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日本プロレス

日本プロレス(にほんプロレス、にっぽんプロレス)は、かつて存在した日本プロレス団体。日本プロレス界の祖・力道山が設立し、運営した。

興行会社としての日本プロレス興業株式会社業界組織としての日本プロレス協会ライセンス発行や選手権試合の管理、認定を行う日本プロレスコミッションからなっていた。

概要

大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山1953年、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作((生井一家)貸元で関東国粋会副幹事長だった鈴木栄太郎の子分。戦後に足を洗い新田建設経営者。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助、後見によって設立した。この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしている。テレビ中継は、日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)で定期中継されていたほか、NHK総合テレビでも力道山時代の初期に不定期放送されていた。1973年に興行団体としての機能を停止した。

「日本プロレス協会」及び「日本プロレス興業株式会社」の上に戴いていた「日本プロレスリングコミッショナー」には、自民党副総裁の大野伴睦川島正次郎らがいた[1][注釈 1]。このコミッショナーは「日本プロレス界全体の」コミッショナーで、東京プロレスなどからも認可申請が出されているが、実際に認可団体とされたのは日本プロレスだけであった。なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山が持つリキアパートの一室を事務所とするほどの関係だった[2]

一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場(後に全日本プロレスを創立)とアントニオ猪木(後に新日本プロレスを創立)も、1960年9月30日に日本プロレスで同時デビューしている。また、後に国際プロレスを創立した吉原功も日本プロレスの元プロレスラーだった[注釈 2]

歴史

1953年7月30日東京日本橋浪花町に設立された「日本プロレス協会」が母体となる。

力道山時代

大相撲廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。

1957年には世界ヘビー級王者であった"鉄人"ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。

テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールドリーグ戦を開催。グレート東郷をブッカーとして迎え、世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで『春の看板イベント』として14回行われた。1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。

力道山は1963年12月15日に死去した。

豊登時代

力道山の死後、グレート東郷はブッキング料を巡る対立でブッカーを解任され、ミスター・モトが新しいブッカーとなる[3]1964年1月10日には、力道山未亡人であった百田(田中)敬子が社長に就任する[4]。しかし同時期に豊登遠藤幸吉吉村道明芳の里の4人が「日本プロ・レスリング興業株式会社」を別途設立し、興行収入や日本テレビからの放映権収入は4人が設立した「日本プロ・レスリング興業株式会社」が手に入れることとなったと同時に、旧来の「日本プロレスリング興業株式会社」は力道山が残した膨大な負債を背負うことになった[4][注釈 3]

1964年までの「日本プロレス協会」役員の構成は、会長の児玉誉士夫、副会長の田岡一雄(3代目山口組組長)、町井久之東声会会長)となっており[4]、このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる[4]1965年に入ると、警察勢力はこの陣容に対して、日本プロレス協会の解体を迫ることとなり、これを受けて豊登ら4人は、1965年2月22日に記者会見を行い、役員を刷新することを発表した。これにより児玉、田岡、町井の3人は役員を退任し、協会長には元衆議院議員平井義一が就任する[4]。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった(工藤雷介)からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。

社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。同時期には斎藤昌典(マサ斎藤)杉山恒治(サンダー杉山)草津正武(草津清正、グレート草津)ら、大物アマチュアスポーツ選手も日プロに入団した[5]

大の博打好きの豊登は、公金を横領し、競馬や競輪などギャンブルへ流用するなど放漫経営などにより、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職(事実上の追放処分)となる[6]。豊登は猪木を引き抜いて東京プロレスを設立した。東京プロレス旗揚発表直後に日本プロレスは妨害工作を開始し、東京プロレスを短期間で崩壊に追い込むため、当時使用料が高額だった日本武道館でのプロレス初興行を開催し、武道館大会の目玉にフリッツ・フォン・エリックを招聘した[7]。東京プロレスは、日本プロレスによる妨害工作、テレビ中継が無いゆえの興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊し、猪木は日プロに復帰し、また永源勝(永源遙)などの一部選手は日プロへ移籍した。

