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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で、高家吉良義央[注釈 1]に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件』としている場合もある)。

概要

事件の名称

 
歌川芳虎 作「義士四拾七人」

史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている[1]。一方で、歴代の赤穂藩主時代の家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。

また赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、本事件を忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。

吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[2](ただし先行作にも使用例あり[3])。

このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[4]

なお『和名類聚抄』の「播磨国郡郷考」では赤穂は「阿加保(あかほ)」という表記である[5]。赤穂事件の関連では1913年(大正2年)の「教育画集赤穂義士」の表紙のふりがなも「あかほぎし」となっており、城の明け渡しの文も「アカホノシロワタシ」となっている[5]。この点に関しては旧仮名遣いの「あかほ」を「あこう」と読んでいたという説がある[5]

事件の概要

 
「仮名手本忠臣蔵三段目」、歌川国輝

この事件は元禄14年3月14日 (旧暦)1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも[6])に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由の詳細は不明である。

事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易されたが、吉良に咎めはなかった。

そのため浅野のみ刑に処せられた事に家臣達は反発、筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[7]

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された[8]

吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議山科会議)。

しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[9]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、討ち入りを取り止めると偽った上で事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた[10]神文返し)。その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。

そして元禄15年12月14日 (旧暦)1703年1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は謎とされている[11]

寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。

原因に関して

浅野吉良に斬りかかった理由は史実として不明である。赤穂事件を扱ったドラマや映画等では、浅野が吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が吉良を討った仇討ち事件として描かれることが多い。しかし事件当時、仇討ちは子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすかの意義については論争がある[12]

赤穂事件の経過

松之大廊下の刃傷まで

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として勅使を幕府に遣わせていた[13]。この時、3-10万石程度の所領を持つ大名が勅使饗応役として勅使の接待役を務め、典礼などの指南を行うのが高家であった。

元禄14年の勅使饗応役は浅野内匠頭で、2度目の饗応役であった。また、吉良上野介は高家肝煎であり、正月に幕府の使者として上洛しており、並行して浅野内匠頭に儀式指南を行っていた[13]

吉良上野介の返礼として、3月11日東山天皇勅使の柳原資廉高野保春、及び霊元上皇院使の清閑寺煕定が江戸城内の伝奏屋敷に到着、浅野内匠頭以下赤穂藩士、吉良上野介らが接遇にあたった。14日は儀礼の最終日で、将軍徳川綱吉が本丸御殿内の(白書院)で勅使に奉答する予定であった[13]

松之大廊下の刃傷

 
江戸城本丸跡(東京)

元禄14年3月14日1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、吉良上野介が本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから声をかけ、あるいは「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[14])で肩先を斬りつけ、更に斬りつけたところ、上野介が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上を傷つけた。小さ刀は上野介の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた[15]。そして上野介が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[13]

すぐさま、内匠頭はその場に居合わせた梶川与惣兵衛に刀の鍔を押し留められ、異変に気付いて駆けつけた周囲に取り押さえられ、柳之間の方へと運ばれた。一方の上野介は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に御医師之間に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。上野介の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている[13]

その後、目付が双方から事情を聴取し、老中に報告、側用人柳沢吉保を経て将軍徳川綱吉にまで伝えられた。即日内匠頭には切腹の裁定が下り、一方の上野介は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」

[16]

浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易

 
浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

浅野内匠頭は目付より取り調べを受けたのち、幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[注釈 2]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[16]。16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[17]。長矩はや煙草を出すように要求したが田村家は拒絶している。湯漬けを出したところお代わりをして二杯食べたとある[18]

内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚、若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[16]。このしつらえは内匠頭の身分に不相応な略式であり、おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたとされる[19]

一方で、当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした[16]

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門、介錯は御徒目付磯田武太夫であった[16]。磯田は介錯に失敗し、二度斬りしたうえに[注釈 3]「首をば掴んで検使に実見に入れ、はるか後ろへ投げ捨て候」と粗雑な記録が残る[20]

遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺にひっそり埋葬された[21]。葬儀は行なわれていない。泉岳寺には投げ捨てられた首の血が飛び散った「血染めの梅」がある。

同時に赤穂藩の改易も決まった。まず伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は、内匠頭が御馳走役を外されたことを理由に退去を命じられ、急遽御馳走役を引き継いだ佐倉藩主戸田忠真が到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動を起こしたときに備え、武力で抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[19]。14日夜、内匠頭の正室の阿久里は剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に実家の三次藩主浅野長澄に引き取られた[21]

15日からは江戸詰めの藩士が藩邸を退去、町家の借家に引き上げ始めた。18日には内匠頭の従弟の大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ老中土屋政直へ返還している。17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された。この収公に先立ち、町人や浪人の中で其々の藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている[22]堀部武庸も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)[23]

改易当初の藩士の所見

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ。

第一報は、14日未の下刻(午後3時半頃)に早水藤左衛門萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着した。この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた[24]。次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた。江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている[24]。一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった[24]

筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[25]。そして大石を上座に据え、連日[24]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[25]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[24]。一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、上野介が処罰されなかった事に対する抗議の意思を籠城によって示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためである[7]

また、内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも、籠城を辞めた理由の一つである[7]。大石は城内での議論と並行して、上野介の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたが[24]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[7]

連日の議論を経て、大石の出した結論は、赤穂城の前で皆で切腹しようというものであった[7]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も上野介への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[7]。また、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[7]

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した[7]

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による[7]。大野はとにもかくにも主君の弟である大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府に明け渡すのが先決だと考えていたのである[26]

しかし切腹の神文を提出する段になって、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[7]。なお原はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[26]。大石は4月12日に赤穂城の明け渡しを最終的に決定した[27]

一方で、この時点ですでに吉良邸討ち入りを明確に標榜していたのは、江戸藩邸詰めの堀部安兵衛奥田孫太夫高田郡兵衛の3人であった。3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった。国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した。大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた。3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人はこの時点での討ち入りを断念した[8]

赤穂城引き渡し

これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた。

まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された。藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた[24]。この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった[注釈 4]。このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにした。広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断った[29]という説もあるが、赤穂改易後に広島藩は鴻池家からの借財が桁違いに増加している[30]。また、延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており[注釈 5]、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている[31]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた[29]

そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、浅野家が赤穂入藩時に、改易となった池田輝興から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。

これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の備中松山藩の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。

4月19日、幕府派遣の受城目付荒木政羽榊原政殊、代官石原正氏、受城使脇坂安照木下㒶定立会いの下、赤穂城引き渡しが完了した。この引き渡しは特に厳戒態勢で行われ、脇坂・木下がともに軍勢を引き連れてきたほか、近隣の岡山・姫路・明石・徳島・高松・丸亀・松山の各藩が陸上・海上に軍勢を展開させた[32]

その後も大石ら一部藩士は(遠林寺)会所を間借りして残務作業を続け、5月18日に全ての書類引継ぎが終了した。同日、奉行・小役人に魚料理が振る舞われ、士分のものには金子が渡された。

赤穂城は脇坂家預かりとなったが、のちに在番中の重臣が突如乱心して刃傷事件を起こし、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。この際に、赤穂事件までの浅野家治世資料が龍野に持ち去られ、現在もたつの市が所有し続けている[33]

大石と堀部との対立

赤穂城引き渡しという喫緊の課題が片付き、旧藩士の内江戸藩邸詰は町家の借家に、国元勢はそれぞれの伝手を頼るなどして赤穂町内および京都・伏見・大坂など上方一円に[34]、それぞれ居を移して身辺を落ち着けると、浅野家中としての今後の身の振り方を巡って対立が発生した。おもに大石内蔵助と堀部安兵衛とを軸に慢性的な対立状態が続き、前者は上方漸進派、後者は江戸急進派と呼ばれる[35]

大石は、浅野内匠頭の弟・大学による御家再興を至上命題として[36]、幕閣や近親諸藩、将軍綱吉と近いと思われる寺院などの伝手を辿って運動を行っていた[37]。大石家は浅野家と血縁関係が近しく、代々赤穂藩に仕えていたことから、大名・浅野家が復活することを、自身の「忠義」ととらえていた[16]。また、大石にとっても、浅野家の「人前」が立つという目的のもと、吉良家に対しても何らかの処分が下ることを希望していた。

一方、堀部は、引き続き吉良邸への討ち入りを念願し、旧藩士から同志を募っていた。堀部は父の代で浪人になってから剣豪として身を立て、高田馬場の決闘で名をはせて浅野家に召し抱えられたことから、堀部の主従意識は、浅野家代々ではなく、浅野内匠頭個人に対してのものであって[38]、堀部にとって大学は「主君の弟」に過ぎなかった。堀部にとっての「忠義」は、内匠頭が伝来の御家を捨ててまで鬱憤を晴らそうとした、その遺志を継いで、吉良上野介を討ち果たすことにあった[36]

赤穂藩が廃藩になってから数カ月の間、吉良上野介および大学の処遇は明らかにならず、また上方の大石と江戸の堀部との間で書簡が交わされたが意見の一致を見ず、事態は膠着状態のまま推移した。大石の御家再興運動は好転する兆しが見えず、一方で堀部は討ち入りが成功するためには大石ら上方の旧藩士の協力が必要で、上方の旧藩士には大石が大勢での江戸下向を厳禁していたためである。当事者である大学は、事件後は閉門されて旧藩士と連絡が取れなくなっており、その意志は不明のままであった[39]

吉良の屋敷替えと江戸会議

吉良上野介は、刃傷事件で負傷した時点ではおとがめなしであったが、一部では浅野内匠頭に対する裁定の厳しさに対する同情論から[40]、上野介に対して厳しい見方も存在した。例えば『易水連袂録』にはもし内匠頭が上野介に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら内匠頭の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと[40]、内匠頭の行動に理解を示している。また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである[41]

上野介はこうした世評を意識して、高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)[42]。上野介は3月23日付でお役御免となった[43]

その後、8月19日に吉良家は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。大名屋敷の多い呉服橋と比べ、本所は人気のない郊外であったことから、討ち入りをしやすくするために上野介を郊外に幕府が移したのではないか、とのうわさが江戸に流れた[44][43]。幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、旧赤穂藩士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある[44]

堀部安兵衛ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ[43]、大石内蔵助に討ち入りを迫った。そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に原惣右衛門潮田又之丞中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に進藤源四郎大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった[45]。そこで大石は自ら急進派を説得すべく、10月23日、奥野将監、(河村伝兵衛)、岡本次郎左衛門中村清右衛門を伴って隠棲先の山科を出発した。

一方堀部、奥田孫太夫高田郡兵衛は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。

11月10日、芝で旧藩士の会合が開かれた(江戸会議)。参加者は、大石、堀部、原、進藤、奥野、河村、岡本、奥田、高田である。堀部は、浅野大学が閉門中に討ち入りをすれば、大学の赦免後にも「人前」が立つし、君臣の礼儀にもかなう、と述べた。一方大石は、大学の安否を見届けることを主張した。結局、先乗りしていた上方の同志をすでに説得していた急進派が優勢のまま会議は進んだ。期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、翌年3月に結論を出すことを約束した[43][45]

