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宮崎勤

宮﨑 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件警察庁広域重要指定第117号事件)の犯人シリアルキラーである。

宮崎勤
個人情報
生誕 1962年8月21日
日本東京都西多摩郡五日市町小和田(現・東京都あきる野市小和田)
死没 (2008-06-17) 2008年6月17日(45歳没)
日本東京都葛飾区小菅(東京拘置所
死因 刑死絞首刑
殺人
犠牲者数 4人
犯行期間 1988年8月22日1989年7月23日
日本
東京都埼玉県
逮捕日 1989年7月23日逮捕
1989年8月11日再逮捕
司法上処分
刑罰 死刑東京地方裁判所
有罪判決 殺人罪死体遺棄罪屍姦死体損壊罪未成年者略取罪および強制わいせつ罪
判決 死刑東京地方裁判所
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東京都および埼玉県で計4人の幼女・女児1988年から1989年に掛けて誘拐殺害逮捕起訴され死刑判決が確定し2008年6月17日に執行されている。

生い立ち

幼少期
東京都西多摩郡五日市町(現在のあきる野市)小和田で、地域新聞会社「秋川新聞」を経営する、裕福な一家の長男として出生する[1]。両親は共働きで多忙なため、生まれてまもなく子守りの男性[注 1][2]を住み込みで雇い入れている[3]。幼少期の勤を、ほとんどこの男性と祖父が面倒をみていた[4]
宮﨑家は、曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど地元の名士であった[5]。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人である[5]
なお、祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、かわいがっていた[6]
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「(両側先天性橈尺骨癒合症)」[7]に罹患し、当時は日本で症例が150程度の珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼いころからが不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳のときに手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった[8]
そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している[9]
宮﨑の父は仕事ばかりで家庭を顧みない無責任な父だったという。宮﨑の母は姑と折り合いが悪く、常に勤の子育てを廻って陰湿な対立をしていたという。宮﨑の母親は常に世間体ばかりを考えており、勤に愛情を全く注がなかった。そのため宮﨑の母親は遺体との対面後、拘置所に処置を任せたという[10]
小学校時代
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった[11]成績は上位で、自身は小学校のころから算数が得意と語ったほかには、英数の成績も良かった[12]が、国語社会科を苦手としていた[12]
中学校時代
中学生時代は1、2年生のときは陸上部、3年生のときは将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読んで負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した[13]通信教育空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった[13]
高校時代
手の障害を気にして、自宅からの通学に片道2時間を要する男子校であった都内の高校へ1978年に進学するが、両親は「英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した」と勘違いしていた。同級生は「暗く目立たない少年だった」と証言している。高校に入ってからの成績は下降の一途で、本人は系列大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで低下し、希望を果たす以前の状態であった。
短期大学時代
高校卒業後の1981年4月、都内の短期大学に進学[14]する。このころはパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった[15]1982年短期大学在学中にNHKのトーク番組「YOU」のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、すぐさまほかの出演者の後ろに隠れてインタビューを受けることはなかった[16]
印刷会社に就職
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[17]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[18]1986年3月に上司から神奈川県への転勤を勧められたが、本人が拒否したため自己都合退職[注 2]する[19]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数か月続いた[20]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りにいく程度の簡単な手伝いであった[21]
このころアニメ同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[22]。ビデオサークルでは、ほかの会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた[23]。逮捕後の家宅捜索では6,000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する[24]
1988年5月16日、祖父が死去[25]。8月22日に第一の犯行を起こす[26]1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している[27]


東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定117号事件
場所   日本
東京都北西部・埼玉県南西部
日付 1988年 - 1989年
死亡者 幼女4人
犯人 宮﨑勤
容疑 誘拐・殺人・死体遺棄
対処 逮捕・起訴
謝罪 なし
刑事訴訟 死刑執行済み
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事件の経緯

