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樺太の戦い (1945年)

樺太の戦い(からふとのたたかい、ロシア語: Южно-Сахалинская операция)は、第二次世界大戦末期の1945年昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、日本樺太南部で、日本とソビエト連邦(ソ連)の間で行われた地上戦闘である。樺太戦、樺太地上戦とも呼ばれる。

樺太の戦い (1945年)

日本の第88師団司令部が置かれた樺太庁博物館
戦争太平洋戦争
年月日1945年8月11日 - 8月25日
場所南樺太
結果ソ連軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 ソビエト連邦
指導者・指揮官
峯木十一郎 (レオンチー・チェレミソフ)
(ウラジーミル・アンドレエフ)
戦力
約20,000 1個師団・4個旅団
損害
戦死 700-2,000
民間死者 3,500-3,700
戦死 合計1,191人以上
第56狙撃軍団:527人以上
北太平洋艦隊:89人以上
日本本土の戦い

概要

1945年(昭和20年)8月9日日ソ中立条約を破棄し、対日参戦したソビエト連邦は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。

侵攻の目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。

8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争大東亜戦争)は停戦に向かった。日本軍大本営は、やむをない自衛戦闘を除いては、戦闘行動を停止するよう全軍に命じていたが、8月16日札幌第五方面軍司令官の樋口季一郎中将は北海道へのソ連進駐とそれによる赤化を恐れ、北海道占領を阻む防波堤とすべく樺太第88師団に南樺太を死守するよう命じた[注 1]

ソ連軍は南樺太各地への空襲を開始、ソ連軍の南樺太への進攻とともに日本軍との戦闘が続くこととなった。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。

当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、緊急疎開船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の市街戦など無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。

背景

 
北緯50度の国境標柱と日本の国境警察隊
 
豊原市の大通りの風景

ポーツマス条約によって日本領となった南樺太には、1913年(大正2年)の(樺太守備隊)廃止以来、日本軍は常駐しておらず、軽武装の国境警察隊が国境警備を担当していた[1]。しかし、1939年(昭和14年)5月に至り、対ソ連の防備のため樺太混成旅団が設置された。その後、第7師団(北海道駐屯)の改編や関東軍特種演習に伴い次第に駐屯兵力が増強された。

太平洋戦争中盤になると、従来はソ連を仮想敵としていた南樺太の戦備も、対アメリカ戦重視に方針が転換された。北樺太侵攻作戦は放棄されて、専守防衛型となった。北方軍司令官樋口季一郎中将は、対ソ国境陣地を重視せず、主にアメリカ軍上陸に備えた南部の防備強化を指導した[2]本土決戦が想定され始めた1945年(昭和20年)2月には駐屯部隊の大部分を再編成して第88師団が創設されたが、その主力は南部地区に置かれた。

ソ連軍の兵力増強の動きは樺太でも見られ、樺太の日ソ国境の監視哨からは緊迫した動きが師団に伝えられ、師団は侵攻が近いとみて札幌第5方面軍に具体的な作戦指導決定を再三求めていたが、方面軍では従来からの対米戦中心のために、7月に入っても樋口司令官・幕僚以下真剣に考えていなかった節があるという[3]

(予備役)(在郷軍人)主体の予備戦力の整備も進められ、1944年(昭和19年)5月に特設警備隊である特設警備大隊3個・特設警備中隊8個・特設警備工兵隊3個、1945年3月には地区特設警備隊9個が各地に設置された[4]。このほか、(国民義勇戦闘隊)の組織も準備されていた。地区特設警備隊や国民義勇戦闘隊は、日中戦争での中国共産党軍に倣い遊撃戦を行うことが期待されており、3月下旬に7700人が2日間の召集訓練を受けたほか、7月以降には陸軍中野学校出身者による教育が多少実施された[5]。戦後ソ連に抑留された軍人・役人の調書や書き残した記録によれば、女性・学徒に至るまで全住民を動員して国民義勇戦闘隊を組織し、第一線で竹槍・手榴弾・毒矢を武器に全員玉砕まで遊撃戦を行わせる計画があったという。訓練もないまま自宅の武器になりそうなものを持寄る形で動員された者もいて、一部で実施されたものの、前述の日本人抑留者の書き残した記録には遊撃戦の効果はなかったようだと書かれたものもある。[6]

約40万人の一般住民中、足手まといになると見られる、とくに老齢及び幼年の者については北海道への緊急疎開が予定されていたとみられ、大津敏男樺太庁長官と第88師団参謀長の鈴木康大佐、豊原駐在海軍武官の黒木剛一少将による3者協定が締結されていた。樺太庁長官を責任者として陸海軍は船舶提供などの協力をするという内容であったが、実態は腹案の域を出ず、3人以外には極秘とされて組織的な事前打ち合わせは無かった[5]

1945年5月方面軍主催の兵団長会同でも対米戦主体で、結局、第88師団が対ソ戦への作戦転換命令を司令部から受けたのは8月3日で、住民の具体的な避難対策に至っては全くとられていなかったという[3]

一方、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、南樺太の奪還を狙っていた。ソ連の対日参戦を密約した1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は南樺太占領を参戦後に予定する作戦の第一として挙げ、実際にヤルタ協定には「南樺太のソ連への返還」が盛り込まれた[7]。当時、ソ連は北海道北東部(留萌釧路を結んだ直線以北。「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた。)の軍事占領も計画しており、南樺太は北海道侵攻の拠点としてすぐさま使用される予定であった。南樺太攻略担当には、北樺太に主力を置く第2極東戦線の第16軍(司令官:L・G・チェレミソフ (Л. Г. Черемисов) 少将)が充てられた。もっとも、7月28日に通達された実際の作戦計画では、樺太・千島方面の攻略は満州方面に劣後した順位となっており、発動時期は戦況に応じて調整されることになっていた。現場では日本軍守備隊に関する情報を把握できないでおり、南樺太に日本軍戦車が配備されていないことすらも知らなかった[8]

