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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(とうきょう・さいたま れんぞくようじょゆうかいさつじんじけん)とは、1988年昭和63年)から翌1989年平成元年)にかけて相次いで発生した、幼女4人を対象とした一連の誘拐殺人事件。警察庁広域重要指定事件117号。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定117号事件
場所 日本東京都北西部、埼玉県南西部
日付 1988年 - 1989年
死亡者 幼女4人
犯人 宮崎勤
容疑 誘拐・殺人・死体遺棄
対処 逮捕・起訴
謝罪 なし
刑事訴訟 死刑執行済み
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被害者の遺骨を遺族に送りつける、犯行声明を新聞社に送りつけるなど、不可解な行動を犯人がとったことで、メディアによる報道が過熱。犯人逮捕後も、犯人の趣味嗜好などが大きく取り上げられ、「おたく」という呼称・言葉が広く周知されるきっかけとなった。当時としては異例の2度の正式な精神鑑定が行われた事件でもある。

犯人の名前から、「宮崎事件」「宮崎勤事件」「M君事件」などと呼ばれる。犯人だけでなく、被害者の名前も実名で報道された事件であるが、本項では一人目の被害者を女児A、二人目を女児B、三人目を女児C、四人目を女児Dと表記する。

犯人

事件

1988年8月22日埼玉県入間市春日町で四歳の女児Aが行方不明になった。両親は「娘が帰ってこない」と警察に通報。翌23日以降、大々的な捜索が行われ、周辺の聞き込みから埼玉県警は誘拐事件も視野に捜査を進めたが、犯人からの連絡はなく、遺体も発見されなかった。その後、同年10月3日に七歳の女児B、12月9日に四歳の女児Cが相次いで行方不明になった。同月15日に同県名栗村の雑木林の中で女児Cの遺体が発見された。同県警は本件を誘拐殺人死体遺棄事件と断定した[1]

翌1989年2月6日、女児Aの自宅玄関前に段ボール箱が置かれており、中には焼かれた人骨片と歯が入っていた。埼玉県警は箱に入っていた歯の鑑定を東京歯科大学に依頼し、一度は女児Aのものではないと発表したが、後に女児A本人のものと断定した。同月10日と11日に「今田勇子」[注釈 1]の名で、朝日新聞東京本社と女児A宅に犯行声明と女児Aが写ったインスタント写真が郵送された。犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全て女児Aの骨である、と主張するものだった。朝日新聞社に添付された写真が女児A本人と確認され、当時女児Aが履いていたサンダルの絵柄など犯人しか知りえない事実が記載されていることから、同県警は声明文を犯人が書いたものと断定した。

同年6月6日、東京都江東区で五歳の女児Dが行方不明になった。同月11日、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され、同月13日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した[2]

犯人の逮捕

1989年7月23日宮崎勤が、東京都八王子市美山町で、別件のわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に取り押さえられ(私人逮捕)、八王子警察署現行犯逮捕された。東京地検八王子支部は8月7日、宮崎をわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴し、同月9日に宮崎は女児Dの殺害を自供[3]。翌10日、自供通り奥多摩町の山中で女児Dの頭蓋骨が発見され、11日に宮崎を未成年誘拐殺人死体遺棄の容疑で再逮捕した[4]

宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の捜査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像が発見された。

宮崎は当初、埼玉県で起きた3つの誘拐事件の関連については否定していたが、9月にかけて4つの事件への関与を自供し、9月2日に東京地検は宮崎を誘拐、殺人、死体損壊・遺棄罪で起訴した[5]

裁判から死刑執行まで

第一審
1997年4月14日東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合にもっともうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮崎勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(雑誌『』2006年1月号)と宮崎の名を使ったことに対し痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却[6]

死刑執行

2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[7]。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との対面後に、処置については拘置所に任せたという[8]

動機

事件の奇異さからさまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

鑑定にあたった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人を諦めて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず…幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