第一の事件
1988年8月22日 - 当時4歳の女児Aが誘拐・殺害される。殺害後しばらく経ち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人に「どうして写真だけでは済まなくなったか」を聞かれた際は、第一次鑑定では「よくわかんない」、最後の被告人質問では「急に子どものころが懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
第二の事件
1988年10月3日 - 当時7歳の小学1年生の女児Bが誘拐・殺害される。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象がない」と述べ、やはり不明瞭であった。
第三の事件
1988年12月9日 - 当時4歳の女児Cが誘拐・殺害される。Cは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、Cの全裸死体が発見される。12月20日、C宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人がほかの被害者の遺体も送ることを計画するが、Bの遺体を発見できなかった。この際、山道に脱輪してたまたま通った車に助けを求め、「紺のラングレー」「ナンバープレートが3桁」という目撃情報が浮上する。
犯行声明と告白文
1989年2月6日 - A宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名でA事件に関する第1の書簡『犯行声明』が朝日新聞東京本社に郵送される。2月11日には同内容の犯行声明がA宅に届く。Aを入間川に沈めて殺したなど、事実と異なるいきさつが書かれていた。3月11日、「今田勇子」名での第2の書簡『告白文』が朝日新聞東京本社とB宅に届く[注 3]。両書簡とも極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴であり、筆跡鑑定が行われた。
宮﨑の犯行声明文には、平仮名片仮名が混じるなど不自然な部分が見える。以下に要旨を掲げる。
 「遺骨入りの段ボールを置いたのは、この私です。この、A一件に関しては、最初から最後まで私一人でしたことです。その証かしを立てます。まず、どうやって連れ去ったか述べましょう。
 Aを泳がせ、Aを見守るのではなく、私達二人を誰かが見ていないかどウカを見守ります。居る様子はなく、来る様子さえありませんでした。すると、誰も来そウにないという気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このままAを家に帰しては……」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、Aの髪の毛をつかみ、顔を川に沈め、決して自分ガ、いいといウまで、頭を水面から上げさせませんでした。」(原文のまま)と書いた。警察は犯行文から、子供を生めない女性による犯行との見方に傾き、捜査は振り回されることになる。[28]
第四の事件
1989年6月6日 - 当時5歳の女児Dが誘拐・殺害される。Dの両手を焼いて食べたと宮﨑は罪状認否で述べるが、検察は自己の異常性を強調するため虚偽の事実を述べたものだと論告で主張した。判決では検察側の主張を認め、宮﨑の主張する食人行為は虚偽の疑いが濃厚だとされた[29]6月11日、Dのバラバラ殺人遺体が発見された。

現行犯逮捕

1989年7月23日、東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件を起こす。妹の全裸写真を撮影していたところを姉からの知らせを受けた被害女児姉妹の父親により取り押さえられ、宮﨑は強制わいせつ現行犯逮捕された[30]。宮﨑を取り押さえた被害者の父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と取り押さえた宮﨑を責めたが、後日それが連続殺人事件の犯人だと知って愕然としたと当時のマスコミの取材で話している。

8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮﨑の実名報道が始まる[31]。翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で(再逮捕)された[32]。以後、次々と事件が明るみに出たあと、後藤正夫法務大臣は「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した[33]

取り調べでの自供

1989年8月9日 - Dの殺害を自供。
1989年8月10日 - Dの頭部発見。犯人のマスコミ報道が始まる。
1989年8月11日 - Dの誘拐殺人死体遺棄の容疑で(再逮捕)。
1989年8月13日 - A・Cの誘拐殺人を自供。
1989年9月1日 - 警察庁広域重要指定117号に指定。
1989年9月2日 - 検察起訴に踏み切る。
1989年9月5日 - Bの殺害を自供。
1989年9月6日 - 東京都西多摩郡五日市町(現・あきる野市)でBの遺骨発見。
1989年9月13日 - Aの遺骨発見。

1989年頃の宮﨑勤の写真

精神鑑定

1989年8月24日、東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか……」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される[34]。この鑑定では動物虐待などの異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べたことなどは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた[35]1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた[34]。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされたことを証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した[36]

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる[35]1994年12月に鑑定書が提出される[35]。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した[37]

裁判

第一審
1997年4月14日、東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合にもっともうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日、東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年奈良小1女児殺害事件被疑者が「第二の宮﨑勤」の発言を行ったことに対し、「精神鑑定も受けずに、『第二の宮﨑勤』は名乗らせません」と宮﨑の名を用いたことを雑誌「」2006年1月号で痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日、最高裁判所が弁護側の上告を棄却する。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却される[38]

死刑執行

2008年6月17日(火)午前、東京拘置所にて死刑が執行される[39]。執行当時の法務大臣は鳩山邦夫であった。死刑執行を知らされた宮﨑は、執行を冷静に受けいれたという。