吉良の隠居

12月11日、吉良上野介の隠居と、嫡男義周(左兵衛)の家督相続が許可された[46]

これを聞いて堀部安兵衛たち急進派は焦り始めた。隠居した上野介が、米沢藩上杉家に養子入りしていた実子の綱憲に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[46]。堀部たちは、江戸会議のために下向してそのままとどまった原惣右衛門、大高源五と相談の上、上方へ戻っていた大石内蔵助へ書状を送り、上野介の居場所を継続して監視する手はずは整えており、自分は2月に上洛するのでそこで談判し、3月上旬には江戸にもどって討ち入りを行いたい、と具体的なスケジュールを提示してせかした[47]。また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くに及び、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。

一方、大石にとっては、討ち入りの条件として「浅野家再興 および 吉良家への処分」がどちらもなされないこと、としており、後者がなくなった時点で討ち入りに反対する理由はなかった。しかし、浅野大学に対する処分が下る前に討ち入りをした場合は御家再興に影響が出る可能性があるため、引き続き討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[46]。上野介が無理なら息子の左兵衛を討てばよいし [47]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだといった[48]

堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。

山科会議

翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。この頃、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。

2月15日から数日間、山科に大石、原らが集まり、今後の行く末を決める会議が開かれた(山科会議[46]。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容の色彩が強く[49]、「浅野大学の処分を待って事を起こす」という大石の従来の主張が通った。また、討ち入り期限としても、大石が新たに設定した「浅野内匠頭の三回忌」(翌年3月)が通った[46]。原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。

山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学の処分待ち」となり、堀部ら急進派は大石による御家再興の運動を見守ることになった。この頃の大石は、大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討つことを考えていた[50]。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[51]。しかし主君・内匠頭の弟である大学の指示によって上野介を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[50]。後述するように、結局吉良邸討ち入りは大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[52]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[52]

4月に入ると堀部らは再び大石抜きでの討ち入りを模索し始める。4月2日の原の堀部宛書簡では、大石抜きでも同志は14,5人ほど集められるめどであると報告(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。また、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった[53]

大石は重ねて自重を呼びかけたが、堀部は6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟を示し、大学の御家再興を待って帰参する心積もりの旧藩士らを「腰が立たない」言語道断のものであると切り捨てた。6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定であった[53]

浅野大学閉門と円山会議

そのさなかの7月18日、浅野大学に対して「広島藩預かり」という処分が下った。これはお家再興が事実上あり得ない事を示していた。大学は同日、本家の広島藩邸に移った[9]

大学処分の報せが上方に届いたのは、24日であった。大石内蔵助が最後まで望みを託していた浅野家再興の望みは絶たれ、また堀部安兵衛らの突き上げを喰らって旧藩士が分裂寸前の状態にあっては、もはや討ち入りを止めることはできなかった。大石は「穢れたる御名跡を立て置き候わんより、打ちつぶし申す段本望と存じられ候」と述べ、むしろ大学絶家を討ち入りの契機とすべしと同志たちに檄をとばす[54]

7月28日、急ぎ京都の円山にある安養寺の塔頭「重阿弥」に近隣にいた同志が呼び集められ、会議が開かれた(円山会議)。この席で、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[9]。この会議に参加したのは、大石、堀部のほかに、大石主税、大石瀬左衛門、潮田又之丞、小野寺十内、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、間瀬久太夫、間瀬孫五郎、原惣右衛門、貝賀弥左衛門、武林唯七、不破数右衛門、矢頭右衛門七、三村次郎左衛門、大石孫四郎、岡本次郎左衛門の19名で、この内、大石孫四郎、岡本次郎左衛門を除く17名が最終的に討ち入りの浪士の中に含まれている[55]

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[56]

堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴を装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議[57]

神文返しと討ち入り候補の絞り込み

討ち入りの決行が正式に決まると、討ち入りに参加する旧藩士の絞り込みが始まった。

討ち入りの意志表明の目安になっていたのは、大石内蔵助が赤穂城受け渡しの時と深川会議の時に集めた神文で、最大時には120名ほどが提出していた。しかし、廃藩に伴って解散してから連絡が取れていない旧藩士も少なくなかったため、横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、討ち入りの意志の確認が行われた。具体的には、「敵討ちをやめるほかない」とまず説明して提出済みの神文を返却し、受け取りに抵抗したものを志あるものとみなして、盟約に加えた(神文返し[10])。ここで一旦盟約に加えたものの中からもさらに離脱するものがあり、最終的に討ち入りを行った47人になったのは決行の数日前であった。

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[58]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[58]

深川会議

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している[59]。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[60]10月26日には平間村に入り、赤穂藩邸の有機肥料を買っていた豪農・軽部五兵衛[61]宅に滞在して、討ち入りの計画を練っている[59]

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[62]

12月2日 頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議[63]

討ち入り日の決定

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである。

横川宗利は、三島小一郎という変名で堀部武庸宅に居候。吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして、「茶会は十四日」と大石に報告し討ち入り日が決まった。中央義士会は「大高が山田宗徧から情報を得たり、大石が羽倉斎から日程を聞きだしたという話よりは信憑性が高い。おおむね事実である[64]」としている。 また、大石内蔵助の一族である(大石三平)からも同日の情報を得て間違いないと判断したのであった[65]。なおこのことで、無人系大石氏は津軽信政の不興を買い放逐[66]、のちに讃岐国高松藩松平家に仕えている。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり同じく6日に吉良邸での茶会があるとの情報をつかんでいたが延期になってしまったという。しかし、宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[67]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[65]

直前の脱盟

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[68])、田中貞四郎(小姓あがり、150石。酒乱をおこして脱盟[要出典])、(中田理平次)(100石[69])、中村清右衛門(小姓、100石[69])、(鈴田重八郎)、瀬尾孫左衛門(大石内蔵助家来)、矢野伊助(足軽5石2人扶持)が姿を消した[70]

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[69])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった[65]

討ち入り

 
吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(1703年1月31日午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した[71]

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた[72]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[71]

討ち入りが始まると、近隣の土屋逵直[73]・牧野成純・本多長員留守居役の真柄氏[74]は幕府に使者を出して事件を通報した。また、複数の町人が米沢藩邸に知らせている[75]

四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた。茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した[76]

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬り絶命させた。この老人が上野介であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[77]

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[77]。ここまでわずか二時間程度であった[78]

双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった[38]。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[79] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[76]

吉良の最期に関して

山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[77]

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており、さらに同書によれば引き上げの際、間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[77]

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[80]。ただ、無抵抗を惨殺されたのならば、赤穂義士の理不尽さを責め、厳しい処罰を求める吉良側がそのように書いたはずである。

吉良・上杉方の記述では「物置から脇差を抜いて吉良が斬って出た処を、間が槍で突き、武林が一刀のもと斬り殺した」とある[81]

上杉家の停兵・津軽家の救援

事件は本所に住む町人の注進(複数あったとされるが豆腐屋が藩の記録に記されている)[82]により上杉家に伝達された。上杉綱憲は父のために援軍を送ろうとするが、老中からの出兵差止め命令が、遠縁筋の高家・畠山義寧により齎され派兵を止めた。一方、津軽家は幕府からの特に差し止めが無いため、津軽政兕が真っ先に(山鹿政実)[注釈 6]らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。

赤穂義士に斬殺された吉良以外の死者は次の14人[83]。史料によってはのちに死亡した重傷者を加え人数が異なる場合あり。また「鳥井」「鱸」など姓に差異もある[注釈 7]

  • 小林平八郎央通 家老 南書院前
  • 清水一学義久 近習 台所口
  • 新貝弥七郎 近習 玄関
  • 笠原長右衛門 祐筆 書院次
  • 大須賀治部右衛門 用人 台所口
  • 左右田源八郎 小姓 同 - 家老・左右田孫兵衛の嫡男
  • 大石半右衛門 門番 馬屋前
  • 鈴木正竹 僧侶 小玄関前
  • 杉松三左衛門 祐筆 小屋出口 - 小野寺秀和に槍で突き殺される。
  • 牧野春斎 僧侶 同 - 間光延に突き殺される。
  • 須藤与一右衛門 取次 南書院次
  • 榊原平右衛門 文官 台所口 
  • 鳥居利右衛門正次 用人 座敷庭
  • 斎藤清左衛門 小姓 同

泉岳寺への引き上げ

 
浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺

吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。

一行は回向院に開門を拒絶された後、正面からの上杉家、後方からの津軽家の追手を警戒、両国橋は渡らず南下して永代橋[注釈 8]を通過。築地では織田家下屋敷を避け、軽子橋を渡り築地川の対岸を通った。鉄砲洲にて奥平家と小浜酒井家[注釈 9]の尋問に遭い[84][85]赤穂藩邸跡には近づけなかった。

愛宕下でも伊達家に中屋敷通行を阻まれ[86]、通街筋(源助丁から露月丁)に迂回して金杉橋を通行した。

なお金杉橋の手前、宇田川橋を左手に見るあたりで、吉田忠左衛門富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また、寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来謎とされている(#寺坂吉右衛門問題[87]。札の辻を経て泉岳寺に至る。

泉岳寺についた一行はの振る舞いを受け、内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した[87]。また、住職・酬山は義士に行水も使わせなかった。

上野介の首と共に内匠頭の遺品の小刀も供えられた。鞘から抜かれた小刀は、軽く三度上野介の首に当てられた。この儀式をそこにいた浪士全員が行った。近松行重が書いたとみられる記録では、上野介を墓前にお連れしたと記載し、内匠頭自身がそれを討って悔いを晴らしたとする[88]。長矩の小刀は泉岳寺の当該住職が売却してしまい現存しない。

首の返還と遺体の供養

吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛斎藤宮内が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。

この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。

赤穂浪士の大名家お預け

赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利松平隠岐守定直毛利甲斐守綱元水野監物忠之の4大名家に御預けとした[89]。赤穂浪士達は預け先にて、細川家などで罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたとする話が残る[90]。一方、毛利家には浪士の部屋をくぎ付けにする、風呂も使わせない、私語も許さないなど罪人として厳しい扱いをした記録も残る[91][注釈 10]。その他、各大名家で多少の混乱もあった[注釈 11]

浪士切腹の決定

幕府の申渡全文は以下の通り

内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる。その上時節柄殿中を憚らず
不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ
主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み飛び道具など持ち出し
上野を討ち候始末。公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける。

赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[92]

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[92]

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[92]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。切腹の沙汰に大石ら赤穂義士は、涙を流したと記録されている[注釈 12]

切腹

 
泉岳寺の赤穂浪士の墓
 
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[93]

切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[94]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[93]。ところが、久松松平家では無体に扱った記録も残っており、特に大石良金については[95]「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ[注釈 13]、目付に見せる」などの記述がある[96](松平家の扱いを揶揄した狂歌が今に伝わる)。

また、間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[97][93]毛利綱元は遂に赤穂義士に会う事は無く、切腹場所が何処か判らなくすべく家臣に指示している[注釈 14]