宮崎は、1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。その結果「精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されたことから、これを受けて検察は起訴に踏み切っている。

公判開始後の1992年12月18日より、弁護側の依頼で3人の鑑定医による3度目(公判開始後は2回目)の再鑑定が始まる。1994年12月に鑑定書が提出される。その鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出している。

影響

オタクバッシング

宮崎がいわゆるおたくロリコンホラーマニアとして報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じた。宮崎が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影し、膨大なコレクションのビデオテープの中に隠し持っていたことから、おたくは現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだなどとされた。

この事件により「有害コミック騒動」が活発化してアニメ・漫画・ゲームなどが青少年に悪影響を及ぼすとする風潮が高まり、マスコミやPTAなどでの議論となった。これら議論では、事件の代表格である「幼女連続誘拐事件」が槍玉に挙げられた。

宮崎勤が第1の事件を供述して以降、NHKや民放のテレビの報道・ワイドショー番組は連日、連続幼女誘拐殺人事件関連の報道を大々的に伝えた。その直前、海部俊樹が第76代内閣総理大臣に就任し、第1次海部内閣が発足したばかりだったが、宮崎が第2・第3の事件の供述をしたことから、事件の経緯を検証する形で誘拐殺人事件報道を優先していた。民放各局のワイドショーは8月下旬まで、連日30分〜1時間(場合により2時間も)程度で誘拐殺人事件関連の話題を優先していた。

当時の報道では、後のオウム事件以降顕著になった報道のワイドショー化、マス・ヒステリーが激化。これらは80年代サブカル文化人にとっての「連合赤軍事件」となり、これ以降大塚英志などのサブカル文化人が「社会派」に転じる動きが起きた[9]

8月26日礼宮文仁親王(現・秋篠宮)が川嶋紀子との婚約を発表してからは、事件報道の扱いが次第に縮小されていった。

「10万人の宮崎勤」デマ

コミケ会場を取材したあるテレビ番組のレポーターが来場者を前に「ここに10万人の宮崎勤がいます!」と言った、という噂が2000年代にWikipediaを含むネット空間で真偽不明のまま広まった。ライターの石動竜仁が2017年に行った調査によると、事件発覚当時、新聞や週刊誌などで似たような記述は多くみられたが、「10万人の宮崎勤」という文言は使われていなかった[10]。また「10万人の宮崎勤」をテレビで見たという証言は多数あり、中には発言者が東海林のり子であると名指しするものもあった((東海林のり子#「10万人の宮崎勤」デマ被害)を参照)が、報じた局、レポーターの名前・性別、状況がみなバラバラであり、噂と一致する映像は確認できなかったという。石動によれば、2004年9月に発売されたとある雑誌に掲載されていた漫画の中で「10万人の宮崎勤」発言をネタにしたシーンがあり、これ以降、ネットで噂が大きく広がったとしている[10]

ホラー作品

宮崎の部屋から押収された大量のビデオテープの中に、『(ギニーピッグ2 血肉の華)』が含まれていたと報道されると、この作品に影響されて犯行に至ったという解釈が世間に広まり『ギニーピッグ』シリーズは全作品が廃盤となった。しかし実際に部屋から押収されたのは全編コメディ調の『ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん』であり、宮崎は『ギニーピッグ2』を見ていないと供述している。しかしながらこの影響で宮崎の逮捕後しばらく、ホラー映画のテレビ放送が自粛された。

ポルノ作品

この事件後、1989年あたりから創作物における性的描写に規制が強まった。少年漫画などで女性の裸体を表現する場面で乳首が見えないように修正を施されたのもこのころからである。青年誌では『ANGEL』などの人気作品が連載中止となった。

