)には学部棟・図書館棟・講義棟・厚生棟・体育館・グラウンドからなるマリーナキャンパスが完成して、市内においては学生の生活基盤となるマンションアパート等の建設が進んだ。2008年(平成20年)には大学院が設置された。

 
君ヶ浜しおさい公園

銚子市では21世紀を迎えるにあたり、「21世紀と最初に出会うまち 銚子」として、1999年(平成11年)、2000年(平成12年)、2001年(平成13年)と3年間にわたって「世紀越え事業」を展開した。この事業は、行政と市民が一体となった「協働のまちづくり」の一環として、日本列島沿岸で初日の出が最も早く見られる地の利を活かし、広く情報発信して銚子をアピールすること、市内外の幅広い交流を促進すること、銚子の自然環境・産業・文化・歴史的遺産等の財産を再認識して21世紀につなげること等を目的とするものであった。初日の出にあわせた多様なイベント開催や記念商品の開発が市内の各種団体、企業、市民の協力によって行われ、テレビや雑誌等に大きく取り上げられたほか、まちおこしまちづくりの先駆的事業として千葉県から市町村表彰を受けた。

2001年(平成13年)には、小浜町に最初の大型風車が建設され、銚子市における風力発電の始まりとなった。設置した事業者は日本風力開発株式会社の子会社である銚子屏風ヶ浦風力開発株式会社である。この風車は1500キロワットの出力を持ち、1000キロワット以下の風車が多かった当時にあってはかなり大型のものであった。この第1号風車が好調な発電成績を積み重ねたことで、銚子市は風力発電の一大適地との認識を得て、風車立地を目指す大手メーカーの子会社が相次いで立地に向けた交渉・調整を開始した。2003年(平成15年)には日本風力開発が1号機に隣接して2号機を運転開始させたほか、同時期に他の事業者が2基が稼働させた。2005年(平成17年)には日本風力開発が9基を一括して立地・運転開始し、更に2006年(平成18年)には3つの事業者がそれぞれ1基の風車を立地させて参入、日本風力開発も6基を稼働させた。2007年(平成19年)に入ってからも7基が立地し、その後も風車の建設が続いて、合計34基もの風車が銚子市内にそびえ立つこととなった。これらの風車はほとんど全てが西部の台地地帯に立地しており、銚子市は関東最大規模の風力発電拠点となった。

国内において、大規模小売店の出店には「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」(大店法)の規制があったが、1992年(平成4年)に1000平方メートル未満の店舗出店は原則自由とされたのち廃法となり、2000年(平成12年)から「大規模小売店舗立地法」(大店立地法)が施行された。あわせて、出店規制ゾーンの設定という手法を取り入れるための「都市計画法」を含めて関係三法の改正もなされた。これによって小売店をめぐる情勢は変化し、銚子市内及び周辺地域では郊外型店舗等の機能集積が進んだ。2010年(平成22年)には三崎町にイオン銚子ショッピングセンターが開店し、地域における広域交流拠点の役割を果たしている。

 
洋上ウインドファーム

2009年(平成21年)、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)と東京電力の共同事業により、銚子市沖に日本初の洋上風力発電施設が設置されて実証研究が行われ、この海域は風況が良好であることや遠浅の地形が続くこと等、着床式洋上風力発電に対するポテンシャルが非常に高いことが判明した。2020年(令和2年)、銚子市沖が「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電事業促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された。事業は促進区域内に洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)9月から20年間以上操業するものであり、今後環境や漁業への影響調査等を経て、2025年(令和7年)から約56キロメートルの送電線敷設等の陸上工事に、2027年(令和9年)から風車設置等の洋上工事に着工する計画であり、銚子市は「ゼロカーボンシティ銚子」の実現等、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している。

沿革

 
銚子大橋と銚子市街地
海上郡銚子町 C 銚子市
海上郡本銚子町
海上郡伊豆原村 B 海上郡西銚子町
海上郡豊浦村
海上郡高神村 D
海上郡海上村
海上郡船木村 E
海上郡椎芝村 A 海上郡椎柴村
香取郡豊里村 F
海上郡豊岡村 G
A 1891年(明治24年)1月26日
B 1891年(明治24年)8月14日
C 1933年(昭和8年)2月11日
D 1937年(昭和12年)2月11日
E 1954年(昭和29年)4月1日
F 1955年(昭和30年)2月11日
G 1956年(昭和31年)4月10日