また、取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立[注釈 4]が元で1966年10月に同社を退社して国際プロレスを設立し、1967年1月に旗揚げ戦が行われた。同じ日本プロレス退団組であるヒロ・マツダマティ鈴木、杉山恒治、草津正武、レフェリーのマンモス鈴木、(阿部修)、レフェリー兼リングアナウンサーの(竹下民夫)も加わり、豊登や木村政雄(ラッシャー木村)など一部の東京プロレス組も合流した。国際プロレスは二番手団体として日本プロレスと競合し、国際プロレスがブッカーとして招聘した東郷とも対立。その上日本プロレスは国際プロレスに対し、外国人レスラーの招聘ルートや後楽園ホールを使用不可[8]にするなどなどで妨害をかけ、国際プロレス団や全日本プロレス協会同様に解散に持ち込もうとした。

BI砲時代

1966年には、かねてから力道山の後継者と目された馬場が、復活したインターナショナル・ヘビー級王座を連続防衛し、エースとなる。1967年、東京プロレスから復帰した猪木とタッグを組み「BI砲」と呼ばれ、力道山死去で一時低迷した人気は、再び黄金期の人気を取り戻すようになる。

また、当時東京プロレスへ移っていた猪木の穴を埋めるべく、世界柔道選手権大会日本代表であった坂口征二を獲得。大木金太郎、吉村道明、山本小鉄星野勘太郎らが脇を固める充実した選手層を誇った。

日プロは長らく日本テレビが『三菱ダイヤモンド・アワープロレスリング中継』の番組名で中継していたが、NET(現:テレビ朝日)が参入を希望した。経営陣は収入面から歓迎したが、先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口の試合を放映しない」、「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となる。人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『ワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木、大木らを中心とした番組を組んだ。

崩壊

2局放送体制となり、巨額な放映権料や興行収益により経営は表向きは引き続き好調を維持していたが、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始める。一部の経営陣について「会社の金庫を勝手に開けて、そこから札束を鷲掴みにして、そのまま毎夜、銀座のバーに繰り出す」[9]、「幹部達はほとんど仕事もせず、自分達の給料を言い値で決めて、馬場や猪木よりも高い給料を貰っていた。」「莫大な収益にもかかわらず、放漫経営のために金庫に金がなく、経営は火の車だった」[10]、という逸話がある[注釈 5]1971年に、これを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。その結果、会社の乗っ取りを図ったとして猪木が除名された(詳しい経緯は(上田馬之助)の項を参照のこと)。

猪木は日プロ脱退組である山本小鉄、柴田勝久北沢幹之(魁勝司)木戸修藤波辰巳、レフェリーの ユセフ・トルコと共に1972年3月に新日本プロレスを創立し、豊登も新日本を助けるべく参戦した。日プロは、退団組の猪木や豊登などが参戦した新日本に対しても、国際同様に外国人招聘ルートなどで妨害をかけた。

猪木除名後の日プロは大木や坂口をNET中継(ワールドプロレスリング)向けの中心選手としてプッシュし、好カードをNETへ優先的に放送するよう手配したが、猪木時代のような視聴率をとる事が出来ず低迷。放送の中心であった猪木が除名されたため、目玉選手が日プロ側の都合でいなくなったことを盾にNETは1972年1月から必然的に馬場の試合中継を要求する。当時のプロレス中継は視聴率も高かったため「馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高かったので放送を打ち切ることはないだろう」「強行突破してしまえば、日本テレビも文句を言えまい」という意見が日本プロレスの幹部会で大勢を占めたため、NET中継をつなぎ止めるためにこれに応じた[11]。当初の約束を破り、なし崩し的に放送された坂口の試合やワールド大リーグ戦に対しては渋々ではあるが容認していた日本テレビだったが、絶対にしないで欲しいと念を押していたにもかかわらず、NETでの馬場の試合放映を認めた日本プロレスに対し、日本テレビだけでなく冠スポンサーの三菱電機も激怒し、「契約不履行」を理由に、1972年5月15日にはついに『日本プロレス中継』(最後の中継は5月12日の東京都体育館大会の生中継)を打ち切る事を正式発表した。その結果、日本プロレス中継は以降NETのみの放送となり、同年7月28日からは金曜にも『NET日本プロレスリング中継』のタイトルで放送を開始し、同年9月29日から『NET日本プロレスリング中継』に一本化された[注釈 6]