宮﨑の手紙

雑誌「」の篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていた。2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」とも記していた[40]。編集部に宛てた手紙はおよそ300通、内容は拘置所内で読んだ漫画本のタイトルを並べただけのものがほとんどであった。知人にも合計で2,000通近くの手紙を拘置所内から送っていた。また、死刑判決が決定してからは独房でアニメビデオを鑑賞することが許可されていた[41]

動機

事件の奇異さから憶測が飛び交い、宮﨑自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には至っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者ではなくあくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。第1次精神鑑定鑑定医の保崎秀夫は法廷で「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」と証言し、簡易精神鑑定書は「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず……幼児を対象としたことは代替である」としている。

一方で彼の性愛の対象は、成人の女性より幼女とする幼女性愛、幼女よりその死体とする死体愛、死体よりそれを解体したものとする(死体加虐愛)、さらにそれをビデオに撮ったものとする拝物愛へ移っていった、とする意見もある[42]

1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。その結果「精神分裂病(当時の呼称。現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されたことから、これを受けて検察は起訴に踏み切っている。

公判開始後の1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により3度目(公判開始後は2回目)の再鑑定が始まる。1994年12月に鑑定書が提出される。その際の鑑定では1人は統合失調症を、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出している。

オタクバッシング

宮﨑のコレクションの中に、暴力的、性的、猟奇的な内容の漫画やビデオが多数あった、おたくロリコンホラーマニアであるなどと報じられたことから、マスコミではそれらの悪影響を主張する意見が噴出し、ネガティブイメージが広まることになった。

家族

まれに見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮﨑への憎悪はそのまま彼の家族・親族へと波及した。

家族・親戚らの境遇
宮﨑は両親のほかに姉妹2人がいたが、彼らに対して「お前たちも死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が殺到した[43]。長女は勤めていた会社を辞め、すでに結婚間近だったが自ら婚約を破棄した。次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。
父親の弟2人も退職したうえ、長弟は持っていた会社を妻の名義に変更し、5つの会社役員を全て辞職。次弟には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘たちは妻に引き取らせた[44]。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師であったが辞職した[45]。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[46]
父親の自殺
家族は宮﨑の逮捕から1年後に引っ越した。宮﨑は父親に対して(私選弁護人)をつけてくれるよう要請したが父親はこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りをつけると、東京都青梅市多摩川にかかる神代橋 (水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。
作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木はほかに、私選弁護士をつけるよう要請してきた宮﨑を拒絶したことについても批判している[47]。私選弁護人を選定しなかったことで(国選弁護人)が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮﨑の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分あり、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。
父親とかねてから交流があり、事件後も父親とのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛にさいなまれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている[48]
宮﨑の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、まったく関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞したりすることを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた[49]

死刑執行の背景および波紋

2008年6月17日(火)午前、東京拘置所にて宮﨑の死刑が執行された[50]。45歳没。宮崎に対する精神鑑定が引き続き行われていた最中での執行であった。死刑確定から死刑執行までの平均期間が一般に約8年であるのに対し、宮崎の場合は死刑確定から比較的早い、2年4ヶ月後に死刑が執行される運びとなった[51][注 4]

執行命令書に署名をしたのは当時の法務大臣の鳩山邦夫である。鳩山は法務大臣退任後の2010年末、民放テレビのインタビューで「(宮﨑の事件は)もっとも凶悪な事犯の一つだと思うから、執行すべきと思うが検討しろ」と、自身が執行手続きを指示したと述べた[52]

2008年6月8日に発生した秋葉原無差別殺傷事件が宮崎の死刑執行に影響を及ぼした可能性も指摘されたが[53]、ジャーナリストの上杉隆は「鳩山は同年3月に命令をすでに出しており、秋葉原事件と関連があるとするには矛盾がある」として、宮﨑の死刑執行と秋葉原事件は関係ないとしている。アムネスティ・インターナショナル日本や、死刑廃止を推進する議員連盟など人権団体が同日、相次いで抗議を表明した[54][55]

