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神武天皇即位紀元

西暦2023年
皇紀2683年

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年は西暦キリスト紀元)前660年とされている。

異称は皇紀(こうき)、神武紀元即位紀元皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)[1]等。

概説

 
オランダ領東インド(現・インドネシア)を統治した日本軍により発行された外國人居住登録宣誓證明書(身分証)複数の朱印に神武天皇即位紀元(皇紀)が使用されている

日本では明治5年(1872年)に神武天皇即位紀元を制定するまでは、紀年法として元号干支を使用(あるいはそれらを併用)しており、ある年を基準として経過年と遡及年により年を数える「紀元」という方法を用いてこなかった。明治維新後、政府西洋に倣って、暦法を改め太陽暦を採用するとともに、紀年法として紀元を使用することにした。

明治5年(1872年)、政府は太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告し、その6日後に神武天皇即位を紀元とすることを布告した[注 1](詳細は後節の「制定」を参照)。

ただし、神武天皇即位紀元の元年は西暦紀元前660年に相当するが、この根拠となっている『日本書紀』の紀年は信頼性に疑問符が付き、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことを歴史的事実とするには歴史的証拠に欠けるとされている(詳細は後節の「元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性」を参照)。

(戦前)、戦中(第二次世界大戦前)の日本では、単に「紀元」というと神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた[2]。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和期になってからである。他に第二次世界大戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

(戦後)(第二次世界大戦後)になると、単に「紀元」というと西暦を指す事も多い。戦後は神武天皇即位紀元はほとんど使用されなくなっており、政府の公文書でも用いられていない。しかし、明治時代に公布された法令の中に現在でも有効な法令があり、その中に、神武天皇即位紀元の記述がある法令が存在する[3](詳細は後節の「神武天皇即位紀元が使われている法令」を参照)。

現在では、一部の日本史日本文学などのアマチュア愛好家、神道関係者、居合道団体の一つである全日本居合道連盟などが使用している。

外国では、神武天皇即位紀元をグレゴリオ暦に換算した西暦紀元前660年2月11日を、初代天皇即位や日本国建国の「伝承的日付」「神話的日付」と位置付けていることがある[注 2]

江戸時代以前

水戸学者の藤田東湖は、天保11年(1840年)が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年から丁度2500年目にあたっていることから「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った[要出典]

津和野藩の国学者大国隆正安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで、西洋にキリスト紀元があることを指摘した上で、神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱している[4]。当時は開国攘夷か、尊皇佐幕かで大きく揺れていた時代であって、神武天皇即位からの年数をかぞえる紀年法(紀元)は尊皇思想と結びついていた[5]

制定まで

王政復古後、いわゆる一世一元の詔により改元と「一世一元の制」が実現した。明治2年(1869年4月刑法官権判事津田真道集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議している。津田は年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいのでこれを廃して紀元を採用すべきだとした。また、西洋のキリスト生誕紀元(西暦)やイスラームヒジュラ紀元ユダヤ教天地開闢紀元などいくつかの紀元を例に挙げ、日本も独自の紀元を設けて、以降はそれを使い続けるべきだとした。そしてその我が国独自の紀元として神武天皇即位を紀元とすべきだと主張した[5]

制定

神武天皇即位を紀元とすることは「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)[6][注 3]公布の6日後に「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[注 4]で布告された。

今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[注 5]参朝可憚事 — 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治五年太政官布告第三百四十二号)[7][注 6]

口語訳するに「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布され、神武天皇の御即位を紀元と定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典が執り行われることになった(ので参内する資格のある者は出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」となる。文面からもわかるように神武天皇即位紀元がいつのことであるのかの具体的な数字は無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている。布告の主旨は、天皇臨席のもとで開かれる、改暦と神武天皇即位紀元の制定を記念する式典の開催を通知することであった。

公文書では、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年11月外務省から各国公使領事へ通知した文書に「明治六年 神武紀元二千五百三十三年」と見える[8]

制定後

神武天皇即位紀元を制定した後、文書の日付の書き方をどのように統一するのか(年号を廃して紀元一本とするのか、年号と併用するのか、その場合にどちらを主とするか、など)という懸案事項が残った。政府は神武天皇即位紀元の制定から時を隔てず、明治6年(1873年1月9日左院に紀元と年号の問題を審議させたところ、左院の回答は

  1. 紀元が制定されたからには年号の使用は考えられない。年号の使用は公私ともにこれを禁止すべきだ。
  2. 正式の表記は「二千五百三十三年」のように、略式は「二五三三年」のように記す。