市制施行前

市制施行後

  • 1933年(昭和8年)
  • 1934年(昭和9年)
    • 9月1日 - 一ノ島灯台点灯。
    • 11月 - 塵芥焼却場設置。
  • 1935年(昭和10年)8月 - 市営火葬場業務開始。
  • 1936年(昭和11年)
    • 1月27日 - 銚子市歌制定。
    • 12月1日 - 銚子陸軍飛行場着工。
    • 12月1日 - 銚子商工会議所設立(千葉県下最初の会議所)。
    • 県道銚子停車場線の改良工事竣工。
  • 1937年(昭和12年)
    • 2月11日 - 市域拡大(高神海上2村合併)。
    • 4月5日 - 市立銚子中学校設立(後の市立銚子高等学校)。
  • 1938年(昭和13年) - 犬吠地区県立公園に指定。
  • 1939年(昭和14年)3月31日 - 水道工事完成(第1期)。
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 県立銚子水産学校開校。
  • 1944年(昭和19年)
    • 9月 - 臨港線、魚市場まで敷設。
    • 10月1日 - 保健所末広町に設置。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月9日 - 3月10日 - 第1次空襲。焼失1070戸、死傷者210人。
    • 5月14日 - 大里庄次郎市長就任。
    • 7月19日 - 7月20日 - 第2次空襲。焼失3950戸、死傷者1086人。市街地のほとんどが灰燼に帰す(銚子空襲)。
    • 8月1日 - B29夜間東部地区を空襲。焼失350戸、死傷者41人。
  • 1946年(昭和21年)
  • 1947年(昭和22年)
  • 1948年(昭和23年)
  • 1949年(昭和24年)
    • 1月1日 - 銚子市消防本部及び消防署設置。
    • 4月1日 - 市庁舎再建。
    • 9月22日 - 銚子市公正市民館開館。
  • 1950年(昭和25年)
    • 1月5日 - 銚子市診療所設置。
    • 3月31日 - 県下中学校対抗銚子半島一周駅伝大会始まる。
    • 3月31日 - 外川漁港改修工事竣工。
    • 6月17日 - 銚子市営球場開場式。
    • 7月28日 - 復興祭開催。
    • 8月 - 銚子市営プール竣工。
    • 12月23日 - 銚子市勤労会館開館。
  • 1951年(昭和26年)
    • 4月1日 - 銚子市立診療所設置。
    • 4月23日 - 島田隆市長就任。
    • 6月17日 - 銚子市営野球場開場。
  • 1952年(昭和27年)
    • 6月27日 - 名洗避難港工事起工式。
    • 7月19日 - 君ヶ浜キャンプ場開設。
  • 1953年(昭和28年)
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
  • 1956年(昭和31年)
  • 1957年(昭和32年)
  • 1958年(昭和33年)
  • 1959年(昭和34年)
    • 3月3日 - 銚子地域、水郷国定公園に指定。
    • 4月1日 - 銚子市立わかば学園開設。
  • 1960年(昭和35年)
  • 1961年(昭和36年)
  • 1962年(昭和37年)
    • 1月9日 - 交通安全都市宣言。
    • 3月13日 - 銚子市民歌を作成、作曲者山田耕作による指導会を開催。
    • 3月 - 笠上団地宅地造成竣工。
    • 8月 - 銚子漁港東魚市場新設。
    • 12月11日 - 銚子大橋開通式。
  • 1963年(昭和38年)
    • 2月25日 - 精神衛生都市宣言。
    • 3月 - 国の第三次漁港整備計画成立、銚子漁港の抜本的整備決まる。
    • 4月 - 銚子市衛生処理場を設置。
    • 7月25日 - 銚子市営国民宿舎犬吠ホテル開館。
    • 8月3日 - 銚子漁港修築工事起工式。
    • スーパーマーケット「ミヤスズ」開店。スーパー時代始まる。
  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
    • 8月13日 - 銚子市体育館開館。
    • 8月22日 - 県立銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で準優勝。
    • 11月18日 - 銚子市臨海土地造成事業起工式。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1967年(昭和42年)7月1日 - 銚子市特別養護老人ホーム開設。
  • 1968年(昭和43年)6月26日 - 銚子市学校給食共同調理場開設。
  • 1969年(昭和44年)
  • 1970年(昭和45年)
    • 1月 - 小浜町に工業団地造成。
    • 4月1日 - 銚子市民憲章制定。
    • 6月 - 銚子市臨海工業用地造成事業完了。
    • 8月3日 - 夏の観光行事「みなとまつり」始まる。
    • 9月22日 - 公害追放都市宣言。
  • 1971年(昭和46年)
    • 9月28日 - 銚子市青少年文化会館開館。
    • 11月6日 - 利根川河口の新航路開通。以後河口における漁船の遭難絶える。
  • 1972年(昭和47年)
    • 11月 - 下水道工事開始。
    • 銚子市初の百貨店として、クリハシ百貨店誕生。
  • 1973年(昭和48年)
  • 1974年(昭和49年)
    • 5月23日 - 銚子大橋無料化。
    • 8月19日 - 県立銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で全国優勝。
    • 9月25日 - 諸持町カントリークラブ開設。
    • 10月27日 - 総武本線、成田線電化。
    • 12月 - 民営の豊里団地造成事業工事開始。
  • 1975年(昭和50年)
    • 1月16日 - 銚子市老人憩の家君が浜荘開館。
    • 1月 - 尾永井団地宅地造成(第2次)竣工。
    • 3月10日 - 東京・銚子間に特急列車しおさい」運転開始。
    • 4月1日 - 県道銚子佐原線国道(356号)に昇格。
    • 5月6日 - 市役所新庁舎開庁。
    • 5月 - 銚子市民交響楽団結成。
  • 1976年(昭和51年)
    • 4月1日 - 市立銚子西高等学校開校。
    • 10月22日 - 株式会社銚子十字屋、末広町に新店舗開店。大型店時代到来。
    • 12月25日 - 青色申告都市宣言。
    • 12月 - 満願寺開創。
  • 1977年(昭和52年)8月30日 - 大谷津団地宅地造成竣工。
  • 1978年(昭和53年)
  • 1979年(昭和54年)
    • 4月1日 - 銚子市小児言語指導センター設置。
    • 8月8日 - 市立銚子高等学校野球部、夏の甲子園大会初出場。
    • 10月6日 - 株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店。
  • 1980年(昭和55年)
    • 6月1日 - 銚子市養護老人ホーム長崎園新築移転。
    • 11月16日 - 第1回農水産業まつり開催。
    • 12月3日 - 銚子商工会館新築竣工。
  • 1981年(昭和56年)
    • 8月8日 - 市立銚子西高等学校野球部、夏の甲子園大会に初出場。
    • 11月12日 - 第1回東総地区広域市長村圏内市町長・議長合同協議会(東総サミット)開催。
  • 1982年(昭和57年)
    • 2月17日 - 銚子市勤労コミュニティセンター開設。
    • 6月30日 - 銚子駅跨線人道橋完成。
  • 1983年(昭和58年)
    • 2月10日 - 米国クースベイ市と姉妹都市協定締結。
    • 2月11日 - 市の木に「さざんか」、市の花に「おおまつよいぐさ」を指定。
    • 5月1日 - 銚子市公正図書館新築開館。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月30日 - 銚子市公共下水道供用開始。
    • 3月31日 - 市立総合病院建設1期工事竣工。
    • 4月1日 - 銚子市豊里地区コミュニティセンター開設。
    • 4月17日 - 市立病院新病棟診療開始(7月1日市立総合病院と改称)。
    • 9月14日 - 非核・平和都市宣言。
  • 1985年(昭和60年)
    • 2月6日 - 桜井町公園全面オープン。
    • 4月1日 - 銚子市豊岡農村婦人の家開設。
    • 4月1日 - 銚子市を舞台にNHK連続テレビ小説澪つくし」放送開始。
    • 4月1日 - 銚子市豊岡農村婦人の家開設。
    • 6月27日 - フィリピン共和国レガスピー市と姉妹都市協定締結。
    • 6月27日 - 銚子市新総合計画基本構想策定。
    • 8月24日 - 市立総合病院建設2期工事竣工。
    • ヒゲタ醤油株式会社がヒゲタ史料館をオープン。
  • 1986年(昭和61年)
    • 2月27日 - 銚子市新総合計画基本計画策定。
    • 4月1日 - 銚子市海上地区コミュニティセンター開設。
    • 8月1日 - 中央みどり公園開園。
    • 8月20日 - 佐藤幹彦市長就任。
    • 10月1日 - 銚子市清掃センター供用開始。
  • 1987年(昭和62年)
    • 3月 - 銚子漁港第3卸売市場完成。
    • 4月1日 - 銚子市東部地区コミュニティセンター開設。
    • 10月20日 - 名洗港マリンタウンプロジェクト調査委託。
    • 銚子プラザホテル開業。
  • 1988年(昭和63年)
    • 1月1日 - 愛宕山地球の丸く見える丘展望館開館。
    • 4月1日 - 銚子市高神地区コミュニティセンター開設。
    • 6月7日 - 山武・東総地域広域幹線道路整備促進期成同盟会発足。
    • 10月1日 - 銚子市最終処分場供用開始。
  • 1989年(平成元年)
    • 3月 - 桜井堰整備工事竣工。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園休憩所開設。
    • 4月1日 - 銚子市スポーツコミュニティセンター開設。
    • 4月18日 - 総合保養地域整備法に基づく重点整備地区に指定。
    • 5月22日 - 第1回利根川下流域首長会議(利根川サミット)開催。
    • 7月20日 - 犬吠埼灯台ライトアップ開始。
    • 10月11日 - 銚子・波崎間利根川新橋建設促進期成同盟会設立。
  • 1990年(平成2年)
  • 1991年(平成3年)
  • 1992年(平成4年)
    • 3月25日 - 第三セクター株式会社銚子マリーナ発足。
    • 3月31日 - 銚子銀座通りココロード完成。
    • 3月31日 - 東部不動ケ丘公園供用開始。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園オープン。
    • 4月1日 - 銚子市衛生センター供用開始。
    • 5月15日 - 名洗港公有水面埋立工事着手。
  • 1993年(平成5年)
    • 3月20日 - 公共下水道唐子ポンプ場完成。
    • 3月23日 - 老人憩の家・地域福祉センター(こも浦荘)開設。
  • 1994年(平成6年)
    • 3月21日 - 地球の丸く見える丘ふれあい広場完成。
    • 3月31日 - 銚子駅前通りシンボルロード整備事業完了。
    • 8月20日 - 大川政武市長就任。
    • 11月30日 - 福祉作業所のぞみ開所。
    • 12月16日 - 銚子連絡道路が計画路線に指定。
  • 1995年(平成7年)
    • 2月7日 - 銚子新大橋有料道路起工式挙行。
    • 2月7日 - 銚子市新総合計画第3次基本計画策定。
    • 4月5日 - 県立銚子商業高等学校野球部が春の甲子園大会で準優勝。
    • 6月29日 - 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言。
    • 7月1日 - イルカウォッチング開始。
  • 1996年(平成8年)
    • 4月22日 - 芦崎高齢者いこいセンター開設。
    • 10月23日 - 銚子駅前に自転車等駐車場新設。
  • 1997年(平成9年)
    • 2月7日 - 銚子市共同作業所しおさい開所。
    • 3月25日 - 本通りマイロード整備事業完成。
    • 3月31日 - アグリタウン銚子(営農センター)完成。
    • 4月8日 - 犬吠埼民間ホテルが温泉掘削に成功。
    • 4月9日 - 銚子駅前アーケード竣工式挙行。
    • 10月1日 - インターネットに銚子市ホームページ開設。
    • 11月1日 - 新国立劇場舞台美術センター完成。
  • 1998年(平成10年)10月19日 - 銚子郵便局新局舎完成。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月1日 - 地方港湾名洗港銚子マリーナ開業供用開始。
    • 7月17日 - 銚子マリーナ完成記念式典挙行。
    • 7月20日 - 銚子マリーナ海水浴場オープン。
    • 12月31日 - 「ミレニアムイベントin銚子」開催。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 3月23日 - 「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画策定。
    • 3月27日 - 小畑新町特定市営住宅改修整備完了。
    • 3月 - 小畑池整備工事完了。
    • 8月31日 - 市内初の風力発電機運転開始。
    • 10月7日 - 銚子マリーナ周辺海域で国際モス級ヨット世界選手権大会開催。
    • 11月1日 - 銚子市市民センター開館。
  • 2002年(平成14年)
  • 2003年(平成15年)
    • 2月11日 - 市の魚に「いわし」指定。
    • 3月25日 - 銚子市共同作業所しおさい及び銚子市福祉作業所のぞみ複合施設銚子市ワークセンター完成。
    • 7月23日 - 銚子有料道路無料化。
  • 2004年(平成16年)
  • 2005年(平成17年)
    • 2月18日 - 銚子大橋架換事業着工。
    • 4月1日 - 千葉科学大学マリーナキャンパス供用開始。
  • 2006年(平成18年)
    • 4月1日 - 銚子市保健福祉センターすこやかなまなびの城開館。
    • 4月1日 - 市立双葉小学校開校。
    • 8月20日 - 岡野俊昭市長就任。
    • 12月21日 - 健康スポーツ文化都市宣言。
  • 2007年(平成19年)
  • 2008年(平成20年)
  • 2009年(平成21年)
  • 2010年(平成22年)
  • 2011年(平成23年)
    • 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。震度5強の揺れと最大波2.5メートルの津波を観測し、家屋の倒壊や浸水被害多数。
    • 5月6日 - 河岸公園全面供用開始。
    • 10月20日 - 銚子ジオパーク推進協議会設立。
  • 2012年(平成24年)
    • 5月1日 - 清川町第二公園供用開始。
    • 9月24日 - 「銚子ジオパーク」が(日本ジオパーク)に認定。
  • 2013年(平成25年)
    • 1月8日 - 銚子市新学校給食センター開設。
    • 3月7日 - 銚子大橋架替工事完了。
    • 4月1日 - 市立銚子中学校開校。
    • 5月18日 - 越川信一市長就任。
    • 11月3日 - 銚子半島ハーフマラソン開催(市制施行80周年記念事業)。
  • 2014年(平成26年)12月19日 - 銚子セレクト市場移転オープン。
  • 2015年(平成27年)3月29日 - 銚子漁港第1卸売市場竣工。
  • 2016年 (平成28年)
  • 2017年(平成29年)
    • 1月24日 - 新消防庁舎完成、業務開始。
    • 7月20日 - ホテル「別邸 海と森」オープン。
  • 2018年 (平成30年)
    • 4月1日 - 銚子スポーツタウンオープン。
    • 4月13日 - 銚子駅新駅舎開業式典。
    • 6月26日 - 銚子新電力株式会社設立。
    • 7月2日 - 銚子市水道局新庁舎に移転。
  • 2019年(令和元年)
    • 1月1日 - 複合商業施設「犬吠テラステラス」オープン。
    • 3月 - 銚子市総合計画基本構想・基本計画策定。
    • 4月1日 - 地域交流センター・銚子芸術村供用開始。
    • 11月10日 - さるだ学集館オープン。
  • 2020年(令和2年)
  • 2021年(令和3年)
    • 2月16日 - ゼロカーボンシティ銚子を表明。
    • 4月1日 - 市立銚子西中学校開校。
    • 4月1日 - 東総地区クリーンセンター稼働開始。
    • 7月1日 - 東総地区最終処分場稼働開始。
    • 12月24日 - 銚子市沖促進区域における洋上風力発電事業者選定(千葉銚子オフショアウィンド)。
  • 2022年(令和4年)
  • 2023年(令和5年)
    • 2月11日 - 市制施行90周年。
    • 3月 - 銚子市ゼロカーボンビジョン策定。