南樺太および千島列島への進攻に関してはソ連海軍、特に太平洋艦隊は艦艇不足であった。このため事前にレンドリースの一環としてアラスカにおいてアメリカとソ連の合同で艦艇の貸与と乗組員の訓練を行うフラ計画が実行された[9]

日ソ間には日ソ中立条約が存在し、1945年(昭和20年)8月時点でも有効期間内とされたが、ソ連の対日参戦は実施された。なお、同年5月頃、日本はソ連を仲介者とした連合国との和平交渉を模索しており、その中でソ連への報酬として南樺太の返還も検討されていた[10]

ソ連軍侵攻前の樺太での戦闘としてはアメリカ潜水艦の活動があり、日本商船が攻撃されたり、海豹島などが砲撃を受けていた。7月23日には、アメリカ潜水艦「バーブ」から少数の水兵が密かに上陸して、樺太東線の線路を爆破している[11]

戦闘経過

全般状況

 

日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁恵須取支庁)と南地区(豊原支庁真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた[12]

8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。作戦計画は3段階で、第1期に第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)が国境警戒線を突破し、第2期で古屯要塞[注 2]」を攻略、第3期には第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に超越進撃して南樺太占領を終えるというものだった。国境地帯からの2個梯団が主軸で、塔路真岡には補助的な上陸作戦が計画されていた[8]。ソ連側の侵攻が開戦直後ではなかったことは、日本側が兵力配置を対ソ戦用に変更する余裕を生んだ。ソ連軍は第1期作戦から激しく抵抗を受けてしまい、第2期の古屯攻略のための部隊集結も遅れだした。

日本の第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、通信の遅延から解除連絡は最前線には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる結果につながった[14]。自重命令解除に続き、第5方面軍は、第1飛行師団の(飛行第54戦隊)に対して落合飛行場進出を命じたが、悪天候のために実施できなかった。一方、ソ連軍機も悪天候には苦しんでいたが、なんとか地上支援を成功させている。第5方面軍は、13日には北海道の第7師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られたソ連領北樺太への1個連隊逆上陸(8月16日予定)まで企図したが、8月15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極侵攻停止命令(大陸命1382号)によって中止となった[15]

日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。8月10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には(国民義勇戦闘隊)の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった[16]。師団は、8月15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知った。

8月16日大本営は、大陸命1382号を第5方面軍を含む全軍に出し、停戦交渉成立前に敵が来攻するにあたってのやむをえない自衛戦闘を除いて即時の戦闘行動停止を命じた。しかし、8月16日に塔路上陸作戦が始まると、第5方面軍司令部の樋口季一郎中将はソ連軍が樺太経由で北海道にまで進出してくる可能性があると考え、同日午後、第88師団に対して戦闘を継続してソ連軍の転進を阻止し、北海道への侵攻拠点に使われるおそれがある南樺太を死守するよう命令した[17]。南樺太北方の西海岸の恵須取(読み:エストル)では、日本軍守備隊がいないと思ったソ連軍兵士らが特段の攻撃姿勢もなく上陸してきたところを、日本軍兵士らが銃撃しソ連兵7名ほどを殺害、ソ連軍も反撃し、これが終戦後の樺太での最初の戦闘開始となったという。恵須取では14日に大規模な停電が起き、現地部隊兵士らは15日に玉音放送があったことも知らず、また、現地部隊上層部らは終戦の事実を隠していたとされる。[6]

樋口の抗戦命令が16日午後に届いたとき、樺太第88師団参謀長の鈴木康大佐は既に防衛召集解除・一部兵員の現地除隊軍旗処分などの停戦準備を進めており、また当時、第88師団には戦車・飛行機はもちろんソ連軍と戦えるほどの対戦車・対空火器もなかったことから当惑したという。

南樺太死守の命令を受けた現地日本軍は武装解除と降伏及びソ連軍の進駐に応じず、ソ連軍は8月16日の後も引き続き軍事攻撃による侵攻を続けた。アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥はソ連軍参謀本部に対して攻撃停止について申し入れたが、ソ連側はソ連軍が攻撃停止するかは地域の最高司令官の判断によるとして、協議に応じなかった[17]。ソ連軍も一般兵士らは8月15日の日本のポツダム宣言受諾を知らされておらず、また、日本軍側からの停戦交渉のたび、各部隊に戦闘停止が命じられたため、降伏したらしいと聞いて彼らが戦闘を中止しても、狂信的な日本軍の抗戦派が何度も戦闘を再開してくるように感じたという[18]

もともとソ連軍は満州での戦いの進展状況を見て南樺太・千島の攻略を行う予定であったが、満州の戦局が予想以上に有利に進んだためソ連軍最高統帥部は8月10日樺太での本格侵攻を決定した[3]。Cherevko(2003年)は、満州と樺太で日本軍が降伏せずに戦闘行動を続けたため、ソ連軍は攻撃を進めたと述べている[19]。他方、中山(2001年)によれば、ソ連側が樺太南部への侵攻を続けた理由は、樺太から北海道への日本側の引揚げ阻止と、北海道北部占領のための拠点確保にあったとする[20]。8月18-19日には、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が、8月25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を下令した[21][22]。国境地帯の古屯付近では8月16日にソ連軍が総攻撃を開始したが、日本側守備隊の歩兵第125連隊が即時停戦命令を受けて8月19日に武装解除するまで、主陣地制圧はできなかった。ソ連軍は同じ8月16日に塔路上陸作戦も行ったが、上陸部隊の進撃は低調だった。交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止を断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、峯木師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が射殺される事件も起きた。