というものであった。政府があらためて年号と紀元の併用を方針として再度下問したところ「(年号と紀元の併用に)異議無し」との回答が得られた[5]

明治時代に政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定した。それによると最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになった[5]

元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性

元年を西暦紀元前660年とする根拠

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に次のような記述がある。

「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」

読み下し文(辛酉年)かのととり春正月はるむつき庚辰かのえたつ()ついたち天皇すめらみこと橿原宮かしはらのみやに於いて即帝位あまつひつぎしろしめす。是歳ことし天皇元年すめらみことはじめのとしと爲す)

— 『日本書紀』卷第三 神日本磐余彦天皇

ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。

『日本書紀』の紀年法は、誕生から東征開始まで神武天皇の年齢で記された45年間、干支で記された神武東征の7年間、元号を用いた時代(大化白雉朱鳥)以外はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の死去の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年[注 7]を干支で表している[注 8]。『日本書紀』のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる。

外国の歴史書では(『宋史』日本国伝)(『宋史』卷491 列傳第250 外國7日本國[9])に「彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、ここでは神武天皇の即位年は僖王の時代[注 9]甲寅紀元前667年)としている[注 10][注 11]。一方、三善清行革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし[注 12]、これは僖王3年に当たると述べている[10]

明治維新後、前述のように神武天皇即位が紀元と定められ、上記の『日本書紀』の記述に基づいて紀元と元号との対応関係が規定され、公文書などに用いられることとなった。また、神武天皇が即位したとされる「辛酉年春正月庚辰朔」はグレゴリオ暦の紀元前660年2月11日に比定された[注 13]。これに基づいて政府は「年中祭日祝日休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第334号)[11]で2月11日を紀元節と定めた(詳細は「紀元節」を参照)。

年代の妥当性

しかしながら『日本書紀』の記述を素朴に信頼し、神武天皇の即位を西暦紀元前660年にあたる年とすることには江戸時代から批判がなされてきた。たとえば、藤貞幹は『衝口発』[注 14]で、神武天皇元年辛酉は恵王17年(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に符合しないことを述べた[12]

神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすることを否定する根拠の一つに『古事記』や『日本書紀』において初期の天皇の在位年数が不自然に長く、年齢も非現実的な長寿とされていることが挙げられる。

考古学の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年(平成15年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる[注 15]。弥生時代前期にはまだ古墳は一般的でない。

寺沢薫卑弥呼即位を3世紀初頭と見て「列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない」とし、東遷の史実性には限定的ながら理解を示すが、年代は大幅に修正している[13][注 16]

辛酉革命説

なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命[注 17]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 18]詳細は(辛酉#辛酉の年)を参照)。

辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世は、古代史上で大変革の年であった推古天皇9年(601年)から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『(上世年紀考)』で「皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子大政ヲ取リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ憲法ヲ定メ」と述べている。1260年というのは60年を「1元」、21元(1260年)を1蔀(ほう)として、1蔀ごとに大いに天命が改まるという讖緯家の思想によるものである[14]

さらに有坂隆道は『古代史を解く鍵 暦と高松塚古墳』で、推古9年は革命とは無縁の平穏な年であったとして、天武天皇10年(681年)から1340年遡った年を神武紀年としたと論じた。天武10年は天皇が「帝紀及び上古の諸事を記し定め」させると詔した年であり、わが国初の正史編纂という画期的な年を基準としたというのである。1340という数字は当時最新の暦であった儀鳳暦の周数(総法。天文の運行などを循環する数字で表したもの)であり、紀元前660年は天武10年から1340年遡った年であることから紀元として定められたという[15]

神武天皇即位紀元が使われている法令

「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(明治5年太政官布告第337号、いわゆる「改暦ノ布告」)では、閏年については4年毎に閏年があることしか述べておらず、維新後の混乱の中たった一箇月の猶予期間で実施された日本の新しい暦は、本来のグレゴリオ暦ならば存在すべきである、閏年の100年と400年の規則を欠いていた。これを受けて「閏年ニ関スル件」(明治31年勅令第90号)[注 19]により正しく閏年を置くように補正した[16]。ここでは神武天皇即位紀元を基に閏年を算定する旨が書かれている。

神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ其ノ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス — 「閏年ニ関スル件」(明治三十一年勅令第九十号)[17]

紀元2600年記念行事

制式名など

昭和に入って以降、第二次大戦中まで、日本の陸海軍(旧日本軍)が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。