細川家では切腹の詳細が記録されている。「大石が切腹に向かう時、潮田が「皆の者共も追っ付参る」と声を掛けた」、「肌押しぬぎの大石はずっと武者震いをしてふるえていた」「切腹の進行が遅いので、(堀内は辺りかまわず)苛立ち怒鳴りつけたくなった」などと記している(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』)[注釈 15]。 また、大石良雄の介錯は複数回行なわれ、安場家(久幸の後嗣)に伝わる当事の介錯刀には刃こぼれがあり[98]、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた(安場保雅)は「大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である」と記している。

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[93]。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[99]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[99])。

その他処分

吉良家への処分

赤穂浪士の切腹と同日、上野介の跡を継いだ吉良左兵衛義周諏訪忠虎(信濃高島藩主)にお預けとされた[100][101]

幕府が左兵衛の処分を命じた理由は、義父・上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[100]

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり、ここに三河吉良家(西条家、義央系)は断絶する事になった[102]

赤穂浪士側への処分

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[103](女子は構いなし)。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、(中村忠三郎)、(間瀬惣八)、(村松政右衛門))おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられた。

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は、宝永3年(1706年)に桂昌院の一周忌にあたり大赦令が出され、赦免された。本土に戻った遺児たちは仕官することなく、仏門に入った(吉田はのち還俗して浪人)。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[104]

遠島の四人以外は以下の通り。「武士は二君に仕えず」のせいか、他家に仕えた者は多くが致仕している。堀部氏の後嗣は、正保四年(1647年)に既に細川家臣だった家からの養子入り(金丸・武庸と血縁はない)である。

  • 大石良以 出家。墓も現在は荒廃している[105]
  • 大石良恭 親戚預け、のち仕官。広島藩で実子の相続許されず、小山家より養子。大石良尚が寛政9年に没し、小山流大石家は断絶。
  • 原 重次郎 次男でわずか3歳だったが出家、のち還俗して惣八郎と改め仕官。広島藩で絶家。養子(義三男)の兵太夫も逐電。元辰が義絶した又従兄弟の子孫が米沢藩士で続く(米沢原氏)[106]。長男の道善(つねよし)は成人していて、討ち入りに反対し息子のほうから父・元辰と義絶。上洛して町医者となっており連座を免れる。この系統が現在の原宗家となっているが、日蓮宗に帰依しており泉岳寺とは絶縁。
  • 片岡 新六 出家。
  • 片岡六之助 出家。
  • 富森長太郎 親戚預けのち仕官。壬生藩に仕えた後に殺人を起こし浪人。後嗣の正幸は水口藩で不正により切腹、その子・正盈も殺人の咎で刑死し、富森家は断絶[107]。無縁墓は日本基督教団水口教会に属す。
  • 奥田清十郎 親戚預けのち仕官(仁尾家に養子入り)。徳島藩で早世。奥田家は断絶。仁尾家は奥田・近松両氏と血縁でない養子が入り続いた。
  • 矢田作十郎 親戚預け(吉川家に養子入り)。旗本岡部家で浪人。
  • 中村 勘次 出家。
  • 不破大五郎 出家。後に還俗して出奔。大五郎の子・亀八郎(不破正種の)は尾張藩に仕えたが、安永8年(1779年)、不正があり家屋敷を召し上げ放逐されて[108]、不破家は断絶した[109]
  • 木村惣十郎 出家。
  • 岡島 藤松 出家。 
  • 岡島五之助 出家。
  • 茅野猪之吉 幼児のまま死亡。

のちに遺児の存在判明

  • 千馬藤之丞 親戚(津川門兵衛、没後は尾關源五郎)預けのち仕官。岡山藩で逐電。
連座

三次藩主・浅野長澄(瑤泉院の義甥)は浅野宗家と共に討ち入りを阻止すべく動いていたが、事件後に謹慎の処分を受けた[110](1719年に除封となるが事件と直接の関連はない)。天城領主・池田由勝(大石良雄の従弟)が備前天城3万2000石のうち2000石を減じられた。

本願寺関係者の動き

吉良家と関係が深かった京都の西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた[111][112][113]。 『江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)』には元禄14年(1701年)年1月20日から同15年12月24日の約2年間にわたり、刃傷事件後の吉良の様子や討ち入りへの反応などが記されている。刃傷後は「内匠の乱心」「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」などの記録があり、討ち入り後は「言語に絶える」と落胆している[114]

その後

浅野家

綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡平郡に500石を与えられた。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった[115][102]。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で 昭和61年(1986年)に断絶した[116]

吉良家

三河吉良家(西条家)の断絶後、武蔵吉良家(奥州管領家)の義俊は、姓を蒔田[注釈 16]から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は高家吉良氏の職を引き継ぎ、明治に至る[117]。また、吉良義周の没後に、三河吉良家(東条家)の義叔(上野介の実弟)は西条家の祭祀を引き継ぎ、三河吉良家も旗本として幕末まで続く。ただし、高家にはならず一般の旗本である[注釈 17]

また、義央の血脈は上杉家大炊御門家鷹司家畠山家一条家黒田氏秋月藩主家秋月家[118]などに伝わり、21世紀の令和の現在まで存続している。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三朝に仕えた右大臣大炊御門家信は義央の来孫。皇別摂家だった一条家の現当主・一条実昭は義央の九世子孫[119]にあたる。

大石家

大石内蔵助の三男である大三郎良恭(よしやす)も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1,500石(役付上士[120])で召抱えられた[121][102]。明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが浅野家は家督相続を許さず[122]、小山良至(小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。

その良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没した。嫡流が絶えた大石家は一旦断絶となった。ただし、寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した[123]という。広島藩では温良系図の主張を疑問視し[124]、小山流大石家(大石宗家・上士・知行高1200石)の相続はできなかった。しかし、大石家が絶えるのを惜しんだ藩は、7月25日に、温良が別家として横田流大石家(知行高500石・馬廻組のち江戸詰)を立てるのは認めた。良督のあと良知が萱野氏から入る。 最後の大石家当主・大石多久造は明治22年(1889年)に亡くなり、横田大石氏も断絶した[125]

広島の横田大石氏が別家扱いになったのち、赤穂に墓のある大石家の祭祀は、赤穂浪士の装束等の遺品を預かり、信清の瀬左衛門家を継承した大石良饒が大石宗家(森家赤穂藩士[126])となり、赤穂にて祭祀を継承している[127][128]。現在も、信清系大石氏の当主が義士祭などに参加されている。

赤穂藩

浅野家の改易後、赤穂藩には元禄14年(1701年)の内に永井直敬が引き継ぐ(下野国烏山藩より転封、3万2000石)。5年後の宝永3年(1706年)には森長直に交代し(備中国西江原藩より転封、2万石。永井氏は信濃国飯山藩へ転封)、そのまま廃藩置県まで異動はなかった(12代165年)[129]

吉良荘

吉良家の断絶後、高家職などは上野介の弟・東条義叔が継承して子孫は吉良を称したが、知行は武蔵国児玉郡と賀美郡内の自身の領地にとどまり、吉良荘は西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主の統治下に置かれた[130]。また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[131]

なお、吉良義央の男系子孫である鷹司(松平)信謹(義央の仍孫)は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、吉井陣屋にて吉良の旧領の一部を統治した。

江戸屋敷

元禄16年(1703年)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火で、吉良邸があった周辺の武家地や町人地は壊滅状態になり、本所の人々は吉良の怨霊が現世にとどまり祟りをなしたと噂した[132]。 その復興のときに吉良邸跡の中島伊勢(小林央通の曾孫・葛飾北斎の養父[133])の拝領地に義央の鎮魂と供養の為に吉良神社[134]が建てられている。

鉄砲洲の赤穂藩邸は 1701年(元禄14年)3月17日に幕府に収公され、いったん小浜藩に与えられたが、酒井忠囿は幕府に懇願して矢来町にあった元の藩邸に復した。その後は分割された。火災が続いた為(明治に創立の聖ルカ基督教看護学校[135]に被災者の供養樹(並木)がある)、大名屋敷としては使用されなくなり町人地および農民地となった[136](牛の牧場もあり、芥川龍之介も近郊で生まれている[137])。また、泉岳寺の赤穂義士の墓所門は旧・赤穂藩邸の裏門を移植したものである(暴徒による破壊傷が柱に残る)。

城・陣屋・家臣宅

赤穂城では、城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す。また、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした[138]。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。その後、永井家、森家と受け継がれていく。吉良荘の岡山陣屋は廃城(陣屋)となった(現在は門のみ)。

赤穂城下にあった浅野家旧臣の屋敷群は、永井家赤穂藩では全く使用されず、森家が建物を破壊した。城内では、享保14年(1729年)に、三の丸の旧・大石良雄邸が全焼し、再建されなかった。1876年(明治9年)の城払い下げにより荒れ果てた。(現在は「大石邸長屋門」が復元されている[139]。)[140]

建造物の残骸は放置され、中村清右衛門の屋敷跡などはごみの投棄場所となり、近代には完全に埋め立てられていた[141]。 近年の発掘調査で遺構(井戸の跡など)が出土している。

国内での伝播

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほどすぐさま噂として広まった[142][注釈 18]。近江商人の元禄15年12月15日書状には、自首して切腹が「いさぎ能キとの評判ニて候」と書く一方、自らは「善悪は分からない」と述べている[146]。「武林 先祖は虎も 住んだ国」「猛々し 鷹をすずめが 出て咎め」[注釈 19]等の落書も出た。

『元禄快挙録』『赤穂義士一夕話』には「江戸の町民が引き上げの赤穂義士を見て恐れおのめいていた」と記されている[147][148]

その後、泉岳寺の住職・酬山が義士の墓を放置してしまったため、「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と同時代人の記録が残る[149]徳川吉宗の治世までは、赤穂義士の墓参者が殆ど無かったと書かれている[150]。 半世紀が過ぎた頃、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が上演されると、人が泉岳寺に来るようになったので金銭を徴収することにした[151]

また、大石良雄が閑居した山科の邸宅は、討ち入り後に荒廃した[注釈 20]佐幕派の旗本・浅野長祚嘉永年間に岩屋寺を再建すると、本堂には、本尊の周りに赤穂義士の位牌が並べられた。

明治維新後の顕彰と受難

徳川幕府が崩壊して以降は、赤穂浪士に対して顕彰する動きが出てきた。しかし、文明開化を謳う明治維新の藩閥政府は赤穂義士に厳しく[注釈 21]、泉岳寺も荒廃の時期だったと回想している[152](泰然和尚は義士像の破壊撤回[153]を嘆願し、守るため周囲に柵を設けた)。同様に大石神社も、創建が許可されたのは30年以上も経ってからであり、募金も集まらず[154]大町桂月など国粋主義者による反対もあった[155]。神社完成は大正を待たねばならなかった。