8月19日、日本の大本営は第5方面軍に対して、停戦のための武器引き渡しを許可した((大陸指)2546号)。満州方面よりも3日遅れの発令であった。ただし、北海道第5方面軍は8月19日17時30分にも、第88師団に対して南樺太死守を命じ、ソ連軍が進駐してくるのであれば、戦闘を継続するよう命令していた[22]。8月21日に峯木第88師団長が第5方面軍の萩三郎参謀長に電話でソ連軍が進撃停止に応じない状況を説明し、全面衝突回避のため武装解除とソ連軍の進駐容認の承諾を得た[23]。翌8月22日には第5方面軍からそれまでの南樺太死守命令に変えて、上記の大本営からの武器引き渡し許可が第88師団に伝えられ、知取でソ連軍との停戦合意に達した[24]。この間にも、8月20日にはソ連軍が真岡を艦砲射撃の後、上陸してきたため、多数の民間人が犠牲となっていた。北海道攻略を視野に入れていたソ連側は、8月22日に北海道留萌沖周辺で婦女子老人を本土に返す為航行していた緊急疎開船3隻を攻撃(1700名以上死亡)し、また、日本人と財産の本土引き揚げ阻止を図り、23日には島外移動禁止を通達した。24日に樺太庁所在地の豊原市はソ連軍占領下となり、25日の大泊上陸をもって南樺太占領は終わった。

8月11日~:国境地帯への侵攻

( )
関連地(注:境界線はロシア側主張に基づく現代のもの)
 
日本の国境警察隊:陸軍部隊とともにソ連軍を迎撃

国境の北地区守備を担当する歩兵第125連隊は、8月9日の時点では主力は内路・上敷香にあり、第2大隊だけが古屯でソ連軍に備えていた。開戦と同時に、連隊長の小林大佐は、国境付近の分哨や住民の後退と道路破壊を命じ、連隊主力を率いて北上した。ソ連軍が砲撃を行うだけで進撃に着手しなかったため、10日には古屯北西の八方山へ布陣を終えることができた[25]。住民誘導や道路破壊作業は、上敷香に進出した師団参謀の指導で、特設警備隊や地区特設警備隊を中心に進められた。


ソ連軍の中央軍道方面からの侵攻は、8月11日午前5時頃に始まった。最前線の半田集落は歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名程度の守備兵力ながら、戦車と航空機に支援されたソ連軍先遣隊を丸一昼夜阻止した後、8月12日にほぼ全滅した。この玉砕は付近の日本軍に士気高揚をもたらし、他方、ソ連軍には野戦築城レベルの半田に要塞[注 3]があったかのように記録させるほど衝撃を与えた[27]。8月12日昼には、武意加からツンドラ地帯を強行突破したソ連軍第179狙撃連隊が古屯に進出しはじめたが、訓練用の木銃銃剣で武装した輜重兵第88連隊第2大隊や憲兵の突撃で足止めされている[28]。なお、第5方面軍が9日に発した積極攻撃禁止命令は、この頃に歩兵第125連隊へと届き、以後の戦術を制約していった[29]

8月13日、ソ連軍第1梯団は、日本の歩兵第125連隊に対し、軍道上の梯団主力と迂回した第179狙撃連隊による包囲攻撃を開始した。日本軍の速射砲などではソ連戦車を撃破できず、軍道上の師走陣地守備隊は大損害を受けて撤退したが、激しい抵抗に驚いたソ連第1梯団主力も数百m前進しただけで防御態勢に移行した。古屯の兵舎周辺では、日本の歩兵第125連隊第1大隊とソ連軍第179狙撃連隊との激戦が続いたが、8月16日夕刻までに日本側は大隊長小林貞治少佐、岩貝大隊副官戦死し、撤退に追い込まれた。

8月16日にソ連軍主力も火砲213門等を投じた総攻撃を再開し、古屯までの軍道を開通させたが、主陣地である八方山は陥とせなかった。8月17日から18日頃、日本の歩兵第125連隊本部に師団からの停戦命令が届いたものの、そのまま戦闘は続いた。8月18日、連隊長の小林大佐は軍使を派遣して、降伏に応じた[30]。歩兵第125連隊は、8月19日10時に武装解除して戦闘を終えた[31]

北地区の日本側指揮は、歩兵第125連隊降伏後、上敷香にいた第88師団参謀らが実質的に引き継いでいる。中央軍道方面での戦闘の間に、8月17日朝には上敷香の住民避難が終わり、その市街地は放火とソ連軍機20機の空襲で全焼している[32]。敷香も8月20日に放棄され、総引き揚げとなった。内路鉄橋や知取川鉄橋爆破による防衛線構築が検討されたが、避難民が残っていることから断念された[23]#全般状況で既述のように、前進してきた日本側の師団長・師団参謀長らとソ連側の交渉の結果、22日に停戦合意が成立した。

また、中央軍道とは別に、8月12日に西海岸の西柵丹村安別にもソ連軍の侵攻があったが、歩兵第125連隊の安別派遣隊(1個中隊)などが住民の支援を受けて対抗した。安別派遣隊は、8月20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、他隊の人員を吸収して約500人で南下した。名好町北部に至って部隊を解散し、私服に着替えて自由行動をとり、一部は北海道の第5方面軍司令部への報告に成功している[33]

北地区の戦闘で日本軍の受けた損害は、戦死568名であった。そのほとんどは古屯周辺の戦闘で生じた。他方、ソ連側の損害は不明であるが、日本軍の推定では戦死1千名と戦車破壊数十両となっている[33]

なお、日本海軍の敷香基地部隊は飛行場周辺で対空戦闘を行っていたが、8月14日夕刻、陸軍とは連絡を取らずに独断で大泊基地への撤退を決めた。北東空司令部の制止も無視して通信設備を破壊し、翌8月15日早朝に高角砲台などを爆破して大泊基地へと自動車で撤退した。当初は大泊を守備する構想だったが、移動中にポツダム宣言受諾を知って戦闘を放棄し、大泊基地部隊とともに海防艦占守」へ優先的に搭乗して北海道へ引き揚げた[34]。ただし、豊原海軍武官府は同行せずに残留し、民間人の保護にあたっている。

8月16日~:塔路上陸作戦

 
恵須取町の市街地(浜市街)。

ソ連軍は、第2期作戦の一環として、南樺太第2の都市である恵須取町に近い塔路上陸作戦を計画していた。そのため8月10日以降、恵須取港と塔路港はソ連北太平洋艦隊航空隊の攻撃目標とされていた。8月13日には魚雷艇カッターボートによる偵察が行われ、ほとんど守備兵力はないと判断された。上陸決行は陸上侵攻と連携して実施する予定だったが、アンドレエフ北太平洋艦隊司令官は好機と考えて、8月16日の上陸を独断で決めた[35]