プロレス中継の打ち切りを決定した日本テレビは、極秘裏に報復手段に近い形で日本テレビと関係が近かった馬場に接触して馬場の独立を促し、それを受け馬場は日本テレビを後ろ盾に独立し8月に全日本プロレスを創立。同時に日本テレビの中継も『全日本プロレス中継』に移行する。全日本プロレスは、日本テレビだけでなく、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩、日本プロレスの若手選手であった百田光雄の力道山の両子息と、役員として未亡人の田中敬子が旗揚げに参加したことで、「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功。日本テレビと百田家がバックにつき、なおかつ外国人レスラーの招聘ルートも確保できた全日本に対し、日プロは過去に東京、国際、新日本へ行ったような、外国人レスラーの招聘ルートでの妨害や、後楽園ホール等の会場使用を不可にするような圧力をかけることができず[注釈 7]、全日本に対する妨害工作は失敗。その後、全日本は国際と交流を持ち、地盤をさらに固めていく。なお、日プロと選手の間には契約書が存在せず、給与その他についての取り決めは全て口約束で行われ、法的拘束力がなく、離脱を法的に止める手段は存在しなかった[注釈 8][12]

馬場と猪木という興行の二枚看板を失った日プロは一気に弱体化することになり、可能な限りの豪華な外国人レスラーを招聘するなど打開策を講じたが、観客動員やNETにおける視聴率の減少に歯止めはかからず、全日本が旗揚げした1972年10月以降はこの傾向が加速し、後楽園ホールにおける興行も全日本よりも観客数を下回るようになり、地方においても国際との興行戦争において、10月の都城、11月の札幌中島スポーツセンター愛知県体育館などで、それぞれ国際に惨敗してしまう[13][14][15][16][17][注釈 9]。この時期から交代で選手を4人から6人欠場させる事態に陥り、給料の遅配も発生し、若手や新人レスラーは食費にも事欠く有様で、アルバイトで生活費を稼がねばならない状況に追い込まれる。

このような状況の中、NETが中継打ち切りをちらつかせるようになると同時に[18]、NETは幹部や選手会に極秘で猪木と坂口との新日本プロレス中継開始に関する協議を開始した[19]。同時期には中堅選手のうち、星野勘太郎、永源遙、安達勝治(ミスター・ヒト)林牛之助(ミスター林)戸口正徳(タイガー戸口)の5人を海外武者修行に出発させた一方で、海外武者修行を行っていた高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)松岡巌鉄が日プロを救うべく緊急帰国した。猪木と坂口の会談を契機に、新日本と日プロを合併する方向で交渉が進められた。坂口によれば、NETが「猪木・新日本との合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出たため合併交渉が急速に進展し、日プロの選手会もグレート小鹿が窓口となりこれに同意したという[20]。その結果、1973年2月6日には両社による新団体設立の記者会見を京王プラザホテルで行なった。会見では、「新日本を発展解消し、合併後の新社名を新・日本プロレスとする」、「社長は猪木が、副社長は坂口がそれぞれ就任する」、「テレビ中継はNETテレビが行う」と発表した[19]