当時この事件の取材をしていた(木村透)は、偏向報道があったと「読売ウイークリー」のブログ2005年11月21日)にて主張している(当該エントリーはすぐに削除された。関連記事)。削除されたエントリーで木村は、民放カメラマンが部屋の隅に数十冊あった雑誌のうち、成人向け書籍を一番上に乗せて撮影するという行為があったと主張している[注釈 2]。5,787本という膨大なビデオテープの大半は『男どアホウ甲子園』や『ドカベン』など大量のアニメ作品の録画テープが占めており、いかがわしいビデオや幼女関連のビデオ作品は44本に過ぎなかった。

これらのテープのほとんどは一般のテレビ放送を録画したものや、そのテレビ録画がマニアによってダビングされたもので、これらは文通などの方法で交換されたものという話がある。当時の報道によれば、こういったマニア間でのテレビ録画したダビングビデオの交換は方々で行われていたが、宮崎はこの交換で望みのテープを入手する際に、相手への返礼が十分でなく、遅延するトラブルもあったという。また宮崎が自分の欲しい作品をどんどん入手する反面、相手の頼みはできるだけ断るという態度を取ったため、宮崎を除名したサークルもあった。またサークルのメンバーからは、宮崎は「完録マニア」(全話を録画しないと気がすまないタイプ)であり子どもっぽいとの印象も持たれていた。

小児児童への影響

この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり、保護者が子どもをめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。

テレビの幼児番組などでも、児童(女児)の裸・下着が画面に映ることを避けるようになった。さらに、宮崎が年少のころより動物に対して残虐な行為を行っていたという報告もあり、動物虐待行為がこれらの犯罪行為の予兆であると考える向きもある。

その他の影響

事件当時、フジテレビで放送中のアニメ『らんま1/2』において、8月19日放送予定だった 第14話「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」が誘拐を連想させるとして急遽放送内容を差し替え、後日放送予定だったアニメオリジナルエピソードの回を放送したが、その話の回想シーンにまだ未放送回のシーンがあったため、話がつながらない部分が発生する影響があった。また、この回は放送枠移動後に放送されたが、移動後の放送枠がローカルセールス枠であったことから一部の局では移動の際に打ち切られたため、再放送かソフト化まで見られない地域もあった。

日本のロックバンドARBの楽曲「MURDER GAME」の歌詞の内容が本事件に酷似しているとNHKから指摘があり[要出典]、放送禁止となった。また同楽曲の歌詞の内容は、テレビゲーム狂の男が遊び相手の子供を殺したというもので、宮崎の起こした事件の概要とは異なる。

冤罪説

この事件について冤罪説を唱える者が集まり、「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した。代表者の(木下信男)(応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、『明治大学教養論集』に『裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡』と題する論文を載せ、冤罪論を説いた。

また、「M君裁判を考える会」会員である(小笠原和彦)は冤罪説の立場から『宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか』(現代人文社、1997年)を執筆している。

その他

  • 宮崎勤が1989年3月11日に「今田勇子」名義で第2の書簡「告白文」を朝日新聞東京本社と殺害された女児の家に送っているが、その告白文では、前年1988年に利根川河川敷で白骨化した遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について触れられている。群馬小2女児殺害事件は、遺体の発見現場が河川敷だったこと、遺体の両腕のひじから先と両脚の膝がなかったことなど、宮崎の事件との共通点があった。そのため、この事件も宮崎の犯行と疑うメディアもあったが、殺害時期が宮崎の第1の殺害事件から1年近く前であること、事件現場がやや離れていたこと、宮崎と結びつける証拠が見つからなかったこともあり、宮崎の犯行としては立件されず、2002年9月15日公訴時効が成立して未解決事件となった。

参考文献

刑事裁判の判決文

  • 最高裁判所第三小法廷判決 2006年(平成18年)1月17日 裁判所ウェブサイト掲載判例、『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第289号15頁、平成13年(あ)第1205号、『誘拐,殺人,死体損壊,死体遺棄,わいせつ誘拐,強制わいせつ被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(連続幼女誘拐殺人事件)」。