恵須取町・塔路町付近は、開戦時には歩兵第125連隊の1個中隊と若干の後方部隊がいるだけだった。安別へのソ連軍侵攻後、本斗安別線からの襲来の危険が生じたため、歩兵第25連隊の正規1個中隊(機関銃小隊配属)と訓練中の初年兵1個中隊(山砲1門配属)などが8月14日に増派されていた。そのほか、特設警備第301中隊と豊原地区第8特設警備隊、義勇戦闘隊(学徒600名と女子80名を含む)も召集されている。豊原地区司令部から出張中だった富澤健三大佐が臨時に指揮官に任じられた。日本軍は正規歩兵2個中隊を恵須取市街から内陸の上恵須取へ続く隘路に配備して防衛線を張り、特設警備第301中隊のうち1個小隊(義勇戦闘隊40人配属)を塔路飛行場の破壊と塔路港守備に充て、残りは住民避難の援護のため恵須取市街に置いた。住民の多くは上恵須取方面へ避難に移り、塔路ではソ連軍上陸時に約20%だけが残っていた。なお、日本軍は13日のソ連軍偵察隊を本格上陸と誤認し、特設警備中隊の射撃で撃退に成功したと考えていた[36]

8月15日、ソ連軍は警備艦1隻・機雷敷設艦1隻・輸送船2隻・小艦艇多数を、ソヴィエツカヤ・ガヴァニから4波に分けて出撃させた。そして日本のポツダム宣言受諾表明後の8月16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始した。塔路の町は焼失し、守備の1個小隊は壊滅した。(阿部庄松)塔路町長(義勇戦闘隊長も兼務)らは、恵須取支庁から終戦と抵抗中止を通知されてソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、まもなく射殺された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した[37]

日本の特設警備第301中隊(中垣重男大尉)は、初年兵中隊や地区特設警備隊、国民義勇戦闘隊、警察隊などをかき集めて、塔路から続く道の恵須取の山市街入口に布陣し、避難民の援護にあたった。16日午後2時には山市街の王子製紙工場がソ連兵300人によって占領され、上恵須取との交通は遮断され、住民・義勇兵ら400人は山中をかき分け、上恵須取に向かった[38]。中垣隊は、塔路から南下侵攻してきたソ連海軍歩兵2個中隊を阻止したうえ、逆襲に転じて敗走させ、王子製紙工場付近まで追撃した。その後、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め、翌17日午前3時頃には上恵須取へ到着した。ソ連軍は8月17日午前7時~8時30分に恵須取山市街を占領、午前10時30分頃に恵須取港から上陸した独立機関銃中隊とともに浜市街を占領した。ソ連側記録によると8月17日にも恵須取で市街戦があったことになっているが、実際には日本側の部隊は残っていなかったとされる[39]。ただし、実際には防衛に当たっていた特設警備隊などの行動はほとんど明らかでなく、推測するしかないともされている[18]。吉武輝子によれば、恵須取は重要な防衛拠点だったが、国境防衛のために配属されていた小隊が退去、師団から任命された支庁長・町長らが隊長の義勇戦闘隊、恵須取中学・工業・青年学校生徒約600人の学徒義勇戦闘隊、70~80人の女子義勇戦闘隊、84人の女子監視哨隊が防衛にあたり、竹槍突撃した女性が1人戦死するほどであったという[38]

上恵須取の町は8月17日午後に空襲を受けて焼失し、疎開する中で特設警備隊や義勇戦闘隊は隊員が家族のもとに戻って解散状態となっていった。恵須取方面総指揮官として派遣された吉野貞吾少佐(富澤大佐から指揮権引き継ぎ)によってソ連軍との停戦交渉も行われたが、ソ連側が要求する住民の帰還を避難民らが拒み、武装解除にも応じず妥結に至らなかった。恵須取支庁長や吉野少佐は日本兵の士気が高く戦闘拡大のおそれがあると判断し、避難民や軍部隊をまとめ、内路恵須取線を東進してソ連軍から離れることにした[40]。内路付近まで達した8月24日に、師団司令部から連絡将校が到着して投降命令が伝達され、部隊は武装解除を受け入れた。

8月20日~:真岡・大泊上陸作戦

 
ソ連軍侵攻以前の真岡町の市街

ソ連軍は、第3期作戦の補助作戦として真岡上陸作戦を計画していたが、国境方面の戦況などにかんがみ、8月15日に真岡上陸作戦の発動準備を下令した。その目的は、日本側の本土への引き揚げ阻止と、北海道侵攻のための拠点の早期確保にあった[20]。上陸部隊の第113狙撃旅団主力(約2,600人)と海軍混成歩兵大隊(820人)は、18日に間宮海峡付近のポストヴァヤ湾とワニノ湾で輸送船5隻と掃海艇4隻、警備艇9隻に乗船し、翌19日朝に出航した。上陸部隊指揮官は第113狙撃旅団長のI・Z・ザハーロフ大佐、船団指揮官はA・I・レオーノフ海軍大佐だった[41]

20日、第88師団の鈴木参謀長は初めてソ連軍との交渉を行ったが、樺太死守の命令に縛られた鈴木はソ連軍の南樺太進駐を見合わせることを主張、ソ連軍は彼らの進駐と日本軍の武装解除・全面投降を主張、停戦交渉は纏まらなかった[6]

日本側は、真岡港を本土への引き揚げ乗船地として使用中で、町は地元住民と避難民1万5000人以上であふれていた。守備隊としては歩兵第25連隊主力が置かれていたが、すでに軍旗の焼却や約1割を占める古年次兵の除隊、特設警備隊の防衛召集解除などを完了していた。歩兵第25連隊のうち第1大隊だけが海岸正面に陣地構築中だったが、8月16日に海岸の陣地や市街地から兵を引き上げ、1-2km内陸の荒貝沢の谷地にテントを張って野営して待機した。市街地付近に残されたのは、監視哨の機関銃・連隊砲各1個分隊と戦力のない陸軍船舶兵程度であった[42]

