玉砕(ぎょくさい、旧字体: 玉碎)は、(玉)のように美しく砕け散ること、指導層が提唱する大義、名誉などに殉じて潔く死ぬこと[1]。大東亜戦争における日本軍部隊の殲滅[2]を表現する言葉として大本営発表で用いられた。対義語は、瓦全(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為に生き永らえること[3]。中国の古書「元景安伝」の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(勇士は瓦として無事に生き延びるより、むしろ玉となって砕けた方が良い)」を語源とする。
由来
「玉砕」、「瓦全」という言葉は、唐代に編纂された『北斉書』の列伝第三十三(元景安)に見える[4]。同書によれば、故事は以下のとおりである。
元景皓と元景安は、北魏の帝室「元」氏の血を引くいとこ同士であった(「景」が輩行字)。北魏が滅び、高洋が即位して北斉を建てると、「元」氏一族の多くは虐殺された。しかし、いち早く帰順し、武功を立てた景安は、北斉の帝室と同じ「高」姓を賜って北斉に仕えることを許された。「元」氏一族は、景安のように「高」姓を賜って生き永らえたいものだと話し合った。景皓は言った。「豈得棄本宗、逐他姓。大丈夫寧可玉砕、不能瓦全。」(どうして本来の宗族を捨て、別の姓を追い求めることができようか。立派な男子は、玉が砕けるように名誉・尊厳を保持したまま死ぬべきであり、名誉・尊厳を失って瓦のようなつまらないものとして一生を全うすることはできない。)と。景安がこの言葉を顕祖(高洋)に報告したところ、景皓はたちまち捕らえられて殺され、家族は彭城に移住させられた。景安だけが「高」姓を賜ったのはこのためである。
「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全。」は、「大丈夫はむしろ玉砕すべきも、瓦全するあたはず。」と書き下す。「大丈夫」は「立派な男子」という意味であり[5]、「寧」は比較・選択の意味の助字である[6]。立派な男子は「瓦全」するわけにはいかず、むしろ「玉砕」すべきであるという意味になる。
西郷隆盛はこの故事を踏まえて次の詩を書いた。
幾歴辛酸志始堅(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し)
丈夫玉砕恥甎全(丈夫は玉砕すとも甎全を恥ず)
また、1886年(明治19年)発表の軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)には以下の歌詞がある。
大東亜戦争
「玉砕」の始まり
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大東亜戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕であるが、軍隊内での文章などではそれ以前より使用例が見られる。
例えば、1942年(昭和17年)2月の(第一次バターン半島の戦い)では、木村部隊から師団司令部へ「第一大隊ハ玉砕セントス」との電文が送られている[7]。また、公刊戦史上は、1942年(昭和17年)12月8日にニューギニア戦線のゴナにおけるバサブア守備隊の玉砕を記録、続く連合軍の攻勢により、1943年(昭和18年)1月2日には同じニューギニア戦線でブナの陸海軍守備隊が玉砕したが、これらが国民に知らされたのは1944年(昭和19年)2月以降であった。
1943年(昭和18年)5月29日、アッツ島の日本軍守備隊が全滅した際、大本営発表として初めて「玉砕」の表現を使用した。これは「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くして「玉の如くに清く砕け散った」と印象付けようと意図したものであった。また補給路を絶たれて守備隊への効果的な援軍や補給ができないまま、結果的に「見殺し」にしてしまった軍上層部への責任論を回避させるものであった。
「アッツ島玉砕」では守備隊2,650名のうち、29名が捕虜になった。
玉砕と発表された戦い
総員壮烈なる戦死と発表された戦い
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 3月3日:南太平洋・ニューブリテン島バイエン
- 3月17日:硫黄島守備隊総員壮烈なる戦死
- 6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により総員壮烈なる斬込を敢行)
- 8月16日:牡丹江守備隊総員壮烈なる戦死
- 8月21日:占守島守備隊総員壮烈なる戦死
- 8月21日:桂柳守備隊総員壮烈なる戦死
- 8月25日:樺太守備隊総員壮烈なる戦死
- 8月26日:虎頭要塞守備隊総員壮烈なる戦死
- 9月5日:(満州守備隊総員壮烈なる戦死)
本土決戦と一億玉砕
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした[8]。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていた[9]が、これらの「一億」とは、当時日本の植民地であった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。
1944年(昭和19年)6月24日、大本営陸軍部戦争指導班は機密戦争日誌に以下の記載をした。
もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ — 半藤一利「聖断 ―昭和天皇と鈴木貫太郎―」PHP研究所 p269
1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した[10]。1945年(昭和20年)1月24日、近衛文麿は「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」と昭和天皇に警告した(近衛上奏文参照)。同年4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され[11]、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。
玉砕に類似する事例
- テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅
- マサダ砦でのユダヤ人の全滅
- アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅
- バリ島におけるププタン
- ズミイヌイ島攻撃(ロシア軍の攻撃に対し、ウクライナ軍による徹底抗戦の後、通信が途絶し、総員戦死が発表されたがのちに生存が確認されている。)
玉砕をテーマにした作品
脚注
- ^ “玉砕・玉摧”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年5月25日閲覧。
- ^ 軍事用語において、全滅とは、部隊の約3割(戦闘兵の約6割)を喪失したことを、壊滅とは、部隊の約5割(戦闘兵のほぼ全て)を喪失したことを、殲滅とは、部隊の10割(全部隊消滅)を喪失したことを意味する。
- ^ “瓦全”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年5月25日閲覧。
- ^ “北齊書/卷41”. 维基文库. 2020年7月4日閲覧。
- ^ “大丈夫”. コトバンク. 2020年7月4日閲覧。
- ^ “寧”. 漢字ペディア. 公益財団法人日本漢字能力検定協会. 2020年7月4日閲覧。
- ^ 陸戦史研究普及会(編) 『ルソン島進攻作戦―第二次世界大戦史』 原書房〈陸戦史集〉、1969年(昭和44年)、101頁
- ^ 「47都道府県「日本陸海軍」人物ファイル」(大東亜戦争研究会、2009年、PHP研究所)p290
- ^ 「図解日本史」(西東社編集部、2009年)p267
- ^ 「「聖断」虚構と昭和天皇」(纐纈厚、2006年、新日本出版社)p82
- ^ 「(一冊の本)」(扇谷正造、1976年、PHP出版)「戦艦大和の最後」の章
関連項目
外部リンク
- NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第6集(最終回) 一億玉砕への道 ~日ソ終戦工作~