書籍

  • 都市のフォークロアの会 (編) 『幼女連続殺人事件を読む―全資料・宮崎勤はどう語られたか?』 1989年11月。(ISBN 978-4880636832)
  • 佐木隆三 『宮崎勤裁判』 1995年5月。(ISBN 978-4022640710)
  • 瀧野隆浩 『宮崎勤 精神鑑定書―「多重人格説」を検証する』 1997年1月。(ISBN 978-4062085434)
  • (小笠原和彦) 『宮崎勤事件夢の中―彼はどこへいくのか』 1997年12月。(ISBN 978-4906531325)
  • 宮崎勤 『夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白』 1998年12月。(ISBN 978-4924718302)
  • 中安信夫 『宮崎勤精神鑑定書別冊 中安信夫鑑定人の意』 2001年8月。(ISBN 978-4791104505)
  • 吉岡忍 『M/世界の、憂鬱な先端』 2001年1月、文庫2003年1月。(ISBN 978-4167547035)
  • 一橋文哉『宮﨑勤事件—塗り潰されたシナリオ』新潮文庫、2003年9月1日。ISBN (978-4-10-142624-2)。 
  • 宮崎勤 『夢のなか、いまも』 2006年2月。(ISBN 978-4924718722)
  • 芹沢俊介 『“宮崎勤”を探して』 2006年12月。(ISBN 978-4876722112)
  • 一般社団法人 日本映像倫理審査機構. “”. 2010年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月8日閲覧。

関連文献

  • 安永英樹『肉声 宮﨑勤 30年目の取調室』文藝春秋、2019年1月。(ISBN 978-4163908687)
    • 下記テレビ番組『土曜プレミアム』取材内容の書籍化。

テレビ番組

  • 報道スクープSP 激動!世紀の大事件II(フジテレビ)- 2014年12月13日 演:曇天三男坊
  • 土曜プレミアム・衝撃スクープSP 30年目の真実 ~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(フジテレビ) - 2017年10月7日 演:坂本真 宮崎本人の肉声が放送され、大きな反響があった。
  • みんなのニュース(フジテレビ) - 2017年10月9日 特報
  • 平成ニッポンの瞬間映像30(日本テレビ) - 2018年12月28日 演:(長坂一哲)
  • ザ!世界仰天ニュース(日本テレビ) - 2023年3月28日

映画

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 今田勇子とは、「『勇子・今田』=“Yuuko Imada”→“Yuuka Imada”=『誘拐魔だ』のアナグラム」という説や、「今だから言う」などという説が、当時の犯罪分析専門家などのコメントとして報道された。
  2. ^ 月刊ニュータイプ1989年11月号でも、とり・みきが、こうした「TVの人間」による雑誌の位置を動かすなどの「演出」があったということを主張している
  3. ^ 劇中では名前の表記は「宮島ツトム」に変更されている。
  4. ^ 劇中では同事件以外にも、オウム真理教による一連の事件や和歌山毒物カレー事件に関連する人物などもモデルとなって登場する。

出典

  1. ^ 『読売新聞』1988年12月16日(『幼女連続殺人事件を読む』p.5)
  2. ^ 『幼女連続殺人事件を読む』p.7
  3. ^ 一橋(2003)、p.12
  4. ^ 『幼女連続殺人事件を読む』p.8
  5. ^ 一橋(2003)、p.12-13
  6. ^ 共同通信 2008年2月2日
  7. ^ “”. 産経新聞 (2008年6月17日). 2008年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月13日閲覧。
  8. ^ 読売新聞 2008年10月3日
  9. ^ 青いムーブメント(20) (ファシズムへの誘惑・ブログ)
  10. ^ a b “「10万人の宮崎勤」はあったのか?(dragoner)”. Yahoo!ニュース 個人. (2017年9月29日). https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20170929-00075748 2021年11月15日閲覧。 

関連項目

女性を標的にした連続殺人犯

外部リンク

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