8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。ソ連軍は浅瀬に座礁した魚雷艇が日本軍の先制射撃を受けたため艦砲射撃で応戦したと記録しているのに対し、日本側は舟艇の座礁を目撃したが射撃は加えていないと記録している[41][43]。当時、真岡郊外の荒貝沢にいた連隊砲の広瀬分隊長は20日早朝に真岡沖にソ連艦隊が現れ、上陸舟艇が突進するのを見たが、電話連絡しても発砲禁止との答えしかなく、攻撃しなかったという[38]。ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した[41]。港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船漁船は、拿捕されるか撃沈された。日本側記録によると、日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した[43]

ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが[41]、日本側記録によると真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。そのため、攻撃を受けたのは民間人、特に軍服類似の国民服を着用していた者だったのではないかとも言われている[44]。吉武輝子によれば、真岡では特設警備第305中隊が警備を担当、他に港湾・防空警戒のため山砲1分隊と後者機関銃2挺が配備されていたとする。恵須取では義勇隊が抵抗したとみられるが、真岡でこの種の部隊の行動がどのようなものであったか、ほとんど語られることがなく、分かっていない。占領当日、ソ連軍は街の要人らを呼び出し海岸に連行し銃殺した(町長は重傷で生存)[44]。これについては、国民服、警防団服、戦闘帽、カーキ色の服を着ていた者を、兵士と考えて射殺したとの見方もある(無論、正規兵・義勇隊員であっても投降した無抵抗の者を射殺したのであれば、国際法違反である。)[45]。日本軍歩兵第25連隊第1大隊が派遣した軍使の大隊副官村田徳兵中尉らは途中でソ連兵らに停止させられ、射殺された[46]。第1大隊長仲川義夫少佐はソ連軍の平和進駐を認めるつもりであったが、この停戦失敗により、衛戍勤務令による武器使用を続けることにしたと語る[45](ただし、この主張は、方面軍の樋口中将からもともと樺太死守の命令が出ていたことと齟齬し、参謀本部の停戦命令に反して交戦したことについて、方面軍上層部に忖度した発言の可能性がある)。逃げる住民を追ってくるかのように進んできたソ連軍と真岡の北の荒貝沢の山中でようやく正規軍どうしの交戦が始まった[38]。真岡では、電信局の女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件だけでなく、中学校や国民学校の教諭や軍事教官らが各家で妻子とともに自決する事件、その他一般人の中からも一家心中を図った事件や、防空壕に逃げ込んだものの子供が泣き出したためにソ連兵に見つかることを怖れる周囲の者から出ていくか子供を殺すよう迫られた事件が続発、南部の港に向かう避難路でも同様な事件が頻繁に見られたという[45]。ソ連側は、自軍の損害として、陸軍兵60人と海軍歩兵17人が死傷したとしている[41]。真岡での日本人はおよそ千名の死者が出たという。また、引揚船も攻撃されたという。

 
豊真線宝台ループ線。付近で8月21-22日にソ連の真岡上陸軍と日本軍の戦闘が行われた。

ソ連軍の行動を見た日本軍は、衛戍勤務令12条と13条(警察行動に類する規定)に基づいて限定的な武器使用許可を行い、8月20日15時30分頃に山中でソ連軍と小競り合いを生じた[46]。8月21日になって豊原へ向けて進撃を始めたソ連軍は、日本の歩兵第25連隊第1大隊を攻撃し、日本側も応戦した。次第に浸透された日本側は同日夜に逢坂へ撤退し、新たに第3大隊を熊笹峠宝台ループ線へ布陣させた。ソ連側は逢坂集落など各地に空襲と艦砲射撃を行いながら進撃した。日本側は衛生兵までが白兵戦を行ったという。日本側は師団司令部のある豊原の防衛のために熊笹峠などで8月22日まで(遅滞戦術)をとることとした。真岡には港から脱出しようと樺太各地から日本人が集まり、もとからの真岡の日本人住民らとともに多数の日本人が取り残されていたが、このとき真岡にほど近い熊笹峠には砲を備えた200名以上の日本軍兵士がいたものの、豊原防衛のために待機していただけで、真岡の日本人を守るための行動は一切とらなかったという[6]

また、この頃、真岡郊外の農村集落で、日本人農民が、朝鮮人らがソ連のためにスパイ活動をしているのではないか、日本人から略奪を行うのではないかと怖れて、同じ集落内の朝鮮人を集団虐殺する事件(瑞穂事件)が起きている。

豊原も8月22日には空襲を受け、避難民が集結していた駅前広場周辺が焼夷弾などを浴びた。豊原駅には白旗が掲げられ、広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も空襲が繰り返されて100名以上が死亡、400戸が焼失した[47]。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った[48]

8月22~23日:武装解除と戦闘終結

満洲の関東軍にソ連軍の最高指揮官から樺太・千島の戦闘を終結させるよう要請があったとされる。満州に出張中の大本営の朝枝繁春参謀から8月21日札幌の第5方面軍に「自衛戦闘に名を借りて戦闘を続くるときは爾後満洲及び北東方面の将兵は名状すべからざる痛苦に遭遇すべし」との電報が入った[18]。この指示を受けて、ただちに札幌第五方面軍はそれまでの樺太死守命令を事実上翻す形で、第88師団に停戦命令を出した。同月22日午前に第88師団の鈴木参謀長とソ連軍のアリモフ少将との間で停戦交渉が成立した[18]

同日夕刻に第88師団司令部からの降伏命令が歩兵第25連隊に届き、8月23日までに武装解除が終わった。この交渉の際にも軍使一行が偶発的なものであった可能性が高いが帰路に銃撃を受けて死傷している。その後の豊原占領時にも、海軍武官府から派遣された軍使の主計大尉が、「交渉中に刀で斬りかかった」として射殺されている[49]。真岡の戦いでの日本軍の損害は、停戦直後の調査では第88師団所属の137人戦死とされたが、その後の調査で総数300人を超えると推定されている[50]

