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樋口季一郎

樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年明治21年〉8月20日 - 1970年昭和45年〉10月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍中将[2]兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長ハルピン特務機関長、第9師団等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

樋口ひぐち 季一郎きいちろう
北部軍司令官時代の樋口(昭和18年頃)
生誕 1888年8月20日
日本兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)
死没 (1970-10-11) 1970年10月11日(82歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1906年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
勲章
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第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め[3]、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いキスカ島撤退作戦ソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い占守島の戦いなど)を行った[3]

経歴

生い立ち

1888年淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。

1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。

軍歴

1909年陸軍士官学校((第21期))に進む一方で東京外語学校ロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校((第30期))を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年ウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満洲ロシアソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。

1925年公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。

オトポール事件

 
ハルビン特務機関長時代の樋口
(1937年撮影)

1937年昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツ反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[4]。(この頃は、まだナチもユダヤ人絶滅を具体的な施策として考えていたわけではなく、単に欧州からのユダヤ人追放を意図していただけで、また、日本側にはユダヤ資本とユダヤ人を満洲国に導入できないかという河豚計画があった。)

そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。

極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[5]

その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[6]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[6]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[7]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[8]しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたユダヤ民族基金(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[9]

「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[11]。 2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、白石仁章はあまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視している[12]。 (松浦寛)はこの2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものとしている[13]。 早坂隆は、樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘している[14]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[15]。 松浦寛は当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[16]を追認している[13][13]満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[17]

樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[18]

この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[19]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[19]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[20]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[21]。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[22]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[23]

孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日にイスラエルテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマンの息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与されている[5][9][24]

ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織「ユダヤ民族基金」が管理する貢献者や献金者の名簿である[25][26][27]

太平洋戦争

太平洋戦争大東亜戦争)開戦翌年の1942年8月1日札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。

1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州アッツ島守備隊は玉砕したものの、キスカ島撤退は成功した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[28]

帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた[29]。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、(陸軍次官)の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[28]

同年10月2日には、札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪問し、藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕』に見入った[30]。1944年3月10日に、北海道に拠点を置く第五方面軍司令官を務め、南樺太や千島列島を担当地域に置いた。また1945年2月1日には兼北部軍管区司令官に就任した。

対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後

日本の降伏直前の1945年8月10日ソ連対日参戦が発生。8月16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き戦闘行動を停止するよう全軍に命じたが、北方の第5方面軍を指揮していた樋口季一郎中将は以降も南樺太(おそらく占守島等の千島列島も)におけるソ連軍への抗戦を命じ、戦闘を続けさせた。樋口は、ソ連の北海道等の日本本土占領を懸念、それによる赤化を恐れたという。

スターリンは、極東国際軍事裁判に際し当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。これについてノンフィクション作家の早坂隆は、樋口の経歴がウラジオストック特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官であったことから、ソ連によって『敵の大物』であり、とくに特務機関長であったことが大きいとしている[31]。彼自身、対ソ連の特務機関長であったことから、札幌方面軍総司令官として北海道にとどまらざるを得ない状況では、個人的にもソ連の北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。

世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まったともいわれる。日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[32][33][注 3]。冷戦が始まる中で米軍がロシア通として知られた樋口の情報網を利用したかったからとも、ユダヤ人らの運動の結果とも言われる。

晩年

1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁。さらに1947年宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた[3]

1970年東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町妙大寺

死後

樋口季一郎の孫で音楽学者の樋口隆一明治学院大学名誉教授が祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[34]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[35]。同じく孫の篠田江里子(札幌市議会議員)は静かにロシア語の本を読んでいたと回想している[3]

人物

年譜

 
背広姿の樋口

栄典

位階
勲章等

顕彰

 
樋口季一郎を顕彰して駐日イスラエル大使が寄贈したオリーブの樹の説明パネル(大垣市丸の内公園、2019年2月27日撮影)

平成21年(2009年)12月8日、樋口が岐阜県大垣市に約30年間本籍を置いていたことを知った駐日イスラエル大使から大垣市に対し2本のオリーブの苗木が贈呈され植樹式が執り行われる。また、樋口はユダヤ民族に貢献した人物を記したイスラエルの「ゴールデンブック」にも記載されている[44]

2020年9月、北海道石狩市・五の沢地区に記念館が開設された[45]。古民家を改築したホテルを経営する江崎幹夫が知人から樋口のことを教えられて敷地内の石蔵を記念館として提供することを決め、孫・樋口隆一に相談して了承を得た[3]

文献

著作

  • 「東京の防空に就て」『東京の防空 附・各都市防空法』帝国国防協会出版部、1932年5月、1-46頁。 NCID BA45754132。(全国書誌番号):(47011032)。 
  • 『アッツ キスカ 軍司令官の回想』芙蓉書房、1971年10月。 NCID BN14143511。(全国書誌番号):(73005961)。 
    • 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(新版)芙蓉書房出版、1999年4月。ISBN (9784829502266)。 NCID BA42001488。(全国書誌番号):(99095343)。 
    樋口自身の直筆原稿との照合の結果、書き換えられている部分があると指摘されており、参照には注意が必要[46]
    • 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』(復刻新版)啓文社書房、2022年9月。ISBN (9784899920809)。(全国書誌番号):(23730569)。 直筆原稿をもとにした新版
  • 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』樋口隆一編著、勉誠出版、2020年3月。ISBN (9784585222736)。 NCID BB30211298。(全国書誌番号):(23393203)。 

