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三韓

三韓(さんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀頃にかけて存在したとされる朝鮮半島南部の3つの部族連合で、馬韓、辰韓、弁韓を指す。

三韓
各種表記
ハングル 삼한
漢字 三韓
発音 サマ
(サ
日本語読み: さんかん
2000年式MR式 Samhan
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概要

7世紀頃からは 高句麗・百済・新羅三国を指す名称として意味が拡張して使われた。「三韓」という名称は、新羅が朝鮮半島を統一した後、中国では高句麗、新羅、百済の三国を三韓と呼んだ例[1]がある。

三韓という言葉は中国の古典『後漢書』に初めて登場した。 三韓の正確な位置については議論がある。 時代に伴って南北の境界線も絶えず変化してきた。 後漢書では、韓三国の領土がすべて辰国であると記している。

魏略』には、「《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相曆谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戶,亦與朝鮮貢蕃不相往來。(→衛満の孫の右渠王漢武帝の侵略を受ける前に、朝鮮相と歴谿卿は右渠王を諌めたが用いられず、東側にある辰国に亡命したが、その時民のうちで隨う者が2,000余戸もあったという。その後、衛氏朝鮮との関係を絶った。)」と記している[2]

紀元前221年、始皇帝によって中国に異変が起こると、などの多くの国の民が朝鮮に避難し、そこで定着する。

馬韓

「慕韓」ともいう。馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。ほぼ後の百済、現在の忠清北道忠清南道に相当する。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。

1145年に成立した朝鮮史書『三国史記』は、百済が建国してまもない紀元前6年、ほぼ今の錦江が百済と馬韓の国境だったが、9年、百済は馬韓を滅ぼしてその全領土を併合した、とする。

313年高句麗によって帯方郡が滅亡すると百済は強大化し、馬韓の北部から現京畿道にかけての地域を支配して漢城に都をおき、はじめて百済王余句が中国に朝貢した。 後漢書では、韓三国の領土がすべて辰国であると記している。

辰韓

辰韓は古の辰国である。「秦韓」とも書かれ、からの移民ともいわれる。12カ国に分かれていた。現在の慶尚道及び江原道南部の地域である。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた[3]。辰韓の12カ国は辰王に属していたが、辰王は馬韓人であった。後漢書では、韓三国の領土がすべて辰国であると記している。

弁韓

12カ国に分かれていてそれぞれ王がいた。大雑把にのちの任那、現在の全羅南道の東部から慶尚南道の西部である。後漢書では、韓三国の領土がすべて辰国であると記している。

備考

  • 三韓の国内は諸小国に分立していたが、それぞれの諸小国には首長がおり、大きな首長を臣智といい、それに次ぐものを邑借と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[4]
  • 南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高句麗三国を三韓と呼ぶ例があり[1]、朝鮮半島でも統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで三国を三韓と見て、自国を三韓と呼んだ。
  • 現在のような三韓論を主張したのは韓百謙が最初であり、(実学者)たちによって定立された。

脚注

  1. ^ a b 魏書』陽固伝「東を遊覧しながら三韓を眺めた。」
  2. ^
    《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相曆谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戶,亦與朝鮮貢蕃不相往來。 — 三国志、魏書三十
  3. ^ 北史』新羅伝「其言語名物、有似中國人」という記述がある。『後漢書』『三国志』辰韓伝によれば、辰韓は秦の移民の子孫であるとする。
  4. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、18頁。ISBN (978-4000029032)。 

関連項目

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