しかし、韓国に滞在していており、日本に不在であった日プロ選手会長の大木金太郎が決定に反発し、1973年2月16日に日本に戻り「ダイナミック・シリーズ」後楽園ホール大会の控室で大々的に「猪木と坂口との合体は聞いていない。合体話は猪木が日プロを乗っ取りを企んだことを認めることになり、絶対に反対だ」と記者陣に会見したことで[19]、一度は合併に承諾した選手会の総意を大半の選手とフロント勢が覆して大木の意見に賛同したため、合併は破談となる。一方のNETテレビは4月から新日本の中継を開始する方針に変わりはなかった[19]。坂口は大木ら選手会側から「裏切り者」扱いされた形で、木村聖裔(木村健悟)、小沢正志(キラー・カーン)、(大城勤(大城大五郎))とレフェリーの田中米太郎とともに同年3月8日の「ダイナミック・シリーズ」最終戦を最後に日プロを離脱し、新日本へ合流した。1973年3月9日には、NETが坂口らの移籍に合わせた形で『NET日本プロレスリング中継』を3月30日をもって打ち切ると同時に、翌週の4月6日から新日本プロレスの中継(『ワールドプロレスリング』へ再改題)へ移行することを正式発表したほか、メインレフェリーの沖識名も辞表を提出し退団した。NETテレビにおける日プロ中継打ち切り決定後に大木は菊池孝に対し「NETテレビは日プロを見捨てないだろう。新日本の中継を開始しても、NETのプロレス中継は日プロ・新日本の隔週となり、引き続き日本プロレスの試合を中継してくれると思う」と非常に甘い見通しを話しており[19]、フロント側も離脱した坂口に代わる主力選手として、高千穂明久を新たなUNヘビー級王者として売り出す方向性も見せていた[21]。だが、NETによるテレビ中継も、3月30日放送の「ダイナミック・シリーズ」最終戦佐野市民会館大会(打ち切り発表前日である同年3月8日に開催)の録画中継をもって打ち切られ、日プロはテレビ中継やそれに伴う放映権料を完全に失った。

テレビ中継に伴う放映権料を失ったことに加え、主力選手の離脱で観客動員も激減したことによる入場料の減収により会社経営も立ち行かなくなり、『アイアンクロー・シリーズ』開幕前に芳の里(長谷川淳三)社長は『NET日本プロレスリング中継』終了と同時に興行活動を断念する意向を示していたが、芳の里の方針に対して、大木ら選手会は『アイアンクロー・シリーズ』を6戦の日程で、各選手の貯金を取り崩して「選手会主催興行」として強行[19]。しかし、開幕戦の大阪府立体育会館大会(1973年4月13日、メインは大木vsフリッツのインターナショナル・ヘビー級選手権試合)が記録的な不入り(主催者発表は4,000人)に終わり、翌4月14日に池上本門寺で、『赤坂の日プロ』を法人として存続の上で力道山時代の債務を処理していた百田家の同席のもと解散記者会見を行った。第3戦後楽園ホール大会(1973年4月17日、メインは小鹿&松岡vsキラー・カール・クラップ&ジェリー・モンティのアジアタッグ選手権試合)も主催者発表で観衆1,000人という不入りとなり、4月18日には焼津市民体育館でインターナショナル・タッグ選手権試合(大木&上田vsフリッツ&クラップ)を、4月19日には横浜文化体育館UNヘビー級選手権試合(高千穂vsクラップ)をそれぞれこなしながらシリーズを消化し、4月20日の『アイアンクロー・シリーズ』最終戦群馬県吉井町体育館大会(メインイベントは大木&小鹿vsフリッツ&クラッシャー・リバース)をもって『渋谷の日プロ』は興行活動を停止し、所属選手と役員は形式的に百田家による『赤坂の日プロ』に合流した。