伝記

  • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社、1973年4月。 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社、1988年5月。ISBN (9784769800347)。 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年1月。ISBN (9784769820338)。 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社名作戦記 11〉、2003年8月。ISBN (9784769811114)。 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社〈光人社NF文庫 さN-33〉、2010年3月。ISBN (9784769820338)。 
  • 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎』文藝春秋文春新書 758〉、2010年6月。ISBN (9784166607587)。 
  • 木内是壽『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社文芸思潮出版部、2014年6月。ISBN (9784902985665)。 
  • 将口泰浩『アッツ島とキスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎と木村昌福』海竜社、2017年6月。ISBN (9784759315493)。 
    • 改題 『人道の将、樋口季一郎と木村昌福 アッツ島とキスカ島の戦い』潮書房光人新社〈光人社NF文庫 し1270〉、2022年7月。ISBN (9784769832706)。 
  • 岡部伸『至誠の日本インテリジェンス 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡』ワニブックス、2022年3月。ISBN (9784847071522)。 
    軍人3名の伝記で、他は小野寺信藤原岩市

関連項目

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 祖父である季一郎より当時の話を直接聞いていた孫の樋口隆一(音楽学者、明治学院大学名誉教授)は、正確な数字は「不詳」との立場であるが、「2万人」という難民の数は極東ユダヤ人協会の(アブラハム・カウフマン)会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」[10]と述べている。
  2. ^ 他にも伝記小説、相良俊輔『流氷の海』でも「2万人説」を唱えている。
  3. ^ 樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件は一件も起きていない。

出典

  1. ^ a b c 官報』1942年8月3日 叙任及辞令「昭和十七年八月一日 陸軍中将 正四位 勲一等 樋口季一郎 補北部軍司令官」
  2. ^ “ユダヤ難民救った樋口中将 北海道に銅像建立へ実行委設立”. 産経ニュース (2021年12月11日). 2021年12月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e 外岡秀俊【道しるべ】足元に埋もれた歴史に光『朝日新聞』朝刊2021年5月27日(新・木曜「カルチャー・考える」)2021年6月9日閲覧
  4. ^ “ユダヤ難民救う 樋口/ "もう一人の杉原千畝" ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)”. 丹波新聞 (2018年10月29日). 2019年4月2日閲覧。
  5. ^ a b [1] 満洲でもユダヤ難民救出=「ヒグチ・ルート」孫が講演-イスラエル[]
  6. ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136-137頁。 
  7. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136頁。 
  8. ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(大正出版、2000年)213頁。
  9. ^ a b Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor Wednesday, June 13, 2018KKL-JNF
  10. ^ 「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号
  11. ^ 貴族院第74回予算委員会(1939年)の2月23日の質疑では、有田八郎外務大臣が「何日頃のことかは不明だが、シベリア経由で満洲に入ったユダヤ人は80人強、100名には届いていないと記憶している」旨の答弁を行なっている(速記録のp.8最上段中ほど)
  12. ^ 歴史読本平成25年8月号 白石仁章「樋口季一郎とユダヤ人脈
  13. ^ a b c 松浦寛『日本人の〈ユダヤ人観〉変遷史』2016年、72-73頁。
  14. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。 
  15. ^ 正論』2016年3月号「忘れられた将軍・樋口季一郎と中国の対日歴史謀略」
  16. ^ JTB『観光文化』別冊特集「ユダヤ難民に"自由への道"をひらいた人々」
  17. ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版、2000年、218頁。
  18. ^ 樋口季一郎 - NPO法人 国際留学生協会 / 向学新聞 より。
  19. ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147頁。 
  20. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147-148頁。 
  21. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、14 8頁。 
  22. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、149頁。 
  23. ^ 樋口季一郎物語~中編~[]
  24. ^ “4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト (2019年8月10日). 2019年4月2日閲覧。
  25. ^ 『歴史街道』2012年(平成24年)4月号、PHP研究所、38頁
  26. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、155-161頁。 
  27. ^ Golden Book KKL-JNF
  28. ^ a b 藤井 2019, pp. 226–236, 第六章 - 陸海軍の確執がもたらした壮大なる破綻 - アッツとキスカの明暗
  29. ^ 秦 2005, p. 737, 第5部 陸海軍用語の解説-さ-三八式歩兵銃(陸軍)
  30. ^ 【五感紀行】藤田嗣治「アッツ島玉砕」『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2021年5月30日2面に写真で収録された同紙1943年10月3日夕刊記事「名畵に偲ぶ玉碎」による。
  31. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書〉、2010年6月18日、242頁。 
  32. ^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男”. 読売新聞. (2019年1月27日). p. 3. https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20190125-OYT8T50003/ 
  33. ^ “初の「玉砕戦」司令官/ "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは”. 丹波新聞. 丹波新聞 (2018年10月30日). 2019年4月2日閲覧。
  34. ^ Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor
  35. ^ 戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎 HiramekiTV
  36. ^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和7年9月1日調73ページに記載。
  37. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  38. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  39. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  40. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  41. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  42. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  43. ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
  44. ^ “もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将”. nippon.com. 2021年10月11日閲覧。
  45. ^ 「もう一人の杉原」樋口季一郎中将の記念館開館 北海道・石狩 産経ニュース(2020年9月15日)2021年1月14日閲覧
  46. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。 ほか

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 『(樋口季一郎)』 - コトバンク
  • 『(樋口 季一郎)』 - コトバンク
  • 一般社団法人 樋口季一郎中将顕彰会 ホームページ
  • 樋口季一郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
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