行政区域変遷

  • 変遷の年表
銚子市市域の変遷(年表)
月日 現銚子市町域に関連する行政区域変遷
1889年(明治22年) 4月1日 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足[45]
  • 海上郡
    • 銚子町 ← 新生村・荒野村・今宮村
    • 本銚子町 ← 飯沼村が単独で町制施行
    • 伊豆原村 ← 松本村・本城村・長塚村
    • 豊浦村 ← 小川戸村・辺田村・三崎村
    • 高神村 ← 高神村が単独で村制施行
    • 海上村 ← 松岸村・垣根村・四日市場村・余山村・柴崎村・高野村・三宅村・赤塚村
    • 椎芝村 ← 野尻村・小船木村・塚本村・忍村・猿田村
    • 船木村 ← 高田村・芦崎村・岡野台村・船木台村・三門村・中島村・正明寺村
    • 豊岡村 ← 塙村・八木村・小浜村・親田村・常世田村
  • 香取郡
    • 豊里村 ← 下桜井村・富川村・下森戸村・諸持村・宮原村・東笹本村
1891年(明治24年) 1月26日 椎芝村は改称し椎柴村になる。
8月14日 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。
1933年(昭和8年) 2月11日 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。
1937年(昭和12年) 2月11日 高神村・海上村は銚子市に編入。
1954年(昭和29年) 3月31日 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。
4月1日 船木村・椎柴村は銚子市に編入。
1955年(昭和30年) 2月11日 香取郡豊里村は銚子市に編入。
1956年(昭和31年) 4月10日[46] 豊岡村は銚子市に編入。
1958年(昭和33年) 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。
  • 変遷表
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略)
1868年
以前
明治22年
4月1日
明治22年 - 昭和64年 平成元年 - 現在 現在
海上郡 新生村 銚子町 銚子町 昭和8年2月11日
銚子市
銚子市 銚子市
荒野村
今宮村
飯沼村 本銚子町 本銚子町
松本村 伊豆原村 明治24年8月14日
西銚子町
町制改称
本城村
長塚村
小川戸村 豊浦村 豊浦村
辺田村
三崎村
高神村 高神村 高神村 昭和12年2月11日
銚子市に編入
松岸村 海上村 海上村
垣根村
四日市場村
余山村
柴崎村
高野村
三宅村
赤塚村
高田村 船木村 船木村 昭和29年4月1日
銚子市に編入
芦崎村
岡野台村
船木台村
三門村
中島村
正明寺村
野尻村 椎芝村 明治24年1月26日
椎柴村に改称
小船木村
塚本村
忍村
猿田村
小浜村 豊岡村
の一部
豊岡村の一部 昭和31年7月1日
銚子市に編入
親田村
常世田村
八木村の一部
香取郡 下桜井村 豊里村 豊里村 昭和30年2月11日
銚子市に編入
富川村
下森戸村
諸持村
宮原村
東笹本村

政治

施策

次世代エネルギー産業

 
洋上ウインドファーム

2019年(平成31年)4月、「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)が施行され、国が公募によって選定した洋上風力発電事業者に対して、最大30年間の海域の占用が認められることとなった。2020年(令和2年)7月、銚子市の南沖合の海域3948.7ヘクタールが洋上風力発電事業を推進するための「促進区域」に指定され、同年9月には、銚子市・銚子商工会議所・銚子市漁業協同組合の共同出資により、メンテナンス会社である「銚子協同事業オフショアウインドサービス」が設立された[35]2021年(令和3年)12月には、銚子市沖促進区域における洋上風力発電事業者として三菱商事を中心とする「千葉銚子オフショアウィンド」が選定され、環境や漁業への影響調査等を経て、2025年(令和7年)から約56キロメートルの送電線敷設等の陸上工事に、2027年(令和9年)から風車設置等の洋上工事に着工し、2028年(令和10年)9月に39キロワットに及ぶ設備が稼働を開始する見込みとなっている。促進区域に隣接する名洗港は、洋上風力発電施設の建設・維持管理の拠点港湾として港湾計画の改訂が行われた[47]

銚子市においては、2021年(令和3年)2月に「ゼロカーボンシティ銚子」を宣言し、2023年(令和5年)3月には県内初となる「銚子市ゼロカーボンビジョン」を策定して[33]、漁業と共生した「銚子モデル」の実現、メンテナンス関連産業の創出、地域循環型経済圏の形成、メンテナンス人材の育成、新たな景観資源としての活用による交流人口・関係人口の増加等に取り組み、2050年(令和32年)のカーボンニュートラルに向け、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している[35]

ワーケーション

銚子市は2016年(平成28年)度から全国10自治体を対象とした総務省「お試しサテライトオフィスモデル事業」に取り組み、企業・起業家の誘致による地域経済の活性化を図るため、主に都市部のベンチャー企業IT企業を対象に豊富な地域資源、地場産業と都心からのアクセス利便性を活用したサテライトオフィス環境の整備を行った。市街地のオフィスだけでなく観光施設を活用した無料コワーキングスペースを提供し、開発合宿体験事業や観光体験事業等もあわせて実施した。同年には銚子市企業立地等促進事業補助金を創設している[48]