  • 1868年明治元年)11月、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する宣旨と(金幣)を贈った[156]
  • 1900年(明治33年)に赤穂に大石神社(赤穂大石神社)を創設する認可が出た。1912年大正元年)に大石神社の社宇が完成し、鎮座し、1928年昭和3年)には県社に昇格した[157]
  • 1933年(昭和8年)、京都市山科大石神社(京都大石神社)の創立が許可された。1935年(昭和10年)、大石神社建設会などの寄付により社殿が竣工し、1937年(昭和12年)4月には府社に列格する。
  • 1978年(昭和53年)、(大石邸長屋門)が再建された。良雄が出入りした当時のものは江戸期に火災で焼失していた[158]

海外への伝播

  • 室鳩巣が『赤穂義人録』を漢文体全2巻1冊で著わしており、上巻は赤穂藩主浅野長矩江戸城松の廊下吉良義央に刃傷を起こした事件から、赤穂藩の家老であった大石良雄ら四十七士が吉良を討ち取って江戸幕府から切腹を命じられた経緯が時系列に記され、下巻は大石以下四十七士の経歴や逸話が記されている[159]。(青地兼山)(鳩巣の門人)の『兼山秘策』によれば、新井白石対馬藩士との話で四十七士に関心を持った朝鮮通信使のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・(平田直右衛門)の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している[160]
  • 鳩巣は同書を単に四十七士の称賛する目的だけで作ったのではなかった。奥村脩運の跋文には『(資治通鑑綱目)』に比するものを目指し、上は朝廷から下は士庶に至るまで、さらに異域(海外)でも読まれるようになることを期待していたと記している[161]。実際、鳩巣は日本の慣習を知らない海外の読者を意識して、朝廷と幕府の二重体制や(公武関係)の説明を省いて幕府を含めて「朝廷」と表記し、日本独自の習慣と思われるもの(名乗りの方法、月代のスタイル、仏教による葬儀など)は全て「和俗」であると断りを入れている。
  • 中国では清代に『海外奇談』文政3年(1820年)として赤穂事件が漢文で出ている。近年でも中国語や韓国語に赤穂事件は翻訳され、赤穂市は両国語話者の留学生も受け入れている。

事件についての学術的な議論

刃傷事件の裁定の妥当性について

松之大廊下における刃傷事件に対して、加害者である浅野内匠頭は切腹となった一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。この幕府の裁定を巡り、吉良側も喧嘩両成敗によって何らかの処分を受けるべきではないか、といった意見があり、旧赤穂藩士による討ち入りや、その後の「忠臣蔵」作品における浅野・赤穂藩士サイドを擁護する理由付けになった。

喧嘩両成敗は、常に帯刀している武士の間では口げんかが容易に抜刀、刃傷沙汰になり、さらにその影響が、家族・親類・家臣・知人にまで波及しかねない危険をはらんでいたことから、喧嘩が発生したこと自体を罪とし、双方を罰することにより、喧嘩に対する抑止力として定められたものである。今回のケースでは、事件発生時には二人は現場で一切言葉を交わさないまま浅野が吉良に一方的に切りつけ、吉良は抜刀、応戦せずにそのまま逃げようとしており、現場証拠だけでは吉良は浅野に対して一切の敵意を示していない。この意味では、喧嘩両成敗は成立しない。

しかし、浅野が切りつけた理由が遺恨によるものであり、その「遺恨」の内容が、浅野が切りつけるに足る程度のものであったならば、「遺恨」と刃傷とをあわせて「喧嘩」とみなされ、吉良にも処分が下るべき、ということになる。そのため、今回のケースで裁定を下すには、「遺恨」の内容が重要になってくる。

幕府は刃傷直後に浅野、吉良双方に聴取を行ったが、いずれも、遺恨について具体的に口にしなかった。刃傷事件という重大事を起こしたにも関わらず、具体的な遺恨の内容及び吉良側の落ち度を浅野が主張しなかったのは明らかに不自然であるが、何故動機を具体的に主張しなかったのかもまた不明である。

ともあれ、浅野は最期まで遺恨の内容を主張せずに切腹したため、遺恨の内容について当事者からは語られないままであり、公式にも「動機は不明」である。

また、浅野の「乱心」の可能性もあるが、浅野本人は「乱心ではない」と供述しており、幕府側もこれを認めている。ただしこれは乱心説そのものを否定するものではなく、乱心説も刃傷事件直後の時点から既に存在していた(後述)

「遺恨」の内容について

幕府当局は、まずその場に居合わせた梶川与惣兵衛より状況を聴取、吉良が抜刀していないことを確認してから、ついで浅野を聴取し、内匠頭は刃傷の際言ったとされる「此間の遺恨、覚えたるか」(『梶川与惣兵衛筆記』写本)の「遺恨」について尋ねた。これに対する浅野の回答は、一言の申し開きもないとしたうえで、

私的な遺恨から前後も考えずに、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せ付けられても異議を唱える筋はない。しかし、上野介を打ち損じたことは残念である。

というものであった。

一方、吉良は遺恨の内容について思い当たることがあるのではないか、と問われたが、

恨みを受ける覚えはなく、内匠頭は乱心したと思う。老体の身でもあり、恨みを買うようなことを言った覚えもない

と答えた。しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのように証言した可能性もありうる[162]。一方で、「乱心」とすれば裁定においても一定の酌量の余地が出ることもまた事実であるため、「乱心」ということにすれば浅野吉良双方にとって利害が一致しているのもまた事実である(乱心説については後述)

四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には、以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:

伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候[162]
(伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃいました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております)[162]

仮に、浅野が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたとしても文脈から刃傷事件当日のことと推察でき、堀部弥兵衛はその事情を伝聞以外で知ることは出来ないはずである。この記述の信頼性には疑問があるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたと推察できる[162]

なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている[162]

他に塩田を巡る諍いも挙げられるが、信憑性が低い(吉良領には塩田はなく、堺屋太一『峠の群像』の誤認による創作が広まったとされる)[163] また、赤穂の塩田開発が飛躍的に伸びるのは、森家になってからで、浅野時代の生産高はその十分の一にも達していない[164]

賄賂

当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。ただし、五千石の高家である吉良から浅野などの大名が指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが当時としては慣例となっており、当然だった[165]

賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:

上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也[165]
(上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです[165]

文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である[165]

また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある

吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候[166][165]
(吉良殿は平生から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です[165]

ただしこの記事は事件直後のもの[165]であるのにもかかわらず、この文章の前段には、松の廊下の刃傷事件の顛末が綴られているが、「切り付けられた義央が刀に手を掛けて「何をするか」と取って斬り返した」などと記されている。しかしこれは、実際の刃傷の経緯とはかなり異なる(梶川与惣兵衛の証言とも逸脱している)。

尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:

吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る[165]
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)

山本博文は、「朝日は当時名古屋にいたため、全国的に広まった噂だったとみられる[165]。」と考察している。しかし、『鸚鵡籠中記』は英邁と言われた徳川吉通[167]を「愚行を繰り返す暗君」と評するなど、いわば主君を侮辱する「不忠臣」のような記述が多く、尾張藩では禁書扱い[168]で尾張徳川家では公式資料とはされていない[169]

浅野内匠頭のストレス

『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[170]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[170]。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで従一位に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた[171]

また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[170]史実から考察するに、内匠頭に御馳走役を務めるに当たり心理的ストレスが蓄積され、ストレスの暴発により、刃傷に及んだ可能性も考えられる[170]

なおこのストレスが下記に述べるような「乱心」を引き起こしたとも考え得る。

前回の勅使御馳走役の差

浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[170]

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[170]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格

吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[172]

土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある[172]

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[172]

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[172]

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない。幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[173]

吉良のいじめ

史実に俗説を取り交えて書かれた[174]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[174]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[174]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[174]

また後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[174]。同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[174]。そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[174]。梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[174]。こうした記述に対し、刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾がある[174]ことが指摘されているが、刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。

他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、

世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ

とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が窺える。

一方で、先述の繰り返しとなるが、吉良上野介によるこうした侮辱的ないじめ行為があり、耐えに耐えかねて刃傷に及んだというのであれば、何故浅野がそれらを幕府に訴えなかったのかという疑問や、そうしたいじめを公然と認知していたというのであれば、何故幕府が吉良に対して注意をしたり、責任を問いただしたりしなかったのかという疑問は依然として残されたままである。

乱心説

浅野内匠頭は刃傷の動機に「遺恨あり」と述べ、幕府もそれを採用したものの、遺恨の内容について何も語らないなど不自然な点が多く、実際には乱心であったとする説も根強い。理由を一切語らず(理由がないのに)遺恨ありと主張している浅野の態度のそのものが乱心であると解釈することも可能である。また、下記に記載する動機の諸説全て決定打に欠け、どの動機も不自然であるのだから消去法で乱心説を取ることも論理的には可能である。

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[175]、刃傷は突発的犯行だったことが推測される[175]。また、仮に吉良を傷つける動機(「遺恨」など)があったとして、江戸城中で、しかも勅使接遇という重要行事の最中に事に及ぶ理由がなく、更に殺意があったにもかかわらず、相手をつくのではなく袈裟がけに切りつけたのも不審点であることから[175]、浅野が乱心していたのではないか、ともされる[175]

また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)

此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候[176]
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)

「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる[176]

一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという[177]。これを信じれば、上総介から悪口(があったかどうかは不明であるがあったとして)を言われた直後にカッとなって刃傷に及んだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる[177]

2016年12月には、京都西本願寺で事件直後に記した古文書が発見され、そこには「浅野内匠頭殿 乱心」「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたい」とあり、乱心説は刃傷事件直後の時点で既に有力な説として存在したことは事実のようである[178][179]

仮に乱心説が正しいとすると、遺恨の内容を議論することは無意味となり、「悪役」であるはずの吉良が純然たる被害者ということにもなりかねないため、「忠臣蔵」作品ではまず採用されない。

なお、下記の通り、乱心説を採用する場合でも、その原因を痞(つかえ)のみに求めるのは誤りである(持病説)

否定された理由

持病説

浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[180]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[181]。 一方痞とは癪の事とも解され[182]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[182]

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[182]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[182]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[174]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしているため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実紀』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[183]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[21]。 しかも『徳川実紀』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[183]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[183]

塩の生産をめぐる対立
 
赤穂の塩田(赤穂市立海洋科学館

浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[184]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[184]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[184]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[185]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[184]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[184]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[184]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[184]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[184]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い[184]。さらに、赤穂藩の塩田開発が飛躍的に向上するのは森家時代になってからで、浅野時代の生産高はその10分の1にも満たない[164]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていた庶民に広く普及した大衆塩なのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られて、将軍家や朝廷への献上塩ともなる高級塩であり[186][187]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[187]

そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説

『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[188]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5歳であり、この説には信憑性がない[188]

衆道に関する怨恨

浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[189]文献にこの説がでている[188]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[190]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[188]

茶器に関する怨恨

浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[188]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[188]

一休の書画の鑑定に関する怨恨

浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[188]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[188]

内匠頭の謡曲

明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[188]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[188]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[188]。また、浅野長矩はが大嫌いとされるが、『琴の爪』は架空の女性が登場する創作である。