8月23日早朝、ソ連軍は真岡から海軍歩兵混成旅団(3個大隊)を出航させ、翌日に本斗を経由して、8月25日に大泊へ上陸した。日本軍の抵抗はなく、大泊の海軍基地などが占領された。このほか真岡北方の小能登呂飛行場は、輸送機で強行着陸したソ連海軍空挺部隊によって、8月22日に占領されている[51]

結果

日本軍の損害は、戦死者700人[52]ないし戦死・行方不明2,000人[53]とされる。ソ連軍の記録によれば、日本兵18,302人が捕虜となった[49]。戦闘中の民間人の被害は軍人を上回っており、3,700人に及ぶと見られている(詳細は#民間人で後述)。ために犠牲者は軍民合わせて約5千人ないし約6千人といわれることが多い[6]。なお、厚生労働省の資料で「樺太・千島等」の戦没者総数24,400人となっているのはアッツ島の戦いなどアリューシャン方面の戦いを含めた数値で[54]、樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の戦没者数は18,900人とされている[55]

なお、8月23日付で軍事極秘電として、札幌第5方面軍参謀長から東京の参謀次長に「此の機に乗じて悪質朝鮮人の残虐行為跳梁する等真にめを覆うべきものあるを以って茲に於て第一線部隊は若干の対抗手段を執りたるが如きを以って当方に於ては現地部隊に対し国家保全の大局に立ち万事を諦め完全なる無抵抗の主義に徹すべき旨指導しあり」と打電されている[56]。今日知られていないものの、この騒乱に際して樺太においても軍による朝鮮人弾圧のようなことが起こり、その責任逃れをあらかじめ図ろうとしていたのであろうか。

生き残った日本軍将兵は、いち早く北海道へ引き揚げた海軍部隊主力と、現地復員して民間人に紛れることができた一部兵士を除いて、シベリア抑留による強制労働を課された。多くはシベリアへ移送されたが、一部は樺太島内に設けられた捕虜収容所での労役に従事した。鈴木参謀長はシベリアに12年間抑留されることになった[6]。これはシベリア抑留者の中でももっとも長期に属する。

北海道第5方面軍からの(軍事拠点としての)樺太死守の命令に唯々諾々と従った結果、結局は、住民を守ることも樺太を死守することも、どちらも果たせなかった鈴木参謀長は「自身の任務遂行はあれで良かったか、結果は明瞭にノーである」と後悔の言葉を残している[18]。日本人住民の多くは戦後約2年間樺太に留め置かれることになった[6]

ソ連軍は、予定されていた北海道及び北方四島への上陸作戦のために南樺太の前進基地としての整備を進め、ウラジオストクから第87狙撃軍団を移送し始めた。8月25日までに、計15隻の客船を中心とした3回の護送船団で、3個師団が真岡へ送られている[57]。しかし、以後の作戦のうちソ連軍による北海道占領は、8月18日にアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンがスターリンに対して北海道占領を認めない旨の書簡を送ったのをふまえて、8月22日以降に北海道留萌等への軍事作戦の中止命令が出された。北方四島の占領は、大泊から出航した第113狙撃旅団などによって8月28日から9月3日に行われた。北方四島やその他の千島列島で捕虜となった日本兵は、樺太を経由してシベリアへと送られた。

樺太の戦いでの日本軍の抵抗は、千島列島における占守島の戦いと並んで、ソ連の北海道占領断念につながったと評価する見解もある。元防衛大学校教授の(中山隆志)によると、スターリンがトルーマンから反対されてから作戦中止命令まで4日間もかかったのは、日本の降伏文書調印(9月2日)までに北海道占領の既成事実化が可能かを検討していたためと見られるとし、その上で中山は、侵攻拠点となる南樺太確保の遅れや占守島での抵抗の激しさが、早期の既成事実化は困難との判断をソ連側にさせたものと主張した[58]。逆に、樺太戦研究家の藤村建雄は、民間船を含めた攻撃は、日本軍の反撃を誘発させ本格的な北海道攻撃の口実にするための挑発行為であった可能性があることを指摘している[56]。事実関係を追えば、スターリンは北海道を西の留萌と東の釧路を結ぶ線で分割した北側を占領することを考えており、ソ連崩壊後明らかになった資料によれば、もともとソ連軍は留萌・釧路の上陸作戦を24日に予定し、潜水艦に偵察と日本船撃滅を命じて19日-20日(トルーマンによるソ連軍の北海道占領の拒否後である)に留萌沖を目指して出航させている。樺太での停戦が成立した22日に留萌攻撃は中止され、釧路側に繋がる千島方面中心にソ連軍の攻略作戦が変更されている[59](この時点では、占守島の北千島守備隊司令部は既に降伏していたが、択捉島には南千島守備隊が健在で、その帰趨はソ連側にとっては未知数であった。)。

なお、戦闘後の南樺太はソ連(ソ連崩壊後にロシア連邦)によって実効支配されているが、日本政府は帰属未確定の地域であると主張している。

民間人

緊急疎開

ソ連軍侵攻時の南樺太には、季節労働者を加えて約40万人、一説によると45-46万人[52]の民間人が居住していた。ソ連の参戦後に北海道への避難が始まったが、多くの民間人が戦禍に巻き込まれて被害を受けた。

8月9日のソ連の対日参戦後、大津樺太庁長官と鈴木第88師団参謀長、黒木海軍武官の三者が前述の事前協定を確認し、北海道への民間人の避難作業が始まった。といっても具体的な事前計画が無かった[疑問点]ので、樺太庁長官主催で樺太鉄道局船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まって各市町村へ通達されたのは12日になってからだった[疑問点][60]