独自性の高い地域資源とそれを運営管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったこと、企業誘致活動及び当該活動で培った行政と都市部企業の個別ネットワーク等を最大限に活用したこと、SNSを駆使してお試し勤務の状況をリアルタイムに配信したほか、地元事業者とUJIターン者のマッチングを促す特設サイトの構築等、デジタル的なアプローチを充実させたことから順調に勤務企業数を伸ばし、2社のサテライトオフィス進出企業を確保している[48]

市役所

 
銚子市庁舎
  • 銚子市役所:〒288-0047 銚子市若宮町1-1

銚子市役所庁舎は1972年(昭和47年)の銚子市庁舎建設審議会の答申を受け、銚子醤油第一工場跡地を買収し、1973年(昭和48年)に着工、1975年(昭和50年)に開庁した。設計整理は山下設計、施工は清水建設及び熊谷組共同企業体が担当した[12]

新庁舎の建設に当たっては、市民の利益を本位とする市民サービスセンターとして、市民から親しみをもって利用されることが建設の重点に置かれた。その位置は市街地のほぼ中央の工場跡地で、利根川銚子漁港及び銚子大橋を背景とした環境の中にある[12]

庁舎は鉄筋コンクリート造地上8階地下1階建で、庁舎棟、議会棟、付属棟から構成されている。特に庁舎棟1階には市民に直接関係する窓口が集中して配置され、模写電送装置コンピュータの導入により、窓口事務処理の合理化とスピード化が図られた。また、庁舎棟1階には各種相談の窓口として市民相談センターが設置され、議会棟1階には市民との対話の場として約200人を収容する市民ホール、展示ホールが設けられた。最上階の8階には市民の憩いの場としてスカイラウンジ(喫茶スペース)が設けられた。市議会議場を始め議会関係の室は議会棟の2・3階に配置され、傍聴席の他に市民ホールにモニターテレビを設置して市議会の傍聴者が多数の場合の便宜を図っている[12]

出張所

出張所は、市町村がその権限に属する事務を分掌させるため、必要な地に設ける出先機関であり、銚子市においては2か所の出張所が設けられている。

  • 銚子市役所豊里出張所

1955年(昭和30年)の豊里村合併に際して旧豊里村役場に設置された。1984年(昭和59年)からは同跡地に新設された豊里地区コミュニティセンター内で執務することとなった。

  • 銚子市役所豊岡出張所

1956年(昭和31年)の豊岡村合併に際して旧豊岡村役場に設置された。1985年(昭和60年)に同跡地に新設された豊岡農村婦人の家において執務を開始し、その後2019年(平成31年)に銚子市地域交流センター(現・銚子市ジオパーク・芸術センター)内に移転した。

行政計画

銚子市では1966年(昭和41年)に初の自主的・総合的な行政計画として「銚子市長期計画」を策定した。1969年(昭和44年)の地方自治法の一部改正により、市町村における基本構想の策定が制度化され、銚子市では1973年(昭和48年)に「銚子市基本構想」を策定した。同時に5か年計画として「銚子市基本計画」を策定し、3ヶ年の実施計画を毎年見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期した。以後、銚子市は数次にわたって行政計画を定めている[12]

  • 銚子市長期計画(1966年3月策定)
  • 銚子市基本構想「住みよい豊かな文化・産業都市」(1973年6月策定)
    • 銚子市基本計画(1973年6月策定)
    • 銚子市第2次基本計画(1978年3月策定)
  • 銚子市総合計画基本構想「活力と魅力ある東総の中核都市」(1985年6月策定)
    • 銚子市新総合計画基本計画「活力と魅力ある東総の中核都市をめざして」(1986年2月策定)
    • 銚子市新総合計画第2次基本計画「人の住むための豊かな都市づくりにむけて」(1990年3月策定)
    • 銚子市新総合計画第3次基本計画「活き活きとした温かいまち・銚子」(1995年2月策定)
  • 銚子市総合計画基本構想「銚子ルネッサンス2025」「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」(2000年12月策定)
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画(2001年3月策定)
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画(2007年11月策定)
  • 銚子市総合計画基本構想・基本計画「握手~つながる まちづくりのちから~」(2019年3月策定)

市長

市長は市の執行機関として、市を統括代表し、市の事務を管理執行する地位にある。また、1999年(平成11年)度末までは国その他の団体に機関委任事務を管理執行する国等の機関でもあった。市長は住民の直接選挙により選出され、任期は4年である[12]

 
公選20代銚子市長 越川信一
歴代市長

市制施行以来の歴代市長は以下の通りである。

  • 公選9代:大内恭平(1978年8月20日 - 1982年8月19日)
  • 公選10代:大内恭平(1982年8月20日 - 1986年8月19日)
  • 公選11代:佐藤幹彦(1986年8月20日 - 1990年8月19日)
  • 公選12代:佐藤幹彦(1990年8月20日 - 1994年8月19日)
  • 公選13代:大川政武(1994年8月20日 - 1998年8月19日)
  • 公選14代:大川政武(1998年8月20日 - 2002年8月19日)
  • 公選15代:野平匡邦(2002年8月20日 - 2006年8月19日)
  • 公選16代:岡野俊昭(2006年8月20日 - 2009年3月29日
  • 公選17代:野平匡邦(2009年5月17日 - 2013年5月16日)[51]
  • 公選18代:越川信一(2013年5月17日 - 2017年5月16日)
  • 公選19代:越川信一[49](2017年5月17日 - 2021年5月16日)
  • 公選20代:越川信一[50](2021年5月17日 - 現職)

行政組織

「地方自治法」第158条は「普通地方公共団体の長は、その権限に属する事務を分掌させるため、必要な内部組織を設けることができる」と定めている。この編成に当たっては、当該普通地方公共団体の事務及び事業の運営が簡素かつ効率的なものとなるよう十分配慮しなければならない、とされている。銚子市においては、戦後の地方自治制度の改革とその後の改正、また、地域実態への対応等のため、行政組織の新設・再編等が行われてきた[12]

  • 秘書広報課
  • 企画課
  • 財政課
  • 総務課
  • 市民課
  • 税務課
  • 社会福祉課
  • 子育て支援課
  • 高齢者福祉課
  • 健康づくり課
  • 観光商工課
  • 水産課

財政

銚子市では、七次にわたる「銚子市行政改革大綱」を策定し、経常的経費の圧縮節減を行政改革の重点項目として推進している。2013年(平成25年)からは銚子市行財政改革審議会を新たに設けて歳出削減策を加速させ、公債費償還が増大していた市財政の健全化を図った。一方で投資的経費に充てるための歳入確保が困難であったことから、普通建設事業費の抑制傾向が続いた。

銚子市の財政状況(令和2年度)
  • 会計別予算額
    • 一般会計 276億2800万円
    • 公営企業会計(3会計) 69億3100万円
    • 特別会計(3会計) 144億6600万円
  • 一般会計当初予算
    • 歳入のうち
      • 市税 80億8489万3千円(29.3%)
      • 地方交付税 83億4656万7千円(30.2%)
      • 国県支出金 46億8068万8千円(17.0%)
    • 歳出のうち
      • 補助費等 68億8471万2千円(24.9%)
      • 人件費 56億4380万6千円(20.4%)
      • 扶助費 43億5454万1千円(15.8%)
    • 市民1人当たり市税負担額 13万4018円
    • 市民1人当たり市税受益額 45万7971円

銚子市の財政力指数は0.62であり、東総地域で最も高い[52]

広域行政

広域行政とは、2つ以上の地方公共団体がそれぞれの行政の区域を超えて行政事務を広域的に処理することである。千葉県では、銚子市・旭市匝瑳市の3市を広域市町村圏として東総地区広域市町村圏を設定し、同広域市町村圏事務組合が設けられている。この事務組合では、1971年(昭和46年)7月の設立以来、三次にわたり広域市町村圏計画(基本構想・基本計画・実施計画)を策定し、職員の統一共同採用試験・共同研修の実施、首長・議長合同協議会(東総サミット)の開催等が進められた。1990年(平成2年)9月には地域の自立的発展が見込まれる圏域として県内では唯一、ふるさと市町村圏のモデル地域に指定されたのを受け、ソフト事業を中心とした地域振興事業を実施し、圏域の一体的発展を図っている[12]。銚子市は広域行政面での取り組みには実績が少なかったが、地方分権とあわせて広域連合等の活用による広域行政の積極的な推進が求められる中で、銚子連絡道路をはじめとする広域道路網の建設促進、広域ごみ処理施設整備及び運営事業、広域医療連携等の取り組みがなされている。