航空機を例に取ると「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば「零式三座水上偵察機」「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。

陸軍

大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(西暦1927年、昭和2年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌年(1928年・昭和3年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機一〇〇式司令部偵察機一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。

皇紀2601年(西暦1941年・昭和16年)以降は、例えば一式戦闘機(通称)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。

銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」「一式機動四十七粍速射砲」など)。

また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた。例:明治38年(1905年)採用を示す「三八式歩兵銃」など。

海軍

大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(西暦1929年・昭和4年)採用であることを示す「八九式飛行艇」「八九式艦上攻撃機」より使用されている。ただ、実際には両機とも皇紀2592年(西暦1932年・昭和7年)に制式採用。それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。

また、海軍では皇紀2602年(西暦1942年・昭和17年)の「二式水上戦闘機」「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め「紫電」「彩雲」「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。

なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については「十二試艦上戦闘機」「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。

戦後に皇紀が用いられた例

ニコン

日本光学が戦後に試作から初めて製造した「ニコン」(ニコンI型)に始まるカメラの個体に付けられた製品番号(シリアル番号)は、先頭が「6」から始まる。これはI型の出図が皇紀2606年(昭和21年・西暦1946年)9月であったことから「609」で始まる番号をI型試作品に付けたことに始まる[18]

安田生命保険

安田生命保険が1970年(昭和45年)ごろにコンピュータによる個人情報管理のシステムを構築したとき、作業に携わった技術者たちは、西暦1900年(明治33年)を「00年」として年を処理すると、顧客の生年月日など西暦1899年(明治32年)以前の情報の処理に不都合が生じることに気づき、あえて西暦の使用を避けて、皇紀2600年(西暦1940年・昭和15年)を「00年」として用い、さらに負の数を皇紀2500年(西暦1840年天保11年)までの100年分を処理することのできるパック10進数を採用することにした。この結果、偶然ではあるが、2000年問題の影響を回避することができたと言われる。実際に2000年問題で安田生命保険の業務になんらかの支障や影響が生じたかどうかは公表されていない[19][20]

インドネシア独立宣言文

 
10万ルピア紙幣に印刷された独立宣言 右端に「05」の数字が見える

1945年(昭和20年・皇紀2605年)8月17日インドネシア独立スカルノおよびモハマッド・ハッタによって宣言された。

大日本帝国軍政下のインドネシアでは、皇紀が使われていた(元号は用いられていなかった)。また、インドネシア独立宣言草案は、大日本帝国軍政時代に設置された独立準備委員会において起草、採択された。これは解放後に成立したもので、既に日本の影響力はなくなっていたが、インドネシア独立宣言の日付は、皇紀2605年の下2桁と同じ、「05年」と記載されている[21][注 20]。スカルノの母はバリ島出身であり、皇紀は I Ketut Bangbang Gede Rawi(生没年1910-1989)が創始した市販の『バリ暦』にはバリ暦(ウク暦、サカ暦)、西暦、回暦(ヒジュラ暦)、干支、農暦(旧暦)、ウィンドウと共に併記されていた。