 
日ソ開戦前の真岡港

『戦史叢書』の『北東方面陸軍作戦2』によれば、樺太庁側で立案された計画では、14歳以上の女性[疑問点]および13歳以下の男女とされ[疑問点]、16万人を15日間で移送することが目標だったとする。『戦史叢書』には老齢者が出て来ないが、選別基準には、老幼婦女子を疎開対象者とし、戦力とならない足手まといを片付ける意図と、食糧不足や冬季に渡る野外行動が予想されるために体力の弱い者を避難させるという意図があったとされる[61]。実際の避難時には、大津樺太庁長官は15-64歳の男性の避難を禁止している[62]が、これは15-64歳の民間の少なくとも男性(女性については対象年齢等、不明な部分がある)を全て国民義勇隊として戦闘に参加させる考えが樺太庁・軍にあったため[6]ともみられている。そのため、避難騒ぎの中で、強引に避難しようとした非老齢の男性や歩行困難の者まで間違われて警官に射殺された者もいるという[63]。一方で、小舟を自ら仕立てて樺太を脱出する民間の者[64]や、海軍関係者らには割込んででも疎開船で脱出する者[65]もいたとされる。また、樺太庁関係者でいち早く家族を樺太から脱出させたケース[66]や、軍人に家族とともにいた者も多く(本来、樺太は第一線に準じるとして軍人らは家族を呼び寄せることは本来禁じられていた)、彼らの中には軍服の権威と軍刀にものを言わせて自身の家族を優先的に脱出させたケース[67]もあり、民間から後日非難の声が上がっている。

樺太庁による公式の疎開船については、大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻を使用するほか、本斗から(稚斗連絡船)「樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することに決まった[49]。陸上では乗船地に向けた緊急疎開列車の運転とトラック輸送が行われた。また、乗車船は戦災地、避遠地を優先し、船車賃は無料であった[68]

避難指示を受けた住民は、乗船地を目指して列を成した。多くの住民は、尼港事件の再現となるのではないかと恐怖していたという[52]

8月13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月16日に真岡、8月18日には本斗からも緊急疎開船が出始めた。本斗には大阪商船の貨物船「(能登呂丸)」や海防艦が追加投入された[69]。避難民側の準備が間に合わなかった大泊第1便を除くほか、定員の数倍ずつ乗船するなど、急ピッチで海上輸送が進められた。しかし、真岡は8月20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念された。

最終的に8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。この間、8月22日に「小笠原丸」「泰東丸」「第二号新興丸」の3隻が、北海道沿岸で国籍不明の潜水艦の攻撃で撃沈破され、計1,708人が死亡したとされる三船殉難事件が発生している(押し寄せる人を安全性も無視して無理に乗せたほどであったため、乗船名簿もろくに作られず、実際の人数は分からないという説も強い。)。ソ連潜水艦による攻撃であると推定されていたが、後にソ連側で明らかになった資料によれば、当時このあたりにいた潜水艦が船を撃沈したことが報告されており、ほぼ間違いないとみられる。この日、樺太の停戦交渉が成立し、潜水艦には相次いでこの海域での船舶攻撃停止命令が出され、暗号通信ながら無事に受領されていっている。数時間の差で間に合わなかったのである。翌23日に貨物船「能登呂丸」も樺太へ向かう途中、宗谷海峡でソ連機の爆撃を受けて撃沈されたとする日本軍報告資料もある(この事件も22日で、雷撃による撃沈との説もある[70])。こちらの犠牲者は、千数百人との説がある[71]

結果、目標の約半数にあたる76,000人が島外への緊急疎開に成功したとみられている。その後の密航による自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下だけが避難できたことになる[72]。市町村単位で見ると、42市町村のうちで疎開が完了したのは8町村のみであった。『戦史叢書』は、今日思うと避難の決行時期があまりにも遅かったと評している[73]。急な避難指示で準備が間に合わず、第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占める事態も起き、(満州の疎開列車での類似事例)と並んで後日非難されることにもなった[69]

犠牲者

住民台帳などの行政記録が失われているため、正確な犠牲者数は不明である。厚生省資料では、空襲や艦砲射撃、地上戦など島内での戦闘に巻き込まれて死亡した民間人の数は、真岡の約1,000人を筆頭に、塔路で約170-180名、恵須取で約190名、豊原で約100名、敷香で約70名、落合で約60名など合計で約2,000人と推定されている。前述の緊急疎開船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する[72]。なお、前述のように、厚生労働省資料にいう「樺太・千島等」の戦没者数24,400人はアリューシャン方面を含めた数値である[54]

落伍したり避難が間に合わなかった民間人の中には、ソ連兵に捕えられることを恐れ、自殺するものもあった。8月20日に郵便局の女性職員12人が集団自決を図った(真岡郵便電信局事件)ほか、塔路上陸作戦時には(大平炭鉱)病院の看護婦23人の集団自決(6人死亡)が発生している((樺太看護婦集団自決事件)[74]。一方で、恵須取市街での16日の戦いの中で自決を決意していた12人の女子監視哨隊員を、隊長役の中野軍曹が数名の兵を派遣して救出させ[38]、彼女らは豊原にまで逃れたものの、樺太の完全降伏後、ソ連兵を宥めるために遊郭の再開が計画された時、女性が集まらないため、今度は豊原で日本人関係者らが警察を通して彼女らを強引に応募させようとする事件が起きている(結局今度は、そのとき彼女らの隊長役として付いていた佐藤軍曹が、夜陰に乗じて彼女らを脱出させたという)[38]

また、混乱の中で朝鮮人虐殺事件も複数発生している(瑞穂事件上敷香事件)。

停戦後

1945年8月23日にソ連は樺太島外への住民の移動を禁止し、脱出できなかった住民はソ連の行政下に入ることになった。一般住民を中心とした引揚事業は、1946年(昭和21年)12月に本格的に始まり、日本側では函館援護局が受け入れを担当した[75]1949年(昭和24年)6-7月の第5次引き揚げまで、千島方面とあわせて20隻の引揚船が投入され、樺太からは軍民合わせて279,356人が、千島からの13,404人とともに北海道へと渡った[76]。2006年1月1日時点の厚生労働省データでは、千島方面と合わせた引き揚げ総数が軍人・軍属16,006人、民間人277,540人となっている[77]。樺太に長期在住していた者が多かったことから、本土に縁故の無い引揚者が約1/3と高い割合を占めていた[76]。そのため、住宅の入手や就職にはかなりの困難が伴い、長期にわたって引揚者援護寮に滞在せざるを得ない者も多くあった。身元引受先がないまま函館滞留中に死亡した引揚者も、航海中の死者とあわせて1,000人を超えた。引揚者とその遺族の相互扶助のために、1948年(昭和23年)に全国樺太連盟が結成されている[78]