1989年(平成元年)5月には、利根川下流域市町の共同課題の解決と一体的な地域振興を図るため、利根川下流域首長会議(利根川サミット)が結成され、県境を越えた流域圏として、利根川新橋の建設促進をはじめ、広域道路網の整備、観光ルートの設定、河川敷の有効活用、利根川の水質浄化等の課題への取り組みが進められ、2000年(平成12年)には同圏内を結ぶ利根かもめ大橋開通が実現した[12]

名誉市民

 
濱口梧洞翁寿像(1957年建立)

銚子市名誉市民は、1956年(昭和31年)1月12日施行の「銚子市名誉市民条例」に基づき、本市の市民又は本市の関係者で広く社会文化の興隆に功績が卓絶であった者の功績をたたえるとともに市民の社会文化興隆に対する意欲の高揚を図るための顕賞制度である。名誉市民は市長が市議会の同意を得て推挙し、推挙された者には銚子市名誉市民の称号を贈られ、その事績を市広報に登載し、名誉市民台帳に登録して終身その名誉を保有せしめ、名誉市民章を贈る。この他、市の公の式典への参列、死亡の際における相当の礼をもってする弔慰等の待遇がある[12]

銚子市民憲章

1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に作成した「銚子市民憲章」が市長から提案された。「銚子市議会の議決に附すべき事項を定める条例」に基づく市議会の議決事項に「市民憲章に関すること」を加えるための条例の一部改正が行われ、「市民憲章」の議案を提出したものである。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市を築くため、というものであった[12]

銚子市民憲章
洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。
1 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。
1 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。
1 自然を愛し、町をきれいにします。
1 教養を高め、心を豊かにします。
1 力を合わせ、交通安全につとめます。

都市宣言

都市宣言は、我が国の高度経済成長に伴って生じてきた様々な問題を提起し、目標を掲げて、行政と市民の連携と力の結集によって対処しようとするものであり、銚子市においては1962年(昭和37年)以降、7つの都市宣言を行っている。

  • 交通安全都市宣言(1962年1月9日)
  • 精神衛生都市宣言(1963年2月25日)
  • 公害追放都市宣言(1970年9月22日)
  • 青色申告都市宣言(1976年12月25日)
  • 非核・平和都市宣言(1984年9月14日)
  • 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言(1995年6月29日)
  • 健康スポーツ文化都市宣言(2006年12月21日)

銚子市紋章

 
銚子市紋章

銚子市紋章は1933年(昭和8年)2月11日の市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされた[12]

銚子市歌

銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された[12]

銚子市歌
1 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子
2 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子
3 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子

銚子市の木・花・魚

銚子市の木は「さざんか」、銚子市の花は「おおまつよいぐさ」、銚子市の魚は「いわし」である。いずれも市制施行を記念し、銚子市の風土に適し、市のシンボルにふさわしく、市民に愛される木・花・魚として市民投票を経て選ばれたものである。

  • さざんか(1983年2月11日指定)

ツバキ科の常緑小高木で日本特産。花木として庭園に多く植えられ、品種は多種で一重・八重、色も淡紅・濃紅・白等がある。塩害に強く、花は晩秋から初冬にかけて咲き、市民に親しみ深い木である。2002年(平成14年)まで、人生記念植樹として、さざんかの苗木を子供の誕生記念に無償配布していた。

  • おおまつよいぐさ(1983年2月11日指定)

アメリカ原産の帰化植物越年草。鮮やかな黄色の花が夕方に開き、銚子では夏の海辺の風物詩である。竹久夢二の「宵待草」の詩のゆかりもあって、市民投票で最も人気が高まった花である。

  • いわし(2003年2月11日指定)

全国屈指の水揚量を誇り、銚子で水揚げされる魚の約半数を占めている。市制施行70周年を記念して一般公募した結果最も応募が多く、「大漁節」にも歌われており、小さくてもみんなで力を合わせて生きているというイメージから、銚子のシンボルにふさわしい魚として指定された。

マスコットキャラクター

  • 銚子100年マスコットキャラクター「超Cちゃん」

「銚子」の「銚」と、「超越」の「超」をかけ、様々な問題を跳び「超えて」発展する銚子のイメージと、キャラクターの形から名付けられた。デザインに関しては、銚子の「C」、初日の出をモチーフに、太平洋の波・白亜の犬吠埼灯台を組み合わせ、海と自然いっぱいの街づくりをイメージしている、とされた[53]

議会

銚子市議会

市町村議会の選挙区は、その市町村の区域であり、銚子市では全市1選挙区である。

  • 定数:18名
  • 2019年(令和元年)5月1日〜2023年(令和5年)4月30日
  • 議長:地下誠幸(ぢげまさゆき)市民クラブ、3期
  • 副議長:石神嘉明(いしがみよしあき)新和会、1期
会派名 議席数 議員名(◎は代表)
市民クラブ 5 ◎石上允康、岩井文男、地下誠幸、鎌倉金、大野正義
新和会 4 ◎野平仁人、石神嘉明、宮崎光子、桶谷範幸
新風 2 ◎石上友寛、池田健一
みらい 2 ◎釜谷藤男、広野恭代
公明党 2 ◎桜井隆、加瀬栄子
リベラル 1 ◎加瀬庫藏
日本共産党 1 ◎笠原幸子
緑の会 1 工藤忠男

※2021年6月1日現在

千葉県議会

都道府県議会の議員の選挙区は郡市の区域によって定められているが、銚子市は香取郡東庄町と共に1つの選挙区をなしており、その定員は2人である。

  • 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
  • 定数:2名
  • 任期:2019年(平成30年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
  • 2015年、2019年と無投票。
  • 2021年7月より、信田光保県議、千葉県議会議長
氏名 会派名
信田光保 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 5期

宮川太 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 1期

※2020年10月1日現在 

国会

衆議院議員は、小選挙区選出議員と比例代表選出議員に分かれている。小選挙区については、銚子市は、香取市成田市旭市匝瑳市、香取郡、山武郡横芝光町(旧匝瑳郡光町域)の各郡市と共に5市4町で構成される千葉県第10区に属し、定員は1人である。比例代表制については千葉県・神奈川県山梨県の3県で南関東ブロックとなっており、定員は22人である。

参議院議員は比例代表選出議員と選挙区選出議員とに分けられ、前者は全都道府県の区域すなわち全国1区で、後者は1県1区の各選挙区において選挙する。千葉県選挙区の定員は6人である。

議員名 党派名 当選回数 備考
林幹雄 自由民主党 11 選挙区
谷田川元 立憲民主党 3 比例復活

国家機関

国家機関

県政機関

  • 千葉県海匝健康福祉センター(海匝保健所)
  • 千葉県銚子児童相談所
  • 千葉県銚子土木事務所
  • 千葉県銚子水産事務所
  • 千葉県銚子漁港事務所
  • 千葉県水産総合研究センター銚子分室
  • 千葉県北総教育事務所東総研修所
  • 千葉県旭県税事務所銚子支所

経済

銚子市は水揚数量が全国1位の銚子漁港を擁し、漁業農業の生産力とあわせて水産関連・醤油その他各種製造業の立地・集積が進み、国内有数の食品産業都市となっている[12]。各産業の性質上景気の影響を直ちに受ける度合いは少なく、安定した経済基盤を有している[12]。観光資源も豊富で、年間約250万人の観光客が訪れる観光都市となっており、観光もまた産業の一部門として銚子市経済の一端を支えている。2018年(平成30年)度の産業別就業者では、第一次産業に10.7パーセント、第二次産業に28.5パーセント、第三次産業に58.4パーセントが従事している[54]