類似事件の先例について

先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組(猶村孫九郎)が、西の丸で(木造三郎左衛門)、(鈴木久右衛門)に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。加害者は死罪改易、被害者は死亡改易の例。口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした(青木義精)を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の(水野伊兵衛)と(大橋長左右衛門)が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休浅野長矩の又従兄)が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。

後年の例としては以下のものがある。

  • 享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日):江戸城本丸松の廊下で発生。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、毛利師就は右手、左耳、のどなどに傷を負ったが、一命を取り留めた。師就は「殿中につき、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応した」と証言している[191]。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。加害者は改易、被害者は無罪の例。毛利家は泉岳寺と絶縁した[注釈 22]
  • 延享4年8月15日 (旧暦)1747年9月19日):江戸城内の厠で発生。熊本藩主・細川宗孝旗本板倉勝該に斬られて死亡した。宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。原因について、細川家では板倉は「乱心」のうえ「人違い」による殺人[注釈 23]としているが、板倉家は「遺恨」[注釈 24]で元々、宗孝を狙ったと主張している。
  • 天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄田沼意知(相良藩田沼家世子)に新番士佐野政言が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子田沼意明に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。
類似の討ち入り事件
浄瑠璃坂の仇討

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討とは宇都宮藩を追放された(奥平源八)が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元家老(奥平隼人)を討った事件である。 源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。

源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば死罪であるところを、幕府により死一等を減じられて伊豆大島への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。ただし、彦根藩に召抱えられた源八の子孫・奥平氏は桜田門外の変の後に井伊家から召放になっている[192]

この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[193]

深堀事件

深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人高木彦右衛門と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。

大音寺坂にて深堀鍋島家の家臣二名が高木彦右衛門の家来に雪解けの泥をかけてしまったことから口論となる。その場は近所の住人の仲裁で収まったものの、恨みを抱いた高木の家来十数人が夕刻に深堀鍋島家蔵屋敷に乱入。鍋島家家臣を打ち据え、大小の刀を奪いとった。

これに立腹した深堀鍋島家の家臣が当事者の引き渡しを要求。高木彦右衛門は低姿勢で謝罪したものの引き渡しは拒否したため、深堀鍋島家の家臣12名が高木の屋敷に討ち入り。高木彦右衛門および事件の当事者や他家来など9名がその場で殺される。雪解けの泥をかけた深堀鍋島家の家臣二名は事件後すぐに自ら切腹した。

他に討ち入った10名は三か月後に幕府の命により切腹となった。また討ち入りに後から駆けつけた9名の藩士は島流しとなる。だが深堀鍋島家当主鍋島茂久には処罰は及ばず、むしろ武士の誇りを見せたと称賛を受けたという。

高木家側は深堀鍋島家蔵屋敷に押し入った10名が斬首。高木彦右衛門の息子はその場にいながら応戦せず隠れた非を咎められ、家財没収のうえ長崎追放となった。

討ち入りに対する見解

「仇討ち」か否か

主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた[194]

論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[195]。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである[195]

この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[196]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[196][注釈 25]、事件当時は自明なことではなかった。 この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[197]、論争は幕末まで続いた[198]

「義士」としての肯定論

赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した[199]。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した[199]。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない[199]

また同じく元禄16年には朱子学者室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」[200]である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した[200]。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし[200]、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした[200]。これにより「四十七士説」は生まれた[201]

ただし、室は周の武王を伐った行為とこれに抗議して餓死した伯夷兄弟の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている[202]。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたもので随所に史実とは異なる記述がある[203]

浅見絅斎は「内匠頭が大礼がおこなわれる殿中であるのをはばからず、私怨のために刃傷に及んだのは甚だしい落ち度」としつつも、「大法を以って云えば、個人同士の喧嘩においては両成敗の法であり、内匠頭が成敗になれば上野介も成敗になってしかるべき」「大石らが討ち入り後は自害にも及ばず、面々の首を差しのべて上に任せたのは殊勝である」[204]と述べ、その後も義士論叢は続けられた[199]

新渡戸稲造は、赤穂義士を「武士道」および「義」の実践者として海外(米英語圏)に紹介している。赤穂藩邸跡の農民地(芥川生家の家業は牛乳製造)近くで生まれた芥川龍之介[137]は「或日の大石内蔵助」を書き、作中人物の口を借りて切腹に臨む大石らを称えるとともに、高田、新藤、小山といった所謂「不義士」を罵倒している。

赤穂浪士への批判・否定論

一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした[199]。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している[199]

荻生徂徠も、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」[205](宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく[199]、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している[206]

一方、「徂徠擬律書」では、同情の憐みを禁じえないものの[199]、「今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。」と「義士切腹論」を述べたとされている。 しかし、赤穂市は「徂徠擬律書」が、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、上述の「四十七士の事を論ず」と比べ徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている[207]

また、後述の徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から「四十七士の事を論ず」のほうが徂徠の真筆であると思われる[208]

享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判[199]した事で、義士論争は新たな局面を迎える[195]。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある[199]。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である[199]。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり[199]、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという[199]

三宅尚斎も「浅野法ヲ犯シ公朝ヨリ誅セラレ、吉良ガ殺シタルニ非ザレバ、吉良ヲ讎(あだ)トシテ討チシハ不当事ト云フベキニ似タリ」と主張している[209]

牧野直友は「赤穂遺臣の行動は「義」でなく「乱」である。内匠頭の行動は朝廷への不敬であり、君父の不義の志を継いでその悪を正当化したに過ぎない」と長矩と赤穂浪士を批判し、古学においては[210]「士は礼儀を以って私情を抑制すべき」とあると述べている。

伊良子大洲は「四十六士は主君と心を同じくしておらず、討ち入りは利のためであって義のためではない。目的を達する事だけを大切にしている。義は仁から生まれるもので、人道に合致してなければならない。吉良邸で故なく殺された子や、孤島で痩嬴死した四十六士の遺児を見るに、四十六士は自分たちが満足すれば其れで良いという利己的な悪である」と持論を展開した。

(野村東皐)(公台)は延享2年(1745年)、『大石良雄復君讐論』にて「君子の忠は義に協ったものでなければならず、大石のは「侠」であっても「義」に非ず。君の私事(邪志)を継いだ不義の忠である」と述べた[211]

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「赤穂不義士論」を展開し批判された[212]大日本帝国陸軍士官学校教授を勤めた内田百間は、「秩序の破壊と復讐を行なった」[213]と(本人は陸軍時代に従五位を拝受)赤穂義士を否定する論説を書いている。

中間派・その他

三田村鳶魚は、「江戸学」に関する複数の評論・随筆において「あくまで実証・考証に立場を置きながら、伝説や脚色を廃して観察した一件の顛末を記した」として「是は是、非は非」の立場で意見を述べている[214]広島藩浅野家中にあった頼山陽は、『日本外史』で徳川家治までの国史を記したが、元禄赤穂事件には全く触れていない。

徳富蘇峰は、『近世日本国民史』で赤穂義士が「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べ、「浅野は我儘一徹の暗君」「大石は只の救い難き好色」など酷評した。一方で久松家松山藩邸の切腹地に「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の揮毫をしている。

寺坂吉右衛門問題

四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

そもそも討ち入りに参加しているか

今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

  • (1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」[215]

と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である[215]

また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており[215]、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。

しかし(八木哲浩)は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」[215](すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている[215]。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている[215]。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない[215]。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる[215]

そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている[216]

また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており[215]、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし[215]、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである[215]

逃亡か否か

 
泉岳寺における寺坂吉右衛門の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている

『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が

  • (2)「此者(=寺坂)は不届者にて候。重ねては名をも仰せ下さるまじく」[217]

と発言したとある。これを字義通りにとれば、寺坂は逃亡したのだという事になろう。

実際、『堀内覚書』を書いた堀内伝右衛門は、一方では寺坂は吉良邸まできて「欠落」したらしいと聞き、他方では寺坂は仇討の成就を伝える使いを申し付けられたのだと聞き判断に迷っていたが、(2)の忠左衛門の言葉で「実の欠落」なのだと推測した[218]

しかし逃亡説を支持しない立場からは、寺坂の密命を隠すためにあえてこのような嘘をついているとも考えられる[217]

実際下記のように、寺坂は単純に逃亡したのではなかろうと推測される文献が残っている。

  • (3)元禄16年2月3日に忠左衛門が娘婿伊藤藤十郎に当てた書状には「寺坂の事は是非を申しがたい。一旦公儀へ提出した書状に名が出ているので仲間として是非を申せない」、「仙石様屋敷でも(中略)一人が欠落ちしたと申し上げてある」、「寺坂についてはうかつな事は言わないようにしてもらいたい」と書かれている[219]
  • (4)同年2月26日には忠左衛門の親戚拓植六郎右衛門の書状に「吉右衛門はさりとては〳〵頼もしき心中、忠左衛門の頼もあるから自身に引とって世話したい」とある[217]
  • (5)忠左衛門の親戚である平地市右衛門の宝永7年の書状に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」とある[217]

佐々木杜太郎は以上の書状を根拠にして逃亡説を退けている[217]

寺坂当人も『寺坂信行筆記』において

  • 私儀も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相働き、引き払いのとき子細候て引き別れ申し候[77]

と、事情があって離れた旨を書いている

佐々木杜太郎はさらに逃亡説を退けている理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては用意周到な内蔵助が公儀への報告と矛盾する事を書くとは思えない[217]
  • 忠左衛門の(2)の発言における「重ねては名をも仰せ下さるまじく」という言い方は「この件についてはこれ以上触れるな」と言外に言っているようにも取れる[217]
  • 寺坂は12年も吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家と忠左衛門の妻子の面倒を見ており、逃亡した人間ができる事とはおもえない[217]

野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある。これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる[220]
  • (2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している[220]

一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして[216]逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている[216]

密命を帯びていたか否か

密命説に肯定的な意見

野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている[220]

松島栄一は討ち入りの件を広島浅野本家などに報告させるため、内蔵助達が寺坂を逃がしたのではないかとしている[221]。寺坂は身分が低い足軽である為追及されることもなく、報告役として適任だった[221]

実際、事件当時から寺坂は広島浅野本家に報告に行ったのだろうという推測があり、例えば吉田忠左衛門が仙石邸で「組足軽一人が吉良討ち取り後に見えなくなった」といったところ仙石家中のものは広島の浅野大学のもとに事件の報告に行ったのだろうと推測したし[222]、堀内伝右衛門も同様の事を言っている[222]

また『寺坂信行私記』には寺坂の孫が

  • (6) 祖父吉右衛門儀は、その場より芸州江注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図(さしず)に付き罷り越し候[77]

と内蔵助の指図により、浅野大学に報告しに行くためにその場を離れたと記している。ただし、これは後になって書かれたものなのでそのまま信じることはできない[77]

初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた[218]

密命説に否定的な意見

一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[218]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[218]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[218]

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[218]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[218]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている[218]。つまり危険を冒して寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[218]

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[217]