1998年平成10年)に今井敬経団連会長(当時)がインドネシアのユスフ・ハビビ大統領と会談した[22]際に、ハビビが今井に独立宣言を見せて、日付の年が「05」となっているのは日本の皇紀2605年だと説明した[23]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」が使用されている。 『太陽暦. 明治6年(1873年)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、北畠茂兵衞・製本、1872年(明治5年)
  2. ^ たとえば、CIA(アメリカ中央情報局)が発行している『ザ・ワールド・ファクトブック』のうち、「独立」の項目には、1947年5月3日(日本国憲法施行日)と、1890年11月29日(立憲君主制を規定した明治憲法の施行日)と、紀元前660年2月11日(神武天皇によって建国された神話的日付)の三つの日付が記されている。
    CIA (2019年). “The World Factbook”. CIA. 2019年4月13日閲覧。
  3. ^ 明治5年11月9日(1872年12月9日)公布。
  4. ^ 明治5年11月15日(1872年12月15日)公布。
  5. ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
  6. ^ この太政官布告の効力については、第87回国会衆議院内閣委員会(昭和54年4月11日)において、(政府委員)は、「現在のところで法律としての効力を持っているかどうかということは、なお検討する余地があるのではなかろうか」と答弁している。レファレンス協同データベース
  7. ^ 『日本書紀』では(踰年称元法)を用いており、ほとんどの場合、天皇の即位の翌年を元年としている。
  8. ^ 中国では後漢建武26年(西暦50年)以前は、太歳の天球上の位置に基づいて干支を定める太歳紀年法が用いられており、60年周期の干支を1年ごとに進めていく干支紀年法が用いられるようになったのはそれ以降である(詳細は「(干支#干支による紀年)」を参照)。しかし、『日本書紀』では干支は60年1周期の干支紀年法を用いており、これを初出の神武天皇即位前紀まで遡って適用している。
  9. ^ 史記』に基づくと釐王(僖王)の在位は西暦紀元前681年 - 紀元前677年、『春秋左氏伝』に基づくと紀元前682 - 678年とされる。
  10. ^ 『日本書紀』では神武天皇が日向を出発した年が甲寅となっている。
  11. ^ 『宋史』のこの記述は奝然太宗に献上した『王年代紀』に基づいている。
  12. ^ 三善清行は西暦紀元前660年にあたる年を想定していると考えられる。
  13. ^ 江戸時代にはすでに渋川春海が「辛酉年春正月庚辰」を暦法上特定し、これが「()」にあたることを明らかにしている(日本長暦』を参照)。
  14. ^ 天明元年(1781年)刊
  15. ^ 考古学では古墳の出現年代などからヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされている。ただし、初期の天皇(神武天皇を含む)の実在性や即位年代などは諸説あり、ヤマト王権と神武天皇との関係は未だに結論が出るに至っていない(詳細は神武天皇を参照)。
  16. ^ 寺沢は続けて「しかし、それはイト倭国の権力中枢がそのまま東遷したのでもないし、まして東征などはありえない」としている。
  17. ^ 辛酉の年には社会的変革が起こるとする讖緯説の一つ。三革説((甲子革令)、戊辰革運、(辛酉革命))として日本に伝えられた。三革説は、これらの年に改元が行われる、十七条憲法の発布が甲子の年とされるなどの影響があった。
  18. ^ 伴信友那珂通世飯島忠夫有坂隆道岡田英弘などがこの説を展開した。
  19. ^ 明治31年(1898年)5月10日公布。
  20. ^ 現在では、インドネシアのカレンダーや公文書や歴史教科書には西暦が使われている。

出典

  1. ^ 東方年表』を参照。
  2. ^ アジア歴史資料センター 収蔵資料一覧、国立公文書館アジア歴史資料センター
  3. ^ 法制執務コラム集「うるう年をめぐる法令」、参議院法制局
  4. ^ 西尾市立図書館蔵岩瀬文庫『本学挙要』コマ番号46/211
  5. ^ a b c d 岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年
  6. ^ 太政類典第二編・明治四年~明治十年・第二巻
  7. ^ 『法令全書. 明治6年(1873年)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、内閣官報局編
  8. ^ 「本邦ニ於テ陰暦ヲ太陽暦ニ改正ノ旨各国公使ヘ通知一件」 アジア歴史資料センター Ref.B12082109900 (外務省外交史料館)
  9. ^   脱脱. 宋史/卷491#日本國. - . 
  10. ^ 革命勘文 - 『群書類従』「巻第四百六十一」(コマ番号92/156)- 国立国会図書館デジタルコレクション
  11. ^ 法令全書.明治6年 - 国立国会デジタルコレクション[1]
  12. ^ 『衝口発』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号6/36)
  13. ^ 寺沢薫『王権誕生』講談社学術文庫、2008年、(ISBN 9784062919029)、269頁
  14. ^ 『中公文庫 日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞著 1973年
  15. ^ 『暦で読み解く古代天皇の謎』(大平裕)著 2015年
  16. ^ 長沢工『天文台の電話番』地人書館、2001年、61頁。ISBN (4-8052-0673-X)。 
  17. ^ 『官報第四千四百五十六号』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  18. ^ 荒川龍彦『明るい暗箱』朝日ソノラマ、1975年、10頁。 NCID BN15095276。 
  19. ^ 「天声人語」『朝日新聞』1999年2月22日付朝刊、1面
  20. ^ 坂本英樹「皇紀を採用した安田生命保険の先見の明」(坂本英樹の繋いで稼ぐBtoBマーケティング):ITmedia オルタナティブ・ブログ」 2014年7月5日閲覧
  21. ^ 用例.jp インドネシア独立宣言
  22. ^ じゃかるた新聞2002年4月5日
  23. ^ 私の履歴書」 今井敬 第24回 国際親善 日本経済新聞 2012年9月25日[2]

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 『明治五年太政官布告第三百四十二号』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件) - e-Gov法令検索
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