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藩校

藩校(はんこう)は、江戸時代に、(諸藩)が藩士の子弟を教育するために設立した学校藩黌(はんこう)、藩学(はんがく)、藩学校ともいう。一説に全ての諸藩内外留学制度を用意しており、幕府により他藩交流が許されず、自由に交流ができない為、この制度を利用して藩士や領民は藩内外留学することを望んだ。この制度は明治維新にも大きく影響を与えたと考えられる。「吉田松陰坂本龍馬などの数多幕末志士教育したと考えられている。」

概要

内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に藩士の子弟以外の国民に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。

全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。

藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には過酷な処分が待ち受けていた。それは藩校によって様々だが、主な処分として、嫡男なら相続の際に家禄が減俸されたほか、罰金や役職制限(高位の職への出世の道が閉ざされる)などの処分を科せられることもあり、親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねなかった[1]

沿革

徳川家光時代までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立されていった。日本初の藩校は、1669年(寛文9年)に岡山藩池田光政が設立した岡山学校(または国学)である。名古屋藩寛永年間(1624-1644)に設立した明倫堂が日本初とも言われる[2]

全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。また柳河藩や米沢藩のように江戸時代中期頃に藩の儒臣の自宅につくられた孔子廟や講堂を江戸時代後期に移転、拡大し藩の役職に藩校関係職を設立して藩営化して藩校とする場合も見られる。

各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至った。代表的な藩校としては、会津藩日新館米沢藩興譲館長州藩明倫館中津藩進脩館佐賀藩弘道館熊本藩藩校時習館鹿児島藩薩摩藩)の造士館などが有名である。特に薩長の雄藩では教育においても優位に立っており、薩長土肥の連合において有力な人材を輩出した。

また、越後長岡藩の就正館(文政13年(1831年)、「長岡市史」)や長州藩の有備館(天保12年(1841年)、「萩市史」)のように藩内だけでなく江戸藩邸内にも藩校を開設した藩も存在する。

藩校の中には、藩主の転封やその他の理由による藩庁移転に伴って、新しい領地・藩庁所在地へ移設・新設されるものもあった。(立教館)(白河藩桑名藩)などは転封による移設の例である。また、長州藩では倒幕・攘夷戦に備えるためから山口へ、小倉藩では長州征討(幕長戦争)による小倉城落城から豊津へ、岡部藩は戊辰戦争後の官軍恭順により三河国半原へ、それぞれ藩庁を移転し、新しい藩庁所在地において藩校も新設された。

幕末には、佐賀藩金沢藩山口藩中津藩薩摩藩佐倉藩等の一部の藩校は、国学漢学に止まらず、医学、化学、物理学、西洋兵学等の学寮を併設する事実上の総合大学にまで発展していた。

明治4年7月(1871年8月)廃藩置県で藩校は廃止されたが、明治5年8月(1872年9月)学制発布後の(中等・高等諸学校)の直接または間接の母体となった[3]

1886年明治19年)(中学校令)の公布とともに、東京大学予備門が廃止され、全国に文部大臣の管理に属する七校の官立高等中学校(後に(旧制)高等学校と改称)が開設された。各高等中学校のうち、山口、鹿児島、金沢(第四)の本部(本科)、および岡山(第三)、仙台(第二)、金沢(第四)の医学部は、旧藩校 (山口明倫館、鹿児島造士館、金沢明倫堂)や、藩医学校(岡山医学館、仙台養賢堂、金沢医学館)の流れを汲むものであった。これらの旧藩校の後進諸校は、その後(改組・中絶・再興等を経て)大学にまで発展することになる。
なお、この中学校令では同時に、尋常中学校は一県一校とされたため、その他の旧藩校は、県庁所在地で旧制(尋常)中学校に改組できたものは、現在でも新制高等学校として存続しているものが大半である。また非県庁所在地では一旦高等小学校に改組されたものが多く、その後の高等小学校の廃置によって消滅したものも少なくない。

各地の藩校

掲載は原則として「地域別」の北の藩から順とし、複数の藩校が有る場合には藩内での「設立年度順」としている。特に記載のないかぎり藩校に続く年号は創立年、あるいは創立年〜廃校となった年、として記述している。

北海道地方

  • 松前藩
    • 徴典館(1822年
    • 威遠館 - 蘭学、西洋砲術。弾薬庫を兼ねる。
    • 済衆館 - 医学。
    • 文武館(1868年) - 徴典館、威遠館、済衆館を合併。
    • 明倫館1828年・江戸)

東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

文武館、大享館、存済館、西洋館は修道館(1865年)として統合→流れをくみ松江公立病院→現・日本赤十字社松江赤十字病院
上記の藩校は、修文館(1871年1872年)として統合

四国地方

正明館、敬止堂は、明倫館1869年)に統合

九州地方

由学館、経武館、博済館は、修道館(1868年)に統合

主な郷学 (大身旗本領内に設置)

交代寄合大身旗本領内に設置された藩校相当の教育施設は郷学に分類される。

江戸幕府(参考)

琉球王国(参考)

関連文献

  • 大石学 編 『近世藩制・藩校大事典』 吉川弘文館 (ISBN 4642014314)
  • 奈良本辰也 監修 『幕末維新・ものしり辞典』 主婦と生活社 雑誌コード 61340-81
  • 『藩史大辞典』 雄山閣出版
  • 山下武 『江戸時代庶民教化政策の研究』、1969年、校倉書房
  • (土田隆夫) 『柏の社』、1998年、新潟県立長岡高等学校同窓会
  • (箱崎和久) 『日本の美術538 近世の学校建築』 ぎょうせい、2011年 (ISBN 978-4-324-08747-3)

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30~0:00)2013年5月25日放送分 第7話『サムライたちの受験戦争』番組内説明
  2. ^ [ http://id.nii.ac.jp/1444/00000093/ 学制の主導的研究 : 特に洋行/洋学者 ]原田忠四郎、日本体育大学紀要 (3), 87-101, 1973-06-10
  3. ^ “幕末期の教育”. 学制百年史. 文部科学省ホームページ. 2014年6月1日閲覧。
  4. ^ “147年の歴史に幕…埼玉・行田の北河原小学校が閉校 朝夕に鳴らしていたカリヨンベル最後、花火舞う”. 埼玉新聞. 2022年3月15日閲覧。
  5. ^ “29.培根堂・洋学館・国学館跡/行田史跡石碑”. 行田市観光協会. 2019年3月15日閲覧。
  6. ^ 公益財団法人雲浜奨学会「講正学舎の歩み」 2021年8月16日閲覧。
  7. ^ “”. 中央区みどころ情報発信館. 福岡市中央区ホームページ. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月1日閲覧。 “明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩校修猷館は廃校になったが、同18年(1885年)黒田家の援助もあって再興された。”
  8. ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30~0:00)2013年5月25日放送分 第7話『サムライたちの受験戦争』番組内説明
  9. ^ 当時の規定で分校には第3学年までしか設置できなかったため、第4学年以上は旧制鹿児島県第一中学校(鹿児島県立鹿児島中学校)(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)へ移籍・進学

関連項目

外部リンク

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