企業・組織

 
ヤマサ醤油本社
 
銚子商工信用組合本店
 
銚子信用金庫本店

銚子市に本社・本店を置く主な企業・組織

漁業

 
銚子漁港第一卸売市場
 
外川漁港

漁業は銚子市の経済を根本的に支える基幹産業である。銚子市沖には水深200メートルの大陸棚が広がり、北からの親潮寒流)、南からの黒潮暖流)が交錯し、また、利根川からの有機物を含んだ真水の流入等により、全国屈指の好漁場が形成され、我が国三大漁場の一つである。漁業種類も網漁業・延縄漁業・釣り漁業と多種類で、銚子漁港は水産物の一大物流加工拠点である総合漁業基地として大きく飛躍してきた。銚子漁港に所属する在籍船数は大小合わせ300数隻程おり、代表的漁業は、まき網漁業をはじめ、沖合底曳、カツオマグロ延縄漁業、大目流網、小型底曳、一本釣り延縄等であり、銚子市沖合を主漁場として沿岸沖合漁業が周年操業されている[12]

銚子漁港の2021年(令和3年)度の水揚高は、数量約28万トン(全国1位)、金額272億円(全国4位)である。主要な魚種はサバマイワシサンマといった多獲性魚の他に、カツオ、マグロ等の回遊魚、キンメダイヒラメカレイ等の底魚等であり、200種類に及ぶ近海の魚介類が水揚げされる。水揚数量の約91パーセントはマイワシ(58.0パーセント)、サバ(32.7パーセント)が占め、水揚金額においてもこの2魚種が全体の約65パーセントを占める。銚子漁港に水揚げされる全てのマグロは冷凍ではなく生マグロという大きな特徴がある。また、5〜7月のマイワシは「入梅イワシ」と呼ばれ、特に太って丸みがあり1年の中で最も脂の乗りがよいことが知られている。このほか、小延縄型船による立縄漁業で漁獲しているキンメダイは「銚子つりきんめ」として千葉ブランド水産物第1号に認定されており、ブランド力の向上と資源管理を図っている[55]

水揚数量の約90パーセントが大中型の旋網漁業によるもので、これらの漁船の多くは地元以外の廻船であり、地元漁船は底曳網漁業等が中心である。廻船による銚子漁港の水揚げは銚子市経済にとって重要な位置を占めており、銚子市漁業協同組合は市から補助を受けて、廻船誘致対策事業として船籍漁協訪問、新規漁船の入港誘致、入港漁船や廻船乗組員へのサービス提供等を行っている。銚子市における漁業振興対策としては、漁業主要基盤としての漁港整備、並型魚礁・異型魚礁・大型魚礁の設置、人工礁漁場造成による「海の森づくり」の推進、水産資源増殖のための魚介類種苗放流、共同利用施設の整備、金融対策、後継者育成、漁業集落道路建設による漁村生活環境整備等が行われている。また、千葉県水産総合研究センター銚子分室では、銚子・九十九里地域における水産物の加工利用、鮮度保持、貯蔵の試験研究調査と水産加工業者の指導、主要魚族の資源、生態の調査を行っている[12]

  • イワシ - 2002年(平成14年)度水揚量全国1位
  • サバ - 2002年(平成14年)度水揚量全国1位
  • サメ - 2002年(平成14年)度水揚量全国3位
  • アジ類 - 2002年(平成14年)度水揚量全国4位
  • サンマ - 2002年(平成14年)度水揚量全国4位
  • メヌケ - 2002年(平成14年)度水揚量全国5位
  • マグロ - 2002年(平成14年)度水揚量全国6位
  • その他、カツオ、ヒラメ、ホウボウ、キンメダイ等。

海面漁業

 
銚子漁港第二漁船渠

銚子市の漁業種類は、海域で行われる海面漁業と河川湖沼で行われる内水面漁業とに大別されるが、銚子市の漁業は海面漁業が主である。2018年(平成30年)の漁業センサスでは、海面漁業経営体が106経営体で、うち個人で営んでいるものが97経営体、会社が営んでいるものが8経営体、漁業生産組合で営んでいるものが1経営体で、漁業種類別経営体では、沖合底曳網漁業が2経営体、小型底曳網漁業が6経営体、大中型旋網漁業が6経営体、刺し網漁業3経営体、サンマ棒受網漁業4経営体、延縄漁業13経営体、釣り漁業70経営体、採貝・採藻4経営体、その他の漁業9経営体である[55]

内水面漁業

銚子市における内水面漁業は主に利根川における漁業である。養殖用ウナギの稚魚であるシラスウナギ漁(12月〜4月漁期)を中心に行われており、全国有数の水揚げ量となっている[55]

漁港

 
銚子漁港航空写真国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

銚子漁港は近世において東廻り海運と利根川水運の中継港として発展した銚子港すなわち商港がその始まりであった。明治期に入り、商港の機能が失われて漁港へと転換していったものである。この利根川の河口港を近代的な漁港として整備し、銚子発展の基盤とするため、銚子漁港修築促進運動が台頭したのは大正期であった。全町を挙げての運動が奏功して、1925年(大正14年)に第一期の漁港修築工事が開始された。以来、戦後の第三次漁港整備計画からは毎年継続して銚子漁港整備事業が実施され、我が国有数の規模と機能を有する特定第3種漁港として、太平洋に臨む外港とそれに続く内港を具備する巨大漁港となっている。川口・黒生地区には漁港の機能施設として公共施設用地が埋立造成され、計画的に水産物産地流通加工関係施設が建設されている[12]。第1卸売市場は水産庁の「水産基盤整備事業」により国内初の高度衛生管理型市場として改修事業が進められ、2015年(平成27年)に完成した。

外川漁港は、江戸時代明暦年間に銚子に移住した紀州人崎山次郎右衛門によって開発された。大正時代に至るまでこの漁港は外川地区の漁業基地として大きな役割を果たしてきたが、漁船が動力化し大型化してきたことから、1922年(大正11年)以後、高神村が、後に銚子市が漁港改修を進めた。しかし外洋に直面して漂砂堆積が著しかったため、漁業協同組合、地元住民等が県営移管と国の漁港整備による改修促進運動を進めた結果、1969年(昭和44年)に県営移管と第四次漁港整備計画への組み入れが実現し、以後漁港修築事業が進められた[12]

ブランド

  • 銚子つりきんめ

2006年(平成18年)に「千葉ブランド水産物認定制度」第1号に認定されている銚子つりきんめの漁場は、銚子市沖合約50キロの太平洋で、日本近海のキンメダイの生息地の北限である[55]。魚体を傷めないため、底立て縄と呼ばれる手釣りで漁獲され、周年脂ののりの良いことが特徴である[55]。2018年(平成30年)開催の「第6回Fish-1グランプリ」のプライドフィッシュ料理コンテストでは、銚子つりきんめ煮炙り丼がグランプリを受賞した[55]

銚子市漁業協同組合

 
銚子市漁業協同組合

漁業協同組合は、市町村やその内の一定地区を単位とする一般通常の組合を地区漁業協同組合と称し、銚子市では1996年(平成8年)9月に銚子地区6漁協と呼ばれた銚子市・銚子市黒生・銚子市外川・銚子市西・銚子市川口・千葉県小型機船底が合併して、銚子市漁業協同組合が設立された。漁業協同組合が行う主な事業は、組合員への資金貸付、貯金等の受入、物資の供給、共同利用施設の経営、漁獲物の運搬・加工・保管・販売等である。漁業権の管理も主要な漁業協同組合の事業であり、知事の許可を受けた漁業権行使規則又は入漁権行使規則によってその管理を行う[12]

水産ポートセンター

 
銚子ポートタワー

水産ポートセンターは、千葉県はもとより我が国を代表する水産都市銚子にふさわしい水産と観光を結びつけた新施設として、1991年(平成3年)6月23日にオープンした。千葉県の「ふるさと千葉5カ年計画」に基づいて、県が事業主体となる銚子ポートタワーと水産関係公共施設、第三セクターによる水産物即売センター「ウォッセ21」の3種の施設が銚子漁港を展望する高台に建設された[12]

銚子ポートタワーは銚子市に貸付けられ、銚子市から社団法人銚子市観光協会に管理運営業務を委託している。ウォッセ21は銚子市と地元業界で構成する銚子水産観光株式会社が維持管理しており、地元の専門業者による銚子港直送の水産物、水産食品、地元産品等の販売を行っている[12]

水産関係機関

  • 千葉県水難救済会銚子市救難所
  • 千葉県銚子水産事務所
  • 千葉県銚子漁港事務所
  • 千葉県水産総合研究センター銚子分室

農業

 
キャベツ畑と風力発電所(高田町)

銚子市は肥沃な土壌と夏涼しく冬暖かい海洋性気候、東京から100キロメートル圏内という地理的な利便性を生かし、千葉県内有数の農業都市となっている[56]