崩壊後

最後まで国内に残った大木ら9選手は、身柄を預けた形の『赤坂の日プロ』をクッションにして、1973年4月27日に赤坂プリンスホテルで全日本と合同記者会見を行い移籍したが、実際には日本テレビと1976年3月31日までの3年契約を結んだもので[注釈 10]、6月30日開幕の『'73サマー・アクション・シリーズ』から全日本プロレスへ派遣する形となった。国内に残留していた9選手の日本テレビとの契約内容には、日本テレビの許可なく新日本・国際への試合出場や移籍を禁止する条項が含まれていた(契約を途中で解除して新日本や国際へ移籍することも不可、日本テレビに無断で新日本や国際に出場もしくは移籍した場合は契約違反となった)。残党9名の内、高千穂明久、グレート小鹿羽田光男(ロッキー羽田)ミツ・ヒライ桜田一男伊藤正男の6人は日本テレビとの3年契約後、全日本に正式所属となった。

一方で大木、上田馬之助、松岡巌鉄の3人は全日本の体制に不満を示し[注釈 11]、日本テレビとの契約期間中に全日本を退団した。大木はその後『'74新春NWAシリーズ』以降を無断欠場した上で、契約違反を犯して新日本に参戦し猪木や坂口などと対戦した後全日本に復帰したが、1980年に国際の中継番組であった『国際プロレスアワー』を放送していた東京12チャンネル主導で国際に入団したものの(東京12チャンネルとの半年契約での入団)、入団に際して国際代表であった吉原と東京12チャンネルとの軋轢を生じさせ、崩壊後も保持して母国の韓国で防衛戦を行っていたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を、NWA非加盟団体であった国際で行ったため、全日本から抗議を受けたほか、NWAからベルト返上勧告を受けてしまい、その後東京12チャンネルからも契約を打ち切られた。上田と松岡の2人は『'73創立一周年記念ジャイアント・シリーズ』第3戦蔵前国技館大会(1973年10月9日)を以って海外武者修行から帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)と入れ替わるように退団し、契約適用外の海外へ活路を求めたが、上田は日本テレビとの契約満了後にフリーとなり後に国際や新日本などへ参戦して猪木やラッシャー木村などと対戦した一方で、松岡は上田と海外サーキット中に軋轢を生じてしまい、二度と日本のリングに上がることのないまま1974年末に廃業した。

ただし、崩壊前に海外武者修行へ出発し、なおかつ修行先で崩壊を迎えた星野勘太郎、永源遙、安達勝治、林牛之助、戸口正徳の5名は日本テレビとの専属契約対象外であったため、帰国後は星野と永源は新日本に、林は全日本にそれぞれ正式入団した他、安達と戸口は引き続き海外マットを主戦場とした。

また、興行休止で一旦途絶えた形となった管理タイトル、UNヘビー級王座、アジアヘビー級王座、アジアタッグ王座も、暫くの空白期間を経て、「復活」という形で全日本プロレスへ継承された。海外に流出していたインターナショナル・タッグ王座は、2年後の1975年、ジャイアント馬場・ジャンボ鶴田組が奪還して日本に定着。また、大木が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座は、1981年、大木の返上により全日本のタイトルとして「復活」した。力道山の死後に封印された日本ヘビー級王座のベルトは1992年に力道山にとって二所ノ関部屋の後輩でもある天龍源一郎により旗揚げされたWARにおける日本J1王座のベルトとして流用されている。

興行を失った後、「渋谷の日プロ」は会社組織としてしばらく存続し、社長だった芳の里は6年間NWA会員名簿にそれまで残されていた。その後活動実態がないことから、登記簿上「解散みなし」として1996年6月5日に解散したことになっている。一方の「赤坂の日プロ」は、百田(田中)敬子の個人事務所として存続した。

なお現在、日本プロレス出身で現役選手として活動しているのはセミリタイア状態を含め、グレート小鹿・藤波辰爾・百田光雄の3名である。

タイトル

NWA
アジア
日本
  • 日本ヘビー級王座
  • 日本ジュニアヘビー級王座
  • 日本ライトヘビー級王座
  • 日本タッグ王座
リーグ戦
選手権ルール
  • NWAルールに則った3本勝負で争われた。力道山時代は「61分3本勝負」であったが、なぜ「61分」だったかは諸説あり。力道山の死後は「60分」に変更。また、挑戦者が選手権者から2フォール奪った場合のみ選手権奪取となるが、それ以外の結果は選手権防衛となっていた(挑戦者が1本取った後に時間切れとなり2本目が取れなかったり、3本目が反則裁定だった場合も防衛)。