日本弁護士連合会は宮崎誠の会長名で「半年あまりで13人の大量の死刑執行が行われた。政府に対し、死刑制度の存廃を含む抜本的な検討と見直しを行うまでの一定期間、執行を停止するよう重ねて強く要請する」との声明を出した[56]。宮﨑の国選弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は同日、「数か月前から再審請求の準備を進めていた。こうした事情を知りながら、死刑を執行したことに強く抗議する」との声明を発表した[57]。5月末には鳩山邦夫法相に死刑を執行しないよう文書にて要請していたという[57]

犠牲者

  • 1988年(昭和63年)8月、埼玉県入間市に住む当時4歳の幼女(第1の事件)
  • 1988年(昭和63年)10月、埼玉県飯能市に住む当時小学1年生(7歳)の女子児童(第2の事件)
  • 1988年(昭和63年)12月、埼玉県川越市に住む当時4歳の幼女(第3の事件)
  • 1989年(平成元年)6月、東京都江東区に住む当時5歳の幼女(第4の事件)

冤罪説

この事件については冤罪説を唱える者が集まり「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した。代表者の(木下信男)(応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、「明治大学教養論集」に「裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡」と題する論文を載せ、冤罪論を説いた。

また「M君裁判を考える会」会員である(小笠原和彦)は冤罪説の立場から「宮﨑勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか」(現代人文社、1997年)を書いている。

著書

雑誌「」編集部との往復書簡を掲載したものが出版されている。

  • 夢のなか - 連続幼女殺害事件被告の告白 創出版、1998年12月。(ISBN 9784924718302)
  • 夢のなか、いまも - 連続幼女殺害事件元被告の告白 創出版、2006年2月。(ISBN 9784924718722)

演じた俳優

映画

  • 地獄 - 1999年11月20日公開。監督は石井輝男。劇中にて宮﨑勤をモデルにした人物[注 6]が登場[注 7]する。演じた俳優は(平山久能)。

脚注

注釈

  1. ^ 子守りの男性は30代の知的障害のある男性だったと言われている。
  2. ^ 実質的には解雇される。
  3. ^ 今田勇子とは、「『勇子・今田』=“Yuuko Imada”→“Yuuka Imada”=『誘拐魔だ』のアナグラム」という説や、「今だから言う」などという説が、当時の犯罪分析専門家などのコメントとして報道された。
  4. ^ 附属池田小事件の犯人である宅間守は、死刑確定の1年後に執行されている。宮﨑と同様、遺族への謝罪は一切ないまま執行された。
  5. ^ 劇中では宮﨑をモデルとした人物が登場するが、フィクション作品であるため、名前の表記は「宮島ツトム」と変更されている。
  6. ^ 劇中では名前の表記は「宮島ツトム」に変更されている。
  7. ^ 劇中では同事件以外にも、オウム真理教による一連の事件や和歌山毒物カレー事件に関連する人物などもモデルとなって登場する。

出典

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  2. ^ “宮崎勤の生い立ち~母親から遠ざけた父親と妹や一族の末路が悲惨 | 生い立ち〜今”. oitachi-ima.com (2018年7月3日). 2023年4月17日閲覧。
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  18. ^ 一橋(2003)、p.110
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  20. ^ 一橋(2003)、pp.112-113
  21. ^ 一橋(2003)、p.113
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  23. ^ 一橋(2003)、pp.345-346
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  52. ^ “元法相、執行する死刑囚選んだ経緯語る”. MBSニュース (毎日放送). (2010年12月13日). https://megalodon.jp/2010-1213-2013-47/www.mbs.jp/news/jnn_4599913_zen.shtml 2018年11月29日閲覧。 
  53. ^ “宮崎死刑囚に「スピード」死刑執行 囁かれる「秋葉原事件」の影響?”. J-CASTニュース (2008年6月17日). 2013年8月13日閲覧。
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  55. ^ “”. 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 (2008年6月17日). 2008年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月13日閲覧。
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  57. ^ a b “連続幼女誘拐殺人:「再審準備中」の執行に抗議 弁護士”. 毎日新聞. (2008年6月17日). オリジナルの2008年6月17日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2008-0617-1658-50/mainichi.jp/select/jiken/news/20080617k0000e040073000c.html 

参考文献

  • (鈴木伸元)『加害者家族』幻冬舎新書、2010年11月27日。ISBN (978-4-344-98194-2)。 
  • 一橋文哉『宮﨑勤事件—塗り潰されたシナリオ—』新潮文庫、2003年9月1日。ISBN (978-4-10-142624-2)。 

関連項目

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