春キャベツと春ダイコンの作付面積は全国1位を誇り[56]、京浜地帯や京葉地帯等、首都東京を中心とする周辺都市への生鮮野菜の供給基地に位置づけられている[12]。銚子市の総耕地面積は2540ヘクタールで、うち水田面積は545ヘクタール、畑地面積は1990ヘクタールと約80パーセント近くが畑地であり、畑作中心の営農が展開されている[56]

土地改良事業により畑が増加傾向にある反面、水田が減少し、また灌漑排水事業により施設園芸が増加し、安定した農業経営の条件が整ってきている[12]。販売農家戸数は1007戸で、うち専業農家が560戸、第1種兼業農家が300戸、第2種兼業農家が147戸となっており、専業農家率は55.6パーセントで千葉県平均の30.6パーセントを大きく上回り、千葉県内トップである。農業産出額は千葉県内トップクラスの268億円で、その内訳は野菜が152億円で全体の57パーセントを占め、次いで畜産が110億円、が4億円となっている[56]

産出額の高い主な品目はキャベツダイコンブタ等である。その他、メロンスイカイチゴニンジン枝豆等多品目の野菜が栽培され、夏秋期の収入確保に青パパイヤの産地化へ向けた取組もなされている。6次産業化による付加価値生産事業者は少なく、今後期待される食品加工産業分野である[56]

農家1戸当たりの経営耕地面積は230ヘクタールで、経営耕地面積別経営体数では300戸以上の農家が全体の24パーセントに相当する245戸を占める。1戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで、最近20年で3ヘクタール以上の農家数が約2.5倍と大幅に増加していることから、経営規模拡大に対応した農業経営の効率化、労働力の確保、ICTの活用等による農業振興が目指されている[56]。銚子市においては、圃場・灌漑用水整備事業、東総用水事業、農業用道路・水路の整備、後継者育成対策、地域農業活動拠点の整備、環境対策、農業金融対策等を進めている[12]

主要農産物

  • キャベツ - 作付面積1908ヘクタール(2016年)
  • ダイコン - 作付面積974ヘクタール(2016年)
  • 水稲 - 作付面積471ヘクタール(2016年)
  • ジャガイモ - 作付面積51ヘクタール(2015年)
  • トマト - 作付面積51ヘクタール(2016年)
  • メロン - 作付面積50ヘクタール(2015年)
  • ニンジン - 作付面積26ヘクタール(2015年)
  • スイカ - 作付面積22ヘクタール(2015年)
  • イチゴ - 作付面積12ヘクタール(2015年)
  • 落花生 - 作付面積7ヘクタール(2017年)

野菜指定産地

農林水産省による野菜生産出荷安定法および本法に基づき銚子市が指定された野菜[57]

  • キャベツ - 春キャベツと冬キャベツが指定されている。
  • ダイコン - 春ダイコン・秋冬ダイコンが指定されている。
  • トマト - 夏秋トマト・冬春トマトが指定されている。

農業生産基盤

千葉県東部地域では、東総用水事業の県営灌漑排水事業や県営畑地帯総合土地改良事業等により生産基盤整備が集約的に進められてきたが、銚子市全域、東庄町南部、飯岡町海上町東部における基幹農道網の整備による生産流通の合理化が必要とされ、1994年(平成6年)から東総台地地区広域営農団地農道の建設工事が進められている。千葉県が主体となって整備するもので、銚子市長塚町6丁目を起点に新町を経由し、東庄町小南地先の主要地方道多古笹本線に接続する総延長11.8キロメートルの基幹農道である[12]。銚子市側の1期地区は2002年(平成14年)度に事業を完了し、同年度から2期区間の整備が進められている。

  • 東総用水事業

東総用水事業は、利根川を水源として、下総台地の銚子市はじめ1市4町の農地2800ヘクタールへの灌漑用水と、銚子市はじめ2市4町の約20万人への水道用水の安定供給を行う多目的利水事業として構想された。下総台地における農業は、土壌は肥沃であるが天水に依存していたために干ばつを受けやすく、また、生活用水も一部を除いては浅井戸を利用して水量・水質とも不安定な状況にあったことから、農業経営近代化と環境衛生向上を図るため水源の確保が必要とされていた。このため1978年(昭和53年)から水資源開発公団営事業として、東庄揚水機場工事、導水路工事、ファームボンド工事が逐次進められた。あわせて1981年(昭和56年)からは県営事業である灌漑排水事業、畑地帯総合土地改良事業が実施された。1984年(昭和59年)には農業用水が通水開始となり、最初に銚子市桜井地区31ヘクタールに通水された。公営団事業については、1989年(平成元年)に事業が完了し、以後県営事業による末端施設事業が推進されている[12]

地域農業拠点

  • グリーンホーム銚子(予冷貯蔵施設)

農業センター構想に基づく地域農業活動拠点の一つとして、特産物の鮮度保持と調整機能をあわせ持つ国内最大級の予冷貯蔵施設を建設し、集出荷の効率化と有利な販売促進を図ろうとするものであり、1994年(平成6年)度から翌年度にかけて新町に建設された[12]

  • アグリタウン銚子(地域農業総合管理施設)

農業生産から生産物販売までを1か所に集中した総合管理施設で、1996年(平成8年)度にグリーンホーム銚子と道路を隔てて建設された。野菜生産地としての将来発展を展望して、営農生産指導・農業経営指導の充実、土壌分析による健全な土づくり、農業情報ネットワーク構築による情報発信、蓄積データによる営農指導、各種研修・講習会に活用される[12]

  • 真空与冷庫

1996年(平成8年)度に既設の与冷庫に替わって小浜町に設置され、未成熟トウモロコシチンゲンサイ等を対象とする[12]

  • トマト選果施設

1995年(平成7年)度に新町地内の野菜集出荷所に設置された。これによりトマトの果実の選果が機械化され、出荷・調整作業が大幅に省力化された[12]

農業団体

 
ちばみどり農業協同組合銚子支店

工業

銚子市の製造業の中で最も市の経済を支える重要な位置を占めるのは、水産加工業と醤油製造業を双璧とする食品製造業である。2014年(平成26年)においては、事業所数の60パーセント、従業員数の80.76パーセント、製造品出荷額の90.02パーセントと大きな比率を占め[56]、国内有数の機能集積力を有する食品工業都市となっている。製造品出荷額からみた食品製造業に続く業種は、飲料飼料製造業、輸送用機械器具製造業、金属製品製造業、繊維工業、印刷・同関連業である[12]

銚子市内では、内陸部の国道126号沿いの小浜工業団地18.2ヘクタール、名洗港内の臨海工業用地28.2ヘクタールが造成されているほか、銚子漁港外港部の川口・黒生地区に造成された埋立地には水産物産地流通加工センターが形成されている。銚子市における工業振興策としては、立地条件改善のための市内広域交通体系の整備、生産基盤整備のための工業用地・用水の整備、経営体制整備のための経営共同化・合理化の促進、設備近代化の促進、企業診断・経営指導の充実促進、金融対策としての制度資金利用の促進、市預託融資の充実化等が実施されている[12]

醤油製造業

 
ヒゲタ醤油銚子事務所

銚子市の醤油製造は江戸時代初期に始まる古い歴史を有し、銚子市における主要産業の一つである。銚子市の醤油製造業の全国シェアは業界2位のヤマサ醤油と4位のヒゲタ醤油の大手2社を主に16パーセントを占め、銚子市内における企業としては別格の地位にある[12]1980年代には製造品出荷額は400億円台であったが、1992年(平成4年)からは500億円を超え、2019年(令和元年)においては800億円台となっている。2019年(令和元年)度において、市内の171の製造事業所による出荷額等の約44パーセントが主に醤油を製造している3事業所によって生産されており、市内全出荷額等の約40パーセントを占める水産加工関係工業と共に銚子市工業の基幹である[58]

関連加工品が多い醤油製造業では、つゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類も製造されている。つゆ・たれ類には、希釈用の濃縮つゆ、ストレートつゆ、めん類用つゆ、なべ物用つゆ・たれ、魚調理用つゆ・たれ、どんぶり物用たれ、めん類用スープ等がある。国民の食品嗜好や需要の変化に対応して、醤油製造業から発展して関連企業を独立させ、主につゆ・たれ類や水産物佃煮(瓶詰・パック詰)等を製造販売している[12]