所属選手

国際プロレスの旗揚げメンバー
後に国際プロレスへ移籍
新日本プロレス旗揚げメンバー
1973年に新日本プロレスへ移籍
全日本プロレス旗揚げメンバー
最終所属選手
崩壊時海外武者修行を行っていた選手

留学生

  • ドナルド・タケシ[23]

スタッフ

レフェリー

リングアナウンサー

コーチ

来日外国人選手

試合中継

映画

参考文献

  • 『日本プロレス40年史』 日本スポーツ出版社
  • 『プロレス醜聞100連発!!』 日本スポーツ出版社 (ISBN 4-930943-10-8)
  • 週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.2』ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN (9784583621876)。 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN (9784583622699)。 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.10』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN (9784583622996)。 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.12』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN (9784583623252)。 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.18』ベースボール・マガジン社、2016年。ISBN (9784583624181)。 

注釈

  1. ^ 門茂男の著書によれば、門がコミッション事務局次長に就いた時点で「ライセンス発行が主たる業務であるはずのコミッション事務局には、ライセンス用の台紙や公印も何一つなかった」と既にコミッションの形骸化が始まっていたとしている。また、1979年に新日本プロレスと国際プロレスが「日本プロレスリングコミッショナー」として二階堂進を推戴した際、日本プロレスにおいて最後のコミッショナーとなっていた椎名悦三郎の秘書が、「コミッションの事務所も残してあるのに、こちらに断りがない」と激怒した、という話も門は著書で記している。
  2. ^ 徳光康之は「最狂超(スーパー)プロレスファン烈伝」で「力道山が木村政彦に完敗した世界」というパラレルワールドについて、「(現実における木村の団体同様)日本プロレスが消滅し日本プロレスを源流とする諸団体もすべて消滅、女子プロレスも力道山人気無しではやっていけないから消滅、すなわち日本からプロレスがなくなる」と描いている(その世界ではプロ柔道が現実のプロレスのような地位を占めている)。
  3. ^ 経営権を奪われた敬子は、当時赤坂にあったリキ・アパートに拠点を移したが、豊登・芳の里らも名義を変更しなかったために『日本プロレスリング興業株式会社』の名義が2箇所存在する事態となった。このため、当時の所在地から、負債を処理していた百田家の日本プロレスは『赤坂の日プロ』とも、興行活動を行っていた豊登・芳の里らの日本プロレスは『渋谷の日プロ』とも呼ばれる。
  4. ^ 取締役経理部長であった遠藤幸吉らとの対立に加え、リキ・スポーツパレスの売却問題がきっかけとなり他の幹部と衝突、退職に至った。
  5. ^ この他にも経営陣やスタッフの客に対して「試合を見せにいってやる」という傲慢な態度や、プロレスマスコミが改善案や希望を出しても聞き入れず無視する等の驕りを見せ、外人レスラーの招聘もブッカーに丸投げで自分たちでリサーチしないなど、この頃には様々な問題が出始めていた。
  6. ^ 当時のNETフルネット局はNETテレビ、北海道テレビ毎日放送広島ホームテレビ瀬戸内海放送九州朝日放送の6局と少なく、クロスネット局でも金曜20時台はメイン系列の番組をネットしていた地域がほとんどだった上、広島ホームテレビは名目上フルネット局でも金曜20時台をフジテレビの同時ネット枠としてプロレス中継を遅れネットとするなど非正規のクロスネット状態だったため(このため、NETテレビ・毎日放送の番組が系列外ながら資本関係が一部共通していた中国放送広島テレビ放送に回された例もあった)、ほとんどの地域は日本プロレス中継が録画中継へ移行する事になってしまった。