八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。 前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない[222]。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている[222]。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである[222]

山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している[223]

また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い[222]。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう[222]

なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる[222]

さらに言えば、前述のように寺坂は泉岳寺引き上げの早い段階で姿を消していると考えられ、大石が播磨にいくよう説得する暇がなかったと思われる[224]

また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないかと八木哲治は述べている[224]

その他の説

佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[217]

  • 公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[217]
  • 亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[217]
  • 寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に仕える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[217]

佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[217]

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[225]

その他の論点

「此間の遺恨、覚えたるか」

『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際に「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったとあるが、同じ本の南葵文庫本(東大図書館所蔵)には単に「声をかけた」とだけあり、実際に内匠頭がこの時何を言ったのかについては確証がない[226]

刃傷の場所

浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ場所は通説では江戸城の松之大廊下であるが、本当の刃傷の場所は中庭を隔てて反対側の柳之間の前の廊下ではないかという説がある[227]

その根拠は、松之大廊下は将軍や御三家、勅使などの特別に地位の高い人が通る場所で高家の吉良が通れる場所ではない事と、赤穂浪士切腹直後に書かれた『易水連袂録』に「浅野と吉良が柳之間で言い争いをした後に吉良が廊下を逃げていき御医師之間の前で浅野が刃傷に及んだ」という趣旨の事が書かれている事である[227]

しかし宮澤誠一は、刃傷の場所は通説通り松之大廊下であろうとし、その根拠として事件の場に居合わせた梶川与惣兵衛による『梶川氏日記』に刃傷の場所が松之大廊下だと書いてある事と、田村家の記録に松之大廊下で事件があったと推定される場所に勅使と高家の控える定位置が記載されている(ので高家の吉良はこの日松之大廊下にいた可能性が高い)事を挙げている[227]

にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう[227]。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている[227]。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう[227]

陪臣の不在

吉良方の死傷者には陪臣(家臣の家来)が多数出たのに、討ち入りの参加者に赤穂藩の陪臣が居ないのはなぜか。(寺坂のみ吉田兼亮の家臣のち赤穂藩足軽)[225]。現存する赤穂城の図面では、大石邸は神社が建つ程の広大な屋敷である。赤穂城の再建された大石邸長屋門では、長屋に居た大石家臣が人形で再現されている。

女性の不在

討ち入り当日の吉良邸に女性がいないのは何故か。小説などでは負傷者の中に女性が居たり、吉良間者として女性(腰元など)が描かれる場合もあるが、吉良・上杉両家の史料では確認できない。赤穂側では女と思い斬りつけたら小林央通の変装であったという話はある(『江赤見聞記』など)。

平穏な吉良邸

吉良義央が多くの賄賂をとる強欲で、皆に嫌われていたのなら、何故、討ち入り後の吉良邸に侵入して、貯め込んだ金銀財宝を強奪しようとする町人や浪人が皆無だったのか。むしろ複数の町人(豆腐屋や大工)が、遠く離れた上杉家藩邸まで討ち入りを通報しており、また屋敷に蝋燭や敷物など日用品を提供している[228]。浅野長矩の切腹後には赤穂藩邸が多数の暴徒に襲撃されている。その時の暴動により傷ついた旧・赤穂藩邸の門は、現在でも泉岳寺で見る事ができる[229]

史跡等

浅野内匠頭終焉の地
東京都港区新橋
追悼碑は田村家上屋敷跡にあったが環二通りの建設工事により撤去され、田村邸から50mほど離れた場所に移された。理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが[230]、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。
大石良雄外十六人忠烈の跡
東京都港区高輪一丁目
赤穂浪士の切腹後、大石内蔵助らを預かった細川綱利は切腹跡についた血を清掃することを禁じた[231][232]。さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」として17士の遺髪を分けて頂き供養塔や墓を建て[233]、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし、綱利の血筋が絶えたこと、延享2年(1745年)に火災でこの屋敷が焼失したこと[234]、 延享4年(1747年)に江戸城中で細川宗孝が遺恨[注釈 26]により斬殺され加害者の遺臣が健在だったこと、この事件の際に浅野氏と不仲の伊達家が御家断絶の危機を救う恩人になったこと、など様々な事情が重なり綱利の遺言は守られなかった[注釈 27] 。明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、現在は「大石良雄等自刃ノ跡」が道路脇にあり、公営住宅のに「大石良雄外十六人忠烈の跡」顕彰碑が設置されている[235]
水野監物邸跡
東京都港区芝五丁目
ただし、水野氏は江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に浪士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所である[236]
大石主税良金ら十士切腹の地
東京都港区(三田二丁目)
松山藩の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていなかったが、昭和14年(1939年)に徳富蘇峰揮毫の「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑[注釈 28]が建立された。ただし、蘇峰の著作そのものには赤穂浪士への毀損が書かれることが多い[237]
イタリア大使館敷地内のため見学不可。「赤穂民報」によると数年に一度は供養の行事を行っているという[238]
長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡
東京都港区六本木六丁目
毛利家の意向により、赤穂浪士の供養塔や顕彰碑の類が藩邸跡に一切存在しない(毛利師就は江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめた)[239]。庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲している[240]
その他、関連の地

創作・俗説と史実の違い

天野屋利兵衛

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」の事だとする説もある[241]。しかしこの人物は赤穂藩とは無関係である。

南部坂雪の別れ

南部坂の別れは創作である。大石は瑤泉院に『金銀受払帳』その他帳面類を添えた書状を、瑤泉院の用人落合与左衛門に届けているが、これは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない[63](なお書状の日付は元禄15年11月29日付であるが、『江赤見聞記』(巻六)によれば、この書状を実際に出したのは討ち入り当日の晩であるという。大石は討ち入りの計画が露見するのを恐れ、直前まで書状を手元に置いておいたのである[9])。 また12月9日付の書状には討ち入りする決意と吉良邸討ち入りの時に持参する口上書の写しが入っている[63]

史実での三次藩邸の場所

  • 三次藩の藩邸は南部坂には無い。当時、笠間藩(その前は盛岡藩。南部坂の由来)以来あった南部坂の大名屋敷は更地になっている[242]
  • 瑤泉院の居た三次藩浅野家の藩邸は赤坂・本氷川坂(現在の南部坂の頂上付近で左折して二つ目の坂を登った本氷川坂の東側。東から「南部坂」「氷川坂」「本氷川坂」)[243]

赤埴源蔵、徳利の別れ

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[244]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[244]。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[244]

事件当日の天気

史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[245]、討ち入り当日は晴れていた[245]。また空には月が輝いていた[245]。 月は満月に近いが、事件時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[246]

山鹿流陣太鼓

大石側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。

史実での山鹿流

  • 山鹿流陣太鼓(越後流の働事太鼓)[247]というものは架空の創作で実在しない。山鹿素行は大石良雄について全く記していない。
  • 山鹿素行の子らが仕えた弘前藩平戸藩は『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とある[248]を論拠として「公儀の免許を得ず徒党を組み、火事と欺き寝込みを狙いて押入るのは、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」等として、藩主や古学(聖学)者が元禄赤穂事件を激しく批判した史料が現存している[249][250]
  • 広島藩浅野家と赤穂藩森家、赤穂義士の装束(伝承)に倣う新選組を擁する会津藩では、素行が批判した朱子学が主流藩学であり、山鹿流古学は藩校から排斥されている。一方、米沢藩では古学や蘭学が揮い、吉田松陰も交流のため訪れている[251]

浪士の装束

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[252]、あとは思い思いの服装でよかった[252]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[252]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[252]

浪士47名の武装は、槍(全長2.7m)22名、薙刀3名、大身槍と十文字槍がそれぞれ1名、このほかに弓と掛け矢(ハンマー)、そして共通装備として47名全員が大小 (日本刀)を帯びていた[253]

隣家の助勢

大石は事前に吉良の隣邸の土屋逵直に討ち入りの黙認を依頼して聞き入れられた。もしくは、の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[76]。その下には射手を侍らせ、堀を越えてくる者があれば誰であろうとも射て落とせと命じたとの話が『鳩巣小説』に書かれているとされるが信憑性に疑問がある[254]

赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた

浅野が起こした事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話がある。この話の初出は文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』とみられている。そして『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。

  • 「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」
  • 「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」

ただ、この『閑田次筆』は、浅野が殿中刃傷を起こした元禄14年(1701年)からおよそ100年後の文化3年(1806年)に刊行されたものであること。そして、本文中に「ある人曰く」とあるように、領民が大喜びしたという話の出どころが誰が言ったのか、まったく不明であるなど、史料的に信憑性に欠ける要素が複数見られるため、『閑田次筆』に見られるこれらの話は、俗説の域を出ないものとされている。

菅茶山は真筆が国の重要文化財に指定された『筆のすさび』において、「亡国幣政」で「浅野家が潰れて、土地の者は悪政がやんだと言って喜んだ」と書いている[255]

また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。 この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている[256]

上杉綱勝の毒殺

吉良上野介が上杉家を乗っ取るために上杉綱勝を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。

三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」[257]。 この毒殺説は三田村鳶魚が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが[257]、鳶魚は後にこの説を撤回している[258]

『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛ったため綱勝が死去したと曲解したものである[259][信頼性要検証]

また、綱勝が死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子に入り上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子候補のひとりに過ぎなかったからである[260][261][信頼性要検証]

上杉挙兵の制止

兵を挙げんとする上杉綱憲を止めたのは、千坂でも色部でもない。 高家で上杉屋敷にしばしば訪問していた畠山下総守(上杉謙信の養子上杉義春の曽孫)が訪れて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えたため、幕命に背く事ができず藩士を送らなかったのだという。

吉良の服装

映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の公式行事での装束は昇殿もできる直垂である。このうち前者は、「侍従・四品・諸大夫」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した時代考証の誤りによるところが大きい[注釈 29]。後者は、大紋(大紋直垂)と直垂の外見上の差は家紋の有無だけであり、見栄えからあえて大紋を使ったフィクションとも考えられる。

浪士お預けに関する俗説

赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し[262]、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる[262][263]。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという[263]。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている[263]

また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという[264][265]。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし[264]、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える[265]など不自然な点が多いからである。

一方、八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実紀』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている[266]。『徳川実紀』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実紀』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている[266]

処分決定に至るまでの議論

「切腹」とする処断が決定するに至るまでに、幕府内でどのような議論が成されたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。

1つは『徳川実紀』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主公弁法親王に意見を求めたという。 このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったと記されている。法親王曰く「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」[267]

しかし『徳川実紀』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実紀』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその立証・真偽を保留している[268][267]。 ゆえに、おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう、とする説がある[268]

もう一つの話は『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという[268]。しかしこの決定に不満を持った側用人柳沢吉保が家臣の儒者・荻生徂徠に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた[268]。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったと記されている[268]

徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨に拠れば「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」という論法を主張したとされる[268]

しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない[268]

以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている[268]。 八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている[266]

太平記との関係

元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた[269]。 このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している[269]

たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている[270]し(但し、進藤俊式は小山良師とともに討ち入り反対の立場をとる)、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している[270]し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある[269]

また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし[271]室鳩巣も大石を楠木正成に例えている[271]。ただし『易水連快録』では、「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」とあり[272]、長矩の刃傷(私怨での勅使饗応の放棄)は不義の極みという世論も唱えられたと記している[注釈 30]

泉岳寺では、吉良義央を楠木正成に、首の返還先の吉良義周をその子正行に喩えている。「高家とて人にこそよれ吉良どのの 偽りもなき上野が首」(『白明話録』)は湊川で討死した正成の首をその子正行に送った時に「疑いも人にこそよれ正成が 偽りもなき楠木が首」と詠んだ故事(『太平記』巻第十六)に倣っている。(「首ヲ送リシ心ヲ真似テ詠ム」)[273] 

浪士の娘だと騙る女たち

赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

堀部ほり堀部安兵衛の妻だと騙り、(清円尼)は大石内蔵助の娘だと騙り[274]長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[274]

泉岳寺には、「長矩と武林は、介錯に失敗して首を二度斬りされたので、大量の血が飛び散りかかった」とする「血染めの梅」が現存する。ただしこの梅の木は、堀部ほりが自身の持っていた鉢植えを移植したのだという異説もある。

預かり大名と赤穂浪士との関係

細川綱利

熊本藩細川家4代目の細川綱利は、若くして赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭の後見をしていたとされる。

関係を示す史料としては、細川綱利の事績を記録した『御家譜続編』があり、そこには「十三箇条の諌言書」が納められている[275]

そうした関係もあり、細川綱利は大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を請取り、主君に忠を尽くした赤穂浪士を厚遇した。

  • 細川家での赤穂浪士の待遇は行き届いたもので、細川家に着いた晩に、一同には小袖二枚ずつ与えられ、歳暮には更に一枚と帯などが与えられた[276]
  • 食事は手のかかった御馳走で、二汁五菜のほか、菓子や夜食なども出され、後には酒まで出された。酒は「薬酒」という名目で出された[276]。但し、火気を嫌う綱利は煙草や火鉢は禁じた。
  • あまりの御馳走に、大石を始めとした赤穂浪士の面々から、「我ら浪人して軽い物ばかり食べており申したが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりませぬ。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなり申した。何卒御料理を、軽い物にお願い申したい」と申し入れがあった。しかしながら、世話をしていた堀内伝右衛門が料理方に掛け合ったが、料理方は怒り出す始末で、ついに一同の希望は実現されなかったという[276]
  • 風呂や手水場の取り扱いも丁寧で、風呂の湯は一人ごとに変え、手水の際には、一人ずつ坊主が水をかけた[276]
  • これらのあまりにも丁寧すぎる処遇に、赤穂浪士達から簡略にしてほしいと申入れを行ったほどだった[276]
  • 細川邸では、潮田や両大石(良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供されたを接待役の堀内にたらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や、下戸向けの茶や菓子を「忘れた」と言って出さなかったので、また義士たちから酒を飲まされた。切腹の当日には、堀内は上使が到着する前に義士を放置したまま帰宅してしまった[注釈 31]。途中で同僚に捕まり、で連れ戻され義士に最後の奉仕をしている。(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』)
  • 義士らの切腹は白金屋敷の大書院の舞台脇、手水石の向かいで行なわれた。その後、赤穂浪士達がいた大書院の間を清めようと畳替えをすることになったが、細川綱利は「十七人の勇者共は御屋敷のよき守神」として、畳を替えることを許さなかった。

一方、お預かりの他の三家は仙石久尚からの「長屋に差し置くべし」との指示で、全員が使っていない部屋にまとめて収容された。外から戸障子などを釘付けにされ罪人として厳しく扱い、切腹後も場所を清め畳なども処分している[277]。仙石家に至っては畳から障子まで全て替えたからであった。この後、細川綱利は気心の知れた客人には切腹の場所を名所として見せたという。ただし、その後、諸事情(綱利の血統断絶・屋敷が焼失・江戸城で熊本藩主惨殺・伊達家との交際開始など)により細川氏の態度が豹変し[278] 、遺構は破却・散逸したが、堀内氏は遺髪の一部を分与されており、山鹿市の日輪寺は、内密に浪士の菩提を守り続けて今日に至る[279]山鹿市は赤穂市の(義士祭)にも招待され、当地でも例年、「山鹿義士まつり」が実施されている(2022年2月時点では、日輪寺関係者による義士への供養だけとなり義士まつりは中断している)。

ただし、富森家の見解では『堀内伝右衛門覚書』は後世に作られた偽書であり、富森正因ほかの義士は終始罪人扱いで、細川家も他の三大名と同じで厳しい対応をされたのが史実としている[280]。従って同書に書かれた「富森は酒を亀のように鯨飲し、狂言踊りで大騒ぎしたので(堀内が)注意してやめさせた」「富森は切腹の沙汰に声を出して泣いた」とあるのも嘘だとする。また、同書には「宝暦年間に富森助右衛門の遺児・長太郎に会って、その母・るんや出入り商人・大島屋の話をした」とあるが、享保12年(1727年)に堀内は死亡しており、長太郎に会えるはずがない。

毛利綱元

義士切腹後に、毛利綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と大いに慶んでいる[281][239]。目付で派遣された長州藩もこれを容認している。現在も毛利庭園における切腹場所は不明のままである。

また、綱元は江戸で没したにも関わらず遺体を長府に送らせ、秀元が菩提寺とした泉岳寺にて赤穂義士と併葬されるのを嫌った[282]。これが長府藩が泉岳寺を避け、最終的には絶縁にまで至る嚆矢となった。

水野忠之

水野は、お預かり義士について何の感想も感情も示していない。岡崎藩の記録では「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と薄情な記述がある[283]

松平定直

松山藩では義士を罪人として扱い、厳しい対応をした記録が松平家に多数残る。護送は厳重を極め、藩士は鎖を着込み具足も携行している。「鉄砲まで準備して警備」し見回り番、不寝番を置いた。

さらにまだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまった。切腹の際は「切腹人の後ろに持筒一人」と鉄砲足軽を待機させ、小脇差を手にした義士が暴れた時に備えた[284]。切腹後に松平家用人・三浦七郎兵衛は、義士の遺体や持物を藩で勝手に処分しようとして、老中・(秋元喬朝)から叱責されている。

関連人物

脚注

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注釈

  1. ^ 諱の読みは諸説あるが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから「よしひさ」と推定されている。
  2. ^ 現在の東京都港区新橋4丁目
  3. ^ 片岡高房らが田村邸の遺体引き取りで、二度斬りされた浅野長矩の遺体を確認している。
  4. ^ 明治政府による藩札交換率は、薩摩藩の藩札でも33銭3厘、土佐藩も32銭2厘であり[28]、改易藩のものとしては破格の交換条件である。
  5. ^ 五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。
  6. ^ 山鹿素行の嫡男。
  7. ^ 火事連呼を狂言だと見破って斬られた門番も、上杉家重臣の大石氏が召し抱えて派遣した渡り中間の類だとされる場合もあり。
  8. ^ が千熊屋作兵衛から振舞われた創作があるが、中央義士会は「史料では確認されない」としている。(中央義士会「赤穂義士の引揚げ」(街と暮らし社、2006年)
  9. ^ 江戸名所図会」(築地鉄砲洲)では浜田藩の松平周防守(松平康宦)が通行を阻んだことになっている。
  10. ^ また、のちに毛利師就は江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は「吉良義央に倣い刀を抜かずに対応」したと証言している。
  11. ^ 浪士らは泉岳寺から仙石邸に一旦移送されていたが、肥後藩細川家は泉岳寺から直接移送と勘違いし、江戸家老三宅藤兵衛の指図によりその旨の準備(17人の預かり担当に対し、警護含む人員847人)が用意されたが、仙石邸からの受取と知って急遽行先を変更した上で、当時としてはかなり夜間となる午後10時に仙石邸から17名の受け取りを行っている。これにより、現場では多少の混乱・情報の錯綜があったことが窺い知れる。
  12. ^ 熊本藩での記録(『堀内伝右衛門覚書』)。久松松平家文書「波賀清太夫覚書」では単に切腹の沙汰のみが記されている。
  13. ^ 通常は血が散逸しないよう、清めの白紙を敷いた台に安置して検使に見せる。
  14. ^ 令和の御代になっても、赤穂義士の毛利藩邸での切腹場所は全く不明。
  15. ^ 細川家小姓組の氏家平吉によると、無神経な堀内は本当に大声で督促をしてしまい、のちに熊本藩江戸家老・三宅藤兵衛により処罰される。
  16. ^ 高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。
  17. ^ 「東条」から「吉良」へ復姓したのは、義叔の孫に当たる義孚の代である。
  18. ^ 江戸商人浅田孫之進の元禄15年極月(12月)16日付書状に「江戸中の手柄に御座候」とある[143]。同じく、京都の儒学者伊藤東涯の日記「伊藤氏家乗」(影印複写版・天理図書館蔵)の元禄15年12月14日条に「可謂忠肝義胆矣」とある。そして、伊勢藤堂藩の無足人山本平左衛門日並記の元禄16年正月12日条に「揚一天名誉之事、諸人催感涙也」とあり[144]、地域や身分を問わず、赤穂浪士の討ち入りを称賛・評価した事件直後の記録などが残っている[145]
  19. ^ 「鷹の前の雀」は「蛇に睨まれた蛙」の同義語だが、伊達家が赤穂義士の屋敷前通行を阻んだことを詠んだもの(柄井川柳『誹風柳多留』)。
  20. ^ 現在は、山科の岩屋寺に「大石良雄君隠棲址」碑が1901年に建てられている。
  21. ^ 主として「仇討禁止令」と「廃仏毀釈」。京都の寺では義士墓や供養塔は実際に破却されている。
  22. ^ 長府藩歴代藩主は全員が豊功社に祀られた。
  23. ^ 後嗣の細川重賢は細川家の家紋を「細川九曜」紋に改めている。
  24. ^ 板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。
  25. ^ 中国では豫譲が主君である智瑶の仇を討とうした事があり、その行為は仇の趙無恤からも称賛されている。
  26. ^ 細川家では人違いの犯行としているが、板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。(「安中古文書」群馬県立文書館)
  27. ^ 熊本藩御家資料(細川家文書・藩主裁可文書)ほか、熊本大学寄託永青文庫)。供養施設のほか、遺構として畳三枚、屏風、風雨除け、脇差台があったとされる。
  28. ^ 石碑には「徳富正敬」の標記となっている。
  29. ^ 高家の装束が直垂であることは、神坂次郎著『(おかしな大名たち)』所収の大沢基寿の史談会での談話に明らかである。
  30. ^ この指摘は、真山青果の新歌舞伎とその映画化『元禄忠臣蔵』にも採用されている。
  31. ^ 当該史料には他にも帰宅の記述があるので、堀内の役宅(足軽大将)はお預かり屋敷とは別の場所にあったと思われる。