醤油の付加価値商品化も図られており、多種多様な製品が生産されている。銚子市内で生産される醤油は、主として(濃口醤油)と(薄口醤油)であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用に限ってみてもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の2社の商品は20種類を超えている。ヤマサ醤油は1992年(平成4年)、アメリカ合衆国オレゴン州に関連会社を設立し、工場を建設してアメリカ、カナダメキシコ等に製品出荷も行っている。この他、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物、化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン、抗がん活性物質、抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている[12]

水産加工業

銚子市における水産加工業は、全市の製造業のうち最も主要な位置を占めて、醤油製造業と共に銚子市工業の基幹をなしている。銚子市の水産加工品としては水産缶詰・瓶詰、海藻加工品、水産練製品、冷凍水産物、冷凍水産食品、その他の水産食料品、配合・単体飼料、有機質肥料等がある。冷凍水産物とは、水産物を原料として前処理をせずに凍結設備を使用して採ったままの姿で冷凍したものをいう。また、冷凍水産食品とは、水産物を原料として前処理を施したものや切身、開き、三枚おろしすり身等に加工した後に冷凍し、凍結状態のまま包装したものを指す[12]

戦後の水産加工業の特色は、その主力が肥料用のイワシ搾粕から養殖飼料用の冷凍イワシに替わったことであった。また、サンマ・サバ漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、イワシからサンマ、サバ、アジへと推移した。冷凍冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存を可能にした。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。原料の安定供給による年間均等操業と経営規模拡大とあわせ、機械導入による省力化が進み、コンベアフォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機等が導入された[12]

1970年代から水産加工機器の発達は著しく、大型加工場が多かった銚子市では冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められた。施設整備、経営近代化と原料の移入・輸入等により、水産加工機器の集積度では日本有数である。1980年代からは水産加工の原料魚を諸外国からの輸入によるようになり、原料として輸入魚のウエイトが高まる中で、1990年(平成2年)には銚子市の保税上屋許可が得られて、原料の入手流通の合理化が更に進められた[12]。国民の健康志向が高まる中で、食生活における水産物そのもの、また、家庭用の調理水産食品や外食用加工水産食品の需要の増加が見込まれており、銚子市では日本有数の機能集積力を活かし、水産加工業の更なる発展を目指すため、HACCP認証加工設備やISO対応工場を建設し、欧米の市場も視野に入れた販路拡大を目指している[56]

2018年(平成30年)における銚子市の水産加工品の生産状況をみると、マイワシの水揚数量の36パーセントが生鮮、練製品、すり身、缶詰等の食用として、残り64パーセントが飼肥料として使用されている。サバは文化干しフィレ、開干し、青切りが関東を中心に販売され、塩蔵サバは名古屋大阪京都神戸等の関西方面の大都市への販売が多い。サバはタイベトナム等の東南アジアエジプト等のアフリカ地域に輸出されている[55]

冷凍冷蔵業・製氷業

銚子市における戦後の冷凍冷蔵能力は、1947年 (昭和22年)に11工場であったが、1956年(昭和31年)に28工場へと増加し、その能力も製氷生産133.5トン、冷蔵6832トン、貯氷4006トンとなった。以後も水産加工業者による冷蔵庫の増設が進み、1980年代には冷蔵庫保有業者数は150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、飛躍的な普及拡大を遂げた[12]

この中で新しい営業形態としての冷蔵業が盛んとなった。専業業者はなく、一般加工業者による兼業業務として行われている。主としてイワシ・サバ・サンマを加工原料・飼料用に自家の冷凍冷蔵庫に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷する。自家で冷凍するもののみではなく、他業者の冷蔵庫を利用する場合、既に冷凍済みのものを移入する場合は、市内の他業者が冷凍したもの等を買入れる場合がある。出荷先は、加工原料についてが市内業者で、市外でも銚子市近隣地であり、飼料については県外の養殖業者である[12]。2018年(平成30年)においては、冷凍冷蔵工場は69工場で全国3位、一日あたりの凍結能力は3402トンで全国15位となっている[55]

氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている[12]。2018年(平成30年)の銚子市の製氷工場数は7工場、製氷能力日産778トン、貯氷能力8150トンである。銚子市漁業協同組合は、2001年(平成13年)度と2017年(平成29年)度に製氷工場を新設している[55]

缶詰製造業

 
田原缶詰

銚子市における缶詰製造の歴史は、1879年(明治12年)に行われたイワシ油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。1906年(明治39年)のクジラの豊漁に刺激されたクジラ大和煮缶詰製造、その後、大正期にかけてクジラ以外の水産缶詰製造業定着を経て、昭和初期のイワシ豊漁に伴うイワシの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって、銚子の缶詰事業は急激な発展を遂げた[12]

戦後はサンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになった。1980年代半ばまでは、それまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ。しかし、この時期を過ぎると次第に円高傾向が強まって、輸出向けから国内向けへと販路の転換を迫られることとなり、水産缶詰製造業者は国内向け缶詰重視、他種兼業等の経営多角化を目指した結果、全体の約70パーセントが国内向け缶詰となった[12]。近年は再び輸出量が増加し、2013年(平成25年)には国内約50パーセント、 輸出約50パーセントとなっている。缶詰の製品としてはサバ、イワシ、サンマ、サケ等であり、原料魚は主に海外や他港からの移入によっている[55]

肥飼料製造業

戦前の銚子市の主な水産加工品であった肥料イワシ、搾粕の生産は1950年代までに終わり、魚を中心とする飼料生産が行われるようになった。飼料製品は魚粕である。魚体全部又は缶詰・一般加工品製造の際の残滓を蒸煮し、圧搾して水分を除き、乾燥して魚粕を製造する。魚粕は魚粉(ミール)、更に配合飼料の原料となる[12]

練製品製造業

銚子市の練製品製造業は明治中期から始まったとされる。昭和初期には業者数も増え、新製品開発も行われたが、終戦直後は統制経済と食糧事情の悪化により練製品需要が高まったため、さつま揚げを主にその生産は急増した。練製品とは、魚肉をすり身にして蒸したり焼いたり、油で揚げたりした食料品で、スケトウダラ等を原料とする。種類としては半片蒲鉾鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、イワシ・サバ等を原料とするつみれ等である[12]。これら練製品は大部分が静岡以北の関東・東北各地へと出荷されており、大手デパート{"@context":"http:\/\/schema.org","@type":"Article","dateCreated":"2023-05-23T10:27:00+00:00","datePublished":"2023-05-23T10:27:00+00:00","dateModified":"2023-05-23T10:27:00+00:00","headline":"銚子市","name":"銚子市","keywords":[],"url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/銚子市.html","description":"銚子市 ちょうしし は 千葉県北東部の市 関東地方の東端に位置し 日本列島で最も早く初日の出が昇る 注 1 水揚数量が全国1位である 1 銚子漁港を擁し 国内有数の規模と機能を有する水産都市として重要な役割を果たしている 江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり 市内には醤油製造工場が集積する 東総地域における政治 経済の中心都市である ちょうしし 銚子漁港第一卸売市場 犬吠埼灯台ヤマサ醤油本社 銚子ポートタワー犬吠駅屏風ヶ浦 旧公正会館旗 章1934年 昭和9年 1月15日告示国日本地方関東地方都道府県千葉県市町村コード12202 5法人番号6000020122025面積84 20km2総人口54 918人 編集 推計人口 2","copyrightYear":"2023","articleSection":"ウィキペディア","articleBody":"銚子市 ちょうしし は 千葉県北東部の市 関東地方の東端に位置し 日本列島で最も早く初日の出が昇る 注 1 水揚数量が全国1位である 1 銚子漁港を擁し 国内有数の規模と機能を有する水産都市として重要な役割を果たしている 江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり 市内には醤油製造工場が集積する 東総地域における政治 経済の中心都市である ちょうしし 銚子市銚子漁港第一卸売市場 犬吠埼灯台ヤマサ","publisher":{ "@id":"#Publisher", "@type":"Organization", "name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az", "logo":{ "@type":"ImageObject", "url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/logo.svg" },"sameAs":[]}, "sourceOrganization":{"@id":"#Publisher"}, "copyrightHolder":{"@id":"#Publisher"}, "mainEntityOfPage":{"@type":"WebPage","@id":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/銚子市.html","breadcrumb":{"@id":"#Breadcrumb"}}, "author":{"@type":"Person","name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az"}, "image":{"@type":"ImageObject","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/images\/wiki\/20.jpg","width":1000,"height":800}}