  7. ^ 日本プロレスはフリッツ・フォン・エリックら大物外国人選手やアメリカのプロモーターに対し、全日本プロレスへの協力をしないよう圧力をかけたが、馬場がアメリカでの武者修行時代に選手やプロモーターとの信頼関係が構築できていたことや、日本テレビが全面的にバックアップする姿勢を見せたため招聘ルートの妨害は失敗し、後楽園ホールに関しても、当時日本テレビが後楽園ホールとの間で年間スタジオ契約を結んでおり、形式上は日本テレビが借りた会場で、全日本プロレスを招聘して試合中継を行うという形にしていたため、日本プロレスが使用不可の圧力をかける事が出来なかった。
  8. ^ このような契約書が存在しない団体は日本プロレス以外にも、後のジャパンプロレス(所属選手は参戦していた全日本プロレスや日本テレビとの契約は存在していたが、一方でジャパンプロレスとの間では契約書を交わしていない)やW★INGプロモーションなどの例でも散見され、これらの団体でも選手の離脱を食い止められず、団体崩壊の一因にもなっている。
  9. ^ 都城大会が国際が10月2日、日プロが10月7日に、札幌大会が国際が11月1日、日プロが11月29日、名古屋大会が日プロが11月21日、国際が11月27日にそれぞれ開催。
  10. ^ 、馬場は大木らの受け入れについては難色を示した代わりに坂口を獲得しようとしたと言われているが、仲介役を果たした日本テレビの小林與三次社長や日本プロレス協会の理事であった楢橋渡衆議院議員、全日本の取締役を兼ねていた『赤坂の日プロ』社長の田中敬子ら百田家の意向、馬場もまだ日本プロレスの取締役を退任していなかったことなどもあり、受け入れることとなった。ただし、マッチメイクなどで子飼いの選手達と差別を行ったとされ、興行のポスターに移籍組で掲載されていたのは大木金太郎と高千穂明久だけであった。
  11. ^ 旧日プロの選手たちは、仲介者から今回の移籍は日プロと全日本との対等合併による移籍であり、両者は対等の立場であると言われていたが、実際は吸収合併であり、あからさまに差をつけられた事に対しての不満があったとも言われている。
  12. ^ この12月2日に行われたインターナショナル選手権のあと、力道山は12月6日に名古屋市金山体育館にて、豊登と保持したアジアタッグ選手権の防衛戦を行っている(vsザ・デストロイヤー&バディ・オースチン)。このアジアタッグ防衛戦は金曜20時の枠で生中継され、ゆえにこの中継に制作協力した名古屋テレビ放送は、社史に一貫して「力道山最後のテレビ中継は名古屋テレビが担当した」という旨を記している。ただし実際には、翌週12月13日にも金曜22時30分の枠で力道山出場の6人タッグマッチが放送され(力道山&グレート東郷&吉村道明vsイリオ・デ・パオロ&バディ・オースチン&ザ・デストロイヤー)、12月20日は力道山追善興行(豊登vsバディ・オースチン)が生中継されたものの、12月27日は「力道山想い出の奮戦集」、そして明けて1964年1月3日に、前出の12月2日のインターナショナル選手権試合が、関係者(豊登・松尾和子・川島正二郎)による座談会も交えて録画放送されたことから、放映順としては12月2日のインターナショナル選手権の方が「力道山最後のテレビ中継」ということになる。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ ホワイティング『東京アンダーワールド』角川書店 P101
  2. ^ ホワイティング『東京アンダーワールド』角川書店
  3. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』P72
  4. ^ a b c d e 『日本プロレス事件史 Vol.12』P70
  5. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』P73
  6. ^ (東京プロレス#豊登の日本プロレス追放 - 新団体旗揚げへの準備)を参照
  7. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』P45 - P50
  8. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.8』P39
  9. ^ 『プロレス醜聞100連発!!』P98 - P99
  10. ^ 『昭和40年男10月号増刊昭和プロレス大全』P22
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