ソ連軍の占領直後に約2万3千人いた朝鮮系住民は、ほとんどがソ連当局の意向によって樺太に残留させられ、1952年(昭和27年)6月にはこの在地系の朝鮮系住民が2万7千人と記録されている。戦後に北朝鮮から移民した者や、ソ連によって中央アジアから強制移住させられた「高麗人」と合わせて、在樺コリアンと呼ばれ、多くはそのまま定住を余儀なくされた[79]

朝鮮系以外の日本人住民でも、経済的事情から朝鮮系住民やロシア人と結婚するなどしたため、樺太残留を選択した者があった。1990年代中ごろには、終戦後に生まれた子孫も含めて約300人が樺太で生活していたが、高齢化による死去やソビエト連邦の崩壊後の日本や韓国への移住などで2010年には約200人に減少している。日本政府は、これらの残留者を対象に集団一時帰国事業を行っており、1年半に1回程度の日本帰国が実現している[48]

参加兵力

日本軍

ソ連軍

  • 第16軍((レオンチー・チェレミソフ)(Л. Г. Черемисов)少将)
    • 第56狙撃軍団 - 北樺太より出撃。
      • 第79狙撃師団
      • 第2狙撃旅団
      • 第5狙撃旅団 - オハ方面の守備配置。
      • 独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊
      • 第214戦車旅団
      • 第178・第678独立戦車大隊
      • 第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊
    • 第113狙撃旅団 - ソヴィエツカヤ・ガヴァニより出撃。
  • 海軍
  • 航空部隊
    • 第255混成飛行師団 - 106機
    • 海軍航空隊 - 80機

脚注

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注釈

  1. ^ 樋口は特務機関長として対ソ連の謀略活動に従事していた経歴があり、そのためか、後に分かったことだがソ連側から一時は戦犯候補に指名されていた。樋口は個人的にもソ連軍による北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。
  2. ^ 古屯には歩兵第125連隊第2大隊の兵舎があり、北側の幌見峠には北樺太侵攻作戦を援護するための鉄筋コンクリート製構築物などから成る陣地が建設されていた。ただし、実戦では日本軍は幌見峠にほとんど守備兵を配置しなかった[13]
  3. ^ 実際には少数の軽掩蓋や半田川護岸を利用した対戦車障害物程度で、湿潤なツンドラのため塹壕も不十分であった[26]
  4. ^ 在樺太海軍軍人で最高階級であるが、指揮系統外。

出典

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  2. ^ 中山(2001年)61頁。
  3. ^ a b c 江澤隆志『見捨てられた戦場』(株)洋泉社、2017年7月19日、123,124,126頁。 
  4. ^ 示村(1984年)、227-228頁。
  5. ^ a b 『北東方面陸軍作戦 (2)』420-422頁。
  6. ^ a b c d e f g h 『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇 [DVD]』NHKエンタープライズ、2018年7月27日。 
  7. ^ 中山(2001年)25-26頁。
  8. ^ a b 中山(2001年)84-87頁。
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  14. ^ 中山(2001年)、83-84頁。
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  18. ^ a b c d e NHKスペシャル取材班『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』(株)KADOKAWA、2019年10月25日、100,40,122,123,124頁。 
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  34. ^ 久堀(1993年)、57-59頁。
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  37. ^ 中山(2001年)、142-143頁。
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  55. ^ 厚生労働省 戦没者慰霊事業:樺太・千島戦没者慰霊碑(2012年2月17日閲覧)。
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  65. ^ 潮書房光人社発行「知られざる本土決戦南樺太終戦史―日本領南樺太十七日間の戦争」P.501。
  66. ^ 潮書房光人社発行「知られざる本土決戦南樺太終戦史―日本領南樺太十七日間の戦争」P.473。
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  79. ^ 半谷史郎 「サハリン朝鮮人のソ連社会統合―モスクワ共産党文書が語る1950年代半ばの一断面―」『21世紀COEプログラム研究報告集 No.5 ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(II)』 北海道大学スラブ研究センター、2004年。
  80. ^ 久堀(1992年)、44頁。

参考文献

  • 木俣滋郎 「ソ連潜水艦L19」『撃沈戦記 PART IV』 朝日ソノラマ、1993年。
  • 示村貞夫 『旭川第七師団』(覆刻版) 総北海、1984年。
  • ボリス・ニコラエヴィチ・スラヴィンスキー(著)、(加藤幸広)(訳) 『千島占領―一九四五年夏』 共同通信社、1993年。
  • (中山隆志) 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。
  • 函館市史編さん室(編) 『函館市史 通説編第4巻』 函館市、2002年。
  • 久堀通義 「白夜の北緯五十度線―樺太国境の海軍部隊による対ソ戦闘顛末記」『丸別冊 秘めたる戦記』 潮書房、1992年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『北東方面陸軍作戦(2)千島・樺太・北海道の防衛』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。
  • Cherevko, Kirill Evgen'evich (2003). Serp i Molot protiv Samurayskogo Mecha. Moscow: Veche. (ISBN 5-94538-328-7).
  • I.S. Danylenko, "The Great Patriotic War of 1941-1945", Military University of the Ministry of Defence of the Russian Federation, 2012, M. Kuchkovo pole, v.5

樺太の戦いを主題としたその他の書籍・映像作品

書籍

  • 藤村建雄 『知られざる本土決戦・南樺太終戦史―日本領南樺太十七日間の戦争』 (ISBN 978-4769816362)、潮書房光人社、2017年。

映像作品

関連項目

外部リンク

  • ふるさと樺太の記憶 地上戦の生々しい爪痕(NHK)

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