出典

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  11. ^ ただし、事件を後世に伝えるために大石を筆頭とする46人全員から生き残るように説得されて一行から外れたという説が定説となっている。
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  211. ^ 「近世武士道論序説」(田中佩刀、1986年)
  212. ^ 第6編「国法の貴きを論ず」および第7編「国民の職分を論ず」
  213. ^ 内田百間『百鬼園随筆』(三笠書房、1933年10月)
  214. ^ 三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』「義士に仕立てたのは誰か」「四十六人の偶像化」「義士嫌ひ」(昭和十年)
  215. ^ a b c d e f g h i j k 赤穂市忠臣蔵第一巻 p215-219
  216. ^ a b c 赤穂市忠臣蔵第一巻 p228-229
  217. ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐々木(1983) p259-262
  218. ^ a b c d e f g h i 宮澤(1999) p168-172
  219. ^ 赤穂市忠臣蔵第一巻 p219-220
  220. ^ a b c 野口(1994) p197-200
  221. ^ a b 松島(1964) p118
  222. ^ a b c d e f g h 赤穂市忠臣蔵 p220-223
  223. ^ 山本(2013) p171
  224. ^ a b 赤穂市忠臣蔵第一巻 p224-229
  225. ^ a b 山本 2012b, §1.3.
  226. ^ 谷口, p. 20.
  227. ^ a b c d e f 宮澤(1999) p23-24
  228. ^ 『上杉家文書』より「野本忠左衛門見聞書」
  229. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  230. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  231. ^ 泉(1998) p.120
  232. ^ 赤穂市忠臣蔵 p293
  233. ^ 「細川家堀内文書」。伝右衛門はさらに国元の知行地にある曹洞宗の寺にも遺髪を納めた墓や供養塔を建立している。
  234. ^ 「肥後文献叢書」第一巻」
  235. ^ 平成10年(1998年)中央義士会・港区教育委員会
  236. ^ 現地「東京都教育委員会による二か国語説明板」解説。
  237. ^ 蘇峰の代表作『近世日本国民史』では「不揃家来、徒党を組み吉良邸に押し入り、翌年二月斉しく切腹」などと記され、所謂「義士否認論」が見られる。
  238. ^ 赤穂民報「イタリア大使館で義士慰霊祭」(2015.12.5)
  239. ^ a b 「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)など
  240. ^ 毛利氏の本貫・毛利荘の読みは「もりのしょう」。
  241. ^ 佐々木(1983) p336
  242. ^ 『宝永四年江戸全図』(国会図書館蔵)でも空白で何も描かれていない。
  243. ^ 『元禄十年分間江戸図』に「アサノ式ブ(浅野長照)」とある
  244. ^ a b c 佐々木(1983) p175
  245. ^ a b c 元禄(1999)p118
  246. ^ こよみのページ「暦のこぼれ話」赤穂義士祭
  247. ^ 「江赤見聞記」「敬考述事」ほか
  248. ^ 『山鹿語録』第一(「臣道」より報仇論)
  249. ^ 「内匠頭は私憤で天子様の勅使を乱す。また四十七人は主君の禍に託け、己が功名を第一に勤めしもの」(乳井貢『志学幼弁』)
  250. ^ 「心得ぬ事なり。人を出して即往きたるに、果たして大石の輩」(松浦静『甲子夜話』)
  251. ^ 吉田松陰『東北遊日記』(嘉永五年三月二十五日)
  252. ^ a b c d 宮澤(1999) p166-168
  253. ^ 藤木正之『堂々日本史 別巻 堂々忠臣蔵』NHK取材班、153ページ、154ページ。
  254. ^ 公正な第三者ではない情報源からの又聞きで、幕府の取調べ記録や「土屋家文書」など一次資料に拠るものではない。(『三田村鳶魚全集』より「元禄快挙別録」など)
  255. ^ 『筆のすさび、仁斎日礼ほか』 日野龍夫校注、<新日本古典文学大系99>岩波書店、2000年
  256. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  257. ^ a b 宮澤(1999) p90
  258. ^ 宮澤(1999) p160
  259. ^ 尾崎(1974) p65
  260. ^ 尾崎(1974) p69
  261. ^ 『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)
  262. ^ a b 渡辺(1998) p.206-207
  263. ^ a b c 宮澤(1999) p188
  264. ^ a b 山本 2013, pp. 184–185.
  265. ^ a b 宮澤(1999) p194-195
  266. ^ a b c 赤穂市忠臣蔵 第一巻p269-279
  267. ^ a b 山本 2013, pp. 186–188.
  268. ^ a b c d e f g h 宮澤(1999) p198-199
  269. ^ a b c 宮澤(1999) p67-69
  270. ^ a b 宮澤(1999) p102
  271. ^ a b 宮澤(1999) p181-182
  272. ^ 堀田文庫『易水連快録』
  273. ^ 『赤穂浪士 紡ぎ出される「忠臣蔵」』(1999年、三省堂)180p
  274. ^ a b 田口(1998)第三章3節「大石内蔵助の娘」
  275. ^ 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  276. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  277. ^ 「松山侯赤穂記聞書」「府中侯留書」など
  278. ^ 泉岳寺も細川家寄進の品を寺から放出しており、民間から明治期に海外に流出した。(Asiatischer Ausstellung, Kunsthistorisches Museum Wien、KMW)
  279. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』・『堀内伝右衛門覚書』
  280. ^ 冨森叡児『うろんなり助右衛門』130p(草思社)
  281. ^ 平塚正彦「毛利甲斐守綱元」(中央義士会「四十七義士全名鑑」2007年)
  282. ^ “豊功神社のご案内”. 下関市公式観光サイト. 2022年5月15日閲覧。
  283. ^ 『水野家御預記録』
  284. ^ 久松松平家文書「波賀清太夫覚書」。同書は介錯人本人の手になるもの。

参考文献

歴史に関する文献

  • 松島栄一『忠臣蔵―その成立と展開』岩波新書、1964年(昭和39年)。(ASIN) B000J8T3SI。 
  • 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵第一巻~第七巻』兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)。 
  • 野口武彦『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』ちくま新書、1994年(平成6年)。ISBN (978-4480056146)。 
  • 野口武彦『花の忠臣蔵』講談社、2015年(平成27年)。ISBN (978-4062198691)。 
  • 田口章子『おんな忠臣蔵』ちくま新書、1998年(平成10年)。ISBN (978-4480057808)。 
  • (宮澤誠一)『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN (978-4385359137)。 
  • 谷口眞子『赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN (978-4642056144)。 
  • 田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN (978-4642063036)。 
  • 山本博文『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN (978-4098251346)。 
  • 山本博文『「忠臣蔵」の決算書』新潮新書、2012年(平成24年)。ISBN (978-4106104954)。 
  • 山本博文『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』吉川弘文館、2013年(平成25年)。ISBN (978-4642064613)。 
  • 山本博文『知識ゼロからの忠臣蔵入門』幻冬舎、2014年(平成26年)。ISBN (978-4344902886)。 

史料

  • 『赤穂義士史料(上巻)』雄山閣、1931年(昭和6年)。  近代デジタルライブラリー Goole Books
  • 『赤穂義士史料(中巻)』雄山閣、1931年(昭和6年)。  近代デジタルライブラリー
  • 『赤穂義士史料(下巻)』雄山閣、1931年(昭和6年)。  近代デジタルライブラリー

その他

  • 重野安繹『赤穂義士実話』大成館、1889年(明治22年)。  近代デジタルライブラリー
  • 福本日南『元禄快挙録』啓成社、1909年(明治42年)。  近代デジタルライブラリー。『元禄快挙録』岩波文庫(全3巻、改版1982年)で再刊
  • 三田村鳶魚『元禄快挙別録』啓成社、1910年(明治43年)。 近代デジタルライブラリー。中公文庫「鳶魚江戸文庫」で再刊
  • 福本日南『元禄快挙真相録』東亜堂書房、1914年(大正3年)。  近代デジタルライブラリー Google Books
  • 徳富蘇峰近世日本国民史 第18 元禄時代 中巻(義士篇)』民友社、1925年(大正14年)。 近代デジタルライブラリー。講談社学術文庫「近世日本国民史 赤穂義士」で再版
  • 三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』民友社、1930年(昭和5年)。 近代デジタルライブラリー、Google Books。中公文庫「鳶魚江戸文庫」、河出文庫「赤穂義士 忠臣蔵の真相」で再刊
  • 尾崎秀樹『考証 赤穂浪士』秋田書店、1974年(昭和49年)。(ASIN) B000J9GDUI。 
  • 斎藤茂『赤穂義士実纂』赤穂義士実纂頒布会、1975年(昭和50年)。(ASIN) B000J9F0HK。 
  • 佐々木杜太郎、赤穂義士顕彰会『赤穂義士事典―大石神社蔵』新人物往来社、1983年(昭和58年)。ISBN (978-4404011367)。 
  • 渡辺世祐、井筒調策校訂『新版 正史赤穂義士』光和堂、1998年(平成10年)。ISBN (978-4875381174)。 
  • 元禄忠臣蔵の会『元禄忠臣蔵データファイル』新人物往来社、1999年(平成11年)。ISBN (978-4404028105)。 
  • 佐藤忠男『忠臣蔵-意地の系譜』朝日新聞社朝日選書」、2003年(平成15年)。ISBN (978-4925219457)。 初版1976年のオンデマンド版

関連書籍

  • 『元禄赤穂事件』(学研歴史群像シリーズ57、1999年)(ISBN 4056020086)
  • 会田雄次、南條範夫ほか『四十七士の正体 【真説・元禄忠臣蔵】』ワニ文庫、1998年
  • 井沢元彦『逆説の日本史14近世暁光編』小学館2007年
  • 伊東成郎『忠臣蔵101の謎』(新人物往来社、1998年) (ISBN 4404026684)
  • (円堂晃)『政変「忠臣蔵」―吉良上野介はなぜ殺されたか?』(並木書房、2006年)(ISBN 4890632093)
  • 勝部真長『忠臣蔵大全―歴史ものしり事典』(主婦と生活社、1998年) (ISBN 4391608529)
  • 菊地明『図解雑学 忠臣蔵』(ナツメ社、2002年)(ISBN 4816333592)
  • (佐藤孔亮)『「忠臣蔵事件」の真相』(平凡社新書、2003年)
  • 高野澄『忠臣蔵とは何だろうか 武士の政治学を読む』(NHKブックス日本放送出版協会、1998年)
  • 西山松之助『図説 忠臣蔵』(河出書房新社ふくろうの本、1998年) (ISBN 4309725872)
  • 吉田豊・佐藤孔亮『古文書で読み解く忠臣蔵』(柏書房、2001年) (ISBN 4760121722)
  • 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本―確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』(中経出版、2003年) (ISBN 4806119237)

関連項目

外部リンク

  • 番組エピソード 赤穂浪士を題材にした、主なNHKドラマ-NHKアーカイブス
  • 『(赤穂事件)』 - コトバンク
  • 山本博文:「赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説」(WEB歴史街道、公開2019年11月27日)。
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